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2019年10月

2019年10月31日 (木)

10月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

今年のブルーベリーの収穫は不作だった。ブルーベリー栽培に際して色々指導援助を受けた大崎上島町でも島全体が不作だと聞いた。県内のあちこちでも不作だとか。また最近、農園近くの山に仕掛けたイノシシの捕獲箱罠に取り付けたカメラにクマ写っていたたらしいとか物騒な話も耳に入る。それでも来年を期して秋の実りや野の花に励まされながらの農作業を続ける。

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1回目の富有柿の収穫。10月20日(日)。

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富有柿2回目の収穫。持ち帰って食べる。こりこりぱりぱりとおいしい。10月27日(日)。

おそくまで咲く。

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   ①10月20日(日)。ツボスミレ。

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 ②10月26日(土)。スミレ

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ブルーベリー畑で猫が草を食んでいた。カメラに気づくと用心深そうな眼を向けてきた。10月26日(土)。

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早めに咲く。10月20日(日)。サザンカの開花。

適期にきっちり実り咲く。

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 ①10月30日(水)。ムラサキシキブの実

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 ②ノコンギク1030

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 ③ススキ。わんさか、のびっとした姿で。1030

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秋剪定したブルーベリーの枝を集めて野焼きする、1022

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10月30日(水)。雑用があるので休みを取って豊栄町にいく。ついでに農園で2時間余り剪定した枝を拾う農作業を行う。今日でこの作業が終了。結局10月いっぱいかかった剪定後の枝拾い。腰をかがめて拾うので結構体力を使う。

2019年10月31日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2019年10月30日 (水)

「叫ぶ芸術」ポスター展のご案内

I女性会議(あいじょせいかいぎ)中央本部発行の「 I女のしんぶん」に掲載されている「叫ぶ芸術」ポスター展が開催されます。

Photo2

上の図が、ポスター展の案内です。クリックして見てください。拡大します。

世界の女性政策を研究している三井マリ子さんが長年にわたって収集してきたポスターは、どれも、それぞれの国で、女性解放運動や男女平等推進の広報に使われたものです。

「あらゆる労働分野に女性の進出を」「女は娼婦でも女中でもない」「女性議員を増やそう」「DVの泣き寝入りをやめよう」

ユーモアも取り入れながら訴える発信力に、胸を打たれたり、思わずクスッとしたり・・・ぜひ会場におでかけしてみてください。(無料です)

 

広島会場

★11月3日(日)~6日(水)

合人社ウェンディひと・まちプラザ 1Fロビー

(広島市中区袋町6-36)

★11月9日(土)~17日(日)

広島県男女共同参画財団エソール広島

(広島市中区大手町1-2-1 おりづるタワー10F)

福山会場

★11月23日(土・休)12時~11月24日(日)17時

リム ふくやま 4F 特設会場

(福山市西町1-1-1 エフピコRIM)

 

・主   催   I女性会議広島県本部

・問い合わせ    080-1913₋3557

 

ポスターの内容は、下記のアドレスからもご覧いただけます。

† I女性会議中央本部  † I女のしんぶん「叫ぶ芸術」joseikaigi.com/pg154.html

(Y.M)

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2019年10月29日 (火)

上関埋立て免許処分取り消し裁判が結審―裁判所周辺雑話

今日もまた裁判の傍聴記です。

昨日広島高裁で「上関埋立て免許処分取り消しを求める控訴審」の第3回公判が開かれました。今回の公判で「結審」となり、来年1月15日(水)午後3時30分から判決が示されることになりました。

この裁判は、2008年に祝島の漁業者など「埋立て免許の取り消し」を求めて訴えたものです。山口地裁での審理は10年という長い年月がかかり、ようやく今年1月23日に判決が出されましたが、「埋立て免許」の中味にはいることなく「原告としての適格がない」といわば「門前払い」という判決内容でした。その後、原告が控訴し広島高裁での審理が始まり、昨日の終結となったのです。

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「上関埋立て問題」については、このブログでも何度かとりあげてきましたので、改めてその詳細について触れることはしませんが、ただこのことだけ指摘しておきたいと思います。中国電力が、山口県に「埋め立て工事期間の延長許可」を求めたの、2回目であるにもかかわらず、今年7月26日、山口県はまたしても「原発本体工事の着工時期の見通しが立つまでは埋め立てに着手しない」ことを条件として「延長許可」が出したということです。そもそも「公有水面埋立法」は、第13条で「埋立ノ免許ヲ受ケタル者ハ埋立ニ関スル工事ノ著手及工事ノ竣功ヲ都道府県知事ノ指定スル期間内ニ為スヘシ」としているのですから、「工事の着工時期の見通しが立たない」ものに対し、「埋立許可」を出すことは認めていないのです。中国電力が、どうしても「埋めた許可申請」をしたいのであれば、「着工時期がはっきりした」と記に改めて行えばよいことですし、山口県もその時期まで許可すべきではありません。このことひとつとっても「処分が取り消される」ことは当然のはずです。しかし今の司法は?

これからは、裁判所周辺雑記です。弁護士会館での「報告会」終了後、二つの被爆物をたずねました。

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一つは、前々から教えられていながらきちんと見ていなかった裁判所敷地(北端)内にある被爆樹木・クスノキです。このクスノキは、盛土の上にあります。戦前この場所には、弾薬庫があり、それを囲う土手だったともいわれているようです。爆心地からの距離は、1,120mです。広島市のホームページによれば、「被爆の影響を感じさせないほどに枝葉を茂らせていますが、幹は爆心地方向に傾き、被爆の影響を残しています。」とのことですが、私は近づくことができず幹の傾きは確認できませんでした。敷地内では許可なく写真撮影ができませんので、道路に出たところから「パチリ」。

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もう一つは、護国神社の被爆大鳥居です。このブログにも書きましたが、その時の写真には「額」が写っていません。修理中でした。昨日気づいたのですが、額が戻っています。しかし、よく見るとどうも真新しいもののように見えます。護国神社の社務所を訪ねて、聞きました。「被爆当時の額が老朽化し、落下などの危険があるため、数年前に新しく作り替えました。最近不具合が見つかり、修理していたのですが終わったので一月ほど前に取り付けました」と教えていただきました。境内には狛犬などがありますが、大鳥居に関しては、被爆当時のものは鳥居だけになったようです。「被爆時の額は何処にありますか」と尋ねたら「?  調べておきます」とのことでした。

いのちとうとし

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2019年10月28日 (月)

岩国爆音訴訟高裁判決を傍聴して

マスコミでも大きく報道されているように、25日に広島高等裁判所(森一岳裁判長)は、岩国爆音訴訟の控訴審判決を出しました。私も支援者の一人として、法廷での傍聴、そして報告会に参加しました。そこで私が感じたことを報告したいと思います。

この判決は、岩国基地を離発着する軍用機がもたらす爆音被害が、受任の限度を超えた深刻なものであるとして違法性を認め、過去分の損害賠償を認める判断を示しましたが、原告住民がもっと求めていた「米軍機の夜間・早朝の飛行差し止め」は認めませんでした。

その理由は、他の基地爆音訴訟と同じ「第三者行為論」(米軍は日本政府の直接の指揮命令から外れた「第3者」であるから,日本政府に対して差止を求めることはできないという理屈)によって退けました。このことをまず考えてみたいと思います。

弁護団の主張(裁判後の声明文から)は、「日本政府が米国と合意(ここでは、空母艦載機部隊の移駐のことを中心に:カッコ内は筆者注)しなければ事実上実施することができないことである。被告国は日米安保条約をいつでも一方的に破棄しうることからすれば、『第三者行為論』により、国の責任が免責されることは論理的に成り立たない」です。

基本的には、私も弁護団の「国の責任は免れない」との主張を支持しています。そのことを前提としつつも次の疑問がわきます。裁判所は「爆音被害の違法性」を認めたのなら、なぜ国に対し「騒音を除去するために米国にその措置を要請する努力をすべきだ」ということが言えないのかということです。ただ損害賠償をすればよいではないはずです。その原因の根源を断つための努力を国に求めるのが裁判所の役割のはずです。

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次の疑問は、「過去の被害への損害賠償」は認められましたが、現在の、そして将来の被害に対しては、認めなかったことです。騒音の根源が立たれない限り、今もそしてこれから先も騒音は続き、被害を受け続けることになるのは自明のことです。そうであれば、国が「○○の措置を行うまでは」など、条件を付けたとしても「将来にわたって続く被害」に対しても損害賠償を国に命ずるべきだと思います。このことは、原告団長の津田利明さんも厳しく指摘されていることです。

報告会後、弁護士にその点をたずねると「損害賠償を得るためには、ふたたび裁判を起こすしかない」ということでした。今回の裁判でも提訴(2009年3月)以来10年を超えて、ようやく高裁の結論が出ました。上告すれば確定までさらに時間がかかります。今回の裁判でも、この判決を待たずに亡くなった人たちも少なくありません。

そこで考えなければならないのは、国の責任です。爆音被害の根源を断つために安全保障条約の解消を進めるしかないのですが、そのことができないのであれば、既に全国各地の爆音被害に対しては国の賠償責任が明確なっているのですから、立法措置などを行いその被害に対し国が補償するシステムを講じるべきです。もちろん、当然のことですが賠償さえすればよいということではありません。

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もう一つは、厚木からの空母艦載機移駐後飛躍的に増大している爆音被害に対し、その事実を認めつつ、「充分な証拠がまだ提出されていない」からと判断しなかったことです。艦載機移駐による爆音被害は、岩国のみならず周辺地域にも拡大しています。神奈川から駆けつけた「全国基地爆音訴訟原告団連絡会議」代表の金子豊貴男相模原市議の「今後周辺自治体にも原告を広げるなどの戦略も考える必要がある」という指摘を真剣に検討する必要があると思います。

原告の皆さんの願いは「静かな暮らし、静かな夜を取り戻す」という当たり前の要求であり、「子や孫に対して安心して暮らせる岩国の街を引き継ぐこと」という強い思いです。

今回の判決を契機に改めてそのことを確認することが大切だと感じました。

いのちとうとし

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2019年10月27日 (日)

重慶の日

昨日、重慶の日実行委員会が主催する「重慶の日」の行事が、広島市留学生会館(東区荒神町)で開催されました。今年で19回目ということだそうですが、私は初めて参加しました。会場では、重慶市や中国を紹介するパネルの展示、中国切り絵のコーナー、中国茶の体験などの様々な企画が準備されていました。

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私が会場に到着した時には、ステージで日中友好協会広島支部のみなさんによる太極拳が披露されていました。

その後、重慶市がある中国四川省に伝わる伝統演劇・川劇「変面」が、同コンテストで一等賞を獲得したことのある「変面」継承者の江玉(こう ぎょく)さんによって演じられました。この「変面」の技は、男性のみに継承されていたそうですが、2000年代に入り、女性にも許されるようになったそうです。江さんは、現在神戸の大学に留学中で、日本各地で「変面」の出演をつうじて、日中友好の懸け橋となるよう活動を続けているということでした。

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「変面」は、文字通り踊りながら顔に被った面を次々と早変わりで変えていく演技です。数えることはできませんでしたが、10回ぐらいの早変わりがあったと思います。その速さにはただただ驚くばかりでした。パンダを模した面もあるなど伝統的なものと現代のものが織り交ぜられていました。

スケジュールの最後は、パンダの絵などの景品がそろった抽選会がありましたが、残念ながら当たりませんでした。

広島市と重慶市は、1986年(昭和61年)10月23日に姉妹都市提携協定を調印し、その後の交流が続いているようですが、「重慶の日」の行事は、その一環として取り組まれているようです。

私が参加しようと思ったのは、以前から重慶には関心を持っていたからです。これまでに中国を10回以上訪問していますが、重慶は一度も訪れたいことがありません。重慶を訪れたいと思っていた最大の理由は、日中戦争で日本軍によって「そこの住む市民を目標に設定して『士気の征服』をめざす無差別爆撃」が3年間で200回以上も続いた地ですので、その被害の実相を現地で知りたかったからです。

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日本軍による「重慶爆撃」は、東京空襲に先立つ無差別都市爆撃の先例でもあり、その意味では、市民への無差別の最たるものといえる「広島への原爆投下」につながるものがあると言えます。

無差別攻撃を受けた重慶市民の被害がどうであったのか、自分の目で確かめたいという思いは、今も私の中にあります。

「重慶の日」の行事に参加してみようと出かけて行ったのも、そんな思いがあったからです。しかしちょっと残念だったのは、「重慶爆撃」についての展示などを目にすることはなかったことです(私が見逃しただけかもしれませんが)。私の知る限りではっきりとそのことに触れたのは「変面」を披露した江玉さんが、演舞のあとに行った「重慶を紹介するパワーポイント」の一枚でした。

もちろん近代的に変身する重慶の街を知ることも大切ですが、広島と重慶を結ぶものは戦争によって多くの市民が犠牲になったという事実だということも決して忘れてはならないように思います。

そんな思いを新たにした「重慶の日」でした。

いのちとうとし

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2019年10月26日 (土)

22分の5

22分の5、この分数の意味は分からないと思います。パーセントで表現すれば約23パーセントです。

 答えは、島根原発で事故が起こり、原発から30㌔圏内の人が広島県に避難する時、広島県内22の自治体が避難者を受け入れることになっていますが、その避難所の運営に関するマニュアルを策定している自治体の数です。

 広島県のことに詳しい人なら、県内には23の市町があると言われると思いますが、豊田郡大崎上島町は橋でつながっていないので、避難先自治体には指定されていません。

 原発事故時の避難計画について、法律によって自治体が行うようになっています。これは責任逃れだと思います。原子力規制委員会も、再稼働などを審査するとき規制基準に適合しているかどうかを審査するだけで、その原発近くの住民の避難計画までを審査しません。

 避難計画が決まらなくても、審査は合格となるのです。規制委員会の合格後、避難計画が定まっていないといことで再稼働が出来ない場合、それにイエス・ノーの判断は原発のある自治体、具体的にはその原発の在る都道府県知事になります。都・府といっても東京にも大阪にも京都にも原発はありませんから、道県の知事が決めることになります。

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 中国電力の島根原発は、日本で唯一の「県間防災協定」というのを締結しています。島根原発からの30㌔圏内避難者は広島県と岡山県へ、そして30㌔圏内でも鳥取県の境港・米子市の住民は鳥取県の東部に避難すると決められています。

 この県間防災協定というのは例えば出雲市の場合、出雲市~島根県~広島県~そして避難先である広島市というようにと、ややこしく行政組織が絡んでくるのです。行政をいうのはどうしても横のつながりが薄いので、意思の疎通がしっかりできていないとトラブルの原因になるのです。ましてや原発事故の場合、避難は多くの問題が発生すると考えられます。

 昨年の防災訓練が終わった後の今年1月、広島県庁内で「原子力災害時における広域避難受入れに関する担当者説明会」というのが開催されました。この会合の中で「避難所のマニュアル等の作成に関し、広島県は期限を設けて管理しないのか」という質問が避難先自治体から出され、広島県は「作成期限を設けるものではないが、早期に作成をお願いしたい」と答えているのです。

 この会議に基づいて、県内の5つの自治体がマニュアルを作成したというのが、22分の5という意味だったのです。5つの自治体の具体名について、広島県の担当者は「自治体側の了解が得られていないので」という理由で明らかにしませんでした。

 広島市は策定しているだろうと、どうにかして「広域避難受入計画」というのを入手しました。元々は2013年に策定されたものですが、今年3月に一部改正となっています。去年の防災訓練終了後にマニュアルを作るように言われて作ったのでしょうね。

 ざっと目を通してみましたが、ほとんどが土砂災害などの自然災害の避難計画で原発事故を想定した中味の部分は、出雲市の人たちを受け入れると記してあるだけでした。

 土砂災害などの自然災害と一緒に考えて良いのでしょうかね。

木原省治

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2019年10月25日 (金)

広島県平和運動センター第25回定期総会を開催

昨日午後6時から自治労会館で「広島県平和運動センター第25回定期総会」が開催されました。私も広島県原水禁を代表して来賓として参加しました。

門田副議長の司会で始まった総会は、議長に自治労の宮下さん、シンコー労組の中野さんが選出されました。続いて佐古議長のあいさつ。佐古さんは、昨年、今年と続く自然災害での被災者へのお見舞いの言葉を述べながら、7月の参議院選挙結果に触れながら安倍改憲阻止へ向けて最大の力を発揮しよう呼びかけ、さらに最近の日韓関係に触れながら、特に平和運動センターがこの一年間力を注いできた「朝鮮学校の高校無償化排除、幼稚園の無償化からの排除」を許さない闘い支援してきたことに触れながら、子どもの権利の保障の闘いへの引き続いての支援を訴えました。また、福島原発事故後の反省もないままに原発再稼働を進める政策への批判を行うとともに今起きている関西電力の原発マネー問題に触れ、「その一部でも被害者のために還元されれば、少しでの救われる」と指摘、「原子力基本法の成立」を求めました。最後に「72%の民意が示されたにもかかわらず工事を推進する」沖縄辺野古問題をとりあげ、平和フォーラムとともに闘う決意を表明し、あいさつを終えました。

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その後連合広間広島、広島県原水禁、広島県被団協、部落解放同盟県連合会のそれぞれの代表があいさつ、そして朝鮮総連委員長の紹介で来賓あいさつは終わりました。私はここで退場しましたので、以後の討論の模様を書くことはできませんので、総会で採択された「総会宣言」の全文を掲載し、総会の報告にします。

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総 会 宣 言

広島県平和運動センターは、本日、第25回定期総会を開催し、反戦・平和、脱原発、人権擁護を掲げ、平和憲法を守り、日米軍事同盟強化による基地の強化に反対し、平和と民主主義を守る運動の先頭に立って闘うことを確認した。

自民党の改憲案で明らかになっていることは、「国家に個人を従わせる」権力者のための改憲であり、安倍首相は改憲に向け着々と悪法を強行採決してきた。加えて、地方自治を否定し民意を無視した沖縄の辺野古への新基地建設の強行、まっとうな労働組合活動を行ってきた関西生コン労組への弾圧、安全より利権まみれの原発再稼働の強行、災害復旧より防衛費増強、朝鮮学校の高校無償化排除に加えて幼稚園の無償化からの排除という差別と分断による対立をあおる政治の横行である。

外交においても、東アジアにおける緊張の増幅政治も無視できない。私たちは、日韓対立をあおる安倍政権閣僚の発言や、政権に忖度するマスコミ報道に踊らされてはならない。日韓対立が深まり、韓国からの観光客の激減により観光経済に大きな打撃を与えている。極右政権である安倍政権は、過去の植民地支配と侵略の反省なき政権であり、徴用工問題への日本政府の介入は、3権分立の否定と植民地支配という歴史の否定に他ならない。今こそ私たちは、過去の歴史を学び、正しい判断力を身に着け、再び自由と民主主義を弾圧した国家統制と、その先にある「戦争のできる国」にしてはならない。

7月に行われた第25回参議院議員選挙において、広島選挙区では自民党の2議席独占を阻み、全国だ改憲勢力の3分の2の議席を割り込む結果を生んだことで、安倍首相のねらう改憲発議のスピードを遅らせることができた。しかし、安倍首相はなお改憲に執着していることから、平和フォーラムに結集し、総がかり行動として積み上げてきた、「安倍9条改憲を許さず、憲法を生かす広範な運動」を展開していかなくてはならない。そのために、学び・結集し「いのちと人権・平和」を守る運動を推進することを宣言する。

2019年10月24日

広島県平和運動センター第25回定期総会

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いのちとうとし

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2019年10月24日 (木)

子どもの権利条約」30年

10月17日,文部科学省が2018年度の「問題行動・不登校調査」を公表しました。いじめの認知件数は約54万件で前年度から31.3%増え,いじめが確認された学校は全体の80%に上りました。心身に深刻な被害が生じるなどの「重大事態」も602件と過去最多となっています。

広島県内のいじめ認知件数は,前年度より70%近く増え,7,435件(小学校5,127件,中学校1,875件,高校410件,特別支援学校23件)で,過去最多を更新しました。発覚のきっかけは,被害児童・生徒や保護者からの訴えを含む「情報提供」が4,208件(56.6%),教職員による発見は43.4%で全国平均66.2%を大幅に下回っています。なぜ,教職員による発見の方が少なくなっているのかをしっかり分析していく必要があります。

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自殺した小・中・高校生は332人(小学生5人,中学生100人,高校生227人)に上り,3年連続で増加しています。国内の自殺者数が9年連続で減少する中,子どもの自殺は増加傾向にあります。不登校も,小中学生約16万人(前年度より約2万人増),高校生約5万人(前年度より約3千人増)と増加傾向にあります。

これらの背景の一つには学校に広がる「管理強化」による閉塞感があると指摘されています。子どもを全体主義で管理するために,校則や規律を細かく決め,それに黙って従う子どもを「良」とするなど,ゼロトレランスの考え方に基づく指導が蔓延るようになりました。例えば,「黙働流汗清掃」「給食の黙食」「細かな挨拶のルール」等々,軍隊に似た光景が珍しくなくなりました。また,小学校道徳では,とりわけ低学年を中心にマナー講座のような内容を教え込むようになっています。これだけでも,息苦しさを感じますし,自殺も不登校も学校に通うことが苦しいと感じている子どもたちのSOSに他なりません。

今年は,国連で「子どもの権利条約」が採択されて30年になります。日本がこの条約を批准したのは,世界で158番目であったことからも分かるように,当初から積極的ではありませんでしたし,この条約の理念が日本社会に根付いているかと言えば,そんな状況にはありません。

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今年の2月,国連「子どもの権利委員会」は,日本政府に対して,「過度な競争的システムを含むストレスの多い学校環境から子どもを解放するための措置を強化すること」「朝鮮学校への授業料無償化制度の適用を促進するために基準を見直すこと」などを勧告しました。また,子どもへの虐待などの暴力が高い頻度で報告されていることに懸念を示し,対策強化を求めています。日本は,「委員会による審査」という仕組みも含めて条約を批准しており,その審査の結果を誠実に受けとめ,対応していく必要があるはずです。

私たちおとなは,子どもを「権利行使の主体」として,「子どもの最善の利益を一番に考える」という条約の理念をしっかり胸に刻まなければなりません。特に,新自由主義と国家主義に飲み込まれている学校教育の姿を,そうした視点で問い直していくことが,教職員の責務であることを確認し合いたいと思います。

(西迫 利孝)

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2019年10月23日 (水)

なぜ、10月22日は「お休み」なのですか?

天皇の「即位礼正殿の儀」が行われた昨日、日本基督教団広島流川教会でその意味を問いかける「10・22『即位礼正殿の儀』を問う広島集会」が開催されました。主催は、同集会実行委員会、そして共催は日本基督教教団西中国教区広島西分区/広島市キリスト教会連盟です。30年前、昭和天皇からの代替わりの時には、多くの団体がそして地域で「天皇制を考える」集会や学習会が開催されましたが、今回は本当に少なくなった中で開催された貴重な集会でしたので、私も参加しました。会場、共催者の名前を見ればすぐにわかるようにキリスト教関係者が多く参加していましたが、もちろん呼びかけに応えた市民の姿も多く見ることができました。73年前のあの日被爆した十字架の下で戦後の民主主義、とりわけ国民主権のあり方を一緒に考えました。

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問題提起者は、二人。足立修一弁護士の演題は「思想・信条・信教の自由と即位礼、大嘗祭の違憲性」。もう一人は、「即位の礼・大嘗祭等違憲差止等請求事件原告」の古郝(こかく)荘八さんで、演題は「キリスト者の立場から・・・日韓関係と即位礼・大嘗祭」。古郝さんは、日本基督教団の牧師でもあります。足立さんの指摘で興味深かったのは、「天皇の退位メッセージから始まった、今回の代替わりは、憲法が予測しなかった事態(憲法第2条が示す皇室典範の4条は『天皇が崩じた時は、皇嗣が、直ちに即位する』と生前退位を予定していない)で、明らかな憲法違反だ」ということです。そして古郝さんも強調されたことですが、「代替わりの諸儀式は宗教性があり、国民主権原理の反する」という指摘です。それと同時に、「日本国憲法の思想両親の自由、信教の自由」にも反することであり、「一連の即位の行事は違憲と評価すべきである」とまとめられました。古郝さんは、同様の考え方を示しながら「前回の代替わりに比較し、今回の代替わりに対し反対の声が大きくなっていない」ことを本島長崎市長の「昭和天皇に戦争責任がある」の発言に端を発した当時の状況を投じ長崎に住んでいて経験したことを交えながら、話されました。

集会に参加しながらの私の感想です。テレビに流れ続ける天皇賛美の画面を観ながら、日本国憲法とのかかわりとともに、平成天皇の退位メッセージ後から始まった安倍政権のすさまじいまでの政治利用をこそ問わなければならないということです。まさに「なぜ、10月22日は『お休み』なのですか?」です。安倍首相は、本来「生前退位」には反対であったにもかかわらず、その流れが決まるや今度は徹底して政治利用に走り、本来やるべき皇室典範の徹底的な見直しを進めるのではなく、今度は10月22日を「祝日」に制定し、昭和から平成への代替わりにはなかった、主権者たる国民に「祝意の強要」を推し進めてきたのです。一連の即位の行事が違憲であることを指摘するとともに、この安倍政権による露骨な天皇の政治利用をも厳しく指摘されなければならないと思います。

いのちとうとし

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2019年10月22日 (火)

平和フォーラム第2回ピーススクール

 平和フォーラムが主催する第2回ピースフォーラムが、10月19日から21日までの3日間の日程で開催されました。私も、2日目に開催された講座Ⅳ「原水禁運動」の講師として参加しました。

ピーススクールを開催する意義について、平和フォーラム藤本泰成共同代表は当日配布された資料の「開講にあたった」で次のように述べています。「(前略)このような状況下、平和フォーラムがこれまで担ってきた、たたかいはまさに正念場を迎えています。平和フォーラムの役割は、さらに重要になり、その組織の強化は、中央団体、地方組織の組織強化と同様、喫緊の課題となってきました。中でも、平和運動を担う若い世代に対して、様々な課題を丁寧に伝えための取り組み、そして伝える場の保障が課題となっていました。そこでこのような課題に答えるため、平和フォーラムは、将来的な組織強化を見据え、2018年より『平和フォーラムピーススクールを』を開催しています。参加者のみなさんは、平和運動や原水禁運動、人権課題等の置かれている現状や課題を学び、同年代の仲間と共有し、交流を通して、今後、それぞれの職場や地域での活動にぜひ活かしていただければと期待するものです。」この実践に学びたいと思います。

今回講師に呼ばれて初めて、昨年から始まっていたことを知りました。若い人たちの育成、運動の継承の必要性は、いつも言われていることですが、なかなか具体化されずに来ていましたが、本格的な取り組みが開始されたことを非常に心強く感じました。

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全体の日程、中味など知らないままの参加でしたが、会場に着いてびっくりしました。一つは、2泊3日の日程になっていたことです。1日目(19日)の午後1時からの開講式からスタートする日程は、1日目は午後7時まで、2日目も午前8時30分から午後7時まで日程がびっしり。午後7時からは2時間の交流会。3日目も午前8時30分からスタートし午後1時にすべての日程が終了します。しかもこの間に9つの講座。その間に外に出ての行動もあります。1日目の午後3時からは、国会議員会館前で実施された「19行動」への参加、2日目の午前11時からは、フィールドワーク「靖国神社」も組み込まれていました。このフィールドワーク前には、第3講座として一橋大学のキム・ユビさんの「歴史の中の靖国神社―戦争に動員された民衆の観点から見る」が準備されています。よく頑張るなというのが実感です。

二つ目は、参加者の顔ぶれです。中央産別からの参加もありますが、各県組織からの参加者も多く、全体で31人の参加者です。女性の参加者は5人です。中国地方からの参加は、島根県だけでした。

こんな厳しい日程では、今の若い人の参加は難しいのかなと、勝手に想像しがちですが、全員が熱心に受講しているのが印象的でした。私もその夜の交流会に参加しましたが、「原水禁の福島大会への参加者が年々減っているのですが、どうすればよいと思われますか」「うちの組合ばかりがんばっているように思っていたのですが、ここに来てみんながんばっていることを知りました」など、答えるのが難しい質問もありましたが、何かをしようとする積極的な意見や感想が聞けたり、他県や他労組の取り組みを知りたいという思いが伝わり、交流の大切さということを実感させられるとともに、合宿で行うピーススクールの良さを思い起こさせられたピーススクールへの参加でした。

いのととうとし

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2019年10月21日 (月)

防衛省を防災省に (1) ――自然災害の激甚化に備えるために――

台風15号と19号による甚大な被害について、改めてお浚いする必要はないと思いますが、そのちょっと前の8月末には九州北部を襲った豪雨被害がありました。このような大規模災害に目を奪われて、ややもすると昨年の西日本豪雨の被害が遠いものに感じられてしまうのは、私たちの記憶のメカニズムに依るものなのか、情報操作の結果なのか、その両方なのかは良く分りません。しかし、戦争による被害、特に原爆の被害を記憶し続け同じ悲劇を繰り返さないように努力するのと同じように、自然災害についての記憶も大切ですし、その結果生じた悲劇を繰り返さないよう努力をすることも最重要であることを肝に銘じる必要があります。

この点については、昨年、ほぼ一か月にわたって提言をしたのですが、台風15号、19号の被害を記憶している人がまだ多い間に再度、問題提起をしておきたいと思います。まずは、昨年の7月14日にアップしたブログの記事を再掲します。長くなりますが、その後の提言の内容も順次アップして皆さんに再度お読み頂ければと思います。

**************************************

以下、2018年7月14日アップの記事です

自衛隊を災害救助隊に

――豪雨災害からの教訓 (5)――

 昨日の「大雨災害からの教訓(4)」への「後期高齢者」さんからのコメントでも鋭い指摘がありましたが、これほど多くの災害を経験していながら、未だにほとんど「学習」のできていない政治家や官僚、そしてそれを許している私たち主権者・市民がもう一度原点に戻って災害について考え直す時が来ているのではないでしょうか。

一つには私たちが、考え方の枠組みを大幅に変える (パラダイムの転換とも言います) 必要があり、新たな枠組みの中で自然に見えてくる問題点そして未来図を元に、大胆な発想で改革案を考え実行して行かなくてはならない、ということです。

新たなパラダイムの柱になるのは、災害が「たまに」「降り掛かって来る」「稀な出来事」ではなく、日本社会では日常的に起こる出来事だと捉えて対策を講じることです。確かに、大変な被害があるのですから、「非常事態」とか「異常事態」だと捉えるのは自然なことではあるのですが、「非常」とか「異常」という言葉が示しているのは、被害の範囲や規模が日常的ではないという意味だけではありません。それと同時に、こうした災害の起ることは例外的であり、日常的な対策とは別の、「例外的」なかつ、その事態が起きてから対応すれば良い事例なのだ、というメッセージも発しています。

 

そんな発想を転換するための第一の確認事項・提案です。

 1.大災害は、例外的な出来事ではなく、日常的、定常的な出来事として捉えること。

ちなみに、今年2018年に起きた災害で記憶しているものを並べてみると、(i) 1月23日の草津白根山の噴火、(ii) 死者の出た2月の北陸豪雪をはじめとする各地での豪雪、(iii) 3月と5月の霧島山新燃岳と桜島の噴火 (iv) 6月18日、死者4名、損壊家屋は3万戸近くになった大阪北部地震、(v) そして死者は200名を超えるであろう、7月の西日本豪雨と、半年ちょっとで大きな災害が目白押しです。

2018

それぞれ地域も違いますので、ある地域を取れば、数十年に一度の災害ということになるのかもしれません。実際の頻度はもっと高いという事実にも目を向けて下さい。広島地域を考えただけでも、例外的な豪雨災害は1999年、2014年そして今年と、6年に一度くらいの間隔で襲来していますし、地震や台風の被害も勿論ありました。しかし、議論を簡単にするため、仮に、数十年に一度だという前提を付けてみましょう。

となると、それと比較可能なのは、国体です。各都道府県を巡って開催する国体の一地方の開催頻度は47年間に一度です。でも、国体を「例外的」「異常」な出来事と捉えていたのでは、国体の開催などできなくなってしまいます。スケジュール通りに必ずどこかの地方で開かれる。という前提で国が方針を立て、予算を取り、必要な協力は地方にも民間にも求めて、初めて可能になっているのです。災害対策との共通点に気付いて頂けたでしょうか。

それに比べて、今年の災害だけを見ても、国体の5倍の頻度で起きています。一年を通すと、恐らく月に一度はどこかで甚大な被害が生じていることになるのではないでしょうか。その対策を国家単位で、しかも災害専門のお役所が専門家を揃え、さらに災害復旧・復興のための実働部隊が全国展開できるような組織があって初めて、災害に対する対策の出発点に立つことができるのではないでしょうか。

ですから、私の提言の一番大切な、そして多くの皆さんの賛同が必要なことは、

 

 2.自衛隊を災害救助隊 (名称はもっと魅力的かつ本質を表すものにしたいと思います) に改組する。

これからが大切な議論になりますので、皆さん是非参加して頂きたいのですが、まずは中心的な命題だけお知らせしました。明日以降、何故このアイデアが実現すれば、日本を救い核兵器の廃絶や世界の平和につながるのかを説明したいと思います。

[2019/10/21 イライザ]

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2019年10月20日 (日)

中国人強制連行・西松安野和解10周年記念集会

広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会が主催する「中国人強制連行・西松安野和解10周年記念集会―改めて歴史問題の和解を考える―」が、昨日午後2時から広島弁護士会館で開催されました。今年の追悼行事には、中国から強制連行被害者の遺族二人が、来広しこの集会にも参加しました。

1993年8月に強制連行被害生存者2人が帰国後初めて来日し、西松建設に対し、三項目の要求(謝罪、記念館・祈念碑建設、補償)を提出して以降、補償交渉が続けられましたが、前進を見ることができず、1998年1月に原告5人が広島地裁に提訴し、長い闘いが続きましたが、2009年10月23日、西松建設との間で、安野発電所に強制連行された360人との間で和解が成立しました。今年は、和解が成立して10周年に当たります。1993年当時のことを振り返ると、来日したお二人は、強制連行被害者であるとともに、被爆者でもあり、原水禁世界大会の参加者でした。来日者の一人であった呂学文さんが「私たちにとって、原爆にあい被爆したことも重要だが、強制労働によって人間の尊厳を奪われてしまいました。私は、人間の尊厳を取り戻したいのです」と言われ、大会終了後安野の現地を訪れ、そして西松建設への要求を出すため広島支店(広島市役所の国道2号線を挟んだ南側)を訪れられた姿を忘れることができません。

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昨日の「10周年記念集会」は最初に、和解交渉を担当され和解成立後、西松安野友好基金運営委員会委員長を務められた弁護士の内田正敏さんによる「歴史問題の解決は和解こそ望ましい」と題しての講演がありました。内田さんは「和解の遂行をとおして、中身を深めることができる。交流が深まる。被害者の声に接する、事実を知ることによって、どうすればよいのかを考えることが大事。そして加害者の慎みと節度が必要だ」とこの10年間で学んだことの報告がありました。現在問題となっている韓国人強制連行問題を考えるうえでも示唆となる報告でした。

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続いて継承する会の川原洋子事務局長が、和解以降の取り組みを写真で報告。特に和解から1年後の2010年10月に安野発電所を望む高台に建立した「安野中国人受難の碑」が果たした役割、その年から始まった生存者・家族・遺族の来日による成果が報告されました。

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続いて今回来日された遺族お二人・許立成さん、肖翠青さんが、川原さんのインタビューに答える形で、思いを話されました。許さんは「父は、安野での強制労働によって足を痛め、最終的には足を切ったこと。そのために本当に苦しい生活を余儀なくされたこと。和解後に行われて調査活動によってはじめて、この事実を知った。こんなことがるのかと思い、事実を知った時には、本当にうれしかった」と話されました。肖さんは、「祖父が日本語を知っているということで、周囲から厳しい目で見られ、父は学校にも行けず、大変な苦労をしたことが話されました。2009年の和解で、父の心の中に積もった石がやっとおり、やっと解放されたと思う。今回は、おじいさんがかつて歩いた道を歩いてみたいと思って来日した」と話されました。

休憩後、外村大東京大学大学院教授の「戦後日本の変容と『歴史問題の和解』の課題」と題しての講演があり、足立修一弁護士の主催者あいさつで記念集会は、終わりました。100人ほど入れる会場は一杯、そして特に若い人たちの姿が目立ったのが印象に残る集会でした。

今日は、安芸太田町安野の「安野中国人受難の碑」前で追悼式が行われます。私は、上京中のため、残念ながら今年は参加できなせん。

いのちとうとし

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2019年10月19日 (土)

「UFOライン」を走る

フライフィッシング後の宿泊先は、直ぐ近くの「木の香温泉」の宿です。足をほぐしながらゆっくりと湯につかり、一日の疲れをいやしました。翌朝も、素晴らしい秋晴れです。

二日目は、私の希望で愛媛県と高知県の県境に連なる峰々を結ぶ町道瓶ケ森線「UFOライン」のドライブを楽しみました。この「UFOライン」は、ある自動車メーカーのコマーシャル映像に登場して以来、一躍有名になり多くの観光客が訪れるようになったそうです。私たちがドライブをした日も平日でしたが、多くの車が訪れていました。宿(標高670m)から国道194号線を少し愛媛・西条方面に戻り、右折し急なS字カーブが連続する旧道を10kmほど走るといよいよUFOラインへ入ります。左側に絶壁の谷底が続く道を走り始めると次々の美しい景色が目に入ります。

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眼前に少し雲が見えますので、前日中野倶楽部で「今日は、霧で全然見えなかったようですよ」と話を聞いていましたので、ちょっと霧が心配になりました。しかし、

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直ぐに、左手に高知県の山々が遠くまで見たわせる場所に出てきます。太平洋方面を望んでいます。

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少し走り続けると、コマーシャルに登場した景色が、綺麗な姿で目に入ります。

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この坂道を登り切ると眼前に西日本最高峰の石鎚山が目に飛び込んできます。

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山々の木々は、少し色づいていますが、紅葉にはもう少し時間がかかりそうです。

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右手に「吉野川源流の碑」が見えます。昨日釣りをした中野川渓谷の隣の流れる白猪谷(しらいだに)渓谷が吉野川の源流のようです。標高1500mです。さらに進むとこのラインの最高点に達し少し下ったところにキャンプ場があります。この駐車場は、標高1670mですので宿からは、1000m上ったことになります。ここで車を駐車場に止め少し歩くことにしました。

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歩き始めて10分もすると「氷見二千石原」という見晴らしの良い場所に出ました。左手に目を向けると雲海の中に浮かぶ石鎚山(1982m)が、すぐそばに見えます。朝の早い時間は、雲海がもっと素晴らしかったとのことでしたが、この時間(10時半頃)でも充分の楽しめる景色でした。ここからの眺めは最高でした。

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後ろを振り返ると、この道路の名前の由来ともなっている「瓶ケ森」(かめがもり:1896m)の低い方の峰・男山の姿を見ることができます。

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駐車場への帰り道、足元をよく見ると綺麗に咲いたリンドウの花を何株も目にすることができます。

この先を少し走ると通行止めになると聞いていましたので、再びきれいな景色を眺め、そして対向車に気を付けて、引き返すことにしました。絶好の天気となり、景色を堪能することができました。

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余談を一つ。山を下り、愛媛県西条市小松で郵便局によると、近くからお囃子の笛の音が聞こえてきました。この日から小松地区のお祭りということで、山車が待機しています。この地域の秋祭りでは、お神輿とともに各町内から出る15台の「山車」が練り歩くということです。旧西条地区では、60台余りもの山車が出るとのことでした。

そんな「秋まつり」の話を聞いた後、しまなみ海道を走り広島への道を急ぎました。

いのちとうとし

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2019年10月18日 (金)

高知県中野川フライフィッシング同行記

友人のフライフィッシングに同行し、高知県吾川郡いの町本川を流れる中野川の毛ばり釣り占用区域に行ってきました。中野川は高知県にありますが、吉野川の支流で、その源流域にある川です。広島県では、ヤマメ、アマゴ、イナワ(ゴギを含む)は、すでに9月1日から禁漁期間に入っていますが、中野川は、毎年10月31日まで漁が許可されています。ですので、友人は、フライフィッシングを楽しむため毎年10月には中野川を訪れています。私は、昨年に続き今年も同行しました。広島を朝6時に出発し、現地に着いたのが午前9時過ぎ。

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早速、この釣り場を管理している中野川倶楽部の事務所訪れ、許可の申請。あらかじめ電話で予約していましたので、手続きは簡単に終了しました。この釣り場には、入渓ポイントが、全部で28カ所ありますが、友人が選んだのは一番奥の27番でした。

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私はもちろん釣りはしませんが、同伴者ということで私にも「遊漁証」が手渡されました。

事務所では、コーヒーをごちそうになり、いろいろと釣り場の情報を教えてもらい、いよいよスタートです。27番のポイントまではずいぶんと距離がありますので、そのすぐそばまで車で移動し、早速入渓です。私も、友人が用意してくれた腰まである長靴に履き替えて、釣りの邪魔にならないように、少し離れた後ろから渓流を登っていきます。ここから先は、釣果や渓流の様子を写真で報告します。

まず釣果です。午前10時から午後2時過ぎまでフライを振り続けて、やっとアマゴが4匹、

イワナが3匹でした。

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アマゴの最大は、23cm。

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イワナは25cmでした。文様がはっきりしているのがアマゴです。何だそんなものかと思われるかもしれませんが、この川は「キャッチサンドリリース」(再放流:釣った魚は生かしたまま、釣った水域、地点で放流)ですので、住み着いている魚は何度も釣り上げられているため、警戒心が非常に強く、釣りあげることが難しいのです。後の話ですが、私たちのあとに帰ってきた釣り人も経験者のようでしたが「坊主でした」の一言でした。

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綺麗な渓流です。水が澄んでいて、川底まではっきりと見えます。

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途中で、ニッポンミツバチの養蜂用の巣箱もありました。

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この日はのぼった渓流の最後に、巨木を見つけました。2本あります。

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大きさが分からないだろうと思い、友人にそばに立ってもらいました。大きさが想像できると思います。何かパワーを感じます。

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樹木の名前に自信はありませんが、周りに沢山の橡の実の殻が落ちていましたので、「橡の木」だろうと納得して帰りました。楽しい一日になりました。

いのちとうとし

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2019年10月17日 (木)

廣島護国神社被爆大鳥居顛末記

被爆した廣島護国神社の大鳥居をとりあげたブログで、「もう一つ調べたいことがあります。広島護国神社が、全壊した被爆後から現在地への移転までは、小祠で祭祀が続けられていたようですが、この鳥居は、どこに立っていた(保管)のかということです。」と書きました。今日は、その調査の顛末記です。といってもそれほど大げさなことではありませんが。

結論から言えば、被爆後からRCC横の現在位置に移転されるまで、被爆地で立ち続けていたということです。「ブログを見たから」ということでの情報を得ることはできませんでしたが、ここでもまた中国新聞の記事が、直ぐに回答を与えてくれました。これも大切に保存していた新聞の切り抜きです。2007年4月30日付の1面全面を使った「ヒロシマの記録―甦る『原爆十景』」という特集記事です。「原爆十景」は、1947年に広島市が選定したもので、当時の新聞には「広島市では原子爆弾による被害の特殊性、興味ある営造物を保存してその威力を後世に残し、あわせて観光客誘致の一助とする」と報じられたようです。この「原爆十景」の中には、原爆ドームは入っていません。その「原爆十景」の二番目に「護国神社鳥居上の額」が選ばれていたことを2007年の中国新聞は、下の写真(1945年10月5日林重男さん撮影)を付して紹介しています。

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そしてこれからが本題ですが、その写真に付けた解説で「神社は広島市民球場の建設に伴い56年に広島城跡へ移転し、鳥居と額は城の東側にあたる裏門で現存している」と、56年までは被爆した場所に立っていたことが分かる記述となっています。

さらにこれを証明する写真はないだろうかと探していたら、昭和天皇が1947年12月7日に広島を訪れ時の様子を写した写真(撮影者ははっきりしない)にくっきりと「護国神社の鳥居」が映っています。中国新聞の記事によれば、旧西練兵場後の市民広場との解説があります。

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その後1956年に移転されるまでの間で「護国神社の鳥居」が写った写真はないかと探してみたのですが、これ以外には見つけることができませんでした。しかし、広島市民球場建設時まであの場所に立っていた決定的写真を見つけることができました。広島市郷土資料館が2011年に発刊した「増補広島市民球場の記録」なかの写真(撮影:広島市、提供:広島市公文書館)に、市民球場の基礎工事の様子を写したものがありました。その解説には「鳥居は広島護国神社のもの」とありますので間違いありません。下の写真がそれです。

Photo_20191014135201

「護国神社の大鳥居」のことを調べるために参照したもう一冊の本が「廣島護国神社戦後復興誌」です。その中に、大鳥居が写った写真がありましたので、最後にこの一枚も掲載します。

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解説に「旧社地より大鳥居移転工事」とありますので、現在地に移転建立された時の風景だと思われます。

大鳥居の顛末とは別に、いろいろ調べていると広島市民球場の建設と廣島護国神社の移転は、ほぼ同じ時期に行われていますが、そこに至る経緯をたどると大変な紆余曲折があったことが分かります。広島の戦後復興史を知ることにもつながります。機会があれば、このこともいつか紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2019年10月16日 (水)

原爆被害を改めて考える(4)―「国連への要請書」の疑問

「原爆被害を改めて考える」も、一応今日で終わりにしたいと思います。最後にこのシリーズで何度も登場した広島市・長崎市の「国連への要請書」の「原爆による死亡者数」の疑問点に触れておきたいと思います。

一つは「軍人の死亡者数は2万人前後と考えられる」という記載です。「考えられる」という表現ですから、確定できず推定による数字ということになります。私の疑問は、本当に「軍人の死亡者数は確定できないのか」ということです。軍人の死亡者に対しては「戦傷病者戦没者遺族等援護法に基づく援護」などの法律に基づいて、その遺族に対し遺族年金・遺族給与金及び弔慰金を支給がされています。支給するためには、当然のこととしてその軍人がいつ、どこで亡くなったのかがきちんとしていなければならないはずです。広島の原爆によって亡くなった人もこの法律の対象となっていると考えるのが普通です。この法律の適用に当たっては、当然厚生労働省がその実態をきちんとと把握していると私は考えるのですが、どうでしょうか。市民と違って、軍人の場合は、しっかりとした調査が行われているはずです。そういう道筋をたどっての調査は、行われなかったのでしょうか。不思議です。

軍人の死亡者について、調査した学者がおられることを最近知りました。広島県の湯崎知事のお父さん、「爆心地復元地図」の作成にも中心的な役割を果たされた方です。このことを教えていただいた原爆資料館資料室の方の話によると「当時の部隊の生き残りの関係者などをたどりながら明らかないされようとしたのですが、なかなか情報が集まらず断念されたそうです」とにことでした。こうした努力をされた先生がおられたことを初めて知りました。もう少し詳しい様子を知りたいと思います。

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二つは、朝鮮半島出身者に関する記述です。最初に引用した軍人に関わる文章のあとに「これら以外に多数の朝鮮人被爆者が直接被爆したと考えられる。」と記述され、さらに「上述の数値の中には所在が明らかになった朝鮮人の一部も含まれているが、それ以外にも多数の朝鮮人が広島の直接被爆で死亡したという推測がある」と記述されています。疑問に感ずるのは「これ以外に…直接被爆した」という表現です。このまま読むと「直接被爆者の数31万~32万人」の中に、朝鮮人は入っていないことになってしまい、直接被爆者は、軍人を加えた「35万~36万人」からさらに増加することになります。朝鮮人については、長崎市の部分でも「朝鮮人被爆者も多数いたといわれるが、その実態もはなはだ不明確である。」としています。この表現では、長崎市の直接被爆者数の中に朝鮮人被爆者が含まれているのかどうかは、まさに「不明確」です。ちなみに平和公園にある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の裏面の「慰霊碑の由来」には、「1945年8月6日原爆投下により2万余の韓国人が。一瞬にしてその尊い人命を奪われた」と刻まれています。

「国連への要望書」提出後、1977年からこの「国連への要請書」作成に携わった専門家を中心に、さらに研究がすすめられ、その成果が1979年に「広島・長崎の原爆災害」(岩波書店刊)として刊行されてまとめられています。そこではより深くその問題が解明されていると思います。

しかし、「国連への要請書」は、広島市・長崎市が国連に提出した公文書ですので、この文書を検証することも必要なことだと考え、あえてこの文章の疑問点を考察しました。

いのちとうとし

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2019年10月15日 (火)

10月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

10月になっても日中はまだ暑い。伸びた枝の剪定を優先したため枝はそのまま放置していたので、その枝を集める作業や、ようやく始めた草刈りなどを中心の作業をしている。一方で作業の合間の楽しみで秋の実り、栗や富有柿の収穫をしたり、ジャーマンアイリスの株分けや植え込む畑の耕起など行う。雨の少ない10月前半ちょっと無計画ながらの農園作業となった。

台風19号が12日に来たが強風で枝が少し折れた程度で済んだ。その台風で長野県の千曲川が氾濫した。高校3年生したか所の下流の小諸市の懐古園を訪れ島崎藤村碑の前に立ち碑に刻まれている「千曲川旅情」を数人グループ@の方が朗読されていたことが思い出される。それだけに、テレビに映される千曲川周辺の被災地を見ると心がつらい。被災地の皆様に心からお見舞い申し上げます。

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10月1日。農園の隣家はいつも花を絶やさない。夏のヒマワリの最後の一輪。種の採取が目的かも。

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10月13日(日)の3つの畑のブルーベリー。紅葉はまだ時間がかかる。

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里山ブルーベリー園の農道の草刈り。10月13日(日)

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ブルーベリーの植えてある里山西側の農園には栗の木がある。親指大の大きさだが草刈りの手を休めて栗拾い。全部で1キロ位とれた。帰って蒸してスプーンでほじりほじり頂く。10月13日(日)

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9月末までブルーベリーの伸びた枝を剪定することを優先したため、切った枝はほったらかしにしていたので、枝を広い野焼きしながら整理する。そうしないと草刈り機に絡むので面倒になる。10月14日(月)

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電気柵にとまるアカトンボ。10月14日(月)

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ブルーベリーの畑に地面を這うように咲くイヌタデ。10月6日(日)

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里山のブルーベリー園のアキノキリンソウ。10月14日(月)

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アップで撮影。園内には数か所にしか咲いていない。10月14日(日)

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同じ里山のブルーベリー園に生えているチカラシバ。畑のものより背が高い。10月14日(月) 

2019年10月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2019年10月14日 (月)

岡本三夫さんと珠代さんを偲ぶ会

昨日、7月20日に逝去された岡本三夫さん、そして後を追うようにわずか2カ月後の9月26日に逝去された珠代さんを偲んで「岡本三夫さんと珠代さんを偲ぶ会」が、市民交流プラザで開催されました。当初は、岡本三夫さんを偲ぶ会として準備されていたのですが、相次いでの逝去により、急きょお二人を「偲ぶ会」となりました。「偲ぶ会」には、岡本夫妻の交流の広さを象徴するように、東京、名古屋、大阪、長崎など県外からの参加を含め73人の参加者がありました。

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岡本三夫さんは、香川の四国学院大学教授時代の1976年に、日本初の「平和学」講座を開講され、平和学の第一人者と言われ、1989年から1991年まで、日本平和学会の会長を務められました。1990年に広島修道大学法学部教授として就任するとともに広島市へ移住し、全国に先駆けて1992年に結成された「第9条の会ヒロシマ」の発足や2001年に結成された「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」(HANWA)の発足の中心的役割を担い、それぞれ代表を務めるなど、県内の平和運動の中心となって活動を続けてこられました。珠代さんもそうした岡本さんの活動を支えるとともに、様々な集会や活動に積極的に参加してこられました。お二人が一緒に参加される姿は、今も目に浮かびます。午後2時半から始まった「偲ぶ会」は、最初にHANWAの共同代表森瀧春子さんのあいさつでスタート。四国学院大学の関係者、四国学院大学時代の教え子、平和学の学者、平和教育研究所、脱原発の活動家、マスコミ関係者などなど15人が次々とマイクを握り、岡本さんとの出会い、エピソード、学んだことなどなどのスピーチが続きました。その中で「岡本さんは、ピープルの視点で平和学を見てきた人でした」という発言が特に印象に残っています。

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スピーチの間に少し時間をとって、実行委員会の皆さんが作成した写真のパワーポイントでの上映。参加者それぞれが、三夫さんと珠代さんの在りし日の姿を思い浮かべました。私もスピーチの機会が与えられましたので、当日配布された資料で岡本さんのことばとして記載された「体を張って戦わねばならない時代がやってきた」(2000年)のことばを紹介しながら、岡本さんは広島選挙区、私は比例選挙の候補者として一緒に戦った2004年の参議院選挙について話しました。この選挙は、2003年に「イラク特措法」が成立し、2004年に武装した自衛隊がイラクに派遣された後に最初の国政選挙でした。まさに体を張って戦われた岡本さんでした。この岡本さんの決意を引き継ぐことが私の役割だと改めて決意させられた「偲ぶ会」でした。

最後に石口俊一弁護士から閉会のあいさつとともに、ドイツから届いた長女沙良(さら)さんの「友人や同僚、仲間に囲まれて充実した人生を送れたことに感謝します」というメッセージが紹介され、会は閉じられました。

いのちとうとし

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2019年10月13日 (日)

原爆被害を改めて考える(3)―原爆被爆者動態調査

一日遅れになりましたが、「原爆被害を改めて考える」のつづきです。

念ずれば通じるということでしょうか、たまたま見つけた新聞の古い切りぬきの見出しに、びっくりする数字を見つけたのです。2013年3月24日付の中国新聞も1面です。「広島被爆者55万7478人」とあります。記事は、広島市が実施した第7期原爆被爆動態調査結果を紹介するものです。「えっ、ここまで具体的な人数が、わかっているの」という数字です。その調査報告の実物を見たいと思い、再び広島市役所の担当課を訪れました。その資料は、広島市が2013年(平成25年)3月に「原爆被爆者動態調査事業報告書」(A4判120ページ 以下「報告書」という)として発行したものです。「少しなら残部がある」ということなので、無理にお願いし、1部入手することができました。早速「報告書」を見てみました。「原爆被爆者動態調査事業の目的」は、「各種調査結果の統合を図り、これまで推計の域を出なかった被爆死亡者一人ひとりの氏名を積み上げ、原爆投下から現在までの被爆の状況を具体的、体系的に明らかにする」(太字は、いのちとうとし)となっています。私がかねてから考えていたことです。

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この調査は、昭和44年(1969年)から始まり、今回は、国の補助を得て、第7期原爆被爆者動態調査事業として、平成11年度(1999年度)から平成24年度(2012年度)までの間に実施されたものです。過去に6回の調査は、すべて2~3年の期間で実施されていたのに対し、この第7期は、広島大学原爆放射線医科学研究所(以下「原医研」)を中心に14年という時間をかけて進められています。中国新聞の記事では、「調査に関わった原医研の大滝慈教授(統計学)は『何らかの資料が残っている被爆者については、出来る限り調べた』と説明する。」とし、それに加えて「『新たな情報が入らない限り、これ以上、被爆者数の実態に迫るのは難しいのではないか』と見ている」としていますので、現在調べ得る最も正確な報告といえると思います。

 「報告書」を見ると、私が考えていた「被爆者健康手帳交付申請書」も資料として使われたようですが、特に力を入れたのは、「現行データの重複整理」だったようです。その結果「直接被爆者38万4743人」が明らかとなったのです。まさに被爆者一人ひとりの氏名が積みあがった数字です。貴重な数字です。驚くのは、よく言われている「35万人」よりもずいぶん多い人数になっています。「この数字を何故使わないのですか」と広島市に問うたところ返ってきた答えはこうです。「まだ重複者がいると思われます。被爆地域として安芸郡戸坂村や中山村、府中町、安佐郡祇園町なども含まれているためです」。ところが、「報告書」の次のページで示された「被爆地域別被爆者数」というでは、「隣接町村 13,269人」となっています。仮にすべて被爆地域外としてそのすべてを差し引いても「37万1474人」になります。これでも「35万」を大きく上回っています。さらにこの「報告書」には、もう一つ重要数字が示されています。「『昭和20年(1945年)死亡者』(直接被爆者)に関しては、今回の調査では、88,049人であり、上記の推定値(いのちとうとし注 「国連への要請書」に記された14万人±1万人)と比べ30%以上少なくなっていた。」と確認された死亡者数を明示しています。「報告書」の「直接被爆者38万4743人」は、当然のことですが、8,049人を含んだ人数です。推定数とはいえ「国連への要請書」では「死亡者数は14万人±1万人」としているのですから、この推定するを変えない限り、今回の調査で確認できなかった5万2千人を直接被爆者に加えることになり、直接被爆者数はさらに拡大することになります。

中国新聞の記事では、この調査に携わった原医研の大谷敬子助教が、特に死亡者について「書類がある人は網羅できたが、記録のない人も多い」と指摘したことを紹介しながら、さらに「一家全滅の事例、被爆後に広島を離れた外国人や軍人が多数もれている可能性を指摘」としています。

指摘されるようにまだまだ不確実な様子はありますが、日頃言われている「直接被爆者約35万人、死亡者14万人±1万人」という推定数は、修正されるべきではないでしょうか。しかし残念なことに、この貴重な「原爆被爆者動態調査事業報告」に基づいて被爆実態を伝える数字が変えられたという話を聞いたことがありません。私には、とても不思議なことです。

いのちとうとし

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2019年10月12日 (土)

広島朝鮮学校高校無償化裁判控訴審第7回口頭弁論傍聴記

一昨日(10月10日)開廷された「広島朝鮮学校無償化裁判控訴審」の第7回口頭弁論の模様の報告です。予告していました「原爆被害を改めて考える(3)」は明日に延期します。

午後1時半から傍聴者の入廷が始まった広島高等裁判所304号法廷は、広島の裁判所で一番大きな法廷ですが、多くの支援者によって直ぐに満席となりました。入廷できなかった支援者は、閉廷後報告会が行われる弁護士会館に移動し待機しました。幸いに私は、法廷で傍聴することができました。

今回の法廷は、原告団が一貫して求めていたにもかかわらず、一審(地裁)では、実現しなかった証人尋問が行われました。今回証言台に立ったのは、控訴人(一審では「原告」が二審ではこう呼ばれる)の一人・広島朝鮮学校初中高級学校校長で理事長の金英雄さんでした。最初の一時間は、足立弁護団長の主尋問。丁寧な質問と答弁によって朝鮮総連とのかかわりや民族学校と民族団体の関係について、自らの体験を通して具体的にわかり易く説明され、その実態が明らかになりました。10分間の休憩後始まった国側の反対尋問は、広島の朝鮮学園とは全くかかわりのない東京都による調査報告書(東京都が補助金を打ち切るために行ったもの)に基づく質問に終始しました。その中では、朝鮮総連の議長の名前がきちんと読めないなど、あまりにも準備不足と思わせる発言もありましたが、その中で朝鮮総連による「指導」という言葉をとりあげ、同じ質問を繰り返したのが強く印象に残りました。これらの質問に対して、金校長は「民族学校と民族団体とはかかわりがあって当たり前。そこにいう『指導』は、『アドバイス』ということだ」ときちんと証言されました。せっかく実施された証人尋問でしたが、裁判所側からの主尋問がなかったことは、非常に残念でした。裁判長の「最後に言いたいことはありませんか」との問いに、金校長は改めて「ぜひ学校に来て、ありのままの姿を見てください」と訴え、口頭弁論は終了しました。

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終了後は、場所を広島弁護士会館に移し、毎回公判後に行っている報告会の開催です。最初の発言は、弁護団事務局長の平田弁護士。「本人尋問が初めて実現しました。この裁判の最大の山場。今日の尋問は、満点に近い内容でした。ただ不満なことは裁判所が何も聞かなかったこと」と今日の証人尋問の意義を強調。続いて足立弁護団長。「泣くかもしれないと思っていたが…。陳述書を中心に、裁判所が再三にわたって釈明を求めてきたことを質した。国は『指導』ということにこだわってきたが、社会主義国とその他の区では意味が違うことを全く理解していない質問。そこを校長はしっかり説明してくれた。校長先生に拍手を」と尋問の状況の説明と解説。その後若干の質疑と各地からの支援者があいさつ・報告。最後に朝鮮学校の生徒たちによるアピールと全員合唱。「ウリハッキョ(私たちの学校という意味)は、私たちの宝です。」との言葉が強く印象に残りました。

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今回、証人尋問が実現したとはいえ、各地の裁判状況(高裁での敗訴、最高裁による上告棄却など)を考えると決して楽観できるものではありませんが、「当たり前のことが当たり前のこととして判断される」ように引き続き支援を強化していきたいと思います。

次回第8回口頭弁論は、11月20日の午後2時から開催され、今度は当時高校生で現在朝鮮学校の先生となっている原告と保護者とのふたりの証人尋問が行われます。保護者による証人尋問は、広島が初めてです。多くの人に傍聴に参加し支援してほしいと思います。

いのちとうとし

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2019年10月11日 (金)

核廃絶運動は歴史的厳しさに直面している (8) ――憲法の復権と民主主義の再生が必要――

不十分ではありますが、今回は、このシリーズの最後です。長くお付き合い頂いたことに感謝します。

前回、「短期的」目標実現のためには多様な努力が必要であり、その一つとして、例えば11月のローマ法王の長崎・広島訪問に当って、「パブリック・ビューイング」を催して歓迎の意を伝えるというアイデアまで、提案しました。

実は、こうした「短期的」目標、しかも広範囲の問題について具体的に実現の助けになっている試みがあります。ネット上での署名運動を簡単に始められる「Change.org」というサービスです。自分の関心を持っていることについての署名運動がほんの数分で始められます。最近の例では、表現の不自由展についての署名は24時間以内に、2万件にも達しています。

集まった署名は、新聞広告を出すための資金調達のために生かしたり、署名を関係官庁に提出したり、記者会見を開いてより多くの賛同を募ったり等々という形で、多様な活用ができます。そこで一つ提案なのですが、例えば、こうして集まった署名を地方議会との連携に使うというアイデアです。たとえば地方議会の議員に署名の意味を理解して貰い、地方議会での質問に使って貰ったり、議会での決議のための資料にして貰ったりという、地方議会との連携です。

国会議員でも良いのですが、数百人、推薦人という単位で当選が決まる地方議員の方が、ある地域での署名には敏感に反応してくれます。また、何らかの動きがあった場合、それをすぐ知ることができますので、フィードバックという点からも優れた方法です。

もちろん、これはほんの一例ですので、他にも多くの効果的な行動の可能性は沢山あります。その具体例として、マイケル・ムーア監督の提唱している、「10ポイント・アクション・プラン」を再度紹介しておきましょう。

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マイケル・ムーアの10ポイント・アクション・プラン

  

  1. 毎日電話しよう――日を決めて、市・県・国会議員の事務所に電話をする。
  2. 月に1回訪問しよう――月ごとに、その中の誰かの事務所に直接出掛ける。
  3. 個人で「すぐやる」チームを作ろう――何人かで集まって、一週間のうちに何らかの行動を起こす。
  4. とにかく参加して参加して参加しまくろう!--いろいろな集会に顔を出す。
  5. ウィメンズ・マーチは終わらない――デモにも参加する。
  6. 民主党 (日本の場合は、野党) を乗っ取ろう――野党の活動にも参加して、リーダーの一人になる。
  7. ブルーステート(民主党が優位の州、日本では野党の強い地域)のレジスタンス開催に協力しよう――その前と同じことだが、市民集会等も何人かが集まって提案して自主的に開いてしまう。
  8. 選挙に出馬しよう――票を入れたい候補がいない場合、あなたが候補になろう。
  9. 君自身がメディアになるべきだ――自分に関心のあることについて調べて、それをネット等、様々な場所に広げよう。
  10. 喜劇の部隊に加わる――権力者のやっていることは、無理の積み重ねなので、あちこちに綻びがある。その綻びを指摘することは必ず「笑い」の元になる。そして、権力者たちは、笑われることを何より嫌う。

結局のところ、主権者である私たち一人一人がその責任を自覚して行動することに尽きると言えるのですが、その責任を果さない場合に付けを払わされるのは、私たち自身であるという事実の重みも改めて考えて見たいものです。

そのために役立った二つの言葉を最後に掲げておきたいと思います。私が師と仰いできた元MITの教授で、AIの先駆者だったジョセフ・ワイゼンバウム博士が、著書『コンピュータ・パワー』の中で述べている言葉です。正確な引用ではありませんが、時間とともに私の内部で成長してきた言葉です。

 ① 私たちは、誰もが教育者である。その内容は、私たちが喋ることだけではなく、実行  することによって伝えられる。

 ② 人間誰しも、世界中で自分一人だけが世界の運命を担っている、という仮定で物事  を考えてみる必要がある。そのときに自分は何をしたら良いのかが分る。

[2019/10/11 イライザ]

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2019年10月10日 (木)

上関原発音頭

上関原発音頭というのがあります。作者不詳とされていますが、上関町に住んでおられた、音楽の教員をされていた方が作られた作品です。ユーチューブで検索してみると、この詩に後から曲を付けたものを聴くこともできます。まずは詩を観てください。

(1)町長選挙で50万 旅行にさそって1万円

   チラシを配って5千円 名前を貸すだけ1万円

   印かん集めりゃ金と酒 ちょいと顔出しゃ寿司弁当

    金がほしけりゃ中電サ これじゃ働く者がバカ 

   原発推進ヨヨイのヨイ

(2)放射能やら黒い霧 まみれた金をフトコロに

   チケットもろうてはしご酒 飲む打つ買うで有頂天

   バーやキャバレー温泉と ゆるんだバンドも新品に

   これぞこの世の極楽じゃ 女房子供も何のその

   原発様々ヨヨイのヨイ

(3)悪銭身につくわけがない 夜を日に次いで遊ぶうち

    気付いた時はもうおそい サギに横領 サラ金と

   きのうの友も今日は敵 女房子供にゃ見捨てられ 

   親子の縁もたち切って 故郷をすてて雲がくれ

   原発クワバラヨヨイのヨイ

(4)オシャカ様さえ言い残す 金より命が大事だと

   人間ほろびて町が在り 魚が死んで海が在り

   それでも原発欲しいなら 東京 京都 大阪と

   おエライさんの住む町に 原発ドンドン建てりゃよい

   ここは孫子に残す町

   原発いらないヨヨイのヨイ 反対反対ヨヨイのヨイ

 関西電力の事件が公けになって、この詩のことを思い出していました。僕は株主総会の事前質問書に、「この詩についての見解を明らかにされたい」と質問したことがあります。

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総会会場で唄おうかとも思いましたが、中国電力の回答は「見解を明らかにする立場にはない」というような回答だったように記憶しています。これはデタラメで嘘だとは言いませんでした。原発が過疎地というところに建設されるので、どうしてもお金をばら撒くことでしか「理解」を得ることはできません。

原発が建てられようとしているところで、進めようとしている人に質問して、「わが国のエネルギー事情を考えると、必要なことだ」とか「地球温暖化防止のために必要だ」とかいうことを答えた人を聞いたことがありません。みんな「原発建設でお金が入る」という回答しかしません。本音であり、これ以外に理由は無いというのが現実でしょう。

 だから「理解」を得るためには、これまたお金を配るしか無いのです。地域にお金を配るには、その地域のボスという人を通すのです。

 島根県鹿島町に島根原発を誘致しようとした時、ここにも「鹿島天皇」というのがいました。関西電力が原発を誘致した時にも、高浜町の元助役さんは「高浜天皇」といわれていたようです。

 上関原発の反対運動の拠点といわれている同町の祝島にも、建設計画が公けになった当時、Kさんという島のボスのような人がいました。この人が電力会社系の月刊誌のインタビューに、「わしを先にきちんと通していたなら、祝島がこんなに反対にならなかった」と答えているのを読んだことがありますが、こういう人が自らの存在を誇示したくなるのが、この世界の中で多く見られる現実なのです。

 最初に書いた「上関原発音頭」、これが公けになってからも中国電力から何の抗議もありませんでした。正解だから出来なかったのでしょう。

木原省治

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2019年10月 9日 (水)

原爆被害を改めて考える(2)―被爆者健康手帳の発行件数は?(その2)

広島市役所を訪れた得た答えは、残念ながら被爆者健康手帳の発行数から、被爆者数を確認することはできないということです。私の考えたのは「被爆者健康手帳取得者のうち1号被爆者の数がはっきりすれば、その数が直接被爆者の人数になる」ということでした。ところが、広島市の担当者の説明では「被爆者健康手帳は、手帳所有者が、転居した時には改めてその都道府県で新しい手帳が発行されるため、そうしたケースでは、一人に何通も発行される(注:転居元の自治体は、転居先の自治体から連絡があり、その時点で元の手帳は無効となるので、重複発行になることはない)ことになり、手帳発行数と被爆者数は一致しないのです」ということでした。「それでは何人の被爆者に手帳が発行されたのかは全く分からないのですね」と問うと「そのとおりです。しかも、被爆者健康手帳は、1957年から発行されていますが、1960年から今の手帳が発行さるように改正されたので、旧から新へ切り替える手続きが、全部できたかどうかは不明なのです」との説明でした。

広島市は毎年7月に「原爆被爆者対策事業概要」を発表します。そこには、厚生労働省が発表する前年度末現在(その年の3月31日)の「全国被爆者」(被爆者健康手帳所持者数)を掲載されています。そこには、手帳の報区分である1号(直接被爆者)2号(入市被爆者)3号(救護看護従事者)4号(胎内被爆者)ごとの人数が、都道府県ごと(ただし、広島市、長崎市分は、別掲で集約)にまとめられています。例えば今年の報告では、合計では145,844人、うち1号は90,923人です。当然のことですが、その内訳には、被爆地ごとの集計はありません。

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厚生労働省が、毎年この発表を行っていることは知っていましたので、ここから割り出すことができるのではないかと思ったのですが、広島市の説明によると厚生労働省の発表は、自治体から報告された手帳数を発表しているだけで、被爆者個々人の情報を厚生労働省が管理しているわけではないようです。

ですから、被爆者健康手帳の発行数から被爆者数を確定することはできないというのが、結論です。もちろん、被爆者健康手帳が発行されたのは、国の最初の被爆者対策となった「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(略して「医療法」)が、施行された1957年4月1日からですので、それまでに亡くなった被爆者については、仮に可能だったとしての被爆者健康手帳からたどることはできなかったのですが、1982年には、被爆者健康手帳の所持者数が最も多く、372,264人(広島・長崎の合計)となっていますから、この方法が有効であれば、生存直接被爆者数(国連報告では、約21万から22万人)にかなり近づいた数字が明らかにできたように思いますので、あながち無謀な方法ではなかったはずです。

しかし、それにしても誰に発行したのかをどの役所でも全体として管理していないという事実には、ちょっと驚きました。国がきちんとその詳細を把握し管理していれば、もっと正確に被爆者数を特定できたのではないかと、思われます。残念でしたが、被爆者健康手帳の発行件数から被爆者数を推定する方法は、とりあえず断念することにしました。

ところが、昨日紹介した1976年に国連に提出して報告書を読み直してみると、読み飛ばしていた重要なことが分かりました。報告文によれば、1945年末までに亡くなった死亡者数を報告した後に「1955年の国勢調査時のABCC付帯調査(原文のまま)において、日本人被爆生存者の数が初めて明らかにされたが、(調査もれがあるが、広島で157,585人)」と記載され、そこから推計した「被爆時から19550年までの間に、20万人以上が死亡したと考えられる」とも記載されています。そうか、すでに1955年には、被爆者の人数は個人が特定できた調査結果があったのだと知りました。

私は、無駄なことをしていたのかなと思っていたのですが、ところがまた新しい資料に行きつくことになりました。今度のきっかけとなったのは、古い新聞記事の切り抜きです。そこからたどった新たな原爆被害に関する情報については、次回(12日)に報告をします。

いのちとうとし

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2019年10月 8日 (火)

原爆被害を改めて考える(1)―被爆者健康手帳の発行件数は?(その1)

広島への原爆投下による人的被害は、広島市・長崎市が、1976年に国連に提出した「核兵器の廃絶と全面軍縮のために―国連事務総長への要請―」によれば「直接被爆者の数は、軍人を含めて35万人から36万人おそらく4万人以上の軍人が直接被爆したであろう。軍人を除いた直接被爆者の数は、31万~32万人。194年末までの死亡者は14万人±1万人と推定される」となっており、その後この数字が、広島市の原爆被害者の人数として使われてきました。ただ私は、以前から、特に「死亡者14万人±1万人」という数字に、強い疑問を感じています。それについては、後でも少し触れますが、原爆被害の人数について、自分なりに検証してみようと考えています。今日はその第1回です。

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私がそう思うきっかけとなったのは、夏の被爆74周年原水禁世界大会・長崎大会の分科会「在外被爆者と戦争責任」に、海外ゲストとして参加していた韓国被爆二世の会会長のイ・テジュさんの「広島で犠牲となった朝鮮半島出身者(イさんが配布した文書では、「韓国人」となっています)は、5万人うち3万人が死亡、生存者2万人でうち1万5千人が韓国に帰国した」という報告を聞いたことです。その場に、分科会の運営委員として参加していた私は、その数字を聞いて「多すぎるのではないか」とつぶやきました。その場で、この数字や私のつぶやきが問題になることはなかったのですが、後日同じ運営委員として同席していた静岡のSさんから「イさんの数字がおかしいと思うのだったら、イさんとは知らない中ではないのだから、きちんと話したほうが良いのでは」というメールが届きました。イ・テジェさんとは、お父さん「李康寧(イ・カンニョン)裁判」の最高裁判決を共に聞いたという旧知の関係ですので、当然話はできるのですが、その前に考えるべきことがあると思い、私はSさんの間で「多すぎると思って根拠」などについて何度かやり取りをしました。そして私が「それ以前に根本的な問題として考えていること」を最後のメールとして送りました。少し長いのですが、その一部をここで紹介します。

「それは、Sさんもお分かりのように、日本政府は、広島、長崎の原爆被害について、きちんとした調査を全く行っていないのです。国勢調査の時、ちょこちょこっと調べたことはありますが。その一番の証拠は、14万人±1万人という数字にも表れています。もちろん、この数字だって広島市が発表している数字にしかすぎないのですが。日本政府が発表した数字は全くないのです。さらに考えてみれば、14万人±ということの意味です。もしきちんと調査をしていれば(もちろん正確な数をはっきりさせることはできませんが)マイナスということはあり得ないと思っています。つまり一人ひとりの犠牲者を明らかにし、もしその数が14万人まで判明したというのであれば、それから先の数はプラスしかないはずだからです。私が言っていることは、わかりにくいかもしれませんが。こういう原則的なこと(きちんとした調査)を日本政府がやっていないのに、韓国で言われている数字に対して正しいとか間違いだとかを言う資格は、残念ながら私たちにはないと私は思っています。一番の問題は、事実が調査されないままに今もあることを問題にしなければならないというのが、私の考えです。先ほども言いましたように、どれだけ調査しても本当の実数を調べることはできないことは承知していますが、その努力の姿すら見えないことに怒りを覚えます。私自身は、そのことを言い続けてきました(もちろん国会の場でも)ので、韓国側の発表した数字のみをとりあげて、正しいとか間違いだとかいうつもりはありません。」

こんな経緯があり、「原爆被害の実相を考える」ために、私にも手掛かりになるもの見つけ出すことはできないだろうかと考え、思いついたのが「被爆者健康手帳の発行状況から被爆者数を考察する」ということでした。この方法によれば「手帳取得者」と限定はされますが、一人ひとり個人として、特定できた人数を確認できるのではないかと考えたからです。思い立ってすぐに、広島市役所の担当課を訪ねてみました。残念ですが、この手法には問題が多いことが分かりました、

その結果については、次回に報告します。

いのちとうとし

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2019年10月 7日 (月)

平和の種まき

香港では

タピ屋に並ぶのと同じ普通さで

若者がデモをしている

 

プラハのレノンの壁みたいに

びっしりと貼られたメッセージは

若者だけでなくても誰もが綴る

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 自由のために

 

沖縄では

おじい おばあ 若者も

テントに座り込む

 

命のために

 

政治の変わらなさや

関心の薄さにたじろぎ

心が塞ぐときもある

 

そんなときも

 

世界のそこかしこで

自由を 権利を 掴むため

人々が たたかっている

 

そのことが

どれだけ眩しく

心づよいか

 

平和の種まき

そう言って たくさんの手紙を書き続ける

友だちも居てくれて

 

あきらめない心が生まれてくる

                                                       Jun


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2019年10月 6日 (日)

坂町原爆被害者友の会の結成に出席しました

9月30日(日)午前10時から坂町の集会所で行われた結成総会に参加した。

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結成総会の会場は、

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民家を改装した横浜中央集会所。

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配布された総会資料。

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吉田隆行坂町長も挨拶。昨年7月に坂町原爆被害者の会が高齢化による会員の減少で解散したが、今回友の会を作り町内にある原爆の慰霊碑を守るなどの素晴らしい活動など目標にされており町としても可能な限り協力していきたいと話された。他に民生部長など3名の職員も来賓で出席し、友の会への期待の大きさがうかがえた。

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広島県被団協の箕牧理事長代行も駆けつけ、一度解散した会の復活は大変だったでしょう。うれしくもあり、頼もしく思う。ともに手を取り合い活動していきたいと激励の挨拶をされた。

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来賓挨拶のあと本題の総会で結成に至る経過と活動方針を提案する世話人の池田節男さん。この後役員体制の提案で会長に選ばれた。

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総会終了後マスコミの取材を受ける参加した被爆者の皆さん。テレビでは当日、翌日も報道されていて関心の高さが見て取れた。

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原爆投下の時も今も変わらぬ小さな路地を一人帰路につく被爆者。この路地にも原爆投下後の爆風がきたのだろうか。

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結成総会が終わって道路を挟んだ会場の近くの鯛尾の海岸に立つ。写真正面の向こうあたりが爆心地と思われる。74年前この鯛尾の周辺の海岸にも宇品から舟に乗って避難した多くの傷ついた人たちが避難して、すぐ近くの横浜小学校が救護所となった。同じくこの場所から呉寄りの小屋浦海岸にも被害者が避難し小学校が救護所となった。

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帰り道なので坂町の埋め立て地に1995年に建立された原爆被爆者の追悼碑に行ってみた。大きな碑だ。折り鶴がかけられている。(B&G海洋センターの敷地内にある)他に小屋浦、横浜にもある。これら3つの碑の清掃や、慰霊祭の実施、碑の建立の理由や当時の状況を学び話せるようになることも会の運動方針に述べられている。この点に関しては吉田坂町長も挨拶の中で素晴らしいことと賛辞を寄せられた。

会長となった池田節男さんとは古くからのお付き合いでとも1970年代にともに職場の被爆二世の会の活動で交流があった。昨年夏に坂町の原爆被害者の会が解散したのを期に何とか会の再結成をしたいとの想いで被爆者を訪ね会の再結成とその際に自ら会の役員を担う決心を伝えながら意思確認を続けてきた。また老人クラブの役員経験など地域活動の地道な活動など行政も含めた信頼関係を培ってきたことも被爆者友の会の結成の環境づくりに役立っているのだろう。

 *メモランダム

坂町の被爆手帳所持者564名。新たな友の会への参加は40名を超える。役員の多くを被爆二世が担う。広島県被団協の協力で今年6月に被爆者相談会開催、被爆者認定申請の支援(一人が認定され、もう一人は却下)など。同年8月6日に坂町原爆慰霊祭を実施。などを経て結成に至る。

友の会の方針として、①平和運動の推進 ②被爆体験の継承と推進 ③被爆二世の援護策の充実 ④坂町原爆慰霊祭の実施、碑の清掃 ⑤平和学習の手助け ⑥被爆者相談会の実施 ⑦非核100万人署名を取り組む ⑧被爆者ニュースの年2回発行 ⑨広島県被団協への加盟など。

2019年10月5日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2019年10月 5日 (土)

ヒロシマとベトナム(その5)

仏領インドシナ侵攻と廣島

月一回の寄稿をはじめて5か月になります。2回目の寄稿文(6月)に、「『ヒロシマとベトナム』を考える際、日本とベトナムとの関係、そして広島との関わりを、過去・現在・未来を貫いて捉える必要があると思います」と書き、古代、中世、近世と書き進めてきました。

先月は、1940年から1945年8月15日の敗戦まで続いた日本軍のベトナム侵攻で「200万人以上」とも言われる餓死者を出したことに触れましたが、日本軍の仏領インドシナを含む東南アジア侵攻がいかに凄惨なものであったかはあまり知られていません。

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マニラの虐殺

ビルマ(現ミャンマー)戦線の物資輸送のために連合軍捕虜やタイ、ミャンマー、マレーシア、インドネシアから徴用(強制連行)された「ロウムシャ」10万人以上が死亡した「泰緬鉄道」鉄道建設、栗原貞子さんが「ヒロシマというとき」で詠んだ「マニラの火刑」(マニラ大虐殺)では約10万人が殺され、「乳児を放り投げ銃剣で串刺し」にするというおぞましい蛮行はマレーシアやシンガポールをはじめ至る所で繰り広げられました。中国では「南京虐殺」だけでも30万人以上の命が奪われました。

アジア侵略の出撃基地「宇品港」

それら日本軍の出撃基地の一つが軍都廣島の宇品港でした。被爆地ヒロシマは戦争加害とも深くかかわっているのです。その意味で、私たちが本当に「平和を希求する人間」であろうとするなら、前回も栗原貞子さんが詠んだ「ヒロシマというとき」を紹介しましたが、「〈ヒロシマ〉といえば 〈ああヒロシマ〉と やさしくかえってくるためには 捨てたはずの武器を 本当に 捨てねばならない ・・・〈ヒロシマ〉といえば 〈ああヒロシマ〉と やさしいこたえがかえってくるためには わたしたちは わたしたちの汚れた手を きよめねばならない」という言葉を噛み締めなければならないと思います。

同時に、「赤紙」一枚で戦地に駆り出され、再び愛する家族のもとに帰ることができなかった数多くの人たちに思いを馳せなければなりません。それは、「二度と再びそのような事態を起こさせない」という強い意志の表れでもあります。

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出生兵士

宇品港から仏領インドシナ領に送られた兵士が何人なのか、記録があるのかもしれませんが知り得ません。旧厚生省援護局が調べた「アジア各地における終戦時の日本軍の兵数」(「東京新聞」2010.8.8「終戦の日を考える」)を見ると、陸軍が296万3,300人、海軍が38万1,800人、合計334万5,100人。そのうち仏領インドシナ3国(ベトナム、カンボジア、ラオス)は陸軍が9万400人、海軍が7,800人、計9万8,200人です。異国の地で命を失った戦死者数は、厚生労働省の資料によれば概数240万人とされています。今年7月現在の厚生労働省の資料「地域別戦没者遺骨収容概見図」によると、仏領インドシナでの戦死者は1万2,400名で、遺骨の収容は6,900体と記されています。

過去の歴史を通して将来を考える

余談ですが先日、『広島藩の志士』や『芸州広島藩 神機隊物語』を書かれた大崎上島町出身の穂高健一さんの「歴史講演会 志和の知られざる幕末 芸州広島藩の活躍」という講演を聞きました。幕末から明治維新にかけた騒乱の中で戦争回避に奔走した芸州藩の働きが歴史から消された経過と、その後の薩長土肥を中心にした明治から今日までの国家像についてのお話でした。その詳細は省きますが、とても印象に残った言葉があります。「人は誰でも過去の経験を通して将来を考える。だから、歴史を歪めたり曲げたりすれば後世の人のためにならない。過去(歴史)をしっかり(正しく)知り、広島から戦争史観を変えてゆこう」という意味の言葉です。

抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)と日本兵

再び、日本軍の仏領インドシナ侵攻と広島との関わりに戻ります。

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ベトナム独立戦争を戦った日本兵

1945年8月15日の敗戦によって日本軍のベトナム支配は終わり、9月2日にはホーチミンがハノイで「独立宣言」を発しました。一方、ベトナム独立運動組織のベトミンは再び植民地支配に乗り出したフランスとの抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)を戦います。そうした中、ほとんどの日本兵は帰国しますが、約600名(800名ともいわれている)がベトナムに残り、ベトミンに参加したといわれています。

2年前の2017年3月に前の天皇皇后陛下がベトナムを訪問された際、ベトナム独立戦争を戦った「ベトナム残留元日本兵家族と面会された」との報道を目にした人もいると思います。その報道後、ベトミンとともに抗仏戦争を戦った日本兵のことを調べ、初めてその中に福山市出身の石井卓雄という陸軍少佐がいたことを知りました。

2005年10月に東京財団がまとめた『ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越の在り方に関する研究報告』に石井卓雄少佐に関する記述がありますが、ここでは「ウィキペディア」から引用します。当時、チャン・チ・ズンと名乗り、グエン・ソン将軍の軍政顧問として軍政学校や軍政中学校の教官を務めベトミン将兵の育成に携わっています。その後、ベトナム中部で「どこでも勝てる第38小団」と呼ばれる精強部隊を指揮するなど作戦指揮にも携りましたが、1950年5月、ベトナム南部でフランス軍との交戦中に戦死したとされています。死後、靖国神社に祀られているとも記されていました。

なぜ、800名もの日本兵がベトナムに残り抗仏戦争に加わったのか、敗戦の混乱期とはいえ軍律厳しいなかでなぜ、上級将校や下士官などがベトミンに加わったのか、当時の現地軍上層部が「黙認」したような形跡が見られたり、軍を離脱し抗仏戦争に身を投じた人を靖国神社に祀っているのはなぜなのか・・・・など、幾つもの疑問がありますが、これらについては、引き続き調べてみたいと思っています。

ともあれ、この10月末からのベトナム訪問で在ホーチミン日本国総領事館を訪ねることにしており、福山市出身の河上淳一総領事に、ホーチミン市にあったといわれる石井卓雄少佐の石碑の場所お聞きし、訪ねてみたいと思っています。

(2019年10月4日、あかたつ)

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2019年10月 4日 (金)

臨時国会開会―問われる国会の役割

昨日、「9条壊すな!戦争をさせないヒロシマ総がかり実行委員会」が呼びかけた、定例の「3の日行動」が、行われました。天気予報では、夕方から雨と言われており、心配されましたが、幸いにして午後5時30分からの1時間、雨にも合わず無事に終了することができました。今月の「3の日行動」は、消費税が増税された直後、臨時国会召集日の前日ということで、実行委員会のメンバーがそれぞれの立場から、アピールとアピールの間には、歌声9条の会のメンバーによる歌声を挟みながら、安倍政治への批判を展開しました。私も最後に、今日から始まる臨時国会の問題を中心に、つぎのようなことを訴えました。

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いよいよ今日から12月9日までの67日間の会期で臨時国会がスタートしますが、この国会は7月の参議院選挙後初めてとなる本格的な国会の開催です。マスコミの伝えるところによれば、政府が提出する新しい法案は15本程度絞り込むといわれており、安倍政権は、両院の憲法審査会での審議を促進しようともくろんでします。

しかし、7月参議院選挙以降の政治状況は、「憲法論議」以前に国会で論議を深めなければならない課題が山積しています。10月から始まった消費税増税、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」への補助金の不交付決定、農産物だけ譲った日米貿易協定交渉の最終合意、台風被害を置き去りにした内閣改造などなど。これらは直接政治にかかわる問題です。しかしひょっとするとそれ以上ともいえるほど重大な問題が今起こっています。それは、関西電力の原発がらみの金品授受問題、かんぽ報道をめぐるNHK番組の続編見送り問題などに象徴される民主主義の根底を揺るがす出来事です。第一義的には、それぞれの企業や幹部の問題ですが、一方で長期政権によるひずみや無責任な政治姿勢にあるともいわなければなりません。関電問題の背景には、安倍政権が進める原発再稼働政策があります。原発再稼働を最優先するあまり、コンプライアンスが、全く無視されてしまったのです。こうした角度からも、この問題が論議されなければなりません。かんぽ報道問題も、基本的には、報道の自由が侵された重大な問題ですが、このような事態を招来した人たちは、日本郵便側もNHKも経営委員会も安倍政権によって選ばれているのです。そうした人々を選んだ責任は重いと私は思っています。こうした問題を考えるとき、改めて森加計問題を想起せざるを得ません。公文書を改ざんしても誰一人責任をとらないで、社会に対しモラルを説くことはできないのです。安倍政治のこうした無責任な政治姿勢と共通する問題として、追及が進むことを願わずにはいられません。

そうした時期に開催されるこの臨時国会ですから、長期政権が作り出したこれらの問題を厳しく追及することへの野党への期待は、大きなものがあります。この臨時国会を政治の流れを変える国会にするため、立憲野党は、連携・協力体制を強化し、次の総選挙へとつながることを強く望みます。

これが私の、街頭での訴えでした。

いのちとうとし

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2019年10月 3日 (木)

白島地区の被爆樹木を訪ねて―その3

前回のつづきです。次に訪ねた光明院(1,700m)は、碇神社から南へ歩いて240mのところにあります。山陽新幹線、山陽線の高架のすぐそばです。

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ここには、ナツミカンが2本植わっています。もともとは寺院南側の山陽本線沿いの土手にあったのですが、1983年の本堂再建時に今の場所(本堂のすぐ横)に移植されたものです。当初3本あったようですが、被爆後も生き残っていた2本が、移植されました。この地域では珍しく、焼失を免れたようです。

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 訪れた時には、青い実がいくつもついていました。

次に鉄道の高架の下を通り抜け、光明院から歩いて270mの禿翁寺に行きました。最初「禿翁寺」が読めなかったのですが、お寺の前の電柱に付けられた看板に振り仮名があり「とくおうじ」だと知ることができました。

ここはウメ(紅梅)、モミジ、クロマツ、クスノキ、アラカシの5種類、12本が被爆樹木として登録されています。被爆時建物は全部焼失したですが、樹木だけは生き残ったようです。焼失した本堂再建の時、すべて境内の中で移植されたようです。

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アラカシは、現在8本あります。

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モミジは、被爆して生き残っている唯一のモミジのようです。この植え込みには、ウメ(紅梅)、クロマツも植わっています。

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クスノキは、山門を入ってすぐの場所にあり、大きな姿は道路からもからもよく見えます。

白島地区の被爆樹木めぐりとしてはここで終わったのですが、この後、すでにこのブログで報告した原民喜のお墓、郵政局などを訪れました。

今回の被爆樹木めぐりで感じたことをまとめてみます。その一つは、多くが焼失した親木の根元から芽を吹いたもので、樹木の生命力の強さはすごいものだということです。そしてお寺の境内ということもあるのでしょうか、大切に育てられていました。二つ目は、仕方のないことではありますが、お寺の再建などによって、ほとんどが移植されていることです。もちろん、同じ境内ですので、大きく場所を移動したということではありませんが。三つめは、この白島地区もそうですが、広島市の被爆樹木リストを見ると所在地の多くが、寺院や学校です。境内や校庭などの広い空間があったことによって、焼失しながらも根などが生き残ることができたのではないかと考えられます。いろいろなことを学んだ被爆樹木めぐりでした。

白島地区には、旧郵政局を含めても直線距離ではわずかに1kmという範囲の中に沢山の被爆樹木があります。ぜひ一度訪ねてみてください。

いのちとうとし

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2019年10月 2日 (水)

白島地区の被爆樹木を訪ねて―その2

「白島地区の被爆樹木を訪ねて」のつづきです。次に訪ねたのは心行寺(爆心地から1,880m)のソテツです。安田学園からは、道なりに東に400mのところにあります。ここから白島九軒町です。

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塀に沿って右側の通用門から境内に入るとすぐに大きく育った「ソテツ」が目に入ります。

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このソテツも、敷地内で移植されたそうです。

次は、宝勝院(爆心地から1,820m)です。心行寺からは、バス通りを渡って東南へ170mのところです。

「大田洋子生誕の地」は、南側の墓地の一角にありますが、被爆樹木は、お寺の境内にあります。ボダイジュとツバキです。

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ボダイジュの親木は、この寺院内で被爆し焼失したようですが、その根から新しい芽が吹き、それを苗木として植え付けたもので、1975年に現在の場所(境内正面の植え込みの裏側)に移植されています。

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もう一本の被爆樹であるツバキも、親木は被爆によって焼失したそうですが、焼け残った根元から新芽が生え、大切に育てられたようです。親木は、かつては高さが10mもあり、地域のシンボルだったそうです。このツバキも1975年に現在の場所(本堂への入り口の階段の脇)に移植されています。

次は、碇神社(爆心地から1800m)です。碇神社は、宝勝院の南側で境を接しています。ここの被爆樹木は、ソメイヨシノとタブノキです。

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ソメイヨシノは、バス通りから境内に入って左手の狛犬の後ろにあります。このソメイヨシノは古木のように見えますが、親木は、被爆した時地上部が焼失し、焼け残った根元から新芽が生え、成長したものです。

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もう一本の被爆樹木タブノキは、境内奥の神社の本殿の南側にあります。大きな木に成長しています。取り付けられ被爆樹木の名札には、「焼け残った根元から新芽が生え、成長したものです。」と書かれていますが、広島市の被爆樹木リストには、「この木も被爆により地上部が焼けました。現在ある幹は被爆後に再生したものです。」と書かれています。新芽なのか幹の再生なのか、疑問の残るところですが、ただ被爆に耐えて、大きく成長したことだけは間違いありません。この後、「大田洋子生誕の地」碑を訪ねましたが、すでに紹介しましたので、次の光明院に移動します。と言いつつ、このブログには写真をたくさん付けましたので、今日は、ここで終わりにします。

あと二つのお寺が残っていますので、明日以降につづきを報告します。

いのちとうとし

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2019年10月 1日 (火)

核廃絶運動は歴史的厳しさに直面している (7) ――憲法の復権と民主主義の再生が必要――

今回でこのシリーズを終らせたいと思っていたのですが、長くなりましたので、今回そして次回とお付き合い下さい。

未曽有の厳しさに直面している核廃絶運動を再活性化し、日本政府の方針転換を実現するためには何ができるかを考えてきたのですが、このような時にこそ、「原点」に戻りましょう。それは、被爆体験と憲法です。改めて、初心に戻って体験記を精読したり、映画を観たりすることで、そもそも何が元になって私たち一人一人がこの運動に関わって来たのかを振り返りましょう。

原点に戻ることの大切さは、原爆投下直後に仲間たちとともに広島に滞在して、数十軒の「ヒロシマの家」を建て広島市に寄付したフロイド・シュモーさん (後に広島市特別名誉市民) が、90歳になって、シアトル市で開かれた「ヒロシマ・シンポジウム」に参加したときに述べています。

「私は広島・長崎で数か月過した経験がありますが、機会のある度にこの種の催しに参加することにしています。それは私自身、広島・長崎の被爆の実体を忘れないためです。」

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憲法については、もう一度憲法の条文を字義通り、素直にそして論理的に読むことをお勧めします。憲法の中の条文はどれも大切ですが、その中で9条の大切さは、当然のことながらずっと強調されてきました。安倍内閣がその9条の改憲を目論んでいることが大きな問題なのですが、それだけではまだ十分に憲法を巡る厳しい状況を理解したことにはなりません。

その点について、きちんとまとめた一書を法政大学出版局から上梓しました。『数学書として憲法を読む--前広島市長の憲法・天皇論』です。これをお読み頂くことで、現在の政治が如何に好い加減に行われているのかについての認識を持って頂くことができるはずです。つまり、現在の政治に対してこれまで気付かなかったような面も含めて大いなる「危機感」を持って頂けることになると信じています。それを出発点にして、新たなエネルギーと努力が生れることに期待しています。

これも大切な点ですので、触れておきますが、法政大学出版局は70年前、つまり1949年に、ジョン・ハーシー著の『ヒロシマ』の邦訳を出版することからスタートを切った、先見の明がありかつ問題意識もしっかりしている出版組織です。

さて、「原点」に戻った上で、日本政府に核兵器禁止条約の批准をさせることが私たちの目標なのですが、「原点」が、被爆体験の共有と憲法に則った政治の実現であることを確認しました。これを、「長期的」目標と呼びたいと思います。それに対して、日本政府の核兵器禁止条約は「中期的」目標と呼んでおきます。「中期」と言ってもここ一二年以内に実現しなくてはなりませんが、「短期的」目標とも合せて考えての位置付けです。

一応時間枠を設けて、それぞれの目標を区別していますが、現実に政治を動かす上で、「長期的」目標が達成されれば、自然に「中期的」目標も実現されますので、因果関係に注目することも大切です。

被爆体験の共有は、被爆者との直接対話を経験した私たち世代の責任として、その次の何世紀にもわたる世代との共有を目指す必要があります。それを可能にするのは、「アナログ」的な手法ではなく、時間とともに劣化しない形での共有でなくてはなりません。被爆体験の系統的な思想化、学問化等の言葉が分り易いかも知れませんが、それを世界の大学を基盤として実現し広めて行く必要があります。安倍内閣がすぐ取り掛かるかどうかは別にして、「唯一の」被爆国という言葉を使ってきた日本政府としては、国家的事業として取り組まなくてはならない仕事です。

憲法に則った政治の実現ということは、憲法の三つの柱である「主権在民」「基本的人権」そして「平和主義」が、文字通り政治の場で生きていることを意味しますが、その内で「平和主義」に焦点を合せて努力してきたのが、核廃絶運動です。その運動が厳しい状況に直面しているのですから、その他の柱にサポートして貰う必要もあります。一般論を述べているだけのスペースがありませんので、例示だけでポイントを示しておきましょう。

憲法9条を蔑ろにすることも含めて、憲法違反が横行している現在の政治状況を作った大きな原因は、小選挙区制です。しかも現行の制度ができた過程では、憲法違反が大きな役割を果しています。憲法を尊重する政治を実現するためには、小選挙区制度を止めさせ、民主主義が復活するような制度に変えなくてはなりません。このような声が現在ほとんど聞こえてこないのは、現実の政治状況があまりにも悪くなって、緊急避難をしなくてはならないからという理由が大きいと思いますが、同時に、問題の根本から変えて行く努力もしないといつまで経っても同じ問題に対応するためだけの運動になり兼ねません。

次に、基本的人権の中でも一人一人の人間が生きる権利、生命権が何よりも重要であることは言を俟ちません。核兵器の廃絶はこのことと直接関係があります。

しかし、ここで注意を払って頂きたいのは、生命権が大きく蹂躙されているにもかかわらず、圧倒的多数の国民から支持されている制度です。それは死刑制度です。『数学書として憲法を読む--前広島市長の憲法・天皇論』の第II部で詳細に論じていますが、憲法第13条の最初の文章を読むだけでも、憲法が死刑を禁止していることは誰にでも分ります。しかし、最高裁判所は昭和23年の判決で、死刑は合憲だという判断を示し、複数の世論調査で、死刑制度を容認している世論は、80パーセントから85パーセントという高い率を示しています。「人権」の意味を、主権者たる私たちが十分に理解していないのではないかと、疑問に感じてしまう数字です。

これらの中・長期目標はどれを取っても難しいのですから、それを合せたものはなお難しくなるのかもしれません。しかし、より多くの人に私たちの運動に参加して貰うためには、危機感を共有して貰うことが一つの前提になります。幅広い目標を掲げて、そのどこかに共感して貰えれば、共同の幅は広がります。

つまり、私たちの運動に参加して貰えそうな「候補」が関心を持っている事柄についての発信をして、まずは対話を始めることが第一歩なのではないでしょうか。その中で、何らかの「行動」を取って貰うように説得するのが次の段階です。その行動は、出来れば、結果がすぐ分るような種類であることが望ましいのですが、それは、結果がプラスであれば再度同じ行動を取って貰える可能性が増えるからです。

そのためには、多様な「短期的」目標を設定して、その実現のために努力することが肝要です。たとえば、11月のローマ法王の長崎・広島訪問に当って、「パブリック・ビューイング」を催して歓迎の意を伝えるなどというアイデアもあります。

「短期的」目標にはその他にどのようなものが考えられるのかについて、さらにそれらの目標達成のための手段にはどのようなものがあるのかについて、次回、考えてみたいと思います。

[2019/10/1 イライザ]

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