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2020年5月 2日 (土)

新型コロナウイルス断想・その2 ――「当事者意識」の欠如、ノブレス・オブリージュ――

新型コロナウイルス断想・その2

――「当事者意識」の欠如、ノブレス・オブリージュ――

 

前回取り上げた「Do what I say, not what I do.」が世界的に共有されているのは、この慣用句が主張していることとは正反対のことが広く、あるいは当り前のこととして、起きているからです。つまり、多くの子どもたちは親の言うことは聞かない、しかし親の行動を良く真似しているのです。それは、言葉より行為の方に、しばしば本音が現れているからです。横道に逸れますが、「親の行動」を少し広く解釈して、住んでいる周囲の環境と読み換えると、「孟母三遷」になることも、お分り頂けると思います。

同様に、コロナについての大切な記者会見でも、言葉より行為や行動、そして態度の方にリーダーたちの本音が現れているというのが、前回指摘した記者会見の言葉と行動との乖離の意味なのです。「行動」にこそ、為政者の本音が表現されていたのです。それを一言でまとめると、

 

リーダーたちは、新型コロナウイルスを甘く見ていた。

  

それをマスコミが、同じように、マスクなし、かつ「密」な状態で報道していたのですから、それを毎日見せられていた私たちも皆、新型コロナウイルスを甘く見ることになったとしても無理はありません。「言葉」ではなく「行動」に示されているメッセージが大事なのだと、無意識裡に内面化してしまったのでしょう。

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そうなると次の疑問が生じます。リーダーたち、そしてマスコミが、「密」な状態に何の疑問も感じなかったこと、マスクをする必要性や重要性も口だけのことだと暗黙裡に受け止めてしまっていたのは何故なのでしょうか。その理由を知ることで、今回のコロナ対策の本質を理解できるような気がします。

様々な可能性があるのですが、そのどれも最終的にはどこかでつながっているので、同じことの別表現だと言うべきことなのかもしれません。

  •   一つの可能性は、「自分は罹らない」という「傲慢さ」。これは「無知」が原因の場合もありますし、自分たちは違う人間なのだという「選民意識」が、無意識に身に付いているのかもしれません。あるいは、自分たちの命令を聞くのが当り前という「お上(おかみ)意識」があるからかもしれません。

 

  •   しかし、3月末の時点では、世界的にも日本国内でも多くの方が亡くなっていますし、重症の患者さんの苦しさも広く報道されていました。自分も、あるいは自分の愛する人たちも、感染すれば同じような苦しみを味わうかもしれない。それを避けるための施策なのだという位置付けがしっかり理解されていれば、「自分は罹らない」ではなく「自分も罹る可能性がある」、「自分の家族が懸かる可能性もある」、だから「それを避けなくてはならない」という、自分の身に置き換えた対応ができたのではないかと思います。そうならなかったのは、「当事者意識」がなかったということですし、「共感力」が弱いと言っても良いでしょう。それはまた、自分とは違った立場にいる人間、苦しんでいる人間に自らを重ねて、それがあたかも自分であるかのように、少なくとも頭の中で考えることのできる能力の欠如を示していると言っても良いでしょう。「想像力」の欠如です。

 

  •   今回、特に注意を喚起したいのは、総理や知事など毎日のようにテレビに登場するリーダーたちだけではなく、その他の国会議員や政治家たち、そして芸能人やマスコミ関係者も含めた、広範囲の「リーダー」たち――あるいは「有名人」たちといった方が良いかもしれませんが――の果している役割です。それは、これらの人たちを日常的に見詰める立場にいる私たちに対しての、「お手本」としての役割です。元々はフランス語だった「ノブレス・オブリージュ」といった方が意味は良く伝わるかも知れません。

     ウイキペディアでは次のように記述されています。

「倫理的な議論では、特権は、それを持たない人々への義務によって釣り合いが保たれるべきだという「モラル・エコノミー(英語版)」を要約する際に、しばしば用いられる。最近では、主に富裕層、有名人、権力者、高学歴者が「社会の模範となるように振る舞うべきだ」という社会的責任に関して用いられる。

 

「ノブレス・オブリージュ」の核心は、貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない不文律の社会心理である。それは基本的には、心理的な自負・自尊であるが、それを外形的な義務として受け止めると、社会的(そしておそらく法的な)圧力であるとも見なされる。

 

法的な義務ではないため、これを為さなかった事による法律上の処罰はないが、社会的批判・指弾を受けたり、倫理や人格を問われることもある。」

「お手本」とはつまり「社会の模範となるように振る舞うべきだ」という意味ですが、「三密」を避けようというメッセージを出すに当っては、メッセージを出しているその場が大切な「お手本」なのだという認識の下、自らがそのお手本になって、「三密」の対極を示しておく必要があったのです。つまり、具体的な形で「三密」を避けるとはどういうことなのかを、ビジュアル的に分り易く示す必要があったということです。また、皆さんはマスクが足りなくて困っているようなのでマスクを配ります、というメッセージを発信する場では、そのマスクを引き出しにしまっておくのではなく、すぐに身に付けるためですよという、もう一つのメッセージを自らマスクを付けることで示す必要があったのです。

自粛をしよう、と全国民に呼び掛けるのであれば、そのお手本になるのは、自分自身は勿論のこと、一番身近な家族や側近でしょう。国会議員も当然お手本になるべき立場にいる人たちです。いくら野党であっても、「不要不急」の典型的事例であるような「夜の街」のセックス絡みの店に行くことは「お手本」とは言えませんし、それが、公表されたのであれば、法的に問題があるかどうかの次元ではなく、「お手本」としての身の処し方ができなかったことを恥じて、国会議員を辞職して、少なくとも出処進退で「お手本」になるべきでしょう。

敢えてもう一つ付け加えておくと、自分の選挙、そして妻の選挙に当って、党から法外な1億5千万円も貰った上、10万、20万、50万といったお金を首長や地方議員に配った国会議員夫婦も、辞職に値します。これも「反面教師」としての価値はあっても、「お手本」にはならないケースです。

[次回に続きます]

 [2020/5/2 イライザ]

 

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コメント
昨日の国の専門家会議の会見では、実効再生算数を求めるために使った計算方法やデータの開示にも「自転車操業で時間がない」、評価基準についても「総合的に判断する、質的評価もある」という回答で、もはや科学ではありません。彼らの占いに、どこまで付き合わされるのだろうかと思いました。
「工場長」様


コメント有り難う御座いました。

御指摘に100パーセント同感です。専門家会議のあり方として、3月2日に出された「見解」で、これを科学とは呼べないことが分りました。念のため、きちんと検証したのがここでお読み頂いた、新型コロナウイルス危機のシリーズです。

しかし、「危機」は、科学者が科学を放棄しただけでなく、科学を敵視する政治がはびこっていることなのかもしれません。それについては再度取り上げたいと思います。

中国の武漢の状況を見ていると、若い人は感染しても重症化しない、高齢者や病気を持って人が重症化して亡くなっている情報が多かったことと、台湾や韓国のように危機感がなく対岸の火事として見ていた人も多く、マスコミもすぐに日本も武漢のようになるような報道はあまりなかったように思います。
普段の生活で、私は違う関係ないとしている人も多いと思います。弱者のことを考えない。もしかしたら自分も生活破綻して生活保護になるかもと考えない。「明日は我が身」が生活の中に無いことが危機感を欠如させているのかもしれません。最近の災害でも逃げない人もですね。
そして、欧米のコロナの被害が武漢の被害が足元にも及ばない大被害になったのを見て、やっと大災害だと多くの人が気づいたのではないでしょうか。
また、新型コロナウィルス感染する人はいまのところ約1万に一人ですから、そんなに騒ぐ必要が無いと政府関係者は頭のなかで考えていて、人の命を効率で考えて政策をしてきた日本国家には、経済最優先だとの方針が、これらリーダーの態度に自然と現れているのかもしれませんね。
日本人の生活を守るために赤字国債を発行するよりはアメリカから高額の戦闘機をもっと買えると考えているような政治家がいるとは思いたくは無いですが。

「やんじ」様

コメント有り難う御座いました。

武漢や韓国での感染を「対岸の火事」だとしか見ていなかった、政府、マスコミ、ビジネス界、そして国民が最大の問題かもしれません。その根底には、アジア諸国を下に見る日本的な蔑視感覚があるのでしょう。

そして、コロナ対策担当の大臣が経済再生大臣の兼務だということも、「Do what I say, not what I
do.」的価値観の具現化だと思います。人の命を最優先するという方針を、担当者の名称はじめ全ての面で表現しそれを裏付ける施策を展開しなくてはならないはずなのですから。

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コメント

昨日の国の専門家会議の会見では、実効再生算数を求めるために使った計算方法やデータの開示にも「自転車操業で時間がない」、評価基準についても「総合的に判断する、質的評価もある」という回答で、もはや科学ではありません。彼らの占いに、どこまで付き合わされるのだろうかと思いました。

「工場長」様

コメント有り難う御座いました。

御指摘に100パーセント同感です。専門家会議のあり方として、3月2日に出された「見解」で、これを科学とは呼べないことが分りました。念のため、きちんと検証したのがここでお読み頂いた、新型コロナウイルス危機のシリーズです。

しかし、「危機」は、科学者が科学を放棄しただけでなく、科学を敵視する政治がはびこっていることなのかもしれません。それについては再度取り上げたいと思います。

中国の武漢の状況を見ていると、若い人は感染しても重症化しない、高齢者や病気を持って人が重症化して亡くなっている情報が多かったことと、台湾や韓国のように危機感がなく対岸の火事として見ていた人も多く、マスコミもすぐに日本も武漢のようになるような報道はあまりなかったように思います。
普段の生活で、私は違う関係ないとしている人も多いと思います。弱者のことを考えない。もしかしたら自分も生活破綻して生活保護になるかもと考えない。「明日は我が身」が生活の中に無いことが危機感を欠如させているのかもしれません。最近の災害でも逃げない人もですね。
そして、欧米のコロナの被害が武漢の被害が足元にも及ばない大被害になったのを見て、やっと大災害だと多くの人が気づいたのではないでしょうか。
また、新型コロナウィルス感染する人はいまのところ約1万に一人ですから、そんなに騒ぐ必要が無いと政府関係者は頭のなかで考えていて、人の命を効率で考えて政策をしてきた日本国家には、経済最優先だとの方針が、これらリーダーの態度に自然と現れているのかもしれませんね。
日本人の生活を守るために赤字国債を発行するよりはアメリカから高額の戦闘機をもっと買えると考えているような政治家がいるとは思いたくは無いですが。

「やんじ」様

コメント有り難う御座いました。

武漢や韓国での感染を「対岸の火事」だとしか見ていなかった、政府、マスコミ、ビジネス界、そして国民が最大の問題かもしれません。その根底には、アジア諸国を下に見る日本的な蔑視感覚があるのでしょう。

そして、コロナ対策担当の大臣が経済再生大臣の兼務だということも、「Do what I say, not what I do.」的価値観の具現化だと思います。人の命を最優先するという方針を、担当者の名称はじめ全ての面で表現しそれを裏付ける施策を展開しなくてはならないはずなのですから。

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