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2020年5月24日 (日)

峠三吉の墓―西応寺

「被爆の絵碑第1号」のある西応寺の墓地には、1953年3月10日に亡くなった原爆詩人峠三吉の墓があります。

本堂の左の細い通路を通って墓地の中に入ると、建て替えられた新しい墓が目につきますが、3列目を右手(平和公園より)に進むと「峠家累代之墓」と刻まれた峠家の墓が見えます。

Dsc_6094

側面などを見ても、一人ひとりの墓銘が刻まれていませんので、「峠三吉」の名前を見つけることはできません。墓石の裏側には「大正十五年五月 峠延吉建之」と刻まれていますので、被爆した墓だということが分かります。

峠家の墓石も原爆で被爆しており、墓石や花立てにひび割れの痕が残っており、原爆に被爆した痕跡をはっきりとこのしています。裏側に回ってよく見ると、墓石のひび割れは真ん中ぐらいで止まっていますので、壊れ落ちてはいないようです。

西応寺は被爆時どこにあったのだろうか?ということが気になり、帰宅してからいろいろと調べてみました。ネットで見つかった情報の中には「爆心地から約690m」と書かれたものがあります。この距離だと、西応寺は被爆時も現在地にあったことになりますが、どうも違うような気がします。

次に、中国新聞社が2000年6月29日に作成した「平和記念公園(爆心地)町並み復元図」を調べてみましたが、この図は西応寺のすぐ北側までしか復元されていませんので、確認することができません。他に方法はないか?と考えて思いついたのが、あき書房が復刻した戦前の地図で探すことでした。何枚かの地図を探し、ようやく「昭和14年3月18日陸軍運輸部検閲済」の「大日本職業業別明細図大廣島市」の中に見つけることができました。

Img010_20200523135001

本川に架かる「新大橋」の東側に、見えにくいのですが「西応寺」の文字と卍の標(赤枠で囲ってある)が確認できますので、被爆時にはこの付近にあったと思われます。改めて中国新聞の復元図で探してみたのですが、この付近は空白が多く「西応寺」を見つけることはできません。ただ復元図には「新大橋」という表示はありますので、これから想像すると、現在の場所では、国際会議場の南側の平和大通りの当たりのように思えます。戦前の地図は、今ほど正確ではなく大雑把なところがありますので、予測するしかありません。ただはっきりしているのは、現在の西応寺よりもう少し北にあったということです。もしこのあたりだとすると、爆心地からは570mぐらいの距離になります。両方の場所とも戦前は「中島新町」です。

このブログを書くため急いで、西応寺さんに電話で問い合わせてみたのですが、「お寺は以前から中島新町にありましたから、ここだと思いますよ」という返事が返ってきました。いつか、戦前の地図を持参して、改めて訊ねてみたいと思います。

西応寺の墓地には、90基ほどのお墓がありますが、今までに見たことのない慕銘碑を見つけることになりました。お寺巡りで墓地を訪れた時には、慕銘碑に刻まれた「昭和20年8月6日」という死亡日を探します。時には、「昭和20年8月6日」とともに「原爆死」を見つけることがありますが、一人ひとりの原爆犠牲を考えたいという思いからです。西応寺の墓地でもいくつかの墓で、「昭和20年8月6日」を見ることができました。その中で、今までに見たことのない慕銘を見ることになりました。

Dsc_6100

「昭和二十年八月六日 智恵子二十二才」、ここまではこれまでも見てきたものと同じです。行を変えて「宝冠章七等 広島指令部にて原爆のため戦死」と刻まれています。その左隣には「昭和二十年八月六日 安子十六才」「豊の長女 学徒動員にて原爆のため戦死」と刻まれています。16才の安子さんは「豊の長女」ですので、22歳の智恵子さんとは、姉妹ではありません。近い年齢ですが、どういう関係かは不明です。しかし二人とも原爆の犠牲になったことが分かります。気になったのは 「広島指令部」や「学徒動員」の文字、さらに「原爆死」ではなく「戦死」と刻まれていることです。こういう墓銘は、初めて見ました。安子さんの左には「昭和四十八年一月八日」という母・豊さんの墓銘が刻まれています。どんな思いで二人の墓銘を刻まれたのか?

この墓には、もう一つびっくりするような墓銘が刻まれています。

「昭和二十年三月十五日 守之二十八才 陸軍伍長 北部ルソン島にて戦死」その左には「昭和二十年三月二十日 優三十二才 海軍軍属北部ルソン島にて戦死」です。

言葉もありません。この訃報が届いた時。悲惨な戦争の実相を改めて思い知らされます。合掌

いのちとうとし

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