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2021年1月

2021年1月31日 (日)

1月のブルーベリー農園その4(東広島市豊栄町)

農園で作業するのだが1月も終わりころになると12月に比べてあたりが明るくなるのが分かる。陽の光が強くなってきているからで寒くても気持ち体が軽い気がするから不思議だ。80本余りある早生のブルーベリーの剪定が終わりメインの約1000本の晩生のブルーベリーの剪定に取りかかる。里山は風が強く寒いので3段ある畑から始める。

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1月24日(日)

①.畑のブルーベリーは葉がすっかり落ちて枝の赤色が良く見えるようになり、地面では草色が少しづつ広がりを見せる。

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②.ジャーマンアイリスを植えている畑の地面はホトケノザが背丈は低いが花を寒々と咲かせている。

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③.里山の北側のブルーベリー園の防獣柵の補修を続ける。左側のネットの撤去作業を行う。

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④.その作業のさなか頭の上に突然野鳥の羽音とさえづる声が耳に飛び込んできた。声のする方向に目をやると集団で枝から枝にせわしくとまっては移動する野鳥がいた。そしてあっという間にいなくなった。頭のすぐ上にもとまった。デジカメのシャッターをあたりかまわず切って姿をとらえたのがこの1枚。シジュウガラらしき姿だが違う種類かもしれない。

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⑤.同じ場所の早生のブルーベリーの剪定はほぼ終了。

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1月25日(月)は安芸の郷がブルーベリーの挿し木苗用の穂木を必要としているので終日シュートの太いものを選んで採穂した。晩生のティフブルーという品種で安芸の郷で作る苗木で一番多く栽培しているもので、持ち帰り26日に10~11㎝にカットしたら900本とれた。ビニールにくるんで、立てた状態で冷蔵庫に保管した。3月上旬に土に挿し木する。

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1月30日(土)

①.ブルーベリー畑の周囲には雪が少し残っている。2月3日が立春なので太陽の光が明るくなってきた。

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②.里山のブルーベリー園の南側の防獣柵の補修を続ける。

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③.3段ある晩生の品種ばかりのブルーベリー畑の一番上の剪定を始める。

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④.夕方のまだ固いウメの蕾。

 

2021年1月31日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年1月30日 (土)

「ブラジル被爆者平和協会」が解散

私が、ブラジル被爆者平和協会が昨年12月31日に解散したことを知ったのは、今年の1月10日付で発表された核兵器禁止条約発効を歓迎する声明文ともに送られてきた森田隆会長の「お礼の言葉」が届いたからです。。

解散するに至った経緯が、次のように記されています。

「昨年の12月31日をもちまして、36年間続けてきましたブラジル被爆者平和協会を解散いたしました。解散前に皆様に相談するのが本来の行き方ですが、それが出来ず誠に申し訳なく思っています。

 この会を解散しようと会員の方々と少しずつ話し合っていたのは、2019年ブラジルの3病院での現地治療が認められ、それが軌道に乗りもう大丈夫となってきた昨年2月頃です。これで私たちが協会を作るために望んでいた一つの願いが達せられたからです。丁度コロナウイリスの発生が問題になる頃でした。」

これまでの活動についても書かれています。

「また私の名前が明記されたTAKASHI MORITA工業高校、サンパウロ市の名誉市民賞を頂いた事。協会役員がサンパウロ州議会から、州の最高賞である平和に貢献したとする功労章を頂いた事など、また協会の名称をブラジル被爆者平和協会と名付けたことから、今では『被爆者』という言葉が、日本の広島と長崎で原爆被害にあった人々を表す言葉としてブラジルの多くの人々に認識された事など、36年間の活動の賜物です」

解散を決意されたのは、長年要望されていた「現地の病院での治療」が認められたことが大きな要因となったようですが、同時に被爆者の高齢化が進んだことも原因だったと思われます。

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同時に送られてきた「声明文」からもそのことが推測できます。「1984年、被爆者17名で設立された『ブラジル被爆者平和協会』は、約270名で、現在の生存者は74名です。協会設立の目的であった”世界の平和”と”被爆者現地治療”を求めて36年間運動を続けて来ました。待望の現地治療は2019年4月より現地医療機関と日本政府間の協定により可能となりました。」

「在ブラジル原爆被爆者協会」の名前での発足した協会は「①在ブラジル被爆者協会は、世界の平和を願い再び原爆の惨禍をこの地上に受けぬよう、すべての国の人々に平和のメッセージを送る。②在ブラジル被爆者協会は、海外に居住するすべての国の日本人原爆被爆者とともに、当然の権利として日本国内の被爆者と同様の原爆被爆者関係の法律の適用を受けるべく、協力に各方面に申請する。」の目的を実現するために活動を続けてこられました。当初の目的には「日本人原爆被爆者とともに」となっていましたが、1998年に在韓被爆者郭貴勲裁判が始まると、韓国被爆者協会、米国被爆者協会のみなさんと共に日本被団協主催の集会に参加し、その後「在外被爆者」の立場で共闘することになりました。そして郭貴勲裁判では、米国被爆者協会倉本寛治会長と共に森田隆会長が原告証人として証言台に立ち「戦争中、そして被爆した時、やはり韓国の方、北朝鮮の方も日本人として参加しておられたはずです。そして、広島、長崎において原爆を受けた時には、私ども日本人と同じだったと思います。国が違い、場所が違っても被爆者には間違いありませんから、そういう方々に、一日も早い援護の手を差しのべていただきたいと、外地にいる日本人として特に裁判長にお願いしたいと思っています。」(証言のママ)と訴えられました。「北朝鮮」という表現ですが、在朝被爆者にも言及されていることが目を引きます。

私と森田さんの最初の出会いもちょうどこの頃です。以後、今も交流が続いています。

日本政府を相手に裁判を起こすことに否定的だったといわれる森田隆さんでしたが、こうした活動を経験する中で、ご自身が裁判を提訴し勝訴を勝ち取ることになったのです。

国内、県内でも高齢化が進み被爆者組織の解散が伝わってきますが、こうした時期に「ブラジル被爆者平和協会」が解散したことは、この間の素晴らしい活動を知るものとしては、本当に寂しく残念な気持ちになります。しかし、協会発足以来その中心として活躍されてきた森田隆会長の96歳という年齢を考えると無理も言えないとの思いになります。

森田さんが、いつまでもお元気でご活躍されることを遠く日本の地からお祈りいたします。

いのちとうとし

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2021年1月29日 (金)

府中地区の1.27ネバダデー座込み

府中の小川敏男さんから府中地区の「1.27ネバダデー座込み」の様子が、写真と共に届きましたので、今日も「ネバダデー」の取り組みを紹介します。まず小川さんから届いた全文を紹介します。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

今日〈127日(水)〉、ネバダ・デーとアメリカの核実験抗議で座り込みを行いました。

時間は1200から1230まで、府中市役所玄関前で約30名の参加でした。

今日はいつもと違いえらい多い参加者でした。

連合府中、府中市職労の執行部、青年部、女性部、社民党、一般の参加者と参加者の幅も広いので人数も多いはずです。

30分間の座り込みの最後に、土井基司市議会議員から「トランプ米政権が昨年11月、西部ネバダ州の核実験場で、核爆発を伴わない臨界前核実験を行ったことが中国新聞の報道で明らかになりましたが、22日(金)には核兵器禁止条約が発効し、条約の発効で核兵器廃絶の機運が高まる中、水を差された思いです。 広島は核爆弾による被害を経験した県だからこそ、世界にその実相を訴え続け核兵器廃絶への歩みを粘り強く進めていく使命があります。こんなにたくさんの参加があったのは久しぶりです。本当に心強く思います。今日はありがとうございました」とのアピールがあり、行動を終わりました。

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――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

府中地区では、これまで核実験の度に抗議の座込みが行われていましたが、昨年11月のアメリカ臨界前核実験に抗議したという情報が伝わってきていませんでしたので、どうしてなのかと気になっていました。ようやく小川さんの報告でその実情がわかりました。「ネバダデー」が近いので、あわせて実施しようということになったようです。ですから上の写真には、二つの横断幕が映っています。

アメリカの臨界前核実験抗議する座り込みだったからでしょうか、連合府中からも参加があったようです。また、府中地区で毎月実施されている19日アピール行動で一緒に頑張っている市民グループから、今回初めて参加があり「参加者の幅も広いので」となったようです。嬉しい報告です。

ところで、府中地区の1.27ネバダデーの座込みのニュースは、わが家(広島市内)に届いた昨日の中国新聞の地域備後面(18面)には掲載されていないのですが、府中地区で配布された中国新聞には、下のように写真入りで記事が掲載されていたそうです。

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この新聞のコピーが添付された小川さんのメールには「見出しは24人となっていますが、それは最初の人数です。その後増えて30人で間違いないです。また府中のミニコミ紙も写真入りで記事を書いてくれました」と書かれていました。

今日は、府中地区の粘り強い取り組みを紹介しましたが、こうした行動が、また県内各地に広がるよう私たちも努力したいと思います。

いのちとうとし

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2021年1月28日 (木)

1.27ネバダ・デー座り込み

昨日、午後0時15分から20分間、平和公園慰霊碑前で、1984年から毎年この日に行ってきた「1.27ネバダ・デー座り込み」を実施しました。今年は、コロナ感染状況を考慮し、最小限の参加呼びかけでしたが、箕牧智之広島県被団協理事長代行を初め33名が参加しました。

「1.27ネバダ・デー」の行動が始まった経緯は、下記に掲載した「『1.27ネバダ・デー』ヒロシマからのアピール」に簡単にですが、紹介されています。

ここで強調したいことは、今年のネバダ・デーは、核兵器禁止条約が発効して初めての行動になったということです。その意味では、昨日の行動は、次のような大きな意味があったと思います。

その一つは、「ネバダ・デー」の取り組みは、アメリカ・ネバダ核実験場で行われた核実験被害者からの呼びかけで始まったということです。「核実験被害者の救済」を定めた核兵器禁止条約が発効した今こそ、改めて世界の核実験被害の実態を明らかにし、全ての被害者の救済を具体的に実施させなければならなりません。そのためにも広島は、世界の核被害者と向き合うことが強く求められているのです。

もう一つは、核実験場を閉鎖させる意味です。昨年11月にアメリカが臨界前核実験を実施し、私たちは抗議の座込みを実施しました。臨界前核実験は、より実戦配備が可能な新型核兵器開発を目的として実施されています。その実験が行われたのが、ネバダ核実験場です。ネバダ核実験場を閉鎖させることは、核兵器禁止条約で禁止された「開発、実験」を実施させないことを意味する具体的な一歩になるのです。

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そうした思いを込め、参加者全員の拍手で確認された「『1.27ネバダ・デー』ヒロシマからのアピール」を掲載します。

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「1.27ネバダ・デー」ヒロシマからのアピール

1951年1月27日、 アメリカ・ネバダ核実験場で初めて核実験が行われました。 それから33周年にあたる1984年1月27日、 米国・ユタ州シーダー市の「シティズンズ・コール」(ジャネットゴードン代表)の呼びかけで、全米各地で反核集会が開催されました。 イギリス・カナダ・マーシャル諸島などへも広がり、 広島県原水禁もこの日、核実験全面禁止を求める国際連帯行動として、 原爆慰霊碑前で座り込みを行いました。 その後、この日を「ネバダ・デー・国際共同行動日」として核実験禁止に向けた行動が世界で取り組まれるようになり、以降、広島でも毎年、座り込み行動を続けています。

 被爆者そして核兵器の廃絶を求める世界中の人々の念願であった「核兵器禁止条約」が、2021年1月22日発効しました。ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下から75年、世界は大きく核兵器の廃絶へと歩を進める権利を手にすることができました。

しかし、その道は決して楽観できません。米ロ間にあったINF全廃条約はトランプ前米大統領のもとで破棄され、核戦力の増強・開発に向けた両国間の牽制が続き、昨年11月にネバダ実験場で臨界前核実験を行いました。新たに誕生したバイデン大統領の下でアメリカがどのような核政策を示すのかを見極めるとともに、ネバダ核実験場を閉鎖させることが、新たな核兵器開発をストップさせる道へとつながり、核兵器禁止条約が求める核兵器廃絶への大きな一歩になることを自覚し、運動を強めなければなりません。

そして何より、日本政府が直ちに「核兵器禁止条約」に署名・批准することを強く求めるとともに、そのための運動に全力を尽くします。「唯一の戦争被爆国」でありながら、多くの国民の声に背を向け、アメリカなど核保有国とともに、「安全保障政策上を理由」に条約に反対するなど、決して許されません。

核による、絶対の安全はありません。「あらゆる国のあらゆる核実験に反対」し、「反核・平和」「脱原発」など、 核と平和の問題を訴え続けてきた私たち被爆地の市民は、「核と人類は共存できない」という先達の言葉を心に刻み、人類史上初めて原子爆弾の惨禍を被ったヒロシマから全世界に訴えます。

◆核兵器禁止条約の発効を活かし、核兵器の使用を許さず、例外なき核実験全面禁止を実現させよう!

 ◆ネバダ核実験場を閉鎖させよう!

 ◆日本政府に、早期に「核兵器禁止条約」を批准させよう!

 ◆東北アジアの非核地帯化と非核三原則の法制化を実現しよう!

◆世界のヒバクシャと連帯し、ヒバクシャの人権を確立しよう!

 ◆ノーモア ヒロシマ! ノーモア ナガサキ! ノーモア ウォー!

                                 2021年1月27日

                    「1.27ネバダ・デー」市民行動


いのちとうとし

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2021年1月27日 (水)

入市被爆者が多い島根県の被爆者

昨日、野田瑞代さんの手記の中で紹介した「大社中学から呉に学徒動員された次兄」に関わる情報をさがしてみました。

島根県原爆被爆者協会(通称「島根被爆協」)が発行した本が平和会館(広島県被団協の事務所)にあることを思い出し、借りに行きました。平成25年(2013年)10月に発行された「島根県原爆被爆者協議会結成50年史 被爆者は訴え続ける」です。

島根県原爆被爆者協議会が、昭和38年(1963年)3月26日に約500人の被爆者が参集して発足して以来の活動の歴史がまとめられています。これによれば、当時島根県内の被爆者は、約2000人だったようです。

現在の島根県の被爆者数は、厚労省が発表した昨年(2020年)3月末現在746人となっています。その内訳を見ると、直接被爆者(1号)が249人、入市被爆者(2号)が436人、救護看護従事者(3号)が47人、胎内被爆者(4号)が14人となっています。ここで手帳区分ごとの内訳を書いたのには理由があります。島根県は、直接被爆者よりも入市被爆者が圧倒的に多い(1.8倍)ことがわかったからです。鳥取県を除いて他の都道府県にはない、特徴です。確かに鳥取県も入市被爆者が多いのですが、直接被爆者80人、入市被爆者95人とわずか1.2倍弱です。ただ広島市を除く広島県は、直接被爆者(7,285人)よりも入市被爆者(6,093人)は少ないのですが、入市被爆者に救護看護従事者(2,704人)を加えると直接被爆者より多くなるのですが、それでも1.2倍です。広島県の場合は、県内各地から救助に駆け付けたり、避難してきた被爆者を救護して被爆したことが要因であることが理解できますが、「島根県の入市被爆者がなぜ多いのか」はっきりとした理由は、今のところ不明です。

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大社中学に関わる情報探しに戻ります。「第5章 各地区の活動」の中に「出雲地区」とありますので、期待してそのページを開いたのですが、「大社中学」に関連する記述は全くありません。その数ページ後に「被爆体験 被爆者は訴え語りつづける」がありますので、期待して読んでみました。ここには、41人の被爆体験が掲載されていますが、残念ながら被爆時大社中学生だった人の被爆体験記は、一編もありません。大社中学生の体験記を見つけることはできなかったのですが、他校から動員学徒で来広し、被爆した人の体験記が3編ありました。一人は、14歳の県立三刀屋中学校の男子生徒で、宇品東で直接被爆しています。後の二人は、被爆年齢は書かれていませんが女子学生です。一人は松江高等女学校から呉へ、もう一人は体験記に学校名が書かれていないのですが、浜田から呉広に動員されています。二人とも学徒動員だと確信できるのは、両方の体験記に「島根学徒報国隊として動員された」と明記されているからです。

この女子学生二人の体験記には、いずれも動員が解除された後、「呉線を使い、広島駅経由で、それぞれのふるさとに帰った」ことが記述されています。広島駅では、一人は一昼夜、もう一人は8時間列車が来るのを待ち続け、そこで被爆することになったのです。広島駅からは、浜田へは山陽線で下関まで行き山陰線に乗り換えるルートで、松江へは芸備線、木次線経由で宍道から山陰線に乗り換えるルートで帰ったはずです。当時汽車で島根に帰るには、この二つのルートしかありませんので、いずれのルートも広島駅は必ず通ることになります。ですから、島根県から学徒動員で広島に来た生徒たちは、学徒動員先が広島以外だったとしても、全員が入市被爆することになったのです。

今のところ、当時島根県から学徒動員で何人が広島に来ていたのかまで、調べることができていませんので、確定的に言うことはできせんが、島根県だけが、被爆者の中でも入市被爆者が圧倒的に多い理由の一つとして考えることができるのではないかと思います。他の要因としては、島根県石見地方からは広島に働きに出る人が多くいましたので、その親族をさがすために広島に来て入市被爆したケースも多くあったのではと想像されます。

いずれにしても、今のところ決定的な理由を見つけることはできませんが、当時大きな工場が少なかった島根県から多くの動員学徒が広島に派遣されたのではないかと思われますので、何とかして「島根学徒報国隊」の実態を調べてみたいと思います。また一つ課題ができました。

いのちとうとし

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2021年1月26日 (火)

広島被服支廠と出雲

10月4日のブログ「なぜ益田高等女学校の生徒は被爆しなければならなかったのか」(http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/10/post-b8ef53.html)で、島根県立益田高等女学校生が広島で被爆したことを取り上げましたが、その時からずっと気になっていたことがあります。

私の出身校・島根県立出雲高等学校の前身は、県立今市高等女学校です。気になっていたのは、今市高等女学校も益田高等女学校と同じように広島方面に学徒動員されていたのではないかということです。

先日、母校に電話をし、「当時のことを書いたものはないですか」と問い合わせました。「『出雲高校70年史』(出雲高校は昨年創立100周年を迎えた)に記載があるかもしれませんので、調べて返事をします」。数時間後に電話があり、「学徒動員のことが、数ページですが記載があります。広島方面に行ったという記載はありませんが、『西浜の海岸に塩汲みに行かされました。』『学徒報国隊となり広島陸軍被服廠の軍属に任命され』などが記載されています」との回答です。「広島陸軍被服廠」という言葉にびっくりしましたので「該当するページをコピーして送っていただけませんか」とお願いしたところ、翌日該当する12ページ分のコピーが郵送されてきました。

そこには、昭和19年(1944年)に、女子挺身隊が結成され、兵庫県川西航空機工場などに動員されたことや伊丹市から出雲市へ疎開した東洋航空機工場の動員生活についての回想文が掲載されています。

その後に「学校が工場に」と小見出しの付いた文章が続きます。「昭和19年7月、広島被服廠から軍の学校工場に指定され、3,4年生と専攻科生は軍属扱いとなり、縫製作業にあたることになった。校舎の大半は、工場となり・・・工場には一般家庭から調達されたミシン200台を並べ、動員生徒750人の手で、日産約4000点の軍衣料(シャツ、ズボン下、背負袋等)を製造した。」と書かれています。今市高等女学校の生徒は、広島には来ていませんでしたが、学校が広島被服廠の工場となり、そこで懸命に働いていたのです。私の母校と「広島被服廠」の深いつながりを初めて知ることになり、思いがけないことでびっくりしたのです。ここで働いていた大竹さんの回想文には、作業の様子と共に当時の雰囲気が次のように書かれています。「朝礼は戦陣訓を唱える事ではじまり、一日の生産目標が示された。終礼は『海ゆかば』の斉唱の後、その日の戦果(生産高)の発表があった。教室毎に競争させられ、戦地で戦っている覚悟で生産高と上げる事が国に忠誠を盡すことと毎日訓示されていた。」(原文のまま)

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広島被服支廠の工場となった今市高等女学校時代の校舎

 この「学校工場」も終戦間際の8月4日には、敵機の空襲に備えるため周辺の三小学校への分散が進められ、生徒たちは4工場に通うことになり、最終的には8月23日に解除となったようです。

さらに読み進むと別の意外な事実を知ることになりました。それは建物疎開です。大都市から始まった建物疎開が、終戦も近くなった7月9日には、島根県でも命令が出され、出雲市でも250戸の目標が立てられてようです。校名になっている「今市」は、出雲市の中心部、商店街が密集する地域の地名です。建物疎開の対象となったのは、この今市地区だと思います。完了目標は、8月20日だったようですので、実際に建物疎開作業がどこまで進んだのかわかりませんが、こんな田舎の都市にまで空襲の危険が迫っていたというのですから、戦争の継続などあり得なかったのです。この建物疎開が実際にどう進んだのかを、出雲在住の同級生に依頼し調べてもらうことにしました。

さらに最後のページまで読み進むと、はっとする1行が目に入りました。最初に紹介した「塩汲み」のことが書かれていた野田瑞代さんの手記に「広島に原子爆弾が落とされ終戦となりましたが、次兄は大社中学から呉の軍需工場に学徒動員で働いていましたので安否を気遣ったり」の一文があったからです。呉の軍需工場で働いていたというのであれば、終戦後故郷に帰るためには、益田高女の生徒と同じように広島駅を通過したはずですので、この生徒たちも入市被爆したことになります。調べてみたい事実です。大社中学(現在は大社高校)は、出雲大社のある大社町(現在は出雲市に合併)にある男子校ですが、戦後の学制改革の中で、その一部が、今市高等女学校に編入され、母校る出雲高校として発足していますので、全く無縁なことで無い気がします。ひょっとすると出雲高校の卒業生の中に、被爆者がいたかもしれないのですから。

どれもこれも、初めて知る戦争と出雲のかかわりでした。

いのちとうとし

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2021年1月25日 (月)

電力不足の真相と課題

 「電力ひっ迫」「電力不足の懸念」、「冬の最大電力3年ぶり最高」などのマスコミ報道が続いています。報道はその理由について、寒波・巣ごもりで需要増になったとしています。今年は寒波による大雪で、特に日本海側はたいへんな被害が出てしまいました。確かに電力需要は伸びましたし、まだ1月半ばですから、これからも伸びる可能性はあるでしょう。

電力会社は冬を迎える時期に、「今冬の電力需給見通し」というのを発表します。中国電力は、10月30日に12月・1月・2月の3か月間について、最大需要見通しとそれに対する供給力を発表しました。

最大需要見通し量について、12月は1,076万kW、1月は1,097万kW、2月は1,082万kWとし、それに対する供給力は12月、1,111万kW、1月、1,156万kW、2月は1,151万kWとしていました。

中国電力の10月30日の報道発表では、「中国エリアの電力需給については、今冬においても安定供給を維持できる見通しです」と、まさに大見えをきっていました。

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さて中国地方では現時点までで、この需要見通し量を超えたのは1月8日(金曜日)の午前中で1,118万kWを記録し、見通しを11万kWほどオーバーしました。パーセントでいえば、約1%超えただけです。しかし供給力の1,156万kWは超えませんでした。それ以降、今日まで見通し量は超えた日はありません。

この日、見通し量を超えたという電力会社は、北海道・東京・沖縄を除く各電力会社でした。広島市内のわが家のあたりでも、珍しく朝方に雪が降り風も強かったのを覚えています。

最初にも書きましたが、マスコミは電力不足という報道とともに、「電力の融通」を受けたことを、さも大きな出来事のように書きました。中国新聞の場合、「異例の対応」とまで見出しを打っています。

電力を融通しあうのは福島原発事故後、第一段の電力システム改革として電力広域的運営推進機関(OCCTO・オクト)が設立され、融通しあうことを業務として行うことになったのです。これを「異例の対応」などと書く、マスコミの認識にも疑問を持ちます。

知人などから、このことに関係して「やっぱり原発は要るよねー」と聞かれると、まさに新手の原発推進キャンペーンとしか思えなくなります。

こういう事態になった原因は、火力発電の燃料であるLNG(液化天然ガス)の在庫確保対策を甘くみた、電力会社や政府の責任としか考えられません。

LNGの供給不足は産出国の設備のトラブルや、新型コロナウイルスの影響によって輸送が停滞したことが理由だとされていますが、コロナは昨年から分かっていたことではないでしょうか。

二酸化炭素の排出量が多い石炭や石油火力を撤廃するには、とりあえずはLNG火力に依存しなければなりませんが、長期的には様ざまな自然エネルギーを拡大し、それに合わせてLNGの依存度を下げていくことではないでしょうか。

※発表データを「中国電力」と書いていますが、正しくは昨年4月から法的分離をした「中国電力ネットワーク」です。しかし分離は名前だけという判断で「中国電力」としました。

木原省治

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2021年1月24日 (日)

1月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

安芸の郷のある安芸区矢野の周辺の地域は寒の入りから20日の大寒ころまで雪は積もらなくて利用者の送迎も普段通りの運行ができていて気持ち安堵できる日が続いている。一方農園のある場所は標高も約400mあり朝夕の気温も0度以下の日続いているが、大雪にはならず週末の道路の路面も雪はなく安心していくことができた。農作業はブルーベリーの剪定やブルーベリーの周りの防獣柵の補修などを行った。また安芸の郷で生産しているブルーベリーの苗木の材料となる穂木は農園が提供しているが、今年はブルーベリーの樹液が動く前の1月中に採穂するのがいいらしいことを知ったので今月中に何回かに分けて作業することにして採穂をしている。手探りでの栽培なので新しい知見を得るたびにすぐ試してしまう日々。

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1月16日(土)から17日にかけての農作業は里山のブルーベリー園の防獣柵の補修を行うことにした。同時並行でブルーベリーの剪定も行う。鉄筋や木の杭や木づちや結束バンドや針金を一輪車に積んで運ぶ。ワイヤーメッシュも何回かに分けて運んだ。

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16日に早生のブルーベリーエリアの柵にワイヤーメッシュを追加で設置したりした補修が済んでから、17日にはこれまで張り巡らしていて防獣用のネットの裾を地面から上げてワイヤーメッシュ上部に引っ掛けて草刈りがしやすいようにした。いろいろな植物がネットに絡んでいて時間がかかる作業となった。

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この作業していると柵にせってきているブルーベリーの木がありそれを掘り起こして畑に植え変えたのだが、その作業で使う3本鍬(写真左)が便利だった。昔からある鍬なので頑丈で先もとがっている。現代の3本、4本鍬は写真右のような長いタイプがほとんどで今一つ使い勝手が悪い。

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柵の中では早生のブルーベリーの剪定がすすむ。

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庭のボケの木の実。花は小さいが実はアンバランスに大きい。枝のところどころにつぼみが見えるがまだ固い。

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19日(火)の午後から安芸の郷から出発して農園に行く。ブルーベリーの挿し木用の穂木の採取のためだ。農園に着くとうっすら雪が降っていて遠くの山々の雪もいかにも寒さが厳しいといったことを感じさせるとげとげした姿だった。

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 今回は晩生のウッダードを切って安芸の郷に持ち帰る。翌日10~11センチにチョキチョキ切って250本分を冷蔵庫に保存した。

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帰る前に庭を掃き終わると目の前の石垣にジョウビタキが素早くやってきた。落ち葉を掃いた地面を見やりえさを探す様子。多分オス。

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こちらもカメラを構えてじぃーっとしていると地面に下りてえさらしきものをついばんでさっとまた石垣の上にとまる。安芸の郷の庭でもよく見かけるがあまり人を恐れないようだ。

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椿の堅そうな蕾。

2021年1月23日

社会福祉法人安芸の郷

 理事長 遊川和良

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2021年1月23日 (土)

核兵器禁止条約が発効―核兵器廃絶への大きな一歩

核兵器禁止条約が、国連で採択されてから3年6カ月、50カ国以上の批准し、1月22日発効しました。条約の発効したことで、核兵器禁止条約は、国際的な法律として効果を持つことになりましたので、核兵器の使用はもちろん、核兵器を違法な兵器とし、開発、実験、製造、備蓄、移譲、及び威嚇としての使用の全てが違法となり、廃絶が義務付けられることになりますから、核兵器廃絶への大きな一歩となること間違いありません。その意義は極めて大きいものがあります。

「核兵器禁止条約発効」に至る道筋の中では、一生をかけて自らの被爆体験を語りながら「核兵器の非人道性」を訴え続けた広島・長崎の被爆者、マーシャル諸島共和国をはじめとする核実験によって被曝者となった人々、核兵器廃絶を願い粘り強く運動を続けてきた市民社会、特に原水禁運動の先駆者の努力があったことを改めて思い起こしたいと思います。

多くの人たちが、同条約の発効を歓迎するアピール活動を行っています。また計画されています。広島でも、昨晩原爆ドーム前で、キャンドルメッセージ「NO NUKES FUTURE! TPNW 2021」(核なき未来を!核兵器禁止条約をスタートに 2021)によるアピールが行われました。2017年7月の国連での採択を目前にした時期から、節目節目で実施されてきた行動で、その都度世界へのヒロシマからのメッセージとなりましたが、今回もインターネットを通じて、世界に発信されました。

私も午後5時からの準備を含め参加しました。ただ今回は、コロナ過ということでキャンドルメッセージと歓迎の声明文を読み上げるだけのイベントなりました。声明文では、「決定的な歴史的意義」と評価し、「核戦争をもたらす危機的状況を世界中から包囲し封じ込める」ことを呼びかけるとともに、核抑止力に頼る日本政府に対し「一刻も早い署名・批准」を強く求めています。

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核兵器禁止条約に背を向ける日本政府の姿勢に対し、改めて問いたことがあります。

日本政府は「わが国のアプローチとは異なるものであるから」という訳の分からない理由をあげていますが、本音は「アメリカの核による抑止力に依存する政策を続けたい」ということです。この政策を続ける限り、国連で日本政府が提案する「核廃絶決議」が採択されたとして、政府が枕詞のように言う「核兵器廃絶」は、絶対に実現できません。岸防衛大臣「核保有国が乗れないような条約になっている部分について、有効性に疑問を感じる」としていますが、「有効性に疑問」とは一体何を指しているのか、もっと具体的な言葉で明確にしてほしいと思います。また「仲介の訳を果たす」というのですが、条約を批准しないままで、具体的にどんなことができるというのでしょうか。「核兵器禁止条約の発効」という絶好の機会である今、ぜひ国会の中でもこうした疑問に答える議論を真剣に展開してい欲しいと強く思います。

条約発効後の道筋や課題については、イライザさんが、1月1日のブログをスタートに具体的に提起されています(今後も続く)ので、改めて読み直していただきたいと思います。

原水禁国民会議も条約発効記念イベントとして、今日午前10時から2時間オンライン(URLは「https://youtu.be/9lJFxYBZVYM」)で「「日米韓国際シンポジウム-核兵器禁止条約発効後の課題と展望-」を開催します。日本側のパネリストは、秋葉忠利県原水禁代表委員(原水禁国民会議顧問)です。ご期待ください。今日見逃がした場合も、1月23日以降YouTube「原水禁チャンネル」で見ることができます。

ところで、昨日らの報道で初めて知ったことがあります。批准国が50カ国に達し、核兵器禁止条約の発効が確定した時「条約が発効した日にどんなアピールをするのか」が話し合われましたが、その時議論になったのが「1月22日はどこの時間が基準になるのか」ということでした。多く声は「国連のあるニューヨーク時間だろう」ということで落ち着いたのですが、マスコミによれば「批准国の22日午前0時」に発効するとのことです。国際条約の発効時間が国によって違うことにちょっとびっくりしました。ところで批准していない日本などでの発効時間は、やはりニューヨーク時間なのでしょうかね。

いのちとうとし

<編集後記>今日は、定例の「遊川さんの『ブルーベリー農園』からの便り」の原稿が届いていましたが、遊川さんの了解を得て、内容を変更しました。『ブルーベリー農園』は、明日掲載します。

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2021年1月22日 (金)

三原地区・府中地区の1月街頭行動

三原地区の藤本講治さん、府中地区の小川敏男さんから、それぞれの地域の1月の街頭行動の様子を伝える情報が提供されました。

広島市では、コロナの感染拡大を受けて、中止することにしたのですが、両地区では従来通り実施されたようです。両地区の行動の様子を紹介します


三原地区

2021年スタートの三原市民行動「19日行動」は,1月16日(土曜日)、三原駅前に21人が参加して、スタンディングと6人からのスピーチでアピール活動を行いました。

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岡崎敏彦元三原市議は,「菅政権下で国防予算は過去最高となっている。新型コロナ感染が急速に拡大する中で医療,福祉,教育,労働の分野がおろそかになっていることが明確になっている」と指摘し,「コロナ禍を機会に我が国をどのようにしていくのか,菅首相はしっかり国民に示してもらいたい。今こそ憲法を暮らしの中に活かす政治が求められている。今年は選挙の年,しっかりチェックしよう」と訴えました。

コロナ感染症が一日も早く収束し,安心して暮らせる社会になることを願いつつ毎月の街頭行動をがんばっています。

 

府中地区

安保法制に反対する府中市民の会は、1月19日(火曜日)に感染症対策をとって、上下と府中の2か所で、府中地区定例の「まちかど街宣ツアー」を実施しました。

上下Aコープ前では、15時から30分間で、参加者は8名でした。

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移動し、次はいつものように府中天満屋前です。こちらも16時30分から30分間、厳しい寒さの中マイクを握り訴えました。ここでの参加者は、11名でした。

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弁士は、交代しながら次のようなことを強く訴えました。

「昨日から始まった国会、しかし菅総理の施政方針演説(通常国会冒頭での演説:いのちとうとし注)からは市民を守る姿勢は全く感じられない」「コロナ対策ができないのなら自民党は潔く下野すべきだ」「休業要請するなら十分な補償をきちんと行うべきだ」「河合夫妻問題や秋田フーズ問題など広島県の金権汚職政治を追放するために声をあげよう」「コロナ対策も法の根拠のないことが横行し、法を都合よく解釈変更している。これは安保法制と同じで、絶対に政治にはあってはならないこと」「アメリカと一緒に戦争をする国ではなく、国民の生命と福祉、今はコロナ対策が一番の政治に変えていきましょう。」等などです。「継続は力」です。今後も粘り強く訴えつづけることを確認し、今月の行動を終えました。


いのちとうとし

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2021年1月21日 (木)

新たな決意で核のない平和な世界を目指そう・その3 ――「成功例」を別の視点から整理し直そう――

新たな決意で核のない平和な世界を目指そう・その3

――「成功例」を別の視点から整理し直そう――

 

これで、3回目になりますが、これまではまず、人類の多数派の考え方をまとめると、1945年には「自明の理」を確認する形で「核兵器廃絶宣言」なり「核兵器禁止条約」といったものが出来ていて当然だったことを指摘しました。

次に、核兵器禁止条約が発効した後の目標として、「2040ビジョン」を提案しました。念のため、復習です。

 2040ビジョン

  • 出発点: 今
  • 最終目標: 2040年までに、核なき世界の実現と核の脅威からの解放を達成
  • 中間目標: 2030年までに、日本政府が核兵器禁止条約を批准する

さらに前回は、核兵器禁止条約 (TPNWと略します) の発効に至るまでの平和運動の「成功例」も掲げておきました。

今回は、「成功例」を少し違った視点、つまり「事実」として「成功しましたよ」という事例を中心にするのではなく、「何故」あるいは「どのように成功したのか」についても考えながら4つの「柱」としてまとめておきたいと思います。論理的な分析ではありませんので、重複もありますし、これで全ての場合を尽している訳でもありません。でも、次のステップを考えるためには役立ちそうなものを掲げています。

同じテーマで、何カ所かで発言しているのですが、今回はそれらの場での内容を少し進化させて、5つの柱を取り上げたいと思います。

 

「多数派の力」を活用   

「核兵器廃絶」「核実験禁止」等を求めているのは成果の大多数の声です。つまり、私たち「多数派」の意思です。ですから、目的実現のためには、「多数の力」、あるいは「多数派の力」を使うのが一番効果的です。これまでの運動の歴史を振り返ると、この効果的な手法を使って目的実現をしてきた「成功例」がかなりあるますが、分り易い例を挙げておきましょう。

1996年に、ICJが勧告的意見を出すことになったのは、ごく簡潔にまとめると、「世界法廷プロジェクト (WCPと略)」という市民運動の力です。大切なのは、WPCの活動家たちは、WHOと国連総会が「多数決」で最終決定を行うことに注目し、それを最大限に活用した点です。世界的なロビー活動が展開され、その結果としてWHOと国連総会は、多数決による決議を採択してICJに勧告的意見を出すよう要請したのです。この作戦は、安全保障理事会やNPT再検討会議等の「コンセンサス」による意思決定の場で、核大国が「拒否権」を使うことによって、世界の多数派の意思を葬り去って来た歴史を塗り替えるという結果をもたらしました。

TPNW採択に当って、ICANや志を同じくする国々は、WCPが成功した根本理由である、多数決による意思形成を活用しました。単純化した話にすると、国連総会は「公開作業部会 (Open-Ended Working Group、略してOEWG) を設置しました。そこでNGOの参加も許す形でTPNWの概略を決め、それを受けて条約交渉会議が開かれるようにお膳立てをし、最終的には国連総会での多数決でTPNWを採択したのです。

その過程で効果的だったのは、多くのNGOや専門家、そして志を同じくする国々が、核兵器の使用が如何に非人道的結果をもたらすのかを教育するための会議や集会を数多くの場で開催したことでした。科学的知見に基づいた説得によって、世界の「多数派」の信念はますます固くなり、より多くの人々が運動に参加することになりました。

5本の柱に加えて、この「科学的知見」の役割を取り上げる必要があるかもしれません。となると、6本の柱になってしまい、数が増えると分り難くなるという結果にもつながりますので、一応、「5本」で抑えておきましょう。

 

➁ 条約や法律制定を目標に掲げた

「多数派の力」の使い方は色々あります。一番大切なのは、選挙で多数派の意思を実現してくれる政権を選ぶことだと思いますが、「王道」とは言え、なかなか思う通りに行かない経験や苦い思いもされて来ている方も多いのではないでしょうか。

そこで諦めずに、これまでの「成功例」から学びましょう。一つには、「目的」、「目標」 (GOAL) をハッキリさせ、しかも期限を付けることです。

TPNWの場合は、条約の制定が目標でした。その他、「成功例」として列挙したものの多くは条約です。そして、TPNWは、2017年の国連総会で採択されるという結果に至る「多数派の力」の使い方が、これからも同様の結果を国連で挙げて行くことができるというお手本になるという点なのです。

核兵器の廃絶に直接は貢献しないものの、二国間の条約で大切なものもあります。迎撃ミサイル制限条約 (ABM条約、アメリカの通告で2001年に失効)、中距離核戦力全廃条約 (INF全廃条約、2019年に失効)、新戦略核兵器削減条約 (新START、延長を交渉中) 等が頭に浮びます。当事国同士が、賢明な対応をするよう、関係国の市民の力に期待していますが、同時に、国際条約によって核兵器そのものが禁止されたという文脈で新たな作戦を模索することも重要ではないかと考えています。

また、これまで締結された多国間条約を補完したり、拡充する新たな条約制定のための運動も視野に入れるときが来ているのかもしれません。

 

国家が条約や法律を遵守するよう、裁判所に訴えを起こした

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国家はしばしば法を犯します。その中には国際法も入ります。そんな場合、さらには、市民の正当な権利主張を弾圧するような場合、国家の不法行為を裁判所に提訴することは、「多数派」を利する結果につながります。市民が勝てば、それで権利が守られます。もし市民が負けたとしても、裁判で公開される我々の立場はメディアを通じて多くの人に共有されますので、その知識を用いて、政府に法の遵守をさらに強力に要求することができますし、政府が説明責任を果すよう、協力に運動を展開することも可能です。

 例えば、1999年、スコットランドのグリーノック裁判所の判決では、「国際トライデント・プラウシェアー 2000」に属する3人の女性による、トライデント潜水艦への直接抗議を合法と認めました。被告の無罪主張の根拠は、ICJ勧告的意見とニュルンベルグ原則でした。(: 「無罪」は確定したものの、上級裁判所の政治的介入によってその他の判断は覆されました。)

 2014年には、マーシャル諸島共和国が、核保有9カ国をICJに提訴しました。それは、「誠実な交渉義務」を規定しているNPT6条に違反しているという訴えでした。事実、これらの国々は、核兵器禁止のための様々な機会を無視し続けて来ただけでなく、その後、国連総意が設置した「公開作業部会 (OEWGと略)」にも不参加でした。管轄権の問題で、ICJからは却下されたものの、世界世論を喚起し、多くの支持を得る上では重要な役割を果した。さらに、「法の支配」の基本的な原則の一つである「pacta sunt servanda(約束(合意)は守られねばならぬ、あるいは、約束履行義務) の重要性を再確認することになりました。

 参考までにNPT6条を掲げておきましょう。「各締約国は、核軍備競争の早期の停止及び核軍備の縮小に関する効果的な措置につき、並びに厳重かつ効果的な国際管理の下における全面的かつ完全な軍備縮小に関する条約について、誠実に交渉を行うことを約束する。」

 国内的には、複数の裁判所が、日本政府による法の曲解や無視について、軌跡を修正してきました。

 1955年には「原爆投下は国際法に違反する」という東京地裁の判決が出されました。1978年には「原爆医療法」は海外の被爆者にも適用されるという孫振斗(ソン・ジンドウ)訴訟、1976年には白内障も原爆症として認めた石田訴訟、そして2009年には、「輸送・救護・看護・処理等」での被曝は、人数に依らないことを認めた、3号被爆者訴訟が具体例です。

 WCPTPNWのように、国連の内外で外交官や政治家に働き掛けるロビー活動を展開することは、誰にでもできることではありません。しかしながら、固い意志を持った個人が、地方裁判所において訴訟を起こすことは可能です。国レベルでもマーシャル諸島共和国のように、小さな国が単独で国際的問題提起を行えるという意味で、裁判制度の存在は貴重です。

 

随分長くなりましたので、残りは次回に回しますが、そこで取り上げたいのは次の二つです。

非核兵器地帯を創る

平和創造の基礎単位としての都市と市長の役割

それに続いて、2040ビジョン」達成のための具体的ステップ になり得る、[次のステップ候補を4]を説明したいと思います。

 

[2021/1/21 イライザ]

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2021年1月20日 (水)

電話会議となった「被爆二世裁判」

昨日は、午後1時30分から被爆二世裁判の口頭弁論が予定されていました。しかし、コロナ対策ということで法廷は開廷されず、裁判官と弁護団による「電話会議」ということになりました。したがって、「書面の陳述」等の扱いにはならず、事務的な進め方の整理をするということになりました。

原告弁護団からは、昨年12月に、今回の公判に向けて2つの準備書面が提出されていますので、もし開廷されておれば、この準備書面の要旨が、弁護団によって陳述されたはずです。

ところで、裁判を傍聴していて、「何が何やらわからないまま審理が終わった」と実感することがよくあります。民事訴訟の裁判を傍聴した最初の頃は、私も何度か戸惑ったことがあります。民事訴訟では、口頭弁論をすることが原則となっているようですが、口頭での複雑な主張は理解が難しいということで、日本の民事訴訟では、「口頭弁論は、書面で準備しなければならない」ことになっています。ですから法廷で「主張は準備書面の通りです。」と述べるだけのやり取りが繰り広げられ、数分余りで審理が終了することが、ほとんどです。原告や裁判傍聴者にとっては、何が何だかわからないまま、アッという間に閉廷したしまったということになります。そこで、原告団が多い、支援傍聴者が多い、マスコミが関心を持っている裁判などでは、少しでもそうした人たちにわかるように(「わかるように」と私が勝手に思っているのですが)、弁護団が裁判長に法廷での「書面の陳述」を求め、すでに提出している「準備書面の要旨」を口頭で陳述することがあります。それを要求するのは、ほとんどが原告弁護団からですが。こうした裁判では、さらに、公判終了後、「報告集会」がもたれ、原告団の決意表明や弁護団による裁判の解説が行われことが多くあります。被爆二世裁判でも、公判終了後は必ず「報告集会」が行われてきました。もちろん、昨日は「報告集会」は実施されませんでした。

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裁判の解説が長くなりましたが、昨年12月に提出された2つの準備書面について簡単に紹介しておきます。と言っても、「準備書面9」は1万字、「準備書面10」は1万5千字を超える長文ですので、「簡単に」というのは難しいのですが。

「準備書面9」では、被爆者援護法附則17条をもとに「立法不作為」(国家が法律を制定すべきところをその義務を怠り、そのために国民に損害を与えたこと)について、主張しています。原告全員が勝訴した昨年8月の「黒い雨訴訟判決」を紹介しながら「援護法附則17条」を引用し「地理的な範囲において原爆による放射線被害の可能性が考えられる第一種及び第二種健康診断特例区域に居た人たちに対し、健康診断特例措置により援護がなされるのであれば、少なくとも、放射線被害の遺伝的影響の可能性のある被爆二世に対し同様の措置をとるべきことは明白である。」と結論付けています。

「準備書面10」では、「放射能の遺伝的影響」について、「被爆二世は、身体に原爆による放射能の遺伝的影響を受けている可能性がある」ことを、遺伝学の専門家によって明らかにされた知見を紹介し、主張しています。「準備書面10」には、この被爆二世裁判を医学の面から支えておられる兵庫医科大学・遺伝学、非常勤講師で医薬基盤・健康・栄養研究所、特任研究員の振津かつみさんの2万字を超える「意見書」も付されています。

「電話会議」終了後、「弁護団報告」が送られてきました。それによれば、最後に「今後の裁判の進め方」が話し合われ、裁判官から「立証の予定」が問われ、原告弁護団からは、「専門家の証人1名と原告本人尋問を考えている」と発言し、裁判官からは「専門家の証人は振津さんか?原告尋問は何名かに絞るか?」というやり取りがあったそうです。今月12日に開かれた長崎地裁では、裁判長から原告側に対し、もう少し具体的に「人証(大まかにいえば証人尋問のこと)の予定を示してほしい」と要請があったそうです。このまま進めば、両裁判所とも、次々回以降に証人尋問が実現しそうです。

いのちとうとし

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2021年1月19日 (火)

アメリカ臨界前核実験に抗議する座込み

昨年11月にアメリカが実施した臨界前核実験に抗議する座込みが、「核兵器廃絶広島平和連絡会議」(連合広島・県原水禁、広島県被団協など12団体で構成)の呼びかけで、昨日12時15分から30分間慰霊碑前で実施されました。

コロナ過での座込みということで、人数を制限しての呼びかけとなりましたが、35名が参加し、厳しい寒さの中で抗議の意思を表しました。参加者の中には、北広島町豊平から駆けつけた箕牧智之広島県被団協理事長代行や太田憲二広島市議などの姿がありまして。

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核兵器禁止条約が今週中に発効するという時期での「座込み」となりましたので、今まで以上に強い怒りの声が上がりました。その思いは、座り込みの最後に頼信直枝広教組委員長によって提案された「抗議の申し入れ」の中に「1月22日に発効する核兵器禁止条約の直前の実験であり、国際社会において許されざる行動であります。・・・ヒロシマの声や国際世論に対する重大な挑戦であるといわざるを得ません」との表現で盛り込まれました。この「抗議の申し入れ」は、アメリカ大使館に送付されました。

座込みをしながら、実験を強行したアメリカ政府はもちろんですが、この臨界前核実験に抗議の意思を示さない日本政府に対して、改めて強い憤りを感じました。

日本政府は、「核兵器保有国と非保有国の橋渡し役を務める」と言い続けていますが、今回のアメリカの臨界前核実験に抗議しないのですから、非核兵器保有国の信頼を得ることなど絶対にできません。もし本気で日本政府が、橋渡し役を務め(私は、そんなことはできるはずがないと思っていますが)、核兵器廃絶をめざすというのであれば、核兵器の使用につながる「核兵器の小型化」のための今回の臨界前核実験に、はっきりと「NO」の意思表示をしなければなりません。アメリカの核の傘に依存しているから何も言えないというのであれば、空々しく「橋渡し役を務める」などというべきではありません。

昨日から始まった通常国会は、コロナ対策や政治とカネの問題(安倍前首相の前夜祭、河井夫妻の選挙買収、吉川元農水大臣の贈収賄)などが主要議題となると思いますが、国会開会中に発効する核兵器禁止条約への日本政府の署名・批准問題や今回のアメリカの臨界前核実験がどのように取り上げられるのか、注視したいと思います。

この核実験抗議の座込みに参加する前、一昨日から気になっていた原爆資料館内に設置された「平和監視時計」を見ました。「最後の核実験らかの日数」は、すでに「049日」にリセットされていました。

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知りたいなと思っていた「この日数をどういう方法で確認したのか」を原爆資料館(一昨日は「広島市平和推進担当が確認する」と聞いていたのですが、資料館が決めるようです)に問い合わせました。「今までは、いろいろと調べて実験を行った日を特定できたのですが、今回はいまのところ特定できていませんので、実験が行われた11月の最終日と仮定し、そこから日数を計算しましたので、49日になりました。もし今後、実験の日付が特定できたら、その時、改めてきちんと修正することにしています。」との答えでした。少しだけ納得です。

座込みを終えて帰りがけに「平和監視時計」の前を通ると、複数のマスコミのテレビクルーが、建物の外からガラス越しに撮影していました。聞けば「今回は、マスコミにリセットする時間などの連絡がありませんでしたので、取材できず今撮影しているところです」とのことでした。これもコロナの影響でしょう。

いのちとうとし

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2021年1月18日 (月)

アメリカの「臨界前核実験」に強く抗議する

アメリカが、昨年11月にネバダ核実験場で「臨界前核実験」を実施したことが、報道で明らかになりました。アメリカが「臨界前核実験」を行ったのは、2019年2月以来で、トランプ政権では3回目です。

昨年の11月と言えば、核兵器禁止条約の批准国が50カ国に達し、同条約の発効が確定したすぐ後です。核兵器廃絶を求める国々や市民に対する挑戦といえる実験です。昨日の中国新聞は、「アメリカロスアラモス国立研究所の文書で明らかになった」としていますが、なぜこの時期に明らかになったのかと考えてみました。

一つは、核兵器禁止条約の発効まで1週間というこの時期の発表は、核兵器禁止条約に挑戦し、核戦力は絶対に手放さないというメッセージを突きつけたように私には思えます。

二つは、トランプ政権が進めてきた、「核態勢の見直し(NPR)」や「イラン核合意からの離脱」に象徴される核兵器の役割を増大させる政策への意思を、政権が交代するこの時期に改めて強調しようとしたと思えます。

いずれにしても、世界の「核兵器廃絶への流れ」に逆行する暴挙であり、あらゆる核実験に抗議し続けてきた私たちにとって、絶対に許すことのできない行為です。

アメリカの「臨界前核実験」に強く抗議します。

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ネバダ州の核施設 

もう一つ指摘しておきたいことは、この「臨界前核実験」は、ネバダ核実験場で実施されたということです。私たち広島県原水禁は、このネバダ核実験場の風下に住み、核実験により被曝した被害者の組織「シティズンズ・コール」(米国・ユタ州シーダー市)の呼びかけに応えて、1984年以来毎年1月27日に「ネバダ核実験場の閉鎖」を求めて慰霊碑前で座り込み行動を続けてきました。「ネバダ核実験場の閉鎖」は、アメリカの核実験を中止させるためには、絶対に必要であり、その第一歩になることを改めて強調したいと思います。

今回の実験は、トランプ政権が行ってきた「使える核兵器」と言われる小型核兵器の開発のために進めるための一環であり、核兵器の使用への危惧を高めるものであり、強い危惧を抱かざるを得ません。

バイデン次期政権が、この危険なトランプ政権の核政策を大きく転換させ政権となることを望まずにはいられません。

今年元日に「地球平和監視時計」の日数を確認し、今月2日のブログで「688日の日数が、このまま一日ずつ確かに刻まれ、再び0に戻ることがないようにと願わずにはいられません。」と書いたばかりですので、原爆資料館に行ってきました。「最後の核実験からの日数」は、「0704日」となっており、まだリセットされていませんでした。

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「いつリセットされるのか」と気になるものですから、資料館に問い合わせると「現在広島市が確認中です。今日はリセットすることはありません」との答えでした。それを聞いた時は、「えっ、なぜ今日でないの」「確認するってどこに尋ねるの」と思ったのですが、休日で出勤者が直接の担当者では内容でしたので、そのまま帰宅しました。

帰宅後調べてみると、前回リセットされたのは、2019年5月27日で、「最後の核実験からの日数」は、「103」だったようです。この時のリセットは、その年の2月に実施されたアメリカの臨界前核実験によるものでしたので、「0」ではなく「103」とされたのです。実験がいつ行われたのかが特定できたようです。今回、NHKも中国新聞も「11月に実施していた」としか報道していませんので、広島市がどのように実験日を特定し、「最後の核実験からの日数」が何日にするのか、今日もう一度「地球平和監視時計」を見に行き、広島市に確認したいと思います。

「核兵器廃絶広島連絡会議」が呼びかけて実施してきた核実験抗議の座込みは、今回は今日実施される予定です。

「地球平和監視時計」と「核実験抗議の座込み」の様子は、明日報告します。

いのちとうとし

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2021年1月17日 (日)

コロナ対策で重要な役割を担う保健所が半減していました

コロナ感染拡大の中で、重要な役割を果たしているのが各地の保健所です。

保健所の感染症を担当する部署からの情報をもとに都道府県は毎日「感染者数」を発表していますが、保健所への負担が集中する中で、人手不足もあり、「コールセンターの電話がつながらない」「検査が遅れる」など保健所に関わる問題を指摘する声があがっています。

コロナ禍で重要な役割を果たす保健所は、全国に何カ所あると思われますか。結論から言えば、2020年現在全国で469の保健所があります。保健所は、おおざっぱに言えば「保健所は住民が病気にならないよう予防や健康づくりを進める『予防・防波堤』の行政機関」ということです。

コロナ対策が進む中で、保健所の人員配置やシステムの問題などが指摘されていますが、私がここで問題提起したいことは、この保健所の数です。

日本の保健所は、1937年に制定された保健所法によって、最初は政府(当時の厚生省)の機関として全国に49か所設置されました。

戦後は、1947年9月5日に制定された「地域保健法」が根拠となって、保健所は地方自治体の機関として設置されています。その後少しずつ増えて続け、1992年には、全国で852保健所が設置されていました。この時が、最大数でした。

ところが、1994年に「地域保健法」が改正というか「改悪」され、その後、保健所は、どんどん減少していきました。

その推移が、下の表です。

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2020年4月現在では、469カ所に減少しています。最も多かった1992年と比べると減少数は、383保健所で減少率は45%にも達しています。ほぼ半減と言ってよいでしょう。その中でも特徴的なことは、そのうちの258か所が、90年代の8年間に減っていることです。減少数全体の67.4%という高い数字になっています。

1990年代初め始まったのが、「効率化」「無駄を省け」の大合唱による行政機構の縮小再編成、つまり行政改革です。まさに保健所の減少もこの行政改革の流れの中で進んだわけです。この時期の行政改革の先駆けは、80年代の中曽根行革ですが、90年代に入り大きな役割を果たした一人が、小沢一郎さんだったことを私は忘れることができません。

保健所は、上の表のように、設置者によって大別すると都道府県が設置するもの(約75%)と一定規模の市((1)政令市(2)中核市(3)政令で定める市(4)特別区)が設置するもの(約25%)に分かれています。

参考までに県内の保健所設置状況を紹介します。広島県は、保健所が4、支所が3となっています。最も多かった時には、12カ所ありました。広島市は、現在1保健所です。他の政令市も、保健所は1ですが、古くからの政令市例えば、横浜市は、18の支所が置かれています。広島市より後で政令市となった仙台市は、それぞれの区ごとに国支所を設置しています。中核市の福山市にも保健所があります。

感染症対策を行う保健所がいつも大きな役割を果たすようなことは、無いに越したことはありません。できるだけない方が良いのです。しかし、万が一の緊急事態に備えて準備しておかれているのが保健所だったはずです。それを崩してしまったのが、行革だったのです。、コロナ感染が深刻な時期にこそ、行革がもたらした負の遺産と向き合い検証することが、次の過ちを繰り返さないことにつながると私は思っています。

いのちとうとし

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2021年1月16日 (土)

稲岡宏蔵著「核被害の歴史 ヒロシマからフクシマまで」

13日に開催されて広島県原水禁常任理会で、このブログに毎月2回の原稿を寄せていただいている木原省治さんから一冊の本を薦められ、購入しました。

2020年12月31日に初版が発行された稲岡宏蔵著「核被害の歴史 ヒロシマからフクシマまで」です。

著者の稲岡さんは、毎年夏に開催される原水禁世界大会に大阪の仲間とともに参加されていますので、私も以前から知っています。原水禁大会広島大会では、いつも「ヒバクシャ」問題を取り上げる分科会に参加し、発言をされています。そして午後に開催される「ひろば『ヒバクを許さないつどい』」では、運営の役割を果たしてこられました。この「ヒバクを許さないつどい」は、稲岡さんたちの努力もあり、一昨年の被爆74周年原水禁大会で「Part20」(昨年は原水禁大会がオンラインとなったため開催できなかった)となるほど、継続して開催されています。

この本の「まえがき」には、びっくりすることが書かれていました。「昨2019年、被爆74周年原水禁世界大会から帰って間もなくの8月末、前頭葉に広がった悪性リンパ腫(眼)で急に倒れた。」

「核被害の歴史 ヒロシマからフクシマまで」は、373頁にも及ぶ大作です。まだ目次と一部の目を通しただけという状況ですから、この本の全てを紹介することはできませんので、ここでは、ちょっと気になったことを紹介したいと思います。

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本の帯には、次のように書かれています。表側には「被爆者をはじめ世界の人々は、核廃絶のためにどのように苦闘してきたのか」裏側には少し長文で「人類は、広島・長崎への原爆投下以来、何度も核戦争による破滅の危機に遭遇してきた。またビキニをはじめとする核実験やチェルノブイリやフクシマの原発事故は、甚大な被害と莫大なヒバクシャを新たに生み出してきた。本書は、ヒロシマからフクシマまで核時代の歴史の変遷の中で、核による『被害』と『人権』、『加害』と『責任』、具体的には、核被害者の人権と加害者の責任に焦点をあてて歴史を総括。(以下略)」と。

内容は、3部構成になっています。Ⅰの「原爆被害―人権と責任」では、被爆後から現在に至る運動の過程が要約されています。特に気がついたことは、国家補償の問題として「孫振斗裁判」と「石田原爆訴訟」が取り上げられていることと、労働組合内に結成された被爆者組織(例えば全電通被爆協)とその組織が果たしてきた役割が記載されていることです。類書の本では、触れられることのない運動の歴史です。この点で、原水禁運動の歴史を知るためには、良い教材と言えます。

Ⅱは「世界の核被害―グローバルな人権と責任」で、世界の核被害者、そして被曝線量論争などについて書かれています。ここでは、原水禁が取り組んできた「核被害者フォーラム」や「世界核被害者大会」のこともきちんと取り上げられていますので、この点でも参考になると思います。3部の中で、最もページが割かれているのが、Ⅲ「フクシマ核被害」です。稲岡さんがいま最も力を入れて取り組んでいる課題が、フクシマの被曝問題だからだと想像できます。

巻末には、「核時代の変遷と反核平和運動」の年表が付けられています。著者が「運動については筆者の周辺、関西にかなり偏っており」と断り書きを書いていますが、運動にも焦点をあてた良い年表だと思います。

と書いてきましたが、一つ気になったことがあります。「おわりに」に書かれた次のくだりです。「原発の重大事故は、核兵器と人類は共存できないだけではなく原発も人類とは共存できないことを示してきた。運動の発展が示すように、原水禁運動のスローガン『核と人類は共存できない』の核には当然、核兵器だけでなく原発・核燃料サイクルも含まれるべきである」(アンダーラインは、いのちとうとし)

この本に付された年表にもあるように、森瀧市郎先生が、「核と人類は共存できない」と最初に提唱されたのは、1975年の原水禁世界大会です。森瀧先生がいわれた「核」には、稲岡さんが言う「原発・核燃料サイクル」も含まれているどころか、ウランの採掘から始まる全ての核社会が入っているのです。そのことを改めて強調したいと思います。

繰り返すようですが、この本には他の類書にはない視点が多く盛り込まれており、定価が少し高い(税抜き3600円)のですが、一読に値すると思います。

いのちとうとし

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2021年1月15日 (金)

1月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

強い寒波が来たので9日と10日は農園には行かずひたすら家でじいーっとしていた。車は4駆ではないしスタッドレスもはいていない。11日は道路も大丈夫だろうとふんで昼過ぎにつくように家族みんなで出発した。着くと妻と娘は墓に参り、息子はテレビにかじりつき、私は農園の周囲の巡回と挿し木用にブルーベリーの穂木を採取するにとどめ2時間あまり滞在して帰途についた。連休明けから日中の気温が上がってきたので体も少しづつほぐれてきた。

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寒々とした風景が広がる。

①.ブルーベリー畑も葉がすっかり落ちて地面の雪の白さがモザイク模様に広がる。

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②.後ろの山は茶臼山。山頂の周囲には戦国時代、乃美茶臼山城という古城があった。

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③.家の納屋の樋にできたつらら。屋根の古くなった太陽熱温水器の水漏れで滴る水が凍りつららになってしまった。農園のある場所の標高は約400mあるのでやっぱり寒の入りの季節は氷点下の気温で厳しい。つららは棒でぱしぱしと叩き落す。ばりばり、どさっと落ちる音がした。

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④.庭の木の下の方にできた細長いつらら。

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⑤.里山の早生のブルーベリー園に行く道には動物の足跡が点々と続く。墓参りに行った母娘はオスのキジと出会ったそうで雪の上に足跡としっぽの跡らしい筋が残っていたと話してくれた。鳴き声は聞こえたので今日は農園の周囲で過ごしているようだ。

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作業らしい作業はせずに4時前に帰ったのだが、里山の早生の木から挿し木用の穂木を少しばかり採取した。

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農園の冷凍庫から持ち帰ったブルーベリーで今年最初のジャムづくり。今回はグラニュー糖たっぷりで煮込む。

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14日(木)。暖かくなった午後から晩生のブルーベリーの穂木の採取に農園に行く。

①.場所は里山で、採取する品種はホームベルにする。丸いスパイラル状の籠に採取した穂木を切ったはしから入れていく。

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②.籠がいっぱいになると畑のそばの野焼きする場所に行き切った穂木の簡単な選別と長さ調整をして第2森の工房AMAに持ち帰り水を張ったバケツに入れて作業終了。次の日に森の工房やの・生活介護の作業で10~11センチの長さに切りビニールの袋に入れて冷蔵保存し、3月に挿し木床に挿す。

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③.ブルーベリーの花芽。早生のスパルタンという品種。大きい実が付きとてもおいしい。

 

2021年1月15日

社会福祉法人安芸の郷

 理事長 遊川和良

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2021年1月14日 (木)

2021年1月広島県原水禁常任理事会を開催

今年最初の広島県原水禁常任理事会が、昨日開催されました。

1月に開催する常任理事会の主な議題は、毎年1月27日開催する「広島県原水禁総会」に提出する議案書を協議することです。

広島県でもコロナの感染拡大の終息が見通せない状況ですが、31人中18名の代表委員、常任理事の参加がありました。その主な討議内容を報告します。

報告事項は、12月3日に開催された「原水爆禁止日本会議臨時全国委員会」の決定事項です。この臨時全国委員会では、広島県原水禁から提起し検討が進められてきた役員体制に関わる規約改正が行われました。その内容は、会の代表者を1名の議長体制から「若干名の共同議長」制度に変更することです。臨時全国委員会は、書面開催となりましたが、全員一致の賛成で、承認されました。この規約改正よって、本年4月に開催される「原水爆禁止日本会議全国総会」で、2021年度の新たな共同議長が選出されることになります。共同議長は、当面3名でスタートすることが検討されています。

その他に、このブログでも紹介してきました「高校生平和大使学習・フィールドワーク」や「原爆ドーム世界遺産登録記念集会」などの活動が報告され、承認されました。

協議事項は、次の当面する取り組みについて、確認しました。

「核兵器禁止条約発効に関する取組」は次の行動が計画されています。

①原水禁国民会議が主催し開催する「日米韓国際シンポジウム-核兵器禁止条約発効後の課題と展望-」(仮称)と題した「発効記念国際シンポジウム」です。1月23日(土)10時から12時まで、YouTube原水禁チャンネル で、生中継されます。日本側のパネリストは、秋葉忠利原水禁国民会議顧問(広島県原水禁代表委員)です。多くの人に視聴してほしいと思います。

②他の二つは共同行動です。

一つは、1月22日午後6時から原爆ドーム前で実施される核兵器禁止条約を求める共同行動実行委員会主催の「歓迎キャンドルメッセージ」です。もう一つは、翌日23日午後3時から開催される「条約発効記念のつどい」です。この集会は、無観客で行われ、オンライン配信されることになっています。

「ネバダ・デー座り込み行動」を今年も1月27日12時15分から30分間、慰霊碑前実施することを決定しました。コロナ感染拡大状況を考慮し、今年はソーシャルディスタンスを確保するということで、30名規模で実施します。ただし、「今後の感染状況によっては中止することもあり得る」ことも併せて確認しました。

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昨年の広島県原水禁総会

最後に、「広島県原水禁第90回総会」の議案書(案)が、事務局長から提案されました。これに対し、原発を巡る状況を補強する意見や、「核兵器禁止条約批准を政府に求める自治体決議を促進するための活動をどうするのか」などの意見が出されました。それらを含め、1月20日までにそれぞれの意見を出すことを確認し、議案書案の審議を終えました。そして今年の総会は次の要領で実施することを決定しました。

①今年の総会は、第90回という節目ですが、総会は開催せず、書面決議とする。

②議案は、1月26日に発送し、賛否は書面によって2月2日までに送付する。

③各組織代表1名の決議とする。

その他にもいくつか行動予定を確認しましたが、ここでは省略します。

今年は、「核兵器禁止条約」の発効、東京電力福島第一原子力発電所底から10周年、そして夏には今年に延期されたNPT再検討会議の開催など節目の年になりますが、広島県原水禁としての役割が十分に果たせるよう努力することを全体で確認して、常任理事会を終了しました。

いのちとうとし

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2021年1月13日 (水)

軍歴と原爆死没者調査-その2

これからが「軍歴と原爆死没者調査」の本論です。

原爆犠牲者や一般戦災者の被害に対し国による補償がされていませんが、軍人・軍属に対しては「国との身分関係」があったとして「戦傷病者戦没者遺族等援護法」等によって、その遺族に対して「弔慰金」や「遺族年金」などが支給されています。しかも、援護の対象者を拡大しながらです。

ここで指摘したいのは、この法律を適用して、もれなく「弔慰金」や「遺族年金」を支給するためには、当たり前のことですが「戦没者の遺族」ということがきちんと特定されていなければならないということです。

法の適用を受けることのできる受給者を決めるための基となっているが、「兵籍簿」のはずです。昨日紹介したように「兵籍簿」には、軍隊に召集されてから除隊されるまでの履歴が記載されていますから、もし戦死した場合には「いつ、どこで亡くなった」のかが、きちんと記録されていなければなりません。

1945年8月6日に広島で原爆によって死没した人たちの「兵籍簿」にも、そのことが明記されているはずです。そうでなければ、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」による援護を受けることができないからです。原爆による犠牲も、当然のこと「戦死」ですから、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が適用されているはずです。広島で原爆の犠牲になった軍人だけが、この枠から外れていることは、考えられないことです。考えられないというよりも、ありえないことです。そうでなければ、同じ戦時中の犠牲でありながら、原爆の犠牲者は援護措置を受けられないという差別を受けることになってしまいます。

ところで、広島市は、原爆被害の実態、特に人的被害の解明を目的として、1969年から調査活動を行い、特に1979年から「原爆被爆者被災調査」(1982年からは「原爆被爆者動態調査」)を開始し、今も継続して調査を進めています。その結果、原爆投下から1945年末までに犠牲となった人たちのうち、最新の調査結果では、2020年3月末現在89,030人の氏名が明らかになっています。残念ながら、14万人±1万人と言われる犠牲者数からは、程遠い数です。この一年間で、わずかですが、5名の氏名が明らかになっています。この5名は、慰霊碑に納められている死没者名簿への記載の届けがあった」ことで新しく判明したそうです。このことは、この時期の調査がいかに難しいかを教えています。

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しかし、今からでも可能な調査はあるというのが私の考えです。それは「軍人の犠牲者」の実態についてです。実は、昨年秋、広島市の担当課を訪れ、「軍人の犠牲者について、軍籍簿から調査されたことがありますか。これを調べれば、かなり正確に人数と名前がわかるのではないですか」と問題提起したことがあります。その時の答えは、「軍人の名簿は持っています。ただそれで全員かどうか不明なのです。言われたような方法では調べたことがないように思いますので、検討してみます。」という返事でした。

その時、「都道府県が所有していますので、全てを広島市が調べることができるのかという問題があります」とのことでした。その時は、このことをあまり深く考えていませんでした。

今回教えられたことですが、確かに陸軍の「軍籍簿」は、各都道府県が所有しています。ですから広島市の担当者が指摘されるように、確かに「広島市が、各都道府県に対し調査を依頼しただけで、果たしてきちんとした答えが返ってくるだろうか」という問題はありそうです。

しかし、この「原爆被爆者動態調査」は、国の予算付けられて実施している事業です。本来国が行うべき「調査」を、ある意味では広島市が肩代わりして行っているとも言えます。ですから、国が主導して、厚労省が、各都道府県に対して、きちんとした調査依頼を出せば、可能な調査で、広島市の心配は不必要になるはずです。実は、国が主導して調査を行った前例が存在するのです。

それは、戦死者を靖国神社に合祀するために行った調査です。厚生省(当時)は、1956年に全国の都道府県に通達を出し、「遺族援護法」と「恩給法」のいずれかの適用を受ける戦死者の調査を行っています。その調査は、一宗教法人に過ぎない靖国神社のために行い、その調査で明らかになった名簿を渡し、合祀に協力したという問題がありますが、ここでは「自治体に依頼して調査が行われた」という事実だけに着目します。

この前例に倣えば、国が通達を出せば、「原爆で犠牲になった軍人」を調べることは、簡単にできることです。

仮にその調査結果が、今広島市が所有する「軍人名簿」とダブっていたとしても、調査する価値は十二分にすぎるほどあると思います。この調査を実施すれば、空白と思われていた軍人の原爆犠牲の実態をもう少し明らかにすることができるのです。

そのことによって、原爆被害の実態を、少しでも事実に近づけることができると私は思っています。

いのちとうとし

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2021年1月12日 (火)

軍歴と原爆死没者調査

1月7日の「父の入営」を読んでいただいたお二人から、貴重なアドバイスをいただきました。

お一人からは「軍歴を、ご存知ですか。陸軍だと、残っています。広島県庁に、尋ねる。ありました。」と書かれ、後に自分のお父さんの軍歴を調べたことが書かれていました。

もうお一人からは、「私は、母方の祖父のことで、昨年、広島県庁に問い合わせたことを思い出しました。」「知人から、広島県は、昭和初期からの兵籍簿が疎開してあったため、本籍が広島県内で陸軍に入営していれば詳細な軍歴の記録があると教えてもらい、県庁に電話して名前を言えば、記録があるかわかるというので、援護恩給グループの直通電話(082-513-3036)へ問い合わせをしてみたのです。」と教えていただきました。

貴重な情報です。原爆で焼失したと思われていた「兵籍簿」が、疎開によって残っていたのです。

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「父の入営」を書くまで、父の軍歴を調べようと思ったことはなかったのですが、これを機会にきちんと調べてみたいと思います。シベリア抑留からいつ帰国したかもわかるはずですから。

父の軍歴とは別に、以前から「軍歴」というか「兵籍簿」(今回初めて正式な名前を知ったのですが)については、強い関心を持っていたのです。それは、以前何度か書いたことのある「原爆犠牲者数」を調べるためです。

「原爆犠牲者数」がはっきりしない大きな理由の一つに「当時、広島に軍人が何人いたのかはっきりしない」ということが挙げられています。もう一つの理由となっているのは「朝鮮半島出身者」についてです。「朝鮮半島出身者」の被害については、様々な推定数が、発表さえています。しかしまさに「推定」と言うほかありません。軍人以上に具体的な資料が無いためです。「当選半島出身者の被害」の問題は非常に重要な問題ですが、別の機会に改めて検証することにして、今日は「軍人」について考えてみたいと思います。

私は、「原爆犠牲者数がはっきりしない」理由の一つに「軍人」があげられていることにずっと疑問を感じていました。だいぶ前になりますが「軍人の犠牲者について、誰かこれまでに調べた人はいないのか」と、あるマスコミ関係者に聞いたことがあります。「爆心地復元地図作りに努力された広大の湯崎稔教授が、当時広島にいた部隊の生存者をさがして、手紙を送り調査をされたことがあったようですが、なかなか情報を提供してもらえず、断念されたようです。その他には、あまり記憶がないですね」との答えでした。湯崎教授は、広島県の湯崎知事のお父さんですが、1984年に54歳という若さで亡くなられました。もしもっと長生きされておれば、この調査も別の形で進んだかもしれないと悔やまれます。湯崎先生は、私の知る限りですが、1982年の「平和のためのヒロシマ行動」やその年の統一原水禁世界大会の実行委員会で、学者文化人の運営委員として活躍されていました。当時私は、その事務局員を務めていましたので、湯崎先生とは何度かお話をしたことがあります。飲み屋にも連れて行ってもらったこともありますので、湯崎先生のことはよく覚えています。ただそのころは、まだ原爆犠牲者数など深く考えることはありませんでしたので、先生にそんな大事なことを聞くことなどありません。今から思えば、貴重な時間だったのにと悔やまれます。

と書いているうち、いつものように前置きが長くなってしまいましたので、本題の「軍歴と原爆死没者調査」については、明日に引き継ぎます。

いのちとうとし

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2021年1月11日 (月)

新たな決意で核のない平和な世界を目指そう・その2 ――そのためにも、「成功例」から学ぼう――

新たな決意で核のない平和な世界を目指そう・その2

――そのためにも、「成功例」から学ぼう――

 

前回は、核兵器禁止条約が発効した後の目標として、「2040ビジョン」を提案しました。

2040ビジョン

  • 出発点: 今
  • 最終目標: 2040年までに、核なき世界の実現と核の脅威からの解放を達成
  • 中間目標: 2030年までに、日本政府が核兵器禁止条約を批准する

この目標達成のために、これまでの「成功例」から教訓を汲んで、さらには新機軸も加えてがばろうという趣旨なのですが、まずは、核兵器禁止条約以前に達成された重要な成果をいくつか挙げておきましょう。

  • 1963年の部分核停条約は、大気圏内での核実験を禁止しました。これは、ビキニ環礁でのアメリカの核実験の結果、第五福竜丸が被曝したことから核実験禁止運動が起り、1955年には原水爆禁止世界大会が開かれるという、世界規模での核実験と核兵器に反対する運動の成果でした。

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  • しかし、フランスと中国はこの条約を無視。特にフランスは南太平洋で大気中核実験を続けました。それに対抗してオーストラリアとニュージーランドが1973年に国際司法裁判所 (ICJ) に提訴し、フランスは核実験を中止しました。それに力を得て、核兵器が国際法違反であることを、ICJの勧告的意見として認定して貰う世界法廷運動 (WCP) が1986年に始まり、その結果、WHOと国連総会における多数決の決議として、ICJに勧告的意見をまとめるように要請することが決りました。それに応えて1996年にICJは、「一般的には」という条件付きではありますが、核兵器の使用と使用するという脅迫は国際法違反であることを認めました。
  • ICJによる勧告的意見の採択要請が世界的に支持されたのは、1970年代から1980年代にかけて起きた世界的な反核運動があったからです。その象徴が1978年、1982年、1988年に開かれた、第一回から第三回までの国連軍縮特別総会です。1982年のニューヨークにおける100万人デモ・集会は、忘れられない出来事でした。アメリカでの核凍結運動がその中心的存在だったのですが、遂には、1986年にレイキャビックで開かれたアメリカのレーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長との首脳会談で、全面的核廃絶の合意に達するという成果を挙げました。これは、ある反核運動のリーダーの言葉を借りると、「High Priesthood of Nuclear Technocracy」によって葬り去られましたが、世界の世論が二人の首脳の間の合意という大きな成果を挙げていたことはもっと良く知られるべきですし、このような合意を実現させるための次のステップについても、私たちがしっかり準備をしておくべきことを教えてくれています。
  • 勧告的意見の重要な影響が、スコットランドのグリーノックという地域における裁判に現れました。1999年10月21日、スコットランドのグリーノック裁判所の判決では、「国際トライデント・プラウシェアー 2000」に属するアンジー・ゼルダー、ウラ・ローダー、エレン・モクスリーの3人が無罪になりました。この3人は、トライデント潜水艦の運用に必要な実験器具を破壊した罪で告訴されていたのですが、被告の無罪主張の根拠は、ICJ勧告的意見とニュルンベルグ原則でした。もっとも、この判決は後にスコットランドの刑事上級裁判所で覆されたのですが、無罪そのものは確定しており、核廃絶運動における非暴力・抵抗という手段が国際的に認められたという大きな成果です。
  • 勧告的意見と同じ年、1996年に採択された包括的核実験禁止条約は、まだ効力を持っていませんが、それでも1996年以降の世界の核実験数は、それ以前と比べて限りなく「ゼロ」に近付いています。これも、世界の世論の力です。
  • 1972年の生物兵器禁止条約、1983年の特定通常兵器使用禁止制限条約、1992年の化学兵器禁止条約、そして世界的に注目された対人地雷禁止条約は1999年に発効しています。これらの条約もWCPやTPNWと同様の作戦に依存しているのですが、核兵器廃絶に注目するという立場から、詳細は割愛します。
  • 2014年には、二つの大きな出来事がありました。一つは、マーシャル諸島共和国が、核保有9カ国をICJに提訴したことです。それは、「誠実な交渉義務」を規定しているNPTの6条に違反しているという訴えです。事実、これらの国々は、核兵器禁止のための様々な機会を無視し続けて来ていましたし、その後、国連総意が設置した「公開作業部会 (OEWGと略)」には不参加でした。管轄権の問題で、ICJからは却下されましたが、世界世論を喚起し、多くの支持を得る上では重要な役割を果しました。
  • もう一つは、スコットランドがイギリスから独立すべきかどうかについての住民投票がスコットランドで実施されたことです。独立の目的は、外交・防衛や予算の面でイギリスからの独立を目指すことでしたが、端的に表現すると、核兵器を廃絶して非核保有国として独立し、NATOからも脱退するということなのです。残念ながら、独立には至りませんでしたが、イギリスがEUから離脱した現在では独立賛成派が勝つ可能性も見えて来ています。
  • そして、2017年に核兵器禁止条約が採択されました。

それでは、これらの成功例を元にして「2040ビジョン」実現のために、まずどのような出発点があり得るのかについて、次回から考えて行きましょう。

[2021/1/11 イライザ]

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2021年1月10日 (日)

21年、原発・エネルギー政策をめぐる課題

今年最初の私の担当となりました。本年もよろしくお願いします。原発やエネルギー問題、毎年のように「今年は正念場」と言ってるような気がしていて、そのインパクトも薄れているようにも思いますが、今年は本気で正念場だと思っています。

その理由は何といっても、この夏場に向けて改訂がされる予定の「エネルギー基本計画」です。だいたい3年毎に改訂されているのですから、「そう変化は無いだろう」と思われるかも知れませんが、あえてそれをいうのは、今年が福島原発事故から10年という節目だからです。

これまで原発推進側も、10年まではそれでも「大人しくしておこう」という感じでしたが、ここで方針転換を掛けようという姿勢が見えだしました。その象徴的な出来事は、福島原発事故の前、福島県双葉町に掲げられていた「原子力明るい未来のエネルギー」の標語の看板、事故後は取り外されていましたが、場所は同じ双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」に展示されることが決まったということです。

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そのキッカケになったのは菅義偉内閣が誕生し、10月26日の最初の所信表明演説で「2050年温室効果ガスの排出をゼロにする」と大見えをきったことです。温室効果ガスの排出をゼロにするということは評価されることですが、これを待っていたかのように、「二酸化炭素を出さない原子力発電必要論」が大きく頭を出し始めました。

菅総理の演説からたったの2か月の12月25日、政府は「グリーン成長戦略」を発表しました。「脱炭素」という誰もがうなずく「錦の御旗」をたてに、重点14分野の政策を示し、その中には原発新増設も明記しました。

中身の詳しい内容は別の機会に書かせていただくとして、エネルギー基本計画改訂の議論が曲りなりにも行われている中で、2050年とはいえ、政府が先んじてこのような重要な課題を国民的議論にかけることなく発表したことです。これを示してマスコミや世論がどういう反応を示すだろうかと、テストしたかのようにしか見えないのです。それも再生可能エネルギーの中に原発を含めるという、ふてぶてしさです。

問題点がたくさん在りすぎて一つに絞ることは不可能ですが、あえていえばエネルギー、イクオール電気だという考え、2050年には電力需要が現在よりも30%~50%増えると見込んでいることです。2050年、現在30歳の人も60歳になります。71歳の僕は101歳です。ほとんどの人にとっては、現実的な問題としてはなかなか捉えられないことです。

今、確実にいえるのは今後エネルギー需要、電力需要は確実に減少すること、そして同時に再エネのコストはますます低下し、そのことで再エネの将来性や価値が上昇するというのが現状です。

地球温暖化防止対策の国際ルール「パリ協定」が採択されて、昨年12月に丸5年が経過しました。目標達成を目指す世界中の国や地域は120を超えました。米国のバイデンさんも大統領に就任したら、すぐに「パリ協定」に復帰するとしています。世界広しとはいえ「温暖化防止のために原発を」という国は、僕の知っている限りでも4~5カ国だと思います。

「RE100」というのがあります。これは使用する電力の100%を再生可能エネルギーにより発電された電力にする事に取り組んでいる企業が加盟している国際的な企業連合です。昨年12月15日現在、日本の企業もこれに45社が加盟しています。同じく11月、キリンビールも加盟しました。僕はこの時から「ビールはキリン」にしました。

木原省治

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2021年1月 9日 (土)

寒牡丹を見るため、この冬一番と言われる寒さの中縮景園に行きました

昨日は、午前11前にようやく0℃を超えるという寒さの厳しい日でした。予報では、雪が降るといわれていましたが、市内中心部では元日よりも少なかったようです。

この寒さの中、朝早くから縮景園に行ってきました。年明けのNHK広島の「お好みワイド」で、紹介された「寒牡丹」を見るためです。

元日も家の周りには雪はなかったのですが、平和公園に行くと芝生広場は真っ白になっていたように、ひょっとすると縮景園では、うっすらと雪化粧した風景が見られるかなと、開門時間の午前9時をめざして出かけました。ちなみにこの時刻の気温は、マイナス2℃でした。

縮景園に着くと、ちょうど門が開きました。冠木門(かぶらぎもん)の前には大きな門松が飾られています。

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係の人に訪ねて、牡丹園をめざします。門を正面に見える数寄屋風書院造の清風館前から右手に延びる園路に沿って寒牡丹が並んでします。半分は、雪囲いの藁でおおわれています。

ところがよく見ると、大きな花房は、茎が曲がり、多くが下を向き萎れた感じになっており、もう盛りを過ぎたかのような花の様子です。

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残念と思いながらも、何枚か写真を撮りました。

せっかく来たのだからと、園内を一回りすることにしました。園の中心に広がる池に架かるランドマークの跨虹橋に朝日があたり、きれいな景色が広がっています。時計回りと反対に、ゆっくりと景色を眺めながら進みます。入園している人は、ほんの数人です。被爆イチョウの木などを見ながら、次には西側にある梅園をめざしました。数本ですが、すでに開花した木を見つけることができました。たまたまでしょうか、紅梅、白梅の両方が花をつけていました。

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本格的な梅の開花にはまだまだ時間がかかりそうです。さらに進み園を一周し、泉水亭の裏にある桜の標準木の蕾を見ることにしました。当然のことですが、蕾とも呼べない芽が出ていますが、まだまだ小さく硬いままです。

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清風館前まで戻って竹垣のうちを見ると、そこに植えられた「寒牡丹」が、すっくと茎を伸ばし、見事な花の姿を見せています。

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どうも、私が入園するのが早すぎたようです。「今日はもうだめか」とあきらめていた牡丹園に戻ることにしました。さっき見た時とはずいぶん違い、多くの株の花が、元気になり、きれいな姿を見せています。

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あわてて帰らなくてよかったと思います。それでも、まだなん株かは、萎れたままですので、もう少し園に留まることにしました。待っている間に、以前にここを訪れた時見たことのある風景に出会います。結婚写真を撮る人たちです。厳しい寒さですが、良い天気ですので、きっと良い写真が撮れることでしょう。

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入園してから1時間20分、なかなかしゃきっとしなかった黄色の花をつけた株もようやく、花を上向きにしました。

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この1枚を撮り終えて、退園することにしました。途中でウグイスの姿を見つけましたが、鳴き声を聞くことはありません。まだまだ春は遠いと感じた縮景園巡りでした。

いのちとうとし

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2021年1月 8日 (金)

1月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

正月3が日はどこにも出かけることなく、4日に重い腰を上げて農園に行き農作業を午後から数時間行った。少しばかり残った雪が残る中ブルーベリーの剪定を行ったり、たまったブルーベリーや雑木の枝を燃やしたりして早めに帰途についた。また、安芸の郷の職員と一緒にドイツから来ている若者アンディさんも来園。雑木の野焼きを手伝い、竹を切る体験をし、きな粉餅をふるまいなどして異国の農業と生活の体験をしてもらった。

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元日朝、うっすらと雪。自宅のベランダにスズメが来ている。去年12月から農園の蔵の中のコメの貯蔵庫にあった食べられそうにない古いコメを持ち帰り鳥寄せにひとつかみづつ毎朝ベランダにまいているので今朝も姿を見せた。

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1月4日(月)。安芸の郷はこの日まで休みなので農園で作業開始。

①.正月に降った雪がブルーベリー畑ののり面に少し残っている。

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②.里山の早生のブルーベリー園は北向きで雪が一面残っている。1列ほど剪定を行う。

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③.安芸の郷の職員と、昨年12月中旬から森の工房やので活動を始めた独日フォーラム派遣のベルリンっ子のアンディさんの2人が来園。早速ブルーベリーや雑木のたまった枝を燃やす作業を手伝ってもらう。

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④.2時間余りで全部燃やした後は休憩。きな粉餅、醤油をつけた餅を一緒に食べる。どちらも「おいしい」と7個をペロリ。

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⑤.休憩後、もう作業も早じまいなのでドイツにはない竹を切る体験をしてもらう。竹用のよく切れるのこぎりで力任せに4~5本切り、枝を払い2mくらいに切り分けたあとコップやペン立て用に2つ節の際からカットして持ち帰る。両手に持ったアンディさんは嬉しそうだった。

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⑥.畑の晩生のブルーベリーは雪も降ったせいかすっかり落葉している。

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⑦.春と違って冬色ばかり。

  ・ヤブランの実

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  ・ナンテンの実

(アンディさんも珍しそうにスマホで撮影していた)

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1月7日(木)朝の自宅ベランダのメジロ。スズメの来訪をきっかけにミカンの輪切りをバラの鉢の中においている。スズメも20羽くらい来るようになりしばらくは毎朝にぎやかだ。

 

【あとがき】 東広島市豊栄町にあるブルーベリー農園は妻の実家の田んぼと松くい虫で枯れた里山を再利用して2000年と2001年の2年越しで1100本のブルーベリーを当時の障害者の通う安芸区の安芸共同作業所、共同作業所みみずく、大崎上島のふれあい作業所の協力を得て両年とも一日で植えるという元気あふれる植樹をして今日に至っている(その後これらの作業所は社会福祉法人化を実現している)。ここで収穫したブルーベリーの実は2003年10月に法人化を実現した安芸の郷に納品して利用者の工賃確保に資するものとして続けられている。標高約400mの場所にあるこの農園の実はおいしいと評価を頂き、これを励みにその後の栽培管理は安芸区船越の自宅から夫婦、家族の週末農業で行っている。収穫時には安芸の郷、農園の友人知人の援農があり、人と人のつながりは広がり続けている。

2021年1月8日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年1月 7日 (木)

父の入営

昨年末、東京に住む姉(6人兄弟の2番目)から、一枚のメモ書き(と言ってもパソコンで打ち直したもの)が、メールで届きました。

このメモ書きは、姉が母の生前中に聞き取った満州(現在の中華人民共和国 遼寧省、東北省)在住時代の家族の動向が、時系列で簡単に記されたものです。私の両親は、とも水飲百姓の家に生まれたと聞いていますので、一旗揚げようと仕事を求めて、1934年(昭和9年)に当時の満州国(以下「中国」と書く)の奉天(現「瀋陽市」)にわたり、敗戦をそこで迎えました。

このメモには、兄、姉の生年や学校名まではっきりと書かれた学校歴が、年代を追ってきちんと整理をされています。私の兄弟のうち、両親が結婚してすぐに生まれた長男と戦後生まれの私を除く4人は、中国の生れですが、その出生地もこのメモで確認できました。

もちろん子どもたちのことだけでなく、中国にわたって以来、父がどんなところで働いていたか、家族がどこに住んでいたかも書かれています。

姉が、いつ頃母に聞いて書いたメモかはっきりしませんが、母の晩年の頃のことは間違いありません。それにしては、びっくりするぐらい地名や学校名がはっきりと書かれていますので、母の記憶力の確かさにびっくりします。何か自分なりのメモでも書いていたのかもしれません。

このメモで一番びっくりしたのは「20年8月11日    信二入営」と書かれた一行です。

信二は、私の父の名前です。

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現在わが家で唯一所有する父の写真

父が、兵役年齢である40歳を超えて、終戦間際に現地召集されたことは何となく知っていました。召集令状が届いたのが「確か終戦間際の昭和20年(1945年)7月26日だった」ということだけは、記憶していましたが、入営日については、何故か今まで関心を持ったことがありませんでした。

以前から、召集令状が届いた日の7月26日の日付でさえ、もうすぐ終戦だったのにという思いを持っていたのですが、入営日が終戦日まであと4日という8月11日だったことにびっくりしました。この日付を見た時、余計に「もし」という思いを強くしたのです。

広島、長崎への原爆投下もそうですが、もう少し終戦の決断が早ければ、父の2年間のシベリア抑留も、そして母が一人で、満1歳になるかならずかの幼子を初め5人の子どもたちを連れての帰国の苦労もなかったはずだとどうしても思えて仕方がありません。

このメモには他にも大切なことが書かれていました。

一つは、父が入営してすぐの8月13日から15日まで残された家族6人は、場所ははっきりしませんが、疎開していたということです。13日からと書きましたが、メールに書かれた姉のメモによれば、疎開先に着いた日に終戦を迎えたそうです。

この疎開は、きっと職業軍人だった叔父(父の弟)の勧めがあったからだと思います。そう思うのは、私のすぐ上の兄(三男)は治(おさむ)という名前ですが、この名前は、叔父が「もうすぐ戦争が終わるから」と付けてくれたそうです。軍人だった叔父には、当時の戦況(ソ連軍の侵攻、終戦間近)がよくわかっていたのでしょう。この疎開があったから私の家族は、侵攻してきたソ連軍の被害から免れることができたと想像できます。

もう一つは、家族が帰国することになった港のことです。旧満州から帰国する時、朝鮮半島を南下し、苦労したという話を多く聞いていました。ですから私は、ずっと「わが家もそうだったのだ」と勝手に想像していました。ところが今回のメモで、わが家は、朝鮮半島は通らず、中国の遼寧省葫蘆島(ころとう)という港からの引き上げだったことがわかりました。

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姉のメモでは、「胡了島」となっていましたが、その前に「奉天錦州を経て胡了島にて出航待ち」と書かれていましたので、調べてみると「葫蘆島」だということがわかりました。ここからは満蒙開拓団など多くの人たちが、引き揚げています。わが家が、この港を出港したのは、昭和21年(1946年)6月2日、そして6日後の6月8日に舞鶴港に上陸しています。母に連れられて子ども5人が、無事に帰国しました。

姉が送ってくれた1枚のメモからわかったことです。たった1枚のメモでしたが、以前から知りたいと思っていた当時の家族の様子を少しだけですが私に教えてくれました。

いのちとうとし

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2021年1月 6日 (水)

ヒロシマとベトナム(その20-2)-技能実習生問題を考える

「同意書」や「契約書」で「恋愛禁止」「妊娠したら強制帰国」・・・・

下の写真は、「外国人の技能実習生が妊娠し、強制帰国や中絶を迫られる例が相次いでいる。受け入れ機関側から『恋愛禁止』や『妊娠したら罰金』と宣告されるケースもあり、専門家は『人権上問題だ』と指摘している。」という記事とともに2018年121日の「朝日DIGTAL」に掲載されたものです。

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私も以前、技能実習生から「異性との交際は禁じられている」ことや「単独行動は許されず、コンビニに行くのでも複数」など聞いたことがあります。最近では耳にしませんが「携帯を会社に預ける」という実習生もいました。いずれにしても、富山地裁判決が出されて8年、こうした事案が減るどことか増えていることに対する政府の責任は大きく重いと思います。

 

 政府の不誠実な人権侵害防止対応

「特定技能制度」新設を目前に控えた20192月、立憲民主党の阿部知子衆議院議員が、「外国人技能実習生に対する妊娠禁止規定は民法違反とした判決があること等に関する質問主意書」を出していました。それは、「妊娠禁止規定は民法第90条違反」と規定した2013年の富山地裁判決に基づき、技能実習生に対する人権侵害を防ぐための政府の対応を質すものです。技能実習生支援団体が政府に通知していた「契約書」の事例を示し、「この事例を認識した後、どのような対処をしたのか」、また「妊娠禁止条項を記載した契約書が他にも結ばれていないか、送出機関、技能実習実施者、監理団体に対して、一斉に調査をかけるべきではないか」など、14項目について質問しています。

対する政府「答弁書」は、(支援団体が政府に送った「妊娠禁止項目」記載の「契約書」について)「『この事例』の具体的に意味するところが明らかではないため、お尋ねについてお答えすることは困難」、(「妊娠禁止条項」を記載した契約書に関して)「調査を行う予定はない」とし、「相手国政府との定期的な情報交換と送出機関への説明会を通じて・・・周知を図っている。外国人技能実習機構を通して実習実施者及び管理団体に周知するよう求めてゆく」と、まったく真剣さを欠いた不誠実で無責任極まりない姿勢です。

 

犠牲者を出さないために

政府は、直ちに「妊娠禁止条項」など人権に関わる違法不当な「契約書」や「同意書」についての実態調査を技能実習生の受入事業所と管理団体で実施、違反があれば厳しく措置。相手国政府を通して送出機関への周知徹底、違法性がある送出機関からの受け入れ停止などの断固とした処置を講ずる必要があります。

しかし、これだけでは不十分です。すでに、「契約書」や「同意書」から「妊娠禁止条項」などの記載を削除している事業所や研修機関、管理団体もあるでしょう。しかし、実態は生きています。送出機関で受ける日本での就労や生活上の注意事項など派遣前教育で、「妊娠したら帰国」と擦り込まれます。その意味で、送り出し機関の研修内容を含めたチェックも必要です。

直ちにやるべきこと、できることは国だけに限りません。技能実習制度の所掌が自治体になく、その限界性があるにしても、転入時の行政手続き等でのオリエンテェーションを通した周知と日常的な情報展開、技能実習生受入事業所の把握と訪問など着手すべき課題は多くあります。

次回(2月)は、こうした人権問題に関わる「契約書」や「同意書」が実習生を縛っている背景として、日本に来るまでに多額の借金を背負わざるを得ない技能実習制度の実態について見てゆきたいと思います。

(2021年1月5日、あかたつ)

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2021年1月 5日 (火)

ヒロシマとベトナム(その20-1)―技能実習生問題を考える

技能実習生の妊娠・出産に関わる「事件」相次ぐ

昨年12月5日の「ヒロシマとベトナム(その19)」で、11月に東広島市で発生したベトナム人技能実習生の「幼児遺体遺棄事件」をとりあげました。この「事件」は、単に一人のベトナム人技能実習生が起こした「事件」に留まらない背景と課題が横たわっています。今回から幾度か、この問題を考えてゆきたいと思います。

11月の「事件」発生後、12月4日の「幼児殺害で再逮捕」、12月11日の「母子守る制度『周知不足』」、12月25日の「保護責任者遺棄致死と死体遺棄の罪で起訴」との報道を目にされた方も多いかと思います。

少なからぬ皆さんから「なぜ、相談できなかったのか」、「誰も(妊娠に)気づかなかったのか」という声をお聞きしますが、「妊娠すればベトナムに帰国させられる」という趣旨の供述が報道されていたように、この「事件」の背景に、「妊娠すれば帰国させられる」という問題があります。

同様の「事件」を調べてみると、2017年に栃木県でベトナム人技能実習生が妊娠4ヶ月・死産の幼児遺体遺棄、2018年に川崎市で中国人技能実習生が生後間もない男児の保護者責任遺棄、2019年に福岡県でベトナム人技能実習生が男児死産・遺棄、2020年に岡山県でベトナム人技能実習生が堕胎・遺体遺棄、東広島市の「事件」直後にも熊本県でベトナム人技能実習生が双子の嬰児遺体遺棄と相次いでいます。しかも、年々増加傾向にあります。それらのいずれもが、「妊娠すれば母国に帰らされる」という問題が背景に横たわっています。 

こうした「事件」発覚は氷山の一角に過ぎず、技能実習生の間で出回る堕胎薬で「密かに処理される」ケースも少なくないと聞きます。

いずれにしても、これらのことから、自分の子どもの保護責任遺棄や遺体遺棄「事件」まで起こしてしまう背景に、「妊娠したら帰国しなければならない」という強力なプレッシャーがあることは明らかです。

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盆踊りを楽しむベトナム人技能実習生(事件とは関係ありません)

 

「妊娠禁止規定」違法判決後も 生き続ける強制帰国のプレッシャー

2013年7月17日、富山地裁で富山市内の食品加工会社で技能実習生として働いていた中国人女性(当時22歳)が、妊娠判明と同時に帰国を迫られて流産し、不当に解雇されたとして、実習先の会社と受入団体に解雇無効と630万円の損害賠償などを求めた裁判の判決が下されました。

「妊娠禁止規定により技能実習を打ち切り、即時帰国を求めることは、労働関係法令の適用により技能実習生の法的保護を図るという技能実習制度の趣旨に反し、公序良俗(民法第90条)に反するものであるから、原告がいったんそのような合意をしたとしても、かかる合意に拘束力はないと言わざるを得ない」と、解雇を無効と認め、会社側に毎月約11万円の未払い賃金と賠償金など約363万円の支払いを命じたものです。

この判決は、他の判例とともに「外国人技能実習生法的支援マニュアル」に掲載された画期的な判決です。

しかし、その後も「妊娠禁止規定」による解雇・帰国や今回のような「事件」が後を絶ちません。

(2021年1月5日、あかたつ)

<編集者注>送っていただいた原稿が、少し長めでしたので、2回に分けて掲載することにしました。続きは、明日掲載します。

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2021年1月 4日 (月)

「2021年度ヒロシマ平和カレンダー」完成に寄せて

2020年10月、被爆者の切明千枝子さんの体験談を聞いた。「かつて広島の人は『軍都』と呼ばれることに誇りを持っていた」「戦争は加害と被害が表裏一体だ。広島ではつい『被爆地』ということに意識がいき、『軍都』としての加害の歴史が忘れられる。加害の歴史を知って、平和について考えていってほしい」との言葉が今も心に響いている。

2021年度ヒロシマ平和カレンダーは、「軍都だった廣島 軍事都市から平和を祈る街へ」とのテーマで制作された。今回で40作目となるが、正面から「加害」の歴史を扱ったのはおそらく初めてとなる。戦場へ赴く数多くの兵士を見送った宇品港に始まり、「大本営」が置かれていた広島城、大久野島、そして安野発電所等と続く。日本のアジアへの侵略を示す地図も掲載されている。

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2021年度ヒロシマ平和カレンダー

「軍都だった廣島 軍事都市から平和を祈る街へ」

宇品港、広島城、大久野島、安野発電所、韓国・朝鮮人の原爆犠牲、似島、被服支廠等をテーマに作成

http://www.hipe.jp/

「正しく」歴史を学ぶことは必要である。そのことは過去の失敗に学び、それを教訓としてよりよい未来を創っていくために欠かすことのできない営みである。学校現場等で「平和」を考える時、とかく「被爆地」ヒロシマに焦点化したものとなっているように思う。しかし、ヒロシマは194586日を起点にするのではなく、その50年近く前に遡って考えていかなければ正しい歴史を学んだことにはならない。

広島に住む人々の意思に関係なく、為政者により「軍都・廣島」が形づくられていく。日清戦争では「大本営」が置かれ明治天皇が一時住んでいたこともあった。そうして、廣島はアジアを植民地として獲得するための拠点となっていった。町の至る所に軍需工場が立ち並んでもいた。このような歴史の上に86日を迎えたのだ。まさに、加害と被害が折り重なり合っていた歴史がそこにある。加害と被害は必ず根底において結びついている。どちらか一方だけを知るだけでは、一面的なものになる。ヒロシマの歴史について正しく多角的に学ぶことを忘れてはならない。

また、平和について人権の視点から考えると、他者の人権をないがしろにすると、自分たちの人権も同じように踏みにじられることにつながることがあると、ヒロシマの教訓から学ぶことができる。戦争は、人権を完全に否定する。改めて日常的にどれほど人権を大切なものとして考えているか問い直したい。自分の人権はもちろん、近くにいる他者の人権が侵害されている時に、「おかしい」と感じられているだろうか。空気のように当たり前にある人権がないと困ると意識できているだろうか。一人ひとりが人権意識を高めていくことこそが平和な社会を構築していくことに必ず繋がると思う。

切明さんは、「加害の歴史を知らずに、被爆して多大な被害を受けたと語っても空しいだけ」とも述べている。平和な社会は世界の人々とともにつくりあげていくものである。そうであるならば、加害の歴史をしっかり腹に据えて世界の人々、とりわけアジアの人々と向き合わなければならないだろう。

数年前のある教育研究集会で、日本の加害の歴史にスポットを当てた平和教育の実践が発表されていた。それは、15歳で毒ガス製造に携わった藤本安馬さんが、戦後は自らが加害者であることに心を痛め、謝罪の旅を続けるということを扱ったものだった。藤本さんの謝罪に対し、中国の方は、「あなたに会えて良かった。戦争はみんなを不幸にします。二つの国が仲良くなり、平和な世界ができるよう力を合わせましょう」と語った。藤本さんが加害の歴史から目をそらすことなく謝罪の旅を続ける姿に、子どもたちは心を打たれ大切なことを学んだはずだ。

最後にもう一度、切明さんの言葉を引用する。「黙ってじっと座っていても、平和は向こうからやって来てはくれない。一生懸命たぐり寄せて、つかんで、守っていかねばならない」……被爆地として核廃絶を声高に叫ぶことはもちろんだが、同時に「軍都」として栄えた悔恨の歴史を忘れることなく、人権がないがしろにされ、経済や社会において軍事化にひた走る今の世の中について、私たちは警鐘を鳴らし続けなければならない。そのことが、これからの日本を担い、平和な未来をつくる自分たちに託された使命ではないだろうか。

<未来の空>

〈編集者注〉この原稿は、昨年末に送っていただいたのですが、「平和カレンダー」は、毎年4月1日から始まりますので、今日掲載しました。

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2021年1月 3日 (日)

違和感を感ずるオリヅルタワーからの映像

元日に平和公園を訪れ、対岸から原爆ドームを見た時、その右横に写るオリヅルタワーを見て、思い出したことがあります。

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昨年放送されたある番組を思い出しました。その番組は、11月30日に放送されたNHK広島放送局と広島テレビが今年何回か行ったコラボ放送の最後の回「被爆75年ヒロシマの記憶を伝える」です。

夕方5時台と6時台との2回に分けMHKで言えば「お好みワイド広島」の特別編として放送されたこの番組は、いくつかの被爆建物を訪ね、広島を考える内容でした。

「わたしもこの番組を見た」というひとも多いと思います。この時取り上げられた被爆建物は、現在広島市郷土資料館として活用されている旧陸軍糧秣支廠、宇品線もちょっとだけ映像が流れます。そして陸軍被服支廠、現在原爆ドームと呼ばれている産業奨励館、平和公園内にある改修工事を終えたレストハウス(当時の大正屋呉服店)、被爆建物ではありませんが、平和公園の下に眠る当時の街並みや暮らしです。

被爆建物の紹介には、初めて知ることも多く非常に参考になりました。例えば、「産業奨励館は、4角形に建てられているのではなく、正面と裏面は、カーブした状態で建設された。前を流れる元安川に綺麗な顔を見せるためにそういう設計がされた。後ろ(川と反対側)に廻って良く見るとそれを知ることができますよ」いう案内役の高田真さん(アーキウォーク広島代表)の話や原爆資料館の下から出土し保管されている被爆遺物の紹介などなどです。

資料館下から出た被爆遺物として映し出された「炭化したふすまの取っ手」を見た時、現在進んでいる平和公園の地下遺構保存予定地の貧弱な遺構が思い出され、本当にこの場所でよいのかと、考えさせられました。

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番組全体は、解説もわかり易く、参考になる古い映像や写真も多く使われており、豊富な内容だったと思います。2回に分けて放送されたすべてを録画して大切に保存しています。

私が、違和感を持ったのは、ライブ中継の会場としてオリヅルタワーの屋上が使用されていたことです。もともとオリヅルタワーそのものに疑問を持っていますが、そのことは別にしてです。

原爆ドームを消化する映像が流れる前に、オリヅルタワーの屋上に4人が並んでいる映像が映されました。

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すぐに画面が振られて「原爆ドーム」を上から眺める映像に画面が変わりました。

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この画面を観て、どう感じますか。私が感じたことは、上からの視線は、原爆を投下したエノラゲイに通じる視線ではないのかということです。アメリカ軍が映したといわれる原爆投下後のきのこ雲が沸き上がっている写真は、間違いなく原爆を投下した側からの視線です。そこには、地上で起きている生き地獄の景色を見出すことはできません。大事なことは、上からの目線ではなく、人々の目線の中で何が起きていたのか、その事実に向き合うことだとわたしは思っています。原爆の惨禍を伝える原爆ドームを上から眺めることは、私にとってはどうしても原爆を投下した側からの視線を感じてしまうのです。そう思うのは私だけでしょうか。

この違和感を持ったのは、今回だけではありません。これまでにもオリヅルタワー屋上からの映像を見る度に感じてきたことです。原爆ドームを上から眺め、そして平和公園を俯瞰できる映像ですから、メディとしては、使いたい場所でしょうが、ちょっと考えて欲しいことのように思います。

いのちとうとし

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2021年1月 2日 (土)

2021年元日の平和公園

私のブログは、今年も平和公園の風景からスタートです。

今年の元日は、午前8時15分を平和公園で迎えようと、厳しい寒さの中朝8時自宅を出発しました。

平和大橋の欄干と歩道は、うっすらとですが雪化粧しています。

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慰霊碑前の芝生広場は、真っ白になっていました。慰霊碑の上にも雪が少し残っています。

慰霊碑前の人は、2人ほどです。時間が昨年よりは早いとはいえ、全くの様変わりです。平和公園に到着すると最初に慰霊碑に向かって参拝です。

頭を垂ながら、今年の課題はと考えます。第1は、1月22日の核兵器禁止条約の発効を受けての、私たちの運動のあり様です。第2は、絶対に忘れてはならない東京電力福島第1原発爆発事故からちょうど、10周年の節目の年をむかえます。「いまだ福島は終わっていない」ことを忘れず、脱原発と被害者救済の課題を前進させることです。こんなことを頭に浮かべながら、参拝を終えました。

原爆ドームの方に移動しようとするとちょうどビルの谷間から日が昇り始めます。

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元安川の対岸から補強工事中の原爆ドームを眺めます。相生橋には、まだ雪が残っています。ちょうどこのあたりに来た時、世界に向けて「ノーモアヒロシマ」を強く訴える「平和の時計塔」のチャイムが鳴り始めました。

供養塔もわずかですが、雪が残っています。

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昨年も新たの遺骨が加わったとのこと。名前の分かっている人の遺骨が遺族のもとに帰るのは何時のことでしょうか。そしても身元が不明の7万体ともいわれる遺骨が、安らかに眠ることのできる日は何時になるだろうかとの思いが巡ります。

いったん自宅へ帰ろうと資料館まで戻ると入り口には、1月17日までの休館を知らせる立看板が立てられ、その前の机には、持ち帰り自由の「ヒロシマの原爆被害の概要」をまとめたパンフレットが置かれています。

今のコロナ感染の状況で、本当に18日からは開館できるのだろうかと不安になります。昨年秋の一時期、参観者が入り口で列を作っている様子を何度も目にしましたので、本当にいつから再開するのがベターなのかと考えさせられます。

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資料館南側に設置された「地球平和監視時計」を改めて確認します。原爆が投下されてから27,452日、最後の核実験から688日が過ぎたことを示しています。被爆後75年、多くの被爆者がいのちを失っていったことに思いがはせます。そして、688日の日数が、このまま一日ずつ確かに刻まれ、再び0に戻ることがないようにと願わずにはいられません。

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いったん自宅に帰り、午後1時前、再び平和公園をめざします。午後1時から慰霊碑横で予定されている被爆ピアノの演奏会「これからも記憶を継ぐ」を聞くためです。被爆2世のピアノ調律師矢川光則さんとその支援者でつくる「ひろしま被爆ピアノ友の会」が企画したコンサートです。矢川さんは、平和公園のアオギリ前で何度かコンサートをされたようですが、慰霊碑前での演奏会は、今回が初めてです。

並んだ被爆ピアノは2台です。下の写真の手前が、1.8キロの地点で被爆した「ミサコのピアノ」、奥が2.6キロで被爆した「カズコのピアノ」です。2台一緒の演奏会も初めてとのことです。

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演奏会は、揮毫鳥生春葉さん、横笛鼓谷義幸さんによる書のパフォーマンスで始まりました。書き上がった文字は音楽会のタイトル「これからも記憶を継ぐ」です。

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書が立てかけられます。その書の後ろで演奏が始まりました。ピアノとシャンソウの谷本総一郎さんです。

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川島浩一さん、勝山由唯さんのピアノの連弾です。もちろん被爆ピアノの演奏会での連弾は初めてのことです。師弟関係のお二人、息があっています。

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最後は、名古屋から来られたまほろば遊さんです。まほろばさんは、元宝塚歌劇団で活躍し、現在はシンガーソングライターとして活躍中とのこと。最初に、矢川さんの被爆ピアノによる活動に感動し、自分で作られた絵本「旅するピカドンピアノ」の朗読です。もちろん得意の歌唱もあります。

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歌い終えて「原爆で亡くなった方々、そして戦争で亡くなった方々への祈りの気持ちと、その皆さんの想いを伝えていきますね…という決意、今生きている人たちが平和でありますようにと願いを込めて朗読と歌を歌いました」とあいさつ。感動です。

屋外での2時間の演奏会でしたので、まほろばさんが出演する時間には、ずいぶんと観客が少なくなっていたのが残念でした。

様々な思いをそれぞれの形で、平和のための活動をつづける人たちに出会えた今年の元日の平和公園でした。

いのちとうとし

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2021年1月 1日 (金)

新たな決意で核のない平和な世界を目指そう ――そのためにも、「成功例」から学ぼう――

新たな決意で核のない平和な世界を目指そう

――そのためにも、「成功例」から学ぼう――

 

明けましておめでとうございます。昨年は、コロナの世界的蔓延で、できれば歴史から「削除」してしまいたいようなことが多く起きましたが、それでも何とか新年を迎えることができました。今年こそ、希望に満ちた素晴らしい一年になることを祈っています。

そう考えられる根拠として、1月22日を挙げておきましょう。

 

2021年1月22日

核兵器禁止条約発効 !!

 

条約の発効が最終目標ではありません。それに続く目標を設定しておきます。それは、

 

次の目標は「日本政府が批准」

期限は2030年

 

これも大切な目標ではあるのですが、これだけでは物足りません。改めて「新年の決意」として次の大目標を掲げます。さらに目標達成のためには何をすれば良いのかをまとめておきましょう。

 

まずは大目標です:  2040年までに核のない世界を実現する

これを、平和市長会議が提唱した「2020ビジョン」に倣って、次のように呼ぶことにします。

 

― 2040 ビジョン ―

核兵器禁止のための緊急運動

 

以上をまとめておきましょう。

2040ビジョン

  • 出発点: 今
  • 最終目標: 2040年までに、核なき世界の実現と核の脅威からの解放を達成
  • 中間目標: 2030年までに、日本政府が核兵器禁止条約を批准する

 

ここで、「2040年」、そして「2030年」という期限を付けたのは、ナポレオン・ヒル氏の有名な言葉、「期限のない目標は夢にしか過ぎない」に従って、実現可能性のある命題にしたかったからです。

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2040年にも意味があります。今から20年という時間は歴史を反映しているからです。次回掲げる「成功例」のリストの中には、1996年の国際司法裁判所による「勧告的意見」の採択が入っています。その重要性も次回改めて考えることにしますが、それから約20年経って、2017年にもう一つの画期的成果として「核兵器禁止条約」が採択されました。1月22日には発効し、「国際法」として力を持つことになります。それをもう一段高めることになる「核廃絶」までに、それと同じくらいの時間が掛る、つまり20年掛る、と想定するのはそれほど不自然ではありません。

この目標達成が可能だと信じているのは、核廃絶に向けたこれまでの人類の歩みがその方向を明確に示しているからです。敢えて「成功例」と名付けて、次回、重要なものをリストアップします。

それは、核兵器禁止条約の発効は歴史的な出来事ではありますが、それに至るまでに、重要な出来事がいくつもあるからです。より大きな枠組みの中でこうした出来事をまとめて見直すことで、これからの活動のヒントが得られます。

「成功例」をまとめる上で最初に確認しておきたいのは、私たちにとって、「当り前」のことは「当り前」だときちんと言っておくことの大切さです。私たちの抱えている問題が大きくても、その大きさに目を奪われて、「当り前」が見えなくなっているような気がしないでもないからです。

  • 核兵器が、道義的立場から許されないことは、広島・長崎の惨禍を知る人にとっては当然のことであり、「絶対悪」とまで表現する被爆者も多くいます。平和宣言でもこの言葉を使っています。この一点だけから考えても、それを法的な枠組みに置き換えれば、「力の支配」を否定して「法の支配」を最優先してきた人類史の流れの中では、核兵器が「国際法違反」であることは誰も否定できないはずです。1945年に人類は、その事実を言語化して、「宣言」または「条約」の形で世界を縛る「原則」として採用することだけをすれば良かったのです。
  • アメリカの「独立宣言」のように、自明の理を言語化することで、「法の支配」が始まるはずだったのです。そして、「法の支配」とは、言葉に意味のあることを大前提として、その言葉の意味を尊重し、言葉で示された内容を正確に行動に移すという合意に他なりません。法律の世界ではラテン語を使って、「pacta sunt servanda」 ​(「契約 (合意) は守られねばならない」という原則ですが、短く「約束履行義務」と表現しておきます) と呼ばれますが、核兵器廃絶の運動の中で私たちは、この原則に依拠して、核兵器を廃絶するという行動を求めてきました。この点を改めて強調する必要があります。
  • この点をまず確認した上で、にもかかわらず、世界で「力」に依存する政治を維持してきた勢力が、核兵器の合法性を強く主張してきた事実があります。それも、言葉の意味を捻じ曲げること、民主的なプロセスと世論の双方を無視することと一体の主張でした。その結果として、私たち市民、特に被爆者が、長い苦しい努力を強いられることになったのです。それは、当り前の真実を「真実」と認めさせ、それを元にした政治を実現させるための努力でした。もう一つ確認しておくべきことは、このような努力によって、仮に時間が掛ったにせよ、目標は一つずつ、ゆっくりではありますが「確実に」実を結んできたのです。

以下、これまでの成功例のリストを御覧頂き、そこから得られる教訓を元に、「2040ビジョン」を成功に導くための作戦を練りたいと考えています。スペースが足りなくなりましたので、それは次回に。

[2021/1/1 イライザ]

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