「広島ブログ」

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2020年10月

2020年10月31日 (土)

10月のブルーベリー農園その4(東広島市豊栄町)

農園のブルーベリーの紅葉は少しづつ進んでいる。そんな中10月24日(土)の畑の見回りをしていると突然ばたばたっという音がしてキジが飛び立った。オスだった。今年から来年にかけてこの地にまた住むのだろう。カマキリが玄関先の柱にじぃーっとまっていたり、スズメバチの動きが鈍かったり生き物もいろいろ季節に沿いながら動いている。ブルーベリーの花芽ももう形成されているがまだ小さい。

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10月24日(土)。

①.農園の畑の防草シートの撤去作業が続いているが、3段あるうちの2段が済んだのでブルーベリーの木の周りのしつこい草を抜いていく。

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②.ミゾカクシという野の花が周囲に咲いている。

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③.一輪車のタイヤがパンクしたので車輪事取り換える。1時間近くかかった。軽くなった。

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10月25日(日)。

枯れたブルーベリーの植え替えを終日行った。まだ赤とんぼがいる。

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10月29日(木)。

①.大きなブルーベリーが枯れたので引き抜かずに隣に苗木を植え替える。

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②.庭の片隅に菊が咲きだした。

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③.里山のブルーベリー園のそばで野菊が咲く。ヨメナのようだが花びらが細いので目を引く。

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④.ブルーベリー畑の色合いが赤みを帯びてきた。

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⑤.里山のブルーベリーは早生なので晩生に比べて紅葉が少し早い。

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⑥.庭のサザンカの花数が増えてきた。スズメバチが花びらに首を突っ込んで蜜を吸っている。寒いせいか動きがにぶい。

2020年10月31日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年10月30日 (金)

今年もUFOラインを訪れました。

昨日のつづきです。

フライフィッシングを終えた後の宿泊場所は、昨年と同じ「木の香温泉」です。窓のすぐ下には川が流れています。

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ゆっくりと休んだおかげで足の痛みも少し和らぎ、午前9時に「UFOライン」をめざし宿を出発しました。

宿を出てすぐの国道沿いに花を咲かせるサクラが何本も目に留まります。朝食の時宿で聞いたところ「季節ごとに年4回くらい咲きます。名前は寒桜と聞いています。小さな花で、ほとんど葉を付けません。どうやって光合成するのですかね。不思議な桜ですよ」とのことでした。秋のこの時期に桜の花を見るのは珍しいことですので、車を止めて、写真を撮りました。

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ちょっと不思議な景色を眺めて、いよいよ「UFOライン」へ車を走らせます。「UFOライン」入り口までは、九十九折れで車の離合も難しいような坂道が続きます。全長約5.4kmの寒風山トンネルができるまでは、この道が、国道194号でした。昔の苦労がしのばれます。約30分ぐらい走ると「UFOライン入口」に着きます。

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ここを左折すると「「UFOライン」です。今年も良い天気に恵まれ、綺麗は景色を楽しむことができました。昨年と同じように何か所かで車を止めて、写真を撮ります。山並みは、昨年以上に色づいています。その中に「UFOライン」がはっきりと見えます。森林限界を超えたのでしょうか、樹木が無くなりびっしりと熊笹が茂っています。

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さらに先に進むと「瓶(かめ)が森」の頂上が見えます。高さは、1,896mです。

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「瓶(かめ)が森」を過ぎると道は下りになります。少し進むと、右手のキャンプ場があります。昨年は下の駐車場からキャンプ場まで歩いたのですが、まだ足が少し痛みますので、駐車場から石鎚山を写しました。

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右手に石鎚山を見ながらしばらく進んだ後、折り返します。天気が良いので、右手に高知県の山並みがくっきりと見えます。中国地方の山とは違い、険しく切り立っているような気がします。

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平日だというのにすれ違う車が、ずいぶん多くなってきました。この「UFOライン」も、カーブが沢山あり、その上狭い道幅ですので、車の離合に苦労しましたが、12時半頃には、無事国道194号まで降りることができました。火曜日の平日でしたが、それでもこれだけの車が入ってきていますので、土・日となればどうなるのか他人事ながら心配になります。

今回の昼食は、国道を西条まで下って、前日に「中野川倶楽部」で教えてもらった「西条そば甲(きのえ)」で、粗挽きのざるそばを食べました。店主は、大阪から水の美味しい西条に転居し、店を開かれてそうです。

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ゆっくりとした食事を終え、「来年は来ることはないな」と思いを残しながら、広島への帰途の道につきました。

いのちとうとし

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2020年10月29日 (木)

高知県中野川のフライフィッシング同行は、今年が最後

今年も友人のTさんに同行し、3年連続で高知県中野川のフライフィッシングに行きました。

朝6時に広島を出発し、現地に着いたのは昨年と同じく9時過ぎでした。「中野川倶楽部」の看板がかかる管理事務所で、手続きを済ませます。入れていただいた美味しいコーヒーを飲みながら、川の情報を仕入れます。昨日(25日日曜日)は、7人が訪れたようですが、本日は私たちだけということで、希望する場所に入ることができます。私の希望もあり、選んだ釣り場は一番奥27番の「右の谷・葛下げの谷(カズラサゲノタニ)」です。「昨日、ここには3人が入っていますから?」との情報を得ます。

中野川は、「毛鉤釣り占用の河」です。入渓ポイントは、全部で28カ所あります。一番右端に27番があります。

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山間の谷筋にも日が差し込み、少し暖かくなり始めた10時前27番のポイントへ車で移動します。

私もTさんが用意してくれた腰まである長靴に履き替えて、Tさんの後に続き入渓です。27番の入り口付近の川の様子です。昨年より一週間遅れですので、木々の色づきも進んでいるように見えました。

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ここからポイントを探りながら上流に移動します。一投目ですぐに当たりがありましたが、針から外れ残念ながら取り込みに失敗です。しかし、3投目ぐらいですぐに最初の釣果がありました。イワナです。20cmぐらいあります。やや小ぶりですが、きれいな姿です。

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次のポイントを求めて上流に移動します。ポイントを目ざしてフライを投げ込みます。

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竿がしなります。慎重に取り込みます。今度は、アマゴです。これは先ほどのイワナより少し大きめです。23cmぐらいでしょうか。縦の縞模様がはっきりと写っています。

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アマゴは、イワナと同じような魚体ですが、地域によって呼び名が変わるようです。太平洋側にそそぐ西日本の河川に生息するものを「アマゴ」と呼ぶようです。四国ではすべて「アマゴ」と呼ぶようです。

その後も、釣果に恵まれ、取り込まなかった小さなものを含めると昼食時までに12~3匹の釣果がありました。

今回は、天候に恵まれ川に光が届いています。

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  実は今回、私が岩のコケに足を滑らせ、膝を石に打ち付けてしましました。昼食を過ぎたころには、少し痛みが激しくなったため、早めに引き返すことになりました。昨年出会った橡の巨木をもう一度見たいという私の希望もあり27番のポイントを選んだのですが、残念ながら今年は、そこまでたどり着くことができませんでした。

車まで戻り、友人は別の場所で釣ることにしました。ひざの痛みが増した私は、川には入らず、車のところで待ちます。道端のサンショウを見つけ写真に収めて、今年の釣り同行は終わりになりました。

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朝、安佐管理事務所で「この中野川の毛鉤釣り船教区は、地元の要望もあり来年から閉鎖することになりました。」と告げられていました。橡の巨木をもう一度見ておきたかったのですが、残念ながらかないませんでした。それ以上に、30年近くこの川に通い続けていたTさんにとっては、「どうして」という無念の思いが残る最後の中野川訪問となってしまいました。

いのちとうとし

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2020年10月28日 (水)

「ヒロシマ」を訴えた石田原爆訴訟

広教組には、「石田原爆訴訟資料」の第一集から第五集、そして「判決」の六分冊が揃っています。ここには、石田原爆訴訟の公判記録の全てが収集されています。第二集から第四集には、第6回口頭弁論から第15回口頭弁論で行われた「証人尋問」の全発言が記録されています。このことが確認できましたので、この3冊をすぐに購入しました。

この3冊は、全て被爆者、医者、厚生省の役人、科学者などなど多彩な証人による陳述と尋問です。その人数は、13人です。現在の裁判ではとても考えられないほど多くの証人尋問が行われたこと、そして十分な時間をかけて、ていねいに行われたことがわかります。いま裁判は、全てと言ってよいほど「準備書面」という文書のやり取りで進行します。例えば石田原爆訴訟では4人の被爆者が証言台に立っていますが、文章だけでなく、その人の声の抑揚、表情と向き合うことなくして被爆者の真の声を受け止めることはできなかったでしょう。

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石田原爆訴訟の勝訴を喜ぶ被爆者・支援者(中国新聞社刊「ヒロシマの記録」より)

石田先生は、1998年に発刊された自著「ヒロシマを生きて」の中で、この時のことをこう振り返っています。「富永初子さんの法廷での姿は忘れられません。富永さんは当時64歳という年齢だったのに体はすっかり弱り、両眼も原爆白内障のため失明寸前でした。それにもかかわらず杖にすがり、介添人に支えられながら法廷に足を運んでくれたのです。」と。

裁判進行の話が長くなりました。この裁判での石田先生の陳述に戻ります。石田先生は、原告の最終弁論で次のように述べています。ここでも自作の詩から始まります。

「お前の目は/ お前の目は/ にんげんの あすへ/ ヒロシマを語る目/ もとの目に/ すみきった目に/ 返してもらえ/ お前の目を/ お前の目を/ 黒くこがしたのは だれ/ そのだれかを/ とらえてもらえ/ にんげんが 生きるために/ 平和と真実を徹す  その目で」

石田先生が最後に改めて訴えたことは、五つのことですが、そのうち三つを紹介します。

「第二には、ヒロシマ、そして、被爆者が明日の世界と歴史に向けて、今なお、訴え続けていることはなんであるかくみ取ってください。被爆者の生きることの意味を。

第三は、本訴訟の判決を通して、いのちの尊厳性の内実を明らかに教示してください。

第五は、ヒロシマをくり返させないためにこそ、わが国の原爆被爆者行政の真のあり方は、どうあらねばならないか、その姿勢内容を明らかにしてください。」そして最後に「わたしの目に、生涯にわたる光を、ヒロシマを原点として、人間の未来に生きる光を与えてください。そして、生きることによって、また、生き残った人間のつとめである『ヒロシマをくり返すな』と証言台に立ち続けっせて下さい。ヒロシマをくり返さぬ人類と世界史のあしたへ。」と訴えて陳述が終わりました。

この陳述を読みながら、改めて石田先生がカタカナの「ヒロシマ」にこだわり続けた思いを認識することができました。そして、この「ヒロシマ」から学び、それを人間の普遍の原理にと願って生まれた言葉が「ヒロシマの心」です。石田先生は、「『ヒロシマの心』それは、生命の尊厳と平和を求める心です。人間の未来が平和で、豊かで、夢多きものであることを願う心です。ヒロシマはその心を人間不変のものとするために、原爆地獄の苦悩と憎しみを乗り越えて訴えてきました。」と「ヒロシマを生きて」の中で短く解説されています。

国の戦争責任、原爆被害の特殊性を認め、「原爆医療法は、国家補償法の側面を持つ」とし「認定申請を却下した処分はこれを取り消す」。三年間にわたった石田原爆訴訟は全面勝利で決着しました。この勝訴判決は多くの被爆者を勇気づけるものとなりました。しかし今もなお、石田原爆訴訟の判決を無視する被爆行政が続いている現実があることも忘れてはならないことです。

「石田原爆訴訟」関連の資料を入手することができたこれを機会に、改めて「被爆教師」や「ヒロシマを生きて」を読み直し、石田先生が訴え続けてこられた「ヒロシマの心」を学び直したいと思っています。

いのちとうとし

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2020年10月27日 (火)

石田原爆訴訟の「最終準備書面」を読む

今日10月27日は、広島県原水禁代表委員だった石田明先生の17回目の命日です。私は、ずっと石田明さんのことを「先生」と呼んでいましたので、今日も「石田先生」と呼ばせていただきます。石田先生には沢山のことを教えていただき、そして本当にお世話になりましたので、そのことをきちんと書くべきですが、今日は、「石田原爆訴訟」について書きたいと思います。

数日前ですが、金座街の古本屋アカデミー書店のWEBで「『原子爆弾被爆者の医療に関する法律』第八条に基づく認定申請却下処分取消請求事件 原告最終準備書面 原告石田明」を目にしました。早速店に行き、現物を手にしました。間違いなく石田原爆訴訟の「原告最終準備書面」です。

実は、この「原告最終準備書面」の重要さについて、石田先生は、代表的な自著「被爆教師」(1976年9月10日刊)のP.338で次のように紹介されています。

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「阿佐美信義弁護団長、外山佳昌副団長を中心とした弁護団の活発で周到な弁論は、報道関係者の讃嘆をあつめました。とりわけ、12人の弁護団による『原告最終準備書面』は卓越した内容のものでした。15万字におよぶこの『書面』は、裁判の一般の意味における『書面』をこえて、『ヒロシマ―その責任を問われるものは誰か』と署名を付して数多く出版されてよいすぐれた著作だと私は思いました。」

この文章のことをちょっと思い出し、すぐに購入しました。B5版サイズで、104ページあります。

石田原爆訴訟の意味について、4月1日のブログ「被爆者援護は裁判で勝ち取ったーそれまでは、「受忍論」を盾に「放置」―」(http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/03/post-e5a529.html)でイライザさんが短い文章ですがわかり易くまとめられていますので、引用します。「石田訴訟(1973517日—1976727)――原爆による白内障を認定疾病として認めるかどうかが争点で、原告は石田明氏、被告は国で、要医療性が争点になりました。判決は、認定疾病についての二つの要件のうち、起因性については問題がない。さらに、医療審議会の意見「薬物治療は効果がない」に対して、一部ではあるが進行防止の効果を有するとの見解もあるので、もう一つの要件である要治療性があると認めるべき、というものでした。」

石田先生は、「被爆教師」の中でさらに続けて「原告最終準備書面」を次のように紹介しています。

「第一章では、原爆・ヒロシマの惨状を克明に語り、第二章では、原爆投下の国際法違反性を弾劾すると同時に、国家の戦争責任と被爆者国家補償の責任を問い、第三章では、被爆者立法の変遷と被爆者立法の実態を解明し、第四章では、原爆後遺症に対する医療の精神と国家の責任による医療保障の原則を究明し、第五章では、前章までの立証を集中して、認定申請却下処分の重大な違法性を迫り、終わりに原爆医療法が純粋な社会保障法でなく、国家補償法体系に属する法律であり、その正しい解釈運用は、国の被爆者に対する補償責務の自覚と原爆症についての科学的で正確な認識に立脚し、『疑わしきは被爆者の利益に』立つ以外にはあり得ないことを訴えて、陳述を結んでいるのです。」

この紹介文は、「原告最終準備書面」が今も続く原爆関係の訴訟にそのまま使われてもおかしくないほどの意味を持っていることを私に教えてくれているように思います。

少しだけ「原告最終準備書面」の中に入ってみます。石田先生が作られた詩から始まっています。

「‟ピカッ“/  強大なハンマーが電車の上から叩きおろした/ 真暗闇だ/(中略) この絶叫も 生きた体もろとも熱い炎に/ 次々に焼き尽くされていく/ だが、私はどうしょうもないのだ・・・・/ この叫びは  永遠に私の耳底に刻まれている」

詩人石田先生らしい「原告最終準備書面」です。

第一章「原子爆弾被害の実相」では、井伏鱒二の「黒い雨」、峠三吉、山代巴が編集した「詩集、原子雲の下より」、そして法廷に証人として出廷した被爆者の被爆証言が記載されています。

終わりにでは「原爆医療法の解釈運用は、国家補償の精神に立脚し、原爆症に対する科学的に正しい認識を持つことを前提としなければならないし、この立場がすなわち‟疑わしきは被爆者の利益に“の立場であり、この立場こそが真に正しい解釈、運用の立場であり、この立場以外には決して正しい解釈、運用はあり得ないのである。」ことを強調しています。

この準備書面は、「核兵器禁止条約」が発効した今、改めて読み直すべき価値を持っていると言えます。同時に、石田原爆訴訟は勝訴判決を勝ち取ったにもかかわらず、「疑わしきは被爆者の利益に」という主張は、今なお訴え続けなければならないのが現実であることも知らされます。 

ところで、アカデミー書店のWABには、この「原告最終準備書面」の他に「石田原爆訴訟資料 第二集から第四集」の三冊も掲載されています。全体はどういう構成になっているだろうと思い、関連資料はないのかと広教組を訪ねました。広教組には、全部きちんと保管されていました。そこで見せていただいた資料について、明日報告します。

いのちとうとし

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2020年10月26日 (月)

「核兵器禁止条約」発効へ

昨日、中米ホンジュラスが「核兵器禁止条約」を批准し、同条約の発効に必要な批准国が50カ国に達しました。これによって同条約は90日後の来年122日に発効することになりました。国連で「核兵器禁止条約」が採択されてから3年余りの時間がかかりましたが、市民社会や非核兵器保有国に努力が実ったものです。残された課題はありますが、「核兵器禁止条約」発効への第一歩としてこの日が一日も早く来ることを望み、活動を続けてきただけに心から歓迎したいと思います。

そして、何よりも「非人道兵器である核兵器の廃絶」を訴え続けてきた被爆者のみなさんの声が、大きな力になってことを改めて記しておきたいと思います。

午後3時半から、原爆ドーム前で被爆者7団体が呼びかけ「祝 核兵器禁止条約発効確定  核兵器禁止条約批准50カ国を祝い、さらなら前進を誓う会」が開催されました。原爆ドームを背にして集まった人たちの前には「祝 核兵器禁止条約発効確定!唯一の戦争被爆国日本も批准を!」の横断幕があります。

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この集いでの挨拶は、湯崎英彦広島県知事、松井一実広島市長、被爆者の箕牧智之さん、佐久間邦彦さん、そして「核兵器禁止条約」の発効をめざしてきた市民を代表して森滝春子さんの5名でした。批准した50カ国の小さな国旗が準備されていました。あいさつの度に大きな拍手がわきました。参加者約170名は、「核兵器禁止条約」の50カ国批准を心から歓迎するとともに「核兵器が最後の一発が無くなるまで取り組みを続ける」決意を確認しました。

広島が歓迎する一方で、「核兵器保有国、その傘の下にある国々が批准しない『核兵器禁止条約』では、有効性がない」と批判する人たちもいます。本当のそうでしょうか。国際司法裁判所は、1996年の核兵器の合法性に関する勧告的意見の中で、「一般的には、核兵器の使用あるいは使用するとの威嚇は、人道法の原則及び規則に違反する」としながらも、「国家の存亡そのものが危険にさらされるような、自衛の極端な状況における、核兵器の威嚇または使用が合法であるか違法であるかについて裁判所は最終的な結論を下すことができない」としています。しかし、核兵器を非人道兵器とし「核兵器の開発や実験、製造、保有のほか、核抑止力の否定を意味する『使用するとの威嚇』」を禁止した「核兵器禁止条約」が発効した国際社会においては、「一般的」にではなくすべてにわたって「違法」ということになります。

また、1996年に国連で採択された「包括的核実験禁止条約」(CTBT条約)は、残念ながらアメリカなど核兵器保有国の批准が進まず発効を見ていませんが、それでもそれ以降、少なくともNPT条約に加盟する国々での爆発を伴う核実験は、実施することができなかったのです。

「核兵器禁止条約」が発効すれば、CTBT条約が国連で採択されて以降の世界の動きをみれば明らかなように、核兵器保有国の大きな抑止力になることは間違いありません。さらに大きな力とするためにも、出来るだけ早く国連加盟国の半数を上回る100カ国以上が批准することです。そのための取り組みを引き続き強化しなければなりません。

そして何よりも国内では、日本政府への「批准」を求める運動をより一層強化しなければなりません。私たちの大きな課題です。

忘れてはならないもう一つの重要なことは、「核兵器禁止条約」を語る時、あまり強調されていませんが「核実験などによる核被害者の救済」が盛り込まれていることです。このことは、これまで核実験を強行した国々が、たとえ同条約を批准しなかったとしても実行しなければならない責務があります。

「核兵器の廃絶」と「核被害者の救済」は、原水禁運動の車の両輪だということを改めた確認したいと思います。

いのちとうとし

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2020年10月25日 (日)

中曽根康弘とヒロシマ

広島市平和公園の東側対岸に、中曽根康弘句碑というのがあります。俳句自慢を自画自賛していた彼が書いた句は「悲しみの 夏雲へむけ 鳩放つ 康弘」で、自筆が刻まれています。平和公園周辺にあるほんとどの碑には、千羽鶴が掛けられてありますが、この碑では千羽鶴を見たことはあまりないです。建てたのは広島市内にあるライオンズクラブでした。

1987年11月、広島の市民団体「デルタ女の会」の人たちが中心になって、強い反対運動が起こりました。

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中曽根康弘については今さら語るほどもないと思いますが、およそ「ヒロシマの心」とは縁遠いことを語っていた政治家だったと思います。ロン・ヤス関係の中で「日本をアメリカのための不沈空母にする」と言い、更には被爆者の前での「病は気から」発言。韓国人被爆者の前では「日本は昔から単一民族だからうまくいくんです」と確信犯的に話していました。

この句碑建設のために土地の使用を許可した広島市は、彼が首相在任中(82年11月~87年11月)に3回広島に来たことを挙げました。それが広島市の平和尺度なのです。回数だけでいえば、安倍晋三には何を提供するというでしょうか。

これは秘密ですけど彼が参列した平和式典で、僕は知人5人と式典の挨拶中に中曽根に向かって無言で小さな黒旗を振る行動を行いました。この黒旗はアナキストを意味するものではありません。しかし行動に参加してくれた一人の若者が警察に連行され、約3時間の取り調べを受けました。行動を実行する前に、ある新聞記者に連絡していたので、翌朝の新聞には写真とともに警察での取り調べについて、「表現の自由という視点から、やり過ぎではないか」と書いてくれました。一緒に参加した知人は今でもその時の旗を記念に持っているといいますから、まさに「若気の至り」の思い出なのでしょうか。

話しがそれましたが、中曽根康弘は原発推進でも大いに「活躍」しています。1954年3月3日、彼は改進党の国会議員として、2億3500万円の原子力予算を成立させました。原発の燃料であるウラン235から、この額になったというのは有名な話しです。

また1988年、3度目の日米原子力協定締結の時、米国はインドが原発の使用済み核燃料から取り出したプルトニウムを使った核実験を実施したことから再処理推奨路線の転換を主張し始めていました。日本にも再処理をしないように求め、フォード政権もカーターも政権も強く求めたのですが、米国がロン(ロナルド・レーガン大統領)に交代していて、日本への働きかけは弱まりました。協定締結時には総理大臣は交代していましたが、この協定改定を強引に推し進めたのも中曽根です。

10月17日に行われた自民党と政府の合同葬には、約1億9,300万円の費用が使われ、その半分の9,650万円は国の予算予備費から支出されたといいます。友人代表には「ナベツネ」こと、読売新聞の渡辺恒雄が務めました。

読売新聞といえば正力松太郎、1955年11月に東京日比谷公園で開催した原子力平和利用大博覧会を開いたのを皮切りに、翌56年5月には広島原爆資料館で広島原子力平和利用博覧会を開催させた張本人です。

合同葬の開かれたこの日、平和公園内の原爆慰霊碑北側に掲げられている「日の丸」が半旗なっていたと新聞が報じていました。「半旗」でなくて「反旗」なら良いと思いましたが、「反旗」に「日の丸」は似合わないでしょうね。

「黒旗が良いか~??」、30年くらい前のあの日のことを思いだしました。まだ若かった時です。

木原省治

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2020年10月24日 (土)

「辺野古の今・・・」―沖縄からの報告

昨日午後6時半から広島原爆資料館地下第2会議室で、「広島と沖縄を結ぶドゥシグヮー」が主催する「辺野古の今・・・」という講演会が開催されました。「ドゥシグヮー」とは、沖縄の言葉で「志を共にする友だち」という意味だそうです。

最近、辺野古の状況を伝えるニュースが少なくなっていますので、久方ぶりの現地沖縄からの報告を聞こうと私も参加しました。

講演会が始まる前に写されていたのが下の写真です。9月3日に沖縄ドローンプロジェクトが、ドローンを使って辺野古の様子を撮った写真です。もちろん講演会でも使われました。

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PDFで送られた写真のようですので、写りが良くないのですが、最新の様子が分かると思います。

写真に書き込まれている文字は「辺野古側埋立の現状―――土砂投入から1年半 工事は大幅に遅れているがすでに4分の1の海が破壊された!」です。

「ドローンで撮った写真」と説明しましたが、昨年6月の「改正ドローン規制法」を根拠に、9月6日から国内の主要米軍基地・施設の上空での小型無人機ドローンによる撮影飛行が、原則禁止となったため、この写真が最後の写真となったようです。「原則」と書きましたが、どうしてもドローンによって撮影しようとすれば、「米軍の許可」が必要になりますから、実質的には完全禁止ということになります。

次の写真は、さらに見にくいかもしれませんが、工事の様子を写しています。

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キャプションには次のとおり書かれています。

「コロナ禍の中、強行される工事  ・沖縄での緊急事態宣言 ・現場の抗議行動も休止せざるを得なくなっていた。 ・それでも防衛局は工事を加速 ・9月7日、抗議行動再開」「進む外周護岸嵩上げ工事 ・辺野古側外周護岸をH=4m嵩上げするためのL型擁壁工が施行されている。」

昨晩の話では、護岸は現在3.1mまで完成しているので、さらに5mの嵩上げが必要だということでした。

9月7日から抗議行動が再開されたと書かれていますが、情報では今月3日には、オール沖縄会議主催の「辺野古新基地建設阻止!第一土曜日ゲート前県民大行動」が開催されています。新型コロナ感染拡大の影響により7か月ぶりの開催となったそうです。

国は埋め立て工事を強行していますが、これからの最大の問題は、「大浦湾側の軟弱地盤に伴う変更申請」をめぐる攻防です。手続き的には、「県知事が不承認」したとしても最後は裁判闘争となり、最終的には残念ながら工事が強行されてしまうことになると思われます。

しかし、仮にこうした手続きによって工事を強行したとしても「水面下から最深部で90m近くまで軟弱地盤であり、対応する機械が不存在である」ことや「米軍の滑走路の構造基準を満たせない」ことなど、あまりにも大きなハードルが横たわっており、本当に使用可能な滑走路が完成するのかということも強く指摘されています。

コロナ下の中で、沖縄の基地問題の報道がほとんどないという状況が続いていますが、現地では今もなお基地建設のための埋め立て工事が続いていることを決して忘れてはならないことを思い起こさせる講演会でした。

講演会の後半は、日米安保体制の中で進む沖縄南部の島嶼部で進む「島嶼防衛」の話でしたが、意見を異にする見解が多くありましたので、その部分の紹介は割愛します。

いのちとうとし

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2020年10月23日 (金)

10月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

新型コロナウイルス感染拡大のさなかの10月の第3土日で毎年行われている住んでいる町の秋祭りは子ども神輿、頂載の練り歩きもなく、地元の獅子舞と怖い鬼の出番もなく、唯一家の前のしめ縄と紙垂が祭りを知らせてくれるだけで神社での催事だけで終わってしまった。毎年安芸の郷で受け入れている日独平和フォーラム派遣のドイツの若者も来れてない。いつもなら彼らを秋祭りの神楽に案内していたのだが・・。だからこの2日間も週末農業で農園に出かけた。

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10月17日(土)

①.10月16日(金)に安芸の郷が高屋町造賀の農家にいって大量のもみ殻を袋詰めして持ち帰り海田町三迫のブルーベリー園の株もとに敷き詰めた。その余りを農園が分けていただいたのでもみ殻の入った袋を倉庫に運び入れる。まだ小さいブルーベリーの木に敷き詰めるのに使う。

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②.ブルーベリーの畑は3段ある。ブルーベリーの列と列の間に敷いている防草シートの撤去作業を続けてる。今は真ん中の畑に取り掛かっている。

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③.一部でブルーベリーの葉が真っ赤に紅葉してきている。

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④.畑のそばの水路の向こう側ののり面のススキやセイタカアワダチソウ。日がかげる1時間ほど前の弱い光が当たると姿がくっきりする。

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⑤.庭の八重のサザンカの一番花。

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10月18日(日)。

①.ブルーベリーの木の列と列の間の防草シートの撤去作業は真ん中の7列のうちであと一列の3分の2まで折りたたんだ。シートの上に草ぼうぼうの個所を残すのみになったが、夕方になり疲れてもきたのでここでやめ。

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②.作業中、どの場所にもこのイヌタデの花がはびこっている。

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同じ日。農園周囲の巡回から。

①.アキノキリンソウ(黄色)が咲き始め、

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②.椿の堅い殻が割れて種が顔を出し、

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③.茶の花のつぼみがまん丸く膨らんでいる。

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自宅の小さいベランダで3つの鉢植えのバラを育てている。朝窓を開けると朝日に黄色いバラが目に入る。名前は「ヘンリー・フォンダ」西部劇によく出ていた俳優ヘンリー・フォンダにちなんだ名前。10月20日(火)早朝撮影。今がバラのきれいな時期。

2020年10月23日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年10月22日 (木)

府中地区の10月の19行動

府中地区の今月の19行動の様子がいつものように小川敏男さんから送られてきました。そして「戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会」のメーリングで、「安保法制に反対する府中市民の会」の石岡真由海さんからも情報が寄せられていますので、二つの情報を編集してお知らせします。

府中地区の今月の19行動は、19日()の午後3時から上下のAコープ前で8人が、午後4時30分からは場所を府中天満屋前で9人が参加し、それぞれ30分ずつの街宣が行われました。この2か所は、府中地区の定例の街宣場所のようです。

石岡さんのメールでは、その様子がこう伝えられています。

「リレートークでは、安保法制、朝鮮学校無償化裁判判決、核兵器禁止条約成立間近、非正規の賞与などを認めない最高裁判決など、いずれも憲法や法律や手続きを無視した政治にNOを突きつける多くのトピックが、原稿を手にしたそれぞれから熱く語られました。毎回お元気で参加される98歳の引揚者には感謝しかありません」。そして「今回は『#日本学術会議への人事介入に抗議する』の横断幕を緊急に掲げたところ、予想を上回る多くのドライバーたちに、注目し、手を振る、頷く、会釈する、車内で会話するなど反応が見られました。この件に関し、政府の説明不足を感じている市民が70パーセント以上との世論調査が出たばかりで、関心が高いことを体感した。」と今月の特徴的な街宣の様子が報告されています。

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また小川さんから届いた参加者の一人の街宣原稿では、石岡さんから紹介していただいた内容と共に次の二つの内容が記されています。

一つは、社会保障会議が検討していると言われる「不妊治療への保険適用や男性の育休を促す政策」です。「本当にやるべきことは、子育て世代への支援は急いでやるべきことです。具体的には雇用の確保、子育てと仕事が両立できる環境の整備、家事や育児を男女がともに担うことが当たり前となる環境を整える必要があります。」と記されています。私もその通りだと思います。抜本的な少子化対策こそ求められています。

二つは、森友学園問題での文書改ざんです。「だれが改ざんしたのか、改ざんを命じたのはだれか、赤木さんの精神的苦痛や自殺の原因解明は、国民にも明らかにすべきです。なぜこのようなゆがんだ行政がまかりとうたのか、明らかにする必要があると思います。『真相を知りたい』という昌子さんの訴えは国民の多くの思いです。改ざん行為についても財務省本省とのやり取りをまとめたファイルがあったと言われています。何としても真相究明をしてもらいたいものです。国民に真実を伝えないのは国民をなんだと思っているのでしょうか。」

今月20日発売された菅首相の「政治家の覚悟」の改訂版では、「『政府があらゆる記録を克明に残すのは当然』と公文書管理の重要性を訴えていた」記述のあった章などが削除されたことが話題になっていますが、安倍政権の「公文書を改ざんする」政治姿勢までもを継承していることを示しているように思えます。

府中地区の19行動の様子は以上です。粘り強く続けられている行動をきちんと評価したいと思います。

三原の行動も紹介しようと思いましたが、藤本講治さんから「17日()に予定されていた19行動は、残念ながら雨のため中止になりました。11月は21日()の街頭行動と11.29市民集会(学習講演会)の開催を予定しています。」と連絡がありました。

いのちとうとし

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2020年10月21日 (水)

「今でしょ!」・その2 ――「SUGA」政権は「本気」――

「今でしょ!」・その2

――「SUGA」政権は「本気」――

 

学術会議の会員任命拒否という暴挙についての考察を始めましたが、前回はその動機を取り上げました。今回はその続きで、菅政権が「本気」で言論弾圧に取り組んでいることを俎上に載せます。少し長くなりますが、お付き合い下さい。

前回は、菅政権が学術会議いじめを端緒に言論弾圧に乗り出した二つの「動機」を例示しました。今回は、菅政権が、言論弾圧に「本気」で取り組んでいることを、荒っぽい証拠になりはしますが、証拠とともに明らかにしたいと思います。

まず、前回示した動機の内の②、つまり、防衛装備庁が軍事研究を強力に推進するために「安全保障技術研究推進制度」を作ったにも関わらず、その制度に反対した学術会議への対抗策として、菅政権があからさまに言論弾圧を始めた辺りを中心に振り返りましょう。

① 最初はお金です。理工科系の研究にはお金が掛ります。(数学の一部など、例外はあります。) バブル時代は例外だったのかもしれませんが、研究補助費は限られています。「二番目では駄目なのか」という蓮舫議員の言葉が有名になりましたが、二番目から一番目になるためには、通常、とてつもない資金が必要になるのです。

  いや、それ以前の問題として、研究費そのものが危機的状況にあるのです。文科省が作成した、このグラフを御覧下さい。

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政府負担がほぼ横ばい状態なのです。そんな中、前回指摘したように防衛装備庁が大学の研究者たちに、「軍事研究をすれば資金は潤沢にありますよ」、と呼び掛ければ結果は火を見るより明らかです。

➁ 憲法9条改正や軍事研究に反対する日本学術会議の存在がハッキリ射程に入ったのは、前回も指摘したように2017年に同会議が「軍事研究反対声明」をまとめて、いわば「全研究者」を代表して政府の方針に盾を突いた時でした。

  その直後の秋、当時の大西隆会長は、新たに選任される105名の名簿を事前に政府側に説明するよう求められ、それに従ったとのことです。これは、学術会議法第三条、すなわち「第三条  日本学術会議は、独立して左の職務を行う」ならびに第七条、「2  会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」、そしてそれらが依拠する憲法23条、「学問の自由は、これを保障する」違反です。

  当然、この時点で学術会議会長は事実を公開して、国民的問題として政府に対峙すべきだったのですが、なぜかそのような行動にはつながりませんでした。結果として、政府がこれらの法的枠組みを無視し続け、有名無実にする土壌を提供してしまったのではないでしょうか。

③ 任命の対象となる学術会議推薦名簿の事前提出がすんなりできてしまったのですから、権力側の次の一手は、実際に任命「権」を行使して学術会議のメンバーを選び、権力支配を徹底させることになります。しかし、その前に、それなりの批判があることを前提に、次の「内部文書」

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を内閣府が作りました。2018年です。学術会議法の7条が、名実ともに総理大臣の任命権を正当化しているという内容です。学問の自由や学術会議の独立性を蔑ろにしていることも大問題ですが、こうした原理・原則が民主主義を続けるため、いや人類の生存を確実にするために必要不可欠であることへの配慮などは微塵も感じられません。しかし、「権力者の言い分は正しい」という命題に忠実に従う姿勢は歴然としています。

  その内容は論理的に破綻しているのですが、それは問題ではありません。文書のあることが重要ですし、後で触れますが、菅総理大臣の意志を貫くための道具として立派に役立つからです。

④ 今回の、6名を任命拒否するという暴挙は、こうした準備を整えつつ、機の熟するのを狙っていた菅総理が、その機が来たと判断した上でのことだと考えるのが自然でしょう。

④ 人事だけに絞って学術会議を屈服させるというのも一つのやり方ですが、菅政権は学術会議の組織・資金・そして存在そのものの見直しまで同時進行させています。それも、「ブラックな霞が関をホワイトにする」という謳い文句の「行政改革」の一環としての見直しなのです。もちろん、それには目的があります。私たちの守備範囲が増えますし、言葉による対抗策に頼る私たちにとって、より多くの文字数が必要になるため、悪くすると焦点がぼやけてしまって、大きな対抗勢力をまとめることが難しくなる可能性が大きいからです。

 という具合に進行しているのですが、正に用意周到、マスコミを操作し世論も誘導しながら「学術」などという言葉とは縁の遠い多くの市民の無関心さに乗じているのです。ジョージ・オーウエルの『1984年』に描かれた世界実現を目指していてもおかしくはありません。

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「ビッグ・ブラザー」が実現してしまえば、かつてのナチスのように、勝手気儘な施策を展開すれば良いのですが、現在はそこにまでは至っていませんので、それなりの説明が求められ、受け答えをしなくてはなりません。菅総理は「総合的、俯瞰的」視点からという説明しかしていないのですが、これでは何の答にもなっていない上に、仮に、このような表現に意味があるとすると、拒絶された6人が実際に任命されると「総合的、俯瞰的」という条件が満たされなくなることを示さなくてはなりません。

しかし、そのような論理的な議論をする積りは全くないのが、現政権そして前の安倍政権の特徴です。それは、論理的な議論をしようとする相手に対する「必勝法」が存在するからなのです。詳しくは、野崎昭弘先生の名著『詭弁論理学』(中公新書) をお読み頂きたいのですが、それは「強弁です」。とにかく自分の言い分を、相手を無視してでも言い続けることに尽きるのです。つまり、「黒は白だ」と言い続ければ、最後には「合理性」を掲げる相手であっても (いや、「だからこそ」と続けた方がより良い説明だと思いますが―――) 屈服させることができるのです。

そして、「言い続ける」言葉として「空集合」を選べば、それは何も言わないことになります。ずっと答弁を拒否するのも、「強弁」の一形態なのです。

 それも含めて、内閣府の作った「内部文書」を根拠に、「総理には任命権がある」と言い続ければ政権側が勝つのです。時間が稼げれば、アメリカ大統領選挙があり、コロナの状況も変わるでしょう。実際に開催されるかどうかはまだ不確定ではも、東京オリンピックも大きな話題です。そして来年の今頃は衆議院選挙一色になるでしょう。マスコミ的には「学術会議」の旬は過ぎ去っているでしょう。さらに、時間が経過することで「任命拒否」は既成事実になって行きます。3年経てば、任期が6年であるにせよ、その前の任期の会員たちの任命についての是非が問題視されるかどうか、心許ない状況になるでしょう。

しかし、それだけではないのです。「強弁」という手法は、目の前にいる相手には通用するのですが、マスコミを通して、より多くの「大衆」を騙すためには他の方法も必要になります。それは、多くのコマーシャルで使われているように、「イメージ」を通して、言葉を超えたメッセージを伝えることです。

そのために菅政権が使っている「イメージ」はかなり巧妙です。今、行政改革の目玉として大宣伝を行っているのは、ハンコの追放です。「面倒臭いハンコや、押印は止めましょう」に賛成する市民は圧倒的多数でしょう。そのイメージが「行政改革」なのですから、それと「学術会議」をだぶらせて世論操作をすれば、その効果は言うまでもないでしょう。「面倒臭い、無用の長物である学術会議などいりません。ハンコと同じです。」と言われて、内容も分らないまま、賛成する人が増える結果になってしまう可能性があるのです。

押印が日常的に要求されている社会は沢山あります。しかし、学問の自由や表現の自由が蔑ろにされる社会は、人類史上でようやく私たちの自体、あるいはそれに使い的に勝ち取ることのできた貴重な存在です。それを混同させることで、基本的人権を制限しようとする権力側の意図を見抜かなくてはなりません。

実際には、学術会議を廃止するのではなく、「罪一等を減じて」存続は許すが、規模を縮小して経費を削り、人員も減らした上で、「専門家会議」と同じように政権の忖度に終始する組織に衣替えさせるくらいの狡さは当然、持ち合わせているでしょう。「醜い」知恵だとしか考えられませんが、そんな目標を達成しようとしている「SUGA」内閣とは、「Super UGly Administration」 (訳は、「超醜い政権」) の略だと考えるのが相応しいように思えるのですが、如何でしょうか。

こうした動きに対して私たちのできることは何なのでしょうか。学術会議を「忖度会議」にまで劣化させないためにも、「憲法23条 学問の自由は、これを保障する」や「第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」の意味をもう一度噛み締めて、理解を深め、その理解をより多くの人たちに広げる努力をする必要があるのでないかと思います。

そんな努力の意味を、ナチスの犠牲になり、『1984年』を自ら体験したドイツの哲学者、ノーマン・ニーメラーは、次のような詩に託しています。

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

 

そうです。任命拒否された6人の一人ではなくても、学者ではなくても、学問とは縁がないと思っていても、政治に興味がなくても、一人では何もできないと思っていても、行動するのは「今」なのです。

[2020/10/21 イライザ]

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2020年10月20日 (火)

ヒロシマ平和絵画展―被爆75年 あの日から今 そして未来へヒロシマの心をつなぐ

旧日銀広島支店で、24日までの会期で「広島平和絵画展」が開催されています。私も、このブログで紹介したことがある藤登弘朗さんから、案内状が届いており、昨日足を運びました。

この絵画展は、「多くの画家たちが“ヒロシマ”をテーマに作品を制作し、平和を願い核廃絶を訴えてきました。被爆75年を機に、本企画の趣旨に賛同する広島市在住のプロとアマチュアの作家が‟ヒロシマ”をテーマにした作品を持ち寄り、絵画展を開催しました。この開催を通して平和と核廃絶への思いを共有し、さらに創作活動を高め合い“ヒロシマの心”を未来につなぐことができればと考えております。」(「ごあいさつ」から引用)との趣旨で、14名の作家が賛同し、今年初めて開催されたものです。

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会場には、全部で52枚の絵画と6個のオブジェが展示されています。入ってすぐのフロアーには、小品が並んでします。そこですぐの目に飛び込むのは、吉野誠さんのアルミを使ったオブジェです。吉野さんの作品との久しぶりの出会いです。

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真ん中ほどに「被爆アオギリの前で被爆ピアノの演奏」と題した作品があります。右横にこの被爆アオギリとゆかりの深い沼田鈴子さんの写真が、簡単な被爆状況の紹介文と共に立てかけられています。

一渡り見終えて、奥の展示場に移動します。入り口に受付が設けられています。検温を受け、出品目録を受け取ります。受付には、私に案内状を送っていただいた藤登さんが、座っておられました。

この展示場には、いただいた作品目録に掲載された作品が並んでします。100号を超える作品が何枚もあります。このフロアーで最初の目に付いたのは、久保田辰男さんの水彩画3枚です。被爆樹木が描かれています。私も訪ねたことのある被爆樹木ばかりです。その一枚「被爆樹木ナツミカン(光明院)」です。

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そのすぐ横に藤登さんの水彩画が並んでします。ずっと進むと、私の知人西村不加止さんの作品2点「希 NOZOMI」「複 ヒロシマ2011」(下の写真)が並んでいます。

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西村さんの絵画展には何度か行ったことがありますが、ここでも足を止めてゆっくりと見ます。そのすぐそばに、吉野誠さんらしいタイトルの油絵2枚があります。さらに進むと、見たことのある絵が目に飛び込んできました。

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4月8日のブログ「『原爆の絵8号碑』の除幕式」(http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/04/post-affde8.html)で紹介した米田勁草さんの絵の原画「広島不虚―ひろしまむなしからずー」です。

今回の「広島平和絵画展」を最初に呼びかけられたのが、米田勁草さんだったそうです。そのことは、昨日(10月19日)の中国新聞1面の「天風録」に書かれていました。

ところで今回の絵画展には、旧陸軍被服を取り上げた作品が、5点もありました。下は、寺本三省さんの作品です。

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出品目録に並んでいる作品は、31点ですので、同じ題材の作品が5点もあるということは、旧陸軍被服支廠への関心の高さを表しているように思えました。原爆投下機エノラゲイを取り上げた野尻純三さんの「広島・長崎の涙」には、珍しく「アメリカB29爆撃機(通称エノラゲイ)」と題する解説文雅楽の下に取り付けられていました。

今日の受付当番は、西村さんですので、私は今日もう一度行くことにしています。この「ヒロシマ平和絵画展」は、24日まで開催されています。ぜひ行ってみてください。

いのちとうとし

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2020年10月19日 (月)

第13回中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い

昨日午後1時半から、安芸太田町坪野の中国電力安野発電所内に建つ「安野中国人受難之碑」前で、「第13回中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」が開催されました。

毎年この集いには、中国の遺族代表が参加していましたが、今年はコロナの影響で不参加での開催となりました。

全員で黙とうをささげた後、主催者を代表して「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」世話人代表の足立修一弁護士が「中国のご遺族をお招きすることができませんでしたが、今後も『継承する会』として、和解事業によって築かれた日中間の友好と交流を深め、被害者の追悼、歴史の継承を、皆さま方とともに継続していく決意を申し上げる」とあいさつ。

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続いて中国から届いた「安野中国人受難者・遺族」からのメッセージが読み上げられました。「本日、ここで追悼活動が行われることには二つの意義があります。一つは、今年は抗日戦争勝利75周年であることです。もう一つは、記念碑の除幕式10周年であることです。(中略)この記念碑は、歴史を継承し続けるだけでなく、中日人民の友好の証人であることを固く信じています。日中両国、そして両国人民が世代を継いで友好でありますように!」

続いて来賓のあいさつ。橋本博明安芸太田町長、藤井慧心善福寺住職、頼信直枝広島県教職員組合執行委員長と続きました。中国駐大阪総領事館からは何振良大使級総領事のメッセージが届きました。

あいさつが終わり、竹内ふみのさんによる追悼のための二胡の演奏です。

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演目は「燕になりたい」です。遠く離れた異国の地に強制連行され、強制労働を強いられた受難者の人たちの「故郷に帰りたい」という思いを込めて作られた曲と感じました。竹内さんには毎年二胡を演奏していただいています。続いて、参加者全員による献花です。竹内さんの二胡の演奏が続く中、一人ひとり思いを込めての献花が続きます。演奏された曲目は「陽関三畳」です。「陽関三畳」は、中国唐時代の詩人王維が作った別れの歌で「別れを惜しむ」ことを意味しているそうですが、こうした追悼の場にもふさわしい曲でした。竹内ふみのさんいつもありがとうございます。41名の献花が終わり、集いは終了しました。

例年は、この後発電所の上にある導水路まで上がり、当時に思いをはせるのですが、今年は中止することになりました。

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集い終了後、場所を善福寺に移し、追悼法要です。安野に強制連行された中国人は360名ですが、29名が再び故郷に帰ることなく、命を失っています。3人は、日本に来る途中で、5名は、原爆によって命を奪われました。21名は、この地安野で過酷な労働を強いられ命をなくしています。そのうちの5名の遺骨が、ここ善福寺にあずけられていましたが、1958年に中国に送還されました。現在、その遺骨は中国の天津にある「在日殉難烈士・労工紀念館」に、日本から送還された他の遺骨とともに安置されています。

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善福寺では、毎回「安野中国人受難之碑」前の集いの後、追悼法要が営まれています。今回も藤井住職の読経によって法要が営まれ、全員が焼香をしました。藤井住職のご厚意で、日本式の焼香と中国から持ち帰られた中国製の線香が準備され、いずれかで焼香することになりました。多くの人が、「香も中国に届け」と中国製の線香を手に、頭を垂れました。

最後に、川原さんが「中国から来た遺族たちは、碑前での集いではなかなか心を落ち着けることができなかったようですが、善福寺の追悼法要でようやく『非常に慰められ、本当の意味で和解の気持ちが湧いてきた』と話されていました」と、ここで営まれる法要の意義を語ってくれました。

法要の最後は、栗栖薫さんの証言です。当時中学生だった栗栖さんが見た中国人の様子を、当時を思い出しながら話していただきました。

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「交代時(当時は2交代で作業)、行進中掛けていた『イー、アール、サン』と掛け声も数カ月後には、疲労のため声が聞こえなくなった。トンネル内は水だらけ、その中に浸かりながらの作業。1945年になると食べるものも毎食こぶし大の万頭が一個になってしまった」などなど。栗栖さんは、1998年1月に提訴した広島地裁の審理で証言台に立ち、当時の様子を詳しく証言されています。来日した中国人の人たちにも語りつづけてこられました。

これで全ての日程が無事に終了しました。中国の遺族代表が参加しないつどい・法要は少し寂しさを感じました。ぜひ来年は来日できるよう今から祈っていたいと思います。

いのちとうとし

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2020年10月18日 (日)

「安野中国人受難之碑」建立10周年記念集会 ―碑と向き合うー

2010年10月23日に安芸太田町の中国電力安野発電所に「安野中国人受難者之碑」が建立されて、今年は10周年を迎えました。「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」が主催する記念集会が、昨日午後2時から広島弁護士会館で開催されました。

第一部は、「『安野中国人受難之碑』の建立」と題し、改めてこれまでの経過を振り返りました。

最初に、元西松安野友好基金運営委員の杉原達さんが、和解成立までの取り組みを紹介します。1992年から96年にかけての実態解明の活動、並行しながら始まった西松建設との補償交渉。しかし「日中平和友好条約によって解決済み」とする西松建設の表明で話し合いは決裂。1998年から裁判闘争がスタート。そして敗訴した2007年4月の最高裁判決で「西松建設を含む関係者において、本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待される」と付言がついたことをてこにした西松建設との交渉が実り、ついに2009年10月23日和解が成立し、その事業の一環として「安野中国人受難の碑」が建立されたことが報告されました。

杉原さんは、記念碑建立の意義を「①被害者と加害者が連名で、強制連行の歴史事実と建立経過を後世に伝えるために明記したこと。②強制連行された受難者360人全員の名前を刻んだこと」だと強調されました。

次は、碑の建立に携わられた安芸太田町の(有)吉村石材店社長の吉村正則さんのお話。

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碑は中国福建省の石を使ったこと、文字の間違いがないように、特に名前の文字は3cm角の中に刻むため細心の注意をしたことなど苦労された様子が話され、最後に「碑は、石材店として後世に残しても恥ずかしくない碑だと思っている」と碑への思いを強調されました。吉村さんは、毎回の碑前のつどいに参加されていますが、お話を聞くのは初めてでした。

次は、1992年の実態解明以来、活動の中心を担って来られた川原洋子さんの話です。2010年10月23日の「安野中国人受難之碑」除幕式の様子を映像で紹介し、写真と共に7人の強制連行受難者のそれぞれの生き様を、受難者・家族・遺族が「碑が果たす役割」についてどんな発言があったかの紹介がありました。

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川原さんは、まとめとして「受難者・家族・遺族は記念碑をどう評価しているのか」として次の4点を紹介しました。「①事実が刻まれている。②記念碑が建立され、これで亡くなった人たちに報告できる。正義と公正と尊厳を取り戻すことができた。③記念碑は受難之碑だが和解の記念碑、友好の碑となるだろう。④悲惨な歴史を忘れてはいけない、繰り返してはいけない。」

④は日本人に対する戒めです。③加害と被害の歴史を乗り越えていけることを示したものだと言えます。ただ、この碑を見ることができたのは5人の受難者だけだったことを忘れてはなりません。

10分間の休憩をはさんで「第二部 碑が歴史を継承する」です。

最初にルポライター室田元美さんの「各地の中国人強制連行碑から見えてくるもの」と題した、ルポ報告です。「私は、中国人・朝鮮人・連合軍捕虜などが連行され、働かされた炭鉱、鉄道、ダムや発電所、飛行場など60カ所以上を訪ね、その歴史について伝える活動をしている地域の人から話をうかがってきた」と自己紹介をし、秋田県大館市の花岡や長野県下伊那郡天龍村の平岡ダムなど6カ所の中国人慰霊碑を紹介されました。

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「各地の追悼碑を訪ねるまでは、碑は単に『歴史を記憶するもの』だと思っていた。それは大きな間違いだった。・・・碑がつくられるに至る、地道なとても長い行程そのものが平和への歩みだと知った。」と、碑の持つ大きな意味が強調されました。

最後に内田雅敏弁護士から「中国人強制連行碑の歴史」と題し、「安野中国人受難之碑」が果たした役割が話されました。その中で特に、この碑が「死者だけでなく受難者全員の名前を記すことによって、強制連行、強制労働の記憶を忘れさせない意味を持つものとなった」ことが強調されました。

最後の質疑で「碑に『受難者』という言葉が刻まれた経緯は?」との問いに川原さんの「中国の人たちが協議してこの言葉を決めました」との答え意を聞きながら改めて思い出したことがあります。この碑の建立のスタートとなったのは、1993年の原水禁大会に被爆者代表として参加された呂学文さん「強制連行、強制労働によって、私の人間的尊厳が奪われてしまいました。その奪われた尊厳を何としても回復したいのです」と、強い口調で言われたことです。それが、3項目要求(謝罪、記念館・記念碑建立、補償)となり、長い闘いの中で結実したのです。呂学文さんのこの言葉は、何時までも私の記憶に残っています。その呂学文さんもこの碑はもちろん、裁判の結果も見届けることはできませんでした。

いのちとうとし

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2020年10月17日 (土)

広島高裁、朝鮮学校広島無償化裁判で不当判決

昨日午後3時、広島高裁302号法廷で、朝鮮学校無償化裁判の控訴審判決が言い渡されました。判決は、広島地裁での原審を支持する「控訴人側敗訴」とする不当判決でした。

午後1時15分、広島弁護士会館に集合した弁護団、原告、保護者、支援者など約150名が、横断幕を掲げ、法廷入りをしました。裁判所前には、多くのマスコミ関係者が待機し、法廷入りをカメラや写真に収めていました。

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コロナ下の裁判ということで、広島高裁では最も大きな法廷が使われましたが、用意された傍聴席はわずかに16席しかありません。傍聴券を求める人は、196名に達し、長蛇の列となりました。

抽選の結果、私は入廷することができず、他の支援者と共に裁判所入り口で、判決を知らせる旗だしを待ちます。開廷後しばらくすると、2名の弁護士が旗をもって出てきました。しかし、出された旗には「不当判決」「子どもたちを司法がみすてた」の文字が書かれています。見守っていた支援者から、厳しい声が飛びます。涙を流す人の姿もあります。「不当判決は許さない」「われわれは戦うぞ」のシュプレヒコールの声が上がります。

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午後4時から弁護士会館で、弁護団による記者会見です。最初に平田弁護士が判決の要旨を紹介し「弁護団の主張がすべて退けられ、原判決を容認するばかりでなく、原判決では曖昧あった部分をさらに穴埋めして、強化するという不当極まりない判決。全く本質を見ていない」と厳しく指摘。

続いて足立弁護団長が「極めて残念な判決。9回の口頭弁論、その中では地裁審理で認められなかった原告、証人尋問が行うなどの訴訟指揮は、われわれに期待を持たせたが、見事に裏切られた。」と報告。朝鮮学校の前校長で現理事長の金さんは「怒り、憤り、悔しさ、残念との思いが募る。原告・証人尋問も原審でやっていないからやったというだけなのか。3年間は無駄な時間を過ごしただけ。司法も行政も同じ判断しかできなくなっている。少数者の意見を無視してもよいとなっていのではないか。しかし、決して下を向きません。」と怒りと共にこれからも戦い抜く力強い決意の表明。

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保護者の原告代表の朴さん。「またか、と空しさを覚える。この10年間で、朝鮮学校は138名も生徒が減少しています。そのほとんどが経済的な問題です。74年の歴史を誇る朝鮮学校を存続させることができるのかと不安な状態が続いています。朝鮮学校・ウリハッキョをつぶそうとする動きに他なりません。朝鮮学校だけを公的助成から排除することは、民族教育の権利を否定するばかりでなく、在日朝鮮人は差別されてもしかるべき存在であり、ひいては国の意に沿わない者は差別してもよいという悪しき風潮を国が煽ることに他なりません。」厳しい言葉での挨拶です。そして「日本に暮す朝鮮人として堂々として胸をはり、日本と朝鮮の架け橋となる人材を育てる広島朝鮮初中高級学校のサポーターとして、この闘いに勝利し、子どもたちの未来が明るく輝き楽しく学校生活が普通に遅れる、その日を引き寄せるために一致団結して闘います。」と決意を述べました。

午後6時30分からは、朝鮮学校の講堂に場所を移し、「報告集会」が開催され200名を超える人たちが、全国から応援に駆け付けた人たちとともに、改めて決意を固めあいました。

私がこの判決を聞いて思ったことはただ一つです。「裁判所も差別者となってしまった」ということです。2017年7月19日の広島地裁での不当判決後、3年間毎月続けられた19日行動。私も何度か参加しました。一人ひとりの生徒たちが、マイクを握り声の限り市民に訴えった姿を私は忘れることができません。

この裁判で問われたことは、高校無償化法の法律の解釈の問題ではありません。その本質は、朝鮮学校に通う子どもたちだけが、どうして差別されなければならないのか、差別が許されてよいのかを問うものだったはずです。差別が厳しく問われる今、この厳然として、政治によって、大人によって平然と行われた差別が許されるのかどうかが問われた裁判だったはずです。しかし、今回の広島高裁の判決は、その問いに答えるものとはとても言えません。この明らかな差別と向き合わないということは、司法自身が差別者となったことを意味するのです。

「行政の側にのみ目を向ける」司法判断が続いている現実がありますが、昨日の判決は、法解釈を捻じ曲げた不当判決に留まらない許すことのできない差別者の、差別を助長する判決だったと私は声を大にして訴えたいと思います。

いのちとうとし

〈訂正〉保護者の原告代表の朴さんの発言を「記者会見の場」としていますが、正しくは「報告集会」でした。読者からの指摘をいただきました。ありがとうございます。

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2020年10月16日 (金)

ベルリン・ミッテ地区の「少女像」撤去問題―ドイツ国内では

昨日の中国新聞6面(国際ニュース)の中央部やや下段に、「少女像設置『当面認める』 撤去要求のベルリン・ミッテ地区」の見出しが書かれた写真入りの囲み記事が掲載されました。

詳しくはこの記事を読んでほしいのですが、ドイツのベルリン市ミッテ地区の公有地に設置された旧日本軍の慰安婦被害者を象徴する「平和の少女像」を、「14日まで」とした撤去期限を前に「当面は認める」と区長が方針を変更したことを伝えています。ミッテ地区は、国会議事堂はじめ連邦政府、ほぼすべての大使館などが立地するベルリン市の中央に位置する場所です。

ミッテ区長による「撤去命令」が出されて以降、私の受信メールにも何通も「日本国内でも署名を集める」ことへの協力を求めるメールや情報が届いていました。気になりましたので、「ドイツ国内での関心はどんな様子だろうか」と、いつものように、ドイツ・ベルリン在住の福本まさおさんに情報提供をお願いしていました。新聞記事とタブらないように、福本さんからの情報を紹介したいと思います。

第1報は、10月12日です。

「今回平和の少女像が設置できたのも、その趣旨に区長(緑の党)が賛同したからでもあると思っています。ただ平和の少女像設置で、韓国と日本に見解の違いあることがわかって、そういういざこざに巻き込まれたくないというのが区長が撤去を求めた背景だと思われます。・・・日本政府が、慰安婦問題を戦争における女性問題としてではなく、単に第二次世界大戦における日本と韓国の見解の相違の問題だけだとして説明したのだろうと想像できますがね。

ただドイツの市民ではどうかというと、左派系の新聞は取り上げていますが、その他ではニュースにもなっていません。慰安婦問題では、以前ベルリ在住だった矢島さんの写真展等があれば、政治誌などで取り上げられてきたわりには、今回関心がないように感じます。」「緑の党本部も、この件で反応していないと思います。この問題では、日本人女の会も積極的なのですが、賛同署名を求めるメールもきてませんね。なぜなのかわかりませんが。聞いてみようとは思っていますが。」

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この時点では、市民の関心はあまり広がっていなかったようです。このメールに対し、「マスコミはどうですか」と問い合わせたところ翌日(10月13日)次のメールが届きました。

「一般紙でもこの問題取り上げられるようになってきましたね。地元紙の一つは、撤去命令を撤回すべきと論調しています。ベルリンの芸術家の団体も抗議しています。少女像のある地域の市民団体も、抗議の公開書簡に賛同しています。ちょうど公園のある角にあって、市民の憩いの場になりつつあるようです。区長は緑の党ですが、党内でも問題になってきたようです。」

次に送ったメールは「ドイツ政府はどう考えているのですか」の問いです。その返事がすぐに返ってきました。

「ドイツ政府はなにもいってません。日本政府からの要請をベルリン市に伝え、ベルリン市が少女像のあるミッテ区に伝えた感じですね。・・・ドイツ政府もベルリン市も、日本政府の要請を管轄の自治体に伝えましたよということで、やることはやった、でも実際にどうするかは、われわれは知りませんということにするのだろうと、小生は想定しています。・・・昨日のデモには、平日の昼でしたが、300人くらい集まりましたかね。韓国人が中心でしたが、ドイツ人も集まっていました。」

福本さんの見解が続きます。

「小生も、コリア協議会は少女像を撤去すべきではなく、そのまま放っておいたほうがいいと思っていました。それでも、区は強制撤去しないだろうと。もし強制撤去したら、問題がさらに大きくなります。それで日本政府がまた横槍を入れてきたら、ドイツ社会で日本政府の醜態ぶりがより明らかになるだけです。また、慰安婦問題がよりドイツ社会で知れ渡ることにもなります。そのほうがより効果的ですがね。でも、少女像はそのまま残ると思います。今回の日本政府の対応は、ドイツ社会に慰安婦問題をより広め、日本が戦後処理していないことをよりはっきりさせただけではないですか。」さらに「裁判所も撤去せよとはいわないので、像の保全を求めるのではないかと想定しています。民主国家では、言論の自由は守られます。それを国家権力で押しつぶしてはなりませんよね。それと、日本政府の横槍は内政干渉といわれても、おかしくありません。ドイツ政府が慰安婦問題で独自の見解をもってもいいわけです。」

福本さんの情報によって、徐々にベルリン市民の関心が高まったことが分かります。そして「当面認める」方針になったようです。

調べてみると、ベルリンの像は、ドイツで3番目、公共の場所では最初です。2017年にドイツ国内バイエル州に設置された「少女像」は、私立公園「ネパール・ヒマラヤ・パヴィリオン」内の一角に設置されたのですが、この時も日本領事館が、公園所有者に面会し直接「像の撤去を要求した」ようです。しかし、公園所有者から「像の撤去に応じる考えがない」と表明されてしまったそうです。

事の発端は、日本政府による横やりです。改めて私たち自身の課題として問いかけられている問題として考えなければならないと思います。

いのちとうとし

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2020年10月15日 (木)

10月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

台風14号が広島県を避けてくれたので10日からはいい天気になった。10日は安芸の郷でcafeさくらによるソトカフェが行われ、そこそこ広い庭にテントタープなどを立てて屋外でのカフェを多くの方に楽しんでいただいた。終日スタッフとして作業したが携帯の万歩計は19983歩を指していた。翌11日は少し遅めに農園に行きブルーベリー畑の防草シートをはがして折りたたむ作業を12日まで行った。鉛筆くらいの細さの黒い蛇や1匹だけの赤とんぼや糸トンボに出会う以外風もほとんどなく静か。

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10月11日(日)。

 ①.先週に引き続き里山の周辺にある栗の木の実を拾う。網いっぱいになるまで集めた。晩御飯のあとで割って素朴に食べる。

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 ②.ブルーベリー畑はもとは田んぼだったのでのり面の下には小さい溝を掘ってある。その水のある周辺に白くて小さい花が群生している。

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 ③.ミゾソバらしい。

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 ④.ブルーベリー畑の防草シートをはがして折りたたむ作業ではブルーベリーの木の小さい場所では草がよく茂る。シートの上にもがちっと食い込み根を張っている。一株ずつ引きはがしながらシートを畳んでいく。根気仕事だ。

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10月12日(月)。

 ①.防草シートをはがして折りたたむ作業は3段ある畑の一番下が終わり、2段目の2列まで畳んでこの日はおしまい。

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 ②.防草シートをはがすとその下にブルーベリーのひこばえがひょろひょろと真っ赤な茎状の芽を伸ばして現れる。

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 ③.上方のブルーベリーの葉はところどころで少しずつ紅葉し始めている。

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 ④.残っているブルーベリーの実を口に入れて作業で乾いたのどをちょっとばかり潤わせる。

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 ⑤.ブルーベリーの木にはまだアマガエルがいる。一回り大きくなっている。オイ!

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 ⑥.農作業をしまって富有柿をとる。今年は少ない不作の年。

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 ⑦.帰りに倉庫に保存しておいたもみ殻袋を取り出して車に積む。来週森の工房みみずくが高屋町の農家に行ってもみ殻を100袋ほど詰めて持ち帰り海田町三迫のブルーベリー園に敷き詰めるのに必要なので資材を提供するためだ。

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 ⑧.シュウメイギクは農園にはないのだが帰り道の親戚の畑にある。夕暮れにぽっかりと白く咲くさまが物悲しい。

 

2020年10月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年10月14日 (水)

安芸の郷「cafeさくら」のsoto cafeオープン

いつも爽やかで心の癒される「ブルベリー農園」便りを届けていただく遊川和良さんが理事長をつとめる社会福祉法人安芸の郷の「cafeさくらのsoto cafe」が、10月10日の土曜日オープンしました。安芸の郷には二つの工房がありますが、「cafeさくら」は、第2森の工房AMAの入り口に造られ、毎週月曜日から金曜日までの10時30分から16時までオープンして、施設の利用者だけでなく近所の人たちからも親しまれています。

安芸の郷では、毎年秋のこの時期に「ブルベリーフェア」を開催していますが、今年はコロナ感染拡大防止のため中止せざるを得なくなり、8月1日の「ブルーベリー摘み取り体験会」の時好評を得た「cafeさくら」のみによる「soto cafe」をオープンすることになりました。

この日は、午前10時半からの開始でしたが、私が会場に着いたのは、お昼過ぎでした。参加者の出足は良く、すでに第一陣と言える人たちは帰られた後でしたが、それでも外の芝生広場なもうけられたテーブル席には、ゆっくりと食事を楽しむ人たちの姿がありました。

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まず「cafrさくら」で、食事の注文です。自家製のパンに照り焼きやローストビーフなどを挟んだサンドの写真入りメニューから選びます。ランチは、飲み物・デザートがついて650円から550円。私が選んだのは「ブルベリーソースのローストチキンサンド」です。価格は、550円ですが、100円プラスすると飲み物をブルーベリージュースに替えるとことができます。当然私はブルーベリージュースです。

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出来上がるまで、少し時間がかかります。

安芸の郷のイベントではいつもそうですが、多くのボランティアの人たちが応援に駆けつけています。遊川さんの「ブルーベリー農園」でも紹介されていますが、イベントだけでなく夏の暑い盛りのブルーベリーの摘み取りにも多くの人たちが協力しています。今回もボランティアの人たちが中心になって動いています。私の知人も何人かいます。

注文の品ができるまでの間、建物の中の売店をのぞきます。森の工房で作られている作品が並んでいます。中心は、ブルーベリージャムや天然酵母で作られたパン、焼き菓子です。ここではパンを買うのも楽しみの一つです。

遊川さんの今回の担当は、「ブルーベリーの苗木」販売のようです。

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安芸の郷で育てられた「ブルーベリーの苗木」の2年物3年物4年物が並んでします。何人かがこのコーナーに訪れ、苗木を購入しています。2年物が多いようです。最近、府中町の中学校から苗木の注文が入っているそうです。1年生の入学時に2年物の苗木を購入し、各人が卒業するまでの3年間育てることが、学校行事になっているようです。3年生の時には、初めての収穫を体験することができるということです。

遊川さんとそんな話をしている間に、ようやく注文の品が届きました。注文してから30分余り過ぎています。広い庭に日よけテントともに据えられたテーブルで食事を始めます。

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ローストチキンサンドはもちろんですが、ブルベリージュースの味は格別です。おなかもすいていましたので、一気に食べました。

午後1時半を過ぎても次々とお客さんが車で乗り付けます。私が帰る頃の3時過ぎまで客足は途絶えることはありませんでした。久しぶりに会う友人もいます。台風の影響が心配だったようですが、天気にも恵まれ、今回のイベントも大成功のように感じました。

安芸の郷では、ブルーベリー祭りだけでなく「七夕コンサート」など様々な企画や定期的なブルーベリーの栽培相談などよって地域の人たちとの交流を深める努力をしています。こうした取り組みが評価され、2005年には、秋葉市長から「ひろしま街づくりデザイン賞」を受け、2009年には「まちづくり功労者」として国土交通大臣表彰も受けています。

久しぶりの安芸の郷訪問でしたが、楽しい時間を過ごすことができました。

いのちとうとし

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2020年10月13日 (火)

韓国全教組の正義のたたかい! 大法院、「法外労組通報」は違法と判決!

広教組は、20018月に韓国の全国教職員労働組合(全教組)大邱支部と議定書を結び、両国の教育現場において、共通の歴史認識の形成と、平和教育・人権教育を推進するために、「日韓共通歴史教材」の発行や「平和学習の旅」などを通して交流を深め、友情を育んできました。

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2013年10月、パク・クネ政権下の雇用労働部(日本の厚労省にあたる)が、解雇者の組合員資格維持を理由に全教組に「法外労組通報」を行い、労働組合としての権利を剥奪しました。全教組は、これにより、存在そのものを否定され、激しい弾圧を7年間に渡り受けてきました。この労働権の侵害に対し、全教組は、行政訴訟を起こしてたたかってきましたが、1審と2審では適法であると判断されました。

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201876日 法外労組撤回年休闘争]

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2019525日 青瓦台へのデモ行進(光化門前)]

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2019619日 青瓦台前の断髪闘争(青瓦台=大統領府)]

2020年93日、ついに大法院(日本の最高裁にあたる)が、法外労組通報は違法であるとの判決を下し、事件をソウル高裁に差し戻しました。法外労組通報を規定した旧労働法は、適法な労働組合を任意で解散させるのは労働権侵害として、既に1987年に廃止されています。法律の定めがないにも関わらず、行政部が恣意的につくった施行令によって、憲法および労働三権を制限することは違憲であり、これを根拠にした全教組への法外労組通報も違法であるという判断です。

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202093日 大法院判決 全教組の法的地位回復!再びチャム(真の)教育の道を歩みます]


韓国全教組 クォン・ジョンオ委員長のメッセージ

ついに全教組が勝利しました。全教組の勝利は、法外労組取り消しの切なる気持ちを集めてくださった、組合員や市民、保護者、教え子、そして一緒に連帯した労働者同志のおかげです。彼らの愛に、我々はチャム(真の)教育を実現することでお応えしますという気持ちを込めて、感謝を申しあげます。

今回の判決は、屈折した韓国教育史において、全教組が選択した道が正しかったことを示す歴史的立証です。「法外労組取り消し」闘争は、チャム(真の)教育の旗を降ろさせようとした権力の不当な圧力に立ち向かい、労働組合としての自主性を守るための闘争でした。

この闘争を通じて、ILO協約批准と教員労組法改正のための社会的世論が形成されました。したがって、過去の7年は失われた時間ではなく、新しい教育へ進むための飛躍を準備する時間でした。     (中略)

誇らしい全教組組合員の皆さん! 6万人の組合員が自ら苦難の道を選んだ唯一の組織が「全教組」です。組合員の誇りと自負心で、新しく強力な全教組建設の道を力強く歩みましょう!ともに誇りを持ち、真の教育の道を再び堂々と歩んでいきましょう。 

 

政府による厳しい弾圧にも屈せず果敢にたたかい続けてこられた全教組の仲間の皆さんに、改めて心から敬意を表すると共に、人権の砦である司法において、極めてまっとうな判決が出されたことに、大変勇気がわきました。新型コロナウイルス感染拡大により渡航が難しい状況ですが、すぐにでも大邱支部を訪問し、この思いを直接伝えたい気持ちでした。

 

為政者は、民主主義を踏みにじろうとするとき、必ず「教育」を狙います。日本の教育現場でも、声をあげにくい息苦しい状況が続いています。しかし、「正しいことは正しい、おかしいことはおかしい」と教育労働者が声をあげることこそが、本当の意味で「教育に責任を持つ」ことです。

全教組の正義のたたかいから、大きな勇気と示唆を受け取り、私たちも人権・平和・民主主義を中心とした運動に粘り強くとりくんでいきたいと思います。

 

よりのぶ

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2020年10月12日 (月)

川内村義勇隊遺族の心のよりどころ浄行寺を訪ねてーその3

浄行寺は、戦国時代の1570年に創建されたという長い歴史を持った浄土真宗本願寺派のお寺です。それを示すものは、本堂にまつられた本尊上の天井に描かれた絵と、本堂前に本堂の幅を上回るほどに枝を大きく横に広げた松です。山門をくぐり境内に入るとすぐに入るのが、横に伸びた松の枝です。本堂の幅を超えています。樹齢は、約300年ぐらいとのことです。本堂から移した写真にようやく納まっています。

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門を入ってすぐ左側に鐘撞堂があります。この鐘楼は、外からでも目に入ります。毎朝6時になると決まった坂山厚住職の手によって、朝の訪れを告げる鐘がつかれます。時刻6時は、義勇隊として動員され大きな犠牲者を出した8月6日の意が込められています。原爆に夫を奪われた妻たちは家族を養うため早朝から働いていたのですが、鐘の音が響くと農作業を止め、手を合わせたといわれています。

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浄行寺でも、他のお寺と同様に戦争中には金属醵出ということで釣り鐘が拠出されました。坂山さんの話では、拠出された釣り鐘は、すぐにドリルのようなもので穴があけられ、再び使用は不可能な状態にされたということです。当然のことですが、拠出された浄行寺の釣り鐘が、戻ることはありませんでした。

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今の鐘は、1952年(昭和27年)5月に川内村(当時はまだ川内村)の門徒たちが、金を出し合って、新たに造ったものです。この時から、坂山さんの祖父で先々代の住職輝秀(きしゅう)さんが、朝の鐘突きを始められ、今も「犠牲者への追悼と平和への思い」を込めて撞き続いているのです。

このことも遺族の人たちにとっての「心のよりどころ」となっていたはずです。

陸軍被服支廠川内村分工場

ところで、今回の浄行寺訪問ではぜひ聞きたいと思っていたことがあります。それは、旧被服支廠の保全を願う懇談会が発行した「赤レンガ倉庫は語りつぐ」の最後の方(P.139,140)に掲載されている「被服支廠年表」の中に出てくる「県立第一県女の教生徒が動員された川内村分工場」という言葉です。

先日の訪問の時、坂山さんに「戦争末期、陸軍被服支廠の一部が、川内村に移転し、第一県女の人たちがここで作業をしたことになっているのですが、温井のどこかご存知ないですか」と尋ねたのですが、その時は「えーそんなことがあったのですか。よくわかりませんね」という返事でした。

「無理かな」とあきらめていたのですが、7日に「義勇隊の碑」のことで再度確認したいことがあり、坂山さんに電話したところ「陸軍被服支廠のことが分かりましたよ。昨日、中温井の公民館で月命日の法要がありましたので、そこに参加された高齢の女性に『陸軍被服支廠』のことを尋ねたら『確か川内小学校だったと思いますよ。小学生で学校に通っていたので、学校の中に県女の人たちが来ていたことを覚えていますから』と教えてもらいました。」との返事です。このブログでもずっと前に触れていた疑問がまた一つ解明できました。私の質問を気にかけていただいていたのだと坂山さんに感謝です。

この電話でもう一つのことを知ることになりました。それは、旧川内村温井地区では今も場所を変えて月命日の法要が毎月6日に続けられていることです。もちろん法要を営むのは浄行寺の坂山住職です

いのちとうとし

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2020年10月11日 (日)

「今でしょ!」・その1 ――言論弾圧の動機――

「今でしょ!」・その1

――言論弾圧の動機――

 

  『法学セミナー』に掲載された拙稿の紹介を続ける予定でしたが、緊急な「事件」が発生しました。拙稿紹介は先送りして、基本的人権の中でも重要な、表現の自由、学問・研究の自由に対する菅政権の「弾圧」に、「今」、私たちが立ち上らないと手遅れになることをアピールします。

 皆さんも御存知のように、問題は日本学術会議の会員105名の推薦名簿から6名が名指しで、「任命拒否」されたことです。それが「言論弾圧」であり、「学問の自由」や「表現の自由」の蹂躙であるとは考えられない方もいらっしゃるかもしれませんが、最後までお読み下さい。事態の深刻さを理解して頂けるはずです。

 とは言え、以下説明する菅政権の策略を支える柱一つ一つについて、誰にも納得して貰える一次資料や信頼できる報道元等を丁寧に提供しているだけの時間がありません。主に結論だけをつなぎ合わせることになりますが、小論の正しさは、やがてどこかの時点で行われる歴史的検証の場で証明されることになると信じています。

 

[動機]

① 安倍政権の継承内閣である菅政権の大目標の一つが憲法改正であることは言うまでもありません。(改「正」ではなく、改「悪」を使うべきだという考え方もありますが、ここでは憲法で使われている単語を優先します。) 安倍政権はその実現のために、様々な策を弄してきたのですが、その一つが、2015年9月19日に参議院で可決され成立した安全保障関連法です。その一環として、それまでは認められていなかった「集団的自衛権」が、いわば「合憲」のお墨付きを得ることになったのです。ですから、「戦争法」と呼んだ方が適切かもしれません。

  しかしながら、世論の反対は勿論 (とは言え、朝日新聞の世論調査では、反対が約半分です。) のことですが、憲法学者からは総スカンを食らいました。同年6月の憲法学者209人を対象にし、122人から回答が得られた朝日新聞の世論調査では、安保法案を「違憲」だと考える憲法学者は104人、「合憲」だと考える憲法学者は2人だけでした。(15人は、「憲法違反の可能性がある」、1人は無回答)。また、9条を改正する必要があると回答した人は6人、必要はないとの回答は99人、無回答その他が17人でした。(6人と99人という数字は偶然ですよネ?)

  これほど圧倒的な差で、「学問」の世界では憲法の平和主義を支持しているのですから、「憲法改正」特に9条の改正を生き甲斐と公言して来た安倍総理個人にとっても、権力者の「忖度」を最優先する官僚たちにとっても、「学者」そして「学問」が邪魔であることは明白です。しかも「権力」を持っているのですから、その力を使って何とかしたいと考えたとしても、「力の支配」信奉者にとっては、ごく自然な流れだったのでしょう。もちろん、権力に対峙し、学問的良心を貫く学者の中には、日本学術会議の会員も当然、含まれています。

 

➁ 戦争の歴史は、使われる武器の歴史でもあるのですが、特に20世紀になってからは、1911年のイタリア・トルコ戦争を皮切りとして、第一次世界大戦でも航空機を使っての空爆が、大きな役割を果してきました。加えて、化学兵器や生物兵器、さらに最近では電子兵器や宇宙兵器なども登場し、科学・技術研究と戦争とは切っても切り離せない関係であることは言うまでもありません。それらの武器が与える被害は勿論なのですが、戦争を推進する立場からは戦略的な重要性が強調されることになりました。

  軍隊という「暴力装置」を独占する国家としては、戦争に勝つという目的のために、科学・技術研究に多額の資金を投入して、軍事力強化のための努力を続けてきました。また、経済的利益につながる科学・技術研究は民間の企業の投資対象になりますが、軍事にも経済的利益にも直接貢献しない分野への投資が減らされる傾向も同時に現れてきました。

  最近のわが国の例では、2015年に防衛装備庁が「安全保障技術研究推進制度」と呼ばれる研究委託制度を創設し、科学者が軍事研究に携わる道を大きく広げました。その予算は、開始時の2015年 に3億円、2016年には6億円、2017年には110億円に増額されました。「科学研究助成金」などの研究助成金が減少傾向にある我が国では、このような委託研究制度が研究者にとって大きな魅力に映っても仕方のない状況でした。応募についての詳細は、防衛装備庁のサイトを御覧下さい。

  一時的には、この制度への応募者が増えたのですが、2017年以降は減少することになりました。研究者の間から、大学その他の研究機関が軍事研究に携わることに対する反対意見が多数出され、2017年には、日本学術会議が、この制度ならびに軍事研究そのものに対しての反対声明を公表したからです。学術会議に対する権力側の怒りが増大したことは想像に難くありません。

 とは言え、学術会議そのものにも大きな問題があるのですが、今回はまず、菅内閣が学術会議を自分たちの支配下に置きたいと考えるに至った大きな理由を二つだけ挙げておきました。

 

 問題は、このような支配が学術会議だけに止まらず、次は大学、その次はというように、徐々にしかも多くの人たちの関心を必ずしも惹かない形で進み、気が付いた時には二進も三進も行かない状況になってしまう可能性が高い点なのです。次回以降も続いて、こうした点について考えたいと思います。

[2020/10/11 イライザ]

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2020年10月10日 (土)

山口県知事に政治決断を求めたい!

 当初、私の担当しているこのブログでは別のテーマを考えていましたが、10月7日中国電力が山口県に対し、上関原発建設計画を進めるための海上ボーリング調査を行うための許可申請を提出したということで、9月25日の「今、上関原発をめぐる状況は!」と重複しますが、お許し願いたいと思います。

 もしかしたらコロナ禍という状況の中で、この度は申請をしないのではなかろうかと微かな期待を持っていましたが、やってしまいました。

昨年7月26日、山口県から中電が埋め立て免許の延長許可を得てからの経過を簡単に振り返ってみたいと思います。免許期間は3年6か月で、その内6か月間は海上ボーリング調査に要する期間とし、残りの3年で埋め立ての本工事を行うという予定としていました。ボーリング調査を行うには、別個に県に対し「一般海域の占有許可」というのを得なければなりません。

昨年の場合、この「一般海域の占有許可」の申請をしたのは10月8日、許可を得たのが10月末でした。その許可を得て11月8日からボーリング調査の準備作業に入る予定でしたが、地元の漁業者の人たちを中心にして抗議の行動が行われたのです。

午前10時ごろ、中電社員数人が乗った船がやってきて漁船の漁師さんたちに対し、「この海域で作業を行いますので、ここから離れてください」と呼びかけます。漁師さんからは「ここでわしらは釣りをしている。ボーリング作業をわしらは認めていない」と応じました。陸上側の海岸からは「原発やめて美しい海を守ろう!」などのプラカードで抗議、そういったやり取りが連日繰り返され、12月16日中電は海が荒れるなどの気象条件を理由に調査を中断し、今年の4月以降に延期するとしたのです。そして年が明けて今年4月、今度は「作業船の手配が難しい」ということで「秋から実施」と表明しました。

この経過を聞いて、皆さんどう思われるでしょうか。抗議に参加される漁師さんらは、本業の漁を休んで1日がかりで参加されるのです。もちろん船の燃料費も必要です。

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村岡正嗣山口県知事(山口県ホームページより)

村岡嗣政(むらおか つぐまさ)山口県知事方は、たぶん「適正に申請されたものは許可せざるを得ない」という意味のことを話すでしょう。しかし、上関原発という県民の重大問題を、まさに他人事のように扱うことが許せるでしょか。

性懲りもないというか、住民無視の態度、山口県には岩国基地の問題など大きな政治課題を持っているのです。防衛大臣に就任した岩国市を選挙区にする岸信夫は安倍晋三の弟、先日、山口県庁で上関原発について「進めるべきだ」と、記者会見で発言したのは江島潔(えじま きよし)経済産業副大臣、この男は下関市長を4期務めた二世参議院議員。誰かが「『きよし』はどういう字を書くの?」と訊ねてきたので「不潔の『けつ』」と答えたら、すぐに分かってくれました。

かたや安倍晋三の弟、かたや同じ選挙区の子分、だからこそ県民の立場に立った判断を行うべきだと思うんだけどね、村岡くん!

木原省治

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2020年10月 9日 (金)

川内村義勇隊遺族の心のよりどころ浄行寺を訪ねてーその2

今日は、最初に「心のよりどころ浄行寺」の話を書きます。

古くからの旧川内村温井地区の家々は、ほとんどが浄行寺の檀家です。その人たちは、熱心な浄土真宗の信徒ですから、原爆で犠牲となった義勇隊の人たちのための月命日の法要が営まれてきました。戦後間もないころは、浄行寺の住職が、それぞれの家庭を訪問し法要が営まれていたようです。しかし、義勇隊で犠牲になった人たちの月命日は、あたりまえのことですが、毎月6日です。坂山さんからはっきりとした時期を聞くことができなかったのですが、何時の頃からか夫を奪われた遺族たちが浄行寺に集り、ここで月命日の法要が営まれるようになったそうです。下の写真は、2010年の広島平和記念資料館、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の共同企画展「国民義勇隊」のパンフレットの表紙に使われた写真です。

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浄行寺の本堂で営まれた月命日の法要に参列した遺族の姿が映っています。坂山さんの話では、「ここに写っている遺族の方々は、もうすべて他界されました。こうしてみんなが集まって、苦労話などいろいろなことを話すことで、お互いの慰めになり、一人ではなかったという心の支えになったようです。」とのことです。

浄行寺訪問は今回が2度目ですが、今回は法要が営まれていた本堂に入りました。そのきっかけは、坂山さんの次の話を聞いたからです。「実は、昨年から遺族会の柳原有宏さんが、『犠牲となった人たちの生きた証しを集めたい』と遺影集めを始められたのですよ。今年の慰霊祭までに72人の遺影が集まり、そのパネルを今年の慰霊祭では義勇隊碑の前に掲げました。そのパネルが、今この寺にあるのですが、見られますか」と貴重な情報です。「ぜひ見たいです」当然のことのようにお願いしました。3枚のパネルは、ビニール袋の入れ、さらに大きな風呂敷に包まれて保管されています。坂山さんと話していたのは、庫裏の方でしたので「この写真、ぜひ本堂で見させてください」とお願いし、大きな風呂敷包みをもって本堂へ移動します。私が、どうしても本堂で見たいと思ったのは、月命日に本堂で行われた法要のことがすぐ頭に浮かんだからです。

本堂に上がると、奥にあった椅子を出し、その上にパネルを立てかけました。

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私たちが並べた椅子は、「国民義勇隊のパンフレット」の表紙の写真で遺族の人たちが座っている椅子です。並べたパネルをよく見ると遺影の中には、手書きの肖像画もあります。当時は写真は貴重でしたから、無いお宅も多かったと思います。何としても遺影を飾ってあげたいという遺族の強い思いが伝わります。

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柳原さんが、この写真を集めるきっかけを次のように話しておられます。2020年8月7日の毎日新聞の特集記事「母ら先祖の証し 今集めねば」からの引用です。「母が原爆で犠牲となったのは、2歳の時、遺骨も見つからず、記憶もない。10数年前、山口県の遠い親戚から写真が見つかったと連絡を受け、目にした時『こんな顔をしていたのだな』と思い、母がいたことを実感できた。高齢化して慰霊祭の参列者が、年々減っていくことに気付き、このままでは肉親を失った『あの日』が風化してしますと危機感が強まったことです。」

その後、原爆死没者名簿を頼りに遺族を一軒一軒訪ね、遺影集めが始まったそうです。

坂山さんは「『私は出したくない』という家や『倉庫の奥にあるので探すのが難しいです』という返事もあり全員の写真を集めることは難しいかもしれませんが、これからも遺影捜しを続けることにしています」と話されました。遺族の高齢化が進む中で、新たな試みが続けられています。

実は、この毎日新聞記事のコピーを、今回の浄行寺を訪問でも持参していました。訊ねると坂山さんの手元にはないということでした。資料をいただくばかりでしたが、思いがけず坂山さんに資料を提供することができました。

浄行寺のこと、もう少し紹介したいことがありますが少し長くなりましたので、「その3」を次回(12日)に報告します。

いのちとうとし

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2020年10月 8日 (木)

10月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

10月だから秋の真ん中になる。農作業はブルーベリーの木の下に敷いている防草シートの撤去(折りたたんでその場に置いておく)が中心で農園内の草刈りはその後になる。農園の周囲の様子。富有柿はまだ早く、栗は収穫可能。真っ盛りの花、終わりかける花、これからの花などが目に入る。生き物では蜘蛛が農園内のあちこちに巣をはっているが、赤とんぼはすっかりいなくなった。今年生まれたらしい小さいまだうろうろしているし大きいのはいつも蛙を狙っていて、咥えているところにも出くわす中秋。ごくたまにメジロの声がする。

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10月3日(土)。

農作業は秋剪定で春から伸びた晩生の系列のホームベルという品種のブルーベリーの枝の一部を3分の1位に切る作業をすませた残り時間で防草シートを折りたたむ作業を夕方まで行う。

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作業をしていると上からじろりと巣を張ったクモに出会う。

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裏庭の蔵の横で中秋真っ盛りとキンモクセイが咲く。香りも風にのせてかがせてくれる。

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花壇のツルボも満開。この花壇は5月にジャーマンアイリスが咲く。そのあとフランネルソウが咲き、今はツルボが咲く。

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今年は少し開花が遅い。ヒガンバナも遅かったがどちらも球根タイプなのが共通点。

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これから実がきれいな紫色になるばっかりなのに鳥に食べられていて今年は実が少ない。

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スミレが農園内で1か所、1株だけ咲いている。見納めか。

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これから出番。八重のサザンカの蕾がふくらむ。

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10月4日(日)。

農園は田んぼをブルーベリーの果樹園に転作した場所と家の横の里山をブルーベリーの果樹園に変えた2か所がある。里山の法面沿いにはいろいろな木が生えているが栗の木もある。昔ながらの古いタイプだが今が実る時期。

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農道にイガグリが落ちていて実も散らばっているので、両手の掌にいっぱいにして3回分くらいを拾って家に帰ってから食べた。ゆでて前歯でがりっと割ってくしゃりとつぶして中の実を押し出すとほくほくしていて甘くてこなこなしている。秋を楽しめた。

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イガグリの上にバッタ。親子か夫婦か?

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ブルーベリー畑の防草シートの畳み作業を続ける。今週は3列でおしまい。

2020年10月8日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年10月 7日 (水)

川内村義勇隊遺族の心のよりどころ浄行寺を訪ねて

828日のブログ「『義勇隊の碑』余話」(http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/08/post-ea2659.html)で少しだけ紹介した旧川内村温井の浄行寺を再訪しました。

今回の訪問では、三滝の誓願寺を訪れて分かった「佐東町原爆供養塔」の経緯(8月29日のブログ)をお伝えしたいとの思いがありましたので、まずその話からです。「そういう経過があったのですね。そこまでは思いが至っていませんでした。ありがとうございます」

もう一つは、前回訪れた時坂山さんが話されていた古い写真を見せていただくことでした。坂山さんは、求められて毎年、地元の幼稚園や保育園で原爆のことや昔の温井地区のことなどを話されることがあるため、子どもたちがわかり易いようにと「パワーポイント」を作成されているそうです。今年のタイトルは「むかしのかわうちとへいわのはなし」です。その中に多くの写真が納まっているということですので、無理にお願いし、そこの入っている写真を見させていただくことになりました。

その中に温井地区のすぐ東を流れる太田川の写真が数枚あります。帆掛け船が浮かぶ写真もあります。その中で目を引いたのが、下の写真です。

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当時、交通手段の一つであった川船を利用する様子が映っています。

あの被爆当日、温井地区の義勇隊が今の平和公園付近で直爆の被害を受け、何とか自宅までたどり着き息を引き取った人はわずかに7人です。前回訪問した時、坂山さんから「7人は戸板に乗せられ、川船で帰りつくことができた」と聞いていましたので、当時の船着き場の様子を知りたいなと思っていました。ですから船着き場の様子が映ったこの写真が気になったのです。この船着き場には、息のあった7人だけでなく、犠牲になった多くの遺体が、この川船で帰って来たそうです。

パワーポイントには、集落の人たちが、吉島沖で潮干狩りをする様子を写したものもあります。この写真には、何艘もの船が横付けされ、沢山の人たちが映っていますので、その時のものかもしれません。

また戦後、この地域が「野菜大国」と呼ばれ、「バタンコ(オート三輪車」野村」と呼ばれていたことも紹介されています。残された遺族が、「野菜づくり」によって必死に生活していたことが偲ばれます。

さらにパワーポイントのコマを進めていくと「義勇隊の碑」の裏面に刻まれた犠牲者の名前を写した一枚が出てきました。よく見ると、その犠牲者名の中に1名だけ、名前が削られていることが分かります。(上から2段目の左から6人目)

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私も、8月にこの碑を訪れた時「なぜこの名前は、削られたのだろう」と疑問を感じていました。そのことを訊ねる相手もなく、そのままになっていたのですが、今回坂山さんの話を聞き、その時の疑問がようやく解けました。

「この人も、確かに原爆で犠牲になられたのですが、義勇隊の犠牲者でないことが後でわかったのです。当時市内に働きに出ておられて犠牲になられたからです。そのことが分かったので、この碑からは名前を削ることになったのです。」「温井地区の義勇隊の犠牲者は、180人ということで、その名前が刻まれていますが、本当ところ正確な人数は、今もはっきりしていないのです。というのも、当日の義勇隊参加者の名簿は作られていなかったからです。だから、参加者は『約200人』と、今でも『約』が付いたままですよ。これが原爆被害なんですよね」

被害の実相が分かっていると思われる旧川内村温井地区の義勇隊の犠牲でも、こうなんだということを知らされることになりました。

ここまでの報告で、今日のタイトルは「心のよりどころ浄行寺」なのに、そこにまだたどり着くことができていません。このつづきは、明後日報告することにします。

いのちとうとし

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2020年10月 6日 (火)

平和大通りを歩いてみませんか

先週の土曜日(3日)の午前中、慰霊碑や被爆者の森、樹木などをめぐりながら「平和通りを一緒に歩こう」という企画が実施されました。

この企画、広島市が計画している「平和大通りにぎわいづくり」を考える学習会が、8月21日に開催された時、問題提起者として参加した私が、「この問題を理解するためには、一度現地を訪れるのが一番です。ぜひみんなで平和大通りを歩いてみませんか」と呼びかけたことがきっかけとなり実現した行事です。

カキ船問題を考える会が中心になって作った「平和大通りを歩く会実行委員会」の急きょの呼びかけでしたが、集合場所の白神社前には、当集合時間の午前10時前から次々と参加者が集まり、最終的には子どもを含めて50名を超える人数となりました。主催者が用意した資料が足りなくなるほどの盛況でした。

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簡単なあいさつの後、散策はスタートしました。最初は、目の前の白神社の被爆状況の解説です。ここでの解説者は、高橋信男さん。爆心地から約600mの距離で被爆した白神社には、社殿下や後ろにある岩石群が熱線やその後の火災によって表面が赤色に変色したあとがはっきりと残っている様子などが話されました。

周辺の「被爆樹木」の説明をし忘れたまま、東のブロックにある「第一県女の慰霊碑」へ移動します。ここでも高橋信男さんが、慰霊碑の横に立つ学校の門柱について「当時の学校は、東側に校門があったので、今の位置よりちょっと東側にあったと思われる」ことなどを解説。高橋さんの話のあと、私が第一県女(現在の皆実高校)の同窓会のホームページに掲載されている「現在の空中写真に当時の学校の敷地を図示した資料」を基に、学校の敷地が平和大通りの車道の真ん中まであったことを説明しました。平和大通りが、多くの建物の立ち退きによって造ることができたことを知ってもらうためです。

この第一原女の慰霊碑があるブロックには、この日訪れた平和大通りの中では、供木運動の樹木が一番残っていますので、ここで私が調べてきた結果を報告しました。供木運動によって平和大通りのみどりがつくられたことを知ってもらうことも、今回の目的の一つでした。

さらにすぐ東のブロックにある「桜隊の碑」へ移動します。

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ここでは、安佐南市民劇場の亀井恭二さんから「移動演劇隊桜隊」がなぜ広島で被爆したのか、そしてほとんどの隊員が犠牲になったことなどが紹介されました。亀井さんが用意された資料も10部余りでしたので、参加者に配布することができませんでした。

この後からは、この企画のために参加していただいた「平和大通り樹の会」の小林みどりさんの樹木や平和大通りにまつわる話がスタートしました。

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「平和大通り樹の会」が作成した、平和大通りの樹木を詳しく解説するパンフレット「平和大通りの樹木」が資料として準備されていたのですが、これも部数が不足で全員には配布できませんでした。小林さんの解説です。「クロガネモチにはオスとメスの木があります」「メタセコイアは、絶滅していたと思われていましたが、1945年に中国四川省で現存が確認されました。」樹木の解説だけではありません。「広島市信用金庫の手前の平和大通りを見てください。あの庭園は、信用金庫が作られ、寄付されたものです。」「ここは『ケヤキの森』です」(倒れていますが石碑がありました)などなど、初めて聞くような話ばかりです。

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小林さんの話を聞きながら、今回の「平和大通りを歩く会」の終点地、田中町交差点と鶴見橋西詰手前にある「被爆者の森」に移動しました。

「被爆45周年の1995年に日本被団協の呼びかけによって、各都道府県の被爆者団体から、県の木が寄せられて作られた『被爆者の森』です。ただ、広島の気候と会わない県木もありますので、別の木もあります。」との小林さんの説明。

「被爆者の森」についても、このブログで一度とりあげていますので、今日はこれ以上の説明は省略しますが、「初めてこの森のことを知った」「一度来てみたいと思っていたがようやく来ることができました」という参加者が多かったことだけ紹介しておきます。1時間半の「平和大通り歩き」は予定通り無事終了しました。

今回の「平和大通りを歩く会」では、亀井さんや小林さんたちの協力があり、私も多くの新しいことを学ぶことができました。「平和大通りのにぎわい」をつくるためには、「広島市平和記念都市建設法」の原点に立ち返り、もう一度この場所に今ある資源を見つめ直し、その活用を考えることが大切だということを再確認できました。多くの市民のみなさんにぜひ一度現地に足を運んでほしいと思います。

いのちとうとし

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2020年10月 5日 (月)

ヒロシマとベトナム(その17) 被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争- を考える〔Ⅳ〕

枯葉剤被害児の支援活動

私たちの枯葉剤被害児の支援活動は、1996年からIFCC国際友好文化センター(注1)がベトナム青年国際開発センター(CYDECO)と協力して取り組んだ「枯葉剤被害者支援プログラム」の一環として、1998年に因島市・呉市・庄原市で開催した「枯葉剤被害児救援のためのベトナム民族アンサンブル・チャリティー・コンサート」に始まります。

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2001年の東広島公演

以来、広島県内12市町で22回のチャリティー・コンサートを重ねてきました。今年は、福山市、東広島市(2カ所)で、計3回のコンサートを予定していましたが、コロナのため中止することになりました。

コンサートの収益金は、ハノイのリハビリ施設「ホアビンビレッジ」、タイビン省子供救護委員会、タイニン省衛生局、クァンリー省政府などに支援金として贈られました。2001年から5カ年の日越協働プロジェクトが進められ、20042月にタイビン省で枯葉剤被被害者リハビリ施設(下の写真)が開所しました。

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現在も、毎年10数カ所で開催されるチャリティー・コンサートの収益金がベトナム各省政府や枯葉剤被害者団体(VAVA)、施設への支援として贈られています。

しかし、前号でも報告しましたように、枯葉剤被害児者リハビリ施設や社会復帰のための職業訓練施設は極めて少なく、被害児者とその家族の多くが貧困下に暮らしています。引き続き、支援活動を継続してゆかなければと考えています。

「被爆75周年」と「ベトナム解放統一45周年」の今年は、予定していた広島県内3会場でのチャリティー・コンサートを中止しましたが、コロナ感染状況を見極めつつ来年秋の開催を目指しています。

(注)IFCCは従来の代表団交流や観光のみというスタイルを超え、希望し興味を持ち趣旨に賛同する誰でもが参加できる国際交流を目指して1988年に設立されたもので、私も設立当初から理事を務めています。

少数民族の子どもたちへの奨学支援

ベトナム戦争の激戦地、旧南北軍事境界線のクアンチ省は、今なお枯葉剤や不発弾による被害が続く「ベトナムで最も貧しい」といわれる省です。中でもラオス国境の急峻な山岳地帯に暮らすパコ族、ヴァンキュウ族、キン族、タオイ族など少数民族はとても貧しく、子どもたちの多くは能力も意欲もありながら就学できない状態にあります。

ベトナムの学制は小学校5年、中学校4年、高等学校3年、大学4年で日本と同じ期間学びます。高校進学率は74.3%、大学進学率は28.3%ですが、少数民族は高校15~20%、大学4~5%です。ベトナム政府も教育に力を入れていますが、まだまだ少数民族の多くの子どもたちは意欲と能力を持ちながらも中高等教育の機会に恵まれていません。

その子どもたちの“夢と希望、そして可能性”を叶えるための「ささやかな支援」として、2009年以来、奨学支援を続けています。

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今日まで220名の子どもたちを支援し、そのうち160名が卒業しています。下表は一昨年までの卒業生140名の進路です。57.2%が国公立大学に進み、専門学校まで含めると3分の2が進学しています。既に教師や医師として、建築や土木の専門家として、また村のオフィスでリーダとして働いている卒業生もいます。


 


国立大


公立大


専門校


就 職


家事自営


不 明


合 計


男子


18







49


女子


51





20



91


合計


69


11


10


10


27


13


140


49.3%


7.9%


7.1%


7.1%


19.3%


9.3%


100.0%

私たちのささやかな支援が、子どもたちの可能性の扉を開き、余りにも多くの負の遺産を抱えたクアンチの復興・発展に役立っています。

現在、今年入学した「第12期奨学生」を支援する20名の「第12期サポーター」の募集を行っています。

「コロナ禍」もあり、例年以上にサポーター登録に苦労しています。ご理解いただき支援の輪に加わっていただければ幸いです。支援額は年間18,000(月額1,500円)を卒業までの3カ年、計54,000円です。詳しくはakatatu@d4.dion.ne.jpにお問い合わせください。

(2020年10月5日、あかたつ)

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2020年10月 4日 (日)

なぜ益田高等女学校の生徒は被爆しなければならなかったのか

昨日紹介した二つの被爆体験記をよく読んでみると、新たな被爆の実相を知ることができます。

島根県立益田高等女学校(以下「益田高女」)から多くの女子学生が「島根学徒報国隊」として呉の海軍工廠に動員されます。崔さんの被爆体験記では、最初の動員先は呉の海軍工廠となっていましたので、全員が「呉の海軍工廠」に動員されたと思っていました。しかし、益田市原爆被害者の会の体験記(「以下「益田の体験記」」を読んでいくと、そのうちの何人かははっきりしませんが、呉市広町にあった海軍航空工廠に動員された人たちがいたことが分かりました。このことが実は、被爆体験では道を分けることになります。ところで、動員された生徒数ですが、「益田の体験記」に掲載されている沢江さんの手記では、約100名となっていますが、豊田文子さんの手記では「3人の引率の先生に付き添われ、140余名が軍事機密で鎧戸の降りた汽車に乗り」と、少し詳しく書かれています。どちらの人数が正しいのか、今となっては不明です。推測すれば、沢江さんの約100名が、海軍呉工廠に動員され、残りの40名余りが広の航空工廠に動員されたのではないかと推測できます。根拠ははっきりしないのですが、広に航空工廠に動員された渡辺環香さんの手記の空襲を描いた場面で「工場に取り残され20名」と書かれています。交代制を考えると、その倍の40名ぐらいいたと想像できるからです。

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動員の生徒数については、これぐらいの予測しかできませんが、昨日報告したように、いずれにしても呉の海軍工廠に動員されていた生徒のうち約40名が、広島で働くことになり8月6日を迎えます。そして原爆の被害を受けることになったのです。ところが、この約40人という人数も怪しくなります。私が引用した約40人は、沢江悦子さんが「益田の被爆体験記」に書かれている人数なのですが、「ヒロシマへ・・・」では、同じ沢江さんが「大州の工場にいたのは、50人のクラスメート」と発言されているのです。大州で被爆した人たちは直接被爆者ですので、本当は何人なのか?気にはなりますが、そのことを知るすべは今のところありません。     

ところで、広島大州の中国配電の機械工場で働くことになった生徒は、被爆時全員が工場にいたわけではありません。当時は二交代制の勤務になっており、遅番だった生徒は比治山の東側麓にあった広島女子商業高校の寮で寝ている時に、被爆しています。爆心地から2kmの地点です。そのいずれで被爆した生徒も梁の下敷きなどにより、大ケガをした人がいましたが、幸いに亡くなる生徒はいませんでした。ただ、引率の青山好恵先生が、大きな木の下敷きとなり亡くなられています。益田高女の唯一の原爆犠牲者です。

さらに呉の海軍工廠や広の航空工廠に残った生徒たちも、被爆を体験することになります。終戦を迎えた翌日8月16日には連合軍の進駐を恐れ「婦女子は帰れ」(益田の体験記・豊田文子さんの手記)の指示が出され、引率の先生に従って呉から広島駅へと向かいます。「広島駅で汽車が無く、7時間待ってやっと汽車に乗りました。・・・17日全員が無事帰ることができました。」(豊田文子さんの手記) 爆心地から2km以内にある広島駅で7時間も待つことになったのですから、この生徒たちは当然入市被爆者となったのです。

一方、広島市内で被爆した生徒たちのその後の足取りを、崔さんはこう書いています。「7日から9日まで毎日、工場と女子商の間を往復しました。8日に青山先生の遺体を女子商の近くのぶどう畑で火葬しました。10日には一応益田に帰ることになりました。青山先生の遺骨をもって帰りました。14日にまた広島へ来ましたが、翌日、敗戦をむかえ私は両親のいる匹見に帰りました」と。沢江悦子さんは、こうも言っています。「私たちは、昭和20年の3月に卒業しましたが、家に帰されないで専攻科として夏まで残されたため被爆したのです。」

もし、島根から広島の動員学徒で派遣されなければ。もし、そのまま呉の海軍工廠で働き続けていたら。も卒業とともに動員が解除されていたら。二つの体験記を読み進むと、いくつもの疑問符が湧きます。

「なぜ益田高等女学校の生徒は被爆しなければならなかったのか」

この問いの根底に横たわる問題本質は、繰り返し問い直さなければならない課題だと改めて気づかされた匹見訪問でした。

いのちとうとし

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2020年10月 3日 (土)

韓国人被爆者崔英順(チェ・ヨンスン)さんの被爆体験手記

今日は、昨日の「益田市匹見町の朝鮮人のお墓」で触れた韓国人被爆者崔英順(チェ・ヨンスン)さんのことです。

崔英順さんの被爆体験は、韓国の原爆被害者を救援する市民の会が、昨年6月に発行した「ヒロシマへ・・・ 韓国の被爆者の手記」に詳しく記載されています。下の写真のように本のタイトルにはハングルが使われていますが、私のパソコンには、ハングルがありあせんので本の題名は「ヒロシマへ・・・」だけにしました。

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この体験記が最初に発刊されたのは1987年7月5日ですが、「自分の国が植民地にされてしまうとはどういうことなのか、原子爆弾は人間の生命や生活をどのように破壊してしまうのか、私たちが知っておかなければならないことを教えてくれています。・・・三人の手記をこれからも若い人たちによく続けてほしいと思い改訂版を出版することになりました」(巻頭言より抜粋)との思いで、昨年再刊されました。

この体験記には、巻頭言にもあるように三人の韓国人女性被爆者の日本語でつづられた手記が掲載されています。崔英順さんの手記は「ヒロシマを持って帰りたい」の題で、最初に載っています。崔さんの全ての体験記を紹介することはできませんので、小見出しを列挙します。

「日本へ渡ったアボジ(父)/民族を守り伝えたオモニ(母)/小学校の恩師久保田先生の話/幼なじみの竹内さんの話/ますだ高女への合格/被爆/、いっしょに被爆した人の証言/、帰国/、結婚/、病気がひどくなって/、在日韓国人被爆者を訪ねて/治療なかばで帰国」です。

なぜ益田市匹見(当時は匹見町)に来たのか、なぜ広島で被爆したのか、そして帰国後の生活の様子などが詳しく書かれていますので、今でも入手可能ですので、是非一読してほしいと思います。

私が、この手記を読み、特に関心を持ったのは、広島県外の島根県益田市にあった県立益田高等女学校の生徒だった崔さんが、なぜ広島で被爆しなければならなかったのかということです。

体験記によれば、1941年に益田高等女学校に合格し入学した崔さん(島根県で初めて高等女学校に合格した朝鮮人として新聞でも報道された)は、他の同級生とともに1944年10月に学徒動員によって呉海軍工廠に行くことが命じられます。その後、呉への空襲が激しくなり、翌年1945年3月ごろ、広島市大洲の中国配電の機械工場(現在の中国電機製造株式会社)に移ることになりました。そして、8月6日工場に着き、作業台に向かった時、原爆の惨禍を受けることになり、被爆者として苦難の道を歩むことになったのです。

崔さんの手記を読みながら、10年ほど前に島根県の古本屋で購入した益田市原爆被爆者の会が被爆40周年の1985年に発行した体験集「ピカー益田からのヒロシマ、ナガサキ」があることを思い出し、そこに益田高女の被爆者の体験記はないか探してみました。

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「勤労学徒報告隊員」として9人の被爆体験が掲載されています。そのうち3人は崔さんと同じ場所で直接被爆しています。この体験記には、崔さんの被爆者健康手帳取得時、証人になった同級生沢江悦子さんの被爆体験も載っています。他の6人(うち一人は広島県女)の被爆記からわかる別の被爆体験が分かりますので、改めて明日その詳細を報告したいと思います。

ところで、広島県内の学徒動員によって多くの生徒たちが、被爆したことは様々な資料によって知るっていましたが、県外から広島に学徒動員された人たちがおり、被爆した事実をほとんど認識していませんでした。

広島県内の動員学徒により犠牲者を出した学校を列挙した「動員学徒誌 被爆50周年記念」や、これまでも参考資料として何度か紹介した学校の被災状況を記載した「広島原爆戦災誌第4巻」を改めて調べてみたのですが、当然のことかもしれませんが、県内、市内の学校名しか記載されていません。

崔さんの手記から、広島県外からの学徒動員者、ここでは益田高女の生徒ですが、原爆被爆者となっていることを改めて知ることになったのですが、「他そんな学校はないのだろうか?発行されている原爆関係の資料の中でどう扱われているのだろうか?」ということが、気になります。このことは改めて調べてみたいと思います。

いのちとうとし

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2020年10月 2日 (金)

益田市匹見町の朝鮮人のお墓

一昨日、以前豊永恵三郎さんから話に聞いていた益田市匹見町にある朝鮮人のお墓参りをすることができました。

豊永さんに紹介していただいた地元の城市優(さとし)さんとその誘いでご一緒する熊谷チエコさん(91歳)、河野敏幸さん(62歳)の3人と益田市匹見総合支所で会い、歩いて行けるほどの近い距離でしたが、河野さんの運転する車で移動します。

お墓近くで車を道路端に止めて、50mほど墓地の方に移動します。一段高くなったところに、めざすお墓がありました。自然石にハングルで「チェカクバン」と刻まれています。お墓の周りには、小さな石が敷き詰められています。

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線香に火をつける城市さん。お墓の大きさが分かります。

墓石の横には「韓国の原爆被爆者 救援する市民の会2019年8月吉日」と刻まれていました。

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城市さんが「線香は半分に折って、ここは真宗が多いので横に寝かせて供えるのですよ」と話しながら、私が持参した線香に手際よく火をつけてくださいました。合掌し頭を垂れます。先日(9月27日)に訪れた韓国の原爆被爆者を支援する市民の会のみなさんががお供えしたお花が、元気な姿で残っていました。

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案内をしていただいた3人。右端が城市さん、後ろにお墓があります。

と、ここまでお墓参りの様子を書いてきたのですが、肝心なことは「お墓の由来」です。匹見を豊永さんたちが訪れるきっかけとなったのは、韓国人被爆者崔英順(チェ・ヨンスン)が、1975年に渡日治療のため訪日された時、自分が生まれ育った匹見を訪れたいと希望され、同行されたことがきっかけだったようです。そしてこの地に、異国で亡くなった崔英順さんの弟カクバンさんのお墓があることを分かり、その後この地の訪問を何度か訪れることになったようです。

チェカクバンさんのお墓は、小さな自然石の墓石です。日本が朝鮮を植民地支配する時代の1930年代に仕事を求めて、多くの朝鮮人が働いていた島根県匹見に移り住んだ崔さん一家。その生活の中で、命を失ったのがチェカクバンさんです。このお墓は、崔さん一家とご近所だった竹内一夫さんの好意で、竹内さんの墓地の一角にカクバンさんの小さな自然石の無名の墓標がたてられることになりました。

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左奥、建物の手前に見えるのが竹内家のお墓

 竹内さんの温情溢れる対応を感ずることができます。そのような由来があり、お墓をお参りすることができたのです。

当時は、名前の刻まれていなかったお墓でしたが、地元益田市で在日朝鮮・韓国人やハンセン病問題などを取り組む人権活動家の福原孝浩さんや韓国の原爆被爆者を救援する市民の会の人たちのカンパなどによって、昨年8月に無名だった墓標に「チェカクバン」さんの墓銘が刻まれました。

慕銘が刻まれたことの意味について、福原さんは次のように述べておられます。「今回の匹見町でのチェカクバンさんの墓票に名前を刻む小さな取り組みは、これからの日本人と朝鮮にルーツを持つ人たちが共に生きていく道を切り開いていくきっかけになると思う」(韓国の原爆被害者を救援する市民の会機関誌「早く援護を!」第155号より引用)と。

私のお墓参りに同行していただいた3人は、いずれもそうした思いを継承しようという強い思いを持っておられる人たちでした。

この匹見の地での朝鮮人と日本人との交流から学ぶことは、まだまだたくさんあるのですが、私のもう一つの関心は、韓国人被爆者崔英順さんのことです。匹見で生活していた英順さんがなぜ広島で被爆することになったのかについて、明日に詳しく報告します。

ちょうど車を止めたところに建っている家が、屋根などは吹き替えられているようですが、間違いなく当時崔さん一家が暮らしていた家です。この建物は、現在倉庫として使われているが、骨組みなどは当時のままの形で残っていると教えられました。城市さんは、大工の仕事もされていますので、よくご存じでした。

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3人と別れたあと、この地の訪問目的である学習会まで少し時間がありましたので、小学校の跡地をさがしていました。崔さんが通っていた当時の小学校は、戦後新しい道路が学校敷地の真ん中を通るということで別の場所に移転し、跡地には、保健センターが建ち、道路の反対側は公園になっています。私の姿を見つけた城市さんが再び、声をかけてくださいました。「何か古い小学校の痕跡はないですかね」と訊ねると「保健センターの裏に立っている建物が、当時の講堂のはずですよ。私も通っていましたから。今は、洋裁工場として使われていますが」とのことです。壁には少し飾りのついたような立派な外観を保っています。

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城市さんは、私と一つ違いの71歳です。本当に崔英順さんが通っていた戦前の建物かお互いに確信が持てません。近所のお店で聞いても、「さーて、どうかね」という返事です。その日は、確認ができなかったのですが、翌朝「そうだ、英順さんの一級下だと言っておられた熊谷さんならご存知のはず」と電話で訊ねました。「間違いありません。私たちもあの講堂を使っていましたから」との返事で、ようやく間違いないことが確認でしました。

3人のおかげで、お墓参りを無事におけることができました。皆さん本当にありがとうございました。

いのちとうとし

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2020年10月 1日 (木)

日本の子どもたちが心配です ――日本財団の調査結果――

日本の子どもたちが心配です

――日本財団の調査結果――

 

 このブログの9月27日のエントリー「ドイツから見た日本の内閣」中、ドイツ在住の福本まさおさんが問題提起されていた次の一節について、私も一言、付け加えさせて頂きます。

老人クラブにも関わらず、若い世代の支持率が高いのも良く理解できません。日本には、世代交代が必要だという意識はないのでしょうか。ぼくは日本では、若い人たちの新しいアイディアで国と政治を活性化させることが必要だと思います。

高齢者に頼るのではなく、若い人たちにどんどん出てきて、活躍してほしいと期待しています。

この内閣の顔ぶれを見て、そういう議論が起こらないのも不思議でしようがありません。それとも日本の若い世代には、国に対する責任を持ちたくないという意識が強いのでしょうか。

「国に対する責任を持ちたくない」というよりは、「自分が何をしても社会は変らない」と諦めてしまっている若者が多いからなのではないでしょうか。その点について、『法学セミナー』9月号の「論説」として掲載して貰った拙文の一部を引用します。

 

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にもかかわらず(憲法9条があるにもかかわらず)、自衛隊は存在している。その根拠として「自衛権」というものがあり、大人の社会ではそれが憲法より優先されることも教えられる。また、98条では、憲法が「最高法規」であると規定されていることを知って、しかしながら、それを超える憲法外の力によって、一国の軍隊の存否が決められることに違和感を持つ子どももいる。

こうした相矛盾するインプットがある場合、教育的見地から大人社会の責任ある地位の人や組織が、たとえば学校のカリキュラムを通して、憲法の条文で述べられていることと、現実に起きていることとの間の論理的矛盾について説明する必要があるのではないだろうか。説明の結果、論理の重要さについての子どもたちの理解が深まり、同時に現実との折り合いの付け方に子どもたちが納得するという結果になれば、それは一つの解決法である。

しかし、現実にはこのような教育的配慮はされていない上に、政府は自衛隊の果すべき役割について憲法の元々の規定とは関係なく、アメリカの意向に沿いかつ政権の軍拡指向を助長する施策を積極的に実行している。

このような環境で育って行く子どもたちの多くが、憲法の価値や力について疑問を感じ、社会は政治的力を持つ「権威」が動かしていて、自分たちの関与する余地はないという世界観を身に付けてしまっても不思議ではない。事実、下のグラフに示されている日本財団の国際比較調査によると、「自分で国や社会を変えられると思う」と感じている日本の子どもは18.3%で、調査対象の9カ国中掛け離れて低い。(出典:日本財団「18歳意識調査」第20回 テーマ:「国や社会に対する意識」)

その他の項目についても、自らが1人の人間として社会的貢献をして行けると感じている18歳の若者の比率は、国際的に最下位である。この無力感は、マーティン・セリグマンの研究によって知られるようになった「学習性無力感」として知られる。(あるいは、「無力感の習得」とも呼ばれる。詳細はセリグマン著『オプティミストは何故成功するか』(講談社文庫1994年)参照のこと)

[クリックするとグラフが大きくなります]

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子どもたちに学習性無力感が植えつけられる唯一の原因が、自衛権という外的要因による憲法9条の意味付けだとは言わない。しかし、日本社会では、「本音と建前」という慣用句が立派に生き残っているように、言葉や論理の代りに、「権威」による押し付けで物事が決定されている多くの事例がある。憲法の存在が、法治主義ならびに日本の政治全体の基礎であり、如何に重要な位置を占めているのかも視野に入れると、その重みが元になって、反動としての「無力感」の大きさについても理解して頂けるのではないだろうか。

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『法学セミナー』の論説、全文もお読み頂きたいと考えています。何回かに分けてアップさせて頂きます。

[2020/10/1 イライザ]

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