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2020年11月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その18) 被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争- を考える〔Ⅴ〕

ベトナム戦争、湾岸戦争の最大の弾薬補給基地

ヒロシマとベトナム戦争を考えるとき、見落としてはならない問題があります。それは、かつてアジア侵略の出撃基地としての役割を担わされた廣島が、「過ちは繰り返しませぬ」と誓い、平和を希求するヒロシマに生まれ変わったはずにもかかわらず、ベトナム戦争に加担してきた歴史です。

ご存知の通り、広島県には秋月弾薬庫(江田島市)、黄幡弾薬庫(呉市広)、川上弾薬庫(東広島市八本松)の3つの弾薬庫群から成る「秋月弾薬敞・米陸軍第83兵器大隊」(司令部・呉市)があります。いずれも旧日本軍が建設したもので、敗戦で米軍が接収した極東最大規模の弾薬庫群です。

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川上弾薬庫遠望

朝鮮戦争(19506月~19537月)では大量の弾薬が送られ、停戦後しばらく経た1955年から12年間、秋月を除く広弾薬庫(黄幡弾薬庫)と川上弾薬庫は一時休止されていました。

ところが、1967年10月27日に突如として米弾薬船が入港し、呉市広町から約39km北の山陽本線八本松駅の北側にある川上弾薬庫への弾薬輸送が再開されたのです。1969年に出版された『安保黒書』(労働旬報社)には、「この時から広―川上間を弾薬を積んだトラックのピストン輸送がはじまり、68年6月までに約1万4,000トン、積荷率80%の10トン積みトラックにして、1,750台が輸送に当たったのである。」(第3章「安保体制下の基地」268㌻)と書かれています。

こうして川上弾薬庫への弾薬搬入と搬出は今日まで続き、朝鮮戦争に続きベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争と米軍の軍事行動を支える弾薬補給基地の役割を果たし、現在に至っています。

 閉ざされた弾薬輸送情報

2003年111921日の3日間、陸上自衛隊第13旅団が川上弾薬庫で初めて「テロを想定した警護訓練」を行いました。 私たち(憲法を守る東広島地区協議会)は、防衛庁への「中止申し入れ」と東広島市への要請を行うとともに、現地で監視行動を取り組みました。

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上の写真は南側ゲート横の高台に設置された哨戒所です。小銃を手にした隊員がカメラを向けた私を見ながらメモを取っていますが、それまで銃口は外に向けられていまし た。哨戒所のすぐ下は子どもたちが通学し市民が行き交う市道が走っています。東側ゲート上空を戦闘ヘリが飛び交い、基地内には幾つもの機関銃や迫撃砲が据えられています。と、突然、装甲戦闘車両と警護隊員が現れ、テロ襲撃者に扮した隊員との銃撃戦シーンがフェンス越しに飛び込んできました。

その後、20057月、20071月と岩国基地の米海兵隊との合同警護訓練が規模を拡大しながら行われ、その都度、抗議や監視行動を取り組んできました。ところが2006年以降、「テロ対策」として弾薬輸送などを含め情報がクローズされ、日米軍事一体化の姿が覆い隠されています。

かつて、ベトナム戦争反対と「抜き打ち輸送」を繰り返す米軍の弾薬輸送に反対に立ち上がり、弾薬輸送に関する事前情報の提供を勝ち取った呉市民と呉地区労の闘いに学び、諦めることなく弾薬庫を覆うベールを剥ぎ、弾薬庫撤去の闘いを進めなければなりません。

ベトナム戦争、「間接的な加害者」

広島市にお住まいの原爆文学研究者の松本滋恵(ますえ)さんが、「原爆詩人 栗原貞子の平和思想と実践」(『UEJジャーナル』第31号、2019915日)の中で、「ヒロシマというとき」の時代背景にあったベトナム戦争に関する栗原さんの言葉を紹介されていたことを思い出し、『ヒロシマの原風景を抱いて』を書棚から探し出しました。

少し長いですが紹介し、本稿を閉じたいと思います。

「ベトナム戦争は実は海を隔てたベトナムにあるのではなく、実は内なるベトナムは私たちの生活の中に起きているという認識が起こったのであります。沖縄のB52の基地、佐世保の原潜の問題、八王子のアメリカ軍の野戦病院の問題、この間には九州大学に米軍機が墜落いたしました。そして広島からつい近くの江田島の秋月、呉・川上弾薬庫の問題、ベトナム戦争は遠いベトナムにあるのではなくて、日本の内に私たちの内に燃えているのです。

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ナパーム弾に焼かれる少女

ということは、たんに私たちが原爆の被害者であると言うことだけでなく、日本の政府のベトナム戦争への協力を通じて、私たち自身がベトナムの人たちを殺すという間接的な加害者になっていることです。・・・(中略)・・・ベトナムに大量のナパーム弾を撃ち込んだり、毒薬を大量にまいてジャングルを焼き、野生の動物を全部焼きつくしたりするような戦争を見ていますと、これは原爆と違わない状態であるということ、そしてパリ会談が失敗すると、第三の原爆がベトナムで使われるのではないかという危機感が非常に強くなってくるわけです。」(1975年・栗原貞子著、『ヒロシマの原風景に抱かれて』274275㌻)

(2020年11月5日、あかたつ)

 

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コメント

在日アメリカ軍・陸軍・川上弾薬庫から、次は、どこへ、搬送、したのですか。。受け入れだけで、運び出し先が、触れてありません。知りたいです。一時保管で、広に、戻して、船便ですか。

匿名さん、コメントありがとうございます。
川上弾薬庫に搬入された弾薬の搬送先についてのお訪ねですが、
①2006年以前は搬出入先・時間帯・トラック台数などの情報が防衛施設局から地元自治体に入っていました。
②その情報を入手し集計した2003年1月~11月末の資料が手元に残っています。
それを見ると、搬入が広弾薬庫の10回と岩国基地からの4回、計14回。
搬出では広弾薬庫15回、岩国基地10回、座間基地4回、横田基地5回、岩手山中演習場1回、計35回になっていました。
③その他、佐世保や富士演習場、上富良野演習場、横須賀基地などにも送られていたようです。
④川上弾薬庫への搬入・搬出は主に大型トラックが使われています。

コメント、返答。ありがとうがざいます。私では、調べることが、できません。ところで,呉市広町。副産物。輸送の、迂回バイパス道路建設。。そこが、今、主要道路と、なっています。知識としまして。陸軍弾薬庫.広島県・3.相模原は?。アメリカ軍の考えは、日本という狭義でなくて、極東地域の一部ということですか。。中東へ、真っ先に、三沢基地から。。空中給油だと、ほんの、数時間。三沢の戦闘機が、第一弾攻撃と、聞きます。インド洋・太平洋を、カバーするのですか。第7から第5域まで、行くのですね。三沢空軍基地。戦闘機.実戦です。だからこそ、訓練も、熾烈なものですか。命が、かかって、います。騒音なんて、いってられません。アメリカの論理です。タッチ・アンド・ゴー、訓練。空母の、100m域へ、着艦です。アメリカ軍にすれば、、必須訓練でしょう。真剣に練習・訓練を、やるでしょう。実戦に、備えて。日本の、是非は、・・・・。

匿名さん、コメントありがとうございます。
仰るとおり、黄幡弾薬庫がある呉市広から東広島市八本松の川上弾薬庫への弾薬輸送ルートは現在、広バイパスが使われています。当初は広商店街を通る幅7mの県道が使われていましたが、危険と隣り合わせの住民の反対運動から迂回ルートに変更されました。その迂回ルート上も橋が狭く、住民の粘り強い運動で1971年に市街地を避けたバイパスが建設され、今日に至っています。こうした経過が、「椿七十郎『徒然草』黄幡弾薬庫反対運動」(Hp)に詳しく紹介されていますのでご覧ください。
弾薬輸送で平穏で安心・安全な暮らしを脅かされた住民のごく当たり前の要求と粘り強い運動が輸送ルート変更やバイパスにつながったと思います。
それは、身近に危険を感じる「戦争」への拒否と同時に、「再び過ちを繰り返してはならない」という不戦・非戦の誓い(ヒロシマの心)だと思います。
国内で米軍基地の機能強化が進められ、その被害と戦争への危機が次第に大きくなっています。79回目の12月8日(真珠湾奇襲攻撃の日)を前に、不戦・非戦の誓いをあらたにしています。

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