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2019年8月 8日 (木)

ヒロシマとベトナム(その3)

フランスのベトナム支配

前回(7月5日)、古代から近世の日本とベトナムとの関わりを概観しました。今回は近代に入っての関係を見ることにします。近代は1867年の大政奉還により成立した明治維新以降という説と、1858年の日米通商条約締結以降という説があるようですが、いずれにしろ幕末期から明治以降と捉えておけばよいでしょう。

日本で将軍を頂点とした幕藩体制(封建社会)が崩壊し、商人を中心にした中央集権国家(資本主義社会)に移った頃のベトナムは、1862年にサイゴン(現在のホーチミン)をフランスに占領され、植民地化が進められていた頃です。当然、フランスへの抵抗は起こり、1885年に14歳の阮朝(グエンちょう)8代皇帝咸宜帝(ハムギてい)の蜂起に呼応する抵抗闘争が各地で戦われましたが、相次いで鎮圧。皇帝はアルジェリアに追放され、1887年には仏領インドシナが成立しました。

日露戦争と「トンズー運動」

この頃の日本は、鉄道や通信、官営工場建設などの殖産興業化と教育令(学制)、徴兵令(兵制)、地租改正(税制)を柱に富国強兵政策を進め、1877年の西南戦争と1889年の大日本帝国憲法の制定を経て、近代国家としての歩みを強めていました。そして1904年に朝鮮半島と満州の権益をめぐるロシアとの日露戦争が起こり、翌年、バルチック艦隊との日本海海戦を制しました。

19881

フランスの植民地支配に抵抗していたベトナムの人たちは、大国ロシアに東洋の小さな島国が勝利したことに鼓舞され、1905年に「トンズー運動」を始めました。ベトナムの独立を目指す抗仏活動家の一人ファン・ボイ・チャウが展開した「トンズー運動」は文字通り、東(日本)に遊学(留学)する運動で、その目的はベトナム人の教育水準を高めて人材の育成を通し、フランスからの独立を図ろうというものでした。しかし、韓国と台湾での権益確保を狙う日本政府とインドシナ権益確保を意図するフランスとの利害の一致から結ばれた「日仏協定」によって、日本政府から解散命令を受けるなど弾圧された留学生は生活にも困窮しました。

何時の時代も国家権力というものは、人の暮らしや生命を大切に考えてはいません。

 浅羽佐喜太郎が結んだベトナム人との友情

困り果てたファン・ボイ・チャウが援助を求めたのが、以前、同胞が助けてもらったことがある現在の静岡県袋井市梅山出身の医師、浅羽佐喜太郎でした。佐喜太郎は私財を投じて、1,700円(現在の4,000万円相当)をつくり彼らを支援しました。日本政府からの退去命令を受けたチャウは、1909年に香港に逃れ「トンズー運動」は失敗します。その後、ファン・ボイ・チャウは中国の広東を拠点に独立運動を続けますが、フランスの官憲に逮捕されフエ近郊で軟禁生活を送っていた1940年10月25日に75歳の生涯を閉じました。

19882

チャウの死の翌年1941年から5年間、ベトナムはフランスから支配権を奪取した日本軍の占領支配を受けます。そして、大日本帝国政府が「ポツダム宣言」受諾による「降伏文書」に調印した日、1945年9月2日、ベトナム民主共和国初代国家主席ホー・チ・ミンによって「ベトナム独立宣言」が発せられました。ベトナム独立の父“ホーチミン”は日本でもよく知られていますが、もう一人の民族独立運動の指導者であるファン・ボイ・チャウのことは意外と知られていません。

ベトナムの人たちが親日的であることはベトナム人と接した人だけでなく、大方の日本人の認識になっています。その根底にはフランス政府や日本の官憲に追われているファン・ボイ・チャウやベトナムの若者を、庶民のもとで働く医師、いわば「市井の人」である浅羽佐喜太郎が救援したことにあるのだと思います。そして、“ファン・ボイ・チャウをはじめ多くの人たちによる抵抗闘争と独立運動の上に、ベトナム民族の独立があるのだ”という気持ちの表れだと思います。

しかし、ベトナムの人たちが真の民族独立と平和を獲得するまで、まだまだ険しい道のりがあり、日本や広島も深く関わっています。次回(9月)、そのことに触れたいと思います。

~追記~

浅羽佐喜太郎はファン・ボン・チャウ退去の翌年亡くなります。チャウは逃れて9年後、再び日本を訪れましたが既に浅羽佐喜太郎はなく、村人の協力を得て、追慕の思いとベトナム独立の悲願を込めた「浅羽佐喜太郎公紀念碑」を建立しました。

19883

1918年に建立された記念碑(左、静岡県袋井市梅林、「常林寺」境内)

 

《碑文訳》
われらは国難(ベトナム独立運動)のため扶桑(日本)に亡命した。
公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。
思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。
蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。

 

蒙空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。
我ハ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ億万年
           大正七年(一九一八)三月 越南光復会同人

(「記念碑建立85周年記念式の報告」より)

(2019年8月4日、あかたつ)

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