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2021年2月13日 (土)

左官町周辺縁故者原爆精霊供養塔

今月6日(土)、土橋方面に出かけた帰り道、電車通りより1本南側の通りを歩きながら紙屋町へ移動しました。しばらく歩いて本川小学校の手前まで来た時、道路の左側に立つ赤い鳥居が目に入りました。「こんなところに神社があったかな」と思いながら、境内に入りました。鳥居の奥には、しめ縄が架けられて善応寺の本堂があります。善応寺については明日のブログで詳しく紹介しますが、今日は、この善応寺の境内で見つけた「原爆精霊供養塔」の話です。

境内の右手(境内の東側)に、「原爆供養塔」と刻まれた御影石の碑が建っています。

20210206_123012

碑の右側面には、「為7回忌追善菩提 昭和26年8月6日建立」と刻まれていますので、この碑が1951年に建立されたことがわかります。被爆6周年の8月6日ですので、原爆の慰霊碑としては、早い時期の建立と言えます。左右には、原爆犠牲者269名の名が刻み込まれた銘板があります。右側の銘板の右端には、「左官町周辺並縁故者原爆犠牲者御芳名」と刻まれていますので、この碑を紹介した本には「左官町周辺縁故者原爆精霊供養塔」の名で紹介され、碑建立の経緯を「被災後帰町した人や縁故の人たちが、せめて亡くなった人たちを弔いたいという気持ちから浄財を出し合った。貧しい懐からの支出である」(宅和純著「ヒロシマの碑」1996年刊)「一切のものを失った町民には資金は負担で、集まった金を少しずつ何回にも分けて支払ったという」(黒川万千代編「原爆の碑 広島の心」1982年刊)と書かいています。

今は「左官町」という地名はありませんので、まず左官町に位置を紹介します。見えにくいかもしれませんが、下図で赤い四角で囲っています。

Img024_20210211155801

本川小学校のすぐ西側で、現在の中区本川1丁目の電車通りから2本南側の通り、西側は十日市交差点の1本東側の通りまでの区域になります。碑を紹介した本にでは、善応寺の位置を「爆心地から西へ約200メートル」と紹介していますが、実際には「西へ約500メートル」の位置です。左官町の西端までは、約670メートルあります。

左官町の原爆被害状況を知るため「広島原爆戦災誌2」を調べてみました。「第4節 本川地区」に記載された15の町内会の一つです。被爆直前の建物戸数、世帯数、住民数は、本川地区の合計数だけで、町内会毎の数は記載されていませんので、左官町にどれぐらいの人が住んでいたのかは、不明です。ただ、その後に記載された町ごとの被害状況によれば、左官町は、「家屋被害 全壊約99% 半壊8% 人的被害 即死者約91% 負傷者 約4% 無傷の者 約5%」の被害があったことがわかります。ほぼ壊滅的と言って被害状況です。

「原爆供養塔」の左右の銘板に刻まれた原爆犠牲者269名の名前をたどっていくと、いくつか解明しなければと思うことが出てきます。

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一つは、この名前が刻まれたのは何時かということです。もし「原爆供養塔」の建立と同時に銘板も作られたとしたら、まだ混乱していたであろうと想像できる被爆6年後のこの時期に、これだけの犠牲者の名前をどうやって調べることができたのだろうかということです。もともとの住民数が不明なのですから、269人が多いのか少ないのか分からないので、評価するのは難しいことですが、爆心地から500~700メートルという近距離で壊滅的被害を受けた地区ですので、余計にそれを感じます。ただ丹念な調査が行われただろうということは「東組」「西組」など組ごとに名前が整理されていることからもわかります。

原爆戦災誌を読むと、戦後の復興期にこの地に移りすんだ人は、必ずしも旧住民だけだったのではないことがわかりますから、余計にそう感じます。

二つ目は、刻まれた名前は、必ずしも住民の名前だけではないことがわかります。だからでしょうか、不思議な記載があります。例えば「水利工業所内」として7名の名前が刻まれています。この工場の関係者が生存されていたのでしょう。「西組」には、「原田清蔵方」として3名の名前の他に「他2名」(2かどうかははっきりしないが)という記載もあります。

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この「○○方」という記載は、他にも6件見つけることができます。その中には、「高木松次郎方」として3名の名前と「他店員5名」という記載もあります。さらに不思議なのは「信者」として10名の名前が刻まれていることです。何を意味しているのでしょうか。

左官町は東隣町の加治屋町と共に鉄工所が多かったといわれていますので、住民以外にも工場で働いていた人にも多くの犠牲があったと思われます。「他○○名」は、工場などで働いていた人たちのような気がします。だからこの碑に「周辺縁故者」という文字が刻まれたのでしょうか。

もう少し詳しく調べてみたい気になります。

「原爆精霊供養塔」では、今も8月6日には慰霊祭が続いているそうです。それを証明するように「令和2年8月6日」と書かれた卒塔婆が、立てかけられていました。

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明日は、善応寺のことを中心にもう少し話を続けたいと思います。

いのちとうとし

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