「広島ブログ」

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2020年3月

2020年3月31日 (火)

3月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

広島市安芸区から出発して農園に着くのはいつも昼前で、会議など用事があると午後1時過ぎから2時頃になることもある。3月20日(金)の彼岸は一人で作業だったが、朝9時に農園に着いた。いつもと違う時間帯なので農園の朝日のさす景色が新鮮で真っ先にカメラを取り出し周囲を撮影。

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3段ある農園の真ん中のブルーベリー。ここはもう剪定が終わっているので足元すっきり。

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花壇のスイセン。朝の光はまだ弱いので逆光で眺めると透けた黄色が見れる。

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順光でのヒヤシンス。

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同じく隣の畑の菜の花。

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家の裏の庭の八重のツバキの蕾。朝の春光がまぶしそうでもある。

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午後からのブルーベリーの剪定作業は一番上の畑。地面のブルーベリーのシュートやヒコバエを切っていく最中に出てきた生き物2つ。どちらもまだ寒いのか目覚めが悪いのか動きが遅い。

 ①アマガエル

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 ②トカゲ。ニホンカナヘビ。

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ブルーベリーの株もとにはツクシもでてきた。

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一人でせっせと選定作業をすすめるのだがところどころから自生のスイセンが花開く。野の花と違ってよく目立つ。

10_20200330165301 夕方5時。花壇のコブシが数輪咲いているのを眺めて作業終了。朝早くから脱だのでちょっとくたびれた。

農園に来るのが早かった訳。コロナウイルスの影響が世界に広がっている。安芸の郷で受け入れている独日平和フォーラム(日本の受入団体の独日平和フォーラムは1987年に故小田実さんの提唱によって設立された)から派遣されている若者アレクサンダーさんをはじめとする20数名のボランティアに対して、フォーラムを支援しているドイツ政府から帰国命令が出され急きょ20日に羽田空港から帰国となった。そのため朝9時半頃の飛行機に搭乗するので広島空港まで彼を車で送りお別れとなったもの。手続きを終わり搭乗口まで来て別れの握手をしたがあとは飛行機が来るのを待つだけとなったアレクの表情がほっとした表情になったのを見てこれまでの不安の大きさに触れた。7月末までの予定だったが突然の別れとなった。見送った後で農園に移動。空港から30分あまりなので朝9時には到着した。

2020年3月31日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年3月30日 (月)

遺稿集「橋本秀夫の仕事ぶり」

今日は、22日のブログ「赤レンガ倉庫は語り継ぐ―旧広島陸軍被服支廠被爆証言集―」で紹介した「建築家橋本秀夫遺構集『橋本秀夫の仕事ぶり』」の入手顛末記です。

どんな本なのか興味が湧き、ブログを書いた後すぐに広島市立図書館の蔵書検索で探しました。中区図書館が蔵書していることが分かりました。しかし現在広島市立図書館は、新型コロナウイルス対策で、全館閉館中で、貸し出しはインターネット予約のみですので、予約を行いました。私の受け取り館は、中区図書館ですので、すぐに「予約確保」の返信がありましたので、早速本を受け取りに行きました。

手にしてびっくりです。300ページを超える分厚い本です。さらに開いてみて、またびっくりです。「赤レンガ倉庫は語り継ぐ」に引用された「蘇る旧陸軍被服支廠 保存と文化」はもちろんですが、広島城、旧レンガ建物、「旧広島水上警察署」などの郷土史と文化財の第1部論文集につづいて、第2部「砲台めぐり」と、自らが現地を訪ねて測量などを行って調べた結果がまとめられています。しかも手書きの図面や写真がふんだんに盛り込まれています。一人でここまで、それにしてもよく訪ね歩かれたものだと感心します。

興味津々です。最初の登場する「広島城」は、昭和18年から広島城天守閣実測を始められたことが分かります。後で、次女の河野さんから聞いた話ですが、この橋本秀夫さんが残された資料が、広島城橋御門の復元にずいぶんと役に立ったそうです。凄い資料の連続ですが、私が興味を持ったのは、第2部の「砲台めぐり」です。日清戦争に勝利後、ロシアとの戦いに備えて、全国各地に要塞が築かれたのですが、芸予、広島湾にも要塞が構築されました。橋本先生は、その広島湾に作られた全部の要塞について調べておられるのです。私もそのいくつかを訪ねています。宮島にある「鷹の巣砲台」大柿町の「三高山砲台」呉市警固屋の「高烏砲台」竹原市の「大久野島堡塁砲台」などです。三高山砲台は、この本の写真よりもずいぶんと綺麗になっていますので、橋本さんの仕事が後押ししたと思われます。

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2018年4月に訪れた三高砲台

もう少し前にこの本を知っていたらと思うとともに、この本を片手にもう一度訪ねてみたい思いに駆られます。

本の紹介が長くなりました。今日書くべきは、入手の顛末でした。「砲台めぐり」を見つけ、これはどうしても入手したいと思い、本の名前をキーにネットで検索しました。ヒットしたひとつに、広島県立広島工業高等学校同窓会がありました。問い合わせの電話をかけたのですが、「在庫はありません」とのことで、ここでは見つけることができませんでした。ただこの電話をかけたおかげで、同窓会事務所を訪れることができたのですから、決して無駄ではありませんでした。

次に連絡をしたのが、本の奥付に記載された「問い合わせ先」です。木原さんという方が応対してくださいました。「ここには在庫がありません。確か、遺族の方が何分か持っておられるはずですので、連絡を取ってみます」という返事を聞き、いったん電話を切りました。すぐに連絡の電話が入り、「次女の河野さんがお持ちでした」と連絡先を教えて下しました。すぐに河野さんに電話を入れました。「お分けできますよ」との返事。その日のうちに自宅を訪れ、ついに「遺稿集『橋本秀夫の仕事ぶり』」が私の手に入りました。突然の訪問でしたが、河野さんからは、先に紹介した広島城復元の話や橋本秀夫ご夫妻の在りし日のことなど、貴重な話を沢山聞かせていただきました。

河野さんの自宅を持してから訪ねたのが県工同窓会事務所です。ここでの話は、大部分をすでにブログに書きましたが、一つだけ書き忘れたことがあります。それは、同窓会事務所の隣の部屋にあった建物の模型群です。

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広島城橋御門の模型 後に広島城の模型がある

この模型は、いずれも橋本さんが残された図面をもとにして、県工の在校生たちが作ったものだそうです。

またここでも繋がりの不思議を体験しました。

訊ね訊ねて入手できた本ですので、大切に活用したいと思います。

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2020年3月29日 (日)

県立広島工業学校と被爆者原廣司さん

今日は、再び県工同窓会訪問記のつづきです。

県工同窓会を訪れた時、「広島県立工業学校原爆追悼集 ああ麗しき太田川」(以下「追悼集」という)を贈呈していただきました。その時は、何も考えることなく「ありがとうございます」と受け取ったのですが、帰宅してカバンから取り出してみると、裏表紙の森滝市郎先生の「人類は生きねばならぬ」という文字とともに描かれた原廣司さんの絵が目に入りました。本を開くと、見開きにも同じ絵が使われていました。

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色紙に描かれたものをコピーしたものですが、「なんでこの色紙が?」と、一瞬頭をよぎりました。実は、この色紙は、原水禁が、結成○○周年(何周年だったかすぐに思い出せない)記念の事業の一つとして作成した物なのです。もともとは別々の原画だったものを組み合わせて作成しました。いただいた追悼集では、白黒印刷になっていますが、原水禁が作った色紙は、もちろんカラーです。書棚を探したのですが、すぐに見つかりませんでしたが、私も当時、この色紙の作成にかかわったことを思い出します。

こうした経過を知っているだけに、一目見た時「なんで?」という思いが最初に頭によぎったのです。自宅に帰って少したってから、気づいたことがあります。「まてよ、たしか原さんは、県工の卒業生だったはずだな」と。すぐネットで原さんのことを検索すると、昨年4月15日の訃報のニュースが見つかりました。やはり原さんは、被爆当時13歳、県立広島工業学校(後に県立広島工業高等学校)の1年生と書かれています。原さんとは、国鉄広島工場に働いておられるときからの長いお付き合いで、お世話になり続けていたのにもかかわらず、こんな大切なことをすぐ思い出せなかったなんてと、反省、反省です。これで、追悼集に原さんの絵が使われていた理由が分かりました。納得です。

県工正門のすぐ横に原爆犠牲者の慰霊碑と銘板があります。その日は、慰霊碑にこうべを垂れて、学校を後にしました。

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改めて、追悼集を開き、原さんの被爆体験記はないかとページを繰りました。「卒業生聞き書き・手記」の章にありました。タイトルは「白い雲 そして真っ赤な空」です。岡本千恵子さんの聞き書きです。「建築家1年生、13歳の時です。(略)私たちの組は8月5日、疎開家屋の撤去作業に出ていましたので、6日、原爆が落とされて日は休みでした。私の家は、矢野でしたが、6日は休みとなっていたので、5日の夕方、リュックサックを背負って、尾賀さんのいる江田島に行きました。」から始まる体験記には、江田島から原爆の様子を眺めたこと、7日に学校へ行ってからのことなどが詳しく書かれています。原さんがいつも語っていた体験談です。広島県立工業学校の被爆の歴史も詳しく調べてみたいと思いますが、これで「なぜ原さんの絵が?」という疑問は完全に解けました。

原廣司さんが、被爆体験を語りながら、矢野から通い描き続けた原爆ドームの絵は、3000枚を超えたといわれます。

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その原さんが亡くなってもうすぐ1年を迎えます。そんな時、原さんと一緒に訪朝したことのある李実根さんが亡くなりました。同じ入市被爆者として頑張り続けた二人でした。

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2020年3月28日 (土)

プライドPRIDE共生への道~私とヒロシマ~

李実根さんのご遺体に高天原の火葬場まで同行し、最後のお別れをしました。今、帰宅しすぐに李実根さんが、自らの信念を貫いて生きてこられた人生を振り返った著書「プライドPRIDE共生への道~私とヒロシマ~」を開いているところです。

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この本を改めて手にしようと思ったのは、昨日の李さんの葬儀で「お勤め」を務めた吉川徹忍さんが、御文章「白骨の章」を拝読した後、葬儀では珍しいことですが、自分と李さんとのかかわりを話す中で、この本(PRIDE)の最初に載っている「プロローグ 三歳の日の銀杏の木」のエピソード(李さんが三歳だったころ、息子の自立を願ってお母さんが「暁雲寺」という浄土真宗のお寺に預けられたこと)を紹介したからです。

表紙をめくった見開きのページには「謝 2006年10月30日 李実根」のサインが入っています。奥付にある発行日は「初版 2006年7月28日初版第一冊」となっていますので、私の蔵書は、出版記念会で参加者全員に配布されたものだと思われます。

第一章は、「父と母」「日本の子どもとして生きる」「被爆」と生い立ちから被爆者となるまでが綴られています。その中には、軍国教育と差別の中で生きてきた少年時代の苦い思い出も書かれています。第二章、第三章では、戦後の混乱期の中で体験した刑務所生活など、波乱万丈の人生が綴られています。

そして第4章からは、私たちがよく知る李実根さんの後半生が登場します。1961年から始まった朝鮮総連役員としての組織づくりを中心とした活動。そうした活動をへながら、いよいよ本格的な被爆者の組織作りが始まり、1975年8月2日の「広島県朝鮮人被爆者協議会」の発足へと発展します。李さんは、結成の意味を「PRIDE」の中にこう書いています。「唯一の被爆国、唯一の被爆者論が展開された時期に、『唯一の被爆国』は正しくとも『唯一の被爆者論』は間違っているという認識から産声を上げた朝被協の結成は歴史的に大きな意義があった。日本人だけが唯一の被爆者ではない。罪もないのに被爆したたくさんの朝鮮人。その朝鮮人たちが立ち上がったことを世界に向けて宣言したのだ」と。そして大事なことは、「宣言した」だけでなく、77年にかけて在広朝鮮人被爆者の実態調査が実施されたことです。その実態調査には、李さんも書かれていますが、日本の青年や学生の協力がありました。この協力を得ることができたのも、李さんの人脈の広さがあったからです。

そうした活動が、次のステップ、朝鮮人の被爆体験集「白いチョゴリの被爆者」の発刊へとつながっていきます。「PRIDE」には、当時著名な作家だった松本清張さんへの「序文」の依頼の様子も詳しく書かれています。それも、これも李さんの行動力とそれを支えようとする多くの人たちが周りにいたからできたことが分かります。

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葬儀で上映されたDVDの最後の写真

その後の李さんの活躍ぶりは、多くのところで紹介されていますので、ここでは省略しますが、どうしても触れておきたいことがあります。それは、出版記念会で配布された本には、A4のコピー用紙6ページほどの資料が、半分に折って挟み込まれていたことです。資料のタイトルは「日本の戦争責任を問う」です。出版と同じ年の7月16日に開催された「原爆投下を裁く国民民衆法廷・広島」での李さんの「特別証言」が、全文掲載されています。

きっと、李さんが「PRIDE」の中で書ききれなかった過去の歴史と日本の戦争責任についての考え方を、この「特別証言」を通じて訴えたかったためだと想像できます。多くの人の目に触れた欲しい文章です。

最後の紹介ですが、「エピローグ」の中で李さんと原水禁とのかかわりについて書かれています。「当時は社会党系の原水禁や被団協からの支援が多く、中でも故森瀧市郎先生や宮崎安男さん、故近藤幸四郎さんといった人たちが、積極的に応援してくれた。特に70年代の終わりから80年代にかけては、常に原水禁運動の中で大小問わず、様々な会合や学習会、講演会などに参加させてもらった」と。

通夜、葬儀で上映されたDVDの締めくくりは、慰霊碑前で座り込みをする李さんの姿でした。私はそれを見ながら、原水禁との縁の深さを感じました。李さんと原水禁との歴史をもう一度思い起こし、李さんの運動の歴史から改めて私たちも学びなおしたいと思っています。

いのととうとし

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2020年3月27日 (金)

広島県朝鮮人被爆者協議会会長李実根さんの訃報

広島県朝鮮人被爆者協議会会長として在日朝鮮人の権利確立と生活擁護のための活動を献身的に続けてこられた李実根さんが、一昨日の午後5時50分に逝去されました。

訃報の連絡を受け昨日午前、遺体が安置された玉泉院吉島にお別れに行ってきました。

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李さんとの思い出は、数え切れないほどありますが、私にとってどうしても忘れることができないのは、在朝被爆者問題を一緒にとりくんだことです。

1989年7月、被爆者の代表として石田明さんと共に、平壌で開催された「世界青年学生平和友好祭典」に「平和の灯」を持参して参加された李さんは、その祖国訪問期間中に共和国に10人の被爆者がいることを確認されました。その時以来、李さんにとっては、在日の被爆者問題と共に在朝被爆者支援が大きな活動の柱になりました。

そのための具体的な活動のスタートとなったのが、1992年の原水禁国民会議訪朝団の派遣でした。私も李さんと共に団員の一員として参加しました。その時、李さんが準備し持参されたのが、被爆者健康手帳申請用紙をもとにハングルに翻訳された調査用紙1万枚でした。訪問の最終日、交流の成果として、朝鮮民主委主義人民共和国(以下「共和国」という)の平和団体・朝鮮平和擁護民族委員会と原水禁国民会議は、共同コミュニケをまとめました。李さんの強い思いが実り、その第1に「日本政府が、帰国した朝鮮人被爆者に対しても、充分な補償をすることを強く要求する。その実現のため両組織は、最大限の努力を行う」と在朝被爆者問題に取り組む決意を宣言しました。

その訪問から約3年後の1995年2月に、共和国から嬉しい便りが届きました。共和国に被爆者組織「反核平和のための朝鮮被爆者協会」(後に「朝鮮被爆者協会」と改称)が発足したというニュースです。李さんの願いがひとつ実現しました。

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日朝被爆者交流を進めるヒロシマ訪朝団・左端が李実根さん

その報を受け、翌年の96年5月、広島からの「日朝被爆者交流を進めるヒロシマ訪朝団」を派遣し、在朝被爆者支援・交流のスタートを切りました。その成果は、97年9月には「朝鮮被爆者協会」の初来日、99年8月の平壌での「原爆写真展の開催」などなど、日朝間の交流が深まりとなって継続しました。

その両国の団体を繋ぐ役割を担ったのが、李実根さんでした。その李さんの助言を得ながら、私も事務局のメンバーとして深くかかわったことは、忘れることのできない思い出です。

もちろん2000年に入ってからも在朝被爆者の支援活動のための訪朝活動は続きました。

しかし、こうした李さんの努力にもかかわらず、在外被爆者問題が前進する中で、在朝被爆者は、被爆者援護法適用からも置き去りにされた状態が、今も続いています。

李さんにとって、在朝被爆者問題を前進させることができなかったことは、大きな心残りだったことだと想像できます。

今日の葬儀に参列して何よりも霊前に誓うべきは、「李実根さんの遺志を引き継ぎ、在朝被爆者問題の解決のために全力を尽くします」の一言だと思います。

李実根さん、盟友であった近藤幸四郎さん、石田明さん、そして宮崎安男さんたちと再び出会い、ゆっくりと思い出を語り合ってください。

合掌

いのちとうとし

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2020年3月26日 (木)

普門寺のシダレザクラが満開になりました

広島の桜の開花日に合わせて紹介した普門寺のシダレザクラが満開になりました。

満開となった桜の紹介です。

山門越しに眺めた桜です。

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境内に足を踏み入れると、目の前に満開の桜が飛び込みます。昨日夕方のNHKの天気予報で勝丸さんが紹介されたからでしょうか、沢山の人が訪れています。午前10時前ですが、すでに10数人の姿が見えました。人気のスポットです。Dsc_5825

いつもように本堂前への石段を上がり、そこからも一枚。

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ところで、この境内には、もう一本シダレザクラがあるのですが、こちらは少し寂しい花の付き具合です。聞くところによれば、同じ時期に植えられてそうです。どうしこんなにも違うのか不思議です。先日お会いした奥さんが「私はこの木がいとおしいですよ」といっておられたことを思い出します。

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境内に桜だけではありません。ボケの花やボタンの花があります。

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「この境内に被爆したものはないのですか」と訊ねたところ「庫裏への踏み石が、被爆した石です。」ちょうど、サクラの枝の右下に5枚の被爆石が並んでいます。

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毎年のこの時期の風物詩のようになっていますが、今年も良いアングルを求めてカメラを構える人の姿が、引きも切りません。

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2020年3月25日 (水)

話すことの大切さ

 「三島由紀夫VS東大全共闘」というドキュメンタリー映画が上映されています。まだ観ていませんが、期間中には観たいと思っています。

新聞にこの映画が「問うもの」という記事を掲載していました。三島由紀夫の考えが間違いで。全共闘が正しいとかいうことではなく、この映画が問うているのは「言葉」ということだと思っています。

時代は1969(昭和44)年、三島と全共闘の学生たちが、政治や思想について議論を交わすのです。右翼の三島と、左翼の全共闘とはまさに「水と油」という関係ですが、それがお互いに言葉を交わすことで、両方の接点を見出そうというものです。

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最近、言葉を交わすということが極端に少なくなったように思い、たいへん憂いています。

大阪市長が兵庫県との往来を自粛して欲しいと発言し、市長に対し記者は「兵庫県知事と事前話したのか?」と尋ねた時、大阪市長はそれを否定しました。

「痩せても枯れても」行政のトップにいる者が、事前に話してもいないということに、まさに「開いた口が塞がらない」という気持ちになりました。「話せば解る」ということを自らが否定する考え、これは「喧嘩を売った」としか言えません。

新聞は「三島由紀夫VS東大全共闘」について、「体温や汗を感じる対話 重要だと感じる」と書いていましたが、その通りだと思います。

かつて何かに、「絵文字でしか(笑い)の表現ができない時代が来るのでは」というようなことを書いた記憶があります。最近テレビなどで一方方向で「笑い」は提供されるが、それを観ている側は「ブスッー」とした状況でいるというのに、まさに慌てることがあります。「失語症の時代」ということも言われていたと思います。

小学生の頃、近所に住む1級下の友人と近くの銭湯に行き、銭湯で「なんだかんだ」と話すことが楽しみでした。その時間が長すぎて僕はノボセテしまい、脱衣場の長椅子で横になっていたという経験があります。

「以心伝心」とか「ツーといえばカー」とかいう言葉もありますが、たとえそうであったとしても、言葉で伝えることは大切です。

特に云い難いこと、相手が嫌がるであろうことの催促など、伝えたくないことは、だからこそ言葉で伝えることの勇気を持って欲しいのです。

好きな人が出来たら素直に「好きだ!」と伝えること、ストーカーと思われる線は超えない形でなら、聞いた方は悪い気にはならないと思うのですが。僕は云ったことは何度もありますが、残念ながら云われた経験はありません。

木原省治

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2020年3月24日 (火)

千田小学校の被爆石の由来

22日のブログで紹介しました「橋本秀夫の仕事ぶり : 建築家橋本秀夫遺稿集」を入手できないかと探し回っている中で得た、新たな情報です。

入手できる方法を見つけようとネットで検索していたら、広島県立広島工業高等学校(以下「県工」という)同窓会の名前が出てきました。すぐに電話を掛けたのですが、今日の話はその顛末です。

電話口に出られた吉森先生(学校の講師を務めながら、同窓会事務局の仕事もされている)、「橋本秀夫さんは、元は県工の卒業生でもあり建築家の先生でした。私も机を並べて仕事をしていました」と教えていただいたのですが、肝心の本は、すでに品切れでここでは入手することはできませんでした。しかし、電話口の吉森さんから、陸軍被服支廠についての新しい情報を得ることができました。詳しく知りたかったので「午後に同窓会事務所を訪問する」ことを約束し電話を切りました。

午後2時過ぎに訪れた県工同窓会事務所は、陸軍被服支廠の北側の延長線上に建つ2階建ての建物です。2階にある事務所からは、被服支廠の全体が見渡せますので、早速、ベランダに出て写真を撮りました。しかし午後の日差しでせいで、日陰となりあまり映りはよくありません。気の毒に思われたのでしょうか、吉森さんが「この写真はどうですか」と県工同窓会が映した空中写真を提供して下しました。下の写真です。普通では撮れないアングルです。

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その後、椅子に座込んでの話が弾みました。話の中で、私が「千田小学校に被爆石として県立工業学校(県工の前身)時代の『車回し入口土台石』があるのですが、ご存知ですか」と尋ねたところ、「えー、初めて聞く話です。本当ですか」との答え。私のスマホに、その被爆石の写真がありましたのでそれをお見せすると、「待ってくださいよ。ここには古い写真が何枚もあります。その中に映っているものがあるはずです」と書棚を探してくださいました。

ありました。一枚は、昭和初期の千田町の県立広島工業学校の玄関の写真です。車回し入口に二本の柱がきちんと映っています。

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「この土台部分だと思います」吉森さんの話です。この写真では、見分けにくいのですが、柱は3本がL型になっています。千田小学校にある被爆石の一番上部の石も、3つの穴がL字型になっています。

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次にもう一枚の写真出てきました。被爆後、昭和25年(1950年)に映された正門の写真です。バックに、車寄せ入り口の土台石だけ残ったままで映っています。一番下のレンガ部分を除いて千田小学校に移築されたと思われます。

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千田小学校の被爆石「車回し入口の土台石」は、間違いなくかつての県立工業学校にあったものだと思います。千田小学校を訪れた時には、「どこでどんな風に使われていた」のか不明でしたが、うれしい解明です。ちなみに県立工業学校は、現在の県立図書館などが建っている場所にありました。正門は本川沿いの西側に面し、校内の北寄りにあったようですので、ちょうど県立図書館が建っている場所の西側道路沿いにあたります。「学校の古い歴史に関心を持つ友人がいますので、ぜひ一緒に千田小学校を訪ねたいです」との吉森さんの話でした。今回使用した写真は、いずれも使用許可をいただいています。

ところで「橋本秀夫の仕事ぶり : 建築家橋本秀夫遺稿集」ですが、いろいろ尋ねてついに入手することができました。その顛末と本の内容については、後日報告します。

いのちとうとし

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2020年3月23日 (月)

広島の桜開花発表と近所の桜

昨日広島地方気象台が、桜の開花を発表しました。広島地方気象台の桜の標準木は、このブログでも紹介した縮景園にあります。すぐにも行って自分の目で確かめたかったのですが、縮景園も新型コロナウイルス対策で、今月末まで閉園中のため、入ることができません。

昨日の開花発表は、例年より5日早く、昨年、一昨年と同じ日です。ちなみに、広島地方気象台によれば、広島で最も早かった開花発表は、2004年の3月19日、最も遅かったのは1984年の4月8日だそうです。

ところで同じ開花発表日でも満開日は、昨年が4月3日、一昨年は3月28日と大きく違っています。果たして今年は? ちなみに満開日は、つぼみの約80%が開いた状態になった日に発表されます。

桜の開花日は、ソメイヨシノが標準木となっていますが、サクラには他の品種もたくさんあります。その一つシダレザクラの木が、わが家から250m以内の近所に、3本あります。桜開花日の昨日、その3本のシダレザクラの様子を観察してきました。

最も近いシダレザクラは、マンションの真向かいにある本逕寺の墓地に植わっています。80mの近さです。すでに5分咲きという状態です。周りに何もないからでしょうか、真っすぐ上に伸びており、見上げるようです。

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ここの境内には、昨年7月のブログで紹介した被爆樹木・ボタンが、このシダレザクラの真下に植わっています。ボタンも葉が茂り、よく見ると大きなつぼみを付けているのが分かります。咲くのが楽しみですので、また何度も足を運ぶことになりそうです。

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170mほどの広島市役所前庭にも、被爆樹木のソメイヨシノと並んで、シダレザクラが植えられています。ここのシダレザクラは、他の2本と比べると小ぶりな木ですが、この木も枝によってはずいぶんと開花しています。

Dsc_5763 このシダレザクラの奥側に被爆樹木のソメイヨシノが植わっています。目を凝らしてよく見ると何輪かは咲いていますが、見ごろになるのはもう少し先のように思われます。

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最後に訪れたのが、25mほどの距離にあり、昨年も紹介した普門寺のシダレザクラです。桜の開花とともに、いつもは閉じられている山門が開き、この時期だけは山門をくぐってはいることができます。

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開花状況は、50%ぐらいです。特に本堂前の枝は、満開といってもよいほど咲き誇っています。

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この普門寺は、毛利元就ゆかりのお寺です。吉田の地で開山し、その後広島の打越、広瀬と移転し、1600年ころ現在の地に建立されたそうです。広島城を築城した毛利輝元は、久しく子どもを授かることができませんでしたが、この大悲殿に通い祈願したところ、嫡男となる秀就を授かったそうです。普門寺が現在地に移った思われる1600年からは、福島正則が広島城主となっていますから、輝元が通ったのは打越にあったころだとと思われます。

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普門寺には、毎年花見に訪れていましたが、初めて知る由緒でした。昨日は、たまたま庭掃除をされている奥さんと出会うことができ、いろいろなお話を伺うことができました。

新型コロナウイルス騒動があっても、今週の普門寺には、例年と同じように多くの花見客が訪れることになると思われます。

いのちとうとし

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2020年3月22日 (日)

「赤レンガ倉庫は語り継ぐ―旧広島陸軍被服支廠被爆証言集―」

今日は、一昨日引用した「旧被服支廠の保全を願う懇談会」が発刊した「赤レンガ倉庫は語り継ぐ―旧広島陸軍被服支廠被爆証言集―」を紹介したいと思います。

昨年12月に広島県が「被服支廠の1棟保存、2棟解体」の方針を明らかにして以来、陸軍被服支廠への関心が高まり、保存を求める声が大きくなりました。まさに時宜を得た発刊になりましたが、読んでみるとかなり以前から準備されていたことが分かります。

本は、同懇談会の中西巌代表の「はじめに」につづき「第1部 一人一人の『倉庫も記録』」で、「被爆証言」が載っています。峠三吉の「倉庫の記録」とともに、有名な「峠三吉日記」も8月4日から糸崎の日赤病院に入院する8月20日までの全文が掲載されています。この日記で峠三吉は、近所の河内さんの従妹を探して被服廠のコンクリート大倉庫(日記中の表現)にたどり着き、構内で見たすさまじい光景を8月8日の日記に詳しく書いています。「心を定めて収容所たる会場に足を踏み入れたる時の光景は終生忘れ得ず、また忘るべからざるものなりき」と。

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第2部は、「甦る旧広島陸軍被服支廠」です。一昨日広島第一県女とのかかわりとして少し紹介しましたが、被爆前の「被服支廠」の様子が詳しく掲載されています。その中には、建築家橋本秀夫さんが「被服支廠」についてまとめられた「建物詳細」「関連業者」などの貴重な資料が掲載されています。元となった「橋本秀夫の仕事ぶり : 建築家橋本秀夫遺稿集」が、市立図書館にあることが分かりました。しかし3月29日までサービスが休止され、予約以外の本は貸し出しができないということですので、すぐに貸し出しができません。とりあえず予約を入れておきまし。た。

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橋本秀夫さんが作図された被服支廠構内図

この第2部には、この他にも以前紹介した被爆者切明千枝子さんが、「自らが被服支廠内の保育所に通ったこと」など近所に住んでいて体験した思い出を克明につづっています。

昨年12月に広島県の方針が発表されて以降、様々な動きや声が上がりましたが、その中で「被爆の歴史」と共に、これまではあまり聞くことがなかった「加害の歴史」という言葉が、多くの人から指摘されるようになりました。この第2部は、「加害の歴史」を考えることになる構成となっています。

第3部は、資料編です。ここには、2013年12月に「旧被服支廠の保全を願う懇談会」発足に向けた初めての講演会が開催されて以降の取り組みや経過が「活動報告」として詳細に記載されています。同懇談会が早くから「被服支廠保存」のために活動されていたことが分かります。その他にも「被服支廠年表」や1992年以降の「旧被服支廠赤レンガ倉庫」を巡る広島市や広島県の動向もきちんとまとめられています。

この本には、古い写真(戦前という意味だけでなく、戦後の貴重なものも)が、ふんだんに使われていますので、それを見ることができるという意味でも貴重な資料です。

多くの人に読んでほしい本ですが、会員配布とのことですので、手に入れようと思えが、会員になる必要があります。

最後に「おわりにかえて 地味な建物だからこそ」を書かれた山野上純夫さんのことについてもう一度触れたいと思います。この文章の中では、山野上さんと被服支廠の関係について「昭和19年6月から20年1月までの半年間、旧制中学校の3年生だった私は、戦時下の通年動員として『広島陸軍被服支廠』の輸送班箱打勤務した」と赤レンガ倉庫で働いた時の様子を記載されています。「1月以降は?」と疑問が湧きます。その答えが、「ふるさと暦」に書かれています。その1月に「戦争に勝つためには科学教育の振興が必要」として全国の3つ(東京、金沢、広島)の高等師範学校付属中学校に特別科学許育研究学校(略称・科学学級)が新設され、山野上さんはその学級の一人に選ばれ、広島高等師範学校付属中学校(現在の広大跡にあった)に戻り、そこで被爆することになります。学業を放棄させられて動員作業に行くのも、学校に戻るのも「すべて戦争のため」に進められたことがわかります。

それが戦争だということを痛感させられます。

いのちとうとし

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2020年3月21日 (土)

弱者に冷たい日本の法律制度 ――弱者が裁判で問題提起するまでは「放置」――

《簡単にお浚い》

これまで、新憲法の制定時に、最高裁の判事も含めて、当時の日本政治の枢要な立場についていた人々が、仮に憲法の精神、特に基本的人権の大切さを血肉として身に付けていたら、つまり内面化していたら、死刑は違憲であり憲法遵守義務は法的義務だという判断をしたであろうと推測しました。これを短縮して、「国は憲法の価値観を内面化していなかった」と述べても良いように思います。

つまり、現実として憲法は内面化されてはいなかったのですから、基本的人権を中心とする憲法の精神に優先する何かが入り込む余地があったはずなのです。前号ではそれが「国体」であり、特に家族制度と仇討という柱に支えられていたのではないかという仮説を紹介しました。それに加えて、新憲法の神髄が、国ならびに日本のエスタブリッシュメントにとって、最優先されるべき信念体系ではなかったことを示す重要な事実があります。それを疑問の余地なく示すためには、当時の文書やその後の研究を調べる必要があるのですが、現在、私の置かれている環境では市民図書館やネット上のウイキペディアの類にしかアクセスできません。従って、詳細な検証は何方か志のある方にお願いしたいと思っているのですが、ここでは数例を元に、私の推論を示しておきます。

新憲法が効力を持つと、それまでは認められていなかった具体的権利が基本的人権として認められることになります。そして、それまで効力を持っていた法律の中でも憲法に則していないという理由で無効になる物が出てきて当然です。それは、98条が規定しています。再度条文を引用します。

第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

誰が考えても違憲でしかない法律 (あるいはその一部) はあった訳ですから、その法律は無効になり改正されるか、廃止の後に新しい法律が作られるという手続きが必要だったはずです。その前段として、新憲法施行前の法律について、基本的にはどのように扱うのかという基本方針がなくてはなりません。それには次の二つの可能性があります。

    ① 既存の全ての法律は無効であると考え、合憲であることが確認された段階で効力が復活する。違憲の法律は改正、廃止等される。

  ② 既存の法律は、憲法制定時には有効であると考え、その後、違憲性が認められれば、その時点で失効する。

さて、ここで当時の為政者たちが基本的人権を我が国で最大限尊重するという憲法13条の規定に文字通り忠実だったと仮定すると、どのような行動を取ったのだろうか考えてみましょう。基本的には①を認めることになったでしょうが現実的には、合憲か違憲かを判断するにも時間が掛ります。しかし、違憲の法律をそのままにしておくのは、国民の基本的人権を蹂躙することですから、一日でも早く無効にし改正する手続きを取らなくてはならなかったでしょう。

となると、一定の期間を設けて、その間に全ての法律を検証して、基本的人権に抵触するようなものについては迅速に改正の手続きを取るという方針の下、法律の洗い直しと合憲化を図ったはずです。しかし、現実には「一定期間」は設けられず、積極的に基本的人権の回復を図る措置は取られなかったと考えざるを得ないのです。その対極とでも言える姿勢で、基本的人権の回復は、人権を蹂躙された社会的弱者に任され、裁判で訴えるだけの力のない場合には、違憲状態が放置されて来たとまで極言して良いように見えるのです。

そういわざるを得ない状況であったことを示すために、これまでに取り上げた死刑、そして婚外子の相続を再度、考えてみましょう。死刑が合憲かどうかは、新憲法に新たに追加された36条の「拷問と残虐な刑罰の禁止」と直接関わりがありますから、基本的人権を尊重する立場からは、旧刑法の死刑の項目を削除すべきかどうかを検証し、その理由を国民に分り易く説明する義務はあったはずです。

しかし、死刑の合憲性についての判断は、1946年に起きた殺人事件で死刑の宣告をされた被告が最高裁判所に上告することで手続きが始まり、1948年に下された判決で結論が出されています。時期的には微妙なのですが、死刑が宣告された背景には、被告が殺人罪だけでなく、後には違憲とされた尊属殺人罪でも立件されたという事実があります。殺人罪だけでは死刑に至らなかった可能性も考えると、死刑を宣告された弱い立場の人間による問題提起によってはじめて、その当否を検証することになっています。この後ろ向きの姿勢には疑問を感ぜざるを得ません。

それ以上に問題なのは婚外子の相続を規定した民法900条です。先月号でも指摘したように、親を選べない子どもの人権ですから、親の行動の結果責任を取らされる謂れはありません。にもかかわらず、この条文は生き残っただけではなく、弱い立場にある婚外子から何度か訴訟が提起されているにもかかわらず、最高裁は2013年以前には「合憲」の判断をしてきたのです。

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浅川澄一:福祉ジャーナリスト(元・日本経済新聞社編集委員)による、

2018年12月26日付ダイヤモンド・オンライン中の記事、

「「未婚ひとり親」差別発言は日本の少子化対策に逆行する」中のグラフ

新憲法制定当時、そしてその後の為政者たちが、基本的人権を国民が享受できるように最大限の努力をしていないことは明白だと思います。特に、ここに例示したように、弱い立場にある人たちの基本的人権を守るどころか、違反行為を放置していたのですから何をか況やです。

国はじめ、枢要の地位にある人々、エスタブリッシュメントが、弱者の権利を蔑ろにしてきた軌跡を辿る上で、「弱者」の中でも忘れてはいけない「被爆者」や「外国人」にも注目する必要があります。これら二つのグループへの国、その他の権力者の対応を見ることで、国と権力の特徴付けが可能になります。

[2020/3/21 イライザ]

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2020年3月20日 (金)

広島第一県女と旧広島陸軍被服支廠

昨日のブログ「原爆犠牲者 追憶之碑 廣島第一縣女」を書くとき、「赤レンガ倉庫は語り継ぐ―旧広島陸軍被服支廠被爆証言集―」を参考にしました。

この本は、長年旧広島陸軍被服支廠の保存のための活動をしてきた「旧被服支廠の保全を願う懇談会」が、会員配布用として3月1日に発行したものです。旧陸軍被服支廠について、沢山を資料や証言によって編集され、貴重な内容となっています。改めてきちんと紹介したいと思います。

私が昨日参考にしたのは、終わりの方に編集されている「被服支廠年表」です。この年表には、原爆投下前後に広島第一県女の名前が何度も出てきます。最初に出てくるのが「昭和19年(1944年)10月13日、県立広島第一高等女学校3年生が学徒動員される(昭和20年3月まで。安佐郡川内村の疎開作業場での作業は終戦まで)」です。広島第一県女の3年生の生徒は、被爆時には川内村の分工場で作業をしていたので、直接被爆を免れることになったのです。もし、被服支廠に動員されたままだったら(4月以降も数名が継続動員されたようです)、広島第一県女の犠牲者は、301人よりもっと多くなっていたと思われます。一方で、川内村の文字を見て思い出すのが平和公園の本川沿いにある「義勇隊の碑」のことです。

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原爆投下当時、同じ川内村からは建物疎開作業に従事する義勇隊として250人が、動員されこちらは全員が亡くなっています。特に、温井地区は180人もの犠牲者を出し、残された老人、子ども、女性は厳しい生活を強いられたといわれています。不思議な巡り会わせを感じます。

この本で紹介されている被服支廠での作業の様子は、広島第一県女の学徒動員者の体験が大きくページをとって紹介されています。

二番目に書かれているのが、昨日紹介した「昭和21年(1946年)1月22日 広島県立第一県高等女学校、分散授業場としてレンガ倉庫を利用する」です。この年表によれば、昭和22年(1947年)5月19日に、レンガ倉庫から木造建物へ校舎が移転されていますので、約1年3カ月、レンガ倉庫が教室として使われていたことが分かります。

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ところで、この「赤レンガの倉庫を語り継ぐ」は、山野上純夫さんの「おわりにかえて」と題する文章で終わっています。山野上純夫さんは、京都在住のジャーナリストで、元毎日新聞の記者として広島勤務をされた経験も持っておられる人です。山野上さんとは、ドイツ在住の被爆者外林秀人さん(すでに亡くなっておられますが、何時か機会があったらこのブログで紹介したい)とのかかわりで知り合いになった方です。そんな縁があり、「おわりにかえて」を最初に読みました。山野上さんも一時期、勤労動員で被服支廠に配属されていたことが分かりました。その縁でこの文章を執筆されたようです。

その山野上さんには、被服支廠だけでなく広島第一県女ともかかわりがあるのです。以前山野上さんから送っていただいた著書「記者生活60年 ふるさとの暦」(2012年刊)には、妻の里子さんが、広島第一県女の1年生だったことが書かれています。里子さんは、原爆投下の1カ月前軍人だったお父さんの指示で、一家をあげて実家がある兵庫県の農村に疎開され、被爆することなく生き残ることができています。広島第一県女の1年生は、土橋付近の建物疎開への動員で、223人が亡くなっています。

この文章を書きながら、久しぶりに山野上さんに話が聞きたいと思い自宅に電話をしました。リハビリで入院中のため本人とは話ができませんでしたが、電話口に出られたのが妻の里子さんに、その後のことを訊ねました。「広島へは帰られなかったのですか」「いえ、その年の11月に広島に帰りました。草津の方に友人と先生がおられるということを聞いたので、訪ねました。その頃、草津のさくら寮で授業が行われましたので、東雲から毎日電車を乗り継いだり歩いたりして通いました。そして翌年1月から私も赤レンガ倉庫で授業を受けました。あの倉庫は、本当に懐かしいです。その後有朋高校をへて皆実高校を卒業しました。」「原爆投下当時1年生でしたよね」「そうです、多くの同級生が亡くなりました。彼女たちに『生き残って、何かしてほしい』と背中を押されるような気持で、自分にできることはと考えて生きてきました」。

まさか、赤レンガ倉庫で授業を受けた本人からお話を聞けるとは、不思議な縁を感じながら、ブログの原稿を書いています。

いのちとうとし

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2020年3月19日 (木)

原爆犠牲者 追憶之碑 廣島第一縣女

広島市議会予算特別委員会傍聴記-その2に掲載した「原爆犠牲者 追憶之碑 廣島第一縣女」がなぜここに建っているのかを調べてみました。

碑の前にある「説明板」を紹介します。

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原爆犠牲者 追憶之碑 廣島第一縣女

 広島県立高等女学校は1901(明治34)年に設立を許可され、1902(明治35)年旧下中町のこの地に開校されました。1941(昭和16)年広島県立第一高等女学校(略称広島第一県女)と改称されました。現在は広島県立皆実高等高校です。

1945(昭和20)年8月6日の[米軍による]原爆投下によって爆心地から600mにあった校舎は倒壊焼失し301名(教職員20名、学徒動員で建物疎開作業に従事していた1年生223名を含む生徒281名)の尊い命が犠牲となりました。

被爆10年の1955(昭和30)年に御霊を慰めるため「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」が当時の職員・遺族・同窓生によって建立されました。この碑には県女の校章と哀悼歌の一節が刻まれています。石柱は被爆した門柱の内の一本です。ハート型の千羽鶴掛けは県女の校章をもとにしています。

御霊に哀悼を捧げ、悠久の平和を祈ります。

被爆70年にあたり改修再整備 2015(平成27)年8月 

広島県立皆実高等学校、同窓会南有朋会


 私の頭の中には、広島第一県女の生徒が学徒動員による建物疎開で犠牲になった土橋付近がという地名があったものですから、「なぜこの地に?」という疑問があったのですが、この説明版をきちんと読めばすぐにわかることでした。この場所に、学校があったのです。同窓会が作成したアーカイブス(同会のホームページから見ることができます)には、「県女跡地」が、上空から移した現地の写真に枠囲いで示されています。残念ながら許可を得ていませんので、それを使用することはできません。現在の中町で、南北は平和大通りの車道の中心からクリスタルビルの裏通りまで、東西はクリスタルビルの西端から三井ガーデンホテルの西側までです。広い範囲です。

当時の学校の配置図によれば、正門は東側にあります。少し位置は違うかもしれませんが、正門跡付近に「追憶之碑」が建てられたようです。当時の門柱もモニュメントとして残されています。門柱の前の石には「この位置は、旧廣島第一縣女の正門付近に当りこの石柱は原爆当時の門柱4本の中の一である」と説明文が刻まれています。

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これを読めば「原爆犠牲者 追憶之碑 廣島第一懸女」にとって、ここがいかに大切な場所であり、ここでなければならなかった意味が理解できます。

同窓会事務局に問い合わせの電話をかけた時、「平和大通りのにぎわいづくり」について少し話したのですが、「えっ」と少しびっくりされたような反応でした。

その他にも、説明板によって、いくつかのことを知ることができました。

その一つが、犠牲者数です。碑の後ろ側には、犠牲者の名前が刻み込まれた銘板があります。「追悼之碑」の左側には「昭和20年8月6日遭難 職員校長共20名 生徒277名及同窓生」と、犠牲者が297名だったことが刻まれています。ところが、2015年の改修再整備時に設置された説明版には、「301名(教職員20名、生徒281名)」と記されています。どういう経過で、4名(いずれも生徒)の新しい名前が明らかになったのか、その事情が知りたくなります。いつか同窓会事務所を訪ねて調べてみたいと思います。

二つ目は「哀悼歌」です。「一節が刻まれています」とあり、「追憶之碑」の裏側に刻まれています。

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この「哀悼歌」は、一周忌に向けて「原爆犠牲者への哀惜と鎮魂の祈り」をこめて作ることになり、全校生徒から募集し、3年生の岸谷敞子(44期)の詩が選ばれ、岡本真 一郎教諭が作曲され「一周忌にあたる1946(昭和21)年8月6日、一周忌の法会で霊前に捧げた。」そうです。この碑に刻まれているのは歌詞の3番です。

三つめは、門柱です。説明版には、当時の正門前の写真が付けてあります。

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現在モニュメントとして建っている門柱前の石に刻まれている説明どおり、4本の門柱が建っています。手前の門柱には「広島女子専門学校」と書かれています。同校は、1928(昭和3)年に設立されてから1935(昭和10)年に宇品に移転するまで、広島第一県女の校内にあったようです。当然のことですがモニュメントは、後ろ側の門柱が使われています。

そして「説明版」では触れられていませんが、広島第一県女の再建です。当初は、分散して授業が行われていたようですが、本格的な学校再開時(1946年1月)の授業場として陸軍被服支廠のレンガ倉庫が使われています。その後広島市の都市復興計画によって、校地の大部分が平和大通りになることになったため旧校地への復帰ができなくなり、旧陸軍被服支廠跡での学校再建となったようです。そして、友邦高等学校を経て、1949(昭和24)年、現在の県立広島皆実高等学校へと引き継がれました。陸軍被服支廠との深いつながりを感じました。

いのちとうとし

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2020年3月18日 (水)

広島市議会予算特別委員会傍聴記-その3

昨日まで13日に開催された広島市議会予算特別委員会傍聴記を書いてきましたが、今日は、議会傍聴を通じて感じたことをまとめてみたいと思います。

わずか一日だけの傍聴ですので、多分に私の思い込みによる感想になると思いますが、気になったことを書いてみます。

第1は、議会の日程です。今回の定例議会は、2月14日に開会し、当初は3月26日まで開催されることになっていました。新型コロナウイルス対策ということで、3月20日に閉会するよう変更されました。私が、疑問に感ずるのは、予算特別委員会の日程短縮です。議会開会当初は、予算特別委員会は、議案(例えば、「文教」など)ごとに2日間が予定されていました。しかし、会期途中で1日に短縮されました。もちろん各会派の協議によって決められたことだとは思います。しかし、予算の審議は、議会の中でも一番重要な活動です。だからこそ、他の3回の会期(定例は年4回開会)に比べ、日程が長く設定されています。これで十分な審議時間が確保されるのかと疑問が湧きます。もう少し工夫はなかったのかと率直に感じます。

第2は、質問の中味です。質問の多くが「過去の実績(数字)を訊ねる」ものだったように感じました。聞いた限りでは、その多くは事前に担当に問い合わせればわかることです。短い持ち時間ですから、そこに時間を費やすことより、それに基づく、意見や提言を行って議論を深めてほしいと思います。

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第3は、もちろん質疑の中では議員からの貴重な提言もありました。しかし、その多くは、なぜか発言の最後に行わるため、言いっぱなしで終わることが多くありました。一番聞きたかったのは、この議員の提言や意見に対する市側の答弁です。ここが審議するポイントだと思ったのですが。

第4は、傍聴記その1でも書きましたが、議員からの質問に対する答弁のほとんどを課長が行っていました。その原因の一つに、第3で指摘したことと思いますが、予算には新規事業も含まれているのですから、基本的なこの事業の在り方、考え方が論議される必要があると思います。そういう討論にならば、部長以上が答弁する機会も増えるはずです。ちなみに、この日の審議では、市長の発言は1回だけでした。局長の発言も1回でした。

批判的な感想を述べてしまいましたが、もちろん画像を使うなど工夫した質疑も多くあったことも紹介しておきたいと思います。また、他の議会では新型コロナウイルス対策ということで、議会傍聴を中止したところもあるようですが、広島市議会は、希望すれば傍聴ができます。

議会の傍聴は誰でも、自由に(途中まででも、途中からでも)傍聴することができます。ネット中継もされていますので、そちらで見ることもできますが、一度現場で体験してみるとよいと思います。

いのちとうとし

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2020年3月17日 (火)

広島市議会予算特別委員会傍聴記-その2

午後1時、「経済観光環境」を議題とする予算特別委員会が再開されました。

午後の質疑者は、9人です。6番目に質問者席に座ったのが、西区選出の定野和広議員でした。定野議員の質問項目は3項目ありましたが、その3番目に「Park-PFI方式について」があります。定野議員の持ち時間は、全部で28分です。残り10分になったところで「Park-PFI方式について」の質問が始まりました。

「平和大通りは、東西の平和の軸と言われてきたのに、今度はにぎわいの軸と言われています。二つを重ねていくのはなかなか難しいのではないか」。本筋からの質問です。さらに「ここには、様々な慰霊碑があります。供木運動で寄せられた樹木があります。その隙間を縫ってどこに持っていくのか」。定野議員の指摘の中には、「被爆者の森」はありませんでしたが、重要な問題は提起されています。横道にそれますが、何人かの議員とこの問題を話したのですが、その時「碑」や「供木運動」という言葉はすぐに出るのですが、「被爆者の森」について触れられることは、ほとんどありませんでした。「被爆者の森」の存在があまり知られていないようですが、今回を機に「被爆者の森」が認知されればと思います。そして、例えば全国から訪れた修学旅行のコースに組み込まれ、ここに来ることによって「地元にも被爆者がいる」ことを知るようになれば、それこそ「広島平和回廊」を作ることになるのではないでしょうか。

定野議員の質問に戻ります。「北九州で起ったことですが、このPark-PFI方式で公園を造る際に、そこにあった森鴎外文学記念碑を撤去してカフェを作ってしまった例があります」と、自分が調べた事例を紹介しながら、具体的な質問に移りました。「具体的のどの場所を考えているのか」「上がった収益の使い道は?」「全国でこのような大通りで実施された例は?」などなど。そして最後に「平和大通りはとてもハードルが高い。場所としての意味や歴史をしっかりと踏まえたものにすべきだ」と指摘し、定野議員の質問は終わりました。短い時間でしたが、よく準備された質問だったと思います。

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平和大通りに建つ慰霊碑・県立広島第一高等女学校原爆犠牲者追悼之碑

さて、これらの質問に対する広島市の答弁です。「まだ場所まで特定して考えているわけではありません。具体的なことは、これからです」「収益は、一部または全額、公園整備のために負担させます」「Park-PFI方式での公園整備は、35カ所ありますが、大通りでは名古屋があります」。定野議員が示した「『平和の軸』としての平和大通り」という考え方と「にぎわいづくりのための公園づくり」との関係性についての広島市の考え方は、昨日のブログでも指摘しましたが、「基本計画はこれから作成する」と答えるばかりで、何ら明確なものは示されませんでした。

しかし、この委員会で二人の議員から指摘があったことは、大きな意味があると思います。二人の質問では触れられなかったことですが、私が来年度予算を見て問題だと思っていることがあります。それは「基本計画の策定」の予算と共に「道路となっている緑地部分を都市公園として位置付けるための台帳作成費550万円」が計上されていることです。広島市が言うように「場所も決まっていない、基本計画そのものもどのようにして作るのか定かでない」段階で、しかも木山議員が指摘する「地元との話し合い、合意」を得ること、そして定野議員が指摘する「極めてハードルが高い」をクリアして計画を前に進めるためには、相当な時間と丁寧な合意づくりが必要になるはずです。にもかかわらず、「公園台帳づくり」まで予算化されるとはどういうことでしょうか。

この委員会の広島市の答弁を聞く限り、慎重を進めようとする姿勢を感ずることができませんでした。「にぎわいづくりありき」のように思えます。

1950年の広島平和都市建設構想試案では「平和大通りは、平和公園と共に『市民の平和を希求する心』を表すものとして広島市の平和都市建設の象徴として建設されたものである」としています。「市民の平和を希求する心」を表すために作られた平和大通りの歴史と価値をしっかりと考えて欲しいものです。

12日の予算特別委員会は、全ての質疑を終え、午後4時35分に終了しました。

当初はあまり期待しない傍聴でしたが、収穫を得ることのできた一日となりました。

最後に、傍聴を終えての感想を書こうと思ったのですが、長くなってしまいましたので、明日にします。

いのちとうとし

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2020年3月16日 (月)

広島市議会予算特別委員会傍聴記-その1

3月12日、広島市議会予算特別委員会を傍聴しました。この日の委員会議題は「経済観光環境」です。このブログに書いてきた「平和大通りのにぎわいづくり」に関する予算が、この日の議論の対象になっていました。

委員会開会は午前10時ですので、5分前に4階の全員協議会室を訪れました。予算当別委員会は、全議員が出席する委員会です。会議室前に到着し、傍聴の手続きをしようと思っていたら、議会事務局の方から声がかかりました。「新型コロナウイルス対策のこともあり、傍聴はできるだけ遠慮を願っているのですが」とのことです。「傍聴できないということではないですね」「そうです」「どうしても傍聴したいので手続きをさせてください」「わかりました。それでは申し訳ありませんが、熱を測らせてください」「どうぞ」ということで、赤外線センサーによる体温測定を受け、無事委員会室に入りました。傍聴者は、私以外にインターン研修者と思われる大学生1名だけでした。(午後からは、インターン研修者が4名に増えた)

受付で、今日の委員会の「発言通告者一覧表」が渡されました。それを見ると14名の質疑者のうち、私が関心持っている「Park-PFI制度を活用した平和大通りのにぎわいづくり」について発言を予定されている議員は、午前と午後のそれぞれ2名です。

2人の質疑を興味深く聴くことができました。

午前中の質疑者は、中区選出の木山徳和議員でした。木山議員が質問の最初の質したのは「100m道路、平和大通りの建設趣旨」です。日高経済観光局長の答弁にはちょっとびっくりです。正確ではありませんが「戦時中、防火帯を作るために家屋が撤去されました。戦後は、平和都市建設計画の一環として基幹道路庚午比治山線として整備されたものです」との答弁でした。「平和都市建設の一環」との言葉はありますが、これでは一般的な道路の説明にしかすぎず「平和大通りの持つ意味や歴史的な価値」については、全くと言ってよいほど触れられていません。突然の指名(だったように思われたが)だったとしても、あまりにもお粗末な答弁としか言いようがありません。この答弁も、木山議員は、局長の答弁を求めたにもかかわらず、最初の答弁に立とうとしたのは部長でしたが、たしなめられて局長の答弁になりました。 余談ですが、この日の委員会中、局長の発言があったのは、この一度だけでした。ぎいんからしてきされてが、と弁を求めたにもかかわらず、最初はこれもちょっとびっくりです。99%は、担当課長の答弁でしたので。

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1950(昭和25)年ころの平和大通り 撮影:佐々木雄一郎

木山議員の質問は続きました。平和大通りの緑地帯としての価値、それを認めてマンションや事務所を求める人たちがいることや歴史的価値などについて、見解か開陳されました。その中で、私が気づいていなかったことについての質問がありました。「平和大通りは、何十人、何百人の協力(立ち退き)を得てできた。それは、目標がはっきりしているから協力していただけた。こうした人にも理解が得られるように」ということです。そうです。立ち退きに反対する人たちに対して強制的に立ち退きが迫り、推進された事業であったことを忘れてはならないと思います。私もその当時のことを改めて調べてみたいと思います。

市側の答弁は当然のことですが「協力を得てできた歴史を踏まえて、理解を得て進めていきたい」というものです。本当にその姿勢があるのか見守りたいと思います。しかし、こうした基本的な考えが質されているにもかかわらず、ここでも担当課長の答弁だけでした。

木山議員の質問・意見の中には、「平和」を考える視点からのは発言は少なかったように思いますが、「地域住民の合意が大切だ」ということが繰り返し強調されました。今の広島市政に欠けている姿勢が指摘されたように感じました。

新型コロナウイルス対策でもう一つ紹介しておきたいことがあります。委員会が開会して1時間たった時、約4分間ぐらいですが、全ての窓とドアを開けて換気が行われてことです。午後の換気は3時の休憩(15分間)時に実施されました。

午前の委員会は、5人の質疑を終え、1時間の昼食休憩に入りました。午後の様子は、明日報告します。

いのちとうとし

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2020年3月15日 (日)

3月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

とうとう今冬は農園に雪を降らせ辺り一面、白い景色を見せてくれることはなかった。安芸の郷の事業所のある安芸区矢野東の屋上の一部のブルーベリーは花が咲き始めているが、農園はそこより高いところにあるのでまだその気配はない。

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3月1日(日)。ブルーベリーの剪定した枝が大分たまってきた。

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3月7日(土)。切ってたまったブルーベリーの枝を燃やす。一度に無理なので1時間程度かけて燃やしてまた次回来た日に野焼きするペース。

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3月7日(土)。しとしとと春の雨が午後3時前から降ってきた。早じまいでこの日は農作業おしまい。

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帰る前、裏庭を見回る。雨にぬれしっとりと膨らんだモクレンの蕾。

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3月8日(日)

 ①満開になったウメの花。

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 ②ブルーベリー畑にナズナが咲き始める。初春はこの名だが、どんどん伸びていくとぺんぺん草の名でよばれる。

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 ③里山のブルーベリー園の入口のローズマリー。ワイン色、白色など3種類が咲いている。

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 ④5時前剪定作業おしまい。3月は上中下と3段ある畑のブルーベリーの一番下で作業している。8列あるが残り7列を剪定したのであと1列残すのみとなった。

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 ⑤一度車に乗ったが気になってまた降りて撮影。この日安芸の郷の職員が病気で亡くなった。朝弔問して、お悔やみとお別れをして、午後から農園におもむく。作業所時代から一緒に汗をかいたのだが。彼も利用者と一緒に摘み取りに来てこのテーブルとベンチの周りで過ごした。去年2月にも若いころからの友人が、5月にはこの農園の家主である義母も天命をまっとうした。2000年から始めたブルーベリー農園作りからはこの場所で新しい人々との出会いがつづいた。当たり前だが別れもまたやってくる。悲しみの後で寂しさがつのる。

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 ⑥農園のナンテンの実は野鳥がすっかり食べ尽くし、一つだけ実が残っている枝に季節のうつろいを思った。

ブルーベリーの木は昨年、一昨年と木の更新をするために追い切って太い幹を切ってきたので、剪定作業が短くてすむ。暖冬にも恵まれて剪定作業は例年より早く終わりそうだ。

2020年3月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年3月14日 (土)

「在日朝鮮学生美術展」行ってきました!

先日,「在日朝鮮学生美術展」にいってきました。

2月23日から29日まで旧日本銀行広島支店で開かれていました。

私は,なかなか行く時間がとれず,最後29日の搬出作業の前に見ることができました。

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初級部1年生から高級部3年生までたくさんの作品が展示してありました。

思わず微笑んでしまう作品もあり,また作品の横に書いた生徒の思いが書かれているのを見て,自らを問い直しながら多くの作品と出会うことができました。すべての作品の写真を載せたいくらいです。

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中でも,”目”の描かれている作品や「情報は必ずしも真実ではない。自分で見極めていかなくていけない。」「周りの声や行動に傷つき失望している。」などの言葉が印象に残っています。

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 作品を見た後,搬出作業をみんなで行い,無事終了することができました。

今年で48回目の美術展だそうです。これからも美術展が続いていくことを願います。多くの人に朝鮮学校を知ってもらう機会にもなると思いますし,生徒たちの作品も多くの人に見てもらい,感じてもらいたいと思います。

  (石本)

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2020年3月13日 (金)

福島原発事故から9年―中国電力への申し入れ

東日本大震災による東京電力福島第1原子力発電所の爆発・放射能放出事故が発生して9年目を迎えました。

広島では、翌年2012年から「フクシマを忘れない!さようなら原発ヒロシマ集会」を開催してきました。今年も、福島の被災者を招いての講演会や集会・デモを計画していましたが、いずれも新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受け、中止を余儀なくされました。

しかし、「フクシマを忘れない!さようなら原発ヒロシマ集会実行委員会」は、中国電力への「島根原発再稼働及び上関原発建設中止」を求める要請書の提出を事故発生日の3月11日に、代表4名が参加し今年も実施しました。

20313  ただ、中国電力から事前に「新型コロナウイルスの影響もあり、要請書を受け取ることはできるが、時間をとっての話し合いは、現状では難しい」という連絡がありましたので、玄関フロア―での、代表者による「要請書提出」となりました。その際、中国電力に対し、「4月以降の早い時期に、きちんとした話し合いの場を持つこと」を強く申し入れました。以下、少し長い文章ですが要請書の全文を掲載します。


島根原発再稼働及び上関原発建設を中止し、原子力発電からの撤退を求めます

 日頃から、電力供給のためご尽力されていますことに敬意を表します。

東京電力福島第一原発事故が発生してから9年が経過しますが、同原発では、廃炉作業は全くめどが立っておらず、廃炉行程表も再三改定せざるを得ない状況から、如何に廃炉作業が困難であるかが明白になっています。汚染水対策も十分な効果をあげることができず、「ALPS処理汚染水」の環境放出や除染土の再利用を打ちだすなどにより、多くの国民の不満や不安を招いています。

このように、今なお漏れ続ける放射能も食い止めることができておらず、福島原発事故は、収束していないのが実態です。生活を奪われ、故郷を追われてしまった被災者は、福島県だけでも4万8千人を超える人々が、いまだ苦しい避難生活を余儀なくさせられています。事故処理に携わる多くの人々の過酷な被曝労働対策も喫緊の課題です。福島で起きている現実は、原発がいったん重大事故を起こせば、働く人や多くの住民を被曝の危険にさらすだけでなく、住家を奪い故郷を追われるという深刻な事態を招くことを明らかにしています。そしてこの9年間で改めて明らかになったことは、原発事故は一企業が責任を持って処理できるものでないことです。

先日の広島高裁による伊方原発3号機の運転差し止めの判決は、様々な角度からの知見に基づいた内容となっています。

今貴社に求められていることは、この「フクシマ」の実態をふまえ原子力発電から撤退することです。それにもかかわらず、貴社は島根原発2号機の再稼働に向けて4,000億円を超える莫大な費用をつぎ込み、同原発の再稼働をしようとしています。このことは、原発をなくし安心して暮らせることを切望する住民の願いを踏みにじるものであり、断じて容認することはできません。

原子力規制委員会も認めているように「原発に絶対の安全」はありません。事故を防ぐためには、原子力発電所を稼働させないこと以外にはありません。すべての原発が停止した状態においても、電力供給は十分にまかなえています。さらに貴社自身が、本年1月に発表した「グループ経営ビジョン 『エネルギアチェンジ2030』」の「中国地方の需給見通し」では、「人口減少や節電・省エネの進展等により、需要自体が今後減少していく見通しです。」とし、2016年度に作成した見通しを大幅に下方修正し、その後も需要は、右肩下がりで減少していくことを明らかにしています。こうした見通しに立てば、新規原発建設などあり得ません。

しかも上関原発計画は、計画が明らかになって以来38年の長きにわたり地域に混乱をもたらしてきました。福島原発事故を見れば一目瞭然のように、豊かな瀬戸内の海を放射能で汚染させるような愚かな選択をすべきではありません。恵みの海を守り続けてきた山口の人々に、貴社がやるべきことは上関原発建設を中止し、一日も早く安心できる暮らしを保障することです。

福島原発事故から9年。私たちは3月11日、被爆地ヒロシマにおいて「フクシマを忘れない!さようなら原発ヒロシマ集会」の実施に向けて準備をお行ってきましたが、新型コロナウィルスの影響で集会は中止しました。しかし、原発のない社会の実現をめざして取り組む決意に変わりはありません。それは「核と人類は共存できない」という放射能の恐ろしさを知るヒロシマの責務でもあります。

東京電力福島第原発事故が発生して9年目を迎える今日、集会企画者の総意として、貴社に次のことを要求します。

1.島根原発2号機の再稼働を断念するとともに、3号機を運転しないこと。

2.上関原発の建設計画を白紙撤回すること。

以上


いのちとうとし

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2020年3月12日 (木)

フラワーデモinひろしま

国際女性デーの3月8日、全国47都道府県で「性暴力をなくそう。被害者が声を上げられる社会にしよう」とフラワーデモが計画され、新コロナウイルス感染拡大を受け中止、・延期、になった県もありましたが、広島では「フラワーデモinひろしま」が午後2時から約1時間、本通電停前で実施されました。

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昨年、性暴力を訴えた裁判で相次いで加害者が無罪になったことを受け、「抵抗しなかった」等という理由で無罪になった不当判決に抗議し、作家の北原みのりさんたちの呼びかけで4月11日「花を持って集まろう」とフラワーデモが始まり、毎月11日に各地でフラワーデモがとりくまれてきました。

今年の3月8日には全国一斉にフラワーデモをとりくむため、広島でもフラワーデモを開催しようと呼びかけがあり実行委員会を立ち上げました。

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本通り電停前には50人が集まりミモザなどの花を持ってアピール。4人からスピーチがありました。

Oさん:40年間金融機関で働き、職場ではお茶くみ、宴会ではお酌をさせられ、胸やおしりを触られて嫌だというと「減るもんでもないのに」と取り合ってもらえない。賃金は男性職員の約半分で年金生活になっても差がついて、死ぬまで男女差別の中で生きていかなくてはならない。

Yさん:明治時代にできた「強姦罪」が110年ぶりに改正され「強制性交等罪」となったが今年は見直しの年。是非「合意のない性交は犯罪」となるよう改正を求めよう。

Iさん:選択的夫婦別姓を求めて裁判をたたかっている。職場では通称名を使うことが認められるようになったが、法律的にはどちらかの姓を選ばなくてはならない。一度は結婚で姓を変えたが「自分の名まえではない」と感じ、事実婚を選んだ。姓を変えないと法律婚が認められないのはおかしい。夫婦同姓としているのは世界中で日本だけだ。

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Kさん:韓国からの留学生。子どものころから実父に性暴力を受けていた。子どものころは私が悪いと思っていた。反抗したくても反抗できなかった。逃げるようにして日本に来た。性暴力を受けた人が悪いのではない。性暴力を受けたことは恥ずかしいことではない。私を私として見てほしい。女性も男性も「純潔」にとらわれないでほしい。声を詰まらせながら力強く訴えました。

(報告T.K)

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2020年3月11日 (水)

憲法違反が続くのは何故なのか? ――結論が先にあったから――

《簡単にお浚い》

前回も確認したように、字義通りに読むと死刑は違憲であり、憲法遵守義務はその通り義務なのですが、現実には最高裁が死刑は合憲であるとの判決を出し、憲法遵守義務は「道徳的要請」なのです。ということは、我が国の司法関係者の間には憲法より優先される価値とか世界観があって、それに従って憲法が解釈されているという「仮定」でも設けない限り説明が付きません。別の言い方をすれば、新憲法の解釈を曲げてでも守らなくてはならない何かがあったに違いない、ということなのです。

《結論が先にあった?

では、最高裁や権力の側にいる人たちは何を守ろうとしていたのでしょうか。それは、一つには死刑制度なのですが、その背後にあるのは、長い日本社会の伝統である家族制度であり、それを支えるための敵討ちという制度だと考えられるというのが今回の主張です。

この両者を含むより広い概念としての「国体」という言葉を使った方が良いのかもしれません。それは天皇制そのものなのですが、「国体」には、天皇制を支える諸々の制度や価値観等も含まれますので、本稿ではその中でも重要な「家族制度」と「敵討ち」を抜き出して考えています。

天皇制とは形式的には家族制度を権威付け、諸々の「家長」から成る「家族」の中での「家長の家長」が天皇だという形なのですから、家族制度を否定してしまったのでは天皇制そのものが成り立ちません。その家族制度の中でも、少し小さい規模の江戸時代の藩を考えてみましょう。藩も一つの家族に準えられていましたが、そのシステムの中に存在する多くの家々の間の力関係を調整する手段としては、目付等の司法制度がありました。しかし、その底流には仇討制度がありました。それが義務付けられていた場合もありました。自らの生命によって責任を取るという武家社会の基本的な考え方が、家族の一員に対する最大限の侮辱、特に理屈の立たない殺人に対しての報復としての仇討ちとして、武家階級の究極の正義実現手段になっていたのです。

しかもそれは、武家階級に止まらず、日本社会の中では「仇討ち」が道徳的なレベルでの基本的な位置を占めるまでになったのです。それは、つい最近までは、紅白歌合戦以上に年末の「赤穂浪士」をテーマにした大物俳優総動員の大型ドラマなしには年を越せないくらい定着した事実から容易に類推できることです。仇討ちが神聖化されたと言って良いでしょう。

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そして、世論調査によると日本人の85パーセントは死刑制度に賛成しています。それは、「仇討ち」の神聖化されてきた歴史と無関係ではないはずです。その「仇討ち」メンタリティーは、明治時代になると国家の枠組みの中に吸収され、死刑制度を頂点とする系法体系に生まれ変わりました。その中で、死刑が究極の罰則として存在し続けていることが、この体系の要であったことは容易に理解できるはずです。

こうした歴史と多くの人々の思いとがあり、それが、死刑は「合憲」だという判断をささえていると考えると、それなりに「死刑合憲論」の依って立つ根拠が分るような気がします。これは、昭和23年の最高裁の判断が、結論ありきだと言っていることになるのですが、そうとでも考えない限り、あれほど非論理的な理屈を採用することは難しいのではないかと思われます。

日本式の家族制度を保存して行こうという考え方は、当然、民法にも現れています。たとえば、婚外子 (かつては非嫡出子と呼ばれた) は、相続に当って嫡出子の半分しか遺産を相続できないという差別的な民法900条があったのですが、これは新憲法施行の際には全く顧みられず、それから60年以上経って、2013年にこの規定が制定されてから115年振りにようやく削除されたのです。「家長」が妻以外の女性との間にもうけた子どもに対する家族の憎しみ等の感情もこの差別を助長していたのですが、「家長」は非難の対象にはならず、親を選べない子どもの人権が認められないという状態が戦後60年以上続いていたのです。それだけではなく、婚外子の人権を守るために、何度か訴訟が起こされ、婚外子差別は違憲であるという主張が行われたにもかかわらず、そのたびに最高裁は、この差別は「合憲」だという判断を下していたのです。つまり、憲法より優先される価値や世界観が日本社会の動きを左右していたことが明らかに示されているのです。

そして権力者の側には、社会的に弱い立場の人たちの人権をより頻繁に侵害する傾向のあることから、「無謬性神話」に近付きたいと思います。

[2020/3/11 イライザ]

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2020年3月10日 (火)

海来館の使い方

「海(うみ)」に「来(くる)」と書いて海来館(みらいかん)というのが、上関町上関に在ります。緑色の外観の3階建ての建物で、一見教会かと思わせるようなものです。

原発PR館として、1999年4月1日にオープンしました。記憶では上関町議会の文教委員会所属議員らが中心になって中国電力の要請し、約1億円かけて建設したものです。

PR館といっても、原発が実際に建設されている所のように大金を費やして作られたものではなく、原発とは関係ない畳部屋にマーサージチェアや血圧測定器なども置いていて、住民の憩いの場としても使われていたようです。

僕も上関町に行った時には、休憩のためなどで寄っていました。ここの館長さんは中電本体を定年退職した人が、再就職先としておられるようで、そしてその人たちはかつては上関原発に関係した人で、お互いに知っているという関係でした。上関町に住んでおられると思われる女性の方も働いています。

この度、このPR館の1~2階が町の診療所に転用されることになり、2月から約2か月間工事のために休館し、4月中には海来館は原発PRと診療所として使われることになります。

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ここに来た人は18年度までに通算、21万7636人訪れました。開館初年度は1万7273人でしたが、18年度には3分の1の5437人に減少したとのことです。

来館者が多かったのは福島原発事故の直後1~2年ではないかと思います。そして上関原発の計画が停滞している中で、中電にとってもその存在意義が薄くなってきたのではないでしょうか。

PR館が診療所にて転用されることについて、中電は「地域との共存のために貸し出すが、原発の理解活動の後退ではない」とやたらに「後退ではない」と言い訳をしているようですが、この転用でよろしいではないでしょうか。

2~3年前、この建物の雨漏りがあり、大きな修繕工事を行いました。中電で働いている友人は「雨漏り対策工事はやらない」といったらメディアは「上関原発から撤退などと書くだろうからね…」と話していたのを思い出しました。

この転用について上関町長は「原子力関係施設で迷ったが、診療所の開設に間に合わせるにはほかない」と説明し、原発関連の展示物については「投資した中電には申し訳ないが(原発の)色合いはなくし診療所とする」と述べ、撤去する方針だとのことです。

僕は、有効な転用策だと思っています。これをきっかけにして上関原発計画が完全に撤回されることだと思います。

木原省治

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2020年3月 9日 (月)

「緊急事態宣言」条項は、不必要

新型コロナウイルスの感染者が、ついにといっていいでしょうか、広島市でも確認されました。

この新型コロナウイルスの感染拡大に備えるとして政府は、「新型インフルエンザ等対策特別措置法」の改正案を今日国会に提出し、衆議院での審議を開始し13日の成立をめざすとしています。

この改正案で最も危惧されているのが、「緊急事態宣言」条項です。「私権制限を伴う」ものだけに、市民の間でも危惧する声が広がっています。

今回の改正案提出に至るまでの安倍政権の新型コロナウイルス対策については、「初動の遅れ」を指摘されていますが、今日は、改正案のうち、特に「緊急事態宣言」について考えてみたいと思います。

すでに「新型コロナウイルス」対策として政府は、様々な自粛要請を出しています。この要請に基づいて、公的な集会所などが休館し、イベントが中止されるなど、自主的な対応が進んでいます。こうした「自粛」は、それぞれの「自主的」判断によって実施され、感染拡大防止に役割を果たしています。

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8日の「モーニングサンデー」より

いくつかの問題点を考えられるのですが、その最初は「緊急事態宣言」が発令されたら何が可能になるかということです。「住民への外出自粛要請」ができ「スポーツイベントなどの開催制限」を「指示」することができます。さらに「医薬品、食料などの売り渡し」を「強制収用」すること、「学校、保育所などの使用停止」の「指示」、「臨時医療施設のための土地建物」の「強制使用」が可能になるといわれています。これらに違反した時はどうなるのかは、今のところ不明ですが、いずれにしても「私権が制限される」ことは、間違いありません。

次の問題は「緊急事態宣言要件」と発出に至る経過です。国会の関与については、具体的に明らかになっていないばかりか、「要件」もあいまいなままです。緊急性を要する「自然災害対策」とは違い、この問題は、国会での承認を得る時間は、充分にあります。安倍政権のこれまでの「新型コロナウイルス」対策で示した対処策を見れば、「緊急事態」条項を盛り込んだ「法改正」に危惧、反対の声を上げるのは当然です。

2月27日に決定した「学校の一斉休校」の要請が、その危惧を端的に示しています。「その根拠となるものが全く示されない、専門家の意見は聞いていない、文部科学省との事前の協議も行われていない」ことが、その後次々と明らかになりました。安倍首相は「私の責任で判断した」ことを強調しますが、その後の混乱ぶりを見れば「なぜそんなに拙速に行わなければならなかったのか」と疑問が湧くのは当然です。しかも、記者会見は一日遅れで、記者の質問にも十分回答しないで打ち切り。国民への説明責任すら果たしていません。さらに「全国一斉休校要請」の方針を事実上決めた安倍首相と関係閣僚らの連絡会議の議事概要についても、6日至っても政府はまだ作っていないというのです。公文書の扱いがいい加減な安倍政権ですので、なるほどとは思うのですが。

さらに5日に表明された「中韓からの入国制限」も同じです。「専門家会議の意見」も聞かず、厚労省も事前に知らされずに決定されています。その時点では、到着便受け入れ先に指定された空港(成田と関空)の検疫関係者は「まだ何も聞いていない」と言っているといわれています。

これは、新型コロナウイルス対策で明らかになっている問題のほんの一部です。さらに安倍首相のこれまでの政治手法を考えると、「緊急事態宣言」がどんなに危険なものか明らかだと思います。

法的拘束力のない首相の「要請」であっても「全国休校やライブ自粛」など、国民はその「要請」に答え、感染拡大防止に努力しています。

改めるべきは、首相の独断で決めていく安倍首相の政治姿勢です。緊急事態なのは安倍政権です。

だんだんと「批判を許さない」雰囲気が作られていますが、今日から始まる国会審議では、それを乗り越えた審議が行われることが強く求められています。

いのととうとし

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2020年3月 8日 (日)

千田町一丁目町民慰霊碑・ふりかえりの塔

鷹野橋交差点の南側緑地帯に、1977年8月に千田町一丁目町内会のみなさんが建立された「千田町一丁目町民慰霊碑・ふりかえりの塔」が建っています。

「ふりかえりの塔」の周りは、町内会の皆さんのお世話だと思いますが、いつもきれいに整備され、先日訪れた時には、水仙のつぼみもが大きく膨らんでいました。

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訪ねたことのある方はご承知だと思いますが「ふりかえりの塔」の左側には碑文を刻んだ石が配置されています。少し長いのですが引用します。

「ピカ…ドン  崩れた家々は たき火のように燃え拡がり はりの下敷きとなって あちら、こちらで助けを求める悲痛な叫び 迫りくる日の海の前に 人の力は あせれど弱い  「逃げて早く逃げて…」と叫ぶ いとしい人の声もとだえた今 後ろ髪を引かれ 振り返ってはころび 火の粉を浴びながら また 振り返る 偲い残り あの日あの時を 再び繰り返してはならない」

わが家の近くですのでよく見かけていたのですが、改めて訪ねてみようと思ったきっかけがあります。それは、べつのことで調べたいことがあり、「『ヒロシマ・ナガサキを考える』の復刻版」(東京在住の詩人・石川逸子さんが1982年から2011年5月まで100号を発行)をめくっていたところ、46号(1993年発行)に掲載された「兵隊たちが歩いた町」と題する西本宗一(むねはる)さんの被爆体験記が目に留まったからです。

西本さんが当時住んでいたのは千田町一丁目で、広島高等師範学校付属中学校の正門前(現在の旧広大跡地にある正門)だったそうです。「電車道のすぐそばで、夜になるとその電車道をよく戦車隊、自動車隊、騎兵隊、軍靴の音高く歩兵隊らが軍歌を歌いながら宇品に向けて行進し、宇品港からアジア各地に出港していました。軍刀を下げた将校に敬礼して、返礼してもらっては得意がるような子ども時代でした。とにかく兵隊の姿が目立つ町でした。」当時の軍都廣島の様子が浮かびます。

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この後、西本さんの証言は被爆体験へと移ります。家族は5人。原爆の爆風によって倒れた家の下敷きに。「母は全身、血に染まっていました。姉の頭は見えました。がれきの中に閉じ込められていて、・・・いくら呼びかけても反応がありません。」通りすがりの学生や消防団なども助けようとしてくれたのですが「これはだめだ、と言って立ち去りました。」「母は血を流しながら放心したみたいに座込んでいました。やがて風が強くなって、日が迫り、火の粉が飛んできます。熱いんです。私は、逃げようと母に言いました。日赤病院に逃げるということは、日頃よく教えられていましたから、私は母の手をひぱって、日赤病院の地下室に逃げました。途中のことは何も覚えておりませんが、母が何度も立ち止まり、振り返っては手を合わせていた姿だけは鮮明に覚えています。私と助け出せない姉・妹の間で母はつらかっただろうと思います。」

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このあと、西本さんは「『ふりかえりの塔」の碑文」を紹介し、「今年(1992年)の夏、初めてその碑文を私は見たのですが、千田町一丁目にはわが家と同じような体験をした人がたくさんいることを、改めて知りました。」

西本さんの証言は、その後被爆体験だけでなく戦争の告発と続きます。全文紹介したいのですが、今日はここで終わりにします。広島中央図書館も所蔵していますので、関心のある人はぜひそちらで読んでみてください。

「ふりかえりの塔」はこれまでも何度も訪れ、その度に「碑文」を目にしていましたが、西本宗一さんの被爆体験記を読んだ後で訪れた今回は、その時の情景を具体的に想像することができるとともに、碑を建立した人たちの決して忘れることのできないあの日への思いを知ることができました。

いのちとうとし

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2020年3月 7日 (土)

「原爆ドームと楮山ヒロ子」の発刊

先日中国新聞で、表題の本の出版を知り、連絡先となっていた寺田正弘さんに、メールで購入方法を問い合わせました。「数日後に市内に出ますので、その時直接お渡ししますよ」と返事があり、約束に日時に市役所の市民ロビーで待ち合わせをしました。

購入したいと強く思ったのは、二つの理由からです。一つは、原爆ドーム保存運動のきっかけともいえる役割を果たした楮山ヒロ子さんのことをもっとよく知りたかったからです。もう一つの理由は、「折鶴の会」を世話人として支えてこられた河本一郎さんのことが紹介されていると記載されていたからです。

約束の時間に広島市役所の市民ロビーでお会いした寺田さん。私は当初、本を受け取るだけと思っていましたが、いろいろな話を伺うことができました。開口一番「私は、楮山さんの中学校時代の同級生なんです。当時の安芸郡府中中学校時代同級生三人が協力して、この本を出版したんですよ」

続けて「この本を出そうと思った目的は、『原爆の子の像』のモデルとなった佐々木禎子さんに比べて楮山ヒロ子は知名度も低いし彼女に関する資料が皆無に等しいことが分かりました。今や原爆ドームは世界遺産に登録されており各国から多数の観光客並びに世界の惨禍を学ぼうとする人たちが訪れてみていくピースメモリアムになっています。その原爆ドーム保存運動に大きな役割を果たした楮山ヒロ子の資料を残したかったのです」。本の「あとがき」にも記載されていることです。

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「あの痛ましい産業奨励館だけが、恐るべき原爆を後世に訴えてくれるだろう」と8月6日の日記に書き、原爆ドーム保存募金の呼びかけに大きな役割を果たした楮山ヒロ子さん。

目次を読んでいくと同級生だった楮山ヒロ子さんへの三人の思いが直接伝わる項目があります。「なぜ佐々木禎子のように名が広がらなかったのか」です。その原因として、当時の広島市以外の地域(隣町の府中町ですら)での被爆問題への関心の低さがあったことなど佐々木禎子さんのおかれていた環境との大きな違いがあったことが、同級生だからこそ書ける文章で紹介されています。

もう一つ、この本を手にして改めて知らされたことがあります。佐々木禎子さんは爆心地より1.6kmで被爆、楮山ヒロ子さんは1.25knの地点で被爆。二人とも、外傷もなく身体の異常も見られませんでした。しかし、佐々木さんは、小学校6年生のとき「骨髄性白血病」を発症し、入院。8か月後に命を失っていますが、楮山さんは、白血病が悪化して緊急入院してわずか6日後には死去。享年16歳6カ月。(本文より)楮山さんが、発症後本当に短い時間で命を失ったことが分かりました。

もう一つの関心であった河本一郎さんについては、かつての「折鶴の会」のメンバーと河本一郎さんを支えてこられた黒瀬真一郎さん(現広島YMCA理事長、当時は広島女学院理事長)へのインタビュー記事によって、エピソードを含めてその人となりが紹介されています。初めて知ることも多く、河本さんと一緒の活動した人たちの話には、興味が深まります。

最後に、寺田さんが、「一人でも多くの人に楮山ヒロ子を知ってほしいと思ってこの本を発刊しました」と繰り返し話されていたことを、特に強調しおきたいと思います。

ぜひご一読ください。

いのちとうとし

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2020年3月 6日 (金)

縮景園のこも外し―啓蟄の日

二十四節気の一つ「啓蟄」の昨日(5日)、縮景園では風物詩となっている「松のこも外し」が行われました。

先月縮景園を訪れた時、庭師さんからこの日午前9時から「こも外し」が始まることを教わっていましたので、ちょっと寒さを感じる朝になりましたが、私も自転車に乗って駆け付けました。午前9時ちょうどに、正門が開き入園です。中に入るとすでにマスコミ各社のカメラがスタンバイしています。

開園を待っていたかのように5人の庭師さんの手によって、入口に近い松から手際よくこも外しが始まりました。

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ドンドンと作業が進みます。外し終ったこもは、足元に丁寧にたたんで置かれます。以前は、外したこもの中に毛虫がいたこともあったようですが、最近は防虫剤での駆除も進み、こもの中に「クモを見ること」がほんのたまにいるぐらいで、他の虫を見ることは全くないようです。

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それを別の庭師さんが、リヤカーで集めて回ります。

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ここでも庭師さんに尋ねました。「どこで焼くのですか?」「ずっと以前は、ここで焼いたのですが、今は市の焼却場に運んでそこで焼きます」とのこと。

今回外されたこもは、昨年秋の「霜降の日」(10月24日)に行われた「こも巻き」で巻かれたものです。

私がどうしても写真に撮りたかった松が二本ありました。一本は、縮景園の一番奥の小山にある「原爆慰霊碑」横の松。早めに移動し、待っていました。

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二本目は、広島市の被爆樹木リストの登録されている被爆した松のこも外しです。慰霊碑からすぐ近くですので、急いで移動しました。着くとすぐに別の庭師さんの手で作業が始まりました。

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「この松は大きいですね」と声をかけると「縮景園の松の中では一番の大木です。」との答え。この松は、園路から少し高いところに植わっていますので、「イチョウの木には、爆心地方向に傷がありますが、松はどうですか」と尋ねると「この松には傷のようなものは全くないですよ。元気に育っています。」と教えてくださいました。

私が関心を持った松には、マスコミのみなさんはまったく関心がなかったようで、カメラを向ける人は誰もいませんでした。

ちょうどこの松のこも外しが終わったころ午前10時になりました。「休憩」の声で庭師さんたちの作業が中断しました。「1時間で休憩ですか」と尋ねたら「私たちは、毎朝午前7時から庭の手入れを始めています。3時間たったので休憩ですよ」。こも外しの作業は、「開園を待って午前9時からスタート」したのです。私のこも外し見学は、ここで終わりにしましたが、せっかくですのでもう少し園内を巡ってみました。

満開ともいえる桜の木が見えます。先月見つけた「河津桜」とは違う桜で「大寒桜」という種類だそうです。

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花弁は、中輪での一重咲き、色は淡紅色です。やや下向きの花びらですが、きれいに咲いていました。

広島地方気象台が「桜の開花」を告げるための標準木のつぼみは、目を凝らしてよく見ると「つぼみの先っぽにピンク色が見えるかな」という感じで、まだまだ固く、もう少し開花には時間がかかるようです。

いのちとうとし

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2020年3月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その 10)

多発する技能実習生に関わる事件、事故

7年前の2013年、江田島市で発生した中国人技能実習生による殺傷事件の報道に、「一体、何があった」と驚きを隠せなかったことを思い出します。皆さんも昨今、技能実習生の失踪や事件・事故に関わる報道に接することが増えたと感じていませんか。

私が暮らす東広島市でも、2015年にミャンマー出身の技能実習生(20歳の女性)が交通事故で死亡。昨年1月にはインドネシア国籍の技能実習生(22歳の青年)が、実習(勤務)中に頭部を挟まれて死亡するという痛ましい事故が起きました。

技能実習生の失踪者 8倍に激増

下のグラフは厚生労働省の「『外国人雇用状況』の届出状況まとめ」、法務省の「年末における在留外国人数ついて」などを基に作成した、2012年から2019年までの技能実習生数と失踪者数の推移です。

Photo_2020030211220110年前に10万8人だった技能実習生は、2019年10月末時点38万3,978人へと3.8倍増えています。

一方、失踪者数は2010年に1,115名だったものが2018年には9,052人と8.1倍。なんと!技能実習生の増加率の2倍以上の激増です。2019年のデータは現時点、まだ公表されていません。そこで、直近5年間の平均伸び率をもとに試算し、推計値を10,943人としました。失踪率も2010年の1.40%から2018年の2.76%へと倍加しています。

下のグラフは広島県内の状況です。

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1%台だった失踪率は2014年に一気に2%台を突破し、変動しつつも2%台後半に近づいています。「ヒロシマとベトナム」(その9)にも書きましたが、私自身、受け入れ企業とのトラブルを抱えていたベトナム籍の技能実習生(女性)の相談を受け、同じベトナム出身の技能実習生を含め会社と話し合いを重ねている最中に、当事者が失踪してしまった苦い経験があります。

それが2014年の失踪人数206人のひとりです。技能実習生の失踪や事故、事件は私たちの身近にあり、地域社会に関わる深刻な問題です。

この数値の背景には、技能実習生の健康や生命、人権に関わる重大な問題が横たわっています。その主な要因は実習環境(労働環境)や実習条件(労働条件)にあります。同時に、地域社会や行政の支援から「孤立」していることも要因として小さくありませし、技能実習制度自体の構造的な問題点も見逃せません。

広島県 技能実習生受け入れ事業所 監督指導事業所の68%で労働法令違反

厚生労働省が「外国人技能実習生雇用事業場の監督指導」を行い、結果を毎年公表しています。昨年8月29日に、広島県内の「平成30年監督指導結果」が広島労働局から公表されました。下のグラフは、毎年の公表データを基に作成した直近5年間の推移です。

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2018年の広島県内で外国人を雇用している事業所は4,387です。技能実習生を雇用している事業所のうち549事業所を監督指導した結果、374事業所で何らかの労働基準関係法令違反が確認されています。違反率は68.1%、実に3分の2以上に及びます。

この監督指導は外部からの情報提供や実習生からの相談を基に、違反が疑われる事業所を対象に行うもので、外国人を雇用している事業所の12.5%に過ぎません。この数値の陰に数多くの違反事案が埋もれていることは論を待ちません。

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上表は、広島労働局が公表した「主な違反内容」です。設備や作業方法に関する「安全基準」が136事業場で最も多く、労働時間が102事業場、衛生基準が48事業場、労働条件の明示、就業規則などが45事業場と続いています。

問われる市町村の関知と関与

県内すべての市まちに外国籍住民が暮らし、そのほとんどの地域で技能実習生が働いています。その中には、監督指導を受けた事業所、違反是正を指導された事業所があるかも知れません。

しかし、労働現場である地域の労働行政に携わっている市町では殆ど(全くといって良いかも)関与はもちろん関知すらされていません。「人手不足解消」「内外から選ばれるまち」「すべての住民が安心・安全に暮らせるまちづくり」を掲げているにもかかわらずです。もちろん、市町の権限の及ばない国・県の所管であることも関係しますが、もっと自治体が関心を持ち、労働行政の分野で、福祉や人権の分野で、教育や多文化共生の分野で・・・・・、創意と工夫をもった取り組みが求められていると思います。

(2020年3月4日、あかたつ)

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2020年3月 4日 (水)

今月も「3の日行動」を実施しました。

「戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会」が毎月3日に実施している「3の日行動」を、昨日午後5時30分から1時間、本通電停前で実施しました。

新型コロナウイルスの感染拡大が進む中で、私たちも予定していた集会、講演会などの中止を決定しました。しかし、ヒロシマ総がかり行動実行委員会は、街頭での訴えということで今月の「3の日行動」も実施することを決め、各団体が自主的に判断して参加することを呼びかけました。

昨日の参加者は、いつもよりやや少ない39人でしたが、チラシ配布は中止し、参加者のスタンディングでのプラカードによるアピールと歌声、そしてリレートークによる訴えを行いました。

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うたごえ9条の会のみなさんによる「歌声アピール」でスタートした街宣は、最初に共同代表の一人川后和幸さんが今日の行動への思いをアピール。次に、間もなく「福島原発事故から9回目の3月11日を迎える原発問題」について大月世話人の訴え。大月さんは、「事故後の復興を強調し、放射能被害を矮小化し、さらに『オリンピック聖火リレー』を実施することでその事実を覆い隠そうとする安倍政権」の誤った政策を厳しく批判しました。次に反貧困ネットワークの寺本さんが、「学校一斉休校が多くのお母さんや働く人たちに大きな影響を与えている」ことの訴え。

続いて「河井夫妻の告発」の中心を担ってきた山根世話人から、真相の究明を求めるとともに「検察を動かしたのは市民の告発の力。ついに秘書まで逮捕された河井両議員は直ちに議員辞職すべきだ」と訴えました。この日、午前中秘書や関係者三人が、逮捕されたばかりですので、訴えにも力が入ります。選挙中、河井案里候補者の応援に何度も駆けつけた安倍首相や、菅官房長官の責任も重いものがあります。

次に私もマイクを握り「国会情勢」について訴えました。「高検検事長の停年延長」問題に象徴される国会での無責任な答弁は勿論ですが、強調したのは「『小中高校一斉休校』に対する安倍首相の姿勢」です。やるべき対応を準備しないままの方針決定と翌日の質問を打ち切ってしまった記者会見。首相が「続ける」といえば、継続できたにもかかわらず、打ち切りの理由を「広報官」のせいにする国会答弁にはあきれるばかりです。これほど社会的に重大な影響を及ぼすことを決定したのであれば、その日に記者会見を行い「なぜそうしなければならないのかを具体的に説明し、国民の協力を呼びかける」のが本来のあり様だったはずです。失敗したクルーズ船対策で失った国民の支持を回復するためのパフォーマンスのように見えるのは私だけでしょうか。

締めくくりは、ヒロシマ総がかり行動実行委員会の石口事務局長が、「自民党の改憲に向けての危険な動き」を改めて厳しく糾弾しました。

歌声を挟みながら1時間のリレートークを続け、今月の「3の日行動」を終えました。

いのちとうとし

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2020年3月 3日 (火)

山口で春を見つける―大殿ひなさんぽ

今日、3月3日は「おひな祭り」です。山口で見つけた春の訪れとおひなさま巡りの話です。

義父の33回忌の法要を営むため山口に帰郷しました。法要は、3月1日の午前10時から、山口の古刹・龍福寺で営みました。15分余りの読経で法要は終りましたので、お墓参りの前に、お寺の周りで、春を探しました。

龍福寺は、弘治3年(1557年)に毛利隆元によって、陶氏の謀反によって自刃に追い込まれた大内義隆を供養するための菩提寺として、大内館跡に建立された寺です。

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国の重要文化財に指定されている本堂の屋根は、現在のお寺では珍しくなった檜皮葺の屋根。本堂前の庭には、ウメやツバキなどの花が咲いています。その中でひときわ色の濃い花が目につきます。緋寒桜です。

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お寺の方から「裏の墓地には、一本の木に白とピンクの花をつける梅の木がありますよ。」と教えていただき、墓地に足を運びます。2本あるようですが、直ぐ見つけることができました。その名も「源平梅」です。

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1360年頃、山口に居館を移した大内弘世は、京都を模して町づくりを行ったといわれています。今も神社や地名などにその面影が残っています。「八坂神社」「上竪小路」「「錦小路」などなど。龍福寺のすぐそばの「大殿大路」もその一つです。大内文化だけでなく明治維新の面影を残す町並みが続くこの通りを中心に2月15日から1か月間「大殿ひなさんぽ」のイベントが開催されています。少し回ってみることにしました。

この地域では、古民家を活用して若い人たちが、モノ作りを始めています。その一つ、着物リメイクを中心とするショップ兼アトリエ「アトリエa.p.r」のひな飾りです。ミシンが目を引きます。

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3月1日には、「ひなさんぽDay」としていろいろな企画が準備されていましたが、ここでも新型コロナウイルスの影響で、すべて中止となったそうです。龍福寺参道を使った「アトリエa.p.r」ファッションショーも予定されていたようです。参道の風景だけですが写真撮りました。

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実施されればよい雰囲気だったことが想像できます。

その後一の坂川まで足を延ばし、醤油屋などの軒先を眺めて歩きました。少し歩き疲れて、大殿大路の古民家を改造した和菓子屋さんに入り「ぜんざい」を食べました。甘さ控えめの美味しい「ぜんざい」でした。

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食べ終えて、お店を通り抜け裏口から外に出ました。そこは、龍福寺を取り囲むように作られた大内館の跡を残す公園になっています。ここには、戦後市営住宅が建っており、妻の実家もその一軒でした。発掘調査で現れた「石組溝」が展示されている場所が、ちょうどわが家がったと思われる場所です。

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今回巡り歩いたこの地域は、妻と義妹が子どものころ遊びまわった場所だったようです。二人には、懐かしい散歩となりました。

いのちとうとし

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2020年3月 2日 (月)

広島市のにぎわいづくりと平和大通り―その3 市民の声を大切に

先月28日に「平和大通りのにぎわいづくり」に関わる広島市の予算を紹介しましたが、今日は、そこから私なりに見えてきた疑問や問題点を考えます。

その第1は、「Park-PFI制度」という市民には耳慣れない言葉についてです。

「PFI」とは、「Private Finance Initiative:プライベート・ファイナンス・イニシアティブ」の略で、内閣府のホームページでは「公共施設等の建設、維持管理、運営等を民間の資金、経営能力及び技術的能力を活用して行う新しい手法です。」「PFIの導入により、国や地方公共団体の事業コストの削減、より質の高い公共サービスの提供を目指します。」としています。1997年に法が施行され、2000年代の初めの国会でも多用された言葉です。

予算書では、「Park」という言葉が加わっています。調べてみると「Park-PFI制度」は、国土交通省が定めた制度で「2017年(平成29年)の都市公園法改正により新たに設けられた、飲食店、売店等の公園利用者の利便の向上に資する公募対象公園施設の設置と、当該施設から生ずる収益を活用してその周辺の園路、広場等の一般の公園利用者が利用できる特定公園施設の整備・改修等を一体的に行う者を、公募により選定する『公募設置管理制度』のこと。」ということだそうです。

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広島市議会・経済観光環境委員会

 さらに国土交通省は、制度ができた背景として「公園施設の老朽化が進行し、その魅力を十分発揮できていない都市公園も散見されている。人口減少が進み、地方公共団体の財政制約等も深刻化する中で、公園施設を適切に更新し、都市公園の質を向上させること」と説明しています。本来の目的は、「公園の老朽化対策」だったようです。

ここで「平和大通りは、老朽化した公園?」「平和大通りに飲食店、売店を作るの?」という疑問がまず湧きます。

そして第2の疑問は、予算書がいう「道路となっている緑地部分を都市公園として位置付けるため、都市公園台帳を作成」し、道路を公園に変えるということです。道路である平和大通りをそんなに簡単に、公園に変えることができるのか。変えてよいのかということです。これは、疑問というより問題点といった方が良いと思います。

私なりの疑問点をとりあえず二つほどあげましたが、基本的には25日のブログで指摘したように「そもそも」という問題があります。もちろん「平和大通りを活用したにぎわいが必要」という意見もあると思います。ここで指摘しておきたいことは、考え方に違いがあるとき、これらの意見をどのように調和させるのか、そのためにどのように市民の声が反映されるのかということです。

この点に関して私には苦い体験があります。元安橋下流に移設された「カキ船」の問題です。計画が進められている段階では、全く市民に知らされておらず、私たちがこの移転計画の詳細を知ったのは、全ての手続きが終わり、計画が具体化した後でした。決定された後では、たとえその経過に問題があったとしても、どんなに市民が反対の声を上げても、計画を変えることはほとんど不可能です。ですから、基本計画を策定する段階から、市民の声を反映することができるシステムが絶対に必要です。

もう一つは、「平和行政」部門のかかわりです。これも「カキ船」問題を取り組んで分かったことがあります。「世界遺産原爆ドームのバッファゾーン」に関わる問題であったにもかかわらず、観光部門での論議が中心となり、市の平和担当のかかわりが非常に弱かったことということです。この経緯から予測されることは、「平和大通りのにぎわいづくり」も「観光の振興」事業として予算化されていますから、当然その「経済観光」担当が中心になって計画が進むことになるということです。25日のブログでも指摘しましたが、「平和大通り」は、平和の取り組みと深く結びついた場所です。計画策定の初めから、きちんと「平和担当」もかかわって進めることは当然のことのはずです。しかし「かき船」問題の経緯を考えると、果たしてそうなるのかと危惧せざるを得ません。

この問題は、これからがスタートです。このブログを読んで、一人でも多く関心を持っていただければと思います。

市議会が開催中です。26日に「経済観光環境委員会」が開催されましたので、傍聴に行きました。しかしこの日は、「補正予算」の審議する委員会でした。来年度予算は、今日から始まる予算特別委員会(全議員参加)で審議されます。10日、11日が「経済観光環境」関係となっていますので、もしこの問題が取り上げられるとすれば、この日になります。市議会の議論がどうなるのか注視したいと思います。

いのちとうとし

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2020年3月 1日 (日)

「憲法遵守義務」の重要性・その3 ――為政者たちは、憲法を内面化していたのか?――

前回は、99条の憲法遵守義務は、他の条文も繰り返し補強していることを示しました。したがって、憲法を素直に読む限り、この「義務」を真摯に受け止めなくてはならないはずだという主張をしました。

《憲法が内面化されていたとしたら?

しかし、定説・通説ではその常識が覆されています。「憲法遵守義務」が法的義務ではなく、単に道徳的要請であるという学説しか存在していないのが現状です。そればかりではありません。死刑については、「合憲」であることを宣言した昭和23年の最高裁判決がほぼ「絶対的」と言って良い権威を持っています。この二つの事実だけから考えても、憲法を巡る我が国の状況はかなり「異常」だと言えるのではないでしょうか。

繰り返しますが、字義通りに読むと、当然、法的義務であるはずの憲法遵守義務が単なる道徳的要請になってしまっているのは、そして同じく字義通りに読むと明らかに禁止されている死刑が「合憲」であり続けるのは何故なのでしょうか。

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2014年、内閣府による調査

しかも、このような判断をしてきた人たちは、控えめに表現したとしても、表立っては憲法を無視しても良い立場にはない人たちです。そのような枢要な地位にある人たちが、これほどあからさまに憲法を無視できたのは何故なのでしょうか。

この点を理解するために、正反対の状況を考えてみましょう。つまり、戦争に負けて、その結果として、当時の日本政府そして社会の中枢にいた人たちが皆、戦争の愚かさを骨の髄まで染み込むように理解していたとしましょう。さらに、新憲法には、それを元に基本的人権と主権在民そして平和主義という原則を盛り込み、その中でも、一人ひとりの人格を何より尊いものだと考える基本的人権についての感覚が、これら枢要な地位にいた人たち全ての血となり肉となっていたと仮定しましょう。言い換えると、日本の進む道を選択する立場にあった人たちの基本的価値観・世界観が新憲法に盛り込まれている価値観そのものだったと仮定してみようということなのです。

少し誇張を交えて、このような人たちがどのように新憲法を受け止めたかを考えてみると、基本的人権についての条文を読む姿勢としては、すなわち、11条、12条、13条、97条等を読む際には、これらの条文の一つ一つに頷きながら、そして家族や身近な市民を一人一人の顔を思い浮べながら、自らの命や自分が最も愛する人たちの生命そして人生と直接関わりのある文章として受け止めることになったのではないでしょうか。

そして、これらの人々の生命と権利を何よりも尊重しなくてはならない仕事を自分はしていることを確認し、責任も感じ、これらの重要性が憲法内で何度も繰り返されていることの重みを、しっかり自覚したはずです。その自覚の下に、仮に犯罪者であっても個人として尊重される、あるいは生活する権利を持つことの意味を謙虚に、そして字義通り受け止めたのではないでしょうか。その結果として、憲法では複数の条文が死刑を禁止している事実を厳粛かつ謙虚に確認することになったのではないでしょうか。

憲法の遵守義務を規定している15条についても同様です。国民すべての奉仕者でなくてはならないという15条の規定を謙虚に受け止め、そのために設けられている99条の遵守義務を文字通りに果すために直ちに法律を整備して、遵守義務違反が起きないような予防措置と、違反が起きた場合の対応の仕方を罰則も含めて準備したはずです。

しかし現実には、最高裁が死刑は合憲であるとの判決を出し、憲法遵守義務は「道徳的要請」なのです。ということは、我が国の司法関係者の間には憲法より優先される価値とか世界観があって、それに従って憲法が解釈されているという「仮定」でも設けない限り説明が付きません。それを、仮に「無謬性神話」と呼んでおきたいと思います。なぜこのような名称なのか、その実態はどのようなものなのかを時間を掛けながら説明して行きたいと思います。

[2020/3/1 イライザ]

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