「無責任」の論理構造 (4) ――「一億総白痴化」の具体例としての「説明責任」――
「無責任」の論理構造 (4)
――「一億総白痴化」の具体例としての「説明責任」――
前回述べたように、「一億総白痴化」という言葉は、1957年に評論家の大宅壮一氏が、テレビの弊害に警鐘を鳴らすために作ったものです。それから60年以上経った今、「一億総白痴化」はさらに進行しているはずです。今の政治状況をどんな言葉で表現すべきなのか皆さんのお知恵を拝借したいのですが、ここではその一面に焦点を合せています。
つまり、安倍政治の特徴とも言える「無責任」体質です。その「無責任」体質は、前回説明した「憲法マジック」と、今回取り上げる「説明責任」――それは「一億総白痴化」の現代的な象徴なのですが――によってその輪郭が決っているというのが本稿の主張です。
「一億総白痴化」をもう少し詳しく見ると、大宅壮一氏の指摘したテレビ番組の低俗さ、という誰にでも分る現象だけでなく、余りにも多くの人が何となく受け入れてしまっていて、その不自然さや歪みに気付かないような、つまり見落としてしまっても不思議ではない「微妙な」あるいは「微細な」現象に気付くはずです。今回はそのうちの一つを取り上げ、問題が如何に深刻なのかを確認したいと思っています。
それは「説明責任」という表現です。森友問題や加計スキャンダル、そして桜を見る会の醜聞について、安倍総理は「説明責任」を果していない、「説明責任」くらい果しなさいという声が大きかったことは記憶に新しいと思いますが、それは、国会や記者会見でそれぞれの事例について納得の行く説明をしなさい、という意味でした。それは当然です。
「納得が行く」という点では、私たち主権者の要求に応えてはいませんが、意味のない言葉をペラペラ並べることが「説明」だと強弁することも可能です。そんな御託を並べて、その場凌ぎの言い抜けを続ける「安倍の理屈」(アベノリクツ)では、「説明責任」を果したことになってしまいます。恐らくこんな解釈が罷り通っているから、何事にも「無責任」な結果が現れることになるのではないでしょうか。
しかし国会で、質問に対して答弁を拒否した回数が、2012年からつい最近まで、総理以下大臣や政務官等、答弁する義務を負っている人たちについては、6532件もあることが、フリージャーナリストの日下部智海さんの調査で分っています。
大臣たちは、国会で議員の質問に答えなくてはならないという義務を負っているというのが国会法の決まりであり、これまでの慣行だったのです。それが無視され続けている背景にも、「説明責任」という言葉で「責任」そのものの意味を薄めてしまったという事実があるのです。
もう一度、「説明責任」の意味から考えてみましょう。まずはウイキペディアを見てみましょう。
説明責任(せつめいせきにん、アカウンタビリティー、英語: accountability)とは、政府・企業・団体・政治家・官僚などの、社会に影響力を及ぼす組織で権限を行使する者が、株主や従業員(従業者)、国民といった直接的関係をもつ者だけでなく、消費者、取引業者、銀行、地域住民など、間接的関わりをもつすべての人・組織(利害関係者/ステークホルダー; 英: stakeholder)にその活動や権限行使の予定、内容、結果等の報告をする必要があるとする考えをいう。本来の英語のアカウンタビリティの意味としては統治と倫理に関連し「説明をする責任と、倫理的な非難を受けうる、その内容に対する(法的な)責任、そして報告があることへの期待」を含む意味である。
ここで注目して欲しいのは、「説明責任」という言葉が、英語の「accountability」の訳語であること、そしてゴシックで強調されているように、「倫理的な非難」を受けたり「法的責任」を取ったりという結果になることを想定しているという点なのです。
「accountability」の形容詞形は「accountable」で、その受身形である「be held accountable」も良く使われます。最近のニュースでこの表現が何度も聞かれたのは、ミネアポリスで起きた警官による黒人男性、ジョージ・フロイドさん殺害事件についての市民の声としてでした。警官が、フロイドさんの頭を地面に頭を押さえ付け、フロイドさんの頸部を8分以上も膝で押し続けた結果、それも「息ができない、助けけてくれ」という懇願を無視しての8分なのですが、その結果、フロイドさんが死亡したという事件です。
「Cops are accountable (警官は責任を取れ)」という言葉が書かれています
これに憤激した世界中の多くの人たちが抗議活動を始め、「Black Lives Matter」という標語とともに、黒人の生命を尊重すべきだという、当たり前すぎる主張が全米、そして世界を覆い、1968年の大抗議運動を彷彿とさせるレベルの大きな動きになっています。その出発点になったのは、警察官を非難する市民の声でした。その典型的なもののひとつが、「He should be held accountable」でした。そして「Cops are accountable」です。「cops」(複数)は、警官の俗称ですが、訳としては「警官は責任を取れ」くらいが良いのではないかと思います。
しかし、日本全国で「常識」として流布されている「accountability」 = 「説明責任」という固定概念を元に訳すと、その意味は、「警官に説明を求める」という意味になってしまいます。でも、フロイドさんの死についての言葉として、これがいかに現実離れしているものなのかは、皆さんもうお分りですね。
済みません。今回も長くなってしまいました。これで完結してはいませんので、残りは次回、7月11日にアップします。
[2020/7/1 イライザ]
« 6月のブルーベリー農園その4(東広島市豊栄町) | トップページ | ニューアルオープンしたレストハウスに行ってきました »
「ニュース」カテゴリの記事
- 「県民を舐めるな! 有権者を馬鹿にするな!」 ――怒りを発信することも私たちの義務です―― (2021.02.26)
- 三原地区・府中地区の「19の日行動」(2021.02.22)
- 世界における広島の役割 ――広島市の平和推進条例は世界の期待に応える義務があります―― (2021.02.21)
- 二つの裁判―安保法制違憲訴訟と黒い雨訴訟―傍聴記(2021.02.18)
- 広島市議会議長への「平和に関する条例案(素案)」に対する意見・要望書を提出(2021.02.17)
「映画・テレビ」カテゴリの記事
- 違和感を感ずるオリヅルタワーからの映像(2021.01.03)
- 長崎の原爆犠牲者数―7万3884人(2020.08.26)
- 安保法制に反対する府中市民の会の8.19リレートーク(2020.08.24)
- 「無責任」の論理構造 (4) ――「一億総白痴化」の具体例としての「説明責任」―― (2020.07.01)
- 「ジュノー博士、第三の戦士」上映会(2019.09.16)
「経済・政治・国際」カテゴリの記事
- 「県民を舐めるな! 有権者を馬鹿にするな!」 ――怒りを発信することも私たちの義務です―― (2021.02.26)
- 島根原発が立地する松江市の市議会議員選挙(2021.02.25)
- 「軍都と被爆の証人 広島城」散策(2021.02.24)
- 三原地区・府中地区の「19の日行動」(2021.02.22)
「言葉」カテゴリの記事
- 「県民を舐めるな! 有権者を馬鹿にするな!」 ――怒りを発信することも私たちの義務です―― (2021.02.26)
- 新たな決意で核のない平和な世界を目指そう・その5 ――次の4ステップは? 前半―― (2021.02.06)
- 新たな決意で核のない平和な世界を目指そう・その4 ――「成功例」を別の視点から整理し直そう・2―― (2021.02.01)
- 新たな決意で核のない平和な世界を目指そう・その3 ――「成功例」を別の視点から整理し直そう―― (2021.01.21)
- 新たな決意で核のない平和な世界を目指そう・その2 ――そのためにも、「成功例」から学ぼう―― (2021.01.11)
コメント
« 6月のブルーベリー農園その4(東広島市豊栄町) | トップページ | ニューアルオープンしたレストハウスに行ってきました »
バイリンガルの方からの用語説明はとても役立ちます。
責任を許してしまっている→のならまだしも、
無責任とさえ思わなくなっている⇒サル化・劣化・白痴化。
いっそ、「責任を取る」に《落とし前をつける》のルビをふってしまえ。
和製英語としてならともかくの”ソーシャル・ディスタンス”に
ついてもご教示ください。
(Asahi Weekly 5/24号 田村記久恵(たむら・きくえ)氏のEssayで知りました)
投稿: 硬い心 | 2020年7月 1日 (水) 16時31分
「硬い心」様
コメント有り難う御座いました。
「social distance」は昔から、社会学や文化人類学で使われていた言葉(概念)で、田村記久恵さんは、そのことを話題になさったのでしょう。たとえば、一対一で初めて会った人が、どのくらいの距離を空けて話をするのかには文化的な差がある、といったことが、コミュニケーションにおける基本的な意味を持つのですが、このような「距離」を指す場合もあります。
「social distance」から思い出したのが、エドワード T. ホール氏です。彼の代表的著作である『沈黙の言語』が、國弘正雄先輩他の訳で出版されたのが1966年です。狭い範囲ではありましたが、ベストセラーになり、「沈黙の言語」というキーワードを巡って多くの人が様々な論評を行ったことを懐かしく思い出しています。名著ですので、(ただし、古本でも高いので)、図書館その他、どこかで見付けて読んでみて下さい。
コロナ時代の言葉としては、「distance」を動詞として使って、「social distancing」、つまり「距離を空けよう」という呼び掛けとして使われるのが主流のようです。
投稿: イライザ | 2020年7月 1日 (水) 17時59分