原民喜の墓
今日は、昨日のつづき原家のお墓についてです。「原民喜の墓」ではなく「原家のお墓」と書いたのは、この墓は原民喜の他の親族も埋葬されていることが分かったからです。そのことには、後で少し詳しく書きます。昨日も書いたように「原家のお墓」は、東白島町の円光寺の墓所にあります。南側の境界の塀に沿って北向きに並ぶ墓の一番東側で、墓所の東南の角です。
原家の墓は、北向きの一番東側にあるため、墓の正面に北向きの通路が伸びています。墓所にはびっしりとお墓が建ち、通路も狭くなっていますので、他家のお墓を正面から撮影するのに一苦労するのですが、原家のお墓は、正面から全体をきちんと映すことができました。
お墓の向かって右側の側面に、物故者の名前が刻まれています。他のお墓と同じように亡くなった順に右から名前があります。一番右側に原民喜の妻「貞恵」の名前があり「昭和十九年九月二八日没 三十四才」と刻まれています。ここには享年「三十四才」となっていますが、昨年岩波新書として発刊された梯久美子さんの著書「原民喜」の中では、「享年三十三」となっています。数え年と満年齢の違いだと思われます。その左には、昨日のブログで触れた「文彦」の名前があり「昭和二十年八月六日没 享年七才」と刻まれています。陸軍偕行社が運営していた済美小学校の一年生だったそうです。改めて、昨日引用した「夏の花」に書かれた、悲惨な姿が思い起こされます。その左に「民喜」の名前があり「昭和三六年三月十三日没 四十六才」と刻まれています。その左に「邦彦」の名前があり「昭和五十年十月二十五日没 四十三才」と刻まれています。墓碑の次に刻まれている「守夫 昭和五十三年六月三日没 七十五才」は、お父さんではないかと思われます(文生さんに聞けばよかったのですが)ので、邦彦さんも、被爆直後の死は免れたものの早い死といわなければならないと思いました。墓碑の最後には、文彦さん、邦彦さんたちのお母さんと思われる「良子 平成十年六月十七日没 八十八才」が刻まれていました。ご冥福をお祈りいたします
原家のお墓には、この墓碑の下の墓石の左右両面に文字が刻まれています。隣お墓と近すぎてその場では読みにくかったのですが、写真を撮り、帰宅して拡大してみるとようやく判別できました。
向かって右側は、原民喜の「碑銘」と題された短い詩が刻まれています。
遠き日の石に刻み
砂に影おち
崩れ墜つ 天地のまなか
一輪の花の幻
この詩は、原民喜が作家遠藤周作に宛てた遺書の裏面に記載されていたそうです。原爆ドーム横の「原民喜の碑」にも、この詩が刻まれています。
向かって左側は、写真を撮るのが難しかったです。ここには7月26日のこのブログ「『星は見ている』の初版に『読後感』が掲載された経緯」で少し紹介した「ゆうかりの友」の冒頭に掲載されている原邦彦作「ゆうかりの友」という短い詩が刻まれています。
ゆうかりのもとに つどいし友よ
ゆうかりのもとで ちりし友よ
その面影は 今も変わらず
寄り道のような形で訪ねた「原家のお墓」でしたが、文生さんとの出会いもあり、原民喜と原家の人たちが少し身近に感じられるようになったお墓参りでした。
遊川さんが送ってくれた今日のお花は、彼岸花です。今日のブログにぴったりだと思います。
いのちとうとし
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