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2019年8月26日 (月)

戦後74年目の夏、被爆地「長崎」を訪ねて ―原爆被害とともに、加害の事実にも目を向ける視点を―

三原の藤本さんから、戦後74年目の夏の被爆地長崎訪問の報告が寄せられました。

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今年は、5月1日に「天皇代替わり」が行われ、あたかもすばらしい新時代が到来したかのように祝われました。私たちは「5.3ヒロシマ憲法集会」において、TBSニュースキャスター・金平茂紀さんの講演を聞き、あらためて「元号・天皇制」について考え合いました。

第22代高校生平和大使広島研修・結団式(6月15~16日)において、被爆者の証言を聞く場がありました。「あまりに悲惨なあの経験を繰り返してはならないというのが被爆者の原点。皆さんは『どうあるべきか』つなげてほしいと熱く語りかけられました。講話の中では、平成(明仁)・令和(徳仁)天皇を賛美する発言もあり、反戦・反核・平和運動を取り組む者から見れば違和感を持たざるを得ませんでした。

戦後74年目の夏、今年も原爆・戦争の犠牲となった人々を悼む慰霊の行事や核廃絶を求めた様々な集会が催されました。私は、長崎の平和運動を牽引してきた憲法学者・舟越耿一さん(長崎大学名誉教授)にお会いするため、「8・9長崎」を訪問し、犠牲者を悼み、核も戦争もない平和な社会に思いを巡らせました。

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早速、8月19日、三原駅前での戦争させない「19日行動」において、ヒロシマ総がかり行動共同代表の石口俊一弁護士を迎えて、「二度と戦争しない」と決めた憲法9条を守ろう!と街頭で訴えました。

 

★岡まさはる記念「長崎平和資料館」の見学

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8月8日、JR長崎駅近くにあるNPO法人「岡まさはる記念・長崎平和資料館」を見学しました。

この平和資料館は、1995年10月1日、日本の戦争責任と侵略の記憶と向き合い、史実に基づいて日本の加害責任を訴えようと市民の手で設立されました。強制連行、南京大虐殺、韓国・朝鮮人被爆者、戦後補償など加害の事実を知る良い学習となりました。

★長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会

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 8月9日、7時30分から「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」主催で爆心地公園内にある「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」前で、原爆で犠牲になった朝鮮人の追悼集会が開催され、広島の足立修一弁護士やピースリンク広島・呉・岩国の久野成章さん、新田秀樹さんとともに参加しました。

集会の中で在日本朝鮮人総聯合会長崎県本部のキム・ジョ ンデ委員長は、在韓被爆者の援護を長年訴えて勝ち取った郭 貴勲(カク・キフン)さんの「被爆者はどこにいても被爆者だ」という言葉を紹介し、「関心を 持って支援してほしい」と参加者に呼びかけました。長崎原爆では朝鮮半島から仕事を求めて移 り住んだり、徴用されたりした人もいて、約2万人の朝鮮人が被爆し、約1万人が死亡したと言 われています。なぜ被爆したのか深く考えなければならない歴史です。

 

★ピースウィーク市民集会

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追悼集会後、「長崎原爆資料館」の見学。10時から爆心地公園で開催された「ピースウィーク市民集会」に参加しました。主催者あいさつで舟越耿一さん(長崎大学名誉教授)は、「なぜ長崎・広島に原爆が落とされたのか。真珠湾攻撃の時の飛行機は三菱長崎で作られたことと無縁ではない」と日本政府・軍部・軍需産業の戦争政策が長崎・広島の被爆につながっていると訴えました。

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集会では、世界の平和と核廃絶を願う市民のリレートーク、保育園児たちによる「青い空は」の合唱、市民平和宣言の採択。最後に、原爆投下の11時2分に「原爆落下中心地碑」に向かって黙とうして集会が終わりました。

★九州電力へ「原発の即時停止と廃炉を求める」要請行動

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 集会終了後、九州電力長崎支社に対し「玄海原発および川内原発の即時停止と廃炉」を求めて要請行動を行い帰広しました。原発を持つ電力会社11社の原発政策に対する考え方は同じですが、アポなしでの訪問にも責任者が即対応するところは中国電力と違うなあと驚きました。

藤本講治

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2019年8月25日 (日)

中国電力の新聞一面広告

8月17日の中国新聞に、一面全部を使った中国電力の広告が掲載されました。大タイトルは、「中国電力から、変わったお知らせです。」というものでした。中みだしの文章は、「電気の使われかたが、変わりました。」で、本文は「電気給湯器や太陽光発電の普及、省エネ意識の高まり。この約20年間で、電気の使われ方が大きく変わりました。そして、私たち中国電力も変わっていきます。電気だけでなく、みなさまの快適なくらしに役立つ新しいサービスをお届けします。」とあります。

そして1日の電気の使われ方の変化(1年間の平均)と書かれた、グラフが描かれています。そのグラフは、「2000年度実績」と書かれ青線で記された電気の需要変化と、「2018年実績」と書かれ赤線で記された需要の変化をひと目で解るようにしています。

「2000年の実績」では、一日の内、夜明け前の時刻に電気使用量は最低となり、夜明けとともにその使用量は上がり始め、お昼休み時刻と思われる12時から13時の間は少し減少し、午後の仕事開始とともに上がり夕方から深夜にかけて減少するという傾向でした。

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それが「2018年度実績」では、夜明け前もそれなりに電気が使用され、昼休みもそんなに減らずに、13時から17時頃までも大きくは上がらず、17時から20時くらいにかけて上昇していくという傾向にあります。

ひと言で表現すると、2000年頃は1日の電気使用量の変化が大きかったのですが、2018年は1日中の変化がほとんどなく、フラットになっているといえます。最大使用量の時間が変化することを、ピークシフトと呼びます。

電気の使用量というのは、1日の内でも春夏秋冬でも変化し、休日・夏場ではお盆休み中、冬場では正月中は大きく下がります。これまでは夏場の猛暑時に「エアコンを使って高校野球をテレビで観ている時間」が最高ということが、いわれていました。そして1年の内に最低になるのは、1月2日の朝方といわれましたが、それも変化してきたように思います。

まず、冬場の寒い時刻に大きく伸びてきました。一昨年の場合、猛暑の夏より多いという状況でした。その理由は、まずはエアコンで暖房をするのが増えたことや、夏場は日照時間が長い分、太陽光発電が働く時間も長くなったことで、中国電力からの電力量は減りました。

そして1月2日の朝方が減らなくなりました。多くの商店で、1月2日から営業しているのが増えたからでしょう。現在、1年の内で最低になるのは、4月末から5月始めの「ゴールデンウイーク」中です。今年の場合は無理やり「10連休」とされた職場がありましたから、この期間が最低を記録しています。暑くも寒くもない時期だからでしょう。

ちなみに、このブログの原稿を書いている今日、8月21日午前9時50分の使用電力量は900万キロワットとなっています。最大は14時~15時で予想最大電力量は935万キロワットを見込んでいます。

今年の場合、気温が35度を超えた猛暑日は1000万キロワットを超えた時もありましたが、今日の予想最高気温は32度、少し蒸し暑い感じですが温度が少し下がるだけで、電気の使用量は大きく下がるのです。そしてこの時刻の太陽光発電からの発電量は175万キロワット、約19パーセントが太陽光からで、もちろん原発からの電気はゼロです。

こういうことに関心のある方は、中国電力ホームページの「電気予報」をチェックしてみてください。

木原省治

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2019年8月24日 (土)

「米軍機による爆音被害をなくすことを求める請願」署名26,594筆を提出

昨日、「異議あり!『基地との共存』市民行動実行委員会」(実行委員長岡村寛)は、中四国防衛局を訪れ、防衛大臣に宛てた「米軍機による爆音被害をなくすことを求める請願」署名26,594筆を提出しました。この署名は、昨年米軍岩国基地へ艦載機が移転して以降騒音被害が拡大していることに対し、「爆音被害をなくすこと」を求めて、昨年7月1日をスタートに山口県、広島県を中心にして1年間とりくまれてきたものです。26,594筆のうち、約22,000筆が、山口、広島の両県で集まった署名、残りは全国各地から寄せられたものです。

署名簿の提出は、午後1時10分から予定されていましたが、出席予定の地方調整課基地対策室長(責任者でもある)が時間になっても現れず、開始が15分間も送れるという事態からスタートしました。遅れて現れた室長は、「出席する予定でなかったものですから」と発言。出席者の怒りを買いました。実行委員会は、集約を終えた7月初めから、この場を要望していたにもかかわらず、何やかやと理由を付けて、1か月半以上延び延びとなっていたのですから、当然のことです。秋田県でのイージスアショアの説明会での防衛省側の不誠実な対応が思い浮かびます。

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そうした経過もあり、当初報道官が署名簿を受け取る(私はその話が出た時強く抗議したら、慣例だからと強弁)と言っていたのですが、今回は基地対策室長が受け取ることとなりました。

提出した請願事項は、「①平穏な市民生活を脅かす爆音は、いかなる訓練によるものでも、いかなる時間帯であっても認められません。爆音被害軽減の実効ある措置を米国に求めること。②基地滑走路の運用時間(午前6時半から午後11時)外の戦闘機の離着陸は、平穏な市民生活を破壊するものであり絶対に認められません。滑走路の時間外運用は中止することを米国・米軍に求めること。③爆音被害の実態を把握するために、市民への聞き取り調査を実施、市街地に新たな爆音測定器の設置をすること。④これまで、移駐後の『騒音予測コンター』を示してきたが、艦載機部隊の運用が安定したら『騒音実態のコンター』を示すと説明してきたがどうなっているのか説明を求める。」の4項目です。

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これに対し、出席した担当者から説明が行われましたが、いずれも「市民の負担軽減に努力する」にとどまり、具体的に対策が示されず、全く納得できるものではありませんでした。その後の意見のやり取りではっきりしたのは、艦載機移転後、岩国市上空を頻繁に米軍機が飛行しているにも関わらず、その実態を中四国防衛局が全く把握していないという事実です。これでは話し合いになりませんので、私が「実態把握が違うのであれば、話し合いが進まない。先ほどの回答では触れていない③で要望している『市民への聞き取り調査』を実施し、その結果に基づいて同じ土俵で話し合いを続けなければ、あまりにも現状に対する認識が違いすぎる」と「市民への聞き取り調査の実施」を強く求めました。結果しぶしぶですが「検討させてほしい」との答えがありましたので、1か月後に「検討結果を回答する」ための場を改めて持つことを約束させ、話し合いは終了しました。もちろん参加者からは、この他にも岩国市で起きている様々な問題の現状が訴えられました。

中四国防衛局との話し合いには、何度も参加していますが、今回はびっくりするようなお粗末な中四国防衛局の対応でした。

いのちとうとし

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2019年8月23日 (金)

「シベリヤ」それとも「シベリア」―「香月泰男・シベリア・シリーズを観る」のつづき

14日のブログのつづきです。

当日ブログの原稿を書くため、「香月泰男展覧会図録」など関連する本が何冊かあったはずと書棚を懸命に探したのですが、その時には見つけることができませんでした。原水禁大会などの資料を整理しようということで、書棚の入れ替えをしていたら、今日になって2冊、見つけることができました。一冊は、1994年に山口県三隅町(現在は長門市)にある香月泰男美術館が発行した「シベリヤ・シリーズへの原点展画集 私のシベリヤ」です。

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この図録は、1994年に同美術館が、香月泰男の没後20周年の節目の年に開催した「シベリヤシリーズの原点展」を記念し刊行したものです。私の手元にある図録は、発行年が2001年、第3版となっていますので、展覧会後も好評で版を重ねたようです。しかし、香月泰夫美術館のホームページのショップには、この図録は紹介されていませんから、今は絶版かもしれません。図録を見ていると「ちょっと気になることがあります」といっても大したことではありませんが。確か私が訪れた山口県立美術館の展覧会名は「シベリア・シリーズ」となっていました。ところがこの図録では、「シベリヤ・シリーズ」となっています。いつから「ヤ」が「ア」となったのでしょうか。

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もう一冊手元にある「山口県立美術館監修」で中国新聞社が2004年に発行した本のタイトルは「香月泰男シベリア画文集」となっていますので、今は「シベリア」ということになっているのでしょう。と思ったのですが、香月泰男美術館のホームページを開くと、依然として「シベリヤ・シリーズ」となっています。そういえば、わが家でも父の抑留の話が出た時の地名は「シベリヤ」でしたから、香月泰男もきっと「シベリヤ」といっておられただろうと想像できます。そう思いながら図録を読み進んでいくと、終わりの方に収められた「香月泰男のことば」として、これまで出版された本から引用されている文章は、やはりすべて「シベリヤ」となっています。美術館は、香月泰男が生前使っていた「シベリヤ」という呼び方を大切にされているということがよくわかります。

この図録を見ているともう一つの疑問がわきました。香月泰夫美術館の略年譜を見ていると「1974年3月香月泰男死去 同年11月 シベリヤ・シリーズ山口県に寄贈」となっています。ところが、1994年に第1版が発行されたこの図録に掲載された「シベリヤ・シリーズ作品」一覧では、57作品中51作品が「山口県立美術館蔵」となっていますが、「黒い太陽」「鷹」「避難民」「アムール」「涅槃」「渚〈ナホトカ〉」の6点は、なぜか所蔵先が記載されていません。ここにはどんな経緯があったのでしょうか。当然のことですが、中国新聞社発行の「香月泰男シベリア画文集」には、あえて所蔵先は記載されていません。

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本の内容も少し紹介しておきます。香月泰男美術館発行の「私のシベリヤ」は、「原点展画集」の名のとおり、作品の原点となった「素描」や「オブジェ」「版画」「油彩」などの関連作品が153点掲載されています。「シベリヤ・シリーズ」の作成の過程がよくわかります。その意味でも貴重な図録だと思います。私にとってもっと貴重に思えることは、展覧会にも付けられていた香月泰男の「自筆解説文」が、全文掲載されていることです。(もちろん中国新聞社版にもありますが)私が、展覧会に行って、絵とともに感動したのは、この「自筆解説文」でした。この解説文こそが、私が、私の家族のかつての旧満州時代や父の抑留生活のことを思い出させることになったのですから。やはり私にとっては、「シベリア」ではなく「シベリヤ」なのです。

いのちとうとし

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2019年8月22日 (木)

アーサー・ビナードさんの紙芝居「ちっちゃいこえ」

アーサー・ビナードが、丸木位里・俊夫妻作の「原爆の図」をもとに7年がかりで制作し、5月に完成したといわれる紙芝居「ちっちゃいこえ」をこの一月の間に2度見る(というか聞くというか)機会がありました。

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最初の出会いは、広島市中央図書館の企画展「ヒロシマの記憶を伝える ~町と人々の暮らし~」の関連イベントとして7月21日に開催された「ヒロシマの記憶を伝えること」の会場でした。もう1回は、8月6日にHANWAが主催した⌈8.6ヒロシマ国際対話集会 反核の夕2019」の特別公演として演じられた時です。幸いなことにいずれも、アーサー・ビナードさんの語りによる公演でしたので、「たかが紙芝居、されど紙芝居」、ググッと引き込まれる思いで見ました。

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7月21日の会場では、「写真お断り」といわれていましたが、8月6日にはその断りがなかったものですから、つい映してしまいました。公演のためには、写さないほうが良かったのですが。アーサーさん、すみません。

この紙芝居「ちっちゃいこえ」については、「なぜ丸木夫妻の原爆の図なのか」など制作に至る過程や思いについて、アーサーさんがいろいろの場所や紙面を通じて語っておられますので、ぜひそれらを読んでほしいと思いますが、特に印象深いことを少し引用させてもらいます。「原爆というのは核分裂の連鎖反応が起こされ、ピカァァァと破壊力が放たれるけど、それで終わるわけではない。放射線を浴び、放射性物質を吸い込んだり飲み込んだりした生命体は、そのダメージを一生背負い続けなくてはいけない。そこを紙芝居で伝えないと『原爆の図』を踏まえて語る資格はない。そう考えるようになったのです。」そして森滝春子さんとの対談では、丸木俊さんが作成した絵本「ひろしまのピカ」について触れながら「絵本は、広島の人びとがどういう体験をしたかを描いているけれど、ウラン鉱山から始まり黒い雨、残留放射能、死の灰、原子炉、劣化ウラン弾まで延々と続く核被害を描いていないでしょ。核被害の本質を子どもたちに手渡しているわけではない。でも、その本質を『原爆の図』は抱えもっている。」アーサーさんは、核被害の本質をこの紙芝居で表そうとしたのです。

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私も何度か、「原爆の図」は見ているのですが、あの絵がこんな形で「紙芝居」になるとは想像もできませんでした。

最後に紙芝居を見たのは何時だったかなと思いだそうとしましたが、思い出すことができません。それほど長い間紙芝居を見る機会はありませんでしたが、アーサー・ビナードさんの語りによるこの紙芝居を見て、紙芝居の新たな力を感ずることができました。そして何より、電気を使わずに演ずることができるのは魅力ですね。語り手のそれなりの技量が必要でしょうが。紙芝居といえば、どうしても子どもたちのものと考えがちですが、この紙芝居は大人にこそ見て欲しいと思います。

いのちとうとし

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2019年8月21日 (水)

核廃絶運動は歴史的厳しさに直面している (5) ――憲法の復権と民主主義の再生が必要――

長いシリーズになりましたが、前回までは、日本政府が、核兵器禁止条約の署名と批准を頑なに拒否しているのは、「日本自前の核兵器を保有する」が日本政府の究極的な目標であり、署名・批准はそれを諦めることと同じなのだという説明をしました。

それほど大きな「目標」貫徹のためには、決して核禁条約の署名・批准はできないのです。それに対抗しての私たちの立場は、どうしても日本政府に核禁条約を署名・批准させることです。でも、そのための運動を構築するに当り、私たちは再度、日本の「平和運動」のこれまでを振り返り、現在私たちの持っている力を確認しておかなくてはなりません。

その結果は、残念ながら、非常に厳しい状況にあることを認めなくてはならないのです。その理由を、三つ説明しておきたいと思います。論点をハッキリさせるために、以下、物事を極めて単純化して説明します。例えば、「○○は××である」式の言い方をしますが、正確には、「○○という状態の起きたとき、これこれという条件を勘案すると、多くの場合、××という結果につながることが多くあった」と書くべきことも多いということです。

 

(A)日本の平和運動は、国際的運動だった。 

別の言い方をすると、日本政府を説得し政府の方針を変えさせるという種類の運動ではなかった、と言って良いでしょう。

再度お断りしますが、「単純化」しての表現ですので、例外は多くありますし、100%の場合、これが真実だと言っている訳ではありません。国際的な舞台での成功例が多く、国内的な運動では、他の人たちの運動が主導権を握っていた、というような場合も多々あることを念頭に置いて、しかし、これからの運動構築の参考にするための総括として役立つ読み方をお願いします。

本題に戻りましょう。「戦後日本の最大規模の社会運動は平和運動であった」という総括をしているのは、元朝日新聞の記者で、「最後の原爆記者」の一人として今でも健筆を振っている岩垂弘さんですが、彼の近著『戦争・核に抗った忘れえぬ人たち』の最後に、「戦後平和運動の到達点」という短いのですが、優れた運動史が載っています。この本も多くの皆さんにお読み頂きたい物の一つです。

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その中で岩垂さんは、運動が達成した「成果」を三つ挙げていますし、四つの弱点も指摘しています。実はこれらの点をまとめると、ここで私が指摘したい三つのことは既に言い尽くされているのですが、同じ内容を別の言葉で表現しておくことも大切ですので、繰り返しを恐れずに、岩垂さんのまとめから見て行きましょう。

まず、日本の平和運動が達成してきた三つのことですが、①国際的な核軍縮の進展に貢献した。②日本の核武装を阻止してきた。③は、被爆者を救援する活動を続けてきたことです。

続けて、岩垂さんは運動の「弱点」を四つ指摘しています。(i)分裂によって力が削がれた。(ii)被害者意識一辺倒に基づくものであった。(iii)日本が抱えている矛盾に鈍感なまま来てしまった。それは、「核の傘」の下で反核を叫んでいることである。(iv)核エネルギーの利用についての意見の違いから、運動が共同してできなかったこと、とまとめられます。

こうした総括を最も象徴的に表しているのが、1982年の第2回国連軍縮特別総会に日本のNGOが提出した核兵器完全禁止要請署名で、全部で8,000万筆にも及んだことでしょう。問題は、これが日本政府の核政策を根本的に変えさせる役割は果していないという事実ですし、②の核武装阻止も、事実として核武装はしていなくても、それを究極的目標として着々と実績を積んできた日本政府の最後の足掻きに、対抗できる種類の運動だったのかは別問題なのです。また、③の被爆者援護の活動も確かに立派なのですが、1980年に「基本懇」が政府の方針として打ち出した「受忍論」を撤回させるまでの力にはなっていないことも事実なのです。

つまり、これまでの運動は国際的にはそれなりの成果を挙げてきたが、日本政府の政策を根本的に変えるという方向性は持っていなかった、と言っても良いのではないかと思われるのです。

 

(B)国際的な貢献にしても、日本の運動が自ら目標を掲げて世界の同志に呼び掛けた結果として国際的な目標の達成につながったのではなかった。

ここで注意が必要です。「だから日本の平和運動は駄目なのだ」といった、評価の問題に摩り替えないで下さい。そんなことは言っていません。国際的な市民運動の全体像を見ると、それぞれの地域や歴史等の複雑な要素が絡み合って、役割分担が決ります。日本の役割分担には、このような目標設定や、計画立案が入っていなかったという事実を虚心坦懐に見詰めることが自分たちの力を知る上で大切だという点に留意して頂きたいのです。

1963年の部分核停条約、1970年のNPT、1996年の国際司法裁判所による勧告的意見、南半球がほぼ全て非核地帯条約を締結したこと等、日本の運動も重要な役割を果していますし、核兵器の非人道性を世界に広める上で、被爆者ならびに日本の運動の果たした役割は、他の国の運動では決して実行できなかったほど貴重です。しかし、国内でそれが日本政府の政策変更にまでつながったかというと、答は皆さん御存知の通りです。国際的にも国内でも、目標の設定とその実現のための作戦立案、そして実行というシナリオから、これまでの運動を見詰める必要もあるのではないでしょうか。

 

(C)原発についての考え方の違いが、運動も野党も分裂させている。

もう56年前になってしまいましたが、当時の原水禁運動が分裂した原因の一つがこの点でした。そのしこりは、今でも続いていますし、参議院選挙でも明らかになったことの一つは、野党共闘の障害の一つがこの点なのです。「自前の核保有」と、原発の存続は切り離せない絆で結ばれています。この絆が私たちの想像以上に強い可能性もあります。つまり、現在では、核兵器反対派の中に、原発賛成派も反対派もいるという状況から、原発賛成派が中心になって、原発賛成かつ核兵器反対というグループを原発賛成かつ核兵器賛成に宗旨替えさせてしまう可能性も考えなくてはならない時期に来ているのです。

核禁条約の署名・批准を日本政府に迫る上で、私たちの置かれている状況が厳しいことはこれでお分り頂けたとして、それではどうすれば良いのでしょうか。何事でもそうなのですが、問題を解決するためには、まず基本に戻る、数学の言葉では原点に戻ることから始めるのが「王道」なのです。そして「王道」が何であるのかは皆さん良く御存知のはずです。

[2019/8/21 イライザ]

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2019年8月20日 (火)

高校生が描いたヒロシマ原爆の絵画展

今年の夏、多くのマスコミが取り上げた広島市立基町高校性が描いた「ヒロシマ原爆の絵画展」が、広島国際会議場地下2階中会議場コスモスで開催されています。会期は、21日までです。私は、昨日行ってきました。

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会場に着いたのは、午後2時過ぎでしたが、多くの参観者がいました。ざっと数えると25人を超えているようです。みんな熱心に見ておられます。その中に、絵に添えられたキャプションを熱心に読んでおられる人の姿が目に入りました。

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一度体験談をお聞きした安楽寺の前住職で被爆者の登世岡浩治さんです。登世岡さんが、見終えられたところで声をおかけしました。「登世岡さん、どう感じられましたか」と問いかけると、返って来た言葉が、「今晩は眠れそうにありません。あの皮膚の垂れ下がった姿を描いた絵を見て、当時を思い出しました。今晩は、きっといろんな体験が、次々に浮かんでくるに違いありません。」でした。そして「だから、私は今でも資料館には入ったことがないんですよ」と続きます。登世岡さんの体験談を聞いた時の「思い出すことが余りにつらく恐ろしい。だから、被爆から約50年間黙して語らずでした」という話を思い出しました。

さらに続きます。「実は、今年7月にこの基町高校から依頼を受け、全校生徒の前で被爆体験を証言したんです。この学校で取り組んでおられる『原爆絵画』のことを知っていましたので、話を始める前に『この中で、原爆の絵を描いている人がいたら、手をあげてください』といったら、後ろの方で数人の手があがりました。そこでさらにこう言いました。『被爆の体験を継承し、平和を訴えるためにがんばっているこの人たちに大きな拍手をしてあげてください』と。生徒さんみんなが大きな拍手をしてくれました。そして『私は、まだ見たことがありませんが、今度機会があったらぜひ見たいと思います』といったのです。ですから、今日はどうしてもこの会場に来なければと思い来たのです」と。そんな出会いがあったから、本当なら見たくないこの「ヒロシマ原爆の絵画展」に来ておられたのです。そして人一倍熱心に見ておられたのです。

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不思議な出会いを感じながら、私もゆっくりと見て回りました。何人かの知り合いの被爆者の名前が、見えます。そして、テレビで取り上げられた作品もあります。絵の横には、絵のタイトルと「絵がかられ情景」さらに「生徒のコメント」「被爆体験証言者のコメント」が書かれた説明文が添えられています。「人が黒くなっている想像できず、色を作って塗るのに抵抗を覚えた。・・・」どんなに大変な作業だったか作者の苦労のあとがうかがえます。「とてもイメージの湧きにくい場面だったと思います。絶望して死ぬ人など普通では一生見ないでしょうね。」被爆者のコメントです。

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ずーと見ていくと会場の真ん中に据え付けられた立て看板に目が止まりました。それは、絵画とは別に9月完成を目指して「原爆の絵本・紙芝居製作」が進んでいるということを掲示した内容でした。おどろいたことに、その証言者が旧知の小倉圭子さんだったのです。すでに何枚かの絵が出来上がっているようです。「原爆の絵本・紙芝居」が完成するのが楽しみです。小倉さんが、基町高校のこの企画に協力していることを初めて知りました。もう一度展示されている絵画をよく見ると、小倉さんの証言をもとにした絵画が2枚ありました。

本当ならば絵画の感想を書かなければなりませんが、ここでも人との出会いを感じましたので、そのことを中心にした報告になってしまいました。

今日、明日の二日間しかありませんが、ぜひ多くの人に見ていただきたい「絵画展」です。

いのととうとし

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2019年8月19日 (月)

フランシスコ・サビエルと山口

先日、山口に帰郷した際、少し寂しくなったアーケード街を歩いていたら下の写真の銅板を目にしましました。これまでにも歩いていた道でしたが気づいたのは初めてです。

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画が刻まれた真ん中の銅板は、布教の様子が描かれています。左右の銅板には、説明文が書かれています。向かって右側の銅板には、フロイスの日本史の一部「(前略)山口のわれらの教会の正面に、釈迦を拝む本國寺という法華宗の僧院がある。異教徒たちには我らの四句節にあたる彼岸という時期があるが、年間のその時期になると、おびただしい数の聴聞者が寺院を訪れて喜捨を行い、その他の寺院にも参詣する。(略)」が記載されています。

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後ろを振り返ると、本國寺の門柱が目に入ります。本堂は、シダレザクラの並木道を入ったぞっと奥にあります。

ところが、向かって左側の銅板には、「大道寺について」というタイトルが付けられ「大道寺とは、天文21年(西暦1552年)、大内義長が山口にいたキリスト教宣教師に対して、協会の設立を許可した書状に記された寺院(協会)の名前である大道寺があった場所については、2つの説が知られる。ひとつは金古曽町にあるサビエル公園付近で、もうひとつがここ道場門前の本國寺付近である。」と記載されています。かつて私の兄(キリスト教徒)が、山口を訪れた時に、ぜひ訪ねてみたいということで一緒にサビエル公園を訪れたことがありますので、ここ「本圀寺」付近という説は今回初めて知りました。サビエルは、日本国内の様々なところで「布教の許可」を与えられたようですが、「常設の教会設置」が許可されたのは、日本国内ではこの山口が最初でした。ちなみにこの場所は、当時大内館があったとされる場所(現在は龍福寺の境内)からは、サビエル公園は、東に600メートル、本國寺は、南西に1.2キロの場所です。距離的には、サビエル公園は、大内館から近すぎるように思いますが、果たしてどちらが?

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翌日家族とともに「サビエル公園」を訪れました。公園から少し離れた場所に立つ門柱は何か古めかしさを感じます。この門柱は、「ビエル公園」になっています。

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公園に入ると、真ん中にサビエル像をはめ込んだ高さ10メートルの「聖サビエル祈念碑」が建っています。見上げるような大きさです。公園の右手には、「サビエル記念公園」の由来が書かれて看板があります。そこには「明治22年(1889年)フランス人アマトリウス・ビリヨン神父は、山口におけるサビエルの遺跡について探求し、現在の公園の地をその跡と考え、有志の協力で土地を買い求めました。」とその由来が記載され、大正15年(1926年)にサビエル記念碑が建立されたことも書かれています。さらに、この説明版を読むと、「教会設置」の許可が出たのは、サビエルが山口を去った後の天文20年(1551年)9月、弟子のトルレスに与えられたことが分かります。「聖サビエル記念碑」を挟んだ反対側には、許可を与えた書状を銅板にしたものが碑として建立されています。しかし、今この公園には訪れる人も少ないのかちょっとさびれた感じがしました。

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ところで、山口でサビエルといえば「サビエル記念聖堂」が思い浮かびます。妻の実家のマンションからもその尖塔が見えます。1991年の火災で全焼した後、1998年に再建されたものです。これをめぐっては様々な意見がありました。消失前の聖堂が建っていた時期に憩いの場として何度も訪れていたというわが家の家族には、今も不人気です。さてみなさんは?

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2019年8月18日 (日)

福島からの贈り物

今年も福島県郡山市にある「生活協同組合 あいコープふくしま」から、福島県産の桃の贈り物が届きました。送り主にお礼の電話を入れたところ「今年は雨が多く、少し甘みが少ないようなので、ちょっと時間をおいて食べてみてください」とのことでしたが、毎朝食後の果物として美味しくいただいています。

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「あいコープふくしま」の理事長を務めている佐藤さんが、私の古い友人というつながりから、毎年8月4日5日に広島に来る「子ども派遣団」の子どもたちと、4日の夜(原水禁世界大会開会総会終了後)1時間ほど、宿泊先のホテルで交流を続けることが恒例となっています。今年は、子どもたちがあまりにも熱心に話を聞いてくれましたので、時間がたつのを忘れ2時間程の交流になってしまいました。今回は、旧中島地区の復元地図や私が大切の保管していた中国新聞が20年ほど前に特集を組んだ「建物疎開の作業を行うため動員された広島二中の犠牲者」の新聞紙面を持参して、原爆被害のことを話しました。子どもたち(と言っても今年は二人でしたが)は、犠牲になった広島二中生と同じ年齢でしたので、私の持参した資料に興味を持ったようでした。コピーして返却してもらうことを条件に、預けてホテルを後にしました。翌日、帰りの新幹線の中から子どもたちに同行されていた橋本さんからショートメールが届きました。「お話を聞いてから慰霊碑をまわったので、より想いをもって見て考えることができました。」「いま新幹線の中ですが、広島二中の子どもたちの新聞をずっと読みながら帰っています。ハンドタオルが涙でびちょびちょになりました。」「子どもたちが何をどう感じたのか感想が楽しみです。」とも書かれていました。私も聞いてみたい気がします。この子ども派遣団からは、今年の「高校生平和大使」も誕生しています。その子からは、「高校生平和大使に応募したのは、子ども派遣団で広島に来たこと、そして話を聞かせてもらったことが、大きなきっかけです」と聞いています。私の交流も少しは役に立っているのかなと思いました。

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今日のブログは、子ども派遣団のことを書こうと思っていたわけではありません。書きたかったことは、届いた桃の贈り物の箱の中に入っていた1枚の紙のことです。「放射性物質簡易検査報告書」と書かれています。昨年も入っていたのでしょうが、恥ずかしながら気づいたのは今年が初めてです。生産地である須賀川市が行っている検査のようです。詳しく検査結果が書かれています。検査結果「検査対象品目 モモ 核種セシウム134 検出せず セシウム137 検出せず』検査機器名「ベルト―ル社製ガンマ線スぺクトロメーター」、そして検査限界値についての説明、食品中の放射性セシウム基準値についても記載されています。最後に「注意 この検査結果は持ち込まれた飲料をそのまま簡易分析した結果であり、あくまでも目安の値です。結果の数値については証明するものではありません。」と記載されていました。

東京電力福島第一原発事故が起こした大量の放射能放出。送られてきたモモの生産農家吉田果樹園は、原発事故のあった場所から西南西約60kmの地点です。今も福島では、この放射能と向きあう生活が余儀なくされているのだなと強く感じました。

いのちとうとし

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2019年8月17日 (土)

大陸に思いを馳せて

今年も8月9日が過ぎました。この日は言うまでも無く長崎原爆の日で有名ですが、それと同時に実はソ連軍が対日参戦をした日でもあります。日ソ中立条約を破棄し、旧満州国に侵攻し、日本人引揚者に暴虐の限りを尽くす日々の始まりと言われています。ネットで検索すると読むに耐えないページに突き当たります。嫌悪感をつのらせながらも、ふと見方を変えると、なぜそこに日本人がいたのか。そもそも「旧満州国」とは何か。日本人が大陸侵略の足がかりにするために、清国のラストエンペラー愛新覚羅溥儀を利用してつくった日本の傀儡国家にすぎないということになります。

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現在の中国では「偽満州」としか表現しません。日本人から見ると新天地を求め、希望をもって入植したのかもしれませんが、現実には、ある中国人少女の一言に象徴されます――「ここはわたしのうちだった・・・」。住んでいた家を関東軍にとりあげられ、日本人入植者に与えられ、その家の召使いにされた少女です。

中国に行ってみると多くの人々に親切にしてもらいますが、日本人とみると囁かれるのが「日本鬼子」です。私も、中国語が分からないと思ったのか何度も聞こえるように言われたことがあります。その言葉に反応して中国語で返事をすると、驚いて「中国語分かるの?あなたのことじゃないよ。ただ歴史の話をしていただけだから。」と、口調がとてもやさしくなりました。決して年配の方に言われたのではなく、自分とたいして年の変わらない人に言われたのです。人間不信にもなりそうですが、上記の歴史を考えると、やはり「怒る」こともできません。

戦後74年が経ちますが、決して忘れることができない事実が今も存在します。

 Mumei

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