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2019年4月22日 (月)

第5回住んでいる町再探訪-「灯台下暗し、比治山再発見」その1

データ同友会中国支部主催の第5回住んでいる街再探訪に参加しました。デー同友会は、私がかつて働いていた当時の電電公社中国データ部(現NTTデータ中国支社)の退職者の会です。私は、早期も早期32歳での退職者ですが、古い友人たちの配慮でデータ同友会への入会が認められ、様々な活動に参加し、旧交を温めています。

5年程前から、自分たちの住む街をもう一度見直そうということで、「住んでいる街再探訪」が始まり、これまでに平和公園、宮島、二葉の里歴史散歩道、三滝地区などを探訪しました。私が参加したのは、平和公園と三滝地区です。いずれもピースボランティアや街ガイドで活躍されている人たちに案内していただきますので、いつも新しい発見があり、楽しみの行事になっています。今回は比治山を散策することになりました。どんな発見がるか今回も楽しみです。

ところで最初に、今回の街再探訪が「なぜ灯台下暗しなのか」について、ちょっと解説が必要です。案内文にはこうありました。「毎日仕事の合間に見上げた比治山、花見で騒いだ比治山、昼休みにジョギングした比治山、通わなくなったどのくらいになるだろうか…?」と。

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陸軍墓地から中国データビルを望む

実は、データ同友会の会員の職場だったNTTデータ中国支社は、比治山の南端の「陸軍墓地」の真下にあるビルです。私が働いていた当時(1974年ころから1981年まで)は、比治山電電ビルの名称で呼ばれていました。当時プログラマーとして私が働いていた6階(だったと思うのですが)のフロアの北側の窓からは、いつも比治山に翻る「日の丸」を見えていましたが、私自身も、そこに何があるか、そしてどんな歴史を持っているかなどについて考えたり見たりしたことは、殆どありませんでした。今回参加された皆さんもそうだったと思います。比治山のふもとにいながら、比治山のことについては何も知らないですから、まさに「灯台下暗し、比治山再発見」なのです。

自宅を自転車で出発し、段原のイオン横の駐輪場に自転車を置き、スカイウォークを使って集合場所の比治山下の交番前へ向かいました。何年振りかのスカイウォークでしたが、利用しているのは私一人。

 

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山頂側の入り口

ちょうど下りのエスカレーターは二人がかりで故障修理中。出口付近では落ち葉の清掃作業。多くの人たちが、維持に努力されています。歩く歩道とエスカレーター、登りの道、確かに楽な思いをしましたが、改めて、当時高価な建設費に「反対の声」も多かったことを思い出し、いったい今は何人ぐらいが利用しているのだろうと考えながらの数分間でした。帰宅して広島市に問い合わせたところ、平成30年度実績で「年間のエレベーター起動回数は、199,702回」「年間維持費は、約2,235万円」ということです。1日の平均利用者数は、単純計算では、約547人ということになります。一時期廃止論議もあったようですが。

前振りが長くなりました。これからが本題です。(明日につづく)

いのちとうとし

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2019年4月21日 (日)

ケネディー大統領と昭和天皇 (2) ――30年前の問題提起――

1989年、現天皇即位の年に『ケネディー大統領と昭和天皇』というエッセイで、天皇と憲法について考え始めました。

その結果としてはずいぶん時間が掛りましたが、『前広島市長が読む 憲法と天皇』(数学書として憲法を読む)(仮)、という一書を恐らく7月になると思いますが、法政大学出版局から出して頂けることになりました。実は昨年の9月からこれまで、その執筆のための時間として有効に活用させて頂きました。7月上梓予定の新著の中で、上記のエッセイを序章として再掲します。以下、それを3回に分けて再録しますが、今回はその2です。

《前回の要約》

昭和天皇崩御に際して、昭和天皇とケネディー大統領とを比較して、私たちの世代そして昭和天皇に近い世代が、それぞれどのような感覚で二人を捉えているのかを考えました。歴史的な評価とは別に、そして矛盾する思いになっても、それぞれ肯定的な面で両者を受け止めている傾向があること、しかし、戦争についての責任は客観的に行われる必要のあることまで、述べています。

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ケネディー大統領と昭和天皇(2)

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《人間の絆》

だが、JFKの死と、天皇の死には大きな違いがあったような気がする。いや、死そのものというより、各々の場合に死を私たちがどう受け止めたのか、その姿勢の違いである。JFKと天皇の死亡時の年齢の違いや、死因ももちろん関係してくるのだが、死を契機として露わになった、死者と生存者との関係、それらがたくさん集まることで出来上がっている社会のあり方の違いである。

JFKの死後 (そして5年後にロバート・ケネディーとマーティン・ルーサー・キングが殺された後はなお深く)、アメリカの若い世代は、Soul Searching を行った。つまり、字義通り、自分の魂がどこにあるのか、自分の存在の本質は何なのか、自分が一番大切だと思っていることはどんなことなのか、真摯に内省したのである。この場合の「自分」は、文字通り個人としての自分でもあり、自分を含むアメリカ社会、あるいは、より広い世界である。

それは、JFKとアメリカの若者たちの間には、本質的なつながりがあったからだ。自分の周りの世界で、また自分の持つ世界観の中の、一番大切な部分を、自分の外の人間として具現化していたのがJFKだったからである(そしてRFK、キング師だった)。

対して、昭和天皇と日本の若者の間にはそのような人間的絆がなかったのではあるまいか。若者だけでなく、年配の人との間の結びつきの本質的な部分にも、人間同士の深い共感はなかったように、私には見える。

だがそれは当然である。いくら人間宣言をしたとは言え、昭和天皇が庶民の言葉で自分の心情を吐露したことなどなかったのではないか。差別されている人間の側に立ち、"We shall overcome "と叫び行動したこともなかったのではないか。青年は未来に希望を持つべきだし、そのために努力するべきだと訴えたこともない。すなわち、自分の言葉で、一体自分がどんな人間であるのかを表現したことがなかったと言えるのではあるまいか。

 

《天皇の人権》

これは、ことによると、天皇個人の人柄や責任に帰されるべきことなのかもしれないが、より大きな原因は、制度・慣行にあると考えた方がよさそうだ。その中で最も重要なのは憲法である。私が言いたいのは、憲法が、天皇を人格のある人間、そして日本国民だとは明記していない点である。人間でなければ人間の言葉で他の人間と語り合うこともないだろう。その上、天皇個人の基本的人権が侵されても救済手段がないことになる。

天皇の人権についての疑問は、私が15年在職したタフツ大学の同僚I氏がかつて投げかけたものである。彼の疑問に答えるために、六法全書を繙いてみたのだが、憲法、皇室典範、国籍法のどこにも、天皇が日本国民なのかどうかは明記されていなかった(いやそれどころではない。昭和22年5月3日に施行された憲法にも皇室典範にも天皇の定義がない。という事は……と論を展開する必要もあるのだが、そのためには本項で提起したい問題とはかけ離れた議論をしなくてはならない。混乱を避けるため、「日本国民としての天皇」のレベルで話を続けたい)。

I氏は、人間としての権利を保障されていない人に、責任(彼は戦争責任を考えていた)だけを問うのはフェアでない点を指摘したのだが、広島修道大学の学生達の意見の中には、責任を取れるかどうかの能力を問題にしたものがあった。仮にアンフェアであっても、天皇は責任を取りたかったのかもしれない。そうだとしても、天皇の権限や権利があまりにも厳しく制限されていて、自主的に責任を取ることなど不可能だったのではないか、今でも不可能なのではないか、というものである。

実際、憲法や皇室典範の規定によると、天皇および皇族の権利は著しく制限されている。人間として当然享受すべき権利という観点からだけでなく、国民の統合の象徴として国民との間の人間的絆、信頼関係を作り出すことが可能かどうか、という視点からも、いくつかの例を見てみよう。

まず、天皇は男でなくてはならない(皇室典範第1条)。皇族として生まれた女性にとっては明らかな差別である。また国民統合の象徴が女性であってはいけないとは、日本の全女性にとって大いなる侮辱ではないだろうか。神功皇后や持統天皇を持ち出すまでもないが、天皇には男性しかなれない法律は、性別にかかわらず法の下では平等であると明記した憲法14条違反ではないだろうか。

次に、天皇及び皇族は、「養子をする」ことができない(皇室典範第9条)。血のつながりのない子供を自分の子供とし(生命を賭けて)育てられる人を、私は尊敬する。しかし、仮に天皇がそのような気持を持ったとしても、「養子をする」ことができないのである。皇族は、絶対にそんな気持は抱かない人々なのだろうか。幸いにも、この点についての救済策はある。皇籍を離脱すれば可能なのである。しかし、それも、自分の意思だけでは駄目なのだ。「皇室会議の議」が必要なのである(皇室典範11条)。天皇を一種の職業と考えれば、辞職することさえ自分で決められないのである。皇長子の場合、生まれた時から(15歳になって皇籍を離脱しない限り)職業が決まっていることにもなる。これは、憲法22条に反しているのではあるまいか。 (1989年3月記。以下、次回5月1日)

 

[2019/4/21 イライザ]

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2019年4月20日 (土)

被爆遺構は誰のもの?Part4-広島平和記念公園被爆遺構の保存を促進する会記念集会

広島平和記念公園被爆遺構の保存を促進する会(以下「促進する会」という)の発足2周年を記念する集会「被爆遺構は誰のもの?Part4-被爆遺構展示整備候補地の原爆で失われた人と暮らしを伝える・旧天神町筋を中心に-」が、4月13日午後広島原爆資料館地下第1会議室で開催されました。

この「促進する会」は、広島市が進める平和公園の地下遺構公開に向けて、「広島平和記念公園の地下に埋もれている被爆遺構が重要であることを広く啓発し、その発掘と保存、ならびに一般公開を促進すること」ことを目的として、市民有志によって2017年4月2日に発足しました。私も、「促進する会」の世話人の一人としてこの活動に参加しています。

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集会の第一部では、広島市が昨年7月に発足させた「平和記念公園における旧中島地区被爆遺構の展示整備に関する懇談会」による試掘調査が昨年12月に終わり、いよいよ本年度実施される「確認調査」へと進むことが報告され、これからの作業により関心を深め、「住民の生活の営みが実感できる」被爆遺構となるように市民の声を届けること、とりわけ旧中島地区住民やそのゆかりの人たちの声がもっと大切にされるよう活動を強めることが確認されました。

第二部では、最初に、旧中島地区の様子を演劇で伝えようとしている若い演劇集団「五色劇場」の山田めいさんが、演劇で使う旧中島地区の模型展示の一部を持参して「なぜ旧中島地区なのか」と自分たちの思いを報告。

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続いてお母さんが旧天神町で生活をされ、今被爆体験継承者として活動を続けられている清野久美子さんから、お母さんから聞いている「旧天神町を中心とする旧中島地区」の被爆前の町の様子や子どもたちの日常風景などが、詳しく紹介されました。

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その後二人の対談。会場からも旧中島地区ゆかりの人たちが発言。中島本通りに面した廿日市屋(かもじの店)で生まれた高松さんは「桜湯につかった後、ミカン水を飲むのが楽しみだった。神戸やパンの前を通るとすごく良いにおいがした」ことなどに触れながら、「生活の跡が出てこなければ、平和公園の遺構としての意味はない」と「どんな遺構を保存すべきか」を強調されました。「材木町96番地、ちょうど資料館本館の階段付近に小学校3年までいました。」という岩中さん。資料館本館地下の発掘調査で自分の硯が発見されたことに触れながら「これまで平和公園に来るのが嫌だった。あの発掘を機に証言も始めるようになった。4500人もの住民が犠牲になった場所。地下全体に町があったはずなので、これで終わりでは困る。もっといろいろなところを発掘してここに生活があったことを示したい。」と発言。その背景には、修学旅行で訪れた子どもたちの原爆ドームから平和公園へと移動しながら証言や説明をしていた時、子どもたちの中で「公園だったから犠牲者が少なくてよかったね」と話す言葉を聞いたことが、ショックだったという体験があったからです。

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当然のことですが、原爆で消された街・旧中島地区にも当たり前の日常生活を営む市民がいたということを忘れてはならないということを改めて痛感しました。広島市は、もっともっとこうした旧住民の皆さんや市民の声に向き合って被爆遺構保存の作業を進めるべきです。

「被爆遺構は誰のもの?」ということを重く考えさせられた今回の記念集会でした。

広島県原水禁は、2016年4月、資料館地下の発掘調査でかつての街の様子が見つかったとのマスコミ報道があった直後の5月、広島市に「永久保存と展示」を求める要望書を提出していますが、今後も関心をもって見守りたいと思います。

いのちとうとし

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2019年4月19日 (金)

原民喜ゆかりの被爆柳-その3 原民喜旧詩碑-碑銘陶板

今月の6日、14日に掲載した「原民喜ゆかりの被爆柳」でいろいろとお世話になった竹原陽子さんから、今度は「原民喜旧詩碑」についての貴重な原稿を寄せていただきました。全文を掲載します。

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広島県立図書館の「原民喜旧詩碑―碑銘陶板―」について

「広島県立図書館に、原民喜詩碑の陶板が展示されていましたよ」そう金子哲夫さんから教えていただいたのは、2019127日ネバダデーの座り込みのときでした。

現在、平和公園の原爆ドーム東側に建つ原民喜詩碑は、もともとは広島城址にありました。

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1951年3月に原民喜が鉄道自死し、民喜と親交の深かった作家丸岡明や碑の設計に当った建築家の谷口吉郎らが広島を訪れて詩碑建立の用地を探し歩き、広島城で、城壁が原爆に焼かれ変色し触るとぽろぽろと崩れるのをみて、「石が泣いている」といい、その地に決定したそうです。同年1115日、民喜の生誕日に詩碑は建立、除幕されました。

詩碑の表面には、陶工加藤唐九郎の作、民喜の辞世の詩ともいえる「碑銘」を掘り込んだ陶板が嵌め込まれ、裏面は詩人佐藤春夫の署名入りの「詩碑の記」を刻んだ銅板が嵌め込まれていました。しかし、当時の朝鮮戦争による金属不足から裏面の銅板が盗まれ、表面の陶板も子どもたちの石投げの標的とされ、破損が激しくなり、1967年に現地に移設再建されました。

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県立図書館へ行くと、詩碑の陶板は、レファレンスなどを受け付けるカウンターの一角に展示されていました。重厚感のあるごつごつした赤茶色の陶板に無数の傷痕があり、中央に深い割れ目がみられます。

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この傷ついた詩碑に、作家たちは民喜の人生を重ねて見ていました。戦後の青春期に民喜と出会い、人生と文学に大きな影響を受けたという遠藤周作は「(原さんの人生らしい)とむしろ、これでいいのだ、と感じた」といい、中学時代からの親友であった長光太は、詩碑移設の話を聞いて、「原民喜の碑銘なら、その生身のように石うたれて、ぼろぼろになり何がなんだかわからなくなって、失せて行くほうがふさわしいのにな」というと詩人の草野心平も同意してくれた、と書いています。

 広島県立図書館へ行かれた際は、ぜひ原民喜の旧詩碑に会いにいってみてください。

 竹原陽子

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竹原さん、貴重の情報ありがとうございました。原民喜のことが、また身近になったような気がします。ぜひ多くの人が、県立図書館に行って、旧詩碑も見ていただきたいですね。もちろん、原爆ドーム東側に建つ詩碑も一度じっくり見てほしいと思います。

いのちとうとし

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2019年4月18日 (木)

裁判官を忌避します―安保法制違憲訴訟

昨日(4月17日)、安保法制の違憲判決を求める「安保法制違憲訴訟」の第9回口頭弁論が、広島地裁304号法廷で行われました。

今回、裁判官の一人が交代するということで、裁判の更新手続きが行われ、原告弁護団は、これまでの準備書面による主張を要約し、意見陳述を展開しました。最初に和田森弁護士からは「なぜ提訴したのか」という基本的な主張を、続いて石口弁護士は、憲法の前文なども引用しての「平和的生存権」の侵害について主張、さらに山田弁護団長は、「三権分立による裁判所としての違憲立法審査権の行使」の重要性を主張するとともに、「訴えの利益論や原告適格のみで裁判を進行させるべきでない」ことを強調するなどそれぞれの立場から意見陳述が行われました。さらに前回の公判以降提出した「憲法改正決定憲論」など三つの準備書面についての意見陳述。特に、和田森弁護士は、被告(国)が、本件訴訟の最大の争点である「安安保法制の集団的自衛権と同行使、および関連する箇所について、認否を回避している」ことについて、「通常の訴訟追行の態度としてはあり得ない」ことを主張し、認否を明らかにすることを求めるとともに、裁判所に対しても「請求原因事実に関わる争点に関わる認否をさせないまま判決を下すことは通常考えられない」とし、「被告に認否を明らかにするよう釈明権を行使すべきだ」と求めるとともに「その結果に基づいて争点整理を進めるべきだ」と主張しました。

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しかし、小西裁判長は、これらの原告主張を無視して「権利侵害の立証をすべきだ」「とにかく次回までに立証すべきだ」と繰り返すのみです。しかし、群馬地裁では、原告団の同様の主張が認められ、「被告に認否を明らかにする」ことを求め、「その結果で、争点整理を行う」ことが認められています。

原告の主張を全く無視する小西裁判長の訴訟指揮に対し、山田弁護団長は「そもそも違憲判断を前提としなければならない裁判のはず。このままの裁判官体制では、公正な審理を続けることはできない」と「裁判官忌避」を言い渡し、昨日の公判は終了しました。

今後は、原告弁護団が、忌避の理由を提出し、それに基づいて裁判所が別の裁判官によって妥当かどうかを判断することになります。全国の安保法制違憲訴訟では、広島以外にも東京地裁など二か所で「裁判官忌避」が行われていますが、残念ながらいずれも却下されています。

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「裁判官忌避」の結論がどのようになるかわかりませんが、この裁判で起きている問題は、日本の裁判制度の深刻な状況を提起しているように思います。原告が強く主張しているように、日本国憲法は、三権分立の制度の下、第八一条で「違憲立法審査権」を与え「憲法の番人」としての役割を求めるだけでなく、第七六条で裁判官は、「憲法及び法律にのみ拘束される」とし「裁判官の独立」を認め、第七八条では「裁判官の身分の保証」を明記し、その実行を求めています。しかし、現実の行政裁判では、「訴える資格(具体的な不利益を被っている)があるのか」という「原告適格」がまず問われ、ほとんどの裁判が、結果として具体的な違法性の判断を回避し、国会の立法行為が追認しています。事実上憲法が要請している「違憲立法審査権」という重要な役割を放棄しているのが現実です。安保法制の場合、もし具体的不利益が発生した時ではもう遅いということです。

私もかき船裁判の経験から、いかに行政訴訟のハードルが高いかを実感しています。これでは、主権者である国民のための、国民が求めている裁判制度とはとても言えません。

いのちとうとし

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2019年4月17日 (水)

-許すな!安倍改憲発議―  平和といのちと人権を!5・3ヒロシマ憲法集会のご案内

一昨年の5月3日の憲法記念日、ついに安倍総理が憲法9条の改憲を打ちだしました。このことに対して、東京では毎月19日に国会を取り囲んで戦争法や共謀罪法の反対運動を進めた人たちが国会周辺で改憲反対訴える行動として発展させ、全国へも運動が広がってきました。被爆地ヒロシマの平和運動団体として、広島県原水禁と平和運動センターは、この安倍9条改憲を許してはならないとの強い思いで、県内の平和運動とりわけ9条を守り、人権尊重し平和憲法を活かした政治を求める団体とともに「戦争法」「共謀罪法」廃案の運動に加えて、「安倍9条改憲NO!」の3000万人署名、講演会や学習会、街頭行動を行ってきました。

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第2次安倍政権発足以降、国民の知る権利と表現の自由を奪う法律がつくられてきました。とりわけ、特定機密法、共謀罪法の成立はあたかも国民の安心を確立させるがごとく政権の宣伝に振り回され、テレビも新聞もその危険性を問うことは弱かったと感じます。

東日本の震災と原発事故による被害も時がたてばほとんど実態が報じられません。あたかも原発事故処理や震災による復興が着実に進んでいると思わされているのも事実です。それはマスコミへの権力の介入・支配が強まっているからであろうことは薄々感じてはいました。なかなか真実が報じられない、だから本当のことがわからない、問題と感じ合うことができない社会が進んでいくのは怖いことです。これは民主主意義の危機です。

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5月3日の憲法施行日と11月3日の憲法公布日、別々に行っていた集会は統一して行うようになって4年目を迎えます。昨年までこの憲法集会は屋外で行っていましたが、今年は重要な年ということで屋内で行うこととしました。民主主義の危機をとらえることからの問題意識を深め合おうという企画です。ブログを見てくださった皆さんの集会へのご参加をお待ちしています。

 

〇集会開催日:53日(祝)  1000開場 10301230

〇会   場:アステールプラザ・大ホール(広島市中区加古町4-17

〇参 加 費:500円(学生・障がい者の方は無料)(手話通訳あり)

                      広島県平和運動センター・渡辺

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2019年4月16日 (火)

原爆ドームの絵を描き続けてきた原弘司さんを偲んで

原爆ドームの横の元安川の水で溶かした絵具で原爆ドームを水彩画で描き続けてこられた被爆者の原弘司さん(87歳)が、悪性中皮腫で14日永眠されました。心からご冥福をお祈りします。

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原さんが、原爆ドームを描き続けてこられたことは、様々なマスコミが取り上げるでしょうから、ここでは原さんと私のかかわりを振り返ってみたいと思います。

原弘司さんとの最初の出会いの頃は、旧国鉄の広島工場の労働組合の活動家として活躍されている時代でした。そのことが縁となり、1984年、修学旅行生たちに被爆体験を伝えてきたボランティア組織として立ち上げられた「ヒロシマを語る会」のメンバーの一人として証言活動を続けておられた原さんに、毎年夏に開催される青年女性平和友好祭で、被爆証言活動を何度も依頼し、自宅から会場まで送り迎えすることを条件に快諾していただいたことを今でも思い出されます。

「ヒロシマを語る会」の事務局は、広島県被団協の平和会館にありましたので、そこでお会いすることもたびたびでした。ですから原水禁運動を通じての思い出もたくさんありますが、そんな中でも特に忘れることができないことがあります。2010年被爆60周年を記念してドイツ・ポツダムのヒロシマ広場(現在は、「ヒロシマ・ナガサキ広場」と改称)に記念碑設置され、7月25日に開催された完成式の行事に参加した時のことです。現地から「夕方近くの湖だ『灯篭流しをしたい』」と連絡が入り、広島からも持参しようと準備を始めました。どんな絵柄のものを用意しようかと考え、思いついたのが、原さんの原爆ドームの絵を使うことでした。原さんにお願いし許しを得、原さんの「原爆ドーム」の絵と森滝市郎先生が色紙に揮毫された「人類は生きねばならぬ」や「核絶対否定」の文字とを組み合わせた灯篭を20組作成し、持参しました。完成式の夜の灯篭流しに集まった人たちが、喜びながら湖に浮かべたことを思い出します。

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その時には、さらに原さんには無理なお願いし、原爆ドームが描かれた大切な色紙2枚を譲っていただき、ポツダム市長や当時の碑建立委員会の皆さんに贈呈しました。今もどこかに飾られていると思います。

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原弘司さんのお通夜、葬儀は家族葬で行われるということを聞きましたので、長男の広信さんのお許しをいただき、通夜前の葬儀場の親族控えの間に安置された原さんに最後のお別れをすることができました。トレードマークのベレー帽をかぶり、いつものように「よく来たな」と声をかけていただけそうな原さんでした。

原さんの願いであった「核のない平和な世界」を実現させるために、好きだったことば「継続は力なり」を忘れず頑張ることを改めて霊前に誓いました。

いのちとうとし

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2019年4月15日 (月)

おりづる解体作業とリサイクル

平和公園に多く訪れる修学旅行生から公園内にある多くの碑に千羽鶴が捧げられ続けている。

幾月かを経て大切に別の場所に移された千羽鶴は担当する広島市平和推進課のホームページによれば「託された思いを昇華させるための取組を主体的に実施する市民等に折り鶴を配布する」こととされている。

この取り組みに安芸の郷も手をあげ、事業所の一つ森の工房あやめに毎年定期的に運輸業者から千羽鶴が配送されている。

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毎日の作業の合間をぬって、届いた折り鶴は再生利用することを目的として解体選別される。

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利用者の皆さんが一緒になってマニュアル通りに解体選別していく。

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折り鶴の仕訳のために籠を机の上に置いて選別していく。

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銀や金の紙も、黒や濃紺などの色の紙も仕訳られ、

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折り鶴に名前やメッセージなどが書かれているものも仕分けられる。

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この取り組みは    NPO千羽鶴未来プロジェクトと広島就労支援センター(障害者の就労や、仕事のあっせん、紹介、連絡調整などを行っている)が共同して進めている。これに賛同する約30の障害者の事業所が解体作業を経てオリジナルな千羽鶴の再生グッズを製品化して販売するイステムを構築している。

再生されたノートの風合い。

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製品などの紹介は次回に。

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安芸の郷の建物、森の工房AMAの庭のヤマザクラはもう葉桜。(4月10日の昼休み)

2019年4月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2019年4月14日 (日)

原民喜ゆかりの被爆柳―その2

4月6日のブログ「原民喜ゆかりの被爆柳」を書いて、確認のため原民喜文学研究者の竹原陽子さんに松江澄さんのお父さんの原製作所の肩書(大番頭)の確認をお願いしたところ、次のようなメールを送っていただきました。本人の了解を得ましたので、全文掲載します。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ご紹介いただきました原民喜文学を研究している竹原陽子と申します。このたび、原水禁大会で大変お世話になることになりました。原民喜が原爆被災時に避難した道を歩きながら、松江澄さんも力を尽くされた原水禁運動に学んでいきたいと思っています。どうぞよろしくお願い致します。

さて、松江澄さんと原民喜についてですが、松江澄著『ヒロシマの原点へ 自分史としての戦後50年』(評論社、1995年)に詳しく書かれていました。

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「明治七年、貧乏ざむらいの子に生れた父は、寡黙で小心であるが律気で一徹な人間であった。私が生れたときには遠縁に当るらしい原民喜の父から長兄がひきついだ陸軍用達の網やテントを扱う店で当主を助けて若い人達の監督のようなことをしていた。私より十三も年上の民喜は夏休みに東京から帰省したとき、遠くを見ているような彼の顔を幻のようにおぼえている。戦後その彼が『夏の花』の第一部「壊滅の序曲」のなかで、私の父を「三津井老人」という名で書いていたのを読んでなつかしく当時を思い出した。彼は父の名である正三を自分の名前にして被爆四十八時間前の自分の家と店のありさまをリアルにえがいているが、私の父についての叙述は息子の私がおどろくほど正確であった。」

「民喜の本のなかで、店の者が入営するときの父のことばが書かれている。「『兵隊になられたら馬鹿になりなさいよ。ものを考えてはいけませんよ』と息子に言いきかすように言いだした。」と。まさに父は入営するときにそう言ったのだ。だがこれはあきらかに”偽装”の姿勢である。そうして私はそれに従った、(後略)」

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京橋川土手の原民喜ゆかりの被爆柳があるところには、原民喜の甥・原時彦さんによると、被爆柳を境として、原民喜の持家が二軒あり、原爆被災時、南側の家に民喜の次兄一家が住み、北側の家には、1945年4月から、原商店の大番頭であった松江澄の父・松江正三の一家が居住しており、原爆被災時は、民喜の次兄が松江正三を助け、ともに縮景園まで逃れたといいます。

松江澄の生まれた場所はわかりませんが、前著を読むと、子どもの頃、二、三度転居しており、京橋川土手の家から程近い幟町界隈に住んでいたことがわかります。

夏の原水禁大会のフィールドワークは、原民喜の作品を朗読しながら辿っていきます。どうぞよろしくお願い致します。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

竹原さん、新しい情報ありがとうございました。松江正三さんが、あの地に住まれたのが、1945年4月からのようですから、軍隊入営中の松江澄さんが、あそこの住んで折れたことは勿論、生まれ育たれた場所でもなかったのですね。

いのちとうとし

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2019年4月13日 (土)

被爆二世集団訴訟の原告となって

2017年2月、被爆二世の集団訴訟が、広島と長崎で始まりました。国が二世への援護措置を怠っていることは、幸福追求権を保障した憲法に反するとして起こした訴訟であり、私も原告団の1人です。

現在、平和公園になっている一帯は、当時、多くの人が住み行き交う広島の繁華街でした。私の祖母の実家は、その南側の中島新町にあり、醤油屋を営んでいました。建物疎開(ということは現在の平和大通あたりだったのでしょう)のため、元柳町の本川橋のたもとに転居し、その数日後に原爆に遭いました。爆心地から400メートルの所でした。曾祖母たちは爆死し、大八車を引いて吉島町を歩いていた曾祖父のみが、刑務所の高い塀に遮られて助かったそうです。

当時、9歳だった父は、向原に縁故疎開をしていましたが、広島に新型爆弾が投下されたことを知った祖父に連れられ、812日に曾祖母たちの捜索に入り、入市被爆をしています。

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       ↑中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターHP「『ヒロシマの記録』―遺影は語る」で見つけた曾祖母と大叔母の遺影

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter_d/jp/abomb/00abomb/kiroku/motoyanagi/my1.html

幸いなことに父も私も、現在のところ健康を害さずに過ごしていることもあり、私自身、これまで自分は被爆二世だという自覚がほとんどありませんでした。組合の仲間から被爆二世の集団訴訟の話を聞いたときも、自覚もなく健康な自分が原告に加わって良いのかどうか迷いました。しかし、私個人の問題ではないと思い、原告団に加わることにしました。被爆者が高齢化する中、次の「当事者」としてとりくむ責任が被爆二世にあると感じています。

被爆者に対する援護法も、初めからあったわけではありません。先人たちの粘り強いとりくみにより、被爆から12年経った1957年にようやく「原爆医療法」が施行されました。被爆者健康手帳の交付により健診や医療を受けられる施策は、その後も改正を重ね、対象や内容の拡大が図られ、被爆から50年経った1995年に、現行の「被爆者援護法」施行に至りました。

一方で、国は被爆二世については「放射線の遺伝的影響の科学的知見は得られていない」として援護対象とせず、その人数すら確認していません。

科学的知見が得られていないから何もしないという理屈を通してしまうことは、東電福島第一原発事故による被曝者や二世へも何もしなくてよいという理屈につながります。私たちは、この集団訴訟が、福島や世界の核被害者の問題解決、日本の核政策にも影響を与えるものとしてたたかっていきます。

(頼信直枝)

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