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2019年12月14日 (土)

森滝日記からたどる「原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申」

先日のブログに「原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申」のことを書いて以降、当時の状況をもう少し詳しく知りたいと思い引っ張り出した本が、中国新聞社が1985年7月10日に発刊した「ヒロシマ40年森滝日記の証言」です。

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この本は、「あとがき」にもあるように「1984年(昭和59年)1月1日付から同8月1日まで、中国新聞紙面で200回にわたって連載された記事をもとに、その中から被爆者たちの平和への訴えや原水禁運動の分裂など大きな節目に力点を置いて、一部補筆した」ものが、書籍としてまとめられ出版されたものです。随所に、森滝先生の日記に書かれた文章が記載されています。

「原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申」について「森滝日記の証言」に書かれていることを振り返ってみたいと思います。答申が出された12月11日の日記には「午後3時から労働会館で広島の被爆者団体、平和団体、個人等が幅広く集まり、答申書検討。批判の声明書、政府への要請書案作る。村上忠敬氏と夕食を共にし、久々に語る。午後6時から労働会館ホールで答申書に対する批判、抗議の県民集会。宮崎氏司会。意見と陳述を述べる。」とこの日の日記には、淡々と事実が記載されています。

ところが、報道各社から意見書の内容を知らされた前日、12月10日付の日記には次のように書かれています。「七人委の答申書(報道関係に前渡しのもの)を持ち、ホームテレビ、共同、中国等来宅。まったく裏切られた内容で絶句。これが日本の『学識経験者』か。夕方、やっと冷静に熟読。『受任云々(云々)」のところに重大なあやまり。最高裁判決の『国家補償』を狭め、狭める。いたずらに『公平の原則』や『バランス論』を振りかざす法律論。『原爆死没者、傷害者』に日当たらず。あやまりの根源は、『旧来の戦争感』。そこから一般戦災の受任の論理が出てくる。夜遅く中国、共同など再来訪。感想語る。『答申書評価の二つの基準』」。

二つの基準は「①基本理念は少なくとも国家補償の精神を打ち出した最高裁判決=孫振斗=の内容を下回らない②原爆死没者と傷害者に日が当たる。」ことです。

森滝先生は、記者の質問に対し次のように語っておられます。

「私にとって問題なのは、死没者や原爆によって一生を台無しにした原爆孤児、傷害者への償いだ。そこが切り捨てられていることに怒りを感じる。また『戦争の犠牲を国民が等しく受任しなければならない』という戦争感は大きな誤り。民衆の被害、原爆の被害に手厚く償ってこそ、今後過ちを繰り返さない宣言となるのに…」

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七人委員会のメンバーが記者会見で「あくまでも科学的立場に立って結論を出した」「必要な人へ行き届いた対策をという必要原則が根本的な考え方だ」と述べたのに対し、森滝先生は同月18日の日記に「『人間的認識に立たずして被爆の傷跡の深さはわからぬ。『地底からの叫び』聞き取り得る『人間的認識』を持たずして「科学的合理的認識」を強調してみても空しいことである」と記されています。

七人委員会は、前年の12月6日に被爆者代表5人の意見を聴いています。森滝先生もその一人で、その日の日記には「ともかく深く受け取られた様子」と書かれていますので、答申に対し裏切られた気持ちはより強かったのだと想像できます。

原水禁は、今もなお「国家補償の被爆者援護法」を求め続けていますが、その実現のためにも改めて「国家補償」の意味を理解し、先人の歩みに学ぶことが必要だと思っています。

「ヒロシマ40年森滝日記の証言」は、絶版になっていますが、図書館などで手にすることができますので、一度読んでみてください。

いのちとうとし

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2019年12月13日 (金)

日朝友好広島県民の会が「2019年度総会」を開催

日朝友好広島県民の会は、「2019年度総会」を、昨日午後6時より広島留学生会館で開催し、この一年間の活動の総括と来年の運動方針を決定しました。

開会にあたって佐古代表委員は「日朝平壌宣言から17年、しかし、共和国に核実験、ミサイル実験、そして日本の経済制裁によって冷え込んだ関係になっている。今平壌宣言に立ち返って、日朝国交正常化が急がれる。そのためにも、高校無償化、幼保無償化の解決が必要。安倍首相は、無条件の話し合いといっているが、全く誠意はない。差別の助長が、日朝関係を困難なものにしている。多文化共生社会の実現に向かって運動を強化する必要がある」とあいさつ。続いて、渡辺事務局長がこの一年間の活動と次年度の方針を次のように提案しました。

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主な活動報告は、①朝鮮学園無償化裁判の支援行動②2019金剛山歌劇団チャリティー公演の支援③初めて広島で開催した「朝鮮統一支持運動第37回全国《広島》集会」などです。

活動方針としては、①日朝国交正常化の実現をめざす取り組みの強化②引き続き、朝鮮学校への「高校無償化」適用,朝鮮学校への補助金再開を勝ち取るため,無償化裁判の支援行動を取り組む③朝鮮学園支援の「民族教育連帯基金」への協力④訪朝団の派遣などを確認しました。

さらに当面の重点的取り組みとして「在日同胞との交流を通じて差別の歴史に学び、差別意識を克服し、朝鮮半島をめぐる情勢を学び、東アジアの平和のための運動につなげていきます。

無償化裁判、反動的判決を跳ね返すため、広島朝鮮学校を支援する取り組みを通じて、日朝友好の環境を広げていきます。

その一環として、広島無償化裁判を支援する取り組みに参加をしていきます。

①街頭行動:毎月19日を基準、事務局からその都度開催場所と時間を連絡します。

②控訴審裁判傍聴行動: 次回(結審) 3月16日(火)予定 (開廷時間等別途要請)

③裁判勝利を求めるために、2月中旬に全国統一集会に合わせて広島においても開催します。」ことを確認しました。

次に行われた役員選出では、広教組選出の幹事の交代を確認し、前任の西迫さんを新たに相談役に選任し、その他の役員の留任を決定しました。その後、村上敏幹事が「広島と全国の無償化裁判の状況について」の特別報告を行い、横間代表委員の閉会あいさつで総会は終了しました。

総会終了後、恒例の記念講演が行われました。今年は、大変多忙の中、時間を割いていただいた幼保無償化を求める朝鮮幼稚園保護者連絡会代表の宋恵淑(ソン・ヘスク)さんが、「朝鮮学校の子どもたちの学びの場を奪わないでー「幼保無償化」問題と朝鮮幼稚園」と題して講演。「すべての子どもが健やかに成長するよう支援するための世無償化」でありながらなぜ差別が起きているのかを、時系列的に詳しく整理して説明されました。高校無主化問題と同様、運動の輪を広げていくこと訴えて講演は終了しました。

「高校無償化」に加え「幼保無償化」問題が新たな課題となった日朝友好広島県民の会の総会でした。

いのちとうとし

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2019年12月12日 (木)

「原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申」から29年

今日は、1980年12月11日に出された「原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申」(以下『基本懇答申』という)について改めて考えてみたいと思います。そのきっかけとなったのは、不戦の誓いヒロシマ集会が行われた12月8日の午後、鷹野橋にあるユイポートで原爆被害者相談員の会が主催し開催された「12・11基本懇意見書にこだわる被爆者問題シンポジウム」に参加したことです。

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私が参加しようと思ったのは、このシンポジウム「現在の被爆者の生活課題と今後の支援~被爆75年を前にして~」のパネラーの一人に若い時から一緒に活動を続けてきた胎内被爆者でもある友人の名前があったからです。

シンポジウムは、高齢化する被爆者の間に多くの問題が出てきているかを中心に、5人のパネラーから、それぞれの立場から報告があり有意義な内容でしたが、私がはっと思わされたのは、集会のメインに「基本懇」という言葉があったからです。

多くの被爆者の期待を裏切った「基本懇答申」が、出されて39年が過ぎました。被爆二世裁判などでこの「基本懇答申」が引用されることはありますが、その他ではほとんど耳にすることも少なくなっています。

私は、原水禁大会などで「原水禁運動の歴史」を話す機会がありますが、その時には、「国家補償の被爆者援護法」との関連で、必ずこの「基本懇答申」に触れることにしています。

野党共同の「援護法」がまとまり、75年4月には、森滝市郎先生が衆議院社労委員会(現在の厚生労働委員会の前身)で参考人として意見陳述するなど、1970年代に入り、「国家補償に基づく被爆者援護法」制定を求める運動が強化される中で、1979年5月18日に茅誠司東大名誉教授など7人の委員で構成される厚生大臣の諮問機関である「原爆被爆者対策基本問題懇談会」が発足し、その意見書が80年12月11日に提出されました。

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 署名を集めて全国行脚(中国新聞社刊「ひろしまの記録」より)

「援護法制定」を求めて運動を続けてきた被爆者は、この懇談会に大きな期待を寄せ、その答申を待っていたのですが、発表された答申は、全く被爆者の期待を裏切るものでした。当日夕方、広島の被爆者団体や反核団体は南区金屋町の労働会館(現在のワークピア)に集まり、期待をして待ち受けていたのですが、その思いは裏切られ、集会は、抗議集会となったことを今思い出します。

国家補償の柱として求められていた「死没者への償い」は、次のように切り捨てられました。

「おおよそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民がその生命・身体・財産等について、その戦争によって何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは、国をあげての戦争による「一般の犠牲」として、すべての国民が等しく受忍しなければならないところであって、政治論として、国の戦争責任等を云々するのはともかく、法律論として、開戦、講和というような、いわゆる政治行為(統治行為)について、国の不法行為責任など法律上の責任を追及し、その法律的救済を求める途は開かれていないというほかない。」(下線は、筆者) 

「戦争被害受任論」です。その影響は大きく、1994年に成立した「被爆者援護法」も、原爆の最大の犠牲者である死没者への償いは盛り込まれませんでした。

「戦争被害受任論」を決して忘れず、打ち破ることは、国家の戦争責任を追及する道でもあります。「国家補償の被爆者援護法」にこだわり続けなければならないと改めて感じた集会でした。

いのちとうとし

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2019年12月11日 (水)

「防災省」設置案・その6 災害後の対応・その2

災害後に大きな力を発揮するのが、重機だということは、ここ数年にわたって災害現場からの報道を御覧になった皆さんの記憶に刻まれていると思います。また医療等の専門的知識によって被災者の生命や健康を守る貴重な活動も忘れてはなりません。「防災省」の仕事の説明に当って、その他の活動にも触れたいのですが、今回は特にこの二つを中心に、 (E) について説明したいと思います。

 

[災害発生後に視点を移しての防災省の仕事]

  1. (略)
  2. (略)
  3. (略)
  4. (略)
  5. 災害救助のために必要な専門的知識、そのために使用する機器・重機等は、専門組織や民間の所有する機器等に依存せざるを得ない面が大きいため、消防団組織をモデルに、専門的なノウハウや重機を「ボランティア」として提供して貰う仕組みを、(D)で言及した3レベルそれぞれに対応する形で整備する。

《解説》

①.災害救助に当って、多くの人手が必要ですが、消防の正規職員だけではとても数が足りません。「ボランティア」として普段から訓練を受け、適切な災害対応能力を持つ「消防団員」が活躍する場になるのと同じように、重機にしても正規に消防が保有しているものだけでは到底数が足りません。自衛隊や消防庁の持つ重機もありますが、それを加えてもまだまだ足りないのが大災害のケースです。その不足分は、被災地域の建設業を中心に日常業務で重機を使っている企業に協力を要請し、「災害出動」をして貰うことになります。

②.地域の建設業関連の企業では、「○○市建設協会」(以下協会と略)といったような名称の団体を作って、その○○市と協定を結んで、災害時には重機や重機のオペレーターを提供することで大きな社会貢献をする仕組みを作っているケースが多く見られました。このような仕組みが円滑に機能するためには、行政と協会の緊密な連携が必要です。そして、災害時に利益を上げるような印象は避けたいのが人情ですから、「ボランティア」という側面が強調されます。善意の活動とは言え、企業側の負担が大きいことは言うまでもありません。

③.災害時に助けて貰うことから、行政の側から考えると「恩がある」という気持が強くなり、企業側ではマイナスになった分をどこかでプラスにしたいという気持があります。これまでには、そこから出発した談合が発生したこともあったそうなのですが、その是非はともかくとして談合の背景にはこうした事情のあったことも理解しておくべきだと思います。近年では、このような事例は減少し、行政と企業との関係は透明化され、完全なボランティアに徹するか、適正な対価が払われる方向に変ってきているようです。

④.ボランティアに徹した素晴らしい実践例として、NPO法人「未来の環境を考える会」を紹介しておきたいと思います。2005年に発足したNPOですが、以下の活動内容の説明は、ここで私が言いたかったことを簡潔にまとめてくれています。http://www.npo-nkyo.jp/rescue/index.html

⑤.「地元中小建設業者は、常に大型・小型の重機を自社で所有しております。日頃は下水道、道路工事等では住民の方々にご迷惑をかけ、ご協力を願っておりますお蔭様で、企業として成り立っております。重機等を使用して危険な作業に毎日従事していますので、災害が発生すれば、直ちに経験と技術力を生かして地域のため人命救助、災害復旧に協力できる体制です。地震災害時の緊急救助体制を整え、救助用重機だけでなくジャッキ、ポンプ等の機材も保有しております。また、重機の動力源の補給がたいへん困難であったことも現地で身にしみておりますので、対応として会員が燃料タンク車を自費購入して常備することに致しました。私たちは重機及び車両の種類、台数、緊急時の連絡体制整えております。」

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NPO法人「未来の環境を考える会」が提供できる重機の一例

⑥.水道事業は自治体の仕事ですが、ここでも民間の協力は必要になりますし、ガスや電気は民間企業の守備範囲ですが、それでも、自社の正規職員以外の協力も必要になります。

⑦.もう一つ、被災地で欠くことのできないサービスは医療です。そのために、2005年から都道府県単位で整備され始めた組織としてDMAT(ディーマット) があります。緊急時に立ち上がる一時的な組織ですが、ウィキペディアでは次のように紹介されています。

⑧.「災害派遣医療チームとは、医師、看護師、業務調整員(救急救命士・薬剤師・臨床工学技士・臨床検査技師・理学療法士・作業療法士・放射線技師・社会福祉士・コメディカル・事務員等)で構成され、地域の救急医療体制では対応出来ないほどの大規模災害や事故などの現場に急行する医療チーム」

⑨.このように、行政と民間との協力が一体になって初めて機能するのが災害救助ですので、「防災省」が立ち上ったとすると、この「行政 ⇔ 民間」の間の協力関係をさらに密にする方向に進化させたいと思うのは人情なのではないでしょうか。そこで、注目したいのが、消防における消防団です。重機を提供する企業やそのオペレーターたちも消防団員と同じような位置付けで消防組織の一部として、実地訓練に参加し、災害の現場に参加し、同時に適正な報酬や手当を受け取れる仕組みを作れれば良いのではないかと思います。医療という専門集団については、DMATがかなりまとまった機能的活動ができるようになっていますので、それ以上を求める必要はないのかもしれませんが、消防団員についての次の心配を視野に入れると、違った対応があるかもしれないとも考えられます。

⑩.それは、災害現場での活動には命の危険が伴う、という事実です。消防団員の場合には特にその点が心配なのですが、避難の勧告を個別に伝えたり、避難誘導をしたりしている際に土砂流に巻き込まれるケースなどがこれまでもありました。これは、二次災害なども視野に入れれば、DMATのメンバーにも当てはまります。「危険箇所には近寄らない」が鉄則ではあっても、必要かつ適正な保険制度等の整備も含めて、消防団の制度を改善した上で、改善版をモデルに、重機や専門的知見、そして善意を提供してくれる企業・団体・個人と行政との関係を整理することも「防災省」の任務の一つだと考えています。

[2019/12/11 イライザ]

 

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2019年12月10日 (火)

「原爆ドーム世界遺産登録記念集会」開催

 今年で「原爆ドーム」が世界遺産登録されて23年となる昨日午後6時から、原爆ドーム前で「原爆ドーム世界遺産登録記念集会」が、開催されました。今年は、写真を中心に紹介します。

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この集会を主催したのは、連合広島や広島県原水禁、広島県平和運動センターなど12団体で構成する「核兵器廃絶広島平和連絡会議」で、それぞれの団体から100名が参加しました。これらの団体は、いずれも、原爆ドーム世界遺産登録に大きな貢献をなした「署名活動」の担ってきた団体です。

集会では最初に主催者を代表して連合広島久光博智会長があいさつ。久光会長は、原爆ドーム世界遺産登録への歩みを振り返りながら、トランプ政権の進める核政策を厳しく批判するとともに、来年のNPT再検討会議に向けて取り組みを強化する決意を表明しました。

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続いて、連合広島、広島県被団協、広島県原水禁、KAKKIN広島のそれぞれの代表による献花が行われました。

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次に、連絡会議を構成する他の8団体代表による献水です。

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献水が終わると、この記念集会の集会アピールが提案され、全員の拍手で採択されました。集会アピールにこの記念集会の意義が集約されていますので、情勢部分を除いて掲載します。


原爆ドーム世界遺産登録記念集会アピール

今から74年前の1945年8月6日午前8時15分、この広島に人類史上初の原子爆弾が投下された。

爆心地近くにあった広島県産業奨励館は、「原爆ドーム」と呼称を変え、その歴史とともにここに立ち続けている。

今から23年前の1996年12月7日、「原爆ドーム」のユネスコ世界遺産登録が実現した。

原子爆弾の恐ろしさ、愚かさを後世に伝えるために、この「原爆ドーム」のユネスコ世界遺産登録に向けて、多くの市民や県民が一体となって、4年の歳月をかけて署名活動などの運動を取り組んだ。その熱い情熱の結集である、164万を超える請願署名が政府を動かし、世界遺産登録委員会の決定を手繰り寄せることとなった。

私たち、ヒロシマが求めてきたものは、「原爆ドーム」の建造物としての文化的価値の評価ではなく、「原爆ドーム」に刻まれた被爆者の慟哭と被爆の実相を世界の人々へ伝え、核兵器の使用は決して許してはならないという警鐘を鳴らし続けることにある。

(中略)

これらの動きは、国連で採択された「核兵器禁止条約」をはじめとする「核兵器なき世界」を切望する国際世論に対し、完全に逆行するものである。

こうした危機的状況だからこそ、ヒロシマの果たす役割は重い。

私たちは、「原爆ドーム」世界遺産登録の意義を再認識し、国内外の世論喚起を図るとともに、被爆の実相を着実に次世代に継承していくなど、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けた運動を強化していかなければならない。

私たちは、74年前の惨劇を目の当たりにし、今もなお「核兵器廃絶と世界の恒久平和実現」を無言で訴え続ける「原爆ドーム」とともに、思いを共有する多くの人との連帯の輪をさらに広げ行動することをここに誓う。


最後に広島県被団協の箕牧智之理事長代行が「来年は75年という節目を迎え、若いといわれた被爆者も後期高齢をむかえ、一段と被爆者の高齢化が進みます。来年4月の国連でのNPT再検討会議では、ニューヨークに行き証言活動をする中で、世界の成果の胸に突き刺さるような言葉を考えていきたいとの強い気持ちです。」と決意を込めた閉会のあいさつ。

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その後参加者一人ひとりが献花をし、記念集会は終了しました。

いのちとうとし

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2019年12月 9日 (月)

「12.8不戦の誓いヒロシマ集会」を開催―決意を新たに

「開戦通告」もないまま旧日本軍がアメリカ・真珠湾を攻撃し、本格的な太平洋戦争に突入した12月8日を忘れず、再び戦争する国にさせないと誓うため、毎年この日に開催してきた「12.8不戦の誓いヒロシマ集会」が、今年も自治労会館で開催されました。

主催団体は、例年どおり「憲法を守る広島県民会議、広島県平和運動センター、原水爆禁止広島県協議会、8の日平和行動ヒロシマ女の会、戦争をさせないヒロシマ1000人委員会」の5団体で、参加者は約100名でした。

憲法守る広島県民会議赤木事務局長の司会で始まった集会、主催者あいさつは同じ憲法を守る県民会議の檀上代表委員、そして記念講演へと続きました。

今年の記念講演は、憲法学者で長崎大学名誉教授の舟越耿一(ふなこえこういち)さん。タイトルは「長崎原爆へ至る道―どうしてそうなったの?それで今どうなった?」です。

「1945年10月に鹿児島で生まれ30歳で長崎大学に赴任、その時始めって被爆者に出会った」という自己紹介から始まった舟越さんのお話。数年前脳卒中で少し発声が難しくなっているということで、あらかじめ話の原稿が参加者に配布されました。

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「憲法9条の実現を希求する強い意志を原爆被爆地が持たなくていったい日本のどの都市が持つだろうか、と自問してみる」で始まり、グラバー園の真正面に、自衛隊の艦船が浮かんでいることを紹介しながら、長崎の被爆実態にふれられる。そして「語弊があるかもしれないが、戦後この方、市民と行政が一体となって反核運動をやっている間に『長崎の兵器生産』は戦前並みといわれるまで復活した」。だから、「市民運動団体『ピースバス長崎』を結成し、貸し切りバスに乗って兵器生産の現場や遺跡、被災者追悼碑などを見て回るという活動をする」と自らの平和活動を紹介。

さらに「『真珠湾攻撃をした航空機魚雷は、三菱兵器作所で作られた』という事実が、長崎原爆の最重要の前史であると考えたい」ほとんどの参加者が初めて知る事実を紹介。そして再び、「原爆被爆都市が憲法9条を実現させる努力をしないで、一体日本のどこが9条実現の努力をしようとするのだろうか」と長崎の役割を強調しながらも私たち広島につながる課題が提起されました。そして「そのためには、国民の憲法体験、平和体験を学ぶことが必要だ」と指摘されました。

舟越さんは、この講演の中で二人の書籍を紹介されました。一冊は堀田善衛の「方丈記私記」、もう一冊は加藤陽子の「それでも、日本人は『戦争を選んだ』」です。ぜひこの機会に一読してみてください。

最後の一言。「出る杭は打たれる。出すぎる杭は打たれない」。出すぎるといわれるほどがんばれという激励だったように感じました。

講演が終わり、8の日平和行動ヒロシマ女の会の貴田さんが集会アピールを提案。今回のアピールでは、真珠湾攻撃に先立つ侵略の歴史にきちんと触れています。


 12・8不戦の誓いヒロシマ集会アピール

 「私は1927年(昭和2年)の生まれでございます。日本が国の政策として中国をはじめアジアの国々に侵略戦争を行ってゆく、私の青春は戦争とともにありました。」ある女性の回想です。

 日本近代史は、台湾・朝鮮半島の植民地化、シベリア出兵、柳条湖・ノモンハン・盧溝橋と続く侵略と戦争の歴史でした。そして、78年前の今日、アメリカ・イギリスなど連合国との太平洋戦争に突入しました。この戦争で2千万人を超えるアジアの人々が犠牲になり、戦争の当事者である日本も300万人を超える人が亡くなり、広島・長崎に原子爆弾が投下され、日本の無条件降伏をもって終了しました。

 私たちは国策として進められた侵略戦争と植民地支配という歴史的事実を直視し、「12月8日」を「8月6日」と並んで、ヒロシマ・日本が忘れてはならない日として位置付け不戦と民主主義の確立を誓ってきました。

 憲政史上最長となった安倍政権のもと、特定秘密保護法・戦争法・共謀罪などが次々と強行成立され、日本は戦争のできる国に変貌しつつあります。そして、「沖縄に新基地は要らない」と沖縄県民が示した度重なる意思を無視し、辺野古新基地建設を推し進めています。

また、在日米軍岩国基地への空母艦載機部隊の移転、イージス・アショアの配備計画、「自衛艦船」の「空母化」軍事力最優先の政治が強行されています。

 とりわけ、岩国基地拡張に伴う米軍機の離発着訓練・低空飛行訓練が繰り返され、騒音問題は近隣住民にとどまらず、中国地方全体の深刻な問題となっています。また、戦闘機の墜落・不時着・部品の落下など市民生活の安全に大きな影を落としています。

 今、自国第一主義が叫ばれ、格差の拡大が進み、自由に話せるという多様性が収縮しています。

 私たちは、こうした「他国との紛争」を助長する流れに抗して、戦争の悲惨さ、教訓に学び、「戦争をすることの愚かさ」を訴え、「平和と民主主義を守ろう」と日々奮闘している広範な人々とともに、活動を一層強化することを心に刻み、12・8不戦の日の誓いとします。


閉会のあいさつに立った平和運動センター西迫副議長は「過去と同じ過ちを繰り返さないとの誓い。『すべての人は尊い』という普遍的原理が大切。正しい判断のためには、情報が必要。だから、安倍政権は隠し続けるのです。『成功させる秘訣はあきらめないこと』今後もともにがんばりましょう。」と呼びかけ、集会は終了しました。

いのちとうとし

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2019年12月 8日 (日)

「前川秀樹像刻展」に行きました。

昨日から、並木通りの南詰にあるギャラリーたむらで始まった「前川秀樹像刻展―シャン・ノースー」に行ってきました。広島での開催は1年半ぶりです。

昨日は、初日ということで東京や神戸、福岡などから駆けつけた人を含め17~8人の愛好家が、開廊時間の午前11時を待っていました。いつものことですが、人気の高さに驚きです。

私が作品を紹介する力はありませんので、送られてきたDMに書かれた紹介文を掲載します。雰囲気を感じてほしいと思います。

「遠い国のとあるシャン・ノース(古謡)は今日も細い雲の糸を明日へ紡ぐ。成就しない恋を語り、死を謡う。そしてどこにでもある、ありふれた未完の人の生をいくつもの物語へと羽化させる。羽化しなかったモノゴトは、全てが消えてなくなってしまうから、永遠に。一本の蜘蛛の糸のように儚げでもたとえそれが虚でも私のあと先に何かはつながっていてほしい、そう誰もが願うから。」 

会場には、約30体余りが展示されていますが、ここでは作家の了解を得て、その一部を写真で紹介します。

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自らが探してきた流木から作り出された「像刻」は、きっと見る人に癒しを与えてくれると思います。ギャラリーたむらの地図を添付しますので、ぜひ一度、足を運んでみてください。

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会期は15日までです。

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2019年12月 7日 (土)

ローマ教皇と森滝市郎先生

在朝被爆者関係の資料を探している時、たまたま森瀧市郎先生直筆原稿のコピーが目に入りました。400字詰め原稿用紙13枚です。タイトルは「ローマ法王『いのちのためのアピール』一被爆者の感動―」と書かれています。

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「先日、この広島で、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が全世界に向かって『いのちのためのアピール』を発した。まさに発せられるべきに発せられるべきから、発せられるべきが発せられたのである。」これがこの原稿の書き出しです。そして「まさに核時代の危機の日日である。」と続きます。

この文章、ちょうど10日ほど前に広島の慰霊碑前で発せられたローマ教皇フランシスコのメッセージを先取りしたかのかと思わせられるほど、今に共通する中味となっていることにびっくりしました。

核状況を紹介した後、森滝先生は、「」について再び繰り返されています。「『』はまさに人類の『いのちの危機』なのである。ローマ法王はそんなに、そんなだからこそ、広島の来たのである。」今回のローマ教皇フランシスコの広島訪問も、まさに「そんな」なのです。

「核時代の危機に法王が『広島』というを選んで核廃絶のアッピールを出したのは、まことにその『』を得ていた。一発のウラン爆弾で一つの都市を廃墟と化し、二十数万のいのち悲惨きわまりない姿で奪い去り、・・・・ここほど核兵器の脅威をと人類の運命について真人の警告を発するにふさわしいところはない」

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「このように、この、このから発せられこそが『いのちのアピール』であったのである。私はいまだかつてこれほどの懇切丁寧でゆきとどいた平和アピールを聞いたことがない。本当に生きていてよかったと思った。」

読み進めば読み進むほど、ローマ教皇フランシスコのメッセージを聞いた今に共通する文書に思えてならないのは私だけだろうか。この後に、7節にわたる法王ヨハネ・パウロ二世のアピールに対する解説が続きました。そして締めくくりの部分では「法王の広島での平和アピールは勿論不朽の平和聖典であるが、これをしっかりと受け止めて実践する義務は私たちの側にある。」と私たちの役割を示唆されています。そして「ともすれば絶望し、悲観し、無力感におちいる私たちが、気をとりなおして、幾度でも立ち上がれる妙薬は法王の広島アピールを毎日読誦愛用することにあると私には思われる。」と記し、アピールの持つ力を強調されています。

同じことが、今回のローマ教皇フランシスコのアピールにも言えることです。「よかった」で終わることなく、繰り返しその意味を問いかけることが私たちに求められています。

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この文章は、森滝先生が、カトリック正義と平和広島協議会「平和を願う会」から、同会がヨハネ・パウロ二世の広島訪問を記念して発行された文集「平和への道」への原稿依頼を受けられて、訪問2日後の2月25日に書かれたものです。この全文は、2015年に発刊した「核と人類は共存できないー核絶対否定への歩みー」に収録していますので、ぜひ一読してほしいと思います。

現在は、ローマ教皇と呼ばれていますが、森滝先生の原稿では「ローマ法王」となっていますので、今回のブログでは、「ローマ法王」をそのまま使うことにしました。

いのちとうとし

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2019年12月 6日 (金)

被爆建築物「旧陸軍被服支廠」の保存を考える

先日来、被爆建築物である「旧陸軍被服支廠」の保存について、「広島県が『所有する3棟のうち1号棟の外観を保存し、2号、3号棟を解体する』とする原案を、県議会総務委員会に示した」という報道が続き、全国ニュースとしても流れました。

私も、この1日に「旧被服支廠の保全を願う懇談会」が呼びかけた「赤煉瓦の被爆建築物を守ろう!現地での慰霊祭と説明会」に参加したばかりでしたので、驚きをもってこのニュースに接しました。

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「旧陸軍被服支廠」は、95年ごろには倉庫の利用が中止され、その後、その保存活用をめぐって様々な検討がされてきたと聞いています。当然のことですが、当初は3棟すべての保存を前提にした検討が進められてきたと思っています。そう考えていた私にとっては、突然と言ってよい今回の広島県の方針転換です。

改めて考えたいことは、「被爆建造物の保存」をどう考えるかです。広島市は、93年にこの「旧陸軍被服支廠」を被爆建物として登録するとともに、被爆50周年を契機に、市内に残る被爆建築物を調査し、「被爆50周年 未来への記録 ヒロシマの被爆建造物は語る」として集大成し、保存の大切さを訴えてきました。その本の最初の「ごあいさつ」では「被爆の体験と実態を次世代に継承し、世界に広げていくことがますます重要になっています。・・・原爆により、壊滅的な被害を受け、かろうじて利用することのできた被爆建造物は、救護活動やその後の復興活動に、大きな貢献を果たしました。」とし、その重要性を訴えています

しかし、その後、民間が所有する被爆建造物は、特に建築物は多くが解体され姿を変えることになりました。例えば、ちょうど再建中のアンデルセンの建物もそうです。アンデルセンとしても様々な検討をされたようですが、結果としては壁の一部を保存し展示されることになったようですが、被爆建物全体が保存されることにはなりませんでした。民間所有という制約の中で、保存することがいかに困難なことなのかを示した事例でもあると言えます。

そうした経過を考えると、国や自治体が所有する被爆建築物がいかに大切なものかがよくわかります。ですから被爆遺構の保存に積極的な役割を果たすべき広島県の今回の方針提案には、大きな疑問を感ずるのは私だけでしょうか。しかも、あまりにも拙速な方針決定と言わざるを得ません。聞くところによる、広島県から「旧被服支廠の保全を願う懇談会」に対して意見の照会があり、それに「懇談会」から回答をされてようですが、その後広島県からは何の説明もなされていないようです。このこと一つとっても、県民・市民の声を聴いたうえで、今回の方針が出されたとはとても思えません。

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原爆資料館本館の「8月6日の惨状 破壊された街」のコーナーに展示されている「広島陸軍被服支廠のレンガ塀」は、2号館と3号館を繋ぐものでした。原爆資料館を見学した人が、この場所を訪れ、現場で実感することは、非常に大切なことだと思います。と言うより、むしろレプリカでもよいから、現地に復元させることによって、資料館と被服支廠を繋ぐ見学コースを作ることができれば、より広島を実感することができると思います。それほどの価値がある被爆建物だと言えます。

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2日に広島県に「陸軍被服支廠の存続」を申し入れた旧被服支廠の保全を願う懇談会代表の中西巌さんは次のように訴えておられます。「物が無くなれば、心まで無くなるのです。原子爆弾の惨状が風化した先に何があるか いったん廃棄したら元には絶対戻らない」

2年前の原水禁学校で、中西さんに被服支廠の前で貴重な証言を聞いた時のことを思い出します。

広島県が、こうした声に真摯に向き合い、「保存・継承」へと方針を転換することを強く望みます。そして被爆建造物の保存を進める広島市も「県のこと」と傍観するのではなく、積極的に「保存」のために役割を果たすべきです。

いのちとうとし

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2019年12月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その7)

前回と前々回、ベトナムのフランスからの独立戦争に加わり戦死した福山市出身の石井卓雄陸軍少佐について触れました。在ホーチミン総領事館の河上総領事(福山市出身)から、「陸上自衛隊第14旅団(善通寺市)の資料館に石井少佐の石碑が展示してある」とお聞きし、先日、行ってきました。

午前7時、西条を出発し本四連絡橋を渡り善通寺へ。9時半、冬時雨の駐屯地正門に到着。

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真っ直ぐに伸びたたカイズカイブキ並木の奥に、目指す1898年に建てられたという古びた建物、資料館があります。2階の奥まった一室の隅に石井卓雄陸軍少佐の遺影とサイゴン(現ホーチミン)から移されたという「石碑」が展示してありました。

「石井卓雄氏の履歴」には、明治8年(1919年)12月3日、福山市北吉津町で出生とありました。幾つかの軍歴の後、「昭和20年(1945年)、第55師団参謀部付きとして終戦処理に当たり、9月越南独立軍に身を投じてベトナム独立に挺身し、昭和25年5月20日戦死」と記されていました。※内の西暦は筆者が付しました。

「ベトナム民主共和国」建国当初から抗仏戦争に加わった石井卓雄少佐

終戦時25歳の「当時、最年少の佐官であった」石井少佐が、なぜ、越南独立軍に参加したのかは「説明文」には書かれていません。朝日新聞社初代ハノイ支局長を務めた井川一久さんは『ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のあり方に関する研究』(2005年10月、東京財団研究報告書)に、「いささか乱暴に分類すれば、ベトミンに参加した日本人は、ほぼ次のような類型に分けられよう」として、「成り行き・義理人情型」、「状況追随・諦念型」、「過程的理念構築型」、「自覚的参加型」をあげ、「日本敗戦直後(しばしばしそれ以前からも)からベトナム独立に奉仕したいとの意志ないし情熱を持ち、自発的にベトミンに加わった人々。・・・・井川・石井少佐はその典型である。」と書かれています。

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石井少佐の真意は知る由もありませんが、ホーチミンが主導したベトナム民主共和国建国当初から越南独立軍(ベトミン)に加わり、南部メコンデルタ地域でベトミンの訓練や戦術指導の後、中部クアンガイ省に設立されたクアンガイ軍政学校の教官を務め、南部メンコデルタでフランス軍と交戦中に戦死したと伝えられています。

私が専務理事を務める一般社団法人広島ベトナム平和友好協会が10年余り交流を続けているベトナム中部のまち、クアンチ省もクアンガイ省から近く、転戦する石井少佐の足跡があるとの情報もあり、引き続き調べてみたいと思います。

「石碑」に込められた感恩(カムオン)の心

石井少佐の戦死は、 ベトナム独立同盟軍(ベトミン)がフランス軍を破り、フランスによるインドシナの植民地支配を終わらせるきっかけとなった1954年5月のディエンビエンフーの戦いから遡ること4年のことですが、この戦いの勝利への道を含め石井卓雄少佐たちが残した功績がいかに大きかったか「石碑」から窺えます。

「石井卓雄先生之霊魂稚鋻」碑の由来の説明には、「この碑は、大東亜戦争の終戦前後を通し、故石井卓雄氏の指導を受けた、グエン・バン・タン氏他有志が故石井卓雄氏の遺徳を偲び、その偉業を顕彰されんと作成持参されたものである。なお碑文は安岡正篤先生の原文を翻訳したものである。」と記されていました。

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 説明文を紹介します。


「石井卓雄先生の霊魂を稚鋻(ご高覧の意)意味とする。

「死は富士山よりも重く有り」の言あり。

この言、実に石井卓雄先生往生(死して世を去るの意)の意味とする。

先生は扶桑(日本の意)民族の戦闘精神を有するとともに、英雄烈士の熱血を有す。

故に、太平洋戦後において、先生は、なお、ベトナムに駐留するを堅く決し、ベトナム志士と肩を並べ、

ベトナムの独立を勝ち取ることに努力する。

この種み重なる犠牲の精神といささかも自利の心なきことは、これ、先生の人類、同胞に対する仁の心に基づくものにして、ベトナム人民の外来の侵略を抗拒(こばむ意)するを幇す。

数載(数年の意)の奮闘を経て、ついに瘁つきて死す。

先生は己の世を離れ甚だ久しいといえども留めのこされた豊功偉業は、多数のベトナム同志をして、永く去思(徳望を忍ぶ意)を懐かしむ。

先生は、世を逝りて19年なり。その形は滅したと、いえども、(「深刻」は前後の意味から訳さぬ方が良いと思いますので、省略しました。)

その季節は、なお磅礴(満み広がるの意)として、ベトナム人士の潜んだ意識の内に留在し、先生に対する感謝の情と崇高な尊敬を永く懐く。

ベトナム首都1969年5月20日

ベトナム諸同士が特に碑を立て、敬を示すとともに仰敬の文字を刻み、碑をかりて先生の崇高な功徳を記念す。

阮文靑 莊文一及び同人(同志の意)尊立


 石井少佐の人柄を偲ばせる逸話が井川一久氏のまとめた「研究報告書」に納められています。「彼(石井少佐)らは、ベトナム潜入直後、メコンデルタで離隊した召集兵を帰隊させるための説得活動も行ったという。敗戦後に他国の独立戦争に加わるのは死を覚悟した職業軍人の任務であって、家族に責任を負う一般召集兵は早々に帰国すべきであるとの、いかにも陸士出身者らしい確信が窺える」と。その後、石井少佐はクアンガイ省に向かい軍政学校の教官に就いたのです。

父とヒロシマとの意外な関わり

 資料館を訪れ、「石碑」の由来と石井少佐に寄せられたベトナム人民の思慕を知ることができました。しかし、サイゴン(現ホーチミン)のどこに立てられていたのか。終戦時に所属していた第55師団の基幹部隊である第11師団が編成された善通寺の14旅団の資料館に「石碑」が移されたのは頷けるにしても、何時、どのような経緯で善通寺に移されたのかなど、説明に当たってくれた旅団の三等陸曹の女性広報官に尋ねましたが「分からない」とのことでした。それらの疑問点については調べて貰い、後日の連絡を約し善通寺を後にしました。

帰路は、父が16歳で入った予科練・松山海軍航空隊のあった松山経由「しまなみ海道」を選びました。現在、91歳の父は岡山の施設で過ごしています。父の戦争体験(予科練)とその後の人生、そして意外にもヒロシマとの関わりについて、次回書いてみたいと思います。

(21019年12月4日 あかたつ)

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