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2020年5月22日 (金)

西応寺の「原爆の絵碑」第1号

被爆者が描いた原爆の絵をもとにして作られた「原爆の絵碑」は、全部で10号まで設置されています。そのいくつかは、以前にも訪ねたことがあったのですが、フジグランの第8号碑の除幕式に参加したことを機会に、改めて中区、西区に設置された8つの碑(残りの二つは、安佐南区に設置)を訪ねてみました。

その報告ですが、今回は、平和公園からすぐ近くにある西応寺(中区中島町)の入り口に、最初に設置された第1号碑です。

Dsc_5951

木村秀男さんが描かれた「広島市天満町福島川土手の『原爆投下直前の図』(左側)と『原爆投下後の図』」の2枚が並んでします。台座は、広島電鉄から提供を受けた被爆石が使われています。私が、ドイツの「ポツダム・ヒロシマ・ナガサキ広場」に作られたモニュメントとして送った被爆石と同じ広電の路面電車の敷石だと思われます。

Dsc_5945

絵をもう少し詳しくみてみたいと思います。この絵を描いた木村さんの被爆時の年齢は12歳です。木村さんの絵は、原爆資料館の平和データベースに全部で20枚が登録されています。そのうち「天満町福島川土手」を描いたものが、5枚あります。その中には、この絵とほとんど同じ様子を描いた絵がありますが、よく見ると細部に少し違い(子どもたちの向き、橋が描かれているかなど)があることが分かります。「原爆の絵碑」に使われている絵は、この碑のために後に描かれたものだと考えられます。

左側の「投下直後の図」には、右横に「広島市立草津国民学校高等科1・2年生 男女167名」と書かれているだけですが、原爆資料館のデータベースには「建物疎開作業に向かう途中で被爆し、助けを求める草津国民学校の生徒たち」と解説されています。二つを読むと「子どもたちは作業中ではなく、移動中に被爆した」ことが理解できます。

「草津国民学校の生徒たちは、どこの建物疎開作業に向かっていたのか」が気になり、今回も広島原爆戦災誌で調べてみました。「教職員4人に引率された男女生徒167人が、作業現場の小網町(土橋)に向かう観音町付近で全員が被爆し、約71人の生徒が重軽症を負った」となっています。草津国民学校は、爆心地から4.7キロの距離ですから、子どもたちの作業現場は、直線距離でも約4キロ先にあり、その距離を徒歩で向かっていたようです。

これを調べて改めて絵をよく見ると、子どもたちは半そでの夏服姿で描かれていますが、左側の絵では先頭に二人、右側の絵には真ん中やや上側に一人、長袖の国民服姿の引率の先生も描かれているのが分かりました。福島川土手で被爆した子どもたちには、即死者はいなかったようですが、直接作業現場に向かった2人の生徒が即死しています。

この第1号碑の上部には、他では見ない長文の説明版があります。説明版の右側は、「世界がヒロシマを忘れた時、再びあの日が繰り返される。」というタイトル書きの下に「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」の会長だった小説家・脚本家の早坂暁の「あの日を見つめて下さい」というあいさつ文と2002年8月3日と日付の入った「返す会について」の説明文が記載されています。

Dsc_5950  

説明版の左側には、この絵の作者である木村秀男さんの詩「生き地獄」が書かれています。

空を見上げれば、B29爆撃機/白い飛行機雲が輪を描く/ピカー、ピカーと光る/閃光・大音響・熱線・爆風/黒煙と黒い雨/火の海、屍の川/火の中の人間/煙の中の人間/水の中の人間/熱い、熱い、火が迫ってくる/真っ黒に煤けた人間/皮膚も肉も焼けただれて/ぶらさがり、ふくれあがり、/あー助けて、助けてと叫ぶ/あー水を、水を下さい、水を―息絶える/この世の生き地獄だ/二度と繰り返させないぞ、来世は/

 この詩の最後には「木村秀男2004年1月記」と記されています。これによって、この説明版は、「原爆の絵第1号碑」が設置された2002年8月3日にはなかったものが、後に設置されたものであることが分かります。なぜ後に設置されることになったのか、またこの碑だけどうしてなのか、はっきりとした理由はわかりません。

私の勝手な想像ですが、他の「原爆の絵碑」と比べて、平和公園に最も近い場所(平和大通りを挟んですぐといってよい近さ)にあること、西応寺は、原爆詩人峠三吉のお墓のあること、そして当時3軒南側に平和会館(広島県被団協の事務所:現在は大手町に移転)があり、ここを訪ねる人も多かったため、説明版が設置されたのではないかと思います。

この後、峠三吉のお墓参りをしたのですが、その様子は次回報告します。

いのちとうとし

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