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2019年10月17日 (木)

廣島護国神社被爆大鳥居顛末記

被爆した廣島護国神社の大鳥居をとりあげたブログで、「もう一つ調べたいことがあります。広島護国神社が、全壊した被爆後から現在地への移転までは、小祠で祭祀が続けられていたようですが、この鳥居は、どこに立っていた(保管)のかということです。」と書きました。今日は、その調査の顛末記です。といってもそれほど大げさなことではありませんが。

結論から言えば、被爆後からRCC横の現在位置に移転されるまで、被爆地で立ち続けていたということです。「ブログを見たから」ということでの情報を得ることはできませんでしたが、ここでもまた中国新聞の記事が、直ぐに回答を与えてくれました。これも大切に保存していた新聞の切り抜きです。2007年4月30日付の1面全面を使った「ヒロシマの記録―甦る『原爆十景』」という特集記事です。「原爆十景」は、1947年に広島市が選定したもので、当時の新聞には「広島市では原子爆弾による被害の特殊性、興味ある営造物を保存してその威力を後世に残し、あわせて観光客誘致の一助とする」と報じられたようです。この「原爆十景」の中には、原爆ドームは入っていません。その「原爆十景」の二番目に「護国神社鳥居上の額」が選ばれていたことを2007年の中国新聞は、下の写真(1945年10月5日林重男さん撮影)を付して紹介しています。

Photo_20191014135101

そしてこれからが本題ですが、その写真に付けた解説で「神社は広島市民球場の建設に伴い56年に広島城跡へ移転し、鳥居と額は城の東側にあたる裏門で現存している」と、56年までは被爆した場所に立っていたことが分かる記述となっています。

さらにこれを証明する写真はないだろうかと探していたら、昭和天皇が1947年12月7日に広島を訪れ時の様子を写した写真(撮影者ははっきりしない)にくっきりと「護国神社の鳥居」が映っています。中国新聞の記事によれば、旧西練兵場後の市民広場との解説があります。

Emperor_showa_visit_to_hiroshima_in_1947

その後1956年に移転されるまでの間で「護国神社の鳥居」が写った写真はないかと探してみたのですが、これ以外には見つけることができませんでした。しかし、広島市民球場建設時まであの場所に立っていた決定的写真を見つけることができました。広島市郷土資料館が2011年に発刊した「増補広島市民球場の記録」なかの写真(撮影:広島市、提供:広島市公文書館)に、市民球場の基礎工事の様子を写したものがありました。その解説には「鳥居は広島護国神社のもの」とありますので間違いありません。下の写真がそれです。

Photo_20191014135201

「護国神社の大鳥居」のことを調べるために参照したもう一冊の本が「廣島護国神社戦後復興誌」です。その中に、大鳥居が写った写真がありましたので、最後にこの一枚も掲載します。

Dsc_4320

解説に「旧社地より大鳥居移転工事」とありますので、現在地に移転建立された時の風景だと思われます。

大鳥居の顛末とは別に、いろいろ調べていると広島市民球場の建設と廣島護国神社の移転は、ほぼ同じ時期に行われていますが、そこに至る経緯をたどると大変な紆余曲折があったことが分かります。広島の戦後復興史を知ることにもつながります。機会があれば、このこともいつか紹介したいと思います。

いのちとうとし

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