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2019年6月27日 (木)

国会閉会―参議院選挙へ 総がかり行動実行委員会街頭から訴える

今年の通常国会は、150日の会期を終え、昨日6月26日に閉会し、参議院選挙が7月4日公示、21日投開票で実施されることが決まりました。

「戦争をさせない!・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」は、国会の閉会日となった昨日午後5時半より本通電停前で街宣活動を行いました。

雨が降り始める中、50名の参加者がそれぞれチラシを配布するとともに、代表して7名が次々とマイクを握り、仕事終え帰宅を急ぐ市民に訴えました。

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「今国会で、本当に私たちの声が論議されたと思いますか。老後資金2000万円問題もそうですが、選挙に都合が悪いことにはホウカムリして、国民には説明しない」「国会での論議を尽くさず、国民に背を向け続けてきた安倍政治に終止符を打つため、今度の参議院選挙が重要です」「仕方がないとあきらめるのではなく、選挙で必ず投票することで、自分たちの意思を明らかにすることで必ず政治は変わります」「今度の選挙で、自公など改憲議席の三分の二割れに追い込むことが、憲法改正をストップさせることになります」などなど。

それにしても今国会ほど、国会審議がないがしろにされたことはありません。参議院選挙を意識した政府・自公政権は、論議を呼びそうな重要法案はすべて先送りにし、野党から強い要求があった予算委員会も4月以降は全く開催しませんでした。テレビでの国会中継は、予算委員会や重要法案を審議する委員会などしか行われませんので、今国会のように4月以降の約3か月間も予算委員会が開催されない場合は、国民が国会審議の状況を間近に見ることはできません。年金問題だけでなく、例えば、いま深刻な問題となっているペルシャ湾情勢などに政府がどう対応するのか、アメリカトランプ大統領の「船舶への攻撃はイランが行った」という主張は本当にそうなのか、などなど国民が知りたいことはたくさんありました。こうしたことに正面から向き合って徹底して論議することこそ、国会の役割だったはずです。かつて国会改革だといって導入された党首討論もしかりです。今国会では開催されたのは、1回だけです。しかも45分間。こうした国会状況を招いているのは、六年以上続く長期政権の弊害そのものです。まさに自民党内に広がった安部忖度政治の結果です。自民党内国会論議を避け、頻繁に数の力で採決を強行してきた安倍政権には、終止符を打つしかありません。そのチャンスが今度の参議院選挙です。

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参議院選挙の日程も確定し、いよいよ7月21日の投開票日をめざした運動が、待ったなしでスタートしました。参議院の広島選挙区は、定数が2名です。今自民党は定数2名の選挙区のうち全国で唯一2名を擁立しているのが、ここ広島選挙区です。私たちが訴えてきた、憲法改悪阻止、平和と民主主義を守ろうとする力が試される選挙となっています。決して自民党に2議席独占を許すことはできません。その決意も固める昨日の街宣行動でした。

いのちとうとし

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2019年6月26日 (水)

新聞各紙が伝える沖縄慰霊の日

沖縄慰霊の日の6月23日、沖縄を考える「6.23沖縄慰霊の日集会」が「広島・沖縄をむすぶつどい」の主催で広島YMCAで開催されました。犠牲者に対する黙とうから始まった集会は、最初に慰霊式の模様をビデオで鑑賞。続いて、「童神」と「サトウキビ畑」の2曲を沖縄の民族楽器三線の伴奏で全員での合唱。このあと中村盛博さん(広島沖縄県人会顧問)の話や会場での意見交換などが予定されていましたが、私は全員合唱が終わったところで退席ましたので、集会の報告はここまでです。

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ところで、沖縄慰霊の日の様子を新聞各紙はどう伝えているのだろうか。と関心を持つ出来事(は大げさかもしれませんが)がありました。24日の朝、自宅に届いた中国新聞の記事を読んでいた時です。1面トップに「沖縄戦74年 平和への決意」4段抜きの見出しで書かれた「慰霊の日記念式典」の記事の最後にある点線の囲み記事に記載された「沖縄知事の平和宣言、安倍首相のあいさつ、平和の詩全文は、ホームページ『中国新聞デジタル』に掲載しています。」が目に飛び込んだからです。えー?。広島と沖縄は密接な関係にあるのに中国新聞は、本誌では沖縄知事の平和宣言を全文載せないのか?なぜ?と率直に疑問を感じました。中国新聞に電話でをしようかとも思ったのですが、全国紙三紙はどんな扱いか調べてからでも遅くないと思い、昨日(25日 24日は休館日で図書館は閉館)、広島市中区図書館に行って調べてみました。調べてみると面白いことが発見できます。調べた結果は次のとおりです。

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まず朝日新聞です。ちょっと意外でした。1面のトップ記事は、「かんぽ生命 不適切な販売」の記事です。沖縄慰霊の日の記事は、2番目の記事として、その下に掲載されていました。2面の関連記事は、大きく紙面を割いています。この2面に知事の平和宣言と首相あいさつは、要旨のみの掲載とされています。社会面では、糸満市兼城小6年の山内怜奈さんが朗読した「平和の詩」が掲載されています。紙面をめくると朝日新聞だけ他紙にない記事が見つかりました。広島県版にも沖縄慰霊の日関連の記事があったことです。最初の書いた「6.23沖縄慰霊の日集会」のことがかなり紙面を割いて掲載されていました。広島支局の記者の良識を感じます。そういえば、当日会場で私の隣に座っていた参加者が朝日新聞の記者を見て「中国新聞は来ないのか」といっておられてことを思い出します。

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次に毎日新聞です。ここの紙面が最も充実しています。もちろん1面のトップ記事は、沖縄慰霊の日です。タイトルは4段抜きで「沖縄74年 願う対話」となり、大きく紙面を割いています。毎日新聞で驚かされるのは、社会面の1面全紙が「沖縄慰霊の日」の記事となっていることです。もちろん知事の平和宣言も首相のあいさつもこの面に全文掲載されています。さらに玉置知事が平和宣言の最後で述べた方言の部分も英文の部分もそのまま掲載され、訳も付けられています。

最後は、読売新聞です。1面にも2面にも沖縄慰霊の日の記事は見つかりませんでした。ようやく見つけたのは、3面の社説です。見出しは、「沖縄の負担軽減へ対話を重ねよ」です。

これが全国紙三紙の沖縄慰霊の日の報道記事の様子です。私が疑問に思って「知事の平和宣言」の全文が掲載されなかったのは、中国新聞だけではありませんでした。でも戦争の痛みを共に身をもって感じた広島の新聞社として中国新聞には「平和宣言」を全文を載せてほしかったと思うのは、私だけでしょうか。6月24日の新聞記事を調べた時、昨年の6月24日の中国新聞も倉庫から出していただき調べてみました。残念ながらそこにも同じように「ホームページで」と記載されていましたので、今年編集方針が変えられたということではないということがわかりました。しかしやはり、「ホームページに掲載」では、新聞社としてあまりに寂しすぎるように思います。まして広島の。

いのちとうとし

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2019年6月25日 (火)

広島県原水禁、秋葉忠利代表委員の講演

 6月19日、被爆74周年原水爆禁止世界大会第1回広島県実行委員会(結成総会)が西区横川町の自治労会館で開催されました。6月20日の、このブログで「いのちとうとし」さんが、その内容は書いておられます。

この会の中で、秋葉忠利代表委員が話されたことが、ずっと頭の中に残っています。秋葉さんは「核兵器禁止条約採択以降の世界の日本の状況」というタイトルで約1時間話されました。

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頭の中に残っているもの一つは、今日の状況について「戦後、もっとも厳しい状況にある」という分析です。にもかかわらずこの国の人間は、怒らないということへの、秋葉さんの「怒」が伝わってきました。まったく同感ですし、これに対して「じゃあ、どうすれば良いのか」と考えても、答えが出てきません。

経験からいえば、私たちが活動に関わり始めたキッカケは、労働組合の存在です。労働組合が大きく平和運動に影響を与えていました。そして特に広島では、被爆者として素晴らしい先輩が多くおられました。当然のことですが、74年という年月の経過はあの世に逝かれるということで、別れるという宿命が訪れてしまいました。

二つ目は、僕自身も経験していることですが、かつて特に米国人に原爆のことを話した時、「真珠湾を最初に攻撃したのは日本だ」、「原爆投下によって戦争を早く終わらせた」という反応と、「今でも日本人は米国を憎んでいるのか?」という問いかけがほとんどでした。秋葉さんの話しによると、戦争直後では米国人のこの反応は90%を超えていたそうです。それが09年には67%となり、15年には56%、16年には45%に低下しているそうです。

この数字が表わす理由には、オバマ大統領の誕生、どこにでも核戦争が起きる可能性があるという世界状況、世界中で発生した原発事故、そしてなんと言っても、被爆者の人たちが自らの体験を語り、書き、という形で「二度とヒバクシャをつくらない」ということを世界中に訴えている努力だと思います。

厳しい厳しいと、どうしても落ち込み気味になりますが、日本では395の自治体で「核兵器禁止条約を批准すべし」という決議が行われているそうです。  

僕が調べたのですが、米国でも同じ内容の自治体決議が複数されています。

秋葉さんは次の7点を、この国の状況を見る中での「動き」のポイントとして提起されました。

  ①核兵器の「国際法違反」を否定する動き

  ②自前の核兵器保有を目指す動き

  ③そのために原発をやり続ける動き

  ④そのためにロケット開発を目指す動き

  ⑤憲法改悪で法的根拠を固める動き

  ⑥選挙制度を変えない動き

 ⑦五月蠅い(うるさい)老人は排除する動き

この五月蠅い老人とは、現在平和運動に中心にいるとされる高齢者を指します。

最後に、There is still time brotherと話されて講演を閉めました。この英語、「兄弟たちよ、まだ時間はある」という意味です。

木原省治

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2019年6月24日 (月)

被爆した南方特別留学生

毎年7月に実施される「クリーン太田川」の清掃作業で、私の住む大手町4丁目町内会は元安川左岸の万代橋から新明治橋の間で実施しますが、その真ん中ほどに「興南寮跡碑」があります。「興南寮」は、戦前広島文理大(現在の広島大学)に留学していた南方特別留学生が住んでいた寮です。その「興南寮」で暮らしていた留学生も、1945年8月6日に投下された原子爆弾によって被爆をし、うち1名は二日後に、もう一人は9月になって死亡しています。

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この「被爆した南方留学生」についての講演が、広島大学千田キャンパス東千田みらい創生センターで開催されました。講演会は、第2回市民・被爆者交流公開講座「ヒロシマの再考察・外国人被爆者(非軍人)」の第1回講座のテーマとして取り上げられてものです。私も、主催されている新見博三先生(元広島大学学生部長)から電話をいただき、22日午後1時半からの始まったこの講座に参加しました。

講師は、現在広島大学大学院生(博士課程)として「南方特別留学生に関する研究」を行っておられる平野裕次さんでした。平野さんの話は、2013年に広島大学がこの南方留学生に名誉博士号を授与した時、その発掘作業に関わった経験を基にした貴重な情報提供でした。

このブログでも講座の最初に話された「南方留学生とは」から報告すべきですが、とてもすべてを語ることはできません。ここでは私の印象に特に残ったことだけを書いておきます。

被爆した留学生は、8名。うち2名が死亡。死亡したのは、いずれもマライから留学していたサイド・オマールさんとニック・ユソフさんの二人。この二人のことについては、すでに1982年に発行された「天の羊 被爆死した南方特別留学生」(中山士朗著)で紹介されていますので、ぜひ読んでみてほしいと思います。Amazonでは現在見つけることはできませんが、広島市図書館では蔵書されていますので読むことができます。

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ここではニック・ユソフさんのお墓とのかかわりです。「興南寮」で被爆したニック・ユソフさんは、広島市西部方面に逃れ、翌7日に楽々園駅近くで瀕死の状態で水を求めていたことが確認されているようです。その後死亡。後に五日市町の職員が、光善寺に3つの遺骨を運び込み、住職に保管を依頼したようですが、そのうちの一つにニック・ユソフの名が記載された紙があったためユソフさんの遺骨と判明したようです。後に日本人有志によって、光善寺にユソフさんのお墓が作られ埋葬されたそうです。実は光善寺は、私たち原水禁にとってもゆかりのある寺です。参道には、五日市原爆犠牲者慰霊碑が建っていますが、その碑文「原爆犠牲となった人々を忘れず、原水爆のない平和な世界を築こう」という文字は、森滝市郎先生が揮毫されています。そしてその碑の前では、がかつて五日市地区が行っていた核実験抗議の座り込みを行っていました。講演を聞きながら、当時、座り込みをしていた人たちの中でどれぐらい、ユソフさんのことが知られていたのかなと思いました。

もう一つは、生き残り帰国された被爆者のことです。「興南寮跡碑」に立てかけられた木札を見ると帰国後は、その国で首相や大学教授として活躍されたことがわかります。この方たちは、何度か日本訪問され、その都度、被爆者健康手帳を取得されたようです(私の質問への平野さんの答え)が、健康管理手当など取得はどうなったのかが分からないとのことでした。在外被爆者問題を取り組んできましたが、支援者の間でもこの南方留学生のことが話題となったことは、ほとんどなかったように思います。調べてみるべき課題になりました。

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貴重なお話をしていただいた栗原さんと佐久間さん

また今回の講座では、あの日8月6日の夜から14日まで広島文理大で留学生たちと一緒に野宿したという92歳の栗原明子(めいこ)さんや母が興南寮の炊事婦をしていて一緒に過ごした体験を持つ東広島在住の佐久間さん(女性)などの話もあり、74年経っても新たに事実が見つかるのだなということもあらためて痛感させられました。

次回は、6月22日に「在米・在ブラジル」のタイトルで田村和之広大名誉教授の講座が開かれます。

いのちとうとし

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2019年6月23日 (日)

被爆樹樹木めぐり

中区公民館共催の「被爆樹木めぐり」に夫婦で参加しました。爆心地からほぼ2キロ以内で生存し広島市が被爆樹木として登録している樹木は、現在161本ですが、当然のことながらそのほとんどは中区内に存在します。

以前に参加した広島市平和推進課主催の被爆樹木めぐりでは、事前のレクチャーもないまま直ぐに被爆樹木を訪ねて回りましたが、今回は中央公民館で原爆慰霊碑ボランティアガイドの玉置さんから、「被爆樹木について」のレクチャーを受けてからの出発となりました。

玉置さんの話は興味あるものでした。「私は、被爆証言を続けてこられた久保浦寛人さんの役を引き継ぐ気持ちで、この活動をしています。久保浦さんはこう言いながら碑めぐりなどをしておられました。『道端に立っていても誰にも知られずにいるもの言わぬものたちがいます。慰霊碑、被爆建物などです。被爆40年目に4km以内の木造の被爆建築物も被爆建物として認められるようになりました。こうした被爆したものたちの痕跡をたどるうちに被爆樹木に行きついた』と。この言葉を大切にしたいと思っています。」

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説明が始まります。「なぜ2km以内か、それは当時全焼したこの地域の中でも生き残っていることに意味があます」。さらに被爆樹木の研究の歴史。被爆樹木を世界に広げる活動が推進されていること。被爆樹木の特徴は、焼けたものがある、真っすぐ立っていない、爆心地側の成長が遅いなどの特徴があるが、その原因は、原爆の影響と思われる爆心地から反対の方向は根がしっかりとなっていることが、理由ではないかと考えられること。残っている被爆樹木の多くは、学校や寺院にある。その理由はわからないが、そうした場所を探せばもっと多い可能性があることなど、示唆に富んだレクチャーでした。その後、今日は訪ねることのできないが現在登録されて被爆樹木がパワーポイントで紹介されました。私がすでに訪れたことのある被爆樹木がほとんどでしたが、初めて知る被爆樹木も多くありました。その中には、わが家から100m以内にある大手町3丁目の長遠寺や本逕寺境内の被爆樹木の紹介もありましたので、直ぐにも訪ねてみなければと思いました。

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1時間ほどのレクチャーが終了し、いよいよ外に出ての被爆樹木めぐりのスタートです。今回は、時間の都合で中央公民館から原爆ドームまでの間にある被爆樹木4本をめぐりました。基町交番横にあるクスノキ、そして基町市営住宅南西側駐車場内のクスノキ、中央公園を超えてハノーバー庭園内子ども科学館東側のシダレヤナギ、青少年センター西側土手のシダレヤナギです。最後の訪れたシダレヤナギが爆心地から最も近い被爆樹木です。

どの木も元気な姿で立っていますが、近づいてよく見ると少し曲がったり、焼け跡と思える傷口があったり、片方向だけに根が張った様子がはっきりと見えるなど、その樹木ごとに被爆樹木だなと思える姿が確認できました。

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現存する被爆樹木ではありませんが、かつて基町小学校の子どもたちが大事に育てながら、台風で倒れ枯れ死した被爆エノキも訪れました。そこで玉置さんが「被爆樹木をどう語り継ぎ、継承していくのかが重要です。その意味で、このエノキは枯れてはしまっていますが、ここで子どもたちが平和学習として取り組んできたことを忘れないためにも、この状態を残すことに意味があると思っています」と話されたことが強く印象に残っています。

いのちとうとし

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2019年6月22日 (土)

原水禁運動の歩みをどう伝えるか

6月7日のこのブログで報告しました「写真展『グローバルヒバクシャの肖像』」の会場で、私とオーストラリアのマードック大学のミック・ブロデリック教授の話を通訳していただいた服部さんに「森滝先生の思想」について話す機会を持ちました。会場は、私の自宅近でいつもお世話になっている平和会館を使わせていただきました。

最初の話は、リニューアルされた原爆資料館の感想です。世界各地の戦争被害を伝える資料館を回った経験を持つ、服部さんの話に教えられることがありました。「原爆資料館の展示の模様は、各地の資料館の良さが取り入れられているということを感じた」ということを指摘しながら、「どうして展示が、女性、子どもに限っているのでしょうかね」「ヒロシマの心が最後のところで小さく出ているのにちょっと疑問を感じました」「ヒロシマの市民が何を伝えようとがんばって来たのか、そのメッセージが伝わってきません」などなど。当たり前のことですが、原爆資料館を見ての感じ方も受け止めも一人ひとりによって大きく違うのだなということを改めて感じさせられました。今度資料館を見学するときには、この日聞いたことも思い出しながら観なければと思わされるような話でした。もちろん、この意見を聞きっぱなしにしたわけではなく、私の感想も言いながら意見交換をしましたが、少し違った角度から物事を見、考えることの必要性を学んだ気がします。

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写真は、第1回核被害者世界大会のデモ行進前 右下の写真は森滝先生とサーロー節子さん

服部さんは、平和文化センター元理事長のスティーブン・リーパーさんから、何度も森滝先生のことを聞き、もっと深く森滝先生のことを知りたかったようです。私が「写真展『グローバルヒバクシャの肖像』」の会場で、原水禁が早くから「世界の核被害者」の問題を取り上げ、1987年には「第1回核被害者世界大会」を行い、森滝先生がその基調演説を行われたことを話したところ、服部さんから「その英文はありませんか」と問われたのが、昨日のような場を設けるきっかけでした。基調演説原稿の英文は、先生の米寿を祝う会で発刊した「いのちとうとし」に載せていましたので、直ぐにコピーを手渡しました。

そんな縁で、私の話を聞いてもらいました。私の話は、森滝先生が「核と人類は共存できない」「核絶対否定」の理念を確立への最後の一押しとなったオーストラリアの先住民族アボリジニーの女性との出会いや、第1回核被害者世界大会を実現させるために、世界の核被害者と何度も何度も交流を重ねてお互いの信頼を得るための努力を続けた原水禁の取り組みなどでした。もう一つは大事なことですが、第1回原水禁世界大会の宣言文も紹介しながら「被爆者救援と核兵器廃絶」が原水禁運動の車の両輪となっていることや1955年に初めて海外での証言活動のため訪欧された日詰忍さん、その後何人もの被爆者が困難な中で海外を訪問し「被爆体験を語り、核兵器の廃絶」を粘り強く訴えてきたことが、2017年に採択された「核兵器禁止条約」に結実させる原動力となっていることなどを話しました。

服部さんに話しをしながら、私自身も改めて先人たちの努力があって今の原水禁運動があることを痛感するとともに、今この時代にも、いやこんな時代だからこそ、こうした原水禁運動の歩みから学ぶ必要があるのではないかと感じました。そして不十分とはいえ、その運動の中に身を置き、多くを学んできた私の役割かなと思った昨日でした。

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日本テレビの映像から

ところで、この話と直接関係がありませんが、先日の原水禁世界大会広島県実行委員会に二人の高校生平和大使がアピールしたことを紹介しましたが大事なことを失念していました。広島県で選ばれた高校生平和大使は、3人です。参加できなかった松田小春さん(広島大学付属高等学校2年生)は、ローマ法王に会うためイタリア訪問中でした。そのニュースを見て大事なことを伝え忘れていたことを思い出し、いま報告しています。

いのちとうとし

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2019年6月21日 (金)

戦争をさせないための二重のブレーキ ――Elaine Sacrry (エレイン・スカーリー) 教授の講演から (2)――

「核時代平和財団」(英語名は、Nuclear Age Peace Foundation)主催の2019年記念講演会でのスピーカー、ハーバード大学教授のElaine Scarry さんの話の内容を紹介しています。前回は南北戦争で北軍が勝った理由の一つは、南軍の脱走兵の数が25万人もいたことだったという、意外な事実を取り上げましたが、今回はその続きです。

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スカーリー教授によると、アメリカ合州国憲法には、戦争をさせないための二つのブレーキが組み込まれているのだそうです。

一つには、宣戦を布告するのは議会だと決められていることです。これが第一のブレーキですが、議会が戦争開始についての拒否権を持っているということです。その条文です。

第8 条[連邦議会の立法権限]

[第11 項]戦争を宣言し、船舶捕獲免許状を授与し、陸上および海上における捕獲に関する規則を設 ける権限。

そしてもう一つが、実際に戦争に駆り出される市民が拒否権を行使できるという仕組みが備わっているそうなのです。その根拠が、通常は、個人が銃を持つことを認めていると、誤って解釈されている修正第二条なのです。念のため修正第二条を掲げておきます。

修正第2条[武器保有権] [1791 年成立]

規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要であるから、国民が武器を保有し携行する権利は、 侵してはならない。

 

スカーリー教授の主張は、この条文を根拠にして、市民が戦争に参加しない拒否権を持っているというものです。

彼女が強調したいポイントはその先にあります。

    通常の戦争においては、これら二つのブレーキが機能を果たして、戦争の抑止や早期の終結に役立ってきた。例えば、二番目のブレーキの変形  である「脱走」という行為が平和をもたらす上で大きな役割を果してきた。南北戦争の事例はこのことを示している。

    しかし、核時代になって、この二つのブレーキが全く機能しなくなってしまった。議会が宣戦布告をしてもしなくても、自分がボタンを押せば、敵国の何百万人もの命が消えてしまう時代に、わざわざ議会の承認を得る必要はあるのか(ニクソン大統領の言葉)、という理由で、第一のブレーキは利かなくなった。また、戦争をするには何十万、何百万の人間の兵士が必要だったのは昔のことで、核時代には、大統領がボタンを押すだけで戦争に勝てるのだから、第二のブレーキも利かなくなった。

 

逆に、これら二つのブレーキを復活させること、そのために市民の力を結集することが核兵器廃絶への未知だ。

日本においても、このような視点からの現状分析、そしてそれに基づいた行動計画は効果的なのではないかと思います。それについては、次の機会に。

[2019/6/21 イライザ]

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2019年6月20日 (木)

被爆74周年原水禁世界大会広島県実行委員会が発足

被爆74周年原水爆禁止世界大会を成功させるための広島県実行委員会結成総会が、昨日午後6時から自治労会館で開催されました。この結成総会には、被爆者や原水禁会員、労働組合員、市民団体代表など80名余りが参加し、8月4日から始まる原水禁世界大会広島大会の日程やそれぞれの役割分担などを話し合いました。

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金子哲夫県原水禁代表委員の開会あいさつで始まった総会は、最初に先日全国の仲間と結団式を終えた高校生平和大使のうち、北畑希美(のぞみ)さん(広島県立広島県立広島高等学校2年生)と牟田悠一郎さん(広島市立基町高等学校2年生)のふたりが参加し、元気に決意を述べてくれました。二人のあいさつは、6月17日のこのブログで紹介していますので、今日は省略しますが、間違いなく参加者に二人の熱い思いは伝わったと思います。同時に若い二人に期待をかけていることが、あいさつ後に送られた参加者の力強い拍手に表れていました。

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その後今年は秋葉代表委員から「問題提起のための講演」がありました。タイトルは「核兵器禁止条約採択以降の世界の日本の状況」で、これまでの国際社会の核兵絶運動の歴史や方向性を解説しながら、私たちの運動の「本丸」である日本政府の政治姿勢をわかり易く解説するとともに、今年の私たちの活動の舞台は、「日本国内」だと強調されました。特に、都市の力が重要であること、そしてそれを動かすのが私たち市民の力だと指摘するとともに、具体的には395自治体に広がった「核兵器禁止条約支持決議・日本も批准すべし決議」をさらに広げることが重要だという課題提起がありました。最後に「原水禁大会の役割」として「『未曽有鵜の厳しさ』への対策を練る、そのためには、全国の怒りを顕在化させ大きくまとめる、『新しい』アプローチを作る」ことなどが強く訴えられました。

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秋葉代表委員の講演の後は、渡辺事務局長からの「大会のスローガン(案)」の解説や「組織の構成・役割」「大会の日程、分科会のテーマ」などを中心に現地実行委員会としてこれから取り組むべき課題が提起され、それらを全体で確認し、結成総会は終了しました。

なお全国からリレーされた「被爆74周年原水禁 非核・平和行進」は、東部コースは7月27日に、西部コースは8月1日に広島入りする日程が提起され、それぞれの地区で例年通りに取り組むよう要請しました。なお毎年広島県独自で実施している北部コースも例年通り、7月30日に庄原市を出発することになっています。

今年のメインスローガンを書いておきます。

核も戦争もない平和な21世紀に!

憲法改悪反対!沖縄辺野古に基地をつくるな!

めざそう平和と核兵器廃絶・脱原発社会!

 詳しい大会の日程などは、後日このブログで紹介しますが、毎年関連行事として取り組まれている「反核平和の火リレー」は、今年は7月3日に平和公園慰霊碑前を出発し、26日まで走り継がれることになっています。

いのちとうとし

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2019年6月19日 (水)

古本「廣島大本営」

紙屋町の地下街シャレオで恒例の「古本まつり」が、17日から23日まで開催されています。

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三越の食パンを買っての帰り道、ほんのちょっと回り道をしてこの「古本まつり」に寄りました。最近少しずつ蔵書を整理していますが、やはり「古本まつり」開催と聞くと、寄らずにはおられません。買いたいなと思う本も何冊かあり、開いて中を確認したりしながら古本が並べられた棚と平台を一応くまなく見て回りました。しかしどうにも我慢できずについに本を手にし、レジに行くことになりました。

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その本のタイトルは「廣島大本営」です。奥付を見ると「著者 畑耕一、発行年 昭和一八年九月二五日、発行所 天佑書房」となっています。「定価二円八〇銭」その横に「特別行為税相当額拾銭」そして「合計弐円九拾銭」となっています。いずれも漢字は古い字で書かれています。「特別行為税」とは聞きなれない税の名前ですが「戦局が悪化した昭和十八年に導入された間接税」で、当時、本も「奢侈的(ぜいたく)特別行為」として課税されていたようです。

私がこの本を購入したのは、以前から日清戦争の時広島に設置された「大本営」ことが書かれた当時のものはないのかと探していたからです。戦後に発行された出版物にも「広島大本営」について書かれたものはありますが、戦前の雰囲気の中でどう書かれていたのかということを知りたいと思っていたからです。

筆者の畑耕一さんは、この本を書くことになった思いを「小序」で「大東亜戦争の戦史は、多くの人々によって書かれるであろう。その銃後史もまた現れるであろう。日清戦争の戦史も多い。だが、銃後史に欠けている」と記し、さらに「日清戦争の臨戦地境と定められた廣島に私は生まれたのである。・・・この欠けているものを補うべく任務を果たしたい」と述べています。私が特に興味を持ったのは、「『臨戦地境』である『銃後』の廣島のこと」を書いたと記されているからです。当時、広島で何が起きていたのかを少しでも知ることができればとの思いが、この本を購入させたのです。6月16日のこのブログ「声を出すのを止めたとき」にも、日清戦争当時のことが触れられています。

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まだすべてを読んだわけではありませんが、ここではパラパラとめくって目についた二つのことを紹介します。現在広島中央図書館北側歩道上を少しふさぐ形で、竹垣で囲われた「明治天皇の聖跡」とされる場所にある井戸です。この本では、この井戸と関係することが書かれています。大本営の設置にあたって「殊に係員の苦心したところは、大本営における御膳水用の井戸の穿鑿と警護であった。赤痢の流行は決して衰えていない。まったく恐懼してことにあたった」と。当時赤痢の流行は深刻な問題となっていたようです。もちろん明治天皇が東京から移動する様子や大本営での生活ぶりも詳しく書かれています。

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もう一つは、臨時帝国議会の模様です。これもかなりのページを割いて詳しく記載されています。仮議会の議事堂は、9月28日に着工し、10月14日には、「仮議院工事は成った」と記されています。わずか16日間の工事です。宇品線工事を思い起こします。先に私は「臨戦地境」という言葉を使いましたが、実はこの言葉には重要な意味がありました。この本の中にこう書かれています。「5日(金子注10月)はまた特に廣島として記憶されるべき日であった。戒厳令が宣告せられ、廣島県下、廣島市全部及び宇品は『臨戦地境』とさだめられたのである」と。廣島は戦場に隣接する場所として戒厳令が宣告されたのです。そしてこの戒厳令下で、臨時帝国議会が開会され、戦争遂行のための「臨時軍事費予算案」が、「衆議院貴族院全会一致をもって、忽ちに原案可決となったものであった。可決された軍事費は、1億5千萬円」となったのです。

興味をそそられる内容が続いています。この本は、きちんと読み、軍都廣島の歴史をもう一度学びなおしたいと思います。

いのちとうとし

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2019年6月18日 (火)

被爆者のコスタリカ訪問報告会

「広島平和記念公園被爆遺構の保存を促進する会」で一緒の活動している被爆者の森川高明さんのコスタリカ訪問報告会が、16日(日曜日)の午後7時から「ソウシャルブックカフェ ハチドリ舎」で開催されました。ハチドリ舎のイベント一覧を見ると、イベントタイトルは「被爆者が歩いたコスタリカの今 ~森川さんの証言の旅報告会~」となっています。毎月6の付く日は、被爆者話を聞く企画となっているようで、今月16日は、森川さんの話を聞く会となってようです。会場の「ハチドリ舎」の名前はこれまで何度も聞いていましたが、訪れたのは今回が初めてでした。

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報告会の最初は、いつもイベントの開始時の恒例となっているようですが、ハチドリ舎のあびこさんの「ハチドリ舎」の紹介です。「ブックカフェの前にソーシャルと付けたのは、単なる本というのではなく、社会的課題に役立つ本を読めるカフェという思いが込められています。そしてその社会的課題を当事者から話を聞くことで解決の道を考えるため、イベントを開催しています。まじめな話がはしにくくなっていますが、対話を通じてバランスをとっていく。今話すことが大切だと思い、その場所になればと思いこのハチドリ舎を開きました」。前置きが長くなりました。

森川さんの訪問報告(5月17日から27日)のスタートです。コスタリカまでは、飛行機に乗っている時間だけでも16時間35分。国の旗は、市民旗と国旗の二種類。国章が入った国旗は、民間で使用が禁止されていることなど、コスタリカの興味ある話が続きましたが、ここでは森川さんのコスタリカ訪問の主目的で会った被爆証言を中心に報告します。

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森川さんの被爆証言は「、①日本大使館が主催し毎年行われている「ヒロシマ・ナガサキ原爆ポスター展」の会場となっているコスタリカ国立大学②国連平和大学③SGI(創価学会インターナショナル)コスタリカ」の3会場で行われました。それぞれの会場の参加者は、①110名、②75名、③60名。報告会の終了後、森川さんに「聴衆の反応はどうでしたか」とたずねたところ「涙を流して聞いてくださった女性の姿などがありました。一人ひとりの感想は聞いていませんが、私が持参しお願いした『ヒバクシャ国際署名』が、①の会場では109筆、②の会場では68筆、③の会場では56筆が集まりました。3つの会場合わせて参加者245名で228名の皆さんが署名していただいたので、私の思いはよく伝わったと思っています。」との答えでした。この他にも大学の昼食会が準備され、若者たちとの交流もあったそうです。

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この署名は、この会場で広島県被団協の前田事務局長に手渡されました。

森川さんがコスタリカ訪問で見てきたかったといわれる「軍備を持たない国・積極的平和主義の国・コスタリカ」の姿についての報告の一部を紹介します。「国の大小にかかわらず、へつらわないリーダーの姿勢が、街行く人たちの顔つきに強く感じた。それは屈託のない明るくさわやかなものとして」「平和文化の重要性は、話し合いによる解決をめざすということが、子どもから大人まで浸透しています」。言葉は同じでも安倍さんが言う「積極的平和主義」とでは中身は全く違うということを感じさせられて報告会でした。

森川さんのコスタリカ報告は、環境保護、エネルギー問題などなどもっと盛りだくさんの内容でしたので、「これだけか」と森川さんからおしかりを受けそうですが、今日の報告はこれで終わりです。

いのちとうとし

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