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2020年7月24日 (金)

「中国からの被爆者支援カンパ」余話

先日、中国平和軍縮協会の友人に、長江の洪水被害のお見舞いのメールに、このブログに連載した「中国からの被爆者支援カンパ」の原稿を添付して送ったところ、お見舞い対するお礼と共に次のようなメールが返ってきました。

「『中国から贈られた被爆者支援カンパ』と毎日新聞の記事を全部拝読させていただきました。

第一回原水禁世界大会に参加した中国代表団の劉寧一団長がその後中共中央対外連絡部の副部長も勤められ、中国人民保衛世界平和委員会は中国人民平和軍縮協会の前身とも言われる存在なので、先生が文書で披露された内容は私達にも貴重なものです。1955年中国代表団が原水禁世界大会に参加したことを原水禁との交流の記録で知っておりますが、恥ずかしながら、5万元(722万円)を寄付したことを知りませんでした。

先生の文章の最後に書いてあったように、1955年の中国は建国して六年目に入り、抗米援朝戦争が終わって間もない時機で、極めて困難な時です。5万元というのは相当な大金です。それは日本の被爆者に対する中国人民の心込めた寄付だと65年後のいまの私がそれを読んで胸が熱くなりました。中日友好の仕事をライフワークにしてきた人間として、本当に誇りに思います。」(私の名前だけ削除し、他は原文のまま)

文中にある「毎日新聞」は、1985年7月25日の新聞記事です。この新聞記事を添付したのは、1985年に原水禁が初めて派遣した被爆者訪中団に同行したフリーライターの竹内真理子さんが、「中国からの被爆者支援カンパその2」に書いた「中国の援助は、被爆者に対する日本政府の関心を呼び起こし、『原爆医療法(昭和32年4月施行)への大きな力となったはずだ』」ということを団長の森滝先生が、中国で話されたことを詳しく紹介されていたからです。この1985年の訪中団について、竹内さんが雑誌「世界」の1985年9月号に「中国を訪れた被爆者たち」と題して、もっと詳しく書かれていますので、いつかこの被爆者訪中団についても報告したいと思います。

ところで中国の友人からは、第2信がきました。「中国では『初心を忘れず氏名を胸に刻み込む』という言葉がありますが、これを中日関係にも適応ではないかと思いますね。65年前の出来事は戦後両国関係の初心を示す原点でもあると言えるでしょうね。

先生の文章を中国語に訳して協会の皆に読んでもらい、資料として残したいと思います。」(原文のまま)

このメールを読みながら、「原点に返ることの大切さ」を教えられるとともに、イライザさんから頂いたコメントを思い出しました。友人が指摘しているように、中国にとっても当時は「相当な困難な時、5万元も相当な大金」だったのです。しかも、中国からの支援は、その後も続いたのです。イライザさんのコメントにお返ししたコメントをここで改めて紹介します。

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私が確認できたのは、1961年に原水爆禁止日本協議会専門委員会が発刊した「原水爆被害白書 かくされた真実」の「あとがき」の最後の部分「最後に、中国人民保衛世界平和委員会など中華人民共和国7団体による被爆者救援の国際的なあたたかい援助が、この事業を成功させるために、大きな力添えになったことを報告し、中国人民の厚い友情に改めて謝意を表します。」を読んだからです。

被爆者運動の歴史に詳しい人数人に、「中国からの支援はいつごろまで続いたのですか?」「この白書の他に、第2回大会以降の中国からの支援金について書かれた文書をご存知ないですか」と訊ねたのですが、今のところ、残念ですが、いずれも明快な答えを得ることはできていません。

付記すれば、この白書は、1958年の第4回原水禁世界大会の決議を受けて調査団が結成され、第7回原水禁世界大会を目前にした時期に発表されたものです。調査団長は、石井金一郎日本原水協専門委員ですが、調査委員長は森瀧市郎日本原水協代表委員となっています。

イライザさんからは、さらに「その4」に、「趣旨から考えても『返金』するのは失礼千万以外の何物でもない」ことを指摘し、「1955年の平和宣言」の一節を紹介しながら「保守系の市長として、中国そのものに対する姿勢がこのような行為になったのかもしれません。」とコメントをいただきました。私も、その通りだと思います。

「その4」を読み直してみると、奇妙な事実に気づきました。「寄託金が使われたのが、昭和30年12月から昭和32年7月まで」であるのに、なぜか返金されたのは、それから2年以上たった昭和34年12月4日だったことです。「広島原爆医療史」には、なぜ遅くなったかの理由は書かれていません。2年以上も返金が遅れた事実が、イライザさんの指摘を証明しているように私には思えます。

いのちとうとし

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