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2020年11月29日 (日)

宇品線のモニュメントを訪ねてーその3

寄り道の「広島大学医学部・医学資料館」見学を終え、「モニュメントMAP」を頼りに、「ポッポ広場」をめざし医学資料館西側の真っすぐ南進する道路と進みました。ところが、「モニュメントMAP」をよく見ると、この間に3つの駅名(赤い○囲み)が書かれています。今度は途中下車して、この3つの駅名について考察したいと思います。

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一番北側の駅が、「上大河駅」です。この駅は、「広大医学部」の正門付近にありました。広島駅からは、2.4キロの距離です。この駅が最初に設置されたのは、1932年(昭和7年)9月25日です。当時の駅名は「兵器支廠前停留場」。1937年に芸備鉄道から国有化され、駅名が「兵器支廠前」ではまずいと考えたのでしょうか、「比治山駅」に改称されました。燃料問題などあり、戦時中の1943年から一時休業状態になったようです。そして戦後、1947年に宇品線が旅客線として復活した際、「上大河駅」と改称し、開業したようです。戦後は、兵器支廠の跡に移転してきた県庁などの官庁、その後の広島大学医学部・病院や近隣の学校への通勤・通学のため多くの人たちが利用しました。1972年に宇品線の旅客業務が全面廃止に伴いこの駅も廃止されました。

3つの駅名と書きましたが、調べていくと別々に3つの駅があったようではないのです。駅の位置を変えながら、駅名も変遷していったことがわかります。1930年に最初の駅ができたのは、「広大医学部正門付近」ではなく、300mほど南(現在の2号線のすぐ南辺り)に「被服支廠前停留場場所」の駅名で新設されています。と書くと「兵器支廠前停留場」名は?という疑問が湧きます。わずか300mの距離の間に二つの駅が存在したとはちょっと考えにくいのですが、それぞれの支廠の荷物を積みだすために、別々の駅があったのでしょうか。この問題は解明できていません。戦前の古い地図(昭和14年作成:陸軍運輸部検閲済の印あり)を見ると、「兵器支廠」の南西部が、長く伸びその先端は、「被服支廠」の敷地に隣接していることがわかります。

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この地図の真ん中ほどに宇品線を挟んで、右と左に上下しますが、大きな空白があります。右側が「兵器支廠」、左側が「被服支廠」の敷地です。ちょっと小さくて見えにくいかもしれませんが、その二つの敷地が接するところの宇品線に○印があるのがわかると思います。これが、駅です。ここから宇品線を上にたどると、地図が終わるあたりの宇品線上に○印があり、そこには小さく「女子商」と駅名が書かれています。ところが、先に紹介した○印には、駅名が書かれていません。宇品線を下にたどると次の○印にはきちんと「大河」と駅名が書かれています。1939年(昭和14年)当時の駅名の記載がないのは、やはり軍関係の施設があったからだと思えます。兵器支廠、被服支廠の両軍事工場からの物資の積み出し駅として使われていたはずです。

ところが、昭和15年(1940年)作成(これも、陸軍運輸部の検閲済の印あり)では、当該駅に「被服廠」の駅名が印刷されています。

ところで、先に1937年に「兵器支廠前」から「比治山駅」に改称されたと書きましたが、復刻された戦前の地図を見ても「比治山駅」と記された地図を見つけることはできず、「比治山駅」がどの位置にあったのか今のところで確認できていません。

こう書きながら、自分でも理解できなくなってしましました。いずれにしても、この「大河駅」に関わっては、戦前は駅名も駅の位置も複雑に変遷したのではないかと思うしかありません。今回のブログは、駅の変遷が主題ではありませんので、後できちんと調べて、整理してみたいと思います。

ここで主題である「宇品線のモニュメントを訪ねる」に戻ります。

次に訪ねたモニュメントは、「下大河駅」の後に作られた「ポッポ広場」です。ちょっと見つけるのに苦労しましたが、何人かに訊ねて無事に到着しました。

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 隣接する西旭町集会所の壁に取り付けられたる掲示板には「名前の由来」としてこう書かれています。「下大河駅は、昭和6年(1931年)11月から昭和41年(1966年)12月までの35年間にわたり、通勤・通学などの多くの人たちに利用され、地域の中心としてにぎわいました。平成13年(2001年)12月、この地域の人たちと南区役所が協働で広場をつくりました。地域の人たちは、この地が鉄道の駅だったことを記念し『ポッポ広場』と名付けました。 西旭町町内会・南区役所」

この広場の真ん中にレンガを埋め込み「蒸気機関車」が描かれていたようですが、今ではすっかり薄くなっており、残念ながら「蒸気機関車」を見分けることはできません。

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駅名表示板のようなものはありませんでしたが、掲示板の最後に「お願い ここは、地域のみなさんが一緒につくった『わが町の広場』です。楽しい憩いの場として大切に使いましょう。」と書かれているように地域の人たちの大切な場所となっているようです。この下大河駅から広島駅までの距離は、3.3kmです。

次の訪れたのは、駅ではありませんが、旧宇品線道路と黄金山道路が交差する「広島南所前交差点」の左手前にある「線路モニュメント」です。

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「線路モニュメント」は、宇品線から14.5m東側の広場に、当時の線路、踏切、遮断機、信号機、線路のポイントを手作業で切り替える分岐器、プラットホームなどが一カ所に集めて、作られています。屋外ですので少し傷んだ様子も見受けられますが、大切の保存されており、一見の価値がありです。

実際に自転車で散策した時には、わずかな時間で移動したのですが、ブログの中ではここにたどり着くまでに随分時間がかかってしまいました。次のモニュメントは、海岸通り沿いにある「丹那駅」ですが、ここから南方面は、次回以降にします。

いのちとうとし

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2020年11月28日 (土)

原爆資料館「海外で暮らす被爆者」展示文を交換

昨晩、閉館後の午後7時過ぎから、今月6日の「広島原爆資料館が『海外で暮らす被爆者』の展示文の修正を約束」(http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/11/post-9f3fd1.html)で紹介した「展示文」が新しいものに張り替える作業を行われました。

作業日程は事前連絡がありましたので、原爆資料館にお願いをし、この作業に立ち会わせていただきました。

入館者のいなくなった原爆資料館は、照明も少なくなっており、いつもと違う雰囲気を感じます。作業に入る前、古い展示文を写真に撮りました。。

いよいよ作業開始です。展示中のパネルが取り外されます。パネル枠ははめ込み式になっていますので、簡単に取り外されました。

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「展示文」は、パネルに紙で貼り付けられています。まずその紙をきれいにはがす作業です。両面テープで貼り付けられていますので、少し作業に時間がかかりました。台となるパネルの表面がきれいに拭われ、いよいよ新しい「展示文」の紙の貼り付けです。

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修正後の「展示文」が貼り付けられたパネルが元の位置にセットされました。

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これで作業が完了です。両面テープはがしに時間がかかったため、思ったより長くなり45分くらい作業時間がかかりました。新しくなったパネルを写真に撮ります。

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今日から新しい展示文を入館者のみなさんで読んでいただくことになります。「海外で暮らす被爆者」のパネルは、「被爆者援護施策の成立と拡充」のコーナーの左下隅にあります。一人でも多くの人に読んでほしいと思います。ただ「海外で暮らす被爆者」の展示文が大幅に修正されたことが、周知されていませんので、気づく人がどれだけいるかです。

昨日、知り合いの記者数人に「27日の夜に原爆資料館のパネルが交換されるよ」紹介したのですが、誰も知っていませんでした。

このブログに何回かにわたって紹介していますが、今回の「海外で暮らす被爆者」展示文の修正は、従来の内容を根本的に変更したものだと思っています。そうなるように要望し、変更することになったのですから。

私は、今回この問題では「文章がきちんと修正されれば、ことさら大きな問題にすることはない」との考えで、資料館や広島市と話し合ってきました。それは在外被爆者問題を語る時には、きちんとしておかなければならない重要なことだと思ったからです。だから1年半以上にわたって何度も問題提起しました。

ですから、原爆資料館は、今回のパネル交換に至った経緯やその内容について、自らがきちんと説明する責任があるはずです。その説明方法は、いろいろありますが、一般的な方法はマスコミへの情報提供によって、広く周知することだと思います。にもかかわらずマスコミへの情報提供は、行われていません。

もし、このブログで紹介していなければ、今回の修正を市民には知らせないままです。言い方は悪いかもしれませんが、都合の悪いことは、人知れず「こそっと」替えて、一件落着を図っているように思えて仕様がありません。それとも「こういう些細なことはいちいち説明しなくてもよい」と考えているのでしょうか。これでは、今回の修正の本質を理解していないことになってしまいます。

今からでも、きちんと市民に説明してほしいと強く思います。

いのちとうとし

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2020年11月27日 (金)

宇品線のモニュメントを訪ねてーその2・ちょっと寄り道

前回、「次回は24日に掲載」と約束していましたが、うれしいことに原稿がたくさん届いたため、今日になりました。

「惜別宇品線記念碑」前で、緩やかに左にカーブした宇品線は、ここから真っすぐ南に延びています。次のモニュメント「ポッポ広場」を目指して進むことにしました。すぐに左手に広島大学病院の構内が広がります。門を入ってすぐ左手に、ちょっと気になるレンガ造りの建物がありますので、この建物を見学するため、途中下車ならぬ「寄り道」をすることにしました。

このレンガ造りの建物は、広島大学医学部・医学資料館です。

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1957年に広島大学医学部が呉からこの地に移転した時には、当時残っていた被爆建物である陸軍兵器補給廠の赤レンガ造り2階建ての建物が、校舎として使われてきました。近代的校舎や病院の建て替えのため次々と取り壊されたのですが、「懐かしい赤レンガの校舎を残したい」との声が上がり、1978年に11号館(大正4年(1915年)建造)を改装して、医学資料館として使用されることになりました。しかし1998年には、附属病院棟の建て替えのため、最後に残った被爆建物11号館も解体されることになりました。しかしこの建物は、被爆建物でもあり、被爆者の臨時救護所となった歴史的意義があるということで、新たに建設される「医学資料館」では、その外観を尊重し、被爆煉瓦や石材を再利用して建て替えられることになりました。そして1999年10月に、11号館を偲ばせるレンガ造りの建物が竣工しました。

ですから、この建物は、大きさこそずいぶんと小さくなっていますが、外観は、今保存をめぐって関心が高まっている陸軍被服支廠の建物と同じです。頂部には、ピクナル風装飾も付けられています。

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正面玄関左右の窓枠の下の煉瓦は、全体と比べると黒っぽい色をしています。ここに、白い石とともに被爆当時の煉瓦が使われています。

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医学資料館外の左側には、解体された11号館の一部を使いモニュメントが作られています。そこには、当時の写真がはめ込まれ、上記のような解説が付されています。

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モニュメントの裏側には、11号館で使われていた頂部のピクナル風装飾や玄関の上に取り付けられていた飾り、窓枠の周囲に使われていたと思われる長い石が、保管されています。

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このモニュメントと資料館の建物の間の芝生の空き地に、少し気になる石が積み上げられていました。モニュメントとは離れた位置にありますので、11号館のものではないようです。どこかの被爆石だと思われます。頭に浮かんだのは「ひょっとするとこの石は、たまたまその現場に居合わせることになった広大研究員の嘉陽礼文さんが、元安川から引き揚げた原爆ドームの被爆石ではないか」(後で調べると2015年11月のことでした)ということです。それを確かめるために、建物内の事務室の訪れました。資料館自体は現在コロナ対策ということで閉館になっていますので見学はできませんが、質問には答えていただけました。「元安川から引き揚げられたものは、あなたの左手後ろに展示しています。今は見学していただくことはできませんが。外の石も、嘉陽先生が、収集された被爆に関するもののようですが、わたしたちは詳しいことがよくわからないのです」

私が偶然にであった被爆石だということがわかりましたので、見学できませんので部屋の明かりはついていませんが、無理を言って展示コーナーの写真だけとらせていただきました。

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外に出て建物を一周すると、裏側には塀沿いや建物の軒下にびっしりと石とレンガが積まれていました。

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どこの被爆建物のものかはわかりませんが、解体されるという情報が入ると駆けつけて収集されたのだろうなと想像できます。気になったのは、この被爆したと思われる石やレンガがこれからどう活用されるのかということです。

この「寄り道」で改めて感じたのは、被爆建物「陸軍被服支廠」の4棟保存の重要性です。かつてこの「兵器廠」には12棟の煉瓦造りの建物があったようですが、全て解体された今では、その様子を知ることはできないからです。

ちょっと「寄り道」のつもりが長くなってしまいました。今日はここまでにします。次回は「ポッポ広場」をめざします。

いのちとうとし

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2020年11月26日 (木)

子どもたちにこそワークルールを学ぶ機会を!

11月23日、ワークピア広島で「ワークルール検定2020・秋(初級)」を受検しました。

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このワークルール検定とは、働くときに必要な法律や決まりを身につけられる検定制度で、一般社団法人 日本ワークルール検定協会が主催しています。

自分自身、これまで働くことに関するルールやそのルールを実現するためのさまざまな仕組みなどについて、十分学習しているとは言えない状況でした。ワークルール検定があることを知ったとき、これを機に学習してみようと思い受検することにしました。

まず、ワークルール検定のホームページを開いて、「初級検定の問題を解いてみよう」にある問題に挑戦しました。結果は半分しか正答することができず、検定の合格ライン70%には程遠い状況でした。

早速、通販サイトを利用して、日本ワークルール検定協会が編集している「初級テキスト」と「問題集」を購入し、学習を始めました。「初級テキスト」は、労働法総論、労働契約、賃金、労働時間・休憩・休日・休暇、雇用終了、労働組合法から構成されており、ポイントになりそうな箇所にマーカーを引くなどしながら繰り返し読んでいきました。

受検日が近づいてきたので、「問題集」に挑戦しました。全154問中108問正解、率にして70.1%。「このままでは合格はまずできない」という危機感をもって、ラストスパートをかけました。ただ、自分が苦手とするジャンルの問題には、再挑戦してもまちがえるということが何度もありました。

こうした不安を抱えながら、受検日を迎えました。さて、手ごたえは…。来月の発表をひそかに待ちたいと思います。

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現在、広島県の教育現場では、キャリア教育は推進されていますが、ワークルールについて学習する機会がほとんどないのではないでしょうか。

近年、「ブラックバイト」や「ブラック企業」が問題になっています。使用者がワークルールを遵守することは言うまでもありませんが、将来労働者として社会に出ていく子どもたちにこそ、小学校・中学校・高等学校と段階に応じたワークルールを学んでほしいということを、今回ワークルールを学習しながら強く感じました。

(まるちゃん)

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2020年11月25日 (水)

荻野晃也さんが残した『科学者の社会的責任を問う』

親しく付き合いをさせて頂いていた荻野晃也さん、今年6月29日、80歳で逝去されました。死期を予想しながらペンを走らせ、亡くなられた後、8月30日に遺稿として緑風出版から出された『科学者の社会的責任を問う』(定価2500円+税)という著書があります。

 頼まれた訳ではないのですが、この本の書評を書いていました。反原発新聞の11月号に掲載させていただきました。ぜひ皆さんにお勧めです。


 本の題名だけでは、見るからに難しいなあーという感じがしていた。しかし実生活や実践から書かれたものは違う。引き込まれるような読みやすさと、荻野さんの人物考察に興味を持った。

日本人のノーベル賞受賞者も多くなると、その名前を憶えていることは不可能だが、最初に物理学賞を受賞した湯川秀樹さんくらいは、なんとなく「すごい人」だと誇りに思っているだろう。

荻野さんも湯川秀樹博士に憧れて京大理学部に学んだ。しかし戦後、湯川博士は核兵器廃絶を訴えながらも、なぜ原発問題には「沈黙」していたのか。湯川博士の授業を受けながら、そのことに疑問を持ち「何故だろう」と自分自身にも問うてしまう。そこが何とも興味深かった。しかしそのことをズバーと言わないのが荻野さんの品性の良さか。

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そして四国電力伊方原発訴訟(1973年提訴、92年最高裁が住民側上告を棄却)の、特別補佐人として加わり、原発の危険性を50年間訴え続けた。この部分に登場されている人は、ほとんど私自身も知り合いだったから、とてもリアルであった。

広島との関わりの中では、1974年から放映されたNHK連続テレビ小説の「鳩子の海」、主人公の鳩子が、原爆に遭い記憶を失い孤児になり、成人して原研(日本原子力研究所)に勤める男と結婚しそして離婚するというストーリィである。この時代は、原子力発電の最盛期でもある。荻野さんの、この当たりのウラ話的な背景の話しはとても面白かった。「鳩子の海」といえば、上関原発建設計画のある山口県熊毛郡上関町の観光シンボルでもある。

この時代はなんといっても「平和利用」の最盛期時代。荻野さんは、そんな中でも反対を貫く「反骨精神」で、最後まで講師として定年退職された。定年後は「電磁波の危険性なら荻野」とまで形容されるほどの研究者として、電磁波の健康リスク問題では多くの本も書かれた。

今年6月に3年間のがんとの闘いの末、80歳で亡くなられた。地元の京都新聞は『末期がんの病床で原稿を校正した赤鉛筆。手の力が弱まり何度も落としたが、拾えるようにヒモを付けてある』と写真を入りの記事を載せた。

今年1月17日広島高等裁判所は、山口県民らが求めていた、伊方原発3号機の運転差し止め請求を認める仮処分決定をおこなった。この知らせを病床で受けた荻野さんは、とても喜んでおられたと思う。

「科学者の社会的責任」、荻野さんから私たちが引き継がなくてはならない。


木原省治

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2020年11月24日 (火)

民意を反映しない日本の選挙制度 ――アメリカの大統領選挙より酷いのでは?――

民意を反映しない日本の選挙制度

――アメリカの大統領選挙より酷いのでは?――

11月3日に投票されたアメリカの大統領選挙は未だに最終決着には至っていません。そして、「民主主義国家」であることを標榜する我が日本国でも、今月18日、つまり2020年11月18日、最高裁判所が昨年の参議院選挙は「合憲」であるとの判決を出しました。「一票の格差が3倍だった」にもかかわらず、です。

一見、この二つの現象は無関係のように見えます。特に、日本とアメリカという国の違いがあり、アメリカの場合は大統領選挙という特別の選挙ですので、その感が強いのですが、実は、これら二つの異常事態は、全く同じ構造をもち、同じ理由で混乱を来しているのです。しかも、その両者を簡単に解決できる素晴らしい薬さえあるのです。

《選挙人と大統領選挙》

今年の選挙が未だに揉めているのは、現大統領のドナルド・トランプ候補が負けを認めずに、あることないことを主張し、法廷での争いも数多く手がけ、トランプ支持の市民たちを挑発していることが大きな原因です。同時に、大統領選挙の制度そのものに不備のあることも、同時に見て行く必要があるのです。まず、制度としてどのようなものなのかその概略です。

アメリカの大統領は、アメリカの有権者全てが投票して (少なくとも建前では) 全国でただ一人だけ選ぶことになっています。事前の予測等でも、A候補支持が52%、B候補支持が45%というような形で報道されてきていますので、全米での投票結果が集計されて、その結果で勝者が決ると思い込んでしまっても、そちらの方が自然です。

しかしながら実際には、①投票の集計は州ごとに行われます。②また各州には、「選挙人」と呼ばれる人の人数が割り当てられています。そして③集計の結果、どの候補が、何人の選挙人を獲得するのかが決められます。原則として、最終段階では、これら選挙人は、この際に割り当てられた候補に投票することに決められています。④そして最終的には、その選挙人たちが、割り当てられた候補に投票をして、その結果、過半数を獲得した候補が当選する、ということになります。

日本の制度とはずいぶん違っているという印象をお持ちの方も多いのではないかと思います。しかし、選挙そのものの構造に注目すると、日本の場合と少なくとも「相似形」ではあるのです。私は「同型」だと考えています。「違う」ように見えるのは、選挙にまつわる「用語」あるいは「術語」の違いが大きいからなのではないでしょうか。その点を御理解頂くために、大統領選挙のポイントとして示した①から④までを、日本の制度に即して言い換えてみましょう。説明を簡単にするために、かつての中選挙区制の下の衆議院選挙との比較をしてみます。

《衆議院選挙と首班指名》

まず、①ですが、日本の場合は、選挙区ごとに選挙が行われ開票・集計もその単位で行われます。これは、アメリカにおける選挙区が一つの州だと考えることに他なりません。②の選挙人の数ですが、日本の場合は選挙人とは言わず、衆議院議員と言っています。単なる言葉の違いです。そして、③ですが、日本の場合には、どのような投票をするのかが決められているのではなく、所属政党によってその行動が大方決められています。特に総理大臣を選ぶときには、自分の党の捜査いなり党首なりを選ぶのですから、これもアメリカの選挙人が誰を選ぶのかを決められているのとほぼ同じことになります。そして④ですが、これは国会における首班指名と同じことです。

日本の総理大臣の選び方と、アメリカの大統領の選び方がほぼ同じであることは御理解頂けたと思います。この制度が、アメリカにおいて今回の混乱を招いた一因だとするのなら、日本の場合は、総理大臣の指名だけでなく、各種法律の制定も同じプロセスで行われるのですから、制度的な欠陥という構造的な問題が元になって、より広い範囲で影響を及ぼしていると考えても良さそうです。

《アメリカの制度の問題点》

今回のアメリカ大統領選挙でも問題になっているのは、アメリカ全土での得票数が多いにもかかわらず、その候補が自動的には当選しないという点です。総投票数ではバイデン候補が明らかに勝っているのに、選挙人制度があるために、それとは違う結論に至る可能性があるからです。

4年前の選挙でも、ヒラリー・クリントン候補は、全体の51%の票を得ています。クリントン大統領が誕生してもおかしくはなかったはずなのですが、いわゆる「ラスト・ベルト」での票を固めたトランプ候補が選挙人の数では上回って当選しました。しかし、アメリカの大統領選挙では、このような事例は一二に止まらないのです。ウイキペディアに掲載されている、一般投票の得票率と、誰が当選したのかの比較表を見て下さい。

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クリントン候補の他に、2000年の選挙で、得票率では勝ったゴア元副大統領ではなく、ジョージ・W・ブッシュ候補が当選したことが良く知られていますが、その年にも、最後には法廷で決着が付きました。

なぜこんなことが起るのかの説明も必要です。それは、選挙人を選ぶことで、有権者の意思が捩れて反映されることになるという点です。その結果、一般投票の得票数による勝敗ではなく、その逆の結論になるのです。より具体的な「思考実験」をウイキペディアの図で説明します。分り易いと思いますので、参考にして下さい。注意すべきなのは、選挙人の数は、連邦上下両院の合計議席と同数で、上院議席は各州に2人ずつ配当されているので、最小は3人ということになります。

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長くなりますし、英語の説明を翻訳している時間がありません。でも、グラフと数字だけで内容は分って頂けると思います。さらにもう一つの問題は、一票の格差です。その原因の一つは、アメリカの各州とも、人口に関わらず、上院議員数が2名だということにあります。それが大きな原因になって、選挙人が何人を代表するのか、という格差が生じています。日本では「一票の格差」としてしばしば問題にされています。この点もウイキペディアのグラフで御覧下さい。

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カリフォルニア州では、選挙人一人を選ぶのに、70万人という数が必要なのですが、ワイオミング州では20万人ちょっとで済みます。格差は3倍以上です。

日本の最高裁判所が、昨年の参議院選挙の一票の格差3倍を合憲だと判断したのは、「アメリカでも3倍くらいは問題視されていないのだから日本もそれに準じていれば良い」という基準でもあったからなのでしょうか。

さて日本の選挙制度の問題点ですが、これまで何度も繰り返して来ています。でも大切なことですので、再度、問題提起をしておきましょう。それは次回に。

[2020/11/24 イライザ]

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2020年11月23日 (月)

11月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

農園周囲の田んぼは稲刈りあとの土肌と刈った後の稲の株が点々と見える単調な風景だが、農園だけはブルーベリーの紅葉が始まり赤い色の葉が陽の光の経過の中でキラキラ光ったりぼんやりしたりかすんだりしてそのうえ風にゆられるとさらに複雑な景色を見せてくれる。妻の友人はこの風景を見ようと広島市内から車でわざわざ来られたそうだ。農作業は40本位ある枯れたブルーベリーの掘り返しを続けている。全部の掘り返しが終わったら新しい苗木を植えるのだが何の種類をどういう組み合わせにするのかは決まっていない。

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15日(日)

①、農園の周囲の落葉の片づけたり野焼をしたり、枯れたブルーベリーの掘り返しをしたり、

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②、親戚の援農で里山のブルーベリー園の下刈りをして頂いたり、ジャーマンアイリスの掘り返しをしたり、

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③、ブルーベリー園の巡回をしたりする。早生のブルーベリーは黄色の紅葉が多くみられる。

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11月21日(土)。里山のサンショウの紅葉。

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11月22日(日)。

①、ちょっと離れた場所から見る里山西側の斜面のブルーベリー園の紅葉。

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②、反対側に回ってブルーベリーの畑から里山のブルーベリー園を眺める。

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③、里山西側のブルーベリー園。すっかり早生のブルーベリーの葉が落ちた。

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④、葉の落ちたブルーベリーの枝に花芽が浮かぶ。

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⑤、その周囲にはエゴノキの紅葉も見える。

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⑥、3段ある転作の畑のブルーベリーは早生を植えたのだがほとんど枯れた場所。この夏の猛暑で昨年以上に成長が悪く枯れた木も多かったのでまだブルーベリーの木の掘り返しを続けている。本数が多いので11月末までかかりそう。

 

2020年11月23日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

<編集後記>延期になっていたイライザさんの原稿は、明日掲載します。お楽しみに。

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2020年11月22日 (日)

宇品線のモニュメントを訪ねて

11月14日に紹介した千暁寺からの帰り道、広島市南区役所を訪れました。目的は、南区を紹介するリーフレットなどをさがすためです。3階の地域おこし推進課まで上がると、「南区散策ガイドマップ」や「南区地域学の報告」など10種類を超える資料が、自由に入手できるよう配備されていました。

その中に「宇品線の足跡をたどる モニュメントMAP」がありました。そこには、1986年9月30日の全線が廃止となった宇品線の面影を今に伝えるために作られたモニュメントが紹介されています。

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この地図を頼り「宇品線のモニュメント」を訪ねてみることにしました。そこでは思いがけない人との出会いや新しい発見やもありました。「モニュメントめぐり」にスタートする前に、簡単に宇品線の歴史を紹介します。

よく知られているように宇品線は、1894年(明治27年)8月1日に始まった日清戦争の開戦直後の8月4日に起工され、8月20日までわずか17日間という短い期間で完成しました。区間は、6月10日に開通し山陽鉄道の東京方面からの最終駅であった広島駅から南へ約6kmの宇品港までの路線です。戦争を遂行するための大量の兵員や物資を輸送するために施設されたものです。陸軍省が管轄する軍用鉄道でした。日清戦争やそれ以後の戦争で大きな役割を果たします。日清戦争後は、山陽鉄道宇品線となり、一般営業も行われたようですが、その沿線に兵器廠や被服廠が作られた歴史を見れば、その大きな目的が何だったかははっきりします。戦後は、国鉄の路線として活躍しますが、先に述べたように1986年9月に全線廃止となりました。

散策の最初に訪れたのは、猿猴川左岸です。「モニュメントMAP」にはなかったのですが、かつてここに架かっていた「鉄橋」の痕跡を見つけたかったからです。残念ながら「鉄橋の跡」を示すものは何もありません。「鉄橋があった」と思える場所には、「平和橋」がかかっています。写真の反対側(下流側)の橋脚に「平和橋」の名前が書かれています。この橋を渡り、道路を北に進むと、写真の奥の方に見えるマツダスタジアムに突き当たります。

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「平和大橋」の名前については、後で調べて分かったことがあります。1954年9月の台風で、宇品線の鉄橋の橋脚が傾いたため不通となり、川下側に平行して新しい鉄橋が作られました。通れなくなった古い鉄橋は、板が張られ、人道橋として復活したそうです。その時この人道橋に付けられた名前が「平和橋」だったのです。その名前が、現在の新しい橋にも付けられたのです。

残念ながら「鉄橋」の痕跡を見つけることはできませんでしたが、ここをスタートに宇品方面に向かいました。宇品線跡は、廃線後は道路として使われました。橋の南側で少し、左に曲がりそのまま真っすぐ道路が伸びています。道路の落葉を清掃されている住民に出会いましたので、声をかけました。「この道が宇品線の跡ですね」「そうです。わが家と線路との間(宇品方面に向かって右側)には、溝がありました。今は暗渠になっていますよ。」

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 段原地区の再開発で、多くの道路が付け替えられ広くなっていますが、宇品線の跡の道路は殆どがそのまま残ったようです。その道路をまっすぐに進み、南段原駅付近に作られた公園をめざします。この公園はすぐに見つかりました。正式名称は、段原南第五公園ですが、「宇品線公園」と名付けられ、親しまれています。

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「南段原駅」の駅名表示板があります。隣駅は、広島駅方面が「おおすぐち」宇品方面が「かみおおこう」です。少し文字が薄くなっていますが、読み取ることができます。「モニュメントMAP」では、広島駅方面の隣駅は、「東段原駅」となっていますが、この駅名表示板には、何故か「おおすぐち」と書かれています。

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その理由は、「東段原駅」は、1930年に新設され、1943年10月に廃止となっていますので、戦後には存在しなかった駅だからだと後でわかりました。「南段原駅」は、広島駅からの距離は1.8キロ、1931年に新設されたときの駅名は、「女子商業前停留場」でしたが、1937年に「南段原駅」と改称されました。

この公園には、駅名表示板とともに線路の一部と動輪が設置されていますが、もともとあった駅とは少し場所が違うようですが、公園の別名「宇品線公園」にも表れているように、近所の人たちの宇品線への思いが込められて整備されたことがわかります。

「モニュメントMAP」には書かれていませんが、この公園の南約90メートル進むと宇品線は少し左にカーブします。ちょうどそのあたり、広島南警察署段原交番の裏側に通る道路に面して「惜別宇品線記念碑」が設置されています。

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この記念碑には、「蒸気機関車」の絵と「92年間の健闘に感謝 明治27年(1984)~昭和61年9月30日(1986)」の文字が刻まれています。大きな碑ではありませんので、見つけるのが難しいかもしれませんが、写真で分かるように裏側(西側)に大きな柳の木があります。これを目印にすると見つけやすいと思います。

と、ここまでたどり着くのにずいぶん字数を要してしまいましたので、このつづきは、明後日以降にします。

いのちとうとし

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2020年11月21日 (土)

おかしいことはおかしいと言おう!―安保法制に反対する府中市民の会11月リレートーク

安保法制に反対する府中市民の会は、毎月19日に、市内2カ所での街宣活動を続けています。11月の19日リレートークの様子が、写真、演説原稿とともに届きました。参加者は、上下Aコープ前が10人です。

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府中市天満屋前が11人でした。

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送られてきた小川敏男さんの演説原稿を紹介します。


 今月、113日は74年前に日本国憲法が公布された日です。私たちは、この11月を憲法月間として、日本国憲法は、世界に誇る日本の宝、憲法を生かし、平和といのち、くらしと人権が大切にされる国を築きましょう、と訴えさせていただいています。

しかし、いま広島県民の一番の関心は、昨年7月の参議院選挙での河井克行、案里議員の買収事件のことです。日曜日(15日:編集者注)は安芸高田市の市議会議員選挙の投票日でした。新聞で結果を見た府中の市民の人は、「河井克行から現金を受領した、お金をもらった市議会議員が当選しとる。どうなっとるんにゃ」と言われています。中国新聞も「これでは政治不信が広がるばかり」と書いています。

中国新聞には、1025日から決別・金権政治「第2部被買収者」という特集記事が7回にわたって掲載されました。1回目は「広島県議会、根深い『カネ』」という見出しで、亡くなられた藤田雄山知事の時代のことを紹介しています。「知事選挙の時、県議らに対策費としてお金を渡していた。その金額は2億から3億円に上った。しかし疑惑は解明されることなく幕引きされた」と報道されています。

今回もお金を受け取った県議会議員は検察庁が起訴しない意向からか有権者への説明や責任をとろうとしていません。これでは「政治は誰がやってもかわりゃへん。良くなることはない」となってしまいます。世の中を良くしようと政治家を志す人も出てきませんし、子どもたちへの影響が一番の問題です。

府中市の県議ももらった一人です。なぜお金を受け取ったのか、けじめをどう考えているのか、府中市の有権者に説明をしてもらいたいものです。

藤田雄山知事時代の買収事件もうやむや、今回の河井克行、案里議員の買収事件もうやむやでは、広島県の政治は何も変わりません。広島県議会が、広島県民の信頼を取り戻すためには、今回の買収事件でお金を受け取った県議会議員が、「なぜお金を受け取ったのか、けじめをどう考えているのか」をきちんと説明することだと思います。

憲法を守るというのは案外身近なことです。今回の河井克行、案里議員の買収事件など「おかしいことはおかしいという」ことだと思います。


この小川さんの原稿を読んで、共感される方も多いと思います。買収で多額のお金をばらまいた河井克行・安里夫妻だけでなく、お金を受け取った側の説明責任が厳しく問われていると思います。

それにしても、粘り強く毎月定例の街宣活動を続けている府中のみなさんの活動に拍手を送りたいと思います。

いのちとうとし

<編集後記>今日21日は、イライザさんの原稿の定例日ですが、イライザさんのインターネット環境が悪くなっているため、アップすることができませんでしたので、急遽変更することになりました。

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2020年11月20日 (金)

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の銘文―その4

昨日からのつづきです。

3枚目の大きな修正は、説明文としては最後になる6枚目です。この説明文は、読み終えて振り返ると、「平和祈念・死没者追悼空間」が目の前に広がる大切な位置にあります。

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「死没者追悼空間」から見た6枚目の説明文

まず最終案を紹介します。

ここに、原子爆弾によって亡くなった人々を心から追悼するとともに、誤った国策により犠牲となった多くの人々に思いを致しながら、その惨禍を二度と繰り返すことがないよう、後代に語り継ぎ、広く内外に伝え、一日も早く核兵器のない平和な世界を築くことを誓います。

当初案です。

ここに、原子爆弾によって亡くなられた方々を心から追悼するとともに、二度とこのような惨禍が繰り返されることがないよう、後代へ語り継ぎ、広く内外へも伝え、一日も早く核兵器のない平和な世界を築くことを誓います。

ここで最も重要な修正は、「誤った国策により犠牲となった多くの人々に思いを致し」の文言が挿入されたことです。この修正は、全体を通じても最も重要で、論議のあったところです。

2001年6月28日の広島での被爆者団体との意見交換を受け、厚生省が7月6日に示した案には、「日本は遠くないここの一時期に国策を誤り、戦争への道をあゆみました。」と「国策を誤り」との文言を明記した案が示されました。しかし、7月11日に開催された開設準備会検討会で、森亘座長(元東京大学学長)が、「『国策を誤り』の表現は、主観的すぎるため不適切である」と強く主張し、検討会は「『不幸』に変更修正する」を決めました。

当然のことですが、この決定に対し、広島の被爆者団体は「到底納得できない」として、翌々日(13日)には厚生大臣に対し、「非修正」を求める要望書を提出しました。そうした広島の被爆者団体の強い態度が力となり、「誤った国策」の文言が挿入されることになったのです。この「誤った国策」は、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」の村山総理談話で使われて言葉ですから、被爆者団体にとっては譲れないことでした。被団連事務局長として被爆者7団体をまとめ、説明文修正の中心的役割を果たした近藤幸四郎さんは、「誤った国策」という言葉が盛り込まれたことを「国がその責任を認めて建設したことに意義がある」と語っていました。その事実を認め、一日も早く核兵器のない平和な世界を築くこと」を誓ったのが日本政府であることが重要なのです。

この経過をじっくりと読んでいただければ、私が「追悼空間スロープ」にある6枚の銘文(説明文)にこだわる理由を理解していただけるのではないかと思います。

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ですから、現在の追悼祈念館では、この6枚の説明文の扱いがおろそかになっていることにずっと問題意識を持っていたのです。そこで先日、追悼祈念館を訪れ、私の手元にある資料を示し「この6枚の銘文(説明文)をホームページやリーフレットできちんと紹介してほしい」と要望しました。対応していただいた館長は「私たちも、大切な文章だということは理解しています。ただこの施設は、国からの委託を受け広島市が運営していますので、私たちが『こうします』と言うことができません。厚労省に『要望があったこと』をきちんと伝えます」との返事でした。良い方向に進むことを願っています。

現在、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の地下1階「情報展示コーナー」では、企画展「時を超えた兄弟の対話―ヒロシマを描き続けた四國五郎と死の床でつづった直登の日記―」が、開催されています。好評で開催期間が2月28日まで2カ月延長されることになりました。ぜひこの機会に、追悼祈念館を改めて訪れ、この4回のブログで紹介できなかった3枚を含め「追悼空間スロープ」の6枚の説明文全文をじっくりと読んでほしいと思います。

いのちとうとし

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