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2019年10月22日 (火)

平和フォーラム第2回ピーススクール

 平和フォーラムが主催する第2回ピースフォーラムが、10月19日から21日までの3日間の日程で開催されました。私も、2日目に開催された講座Ⅳ「原水禁運動」の講師として参加しました。

ピーススクールを開催する意義について、平和フォーラム藤本泰成共同代表は当日配布された資料の「開講にあたった」で次のように述べています。「(前略)このような状況下、平和フォーラムがこれまで担ってきた、たたかいはまさに正念場を迎えています。平和フォーラムの役割は、さらに重要になり、その組織の強化は、中央団体、地方組織の組織強化と同様、喫緊の課題となってきました。中でも、平和運動を担う若い世代に対して、様々な課題を丁寧に伝えための取り組み、そして伝える場の保障が課題となっていました。そこでこのような課題に答えるため、平和フォーラムは、将来的な組織強化を見据え、2018年より『平和フォーラムピーススクールを』を開催しています。参加者のみなさんは、平和運動や原水禁運動、人権課題等の置かれている現状や課題を学び、同年代の仲間と共有し、交流を通して、今後、それぞれの職場や地域での活動にぜひ活かしていただければと期待するものです。」この実践に学びたいと思います。

今回講師に呼ばれて初めて、昨年から始まっていたことを知りました。若い人たちの育成、運動の継承の必要性は、いつも言われていることですが、なかなか具体化されずに来ていましたが、本格的な取り組みが開始されたことを非常に心強く感じました。

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全体の日程、中味など知らないままの参加でしたが、会場に着いてびっくりしました。一つは、2泊3日の日程になっていたことです。1日目(19日)の午後1時からの開講式からスタートする日程は、1日目は午後7時まで、2日目も午前8時30分から午後7時まで日程がびっしり。午後7時からは2時間の交流会。3日目も午前8時30分からスタートし午後1時にすべての日程が終了します。しかもこの間に9つの講座。その間に外に出ての行動もあります。1日目の午後3時からは、国会議員会館前で実施された「19行動」への参加、2日目の午前11時からは、フィールドワーク「靖国神社」も組み込まれていました。このフィールドワーク前には、第3講座として一橋大学のキム・ユビさんの「歴史の中の靖国神社―戦争に動員された民衆の観点から見る」が準備されています。よく頑張るなというのが実感です。

二つ目は、参加者の顔ぶれです。中央産別からの参加もありますが、各県組織からの参加者も多く、全体で31人の参加者です。女性の参加者は5人です。中国地方からの参加は、島根県だけでした。

こんな厳しい日程では、今の若い人の参加は難しいのかなと、勝手に想像しがちですが、全員が熱心に受講しているのが印象的でした。私もその夜の交流会に参加しましたが、「原水禁の福島大会への参加者が年々減っているのですが、どうすればよいと思われますか」「うちの組合ばかりがんばっているように思っていたのですが、ここに来てみんながんばっていることを知りました」など、答えるのが難しい質問もありましたが、何かをしようとする積極的な意見や感想が聞けたり、他県や他労組の取り組みを知りたいという思いが伝わり、交流の大切さということを実感させられるとともに、合宿で行うピーススクールの良さを思い起こさせられたピーススクールへの参加でした。

いのととうとし

2019年10月21日 (月)

防衛省を防災省に (1) ――自然災害の激甚化に備えるために――

台風15号と19号による甚大な被害について、改めてお浚いする必要はないと思いますが、そのちょっと前の8月末には九州北部を襲った豪雨被害がありました。このような大規模災害に目を奪われて、ややもすると昨年の西日本豪雨の被害が遠いものに感じられてしまうのは、私たちの記憶のメカニズムに依るものなのか、情報操作の結果なのか、その両方なのかは良く分りません。しかし、戦争による被害、特に原爆の被害を記憶し続け同じ悲劇を繰り返さないように努力するのと同じように、自然災害についての記憶も大切ですし、その結果生じた悲劇を繰り返さないよう努力をすることも最重要であることを肝に銘じる必要があります。

この点については、昨年、ほぼ一か月にわたって提言をしたのですが、台風15号、19号の被害を記憶している人がまだ多い間に再度、問題提起をしておきたいと思います。まずは、昨年の7月14日にアップしたブログの記事を再掲します。長くなりますが、その後の提言の内容も順次アップして皆さんに再度お読み頂ければと思います。

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以下、2018年7月14日アップの記事です

自衛隊を災害救助隊に

――豪雨災害からの教訓 (5)――

 昨日の「大雨災害からの教訓(4)」への「後期高齢者」さんからのコメントでも鋭い指摘がありましたが、これほど多くの災害を経験していながら、未だにほとんど「学習」のできていない政治家や官僚、そしてそれを許している私たち主権者・市民がもう一度原点に戻って災害について考え直す時が来ているのではないでしょうか。

一つには私たちが、考え方の枠組みを大幅に変える (パラダイムの転換とも言います) 必要があり、新たな枠組みの中で自然に見えてくる問題点そして未来図を元に、大胆な発想で改革案を考え実行して行かなくてはならない、ということです。

新たなパラダイムの柱になるのは、災害が「たまに」「降り掛かって来る」「稀な出来事」ではなく、日本社会では日常的に起こる出来事だと捉えて対策を講じることです。確かに、大変な被害があるのですから、「非常事態」とか「異常事態」だと捉えるのは自然なことではあるのですが、「非常」とか「異常」という言葉が示しているのは、被害の範囲や規模が日常的ではないという意味だけではありません。それと同時に、こうした災害の起ることは例外的であり、日常的な対策とは別の、「例外的」なかつ、その事態が起きてから対応すれば良い事例なのだ、というメッセージも発しています。

 

そんな発想を転換するための第一の確認事項・提案です。

 1.大災害は、例外的な出来事ではなく、日常的、定常的な出来事として捉えること。

ちなみに、今年2018年に起きた災害で記憶しているものを並べてみると、(i) 1月23日の草津白根山の噴火、(ii) 死者の出た2月の北陸豪雪をはじめとする各地での豪雪、(iii) 3月と5月の霧島山新燃岳と桜島の噴火 (iv) 6月18日、死者4名、損壊家屋は3万戸近くになった大阪北部地震、(v) そして死者は200名を超えるであろう、7月の西日本豪雨と、半年ちょっとで大きな災害が目白押しです。

2018

それぞれ地域も違いますので、ある地域を取れば、数十年に一度の災害ということになるのかもしれません。実際の頻度はもっと高いという事実にも目を向けて下さい。広島地域を考えただけでも、例外的な豪雨災害は1999年、2014年そして今年と、6年に一度くらいの間隔で襲来していますし、地震や台風の被害も勿論ありました。しかし、議論を簡単にするため、仮に、数十年に一度だという前提を付けてみましょう。

となると、それと比較可能なのは、国体です。各都道府県を巡って開催する国体の一地方の開催頻度は47年間に一度です。でも、国体を「例外的」「異常」な出来事と捉えていたのでは、国体の開催などできなくなってしまいます。スケジュール通りに必ずどこかの地方で開かれる。という前提で国が方針を立て、予算を取り、必要な協力は地方にも民間にも求めて、初めて可能になっているのです。災害対策との共通点に気付いて頂けたでしょうか。

それに比べて、今年の災害だけを見ても、国体の5倍の頻度で起きています。一年を通すと、恐らく月に一度はどこかで甚大な被害が生じていることになるのではないでしょうか。その対策を国家単位で、しかも災害専門のお役所が専門家を揃え、さらに災害復旧・復興のための実働部隊が全国展開できるような組織があって初めて、災害に対する対策の出発点に立つことができるのではないでしょうか。

ですから、私の提言の一番大切な、そして多くの皆さんの賛同が必要なことは、

 

 2.自衛隊を災害救助隊 (名称はもっと魅力的かつ本質を表すものにしたいと思います) に改組する。

これからが大切な議論になりますので、皆さん是非参加して頂きたいのですが、まずは中心的な命題だけお知らせしました。明日以降、何故このアイデアが実現すれば、日本を救い核兵器の廃絶や世界の平和につながるのかを説明したいと思います。

[2019/10/21 イライザ]

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2019年10月20日 (日)

中国人強制連行・西松安野和解10周年記念集会

広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会が主催する「中国人強制連行・西松安野和解10周年記念集会―改めて歴史問題の和解を考える―」が、昨日午後2時から広島弁護士会館で開催されました。今年の追悼行事には、中国から強制連行被害者の遺族二人が、来広しこの集会にも参加しました。

1993年8月に強制連行被害生存者2人が帰国後初めて来日し、西松建設に対し、三項目の要求(謝罪、記念館・祈念碑建設、補償)を提出して以降、補償交渉が続けられましたが、前進を見ることができず、1998年1月に原告5人が広島地裁に提訴し、長い闘いが続きましたが、2009年10月23日、西松建設との間で、安野発電所に強制連行された360人との間で和解が成立しました。今年は、和解が成立して10周年に当たります。1993年当時のことを振り返ると、来日したお二人は、強制連行被害者であるとともに、被爆者でもあり、原水禁世界大会の参加者でした。来日者の一人であった呂学文さんが「私たちにとって、原爆にあい被爆したことも重要だが、強制労働によって人間の尊厳を奪われてしまいました。私は、人間の尊厳を取り戻したいのです」と言われ、大会終了後安野の現地を訪れ、そして西松建設への要求を出すため広島支店(広島市役所の国道2号線を挟んだ南側)を訪れられた姿を忘れることができません。

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昨日の「10周年記念集会」は最初に、和解交渉を担当され和解成立後、西松安野友好基金運営委員会委員長を務められた弁護士の内田正敏さんによる「歴史問題の解決は和解こそ望ましい」と題しての講演がありました。内田さんは「和解の遂行をとおして、中身を深めることができる。交流が深まる。被害者の声に接する、事実を知ることによって、どうすればよいのかを考えることが大事。そして加害者の慎みと節度が必要だ」とこの10年間で学んだことの報告がありました。現在問題となっている韓国人強制連行問題を考えるうえでも示唆となる報告でした。

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続いて継承する会の川原洋子事務局長が、和解以降の取り組みを写真で報告。特に和解から1年後の2010年10月に安野発電所を望む高台に建立した「安野中国人受難の碑」が果たした役割、その年から始まった生存者・家族・遺族の来日による成果が報告されました。

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続いて今回来日された遺族お二人・許立成さん、肖翠青さんが、川原さんのインタビューに答える形で、思いを話されました。許さんは「父は、安野での強制労働によって足を痛め、最終的には足を切ったこと。そのために本当に苦しい生活を余儀なくされたこと。和解後に行われて調査活動によってはじめて、この事実を知った。こんなことがるのかと思い、事実を知った時には、本当にうれしかった」と話されました。肖さんは、「祖父が日本語を知っているということで、周囲から厳しい目で見られ、父は学校にも行けず、大変な苦労をしたことが話されました。2009年の和解で、父の心の中に積もった石がやっとおり、やっと解放されたと思う。今回は、おじいさんがかつて歩いた道を歩いてみたいと思って来日した」と話されました。

休憩後、外村大東京大学大学院教授の「戦後日本の変容と『歴史問題の和解』の課題」と題しての講演があり、足立修一弁護士の主催者あいさつで記念集会は、終わりました。100人ほど入れる会場は一杯、そして特に若い人たちの姿が目立ったのが印象に残る集会でした。

今日は、安芸太田町安野の「安野中国人受難の碑」前で追悼式が行われます。私は、上京中のため、残念ながら今年は参加できなせん。

いのちとうとし

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2019年10月19日 (土)

「UFOライン」を走る

フライフィッシング後の宿泊先は、直ぐ近くの「木の香温泉」の宿です。足をほぐしながらゆっくりと湯につかり、一日の疲れをいやしました。翌朝も、素晴らしい秋晴れです。

二日目は、私の希望で愛媛県と高知県の県境に連なる峰々を結ぶ町道瓶ケ森線「UFOライン」のドライブを楽しみました。この「UFOライン」は、ある自動車メーカーのコマーシャル映像に登場して以来、一躍有名になり多くの観光客が訪れるようになったそうです。私たちがドライブをした日も平日でしたが、多くの車が訪れていました。宿(標高670m)から国道194号線を少し愛媛・西条方面に戻り、右折し急なS字カーブが連続する旧道を10kmほど走るといよいよUFOラインへ入ります。左側に絶壁の谷底が続く道を走り始めると次々の美しい景色が目に入ります。

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眼前に少し雲が見えますので、前日中野倶楽部で「今日は、霧で全然見えなかったようですよ」と話を聞いていましたので、ちょっと霧が心配になりました。しかし、

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直ぐに、左手に高知県の山々が遠くまで見たわせる場所に出てきます。太平洋方面を望んでいます。

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少し走り続けると、コマーシャルに登場した景色が、綺麗な姿で目に入ります。

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この坂道を登り切ると眼前に西日本最高峰の石鎚山が目に飛び込んできます。

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山々の木々は、少し色づいていますが、紅葉にはもう少し時間がかかりそうです。

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右手に「吉野川源流の碑」が見えます。昨日釣りをした中野川渓谷の隣の流れる白猪谷(しらいだに)渓谷が吉野川の源流のようです。標高1500mです。さらに進むとこのラインの最高点に達し少し下ったところにキャンプ場があります。この駐車場は、標高1670mですので宿からは、1000m上ったことになります。ここで車を駐車場に止め少し歩くことにしました。

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歩き始めて10分もすると「氷見二千石原」という見晴らしの良い場所に出ました。左手に目を向けると雲海の中に浮かぶ石鎚山(1982m)が、すぐそばに見えます。朝の早い時間は、雲海がもっと素晴らしかったとのことでしたが、この時間(10時半頃)でも充分の楽しめる景色でした。ここからの眺めは最高でした。

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後ろを振り返ると、この道路の名前の由来ともなっている「瓶ケ森」(かめがもり:1896m)の低い方の峰・男山の姿を見ることができます。

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駐車場への帰り道、足元をよく見ると綺麗に咲いたリンドウの花を何株も目にすることができます。

この先を少し走ると通行止めになると聞いていましたので、再びきれいな景色を眺め、そして対向車に気を付けて、引き返すことにしました。絶好の天気となり、景色を堪能することができました。

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余談を一つ。山を下り、愛媛県西条市小松で郵便局によると、近くからお囃子の笛の音が聞こえてきました。この日から小松地区のお祭りということで、山車が待機しています。この地域の秋祭りでは、お神輿とともに各町内から出る15台の「山車」が練り歩くということです。旧西条地区では、60台余りもの山車が出るとのことでした。

そんな「秋まつり」の話を聞いた後、しまなみ海道を走り広島への道を急ぎました。

いのちとうとし

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2019年10月18日 (金)

高知県中野川フライフィッシング同行記

友人のフライフィッシングに同行し、高知県吾川郡いの町本川を流れる中野川の毛ばり釣り占用区域に行ってきました。中野川は高知県にありますが、吉野川の支流で、その源流域にある川です。広島県では、ヤマメ、アマゴ、イナワ(ゴギを含む)は、すでに9月1日から禁漁期間に入っていますが、中野川は、毎年10月31日まで漁が許可されています。ですので、友人は、フライフィッシングを楽しむため毎年10月には中野川を訪れています。私は、昨年に続き今年も同行しました。広島を朝6時に出発し、現地に着いたのが午前9時過ぎ。

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早速、この釣り場を管理している中野川倶楽部の事務所訪れ、許可の申請。あらかじめ電話で予約していましたので、手続きは簡単に終了しました。この釣り場には、入渓ポイントが、全部で28カ所ありますが、友人が選んだのは一番奥の27番でした。

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私はもちろん釣りはしませんが、同伴者ということで私にも「遊漁証」が手渡されました。

事務所では、コーヒーをごちそうになり、いろいろと釣り場の情報を教えてもらい、いよいよスタートです。27番のポイントまではずいぶんと距離がありますので、そのすぐそばまで車で移動し、早速入渓です。私も、友人が用意してくれた腰まである長靴に履き替えて、釣りの邪魔にならないように、少し離れた後ろから渓流を登っていきます。ここから先は、釣果や渓流の様子を写真で報告します。

まず釣果です。午前10時から午後2時過ぎまでフライを振り続けて、やっとアマゴが4匹、

イワナが3匹でした。

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アマゴの最大は、23cm。

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イワナは25cmでした。文様がはっきりしているのがアマゴです。何だそんなものかと思われるかもしれませんが、この川は「キャッチサンドリリース」(再放流:釣った魚は生かしたまま、釣った水域、地点で放流)ですので、住み着いている魚は何度も釣り上げられているため、警戒心が非常に強く、釣りあげることが難しいのです。後の話ですが、私たちのあとに帰ってきた釣り人も経験者のようでしたが「坊主でした」の一言でした。

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綺麗な渓流です。水が澄んでいて、川底まではっきりと見えます。

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途中で、ニッポンミツバチの養蜂用の巣箱もありました。

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この日はのぼった渓流の最後に、巨木を見つけました。2本あります。

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大きさが分からないだろうと思い、友人にそばに立ってもらいました。大きさが想像できると思います。何かパワーを感じます。

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樹木の名前に自信はありませんが、周りに沢山の橡の実の殻が落ちていましたので、「橡の木」だろうと納得して帰りました。楽しい一日になりました。

いのちとうとし

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2019年10月17日 (木)

廣島護国神社被爆大鳥居顛末記

被爆した廣島護国神社の大鳥居をとりあげたブログで、「もう一つ調べたいことがあります。広島護国神社が、全壊した被爆後から現在地への移転までは、小祠で祭祀が続けられていたようですが、この鳥居は、どこに立っていた(保管)のかということです。」と書きました。今日は、その調査の顛末記です。といってもそれほど大げさなことではありませんが。

結論から言えば、被爆後からRCC横の現在位置に移転されるまで、被爆地で立ち続けていたということです。「ブログを見たから」ということでの情報を得ることはできませんでしたが、ここでもまた中国新聞の記事が、直ぐに回答を与えてくれました。これも大切に保存していた新聞の切り抜きです。2007年4月30日付の1面全面を使った「ヒロシマの記録―甦る『原爆十景』」という特集記事です。「原爆十景」は、1947年に広島市が選定したもので、当時の新聞には「広島市では原子爆弾による被害の特殊性、興味ある営造物を保存してその威力を後世に残し、あわせて観光客誘致の一助とする」と報じられたようです。この「原爆十景」の中には、原爆ドームは入っていません。その「原爆十景」の二番目に「護国神社鳥居上の額」が選ばれていたことを2007年の中国新聞は、下の写真(1945年10月5日林重男さん撮影)を付して紹介しています。

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そしてこれからが本題ですが、その写真に付けた解説で「神社は広島市民球場の建設に伴い56年に広島城跡へ移転し、鳥居と額は城の東側にあたる裏門で現存している」と、56年までは被爆した場所に立っていたことが分かる記述となっています。

さらにこれを証明する写真はないだろうかと探していたら、昭和天皇が1947年12月7日に広島を訪れ時の様子を写した写真(撮影者ははっきりしない)にくっきりと「護国神社の鳥居」が映っています。中国新聞の記事によれば、旧西練兵場後の市民広場との解説があります。

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その後1956年に移転されるまでの間で「護国神社の鳥居」が写った写真はないかと探してみたのですが、これ以外には見つけることができませんでした。しかし、広島市民球場建設時まであの場所に立っていた決定的写真を見つけることができました。広島市郷土資料館が2011年に発刊した「増補広島市民球場の記録」なかの写真(撮影:広島市、提供:広島市公文書館)に、市民球場の基礎工事の様子を写したものがありました。その解説には「鳥居は広島護国神社のもの」とありますので間違いありません。下の写真がそれです。

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「護国神社の大鳥居」のことを調べるために参照したもう一冊の本が「廣島護国神社戦後復興誌」です。その中に、大鳥居が写った写真がありましたので、最後にこの一枚も掲載します。

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解説に「旧社地より大鳥居移転工事」とありますので、現在地に移転建立された時の風景だと思われます。

大鳥居の顛末とは別に、いろいろ調べていると広島市民球場の建設と廣島護国神社の移転は、ほぼ同じ時期に行われていますが、そこに至る経緯をたどると大変な紆余曲折があったことが分かります。広島の戦後復興史を知ることにもつながります。機会があれば、このこともいつか紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2019年10月16日 (水)

原爆被害を改めて考える(4)―「国連への要請書」の疑問

「原爆被害を改めて考える」も、一応今日で終わりにしたいと思います。最後にこのシリーズで何度も登場した広島市・長崎市の「国連への要請書」の「原爆による死亡者数」の疑問点に触れておきたいと思います。

一つは「軍人の死亡者数は2万人前後と考えられる」という記載です。「考えられる」という表現ですから、確定できず推定による数字ということになります。私の疑問は、本当に「軍人の死亡者数は確定できないのか」ということです。軍人の死亡者に対しては「戦傷病者戦没者遺族等援護法に基づく援護」などの法律に基づいて、その遺族に対し遺族年金・遺族給与金及び弔慰金を支給がされています。支給するためには、当然のこととしてその軍人がいつ、どこで亡くなったのかがきちんとしていなければならないはずです。広島の原爆によって亡くなった人もこの法律の対象となっていると考えるのが普通です。この法律の適用に当たっては、当然厚生労働省がその実態をきちんとと把握していると私は考えるのですが、どうでしょうか。市民と違って、軍人の場合は、しっかりとした調査が行われているはずです。そういう道筋をたどっての調査は、行われなかったのでしょうか。不思議です。

軍人の死亡者について、調査した学者がおられることを最近知りました。広島県の湯崎知事のお父さん、「爆心地復元地図」の作成にも中心的な役割を果たされた方です。このことを教えていただいた原爆資料館資料室の方の話によると「当時の部隊の生き残りの関係者などをたどりながら明らかないされようとしたのですが、なかなか情報が集まらず断念されたそうです」とにことでした。こうした努力をされた先生がおられたことを初めて知りました。もう少し詳しい様子を知りたいと思います。

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二つは、朝鮮半島出身者に関する記述です。最初に引用した軍人に関わる文章のあとに「これら以外に多数の朝鮮人被爆者が直接被爆したと考えられる。」と記述され、さらに「上述の数値の中には所在が明らかになった朝鮮人の一部も含まれているが、それ以外にも多数の朝鮮人が広島の直接被爆で死亡したという推測がある」と記述されています。疑問に感ずるのは「これ以外に…直接被爆した」という表現です。このまま読むと「直接被爆者の数31万~32万人」の中に、朝鮮人は入っていないことになってしまい、直接被爆者は、軍人を加えた「35万~36万人」からさらに増加することになります。朝鮮人については、長崎市の部分でも「朝鮮人被爆者も多数いたといわれるが、その実態もはなはだ不明確である。」としています。この表現では、長崎市の直接被爆者数の中に朝鮮人被爆者が含まれているのかどうかは、まさに「不明確」です。ちなみに平和公園にある「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の裏面の「慰霊碑の由来」には、「1945年8月6日原爆投下により2万余の韓国人が。一瞬にしてその尊い人命を奪われた」と刻まれています。

「国連への要望書」提出後、1977年からこの「国連への要請書」作成に携わった専門家を中心に、さらに研究がすすめられ、その成果が1979年に「広島・長崎の原爆災害」(岩波書店刊)として刊行されてまとめられています。そこではより深くその問題が解明されていると思います。

しかし、「国連への要請書」は、広島市・長崎市が国連に提出した公文書ですので、この文書を検証することも必要なことだと考え、あえてこの文章の疑問点を考察しました。

いのちとうとし

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2019年10月15日 (火)

10月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

10月になっても日中はまだ暑い。伸びた枝の剪定を優先したため枝はそのまま放置していたので、その枝を集める作業や、ようやく始めた草刈りなどを中心の作業をしている。一方で作業の合間の楽しみで秋の実り、栗や富有柿の収穫をしたり、ジャーマンアイリスの株分けや植え込む畑の耕起など行う。雨の少ない10月前半ちょっと無計画ながらの農園作業となった。

台風19号が12日に来たが強風で枝が少し折れた程度で済んだ。その台風で長野県の千曲川が氾濫した。高校3年生したか所の下流の小諸市の懐古園を訪れ島崎藤村碑の前に立ち碑に刻まれている「千曲川旅情」を数人グループ@の方が朗読されていたことが思い出される。それだけに、テレビに映される千曲川周辺の被災地を見ると心がつらい。被災地の皆様に心からお見舞い申し上げます。

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10月1日。農園の隣家はいつも花を絶やさない。夏のヒマワリの最後の一輪。種の採取が目的かも。

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10月13日(日)の3つの畑のブルーベリー。紅葉はまだ時間がかかる。

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里山ブルーベリー園の農道の草刈り。10月13日(日)

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ブルーベリーの植えてある里山西側の農園には栗の木がある。親指大の大きさだが草刈りの手を休めて栗拾い。全部で1キロ位とれた。帰って蒸してスプーンでほじりほじり頂く。10月13日(日)

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9月末までブルーベリーの伸びた枝を剪定することを優先したため、切った枝はほったらかしにしていたので、枝を広い野焼きしながら整理する。そうしないと草刈り機に絡むので面倒になる。10月14日(月)

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電気柵にとまるアカトンボ。10月14日(月)

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ブルーベリーの畑に地面を這うように咲くイヌタデ。10月6日(日)

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里山のブルーベリー園のアキノキリンソウ。10月14日(月)

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アップで撮影。園内には数か所にしか咲いていない。10月14日(日)

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同じ里山のブルーベリー園に生えているチカラシバ。畑のものより背が高い。10月14日(月) 

2019年10月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2019年10月14日 (月)

岡本三夫さんと珠代さんを偲ぶ会

昨日、7月20日に逝去された岡本三夫さん、そして後を追うようにわずか2カ月後の9月26日に逝去された珠代さんを偲んで「岡本三夫さんと珠代さんを偲ぶ会」が、市民交流プラザで開催されました。当初は、岡本三夫さんを偲ぶ会として準備されていたのですが、相次いでの逝去により、急きょお二人を「偲ぶ会」となりました。「偲ぶ会」には、岡本夫妻の交流の広さを象徴するように、東京、名古屋、大阪、長崎など県外からの参加を含め73人の参加者がありました。

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岡本三夫さんは、香川の四国学院大学教授時代の1976年に、日本初の「平和学」講座を開講され、平和学の第一人者と言われ、1989年から1991年まで、日本平和学会の会長を務められました。1990年に広島修道大学法学部教授として就任するとともに広島市へ移住し、全国に先駆けて1992年に結成された「第9条の会ヒロシマ」の発足や2001年に結成された「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」(HANWA)の発足の中心的役割を担い、それぞれ代表を務めるなど、県内の平和運動の中心となって活動を続けてこられました。珠代さんもそうした岡本さんの活動を支えるとともに、様々な集会や活動に積極的に参加してこられました。お二人が一緒に参加される姿は、今も目に浮かびます。午後2時半から始まった「偲ぶ会」は、最初にHANWAの共同代表森瀧春子さんのあいさつでスタート。四国学院大学の関係者、四国学院大学時代の教え子、平和学の学者、平和教育研究所、脱原発の活動家、マスコミ関係者などなど15人が次々とマイクを握り、岡本さんとの出会い、エピソード、学んだことなどなどのスピーチが続きました。その中で「岡本さんは、ピープルの視点で平和学を見てきた人でした」という発言が特に印象に残っています。

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スピーチの間に少し時間をとって、実行委員会の皆さんが作成した写真のパワーポイントでの上映。参加者それぞれが、三夫さんと珠代さんの在りし日の姿を思い浮かべました。私もスピーチの機会が与えられましたので、当日配布された資料で岡本さんのことばとして記載された「体を張って戦わねばならない時代がやってきた」(2000年)のことばを紹介しながら、岡本さんは広島選挙区、私は比例選挙の候補者として一緒に戦った2004年の参議院選挙について話しました。この選挙は、2003年に「イラク特措法」が成立し、2004年に武装した自衛隊がイラクに派遣された後に最初の国政選挙でした。まさに体を張って戦われた岡本さんでした。この岡本さんの決意を引き継ぐことが私の役割だと改めて決意させられた「偲ぶ会」でした。

最後に石口俊一弁護士から閉会のあいさつとともに、ドイツから届いた長女沙良(さら)さんの「友人や同僚、仲間に囲まれて充実した人生を送れたことに感謝します」というメッセージが紹介され、会は閉じられました。

いのちとうとし

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2019年10月13日 (日)

原爆被害を改めて考える(3)―原爆被爆者動態調査

一日遅れになりましたが、「原爆被害を改めて考える」のつづきです。

念ずれば通じるということでしょうか、たまたま見つけた新聞の古い切りぬきの見出しに、びっくりする数字を見つけたのです。2013年3月24日付の中国新聞も1面です。「広島被爆者55万7478人」とあります。記事は、広島市が実施した第7期原爆被爆動態調査結果を紹介するものです。「えっ、ここまで具体的な人数が、わかっているの」という数字です。その調査報告の実物を見たいと思い、再び広島市役所の担当課を訪れました。その資料は、広島市が2013年(平成25年)3月に「原爆被爆者動態調査事業報告書」(A4判120ページ 以下「報告書」という)として発行したものです。「少しなら残部がある」ということなので、無理にお願いし、1部入手することができました。早速「報告書」を見てみました。「原爆被爆者動態調査事業の目的」は、「各種調査結果の統合を図り、これまで推計の域を出なかった被爆死亡者一人ひとりの氏名を積み上げ、原爆投下から現在までの被爆の状況を具体的、体系的に明らかにする」(太字は、いのちとうとし)となっています。私がかねてから考えていたことです。

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この調査は、昭和44年(1969年)から始まり、今回は、国の補助を得て、第7期原爆被爆者動態調査事業として、平成11年度(1999年度)から平成24年度(2012年度)までの間に実施されたものです。過去に6回の調査は、すべて2~3年の期間で実施されていたのに対し、この第7期は、広島大学原爆放射線医科学研究所(以下「原医研」)を中心に14年という時間をかけて進められています。中国新聞の記事では、「調査に関わった原医研の大滝慈教授(統計学)は『何らかの資料が残っている被爆者については、出来る限り調べた』と説明する。」とし、それに加えて「『新たな情報が入らない限り、これ以上、被爆者数の実態に迫るのは難しいのではないか』と見ている」としていますので、現在調べ得る最も正確な報告といえると思います。

 「報告書」を見ると、私が考えていた「被爆者健康手帳交付申請書」も資料として使われたようですが、特に力を入れたのは、「現行データの重複整理」だったようです。その結果「直接被爆者38万4743人」が明らかとなったのです。まさに被爆者一人ひとりの氏名が積みあがった数字です。貴重な数字です。驚くのは、よく言われている「35万人」よりもずいぶん多い人数になっています。「この数字を何故使わないのですか」と広島市に問うたところ返ってきた答えはこうです。「まだ重複者がいると思われます。被爆地域として安芸郡戸坂村や中山村、府中町、安佐郡祇園町なども含まれているためです」。ところが、「報告書」の次のページで示された「被爆地域別被爆者数」というでは、「隣接町村 13,269人」となっています。仮にすべて被爆地域外としてそのすべてを差し引いても「37万1474人」になります。これでも「35万」を大きく上回っています。さらにこの「報告書」には、もう一つ重要数字が示されています。「『昭和20年(1945年)死亡者』(直接被爆者)に関しては、今回の調査では、88,049人であり、上記の推定値(いのちとうとし注 「国連への要請書」に記された14万人±1万人)と比べ30%以上少なくなっていた。」と確認された死亡者数を明示しています。「報告書」の「直接被爆者38万4743人」は、当然のことですが、8,049人を含んだ人数です。推定数とはいえ「国連への要請書」では「死亡者数は14万人±1万人」としているのですから、この推定するを変えない限り、今回の調査で確認できなかった5万2千人を直接被爆者に加えることになり、直接被爆者数はさらに拡大することになります。

中国新聞の記事では、この調査に携わった原医研の大谷敬子助教が、特に死亡者について「書類がある人は網羅できたが、記録のない人も多い」と指摘したことを紹介しながら、さらに「一家全滅の事例、被爆後に広島を離れた外国人や軍人が多数もれている可能性を指摘」としています。

指摘されるようにまだまだ不確実な様子はありますが、日頃言われている「直接被爆者約35万人、死亡者14万人±1万人」という推定数は、修正されるべきではないでしょうか。しかし残念なことに、この貴重な「原爆被爆者動態調査事業報告」に基づいて被爆実態を伝える数字が変えられたという話を聞いたことがありません。私には、とても不思議なことです。

いのちとうとし

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