「広島ブログ」

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2020年1月

2020年1月31日 (金)

1月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

暖かい日がつづく。農園周辺も雨は降っても雪はまったく降らない。

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1月18日(土)は冬晴れの一日。

①農園のブルーベリー畑も後方の板鍋山(写真左)も右の竜王山(同右)も澄んだ空気のためかしゃきっとした、きりりっとした眺め。

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②里山に植えてあるブルーベリーの剪定中も冬晴れが広がるので、作業もかかどる。

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③夏に摘み取ったブルーベリーは農園の家のちょっと大きめの冷凍庫に一年分を自家用として保存しているのだが、この日は一鍋分の量の冷凍ブルーベリーを持ち帰りホーロー鍋に沖縄の黒糖も入れてジャムを作る。。500グラム入りの瓶に3つとちょっと入れて出来上がり。いつも緩めに煮込み毎朝ヨーグルトに入れて頂く。

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1月19日(日)。

①前日に続き里山のブルーベリーの剪定。おととし根元からばっさり切ったブルーベリーは切った株から太いシュートが生えてくる。その中から4~5本を選んであとは、

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②細い枝は捨てて太い枝は挿し木の穂木とするので、安芸の郷の事業所のブルーベリー苗木生産のために持ち帰る。

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③剪定作業をしていると、下の田んぼの草を刈った後の野焼きが始まった。ぱちぱちと枯れ草の燃える音が聞こえ炎も見える。

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④里山にブルーベリーを始めて植えたのが2000年の春。この里山は、その数年前にマツクイムシに食われ枯れたので松の伐採を行ったのだが、そのときの切り株があちこちにある。過ぎて行く時間はゆっくりと朽ちてい切り株のかたちで知らせてくれている。

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⑤昨年12月に畑にまいたソラマメが芽吹き少しずつ伸びてきた。

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1月26日(日)の朝10時頃のブルーベリー畑と竜王山。この場所の標高は約400mで広島市内より寒いのだが、気温が高いのかかすんでいる。雪は一向に降らない。

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安芸区船越にはこの地の地下水を使った酒蔵がある。1月30日(木)大寒の朝7時頃、自宅から見る酒の仕込みの湯けむり。酒米が炊け蔵にその酒米を広げもろみを混ぜる作業をしているのだろう。毎年毎年見せてくれる冬の景色。ここの日本酒もおいしい。

2020年1月31日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年1月30日 (木)

「子どもたちをよろしく」

先日,映画の試写会に出かけた。「子どもたちをよろしく」と題されたその映画は,元広島県教育委員会教育長の経歴をもつ寺脇研さんと元文部科学事務次官の前川喜平さんの企画により制作されたものです。

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この映画に登場する子どもたちは,生きていくこと自体がしんどい生活実態の中にさらされていました。性暴力を含めた家庭内暴力におびえる子ども,ギャンブル依存・アルコール依存の親元で衣食住もままならず,家庭が拠り所にならない子ども,そして,同級生からいじめを受け続ける子ども。経済格差等を背景に,おとなの「しんどさ」が子どもの生活や人間関係に大きな影響を及ぼしている現実がストレートに描かれています。

試写会は,通常営業後の映画館において夜遅い時間から上映されましたので,最終便に間に合うよう途中で席を立たなければなりませんでした。

それぞれの子どもが逃げ場のない苦しみの中で希望を見いだすことができずにいる状況に,重たい気持ちのまま映画館を出ました。駅に向かいながら自分がこれまでに出会った子どもたちのことを思いました。

映画の登場人物のように苦しんでいる子どもがどれだけいたのだろうか。いや,普段すれ違っている子どもたちの中にもいるのかもしれない。おとなの「しんどさ」の背景にある問題を何とかしなければ,何も罪のない子どもに被害が及ぶ。しんどい現状に諦めてしまったら,いったい誰が子どもを救うのか。貧しさから,おとなの暴力から,いじめから・・・。

さて,映画の結末はどうであったのでしょうか。問題の背景にある闇の深さを思うと,簡単に解決への出口が見つかるとも思えません。せめて,この映画を観たおとなたちが「自分がなんとかしなければ…」という思いを共有できれば,と思います。

改めて映画のチラシを読む。「子どもたちをよろしく」と。

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私には,「このような厳しい生活を余儀なくされている子どもたちを,なんとか救い出さなくてはならない。それが私たちおとなの仕事だ。」というメッセージに聞こえます。

広島での上映は、4月上旬で計画が進んでいます。

(モリサキ)

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2020年1月29日 (水)

広島県原水禁第89回総会開催

広島県原水禁は1月27日の午後6時から、自治労会館において第89回目の総会を開催しました。

進行役の総会座長に、自治労の宮下崇斉さんが選出され、総会の冒頭、秋葉忠利県原水禁代表委員から「被爆75周年の意味」として、「平和市長会議では2015年までに、核兵器禁止条約の採択という目標を立てて、実際には2年ほど遅れて2017年に実現させた。2020年までには全世界で核兵器の廃絶をめざしたが、これは2030年になっても意義がある。そのためには内なる闘いが必要である。日本政府にこの条約の署名・批准をさせるには、今の政権を変えることである。今年一年、春のNPT再検討会議における前進、夏の原水禁大会、そして政治決戦となる秋に向けて、被爆地ヒロシマの原水禁運動は政治変革を目標に頑張っていかなければならない。そのためのスタートとなる総会としていただきたい。」とあいさつがされました。

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その後、2019年度活動報告、2020年度活動方針などが提案され、審議の後満場一致で採択。別掲の総会決議の採択の後に、県原水禁の常任理事でもある「原発はごめんだ!ヒロシマ市民の会」代表の木原省治さんから上関原発建設を巡る経過と今後について、そして先日1月17日広島高裁で「伊方原発3号機運転差禁止の仮処分」の画期的内容について特別報告が行われました。

木原さんは「上関原発建は今では国内唯一の新規建計画であり、4年に一度見直される直近の2018年の『第5次エネルギー基本計画』では、新増設については触れられていないにもかかわらず、中国電力と筆頭株主の山口県(自治体)も断念するに至っていない」「電力は余っているし需要も段々と減っている。2年後のエネルギー基本計画において原発はいらないという世論を強くすることで上関原発は断念させることが可能。それまで絶対に埋め立てをさせないとがんばっている現地での取り組みをしっかりと支援をしていこう」と問題点の提起と支援強化を訴えました。

最後に、佐古正明県原水禁代表委員が「今日は大変寒い雨の中昼時間に行ったネバダ・デーの座り込みと総会への協力に感謝。被爆75周年を迎え、被爆者も高齢化・病弱化している中で、核兵器廃絶の思いを引き継いで、反核・平和の社会を実現させるために奮闘しよう」と閉会のあいさつを行い総会は終了しました。

総会の決議を紹介します。


「広島県原水禁第89回総会」決議文

2017年7月、はじめて国際社会が核兵器の違法性を認め、全面禁止を求める核兵器禁止条約が国連で採択され、昨年11月末時点で34ヵ国が批准し国際的な流れは確実に核兵器廃絶へと向かっています。

しかし、日本政府は多くの国民・被爆者の声を無視し、条約反対の姿勢を改めようとはしません。今年4月には、5年に一度のNPT再検討会議が開かれますが、核拡散防止の一方で、核保有国が真摯に核兵器廃絶への道筋を示す姿勢が問われるとともに、唯一の戦争被爆国としての役割を日本政府が果たすことが求められます。

東京電力福島第一原発事故から間もなく9年になります。安倍首相が福島原発事故への懸念を「アンダーコントロール」という言葉を使って招致したオリンピックの年となりましたが、汚染水の処理や溶融燃料の取り出しなど、事故の収束への目途は全く立っていないのが現実です。そのうえに、多くの被災者が政府からの支援を打ち切られ、避難生活を余儀なくされる一方で、原発の再稼働が着々と進められるという理不尽がまかり通っています。

被爆から74年が過ぎ、被爆者は高齢化や病弱化が進み、被爆者を取り巻く環境は年々厳しくなっています。被爆者が訴えてきた核兵器の非人道性と国の戦争責任の追及、原発事故によるあらゆる被災者が訴える国の責任は、等しく核政策の転換と、再び戦争をさせてはならないという決意でもあります。被爆地ヒロシマは、その思いを一身に受け止め、私たちの理念である「核と人類は共存できない」ことを改めて肝に銘じ、「核も戦争もない21世紀の実現」のため、今年も全力で取り組んでいきます。

私たちは訴えます。

◆「核兵器禁止条約」への署名と批准に向け、被爆国・日本の核政策転換を求めよう!

◆原水禁・連合・KAKKIN3団体での核兵器廃絶に向けた運動の強化をはかろう!

◆核廃絶・原水禁運動を強化し、東北アジアの非核地帯化と非核三原則の法制化を実現させよう!

◆原発の再稼働、新増設に反対し、核に頼らないエネルギーに転換しよう!

◆フクシマとの連帯を強化し、すべてのヒバクシャの援護と権利確立に向け、国家補償の精神にもとづく法制化を進めよう!

◆戦争への道を突き進む安倍政権の暴走を阻止し、憲法9条を守り、憲法改悪に反対しよう!

◆ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・フクシマ、ノーモア・ウォー!

                           以上、決議します。

                             2020年1月27日


渡辺宏

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2020年1月28日 (火)

1.27ネバダデー座込み

広島県原水禁は、1984年以来毎年1月27日にアメリカのネバダ核実験場閉鎖を求める「ネバダデー」の座込みを続けてきました。例年慰霊碑前で行っていますが、今年は雨と風が強かったため、場所を資料館下に移し、12時15分から37分まで座込みを行いました。参加者は、雨にもかかわらず68名でした。

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ネバダデーを取り組み契機は、後に掲載する「『1.27ネバダ・でー」ヒロシマからのアピール」に書かれていますので、そこを読んでください。ただこの行動を呼びかけた米国・ユタ州シーダー市の「シティズンズ・コール」(ジャネット・ゴードン代表)について触れておきたいと思います。

ユタ州は、核実験場があるネバダ州の東隣の州です。1951年1月27日に初めてネバダ核実験場で核実験が行われ、以後1958年までに公表100回の大気圏内核実験(その後、地下核実験は1992年まで828回実施)が行われています。しかし100回を数える大気圏内核実験ですが、風向きが南東あるいは西に向かっている時は、実験は実施されませんでした。それは、この風向きで 実施すると「死の灰」が、ラスベカスやロサンゼルスなどの多数の住民に影響を与えることを恐れたからです。核実験は、風が北ないし北東方向に吹いている時だけ行われたため、ネバダ州北部やユタ州の住民など実験場の風下に住む人々に上に「死の灰」が降り注いだのです。

こうした中で、1980年にネバダ核実験場の風下地域に住む住民の被害調査と被曝者支援のため結成されたのが「シティズンズ・コール(市民の声)」です。その創始者のひとりであったジャネット・ゴードンさんは、1985年8月に原水禁世界大会に参加するため初来日し、その後も原水禁とは、連携しながら運動を進めてきました、そんな歴史も思い起こしてほしいものです。

昨日の座込みでは、広島県被団協の箕牧理事長代行から次のようなアピールがありました。

「核保有国は現在9か国と言われていまが、世界にはいまだに14,000発あまりの核兵器が存在する。なぜ核兵器を保有しなければならないのか、原爆の惨禍を経験した者からすれば不思議であると同時に怒りを覚える。海外から沢山の方が平和記念資料館を訪れている。どうかヒロシマの実相を語り拡げてほしい。今年は5年に一度のNPT再検討会議が行われる。私も参加予定である。ヒロシマの実相を訴えていきたい。」

そして今もなお、アメリカが行う臨界前核実験もこのネバダ核実験場で行われていることを忘れてはなりません。


「1.27ネバダ・デー」ヒロシマからのアピール

1951年1月27日、 アメリカ・ネバダ核実験場で初めて核実験が行われました。

それから33周年にあたる1984年1月27日、 米国・ユタ州シーダー市の「シティズンズ・コール」(ジャネットゴードン代表)の呼びかけで、全米各地で反核集会が開催されました。 イギリス・カナダ・マーシャル諸島などへも広がり、 広島県原水禁もこの日、核実験全面禁止を求める国際連帯行動として、 原爆慰霊碑前で座り込みを行いました。 その後、この日を「ネバダ・デー・国際共同行動日」として世界で取り組まれるようになり、以降、広島では毎年、 座り込み行動を続けています。

 戦後の冷戦体制の終焉とそれに先立つ1987年米ソによる中距離核戦力(INF)全廃条約の締結により核兵器開発に対する一定の制限が行われてきました。

 しかし、2019年2月、トランプ大統領によるロシアへの一方的なINF全廃条約破棄通告と8月の失効により、米国、ロシアともに互いを牽制し合い軍拡に繋がるミサイルの実験、開発が行われようとしています。

一方 核兵器の廃絶を求めて2017年7月に国連で採択された「核兵器禁止条約」は、2019年11月末現在で34ヵ国が批准し、発効要件の半数を超えるところまできています。しかし、 日本政府は、アメリカなど核保有国とともに条約に反対し、署名・批准は行わないとしています。「唯一の戦争被爆国」でありながら、米国の「核の傘」のもと、「安全保障政策上を理由」に、この条約交渉に参加しなかったばかりか、署名・批准に後ろ向きの態度をとり続けています。また、トランプ政権は核の抑止力を重要視し、その役割を拡大する「核態勢の見直し(NPR)」を発表し、ネバダ核実験場での臨界前核実験を続けています。

私たちは、改めて唯一の戦争被爆国として、日本政府が直ちに「核兵器禁止条約」に署名・批准することを強く求めます。「あらゆる国のあらゆる核実験に反対」「反核・平和」「脱原発」など、 核と平和の問題を訴え続けてきた私たち被爆地の市民は、 「核と人類は共存できない」という先達の言葉を心に刻み、人類史上初めて原子爆弾の惨禍を被ったヒロシマから全世界に訴えます。

◆ネバダ核実験場を閉鎖させよう!

◆核兵器開発に反対し、例外なき核実験全面禁止を実現させ、核兵器禁止条約を早期に発効させよう!

◆東北アジアの非核地帯化と非核三原則の法制化を実現しよう!

◆世界のヒバクシャと連帯し、ヒバクシャの人権を確立しよう!

◆原発の再稼働、新増設に反対し、核に頼らないエネルギーに転換しよう!

◆ノーモア ヒロシマ! ノーモア ナガサキ! ノーモア ウォー!

                               2020年1月27日

 「1.27ネバダ・デー」市民行動参加者一同


今日のブログの記事は、私は風邪のため参加できませんでしたので、渡辺事務局長の情報をもとに作成しました。

いのちとうとし

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2020年1月27日 (月)

千田小学校の被爆樹木などを訪ねて―その2

昨日につづき、千田小学校の被爆樹木を紹介します。広島市の被爆樹木リストには、11本の被爆樹木が登録されています。昨日は13本と間違って紹介しました。そのうち千田小学校の校庭で被爆した木は、カイヅカイブキ(2本、校舎入口の右側)、フジ(3本、校庭東側の藤棚)、この2種類は、校庭内で移植されています。クスノキ4本は、昨日の写真のとおりです。後の2本は、少しいわくがあります。

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1本は、イチョウです。校庭の東側にそびえるように植えられています。このイチョウは、旧広島高等師範学校で被爆し後に移植されたもののようです。ですから被爆距離は1400m(千田小学校は1640m)となっています。もう1本は、広島市の被爆樹木リストの最後に登録されていますが、唯一被爆距離が書かれていません。このエノキは、国泰寺町の個人宅(詳細は不明)から移植されたものと伝えられているので、2000m以内で被爆したものとしてリストに登録されているようです。千田小学校50年史のリストには、国泰寺町・後亀氏宅と記載されています。

この2本の被爆樹木は、いずれも昨日紹介した地域の人たちの手によって集められたもののようです。

ところで、千田小学校には、これ以外にも「被爆樹木」と札がついた樹木が見受けられます。この札、広島市が取り付けた「被爆樹木」と同じ様式になっていますので、よく見ないとその理由がわかりません。

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正門を入るとすぐに、の車回しの築山があります。そこには、立派なソテツと手入れされた松が植わっています。「被爆樹木」の札がついています。なぜ被爆樹木のリストにないのだろうと不思議な気がします。

「被爆樹木」の札に何か違いはないだろうかと調べてみると理由がはっきりしました。まったく同じような様式の「説明札」ですが、樹木名の後に記載された文字が違っています。ソテツには、「千田小学校登録被爆樹木」と書かれています。解説には「旧陸軍兵器支廠(爆心地から2860m)で被爆し、後にここに移植されました。」と書かれています。同じ筑山に植わっているクロマツも「千田小学校登録被爆樹木」と書かれ、解説には「市内の自動車販売会社(正確な場所は不明)で被爆し、後にここに移植されました。」と書かれています。この他にもあと何本かの被爆樹木に「千田小学校登録被爆樹木」の札が付けられています。

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肝心なことを忘れていました。広島市の被爆樹木リストに掲載されている樹木は「広島市登録被爆樹木」となっています。

広島市が被爆樹木リストを作る際に、千田小学校の熱心な活動と、先人の努力を認め、登録被爆樹木以外にも「千田小学校登録被爆樹木」という札を作ったと思われます。

他の場所で、千田小学校のような例をまだ聞いたことがありません。

千田小学校には、樹木以外にも多くの被爆物を集められていますので、もう一度きちんと調べて報告したいと思います

いのととうとし

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2020年1月26日 (日)

千田小学校の被爆樹木などを訪ねて―その1

先日、中区にある千田小学校を訪れ、被爆樹木などを見てきました。きっかけは、昨年12月のこのブログでも紹介しました「幻の運河平田川」を訪ねるフィールドワークに参加したことです。その後、神崎小学校の歴史を調べている時、たまたま千田小学校の50年史を手にする機会がありました。その50年史には「被爆した樹木、石、その他の本校で残存するもの(昭和49.7現在)」という被爆物に関する一覧表が掲載されていました。ちょうど30の項目がリストアップされています。

千田小学校に多くの被爆樹木があることは、広島市の被爆樹木リストにもイチョウやフジ、クスノキなど13本が登録されていることから知っていましたが、その他にこんなに多くの被爆に関わるものがあることを知り、今どうなっているのか興味が湧き、一度現地を訪ねてみようと思っていました。

下の写真は、東門(戦前の正門)の北側に並ぶ4本の被爆クスノキです。

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「被爆した樹木、石、その他の本校で残存するもの(昭和49.7現在)」一覧用を手に、午後2時ころ学校を訪問しました。教頭先生に面会を求めましたが、別の会議で不在中のため、変わって対応していただいた事務職員の組谷さんに事情を説明したところ、一緒に回っていただくことができました。おかげで、いろいろな場所を訪ねることができました。

50周年後、学校の改修が行われたため、どんなに探しても見つけることのできないものもありましたが、かなりの数を確認することができました。

リストには30の項目がありますが、実はその多くが他の場所から移築や移植されたものだということが、記載されています。

「なぜ千田小学校にはこんなに多くの被爆物があるのだろう」とちょっと疑問を持っていました。その理由が知りたいというのも学校訪問の理由の一つでしたが、その手がかりらしいものを見つけることができました。下の写真です。

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学校敷地の南東部分は、様々な樹木が多く植わっています。その中に建つ石碑です。「千田小学校緑化の礎」と刻まれ、その後に由来が書かれています。少し字が消えかかっているところもありますので完全ではありませんが紹介します。

「昭和20年8月6日 原子爆弾投下により『70年間不毛の地』といわれた焦土に、やがて草木が芽生え人々に生きる喜びを与えた。伸びゆく子どもたちに、この自然の生命の無限さ、たくましさを知らせようと、学校環境整備の意欲は高まり、地域ぐるみで学校の復興・環境の緑化が始まった。PTAや消防団は、その先頭にたって焦土の中から石を集め、町内のあちこちから樹木をもらい受けて持ちよって、学校の緑化をはじめた。この尊い努力が、今日の緑溢れる千田小学校復興の基礎となった。地域ぐるみの小学校復興・環境緑化に、ひたむきに協力したいただいたことに感謝し、その姿をたたえて、この記録を残す。」

その後に建立した日付が記載されていますが、読みにくいのですが「創立60周年記念」という文字が判別でします。

由来の文章には「やがて草木が芽生え」や「焦土の中から石を集め」とありますから、被爆の翌年ぐらいから地域の人たちによって集められ、保存されたことが分かります。

この由来碑の右側に当時緑化作業を行った人たちの集合写真があります。一番右端には、鉄骨むき出しの被爆した行動の写真があります。

リストには、旧所在地が記載されていますが、その中には「宇品運輸部凱旋館」や「兵器廠・将校集会所前」など、校区以外の場所も多くありますので、地域の人たちの思いの強さと努力の跡が、ここからも伺えます。

学校内を回ってみるとこの他にも多くのことを知ることができました。そのことは次回報告します。

いのちとうとし

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2020年1月25日 (土)

広島高裁、伊方原発の運転を差し止め

広島高裁が伊方原発の運転差し止めという決定をした前々日に、友人と「最近の裁判所は政府に忖度しすぎて、空しいと思うことが多いよねー」と話したところでした。そんな中での広島高裁の判断は、とても嬉しいことでした。

この度の決定について、僕なりの考えを書いておきたいと思います。

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一つには、伊方原発から約600メートル北側に存在する中央構造線について、原子力規制委員会が活断層として認めず、四国電力の主張を丸のみし、そのために特別な調査も評価もしていないことへの指摘です。約8キロメートル先の中央構造線断層帯は評価していましたが、これについては規制委員会も対策が行われているとしていました。

二つには、伊方原発から約130キロメートルにある阿蘇山の危険性を指摘したことです。かつて阿蘇山が爆発した時、火砕流が約150キロメートル先までの流れたという記録が残されています。

三つには、活断層も火山も両方ともダブルでその危険性を指摘したことです。17年12月にも広島高裁は差し止めの決定をしていますが、その時は阿蘇山の危険性のみとしていました。

四つには、差し止めの期間を定めなかったことです。17年の時は、本裁判の方の見通しを考えてか?、1年という期限としていました。1年で本裁判が終わるとは考えられません。

そして五つ目は、原子力規制委員会の規制審査の在り方について、問題点を指摘したことです。

この裁判所の決定を、わが中国地方に応用することが重要です。

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島根原発PR館から島根原発を望む

島根原発の南側2キロメートル弱のところに、宍道断層という活断層があります。島根原発のPR館からもすぐに近くに見えるところです。この宍道断層の長さや危険性については議論が行われていましたが、改めて考える必要を感じます。

また阿蘇山についてですが、伊方原発から約130キロメートルの危険性を指摘していますが、伊方原発から阿蘇山の距離のコンパスを左側に振れば、ほぼ上関原発の地点になるのです。上関原発で阿蘇山のことが問題になったのを聞いた記憶がありません。

火山については、中国地方にも鳥取県に大山があり、島根県には三瓶山があります。関西電力の美浜原発の審査には大山の問題が課題になっていますが、大山からもっとも近い原発は島根原発です。

山陰地方の風は、東側に吹くのが多いといわれてますが、風は東西南北どの方向にも吹くのです。そして放射能を含んだ風が、大山が壁になって吹き抜けず米子地域に振り落ち、あの地域が強い汚染地域のホットスポットになるという問題もあります。

広島高裁の差し止め決定を、大いに利用することが重要だと思いました。

1月27日広島県原水禁の総会で、「上関原発をめぐる状況と、伊方原発運転禁止の仮処分について」というタイトルで話しをさせていただきます。

木原省治

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2020年1月24日 (金)

広響フアン感謝デー

昨晩午後6時30分よりアステールプラザで、広島交響楽団のファン感謝デーが開催されました。私たちが会場に着いた時には、すでに多くの人が開場時間を待って長蛇の列でした。何人かの知り合いの顔も見えます。

ファン感謝デーですから、特別のプログラムで進行します。パートごとの紹介とパフォーマンスから始まりました。スタートはパーカッション(打楽器)。メンバーが紹介され、維持会パフォーマンス演奏。終わるメンバーの一人が、次のパート、チューバを紹介。ファン感謝デーということで演奏中以外の写真撮影が許可されましたが、最後部の座席でしたので遠すぎて写りが良くありませんが、雰囲気を感じてください。

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楽器ごとのパフォーマンスですから、それぞれの楽器の音色を聴くことができました。最後は、バイオリンです。メンバーの紹介が終わると広響音楽総監督・指揮者の下野竜也さんが登壇。下野さんのパフォーマンスは、楽団員に背を向けて観客席に向かって指揮棒を振ること。当たり前のことですが、いくら一生懸命にタクトを振っても、楽団員は誰も演奏しません。いつもの演奏会では見られない、楽団員、和気あいあいのスタートです。

オリンピックの年ということでしょうか、最初の演奏曲は、黛敏郎作曲「スポーツ行進曲」です。

次の恒例のクイズコーナー「何の曲かわかるかな?」。今年は、少し趣向を変えてオーケストラでの演奏はなく、シキボウ振りだけ、楽団員のハミング、打楽器だけの演奏、最後はトランペットのみのパフォーマンスで、その曲名を当てなければなりません。あたりまえのことですが、私は全然わかりません。でもやはりわかる人がいるのですね。会場からは驚きの声と大きな拍手。「すごい」の一言です。しかし楽団員によるハミングの曲は、2度繰り返しましたが、誰一人手をあげる人がいませんでした。曲が難しかったのか、ハミングが下手だったのかの理由は不明ですが。

クイズコーナーが終わると再びオーケストラで2曲を演奏。その途中でパーカッショングループ4人が、指揮台前に出て来てボデーパーカッションを披露。ボデーパーカッションは、ことばのごとく体をたたいて拍子をとり音を出します。手で膝を叩く、両手を打つ、胸をたたくなどです。次の曲では、観客席も足踏み、手拍子のボデーパーカッションに参加。一体感が広がります。前半のオーケストラ・コンサートのアンコール曲は、ファン感謝デー恒例の「それいけカープ」。再び会場は、観客席の拍手と演奏の一体感で盛り上がります。

10分の休憩を挟んでの後半は、楽団員によるアンサンブル。パーカッション、金管五重奏、バイオリンの二重奏、木管五重奏団、そして最後は、「広響ファン感謝デー祝祭管弦楽団」による「みんなで演奏!」です。

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曲は、ヨハン・シュトラウス:ラデツキー行進曲です。ステージ上には、事前に申し込みをした一般参加者35人がそれぞれ持参の楽器をもって登壇。広響もメンバーも日頃の楽器とは違う楽器で参加。指揮者の下野さんもトランペット奏者として参加。尺八もあります。ラデツキー行進曲は、手拍子を打つパートが繰り返し演奏されましたので、拍手がやむことはありませんでした。

2時間余りのファン感謝デーでしたが、演奏会とは違う雰囲気で楽しい時間を過ごしました。

いのちとうとし

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2020年1月23日 (木)

幟町国民学校―もう一つの被爆体験

今日は、1月18日のブログ「幟町国民学校―二人の被爆体験記(その1)で触れた「中国32057部隊(以下『世羅部隊』)について、紹介します。

「世羅部隊」の動向や被爆体験は、1980年(昭和55年)に有志によって発刊された「世羅部隊誌」に、詳しく掲載されています。終戦もまじかになった1945年(昭和20年)4月、本土決戦に備えて、日本全土の市郡単位に防衛部隊が編成され、広島県内も40余りの防衛部隊が設置されたそうです。

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その一つとして、世羅郡で4月25日に部隊が編成されました。部隊の名称は、第21特設警備隊・中国32057部隊、本当の名は「世羅防衛部隊」であったと、部隊誌には書かれています。ここでは、「中部」ではなく「中国」となっていますが、その後分かったことですが、1945年には、軍全体の組織編成が変更されたため、「中国」「と「中部」が混同する原因となっているようです。

400名で構成された部隊は、3つの中隊に編成され、その一つ森岡中隊が広島に出動したのが、7月5日から7月15日までの10日間。兵舎は、幟町国民学校です。次に7月27日から8月6日正午までの任務を帯びて出動したのが、岡竹部隊110名です。兵舎は同じ幟町国民学校です。「世羅部隊誌」に掲載されていた幟町国民学校の写真です。

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この岡竹部隊110名が、まさに任務終了直前に原爆投下による犠牲となったのです。1978年9月から80年1月までの有志による調査によって明らかとなった、世羅部隊に所属した400名のうち315名の名前は、「世羅部隊誌」に掲載されています。その名簿によれば、直接被爆した岡竹部隊では95名の消息が判明していますが、8月6日に亡くなった犠牲者は、27名、その年の12月末までに亡くなった犠牲者は、29名となっています。約6割の死亡率です。生き残りの証人の一人は「広島市幟町国民学校を兵舎代わりに10日間の警備任務を終えたのが”あの日”だった。京橋付近で徹夜警備を終え、朝食後、兵舎で仮眠中、ピカドンにやられた。倒壊した建物の下敷きになって、やっとの思いではい出た時には、兵隊は一人もいなかった」と語っています。

原爆投下時、世羅に残っていた人たちも230名が二部隊に編成され、翌7日には急きょ広島に出動し8月13日まで、救援活動に従事することになります。部隊があった世羅町西太田から徒歩で、備後三川駅まで行軍し、福塩線と芸備線を乗り継ぎ、矢賀駅で下車し、西練兵場(現在の基町付近)へと移動したようです。もちろんのことですが、この救援部隊の全員が入市被爆しています。

と、部隊の人数を書いていますが、「世羅部隊誌」の中では、部隊数約350名などと、様々な数字が出ていますので、どれが正確に人数なのかが判然としない面があります。35年後の調査の難しさを知ることになりますが、一方で「そもそもそんなことを記録したものがなぜないのか」という疑問が、湧いてきます。「世羅部隊誌」にもこういう記載があります。「岡竹中隊の戦友名簿もなければ、誰が生き残ったのか、誰が被爆死したのか記録がない」

「世羅部隊誌」を読みながら、被爆35年の時点ですら全容が明らかにならなかったあの日の空白を埋めることは大変なことだと改めて感じます。でもやり続けなければなりません。

いのちとうとし

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2020年1月22日 (水)

四国電力には危険な原発を運転資格はない

 四国電力は20日、「定期点検中の伊方原発3号機での作業中トラブルが発生した」と発表しました。トラブルは、使用済み燃料プール(放射線管理区域内)で、燃料集合体(約680キロ、長さ約4メートル)をクレーンでつり上げて点検用ラックに挿入する際、誤ってラックの枠に接触させたというものです。接触により燃料集合体の落下を知らせる信号が発信されましたが、確認したところ落下しておらず、燃料を収める枠に乗り上げていたということです。そして常套句ともいえる「トラブルで放射性物質が漏れるなどの影響はありません」としています。

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この伊方原発3号機では、1月12日にも核分裂反応を抑える「制御棒」を誤って引き抜くというトラブルを起こしたばかりです。制御棒は、核分裂を抑える役割があり、原子炉を停止する際に挿入される非常に重要なものですが、作業員が気づくまで約7時間引き抜いた状態が続いたようです。重大なトラブルです。

四国電力は、トラブルという言葉を使っていますが、私たちから見れば事故と言ってもよい事態です。

ところで、この二つのトラブルを挟んだ17日には、広島高裁で「伊方原発3号機の運転を差し止める」決定が出されました。その理由は、「①原発600m沖の中央構造線断層帯は、「活断層である可能性が否定できない」にもかかわらず、四国電力の調査は不十分②原発130キロ離れた阿蘇山の噴火による影響評価が四国電力は低すぎる③原子力規制委員会の判断は誤りで不合理」としています。

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この広島高裁の決定は、「原発の安全性に対する判断の基本は、専門家の判断が分かれる場合や判断がつかない場合、原発事故の極めて深刻な事態を想起し、安全性を最大限に求めるべき」という姿勢にあり、その確保が原発稼働の必要条件だとの考えです。すごく当たり前のことです。

福島原発事故を体験した今、どんな小さなリスクも見逃さず、きちんと対処するということは、司法のみならず、電力会社、原子力規制委員会に強く求められることです。

にもかかわらず、四国電力はこうした裁判所の指摘に応えることなく、決定が出された直後に「到底承服できず、速やかに不服申し立ての手続をする」と発表しました。司法の判断を全くないがしろにする姿勢は、許されるものではありません。

絶対に起こしてはならない原発事故を回避するためには意に沿わない意見に対しても真摯に耳を傾ける姿勢が強く求められます。

わずか一週間余りの間に2度もトラブルを起こしてしまう四国電力に対し「原発を運転する資格はない」と言うのは、当然のことではないでしょうか。しかもこの重大な時期に、連続してトラブルが発生させるなど、普通には考えられない事態です。司法の判断を非難し、「再稼働、再稼働」と言う前に、徹底して事故の原因を究明し、再び事故が起きないように企業体質を改めることこそ、四国電力がいま行うべきことです。

いのちとうとし

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2020年1月21日 (火)

ゴーン被告逃亡が投げ掛ける問題

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昨年暮れの29日に、自宅から外出したままレバノンに逃亡したカルロス・ゴーン被告に対して、法務大臣は勿論のこと、マスコミはほとんど例外なく、ゴーン氏が法を犯した「悪人」であることを繰り返し強調しています。逃亡したこと自体が違法であり、起訴された嫌疑についても、裁判前であるにもかかわらず有罪が確定しているかのような報道も、逃亡劇そのもののセンセーショナルな性格をさらに増幅しています。スパイ映画さながらの逃亡そのものについての関心も高いようですし、逃亡費用が億の単位になったであろうことについても再三再四言及されています。

法律的な側面については、それを専門とする検察や警察の今後の対応を見守るしか方法はありませんし、その過程で、経済的な犯罪の本質や日産の中で、あるいは日仏の政府まで巻き込んだ、権力闘争の本質も見えてくるのだろうと思いますが、今回はこれまでほとんど問題にされて来なかった視点からゴーン被告が提起している問題を考えたいと思います。それは、日本の司法制度が抱える本質的な問題です。

ゴーン被告が批判したのは「人質司法」と呼ばれる捜査方法ですが、法律的には一つの容疑に対して、身柄を拘束しての捜査は逮捕状による72時間プラス、その後の勾留状に基づく20日(計23日)間しか許されていません。しかし、昨年の11月、保釈保証金10億円を払って保釈されるまで、ゴーン被告は100日以上拘留されていたのです。

テレビのミステリー番組でも再々登場するように、取り調べに対して「自白」をしない場合には、このように長期に拘留されるのが日本の司法ステムの定番として知られています。これを改善しなくてはならないという声は以前からあったのですが、司法や政治の世界ではほとんど注目されずに時だけが過ぎていました。ゴーン被告の問題提起によって、世論もようやくこの点について関心を持ち、知的レベルでの議論も活発になるかもしれないと期待したのですが、残念なことに、為政者側の旧態依然とした思考パターンはこの点について全く反応しなかったのです。

日本の司法制度は、世界と比べて遅れているにもかかわらず、その事実はベールに隠されほとんどの人は日本の司法制度に欠陥のあることさえ知りません。たとえば、司法制度そして基本的人権を考えるに当って、最も重要な柱の一つは「habeas corpus」と呼ばれる権利です。日本語訳としては「人身保護令状」が標準的ですが、令状そのものも大切なのですが、その令状に盛り込まれている権利こそ、この概念の基本です。

それは、官憲に身柄を拘束された場合、裁判所に訴えて、その理由を開示させる権利であり、理由が不十分であったり、拘束に足る十分な理由がなければ身柄は解放されるという権利です。日本国憲法では、33条と34条がこの規定です。自白に追い込むために、被疑者を長期間拘束することは、この基本に反していますので、国際人道法だけでなく、憲法違反なのです。

しかし、森法相はじめ、マスコミも声を揃えて、ゴーン被告の出国が法律に反することだけしか取り上げていません。しかし、この点についての論点をハッキリさせるために、もう一つ私たちにとって、特に沖縄にとって身近な問題視の比較を行いたいと思います。それは、基地に住む米軍の兵士やその家族による犯罪の裁判権についてです。日本に滞在している米軍の兵士や家族による犯罪について、日本は裁判権を持たないというのが日米地位協定の決まりです。

日米地位協定の第17条2項には次のような規定があるのです。

合衆国の軍事裁判所および当局は、合衆国軍隊の構成員及び軍属ならびにそれらの家族が日本国内で侵す全ての罪について、専属的裁判権を日本国内で行使する権利を有する。

つまり、「治外法権」です。そして、このような規定ができた背景には、日本の司法制度では、アメリカ人が本国で保障されている人権が保障されていないこと、特に人身保護令が効力を持たないこと、そして弁護人が同席しないままの尋問が許されていることなどが挙げられているのです。

もしゴーン被告に対する捜査や尋問、そのための身柄拘束が国際的にも認められると日本政府が主張するのであれば、それと同じ理由で、米軍の兵士に対しての裁判権を日本側に引き渡すべきだという要求をアメリカにしなくてはなりません。逆に、日米地位協定が正しいのだと言い張るのであれば、ゴーン被告の言い分を認めて、彼の保釈条件等についての見直しをする必要が生じます。どちらも、バランスに欠けるのですが、最適な解決法があります。

これまでの日本の司法の実体である「人質司法」を認めた上で、それを抜本的に改革することです。特に、無力化されている憲法34条を復活させ、「自白」のみに依存するの本の捜査の仕方、そして司法制度を抜本的に変えるよう、主権者である私たちが強力な運動を始めることこそ、最重要な教訓なのかもしれません。

[2020/1/21 イライザ]

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2020年1月20日 (月)

朝鮮学校高校無償化裁判支援街宣と第5回へいわこども展

毎月19日の実施されている今年最初の「朝鮮学校無償化裁判」を支援する街頭行動が、昨日本通電停前で実施されました。昨日の行動は、日曜日ということで午前11時から正午までの1時間、マイクでの訴え、チラシの配布、署名活動などを行いました。

このブログでも政府が実施する「高校無償化支援制度」から朝鮮学校のみが除外されていることの問題点については、今回は触れませんが、昨日の行動の様子を簡単に紹介したいと思います。

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最も特徴的だったことは、参加者が多かったことです。卒業を前にした朝鮮高校の3年生、学園の先生方や関係者、子ども連れの保護者とともに、支援する日本側の参加者の姿を多くみることができました。総勢100人を超える行動になりました。

次は、ビラの受け取りです。最近、街頭行動で配布されるビラの受け取り手が非常に少なくなっているのを毎回感じていますが、今回は従来の行動になく、良く受け取っていただいたというのが実感です。全国男子駅伝もあったからでしょうか、午前中にもかかわらず、いつもの日曜日より通りを歩く人の姿が多かったように感じました。「朝鮮学校の高校無償化」問題を初めて耳にする人も多かったのではないでしょうか。ビラの受け取りが多かったのもそんなところにも理由がありそうです。

もう一つは、署名への協力者です。最終集約を聞いていませんので、何名の方が署名していただいたのか数は不明ですが、ここでもいつもより多いと感じました。中でも、中学生が何人も署名している姿が特徴的でした。

今後も、時には時間と場所(いつもは県庁と市役所前)を変えて、訴えることも必要のように思いました。

正午で街頭行動を終え、多くの人が昼食を摂った後、「へいわこども展」が開催されている旧日銀広島支店へと移動しました。

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今年で5回目となる「へいわこども展」は、15日から始まり、明日21日まで開催されています。午前10時から午後7時まで開催されていますので、ぜひ参加してください。

昨日は、午後1時半から朝鮮学校の生徒によるミニコンサートがありました。小学生による歌唱、民族楽器の演奏、中学生の民族舞踊が披露されました。短い時間の演技でしたが、一生懸命な姿と、練習を繰り返していることが実感でき、大きな拍手が起きたコンサートでした。

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会場は、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国の子どもたちの作品が並べて展示されているのが特徴的です。そして広島のインターナショナルスクールや日本学校の高校生、中学生、小学生の絵も展示されています。入り口で手渡されたチラシの裏面に記載された「昨年の展覧会アンケート」の一文です。「どれもすぐれた作品で、見ていて心が動かされました。普段交流がないようでも、こうした作品展を通して心の交流ができることは、とても貴重で素晴らしいことだと思います。私たちがどこかでつながっている。その思いが強まりました。」(50代男性)

こうした地道な取り組み上げることが、朝鮮学校への理解を深めることにつながるように思います。

いのちとうとし

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2020年1月19日 (日)

幟町国民学校―二人の被爆体験記(その2)

いよいよ二人の被爆体験です。

二人が、夜の防空壕掘りや街の橋々での夜間警備を終え、幟町国民学校の臨時兵舎に帰っている時に原爆が投下されます。

直登さんの日記です。「一度警戒警報が出たのでくつ下をはきゲートルだけでしてねむった。9時頃でもあったろうか、大きな爆発音に夢を破られて目をひらくと、ものすごい勢いで天井の木材や瓦が顔の上に落下してきた。戦友の中によろよろ多立ち上がった者もいるが、皆顔面を真っ赤に染めている。自分も生暖かい血が額から流れ落ちるのがわかった」。9時ころという時間が目を引きます。

私が興味を持ったのはその次に書かれていることです。「中国新聞社の四階目あたりが猛烈に燃え上がっている。」その後に、その後の直登さんの行動の様子が続きますが、同じ情景が、堤さんの被爆体験記にも書かれています。「またまた警戒警報が発令された。いつでも出動できるよう準備して仮眠せよとのことで、私服のままゲートルを巻き、小銃とごぼう剣の位置を確かめて横になった。・・・」。右手首が大きなはりに挟まって抜けなくなったところを京谷君の助けで手を抜くことができことが記された後、「腰の痛みを我慢しながら、崩れた校舎の瓦礫の上に立つと、土色の空にオレンジ色の太陽がぶきみにみえた。周囲が薄暗く、中国新聞社の四階あたりが猛烈に燃えていた」と書かれています。

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中国新聞社の火災が、強烈に目に入ったのか、くしくも二人の体験記に同じように記載されています。当時の中国新聞社は、現在の広島三越に建っていましたが、幟町国民学校からはわずかに150mという近距離ですから、強く印象に残ったものと思われます。

堤さんの体験記では、そのすぐ後に四國直登さんが登場します。「見回すと、建物は倒壊して方々で火の手が上がっており、人影はまばらである。勤務先の友人、四國直登君が顔面より血を流し、呆然と立っていた。『オーイ、大丈夫か』と言うと『足をやられた』と言う。校庭の方に降りていく姿が痛々しく、まことに気の毒だった。」

直登さんの日記では、堤さんの名前は出てきませんが「左足の裏を見れば材木でブチ割られてどくどく血を吹き出している。藤原が布切れを腿に巻き付け棒切れ通して締めつけてくれたが、血は止まらない。ひとまず校庭に出る。」しかし、6日の夕方の情景で堤さんの名前が登場します。「4時頃かも知れぬ。『四國!』と呼ぶのでひょいとふり返って見れば、堤、中尾両友なり。両友は今から歩いて帰るという。」

二人の体験記を読むと不思議な思いに駆られます。しかし、ここで再び分かれた二人がまた再会することが、堤さんの体験記に書かれています。翌日、堤さんは部隊と連絡を取るため大正橋まで出かけるのですが、その帰り道でまた直登さんと出会うのです。「また顔と足にケガした四國直登君に会ったので声をかけた。『オーイ、どうしたんヤー。まだ家に帰っとらんのカー』『ホーヨ、足が痛うてノー、昨夜は橋のたもとで野宿したのヨー』『ホーカー、苦労したノー。よしワシが送ったロー』」こんな会話を交わした後、堤さんに送られて直登さんは自宅に帰ります。再び体験記から。「大河町の彼の家まで送った。彼の家も爆風で屋根が落ち、かなり壊れていた。四國君ともこれが最後になった。」

この出会いは、直登さんの7日の日記にも出てきます。「大正橋まで帰り、出会った川手の昇さんと話していたら堤がいたので、自転車の荷台に乗せて家まではこんでもらう。少し破損しただけですんだわが家へ帰りついた。嬉しくて泣きたいようだった。」

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大正橋は、猿猴川にかかる上流から4番目の橋です。西岸のたもとには、原爆慰霊碑が立っています。堤さんの体験記は、被爆後50年の1995年に書かれたもののようですが、直登さんの日記と一致する記載に、あまりにも強すぎる体験と記憶の確かさを感じ、少しびっくりします。

直登さんの日記は、8月27日を最後にして途絶えます。その日の夜半、苦悶の末、18歳の生涯を閉じたのです。

また新たな事実を感じることのできた、二人の体験記でした。

いのちとうとし

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2020年1月18日 (土)

幟町国民学校―二人の被爆体験記(その1)

今日は、今月2日のブログ「元日の平和公園」で紹介した「企画展『時を超えた兄弟の対話』」に関わる二人の被爆体験記を紹介したいと思います。被爆体験記といっても四國直登さんは当時の日記、新潟の被爆者・堤武博さんは、文字どおり体験記です。堤さんの体験記は、3日のブログ「ヒロシマ 空白の被爆75年」でも一部紹介していますが、今日は被爆時の状況について、二つの体験記を比べながら少し詳しく見てみたいと思います。

四國直登さんは、1945年7月9日に「警備召集」を受け、翌10日に幟町国民学校にある臨時兵舎に行き、その日から防空壕掘りなどの任務に就きます。堤さんが所属する中国第32037部隊です。

堤さんは、新潟の被爆者としていますが、1927年(昭和2年)広島市段原東浦町生れ、日本製鋼所広島製作所に入社し、同じ職場で働いてきた直登さんと同じように警備召集を受け、同じ部隊に所属し、幟町国民学校で被爆。軍隊所属というのですから、20歳を超えていると思いがちですが、二人とも同じ年の生れで、17歳と18歳です。堤さんは、同社で退職まで働き、その後娘さんと同居するため新潟に転居されています。

堤さんの体験記で、当時の兵隊の様子を知ることができます。「7月27日、勤務先から帰ると、三度目の警備召集令状のハガキが来ていた。『堤二等兵は、7月28日、幟町国民学校を兵舎とする第一特設警備隊中部第32037部隊に入隊せよ』とのこと、文面では『二等兵』だが、実際は徴兵検査(18歳)前で、兵隊ではない。また来たかと思ったが、あわただしく準備した。」

二人が所属していた部隊の名前が、直登さんの日記では「中国第32037部隊」、堤さんの体験記では「中部32037部隊」となっています。どちらが正しい名称なのか調べてみました。

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手掛かりはないかと、幟町公園に行ってきました。上の写真を見てください。幟町公園には「幟町国民学校跡」と刻まれた「慰霊碑」が立っています。この碑は、1981年(昭和56年)に旧幟町国民学校教職員卒業生有志によって建立されたものです。裏面に、ここで犠牲となった部隊名と幟町国民学校名が刻まれています。

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刻まれた「部隊名」は3つあります。一番上に、二人の文章に出てくる「中部32037部隊 広島東部」が、刻まれています。堤さんの体験記に記載された「中部」の名になっています。ところが調べてみると、広島市が発刊した「広島原爆戦災史第4巻」の69ページには「幟町国民学校」にいた部隊名として「広島地区第一特設警備隊(中国第32037部隊)」と記載されています。いずれが正しい名称なのかは、不明です。

部隊名は別にして、体験記に教えられることは、戦争末期の当時、「警備召集」という名によって徴兵検査前であっても召集されていたという事実です。非常事態(戦争遂行能力がない)になっていることが、ここからもわかります。こうした働き手が召集された後に、中学生などの子どもたちが勤労動員されていったことが想像できます。それな状況にありながらも無謀な戦争を継続していたということです。この「警備召集」は、同じ職場でも交代で召集され、何日間かすると、召集解除となり、職場に復帰するということが繰り返されてようです。正規の工員確保のためでしょう。

堤さんの体験記には「8月2日、隊長より、明日3日の召集解除の予定が、三日間の延期を言い渡され、8月6日正午召集解除の予定となった」と記されています。堤さんの場合は、7月28日の召集ですから、非常に短い期間で交代していたことが、ここからもわかります。実は、直登さんの日記もよく読むと、7月10日に入隊した後、7月16日に除隊となり、7月28日、堤さんと同じように入隊し、8月5日の日記には「明後日は家に帰れる」とありますから、堤さんと同じように除隊が予定されていたようです。

そして運命の日を迎えるわけですが、日本製鋼所広島製作所は、船越にありました(現在も同じ場所)ので、予定通り除隊され現職に復帰していたら、近距離(爆心地から1.1キロ)での被爆は、免れたことになります。

ところで、上記の写真には、「第32027部隊」の他に「中部第32057部隊 世羅郡」の名前も刻まれています。この部隊のことが、堤さんの体験記にも出てきます。「翌日部隊に行くと、今回は世羅郡より40代の予備役(現役を終えた人が一定期間服した兵役。非常時にだけ召集されて軍務に服した)が多く入隊したため、若者は2階に上がれということだった」と。世羅郡から建物疎開作業隊として編成された部隊のことです。通称「世羅部隊」です。ですから、幟町公園の慰霊碑には、毎年8月6日には「世羅町長」の名前でお花が献花されています。私は、この慰霊碑については「世羅部隊」のことしか知りませんでした。世羅部隊のことについても、機会があればまた詳しく報告したいと思います。

もう一つ思い出してほしいことは、幟町国民学校も神崎、千田国民学校と同じく、軍隊の駐屯場所になっていることです。

前段が長くなりすぎました。二人の被爆体験は明日にします。

いのちとうとし

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2020年1月17日 (金)

原爆被爆二世国家賠償請求裁判第9回公判・傍聴記

裁判傍聴記が続きます。

今日は、一昨日(14日)広島地裁201号法廷で開かれた被爆二世裁判の第9回公判の報告です。

今回の公判は、原告側(被爆二世)が、昨年12月27日に提出した「原告ら準備書面6」の陳述と今後の公判の進め方などが審理されました。

準備書面6は、「原告ら被爆二世が置かれた状況等―原告ら被爆二世はどのような状況にあるか」について、概観的に主張したものです。その中心は、被告・国側が「放射線被害の遺伝的影響について明確な科学的根拠がない」としているのに対し、「もっと深刻な問題は、健康問題」で「様々な要因から自らの疾病が放射線被害の遺伝的影響と思わざるを得ない状況にある」とするとともに「親がガンにり患すれば、自分もガンが発症するのではないかとの不安を抱かざるを得ない」という現状を指摘しました。そして「被爆二世が健康不安を抱いている事実までも否定はしないだろう」と国に迫っています。

その主張の根拠の一つとして1968年に「原爆特別措置法」が制定された当時の厚生大臣の発言「原子爆弾の障害作用の影響を受けたものの中には、身体的、精神的、経済的あるいは社会的に劣っている者や、現に疾病に罹患しているため、・・・これら特別の状態に置かれている被爆者に対する施策としては、医療の給付などの健康面のみに着目した対策だけでは十分ではなく、これらの被爆者に対してその特別の需要を満たし、生活の安定を図る必要がある」を紹介し、被爆二世にも一般的にあてはまる問題だとしています。

その上で、現在実施されている「被爆二世健康診断」の問題点を指摘しています。

一つは、長く被爆二世が求めてきた「ガン検診」が含まれておらず、極めて不充分なものであること。二つ目に、「そのため独自で被爆二世対する施策を実施する自治体がある」ことを紹介しながら、「しかし、それらはごく少数の自治体にとどまっている」としながらも「自治体独自の施策を行っているのは、被爆二世の健康に対する不安を解消する」ために実施されているのであり、「法レベルで何らかの援護が必要だ」と結論付けています。

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審理終了後の報告会では、在間弁護士から「軍人軍属に対する戦傷病者遺族等援護法」から朝鮮半島や台湾出身者の徴兵、徴用者が「国籍条項」を理由に排除されている問題を取り組んだ裁判の状況が紹介されました。「結果としては、全ての裁判で敗訴していますが、自治体レベルで援助を行っていたことが力となり、国がその後特別措置を行い救済した歴史がる」というものです。そして「今回の準備書面には、こうした問題を提起する意義・意味がある」と強調されました。

原告団としては、3月末までに全原告一人ひとりの意見陳述書(自らの体験などの基づく主張)を提出することにしています。ここから、本格的な論戦がスタートすることになります。

次回公判は、4月21日の午後1時30分から開廷しますが、今回の公判の最後に裁判長が「弁論更新があります」と告げましたので、新たな裁判官体制になると思われます。予測では、これまで行政訴訟で「原告敗訴」の判決を出し続けた小西裁判長が交代すると思われます。

いのちとうとし

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2020年1月16日 (木)

「上関原発埋立免許取消訴訟」控訴審判決

昨日、広島高裁で上関町祝島島民が「上関原発埋立免許取消」求める訴訟の控訴審判決が出ました。判決は、山口地裁が示した「祝島の漁業者には、原告としての訴える利益(原告適格)を認めない」とする判決を支持し、「控訴を棄却する」という不当判決でした。まさに門前払いです。

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しかも、報告集会での本田弁護士の報告によれば、判決文はわずかに10ページ、実質的な内容はわずか5ページで、一審判決をすべて認めるという、「原告の訴えを無視した」と言わざるを得ない判決だということです。

判決は、漁業者が対象水面で漁業の営みは、単なる利益であって、「公有水面埋立法」に言う「権利」ではないというのです。さらに生活権、人格権についても、同じように「利益であって権利ではない」という言葉の遊びのような理由で、「原告の訴える権利」を否定してしまっています。

これだけでは少しは良心が痛むのか、原発の危険性にも触れ、「居住者が懸念を抱くのはもっともである」と言っていますが、本来裁判所が審理すべき「公有水面埋立の目的である原発建設」の是非については、全く踏み込んでいません。特に昨年7月に出された「県の延長許可」では、「原発の本体の着工時期の見通しがつくまでは埋め立て工事をしないこと」という、摩訶不思議な条件が付いての「延長許可」だったのですから、その妥当性を判断するのは裁判所の責務だったはずです。

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これでは、三審制をとる現在の司法制度が「本当に意味があるのか」と問われることになります。いま政治権力への忖度が働く時代になっていますが、生活のことをもっと考えるべき裁判所もそうなってしまったのかと思わざるを得ない判決です。

もう一つ言えることは、山口県が根拠としているのは「上関原発は、重要電源に指定されている」ということですが、そもそも今原発を取り巻く現状は、どうなっているのかです。福島原発事故以降、原発事故への不安は増大し、2011年以降8年経過しても4分の1しか再稼働(停止中を含む)できておらず、再稼働出来ない状況にある原発が多数残っています。もちろん私たちは、全ての原発の再稼働には絶対反対ですが。仮に原発再稼働の審査が進んだとしても、現実を直視すれば、新規の原発設置許可の審査など進められる状況にないことは、明らかなことです。

このことから考えても「山口県の延長許可」が、いかに不当なものかは明白です。

この不当判決に対し、法廷で判決を聞いた木原さんは、次のように述べています。

「漁業を生業(なりわい)としている人たちのことを、それは単に漁場から得ている『利益』であって『権利』ではない。そんな理屈が成り立つのか、そのことの怒りを感じた判決であった。こういうことを言う人は、魚を食べるなと叫びたい。

 上関原発の建設計画が浮上して今年は38年である。これまで『故郷を原発の街にしたくない。放射能の街にはさせない』という一心で頑張ってきた人の姿が何人も思い出された。38年の年月は多くの方を故人にした。

そして『私らが上関原発に反対することを一番分かってくれるのは、広島の人よねー』と言われたのを思い出した。原子爆弾を知っている人なら、という連帯の声であった。この期待に応えるのも私たちの役割りだ。」

報告会は、山戸貞夫さんたち原告団が、「この判決を認めることはできない」とし、「上告し、中電に異議ありの声を上げる決意です」と表明し、終わりました。

いのちとうとし

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2020年1月15日 (水)

1月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

新しい年の1月のブルーベリー農園の景色には野焼き、とんどの煙が枯れた色合いの中で緩やかに動きたなびくさまが落ち着いた気分にさせてくれる。繰り返しだが春までブルーベリーの剪定にかかるスタートの月。

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1月4日(土)。広島市内からブルーベリー農園に行き今年最初の作業と見回り、ブルーベリーの剪定した枝の野焼きなどを行う。

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昨年し残した油粕のブルーベリー畑への施肥を行うが足元のホトケノザも寒くないのか春より小さめのはなびらが顔を出している。

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相変わらず農道のあちこちにトンネルをほったモグラの堀り上げた土がこんもりした形を見せる。もぐら塚というそうだ。餌のミミズを探して忙しいらしい。

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枯れずに切らないで残った菜の花は雪も降らないのでべちぇべちゃにもならず咲いている。

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帰るころに見るブルーベリー畑からの夕焼け。

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1月5日(日)。正月も終わりそろそろ農家の方も野焼きなどして活動開始の様子。

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野生のツツジの枝にカマキリの巣が作られている。ブルーベリーの木のあちこちにもこのような巣が見られる。枝を切らない限りそのまま、そのまま。

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1月12日(土)。里山のブルーベリー園から見えるとんどの煙。ぱーんぱーんと竹のはぜる音が聞こえてくる。

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1月13(月)。里山のブルーベリー園の剪定。この場所は午後3時頃まで寒い風が吹くのでしっかり防寒しておく。ここ数年はこの場所で切った枝は燃やさずに柵の周囲に細かくして積んでおくようにしている。

10_20200114213701  ちょっとだけ日がさす。枯れたまま立っているニラの花も逆光に映えて冬の地面にアクセントをつけてくれる。

やっぱり暖冬のようで暖かい日が続いていブルーベリーの剪定などの農作業にはありがたいが・・・。雪が少ないと夏の水不足が農家の皆さんの心配の種だろう。

2020年1月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年1月14日 (火)

「旧広島陸軍被服支廠」見学会

旧広島陸軍被服支廠の保存をめぐる広島県の方針が発表されて以降、市民の関心が高まり、見学希望が相次いでいるといわれています。そして様々な団体が見学会を実施していますが、私も新聞報道で知った「建物を巡るイベントを開く『アーキウォーク広島』」が主催する「建物見学会」に参加しました。

主催する「アーキウォーク広島」は、以前から建築というキーワードで広島を活性化させようと「建築公開イベントの開催」や「建築ガイドブックの発効」などの活動を行う団体です。

当日も「過去の調査及び最近の学術調査」をもとに作成したカラー印刷の資料が、参加者に無料で配布されました。

この見学会は、11日から13日までの3日間、午前と午後それぞれ1回ずつ開催されましたが、私は13日の午前11時からの部に参加しました。

集合時間の15分ぐらい前に、その集合場所の緑町第2公園に着いたのですが、すでに多くの人が集まっておられます。多数の参加が予測されるということで、20人余りが参加された時点で第1班が構成され、見学会が始まりました。私は第1班です。

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現地はすぐ近くに住宅があるということで、移動する前に公園で配布された資料をもとにした説明がありました。

この見学会は、「旧広島陸軍被服支廠」を被爆という視点からではなく、「貴重な建築物」としての価値を知ってほしいとの思いで企画されたものですから、私にとっても非常に貴重な体験となりました。配布された資料をもとに、いくつか、その貴重さを紹介したいと思います。

「建築物の歴史と経緯」です。広島被服支廠は、日露戦争の最中の1905年に洗濯工場として建設され、1907年に支廠に昇格しました。東京の本廠、大阪の支廠の施設は、現存していませんから、被服廠の貴重な現存施設です。

次は「RCの歴史を知る」建物です。「RC」聞きなれない言葉かもしれませんが、鉄筋コンクリート造りのことです。この建物は日本最古級とのことです。世界でRCを使ったアパートが最初に建てられたのは、1903年フランスです。日本でも同じ時期に建ち始めますが、国内で現存するRC建築は、1911年に建てられた旧三井物産横浜支店と小野田セメントの工場建屋などがあるようです。この被服支廠は、これらとほぼ同じ時期である1913年に建設されていますので、そのことからも貴重さが分かります。

この調子で紹介していくと、ずいぶんと長い解説になってしまいますので、後は簡単な紹介にします。

「でも被服支廠はレンガ造りでしょ」と疑問に思われる方も多いと思います。この建物は、確かに外壁はレンガ造りとなっていますが、内部の柱や床は、全てコンクリートで作られており、RCとレンガが併用されています。

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同じようにレンガ造りで建設された兵器廠(現在の広大病院)は内部が木造、糧秣廠(現在の広島市郷土資料館)の内部は、鉄筋で作られています。ここでも貴重な建物だということが分かります。

「建築デザイン」です。屋根のピナクルや梁の端部の線形などに装飾的要素があるそうです。ピナクルは、初めて気づきました。

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その他にも「窓の組構造」や戦前の建築物に多い古いタイプの瓦の存在などの紹介がありました。

最後の紹介したいことは、資料の最後に記載されている「場(サイト)が持つ力」ということです。ここが最も大切だと思いますので、その一部を紹介します。

「建築単体としての価値のほか、倉庫が群として存在感のある『場』をとどめている点も極めて貴重です。(中略)旧被服支廠の倉庫群を目の前にすると、理屈抜きにその巨大さに圧倒されます。・・・この場に身を置き、五感を使うことで、『実感』という、書物で得られない膨大な情報を得ることができます。」

「旧広島陸軍被服支廠」は、「歴史的貴重な一面を体感できる場」としての価値を有しているということですが、そのことはガイドの奥本さんも何度も強調されました。

「アーキウォーク広島」が主催したこの三日間の見学会には、初日が約80人、二日目が約100人、そして最終日の昨日は約150人の参加がありました。関心の高さがうかがわれます。

見学会終了時「全棟保存」を求めることをいくつも聞きました。私もそのことを改めて実感するとともに、参加して本当によかったと強く思っています。主催者の皆さんありがとうございました。

いのちとうとし

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2020年1月13日 (月)

もみじニューイヤーコンサート2020

11日、今年で36回目を迎える新春恒例の「YMFGもみじニューイヤーコンサート」が、午後3時に開演しました。

私が、「もみじニューイヤーコンサート」に行くようになって数年が経ちます。年初めには様々な「ニューイヤーコンサート」が開催されますが、この演奏会を選ぶのは、ちょっとした理由があります。それは後で触れることにし、今年のコンサートの様子を簡単に紹介します。

今年の指揮者は現田茂夫さんでした。ソリストはピアノ演奏の菊池洋子さん。ここ数年、小山実稚恵さん出演が続いていましたので、もみじニューイヤーコンサートの常連かと思っていましたが、今年は新しいソリステで新年を迎えました。当日配布されたプログラム表には、菊池さんは「2002年第8回モーツァルト国際コンクールで、日本人として最初の受賞者」と紹介されています。もちろんオーケストラは、広島交響楽団です。

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演目のスタートは、J.シュトラウスⅡのワルツ「美しく青きドナウ」でした。この曲は、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートの定番ともいえる曲ですが、今年のウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートでは、珍しく演奏されません(私の聞き洩らしかもしれませんが)でしたのが、こちらのニューイヤーコンサートで楽しむことになりました。2番目の演奏は、菊池洋子さんのピアノ演奏によるモーツアルトの「ピアノ協奏曲第21番ハ長調k.467」でした。心に響く演奏に、大きな拍手が続きます。アンコール曲は、グリュンフェルト作曲「ウィーンの夜会~『こうもり』の主題による演奏会用パラフレーズ」でした。

休憩をはさんだ後半は、広響によるチャイコフスキーの「交響曲第4番ヘ短調 op.36」です。40分を超える熱演でした。もちろんアンコールです。曲目はチャイコフスキーの「くるみ割り人形」から「花のワルツ」です。

今年も年初めの演奏会を堪能し、帰宅の途に就きました。

ところで、私が多くのニューイヤーコンサートの中からこの演奏会を選ぶ理由です。このコンサート、冠のとおり主催者は、もみじ銀行ですが、かつては「広島相互銀行」と呼ばれていました。私とのかかわりは、その「広相」と呼ばれていた時代です。1970年代、銀行の第2次オンライン化が進められていましたが、当時の広島相互銀行でもその事業が進みました。広島相互銀行のオンラインシステム化の事業を請け負ったのが当時の電電公社中国データ部(現在の株式会社NTTデータ中国の前身)だったのです。当時中国データ部に所属していた私もプログラマーの一員としてその開発に携わりました。私が担当したのは、定期性預金です。当時、定期性預金は、大きく変わることはないといわれていました。ところがシステム開発を進める途中で、普通預金と連動した「総合口座」預金が誕生したり、定期預金の預入期間が、最長1年半が2年に延長され、しかも1年目で利息計算し、2年目の満期を迎えるときには複利計算となるなど、何度も変更を余儀なくされることになりました。その都度、広島相互銀行の担当者と打合せを繰り返したことを懐かしく思い出します。私が中国データ部に在職したのは約8年余りでしたが、当時の担当者とはいまも連絡を取り合っています。その後もNTTデータタ中国が担当し、何度もシステムアップを繰り返してきたようですが、数年前山口銀行のシステムに変更され、現在は関わりがなくなってしまいました。それでも何となく、懐かしさを覚えます。

そんな思い出がありますので、名前は変わったとはいえ「もみじ銀行」には、他の金融機関とは違う思いが今も残っています。それがこの演奏会を選ぶ理由です。

いのちとうとし

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2020年1月12日 (日)

2020の課題を考える

2020年を迎えました。

広島に住む者にとっては、なんといっても原爆投下から75年という大きな節目の年となります。そしてNPT(核拡散防止条約)が発効して50年、国連では4月から5月に掛けてこの条約の再検討会議が開催されることになっています。

5年ごとに開催される再検討会議ですが、5年前と大きく異なる日本の原発をめぐる状況は、日本の核燃料サイクルのカナメである高速増殖炉「もんじゅ」が廃炉となり、プルトニウムを所有することの根拠が無くなったことでしょう。

また1970年3月14日、大阪で開催された大阪万博開会式に関西電力美浜原発1号機から原発の電気が送られてきて、会場の電光掲示板には「本日、関西電力の美浜発電所から原子力の電気が万博会場に試送電されました」と「誇らしげ」に掲示されました。あれから50年という年でもあります。

そして17年7月に核兵器禁止条約が採択されて、最初のNPT再検討会議になります。核兵器禁止条約は、50か国が批准すれば90日後に発効するものです。12月31日現在、34か国が批准という状況になっています。34番目の批准国はアンティグア・バーブーダというカリブ海に浮かぶ小国で、地図でも見えない国でした。「弱肉強食」の核拡散防止条約に対し、「共存共栄」の核兵器禁止条約、どう折り合うかも注目です。

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一方、被爆者手帳を持っている被爆者の数は、19年春の時点で15万人を切ったと報じられました。逆に原爆慰霊碑の死没者名簿に記されている被爆者は31万9千人を超えました。死没者名簿には「氏名不詳者多数」とだけ記された一冊の名簿もあります。時の流れとともに生存被爆者数が減り、死没者名簿に載せられる数が増えるのは当然な現象でしょう。11月24日に、ローマ教皇フランシスコが広島市にやって来て、素晴らしいメッセージを発しました。しかしヒロシマで活動している私にとっては、とても大きなプレッシャーと思われました。同じことを多くの人が感じていたようですが、「広島・長崎の体験が原点にある日本の平和運動」と思えば、そのプレッシャーはみんなで共有して欲しいものです。

視点を日本の特に中国地方の原子力発電をめぐる状況に目を向ければ、島根原発2号機が再稼働の前提となる「適合性審査合格」が予想されます。BWR(沸騰水型)原発で、東北電力の女川が先になるとは予想していませんでした。すでに審査合格はしているが再稼働が見通せない柏崎刈羽より、女川の方が見込みが大きいと思ったのでしょうか。原子力規制委員会も「次は島根だ!」という考えのようです。

審査に合格はしても、即それが実際の再稼働には『ならない』と思いますが、『ならない』ようにさせるのは、私たちの活動にかかると思います。それを事実で示すのは鳥取県境港市などで予定されている住民投票条例制定運動で、いかに多くの「条例制定賛成数」を出すかでしょう。

島根県と岡山・広島両県との間で締結している、県間防災協定の実効性の無さを明らかにすることも重要です。広島県内の自治体で避難所運営マニュアルを作成している数は、5市町です。広島県内で島根原発からの避難者を受け入れる自治体は22ですが、この数がすぐに増えるようには思えません。

そして東京五輪が終われば、次の「第6次エネルギー基本計画」の議論が開始されるでしょう。これまでのように原発比率20~22パーセントが継続されれば、中国電力にとっては上関から「引くに引けない状況」となると思います。

上関は建設計画が公になって38年となります。これまで国内で一番長く原発建設をさせないための運動が行われたのは、中部電力の芦浜計画の37年でした。こんなに長い間反対運動を続けなければならない状態にさせたのは、まさに大犯罪であり、特に自治体の責任は問われなければならないと思います。

 地球温暖化防止会議(COP25)で日本の不作為が世界中から指摘されましたが、「温室効果ガスを出さないために原発を」という宣伝が、業界や政府から強く展開されることが予想されます。

 そして4月からは発送電の分離も本格的にスタートします。余りに課題の多い2020です。

木原省治

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2020年1月11日 (土)

司法制度の基本矛盾

『数学書として憲法を読む--前広島市長の憲法・天皇論』は、憲法を素直に読む試みとその結果を記録したのですが、いくつもの大切な「発見」がありました。たとえば、死刑は違憲であることなのですが、その他にもこれまで定説・通説として受け入れられてきた事とは違う結論が浮び上ってきました。通説が正しいのか、私たち素人ではあっても憲法に関心のある市民が、素直にかつ論理的に読んだ結果の方が正しいのか、誰かに判定して欲しい気持になりますが、憲法81条によるとそれは最高裁判所の役割だということになります。

しかし、その最高裁は死刑を合憲だと言っています。となると、私たち市民の考え方は全く認められないのでしょうか。今回はその点から考えてみたいと思います。

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《「司法」についての基本矛盾》

普通に読むと、憲法は最高裁判所が誤った判決を出すことは想定していないように思えます。それは憲法の第81条があるからです。

     第81条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

死刑は合憲であると、昭和23年には最高裁が判決を下したのですから、その結論に対して裁判で争おうとしても、既に「終審」という決定的な限定の付いた場でその判断はされてしまっていますので、その結論を覆すことはできない、と考えるのが自然でしょう。

しかし、『数学書として憲法を読む』立場から考えてみましょう。一般的読み方とは違ったとしても、『数学書として憲法を読む』立場からは、憲法そのものの文言が、最高裁の判決以前の時点でハッキリ死刑を禁止していると読めるのです。ですから、それを誤って解釈している(と私たちには見えるのですが、)最高裁版所の判決は、それが「終審」であろうとなかろうと、間違っているのです。となると、憲法そのものが何を言っているのかという事実の方が最高裁判所の「解釈」より優先されて当然だという主張にも一理あると考えられます。そして、単に「一理ある」というレベルではなく、このことは、憲法そのものが保障しているのです。それは98条です。

      第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

明示的には表現されていませんが、最高裁判所の判決は「国事に関するその他の行為」に入らないとおかしい種類の行為ですので、98条の対象になります。仮に、ある法律や判断が憲法違反だとすると、98条によってそれは効力を持たないのです。

さてここからが問題です。元々は(私たちから見た場合に)違憲である法律や判断があったとすると、それは、98条によって本来、効力を持たないはずです。にもかかわらず、何らかの理由で最高裁判所がそれらは合憲だと判断してしまったとすると、それは、81条に従って、効力を持つことになってしまうのです。これは、大きな矛盾です。

その特別の場合としてもっと極端なケースを考えましょう。最高裁判所の判決そのものが憲法に反する場合です。しかし、それは最高裁判所の判決ですから、最高裁が終審裁判所であることから、「違憲である」という訴訟は起こせないか、起こしたとしても即刻、棄却されるであろう結末は見えています。となると、「違憲」である状態は続いてしまいます。このような81条と、98条との間の矛盾を「「司法」についての基本矛盾」と呼びたいと思います。

 

《「最高裁でも過ちを犯すことがある」と仮定》

「基本矛盾」を解消するための一つの方法は、「最高裁判所は決して過ちを犯さない」という仮定を設けることです。すると、81条の規定に従って最高裁が行う、違憲かどうかの最終判断は常に正しいのですから、それは自動的に98条の要請を満たしていることになります。つまり、矛盾は存在しなくなります。

しかし、現実問題として、人間が最高裁の判事を務めるのですから、慎重の上に慎重な審理を尽くしたとしても誤りを犯す可能性は存在します。さらに、政治的な問題については、最高裁が判断を下すことを避けてしまったケースも存在します。となると、大前提として「最高裁版所は過ちを犯さない」と仮定することには無理があります。つまり、「最高裁判所であっても過ちは犯すことがある」という前提で、「基本矛盾」を解消しなくてはなりません。

その前提の下に矛盾を解消するためには、憲法98条が81条より優先されると考える必要があります。「終審裁判所」であっても間違いを犯す可能性を認めるのですから、最高裁による「終審」としての判断にも98条を適用するということなのです。問題は、その判断が「違憲」であるということを誰が判断するのかという点です。

ここで、下級裁判所から問題提起を始めるという手続きを認めてしまうと、「終審」裁判所の意味がなくなる可能性が大きくなりますので、最高裁判決の誤りは、最高裁自身が認めるという手続きが合理的でしょう。「終審」の意味を拡張解釈して、十分な理由があれば、一度判決の出た事柄についても最高裁判所の段階で「自発的に」再審議ができるようなメカニズムを作ることです。

もう少し論理的に整理をすると、最高裁判所における「終審」とは、十分な理由があれば「終審」として終った裁判を「再開」できる制度にすることです。「十分な理由」の中に、事実確認についての重大な過誤があること、つまり「事実誤認」というケースは既に含まれています。それは、これまでの最高裁において実績があります。それに加えて、例えばある一定の期間が経過した後、事実誤認だけではなく憲法の解釈についても、見直しを行うような制度にできないものなのでしょうか。

この提案の詳細については、稿を改めて論じたいと思いますが、一つの問題は、これまでの最高裁、そしていわゆる「国」の対応を視野に入れると、「最高裁でも過ちを犯す」あるいは「国も過ちを犯す」という当たり前の前提が、控えめに言って、時には受け入れられていないように見えることです。次回以降、この点を考えて行きましょう。

[2020/1/11 イライザ]

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2020年1月10日 (金)

被爆の生き証人としてⅡ

 昨年12月4日、広島県は「旧広島陸軍被服支廠」について、所有する3棟のうち1棟の外観を保存、残りの2棟を解体する方針を明らかにしました。残りの1棟を所有する国も「解体を含めて検討中」との考え方を示しています。

その方針が発表されて以降、県民・市民が全棟保存を求め行動する新聞記事が連日掲載されています。ある集会で被服支廠の保存を願う中西巌さんは「被爆者が年々少なくなる中で、被爆の実相に触れられる被服支廠の価値は日増しに高まっている」、広島平和記念資料館の元館長の原田浩さんは「国や県は建物を残すか残さないかではなく、どう残していくのか考えてほしい」と話をされました。

そのような中、広島県は被服支廠の存廃を決定するにあたり、パブリックコメント(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki/13/hihukusisyou.html)を12月17日から1月16日の期間で募集しています。財政の問題はたしかに大きなものですが、一度、壊してしまえば元には戻せないことも踏まえ、国・広島県・広島市が知恵を出し合い一体となって全棟保存をすすめるように皆さんの声を届けましょう。

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~ヒロシマを忘れた時、ヒロシマは繰り返される~

おきたか

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2020年1月 9日 (木)

広島県原水禁、広島県被団協が「旧広島陸軍被服支廠の全面保存」を県に要望

広島県原水禁の佐古正明代表委員、金子哲夫代表委員は、昨日(8日)広島県に対し下記の「『旧広島陸軍被服支廠」の全面保存を求める要望書』を提出しました。


「旧広島陸軍被服支廠」の全面保存を求める要望書

 (前略)

 私たちは、この貴重な被爆建物「旧広島陸軍被服支廠」は、他の被爆建物である旧日本銀行広島支店、広島文理科大学などとともに、世界遺産である「原爆ドーム」とともに、世界遺産登録されるべき、価値があると考えています。残念ながら、これまでに多くの被爆建物が解体されてしまいましたが、幸いなことにこれら被爆建物は、いずれも公的に保有されていますので、保存は充分に可能なことです。そしてそれは、保有する自治体の役割でもあると考えます。

 一度解体された被爆建築物は、再び甦ることはありません。3棟保存は、絶対に必要なことであり、決して失ってはならない、県民共有の財産です。

 貴職が、就任以来被爆県の知事として、「世界平和と核兵器廃絶」のために、とりわけ力を入れて取り組んでこられたことを私たちは、よく知っています。

 県民の多くが望む「保存」の声を受け止め、貴職の英断をもって「旧広島陸軍被服支廠」の全面保存の方針を決定されるよう強く要望します。

1、広島県が所有する旧広島陸軍被服支廠3棟については、遺産としての価値を過小評価せず、安全対策を講じた上で全面保存すること。あわせて、国が所有する1棟についても保存を働きかけること。

2、建築物の利活用といった狭い視点に留まらず、平和行政の観点から幅広く旧広島陸軍被服支廠の利活用策を早急に検討すること。

3、旧広島陸軍被服支廠は建築学的に極めて高い価値を有しており、その内容、規模を積極的に内外に発信すること。この建物が歩んできた歴史も併せて発信すること。


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これに対し広島県は、「現在、決まった話ではない」としながらも「被爆建物としての価値は重要であると認識している。しかし建設されてから107年が経過し、老朽化が進んでいるので、早く安全対策をする責務がある。利活用が十分されてこなかったこともあり、方針を示したということである。」とするとともに「予算を決めていくなかで決定することになる」との従来の考え方をしましました。

その後約1時間近くにわたり率直な意見交換をしましたが、残念ながら私たちが望む回答を得ることはできませんでした。最後に広島県原水禁として「昨年12月に県の方針が明らかになって以降、全棟保存を求める多数の意見が表明されている。県もパブリックコメントを求め、県民の声を聴こうとしている。県民の間で様々な論議が起こっている今、安全対策の重要性は認識するが、拙速に結論を出すのではなく、もう少し時間をかけて方針を決定する」ことを求めて、今回の申し入れを終えました。

なお、広島県被団協箕牧代表代行、前田事務局長が同席され、広島県被団協としての同趣旨の申し入れが行われました。

広島県は、16日までパブリックコメントを受け付けていますので、一人でも多くの人が意見を表明することが求められています。

明日のブログでも、そうした思いの一つを伝えることにしています。

いのちとうとし

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2020年1月 8日 (水)

2020年連合広島旗開き

昨晩午後5時からリーガロイヤルホテルで2020年連合広島新春旗開き・広島県労福協賀詞交歓会が、開催されました。

連合広島・労福協の役員及び加盟労働組合の役員など、来賓97人を含む約380名余りが参加し、2020年への誓いを新たにしました。

旗開きは、組合や政党などが、年初めに飾って新年の決意を表明する会合として、開催されてきました。もともとは、年末に納めた組合旗や党旗(旗納め)を開くことから、「旗開き」と呼ぶことになったのですが、最近では「旗納めを行った」ということを聞くことはほとんどないように思います。

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最初に主催者を代表して連合広島の久光博智会長、広島県労福協の伊丹幸男会長が、それぞれあいさつ。ここでは久光会長のあいさつを紹介します。

久光会長は「2020年のスタート。明るい未来を切り拓く一年にしたい。」と述べた後、昨年相次いだ自然災害の一日も早い復旧に触れながら、「人口減少、証拠高齢化が進み、一方で技術革新による大きな変化が起ころうとしている。社会の分断による不安が広がっているが、だれ一人取り残されない持続可能な社会をつくらなければならい」と訴え、さらに「頼りになる存在となるため、働く仲間の連帯・絆を固めて闘おう」と呼びかけました。

そして今年2020年の重点課題として次の3点を挙げました。

①2020年春季生活闘争では、将来不安を払しょくし、全ての働く者、特に中小やパート、非正規で働く仲間の底上げ図る。

②政治では、一強政治によるゆるみやたるみが渦巻く。これに対する政治不信を何とかしなければならない。そのためにも政治の流れを変えるために全力を挙げる。

③被爆75年、昨年はローマ教皇が広島を訪れ、核兵器廃絶に大きな力を与えた。しかし、今年に入り、中東での緊張が高まっている。核兵器廃絶1千万署名に全力で取り組むとともに、次世代への継承・強化に力を注ぎたい。

最後に、「地域で顔が見える運動を地域で展開しよう」と呼びかけて久光会長のあいさつは終わりました。この会長あいさつは、私が会場でメモったものに基づいていますので、正確に伝えるものではなりません、雰囲気を感じることができればと少し長くなりましたが紹介しました。文責は当然のことですが、すべて私にあります。

その後、来賓のあいさつ、勤労者福祉功労知事表彰を受けた二人への記念品贈呈が行われ、鏡開き、乾杯の後、懇談へと移り、最後に参加者全員による「三本締め」の中締めが行われ、閉会となりました。

私も、被爆者団体の代表のみなさんと共に広島県原水禁の代表として参加しました。他団体の旗開きとはいえ、決意を新たにした集いでした。

いのちとうとし

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2020年1月 7日 (火)

「大久野島の歴史展」に行きました

4日に開会した「大久野島の歴史展」、当日は準備を手伝っただけでしたので、昨日ようやく時間を取って会場を訪れることができました。

会場は、大久野島の歴史がきちんと整理されて、展示されています。

日露戦争時代の大久野島は、瀬戸内海の多くの島がそうであったように、砲台を備えた要塞が作られました。展示は、この解説から始まります。次に移動すると「大久野島毒ガス製造と被害」の様子が、写真パネルで示されています。

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大久野島の毒ガス製造工場は、1927年に建設工事が始まり、1929年5月19日に陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所として開設され、終戦の前年まで毒ガスを作り続けます。

1925年には、ジュネーブ議定書(正式名称「窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」)作成され、29年には発効しています。この議定書は、「使用のみが禁止」され、開発・製造などが禁止されないという不十分さはあったものの、この時期に毒ガス工場が建設されたことに注目しなければなりません。

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展示は、「日本軍の毒ガス戦と加害」へと移ります。侵略していた中国大陸での毒ガス使用が告発されています。

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次に「大久野島の毒ガス戦後処理」が展示されています。海洋時、焼却、埋設の方法がとられました。現在でも、大久野島にあった防空壕には埋設されたままの状態です。次の項で触れますが、「化学兵器禁止条約」によって国外に持ち出した毒ガスについては、遺棄国である日本政府が処分する責任を負っていますが、国内に埋設されたものは、被害を及ぼす影響がない限り、処分しなくてもよいことになっています。大久野島に埋設された毒ガスは、そのままの状態が続くことになります。

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展示は、「日本軍遺棄毒ガスがどのように処理されているか」につづきます。

中国に遺棄された毒ガス兵器の問題解決については、1990年に中国から要請を受けましたが、それがようやく具体化したのは、1997年に化学兵器禁止条約が発効してからです。同条約によって「遺棄国」として「国外に遺棄した化学兵器の廃棄の責任」を負った日本政府が、1999年7月30日に中国政府との間で「中国における日本の遺棄化学兵器の廃棄に関する覚書」に署名し、ようやく2000年から処理事業が開始されました。

内閣府のホームページによると2018年3月末現在で62,615個の毒ガスが発掘・回収され49,607発が廃棄処理されています。一説には、「日本国政府も、旧日本軍が中国国内に遺棄した毒ガス兵器等の数は約七〇万発と推定している(中国政府は、二〇〇万発と主張している。 )」とも言われていますので、廃棄処理がいつ終了するのは、見通せない状況です。

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この廃棄処理が続いている間にも、中国国内で遺棄毒ガス兵器による被害が発生していることも忘れてはなりません。

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会場中央には、毒ガス製造時に使われた器具や、様々な書籍資料も展示されています。そこで熱心に資料を読む二人組の女性がいましたので、声をかけると中国からの留学生でした。遼寧省出身の一人は、「中国でも少しは聞いていたが、こんなに詳しく知ったのは初めてです」と話していました。

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来場者の熱心に見入る姿が、目を引きます。写真は、6日(月)の午前11時ころの会場の様子です。私は参加できませんでしたが、5日に行われた毒ガス製造体験者の証言には、150名を超える参加者があったそうです。ぜひ読んでいただきたい本として、長く忠海病院の内科医とし毒ガス障害者治療に携わってこられた行武正刀先生編著「一人ひとりの大久野島 毒ガス島からの証言」(2012年刊)を紹介します。

このブログで全てを紹介することはできません。よく整理され、豊富な資料が展示されていますので、残りあと三日(9日正午まで)一人でも多くの人に見に来てほしいという思いを新たにした参観でした。

いのちとうとし

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2020年1月 6日 (月)

ヒロシマとベトナム(その8-2)

父を「恨んだ」おさない日々

敗戦とともに故郷に帰り、中国大陸からシベリアに抑留された兄(私の叔父)の帰郷までの4年余り農業に従事し、その後、赤木家に養子に入り姉(幼くして死亡)、私、妹をもうけました。その父が27歳(私が3歳)のとき「精神病」を患い7年間入院しました。3歳の記憶がどれほどのものか分かりませんが、畳をひっくり返し庭に投げ出している姿と、戸板(担架?)に乗せられ家を出てゆく姿をボンヤリと憶えています。

父が帰ってくるまでの7年間、母は女手一つで父の治療費を払いながら私と妹を育ててくれました。本当に苦しかったと思います。夕暮れ時、幼い私たち2人の手を引き出ようとする母の様子に、子どもながらも何とも言えない恐ろしい予感のようなものを感じながらも母に連れられ、どこをどう歩いたか覚えていませんが、いつの間にか家にたどり着いていたことが幾度かあったように記憶しています。

何事もなかったことが、今の私と妹の存在につながっています。その母は12年前に79歳で亡くなりましたが、私は今でも「母から二度、命をもらったと」思っています。

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幼い頃の私は、「こんな苦労をするのは父のせいだ」と思っていました。退院後の父は7年間を取り戻すかのように、農業の傍ら農閑期には岡山市内や神戸などへの出稼ぎを重ね必死に働いていました。それでも私は家出を繰り返すなど、父には馴染めないまま18歳まで過ごしました。

その私が少し変わり始めたのが1978年に津山電報電話局から己斐の茶臼山山頂にあった広島統制無線中継所に転勤し、全電通の運動を通して反戦平和、原水禁運動に関わりはじめてからです。戦争の要因や背景、人々の心を支配した軍国教育、軍都廣島の戦前戦中、阿鼻叫喚の被爆体験とその後の人生・・・など、被爆者の方々の話しを聞き、被爆の実相に触れる中で、父の病気を戦争や社会の問題として捉えるようになりました。

「戦後75周年」、あかたつの抱負

母から聞かされていた「(父が)夜中にうなされ、起き出して“トンツー”を打っていた」という話も、当時は気にもとめていませんでした。500キロ爆弾を抱えた足の鈍い特攻機には当初、直掩機が付き、護衛と戦果確認の役割を果たしていましたが、敗色が濃くなるにつて直掩機も付かず、多くの若者の命が無為に失われました。

そうした頃のトンツーの役割は「我レ、突入セリ」に続き、電鍵を押さえたまま敵艦に突入。「ツー」の音が消えた時が「突入」とされ、「大本営発表」の戦果が報じられていたと父から聞いたことがあります。しかし、その多くが撃墜され、また海中に墜落し途絶えた「ツー音」だったことは、いまでは誰もが知ることです。

100%生還できない特攻を「志願」させられ、奪われる自らの生命の存在を唯一伝えるトンツー。父は、トンツーが苦手だったのかもしれません。肉体も精神も厳しく過酷だった日々の記憶が父を蝕み、夜中にトンツーをうち、そして発症したのだとすると、父も戦争犠牲者です。

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その父はこの春、3月24日、故郷(岡山)の吉備高原にある施設で満92歳を迎えます。

大本営は「9機に1機の命中率」と冷徹に試算し、「大型艦に対しては致命的打撃威力を発揮できない」と特攻の戦果を査定していながら、なぜ、生還を許さない航空特攻で4,000人もの若い命を奪ったのか。なぜ人々は、これほど理不尽なことを許してしまったのか。

今年、ヒロシマは「被爆75周年」を迎えます。ベトナムは「南部解放45周年」を迎えます。あらためて、考え行動する年にしたいと思います。

(2020年1月4日、あかたつ)

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2020年1月 5日 (日)

ヒロシマとベトナム(その8-1)

「志願」した特攻兵

前回、約束した「父の戦争体験(予科練)とその後の人生、そして意外にもヒロシマとの関わり」について書きます。

父は1928年(昭和3年)3月24日、岡山県上房郡川面村高尾田(現高梁市川面町)に平亀の次男として生まれました。軍国教育一色のもとで中学を卒業した父は、小型特攻ボート「震洋」や人間魚雷「回天」など水上・水中特攻の研究とロケット推進特攻兵器「桜花」など航空特攻の研究が相次ぎ始まった翌年、1944年、16歳で予科練甲飛第14期生として松山海軍航空隊に入隊。

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当時のことを聞いた折りに「川面駅での壮行式で爺さん(平亀)が『万歳』、『万歳』しよった」という父の語り草に、決して「自ら進んで予科練に行ったのではない」という思いが込められていたように思ったものです。どのような経過で予科練を志願し、どんな思いで故郷を後にしたのか尋ねていませんが、それが可能な時間は多くはありません。

「視力が良くモールスの上手な(賢い)者は偵察員、自分は操縦員」に振り分けられ、練習機まで特攻機に出す(注1)状況で、飛行訓練もないにもかかわらず操縦員になった父は、「誰もがそうすることになっていた」ように、「『特攻に志願する者、一歩前へ』の号令で特攻兵になった。」そうです。おそらくこの時も、「(100%生還できない特攻を)自ら志願したのではない」という気持ちだったのかと思います。

(注1)終戦時の日本軍が保有していた特攻機5,350機のうち4,450機が練習機を改造した特攻機。(1996年、米戦略爆撃調査団の調査)

その後、一段と戦局の逼迫が進み「水島航空隊(現在の倉敷市にあった倉敷海軍航空隊)に移り」、終戦時には「鳥取県の山中(注2)で松根油(しょうこんゆ)を採っていた」そうです。

(注2)鳥取県八頭郡若桜町も訪ねなければならないと思っています

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これは当時の写真ですが、裏に右の書き込みがありました。「若桜町派遣隊 戦友 前列 向井、山岡、後列左 岸、平(父)、白井 各、上等飛行兵 当時」に続き、「昭和貳拾年八月六日」と撮影年月日が記されています。

広島に原爆が投下された日です。

飛行機も燃料もない敗戦間際、鳥取県の山中に派遣され、松根油採取の合間に戦友と撮ったものと思われます。おそらく、この時、広島に原爆が投下されたことは知る由もなかったと思います。

「父のヒロシマとの関わり」とは、ただこれだけですが、私の幼い頃の体験と電電公社に入社し広島転勤に伴うヒロシマとの出逢いを重ね、「父のヒロシマとの関わり」でもあると思っています。

(2020年1月4日、あかたつ)

【注】明日につづきます。

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2020年1月 4日 (土)

今日から「大久野島の歴史展」始まる

竹原市にある毒ガス島歴史研究所が主催する「大久野島の歴史展」が、今日1月4日(土)から9日(木)までの日程で、旧日本銀行広島支店で開催されます。

今日4日は、設営作業があり、午後1時開場ですが、5日以降は午前10時開場午後5時まで、ただし最終日の9日は、正午までの開催となっています。

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竹原市忠海町の沖3キロに位置する大久野島は、今では「ウサギの島」として有名になり、外国からの観光客も多いようですが、陸軍唯一の毒ガス工場があり昭和初期から戦中にかけては「地図から消された島」として、空白地域として扱われてきました。

そしてここで製造された「毒ガス」は中国大陸に送られ、当時すでに違法となっていたにもかかわらず日本軍によって使用されました。戦争終結とともに、残った毒ガスは中国国内に遺棄され、戦後生き毒ガス被害を生むことになりました。

戦後、大久野島が、国民休暇村となったことを機会に残っていた工場跡などを撤去しよとする動きがあった時、「もう一つの広島」の「負の遺産」として保存する運動がおこり、その運動を継承する組織として、今回の「大久野島歴史展」を主催する「毒ガス島歴史研究所」を設立し、今日まで歴史を継承する活動が続けられています。

広島県原水禁は、80年代の終わりから夏の原水禁大会のフィールドワークとして「大久野島を訪ねる」活動を続けています。毎年、公募とともにすぐに定数一杯となる好評の企画となっています。大久野島には、「大久野島毒ガス資料館」もあります。

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実際の展示内容は、会場に行かなければわかりませんが、写真パネルが中心の展示になると思います。展示の他にも毎日午前10時から12時まで「大久野島の歴史に関する映画」が上映されます。

また、5日(日)には、特別企画が用意されています。

午後1時30分から2時までは、「読み語り(一人ひとりの大久野島)」が、続く午後2時から3時までの1時間、大久野島毒ガス製造者の証言があります。証言者は、元毒ガス製造者・藤本安馬さんです。当然のことですが、毒ガス製造に直接かかわった体験者は、高齢化していますので、証言を聞くこともだんだんと困難になっています。今回は、貴重な機会になると思いますので、ぜひ会場に来て証言を聞いてください。

これまでのブログでは、展示会開催中の様子を報告してきましたが、今回は6日間という短期間でもあり、また主催者の山内さん夫妻からも、早くから原水禁や平和運動センターにチラシが届けられ、協力要請が来ていますので、事前の告知としました。

今日は、午前8時半から準備が始まりますので、手伝いに行こうと思っています。準備が終われば、午後1時と言わずに開場するそうです。

「歴史から学び、未来を戦争のない平和な社会に」と呼びかけている「大久野島の歴史展」に一人でも多く、出かけて下さい。

いのちとうとし

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2020年1月 3日 (金)

「ヒロシマ 空白の被爆75年」

元日に届いた中国新聞の1面トップ記事は、「ヒロシマ空白の被爆75年 消された命の証あった」でした。現在の平和公園に住んでいた住民3世帯計6人の消息が報道されています。さらに3面のトップで、その詳細が記載されています。紙面を追うと、18,19面の見開きには被爆前の本通りの町並みが、被爆前の写真を編集して再現されています。

中国新聞のこの企画「ヒロシマ 空白の被爆75年」は、昨秋から始まりましたが、少しずつ「ヒロシマの空白」が埋められています。数人の記者によって取材されていると聞いていますが、血道な努力に頭が下がります。今年も続くようですので、新たな取材に期待したいと思います。

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このブログにも書いたことですが、私自身、「1945年末までの原爆で死亡した人は、14万人±1万人」という数字にずっと疑問を持っていました。少し古い話ですが、私が国会議員になって初めて発言したのが、この死亡した人数の問題でした。衆議院の憲法調査会での5分間の発言です。1997年ころから中国新聞は、「遺影は語る」という企画記事で旧中島地区の住人、建物疎開に動員されるなどして、この地区で命を奪われた人たちの遺影と爆死状況などを調べ、詳しく報道していました。私は、憲法調査会での発言中、この中国新聞の紙面をかざして、「一地方の新聞社が、しかも数人の記者の努力によって、こんな風に亡くなった人たちを明らかにしています。もし、国が本気になって調査を行えば、±1万人などといういい加減な数字は、出てこないはずです。再び戦争をしないというのであれば、あの戦争での犠牲を国の責任で明らかにしなければならないのです。」と発言したことを今もはっきりと覚えています。

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あの時から、すでに20年近くが経とうとしていますが、やる気さえあれば今でも空白を埋めることは可能だということを中国新聞の紙面は教えてくれています。

私には、中国新聞ほど情報収集能力はありませんが、私なりの「ヒロシマ空白の被爆75年」を埋める努力を、この一年の課題として取り組んでいきたいと思っています。

原爆で亡くなった人数をはっきりできないのは、朝鮮半島出身者の情報や軍人の情報がないからだとよく聞きますが、私の空白を埋める作業は、まさにこの二つの課題を柱にすることにしています。

私がこだわりたいことは、人数の問題だけではありません。朝鮮半島出身者の犠牲が、正しく伝えられているのかという問題をどうしても調査しなければならないと思っています。その内容は追ってこのブログで紹介します。

軍人についての調査は、最近小学校の被爆問題を調べていて気になったことがあったからです。昨日国立追悼祈念館の「時を超えた兄弟の対話」に関わって、新潟の被爆者の体験記のことに触れました。その体験記の冒頭に「私たち特別警備隊約300名は、爆心地より1.1キロの幟町国民学校に駐屯していて被爆した。死者は、276名、不明分を入れると、生存者はわずか数名と思われる。学校関係者の生死については、その実数は不明である。」と書かれているのを見つけました。神崎小学校も千田小学校の被災状況報告の中にも「当時学校に軍隊が駐屯していた」ことが記載されています。「なぜ、小学校が軍隊の駐屯場所に?」「その実態は?」と、疑問が湧いてきました。

これらのことを、私の「ヒロシマの空白」を埋める作業としてトライしてみたいと思います。年の初めに考えたことです。

いのちとうとし

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2020年1月 2日 (木)

元日の平和公園

被爆75周年、新しい年が始まりました。今年初めての探訪として平和公園を訪れました。元日に平和公園を訪れたのは、初めてのことです。

午前10時頃、平和公園に着くとすでに多くの人が訪れています。年末もそうでしたが、資料館の入り口でも外国からの訪問者の姿が、目につきます。そんな様子を見ながら、慰霊碑へと進みました。下の写真は、改めて夕方撮りに行ったものです。

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思いがけない人に出会いました。若い時一緒に青年部運動などを行ってきた知人のTさんです。「おめでとうございます」のあいさつを交わしながら、話してみると「父が、被爆当時暁部隊に所属し、比治山で直接被爆した」「ちょうどトイレにいて、閃光を直接浴びることはなかったので、何とか無事だった」「その後、市内の片づけなどに従事し、9月になって除隊し、千葉に帰郷。その10月10日後に私は生まれたのです」とのこと。お父さんは、人間魚雷回天に搭乗する予定だったそうです。長い付き合いですが、初めて聞く話です。さらに知人の話にびっくり。「毎年元日に慰霊碑に参拝し、般若心経をあげている」とのこと。「それなら供養塔の方が良いのでは」と二人で、供養塔に足を運びました。

平和公園を歩きながら「父の名前は、慰霊碑の死没者名簿の中にあるだろうか」「市役所に訪ねればすぐ分かるはずだよ」の会話。それならと国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へ移動し、遺影コーナーを紹介しました。Tさんは、何度かここは訪れたことがあるようですが、このコーナーを訪れるのは初めてとのことでした。意外と知られていないのにびっくりです。「遺影を登録すれば、いつでも見れるよ」と話し、ここでTさんと別れ、私は原爆ドームへ移動。

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ここも多くの外国人が見かけます。自撮りをする何人かの外国人に、本人のスマホで写真を撮ってあげました。特に二人連れは大喜びです。

そろそろ帰ろうかなと思っている時、今日から国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の2020年度の企画展「時を超えた兄弟の対話」(昨年12月24日のブログで紹介)が、始まったことを思い出し、再び追悼平和祈念館へ移動しました。地下1階に設けられた企画展のコーナーは、立ち見者が出るほどの盛況です。撮影禁止ですので、その様子を紹介できないのが残念です。

叶館長の姿を見かけましたので、新年のあいさつ。「外国人は、30分のビデオが終わるまで本当に熱心に見ていただいています。12月30日31日は休館にしているのですが、もし開けておれば、きっと沢山の人に見ていただけたと思うのですが、休みなしは・・・」と館長の話。この企画展は、いつも盛況のようです。特に外国人にとって。

館長からも新しい話を聞くことができました。「館長、四國直登さんの日記には、市民が描いた原爆の絵で描かれているNHK前の黒焦げの親子の死体の話は出てこないのですかね。」という私の問いに思いがけない答えが返ってきました。「あの情景は出てこないのですが、新潟の被爆者の体験記に、直登さんの様子が書かれているんですよ。その体験記は、この館の資料のなかにあります。」体験記の閲覧室に展示されていました。この詳細は、改めて紹介したいと思います。

僅か2時間ほどの平和公園探訪でしたが、今年もまた新たな出会いや発見を体験するスタートになりました。

いのちとうとし

 

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2020年1月 1日 (水)

新年を迎えて

明けましておめでとうございます。旧年中は、読者の皆さん、そしてライターの皆さんのお陰で、このブログは大躍進することができました。心からお礼を申し上げます。その実績の上に、本年もさらなる発展ができるはずです。それは皆さんの力が今まで以上に大きく成長するであろうことが期待できるからです。本年もどうか宜しくお願い致します。

2020

「新・ヒロシマの心を世界に」が、これほどの変化を遂げたのは、一重に多才・多様な執筆陣のお陰です。まず、編集長のいのちとうとしさんは、量的にも最も多くの記事を書いて下さいましたが、それだけではありません。画期的な仕事を開拓して、その報告を次々と繰り出してくれています。例えば被爆建物や被爆樹木等、被爆の実相の様々な側面について、これまで私たちが「当り前」だと考えてきたこと、何となく分った積りになっていても実際には知らないことに光を当てて、何が事実なのか、知っている積りでも本当は知らないことは何なのか等をきちんと区別した上で、事実と「神話」とを峻別した上で、その意味まで説明してくれているのです。

それも、現場を訪れ、関係者のインタビューを行い、一次資料として意味のある関連文書を探し出して比較衡量した上で、現場での知識と突き合わせて「事実」の確定をしています。これはジャーナリストとしての仕事とも言えるのですが、それ以上に、社会を対象にする学問の専門家としての仕事としても、折り紙付きの方法論です。

別の言葉でそれを表現すると、被爆の実相についての様々な側面について、何が「エビデンス」なのかを確定し、被爆の全体像の中でのその意味付けまでしてくれているのです。

その他のライターの皆さんの記事も素晴らしいものばかりですが、その全てを列挙するスペースがありませんので、お二人だけ名前を挙げさせて頂くと、あかたつさんの「ヒロシマとベトナム」シリーズも力作で、とても勉強になりましたし、遊川和良さんのブルベリー農園報告も含めての安芸の郷についての写真と記事は、いつも私たちの心を癒してくれています。

と、ここまで昨年を振り返って来て、恐らくこれをお読みの皆さんの頭にも浮んだのではないかと思いますが、もっと多くの皆さんに「新・ヒロシマの心を世界に」を読んで頂きたいという思いがますます強くなりました。そのために、ブログだけではなく、写真も含めて一冊の本にまとめられないものでしょうか。これだけの優れた記録なのですから、広島県原水禁の2020年度の主要事業の一つとして取り上げる価値は十分にあると思います。

そして、このような刊行物が実現したとすると、それは、2020年度に開始すべきもう一つのプロジェクトの柱の一つにもなるのです。そのプロジェクトを、「ヒロシマの心」の恒久化と仮に呼んでおきましょう。これまでの広島県原水禁の活動は、被爆者援護と核兵器の廃絶を大きな目標として掲げてきたのですが、それは、被爆者の皆さんの存命中に実現したいという、有限の時間枠を持っていました。同時に、平和運動と呼ばれる活動の多くは、後世に対するメッセージでもあるのですから、その中には永久に伝えて行きたいメッセージも含まれています。

「永久」に力点を置いて、私たちの世代の活動実績やメッセージを後世に残すことを「恒久化」と呼ぶとすると、2020年は、恒久化の努力を意識的・意図的に始めるのに相応しい年なのではないかと考えられます。

またまた長くなりました。詳細は次回に回します。

[2020/1/1 イライザ]

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