憲法

2019年7月16日 (火)

7月22日に、「数学月間」の懇話会で話をします ――関東地方の皆さん是非お出で下さい――

皆さん。7月22日から8月22日の間を「数学月間」と呼んで、「社会が数学を知り、数学が社会を知る」を合言葉に、全国各地で、数学への関心を高めるための様々なイベントを企画したり応援したりしているNPO法人のあることを知っていますか。それが「数学月間の会」なのですが、7月22日の午後2時から、東大の駒場キャンパスで懇話会を開催します。関心のある方ならどなたでも参加して頂けますので、是非お出で下さい。

会の詳細をお知らせする前に、何故7月22日から8月22日なのかの理由を聞いて下さい。数学で大切な定数の一つが、円周率、つまりΠ(パイ)であることは御存知だと思います。例の、「3.1415・・・・・・」と続く数字ですが、円の外周の長さを円の直径で割った数値です。

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πについてのAERAの記事から

この数字は無理数ですので、少数を使って表そうとすると、「無限小数」つまり、永遠に続く少数になるのですが、昔から、この数を有理数、つまり分数で近似することが行われてきました。その中でも多くの人が使ってきたのが、22/7です。つまり、22を7で割った数なのです。ここから、7月22日を思い付くのは簡単ですね。

8月22日も、数学の知識のある人には納得して貰える数なのですが、術語を使えば「自然対数の底」、数学の記号としては「e」が使われる数値です。こちらの近似値として使われてきたのが、22/8、つまり、22を8で割った数なのです。

前置きが長くなりましたが、懇話会のお知らせです。

 

  「数学月間懇話会(第15回)」

  • 722日,14:0017:30(開場13:30
  • 東大駒場,数理科学研究科002教室.

 

  14:00-14:20 片瀬豊さんと数学月間,谷克彦

  (休み10分)

  14:30-15:20 教育数学と高大接続,岡本和夫(東京大学名誉教授)

  15:20-15:50 質疑応答

  (休み10分)

 

  16:00-16:50 数学書として憲法を読む,秋葉忠利(前広島市長)

  16:5017:20 質疑応答,本サイン会

 

  主催● NPO法人数学月間の会,日本数学協会

  参加費● 1000円(高校生,中学生は無料)

 

その後に懇親会があります。隣建屋のイタリアントマトに行って,各自払いで注文し適当に椅子に座りお話しします.17:40ごろからでしょう.

私の出番を強調させて頂きましたが、多くの皆さんに御参加頂ければ幸いです。

[2019/7/16 イライザ]

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2019年7月12日 (金)

『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』 (3) ――何故「数学書」として読みたいと思ったのか――

私が、憲法をあたかも「数学書として読む」試みをしたいと思ったのには、いくつかの理由があるのですが、それを一言で言い尽してくれている至言があります。心理学者アブラハム・マズローの言葉です。

もしあなたが金槌なら、世界は釘に見える。

同様に数学を勉強した人間にとって、世界は数学システムのように見えてもおかしくはないのです。

それを、他の言葉を使って説明しておきましょう。その結果として、「数学」とはどんな学問なのかが少しは見えてくるような気がします。

一つには、数学書では、書かれている言葉は素直にその通り読みます。例えば、「Nは整数である」と書かれていれば、「本当のところは、Nは無理数でも良いんだ」という読み方はしません。しかし、憲法については、例えば99条で、天皇や公務員には憲法を遵守する「義務」があると書かれてはいるのですが、その解釈についての定説では、これは「義務」ではなく「道徳的要請」なのです。それを素直に。「義務である」と読んだらどのような結果が生じるのか、知りたいとは思いませんか?そのように素直に読んでみた結果の報告が『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』なのです。

次に、憲法には、「自衛権」という言葉は使われていません。数学書であれば、そこに使われていない言葉を引っ張り出してきて、それを根拠に定理を証明することなどありません。それと同じように、憲法の中には現れない概念や言葉は、憲法を解釈する上では使わないことにしたらどんな結果になるのか、その結論についての報告にもなっています。

さらに、数学書では、仮にNが整数であって、加えて、Mも整数だとすると、N+Mは整数になります。それは論理的な議論によって証明できます。それと同じような簡単かつ論理的な議論をすることで得られる結論もあります。例えば、このような論理的な読み方をすると、憲法は死刑を禁止しています。しかしながら、現実の世界では、「死刑は合憲である」ということが定説になっています。最高裁判所の判決があるからです。本当にそれで良いのか、敢て問題提起をすることも、『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』では行っています。

その他の理由もありますが、それらをまとめて、なぜこの本を読むべきなのかをアピールしているチラシを法政大学出版局の方が作って下さいましたので、最後にそれを掲げて置きます。

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[2019/7/12 イライザ]

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2019年7月11日 (木)

『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』 (2) ――前口上も楽しさ一杯です――

単行本でも文庫本でも、多くの場合、カバーが掛っています。そのカバーを本から外すと、内側に書いてある部分も同時に読めますので、本の内容を一瞥して理解する上では役に立ちます。とは言え、やはり目次が大切であることは言うまでもありません。その目次の部分を御覧下さい。クリックすると大きくなります。

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裏表紙に目次が載っていますが、最初の「章」は「前口上」です。タイトルは、「なぜ前広島市長が憲法を語るのか」です。その前に、「数学書として憲法を読む」がメインのタイトルですので、そちらの説明が必要ですが、それは次回に回すことにして、後半にあるサブタイトル、「前広島市長の憲法・天皇論」の説明としての「なぜ前広島市長が憲法を語るのか」を要約しておきましょう。とは言え、これは小著の中に書いた視点とは少し違ってくるかもしれません。

まず、なぜこのような本を書こうと思ったのか、を自問自答している内に、「市長」という仕事をしていなかったら、このような本を書くエネルギーは生まれなかったのではないか、と思うようになりました。それは、議員と違って、市長は市民全ての代表だからです。

衆議院議員の場合が分り易いのですが、その略称としてよく使われるのが「代議士」です。これは市民に代って議論をする、代弁をするという議員の立場を強調する言葉です。つまり、自分に一票を投じてくれた選挙民の代表として、支持者の代弁をするのが代議士だと言えるのではないでしょうか。

対照的に、市長の場合は、全市に一人しか存在しない仕事ですから、全市民の代表として仕事をしなくてはなりません。自分に投票してくれた人たちだけではなく、対立候補の支持者の代表でもあるのですから、その点もしっかり踏まえた姿勢が求められます。このことを憲法では、第15条の第2項として明文化しています。

 

15条  (一項は略)

2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

 

その公務員には、重い義務が課されています。99条です。

 

99条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 

地方公務員も公務員ですから、この条文に縛られます。そして市長も当然、公務員の一人ですので、憲法遵守義務があります。

この義務を果す上で、では憲法は具体的にどのような義務を課しているのかを知るために、憲法を字義通り、あるがままに読むことが大切だと思ったのです。

[2019/7/11 イライザ]

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2019年7月10日 (水)

『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』 ――いよいよ発売です――

まずは、本の表紙から御覧下さい。このブログを読んで下さっている皆さんには、こっそり耳打ちしますが、書店に並ぶときには帯の部分がちょっと変っているかもしれません。さてどこでしょうか。そして書店に並ぶのは、配送等の事情にも依りますので、恐らく、17日か18日くらいになると思います。Amazonで予約して頂くのが一番早いかもしれません。

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何年も掛って書いた本ですので、できるだけ多くの皆さんに読んで頂きたいのですが、そのためにこの本の効能もお知らせしておくべきですね。この本を読むと、お金持ちになるとか、運が向いてくるというのも「効能」ですが、私たちは知的動物ですから、その面からの効能も大切です。「この本」と言い続けるのも煩いので、「小著」を使います。

例えば、安倍総理は改憲論者です。それも第9条を「改正」したいと言っています。ところで、9条を変えるのは「改正」ではなく「改悪」だと考える人が多いのですが、憲法に出てくる言葉を使うと「改正」ですので、「改める」という意味でこちらを使います。そして、安倍総理の意図は小著を読まなくても分ることです。

でも恐らく、多くの皆さんは、憲法9条を改正すること自体が憲法違反であることまでは、御存知ではないのではないでしょうか。それは、「憲法には96条という規定があって、その手続きを踏めば改正することは構わないのだ」という主張をどこかで、恐らく「専門家」だと称する人から聞いて、「そうなのか」と思ってしまったからなのではないでしょうか。

小著では、この考え方は間違いで、9条の改正はできないことを証明しています。しかも、その「証明」はそんなに難しくはないのです。それだけならまだ他の本を読んでも理解できることなのですが、小著の特徴は、この証明の仕方を誰でも身に付けることが出来るという点です。

昔、高校一年になったとき、微分と積分の勉強をしたことがあります。そのとき読んだ教科書には「馬にも分る」と書いてありました。読んでみたら本当に良く分って、二晩で微分と積分はマスターすることが出来ました。大感激しました。それ以来、私が本を書くとき、講演をするときの目標は「馬にも分る」なのですが、小著も分り易さを目指しているからです。

「証明の仕方」が「身に付く」のは、証明をパターン化して、「憲法改正不可テスト」としてまとめてあるからです。たった2行のテストですが、そのテストをどのように使うのかを、今度は5行にまとめてあります。いわば「憲法改正不可テスト」のマニュアルです。このマニュアルに従ってテストをそのまま使うことで、誰でも「改正はできない」ことを「証明」できるのです。

しかも、このテストもマニュアルも「論理」という鎧に守られていますから、専門家を相手にしてもこのマニュアルを使えば、相手が専門家でも簡単に説得できるという利点があります。もっとも「専門家」の中にも強情な人はいますので、注意は必要です。

その他の「効能」はまたの機会に説明したいと思います。次回をお楽しみに!

 [2019/7/10 イライザ]

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2019年7月 5日 (金)

「論理チェック」と公務員の知的誠実さ

私たちが、例えば参議院議員選挙で誰に投票するのかを決める上で大切なことの一つは公約ですが、その公約を判断する上でカギになるのが、まずは「事実」そしてもう一つが「論理」です。

前回は、大航海時代が始まったのは、「事実」と「論理」がそれぞれの役割を果したことを指摘しました。再度掲げておきます。

「地球は丸い」は真実です。人類は、それまでの「地球は平ら」という「フェイクニュース」(と言わせて下さい)を、「ファクトチェック」によって否定し、この真実に辿り着いたのでした。この真実を元に、だとすると、西に向って航海して、もやがては東にある東洋に辿り着ける、という「論理チェック」の結果、大航海時代が始まったのです。

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複雑多様になった社会や政治が、出来るだけ多くの人の幸福のために機能する上で、憲法が最重要だと言い切ってしまっても良いと思うのですが、その憲法を「あるがままに読んでみよう」とした結果をまとめたものが、『数学書として憲法を読む--前広島市長の憲法・天皇論』です。憲法を論理的にかつ自己完結的に読んでみようという試みです。今月中には発売になりますので、少しずつ紹介をして行きます。

「ファクトチェック」という表現をお借りして、「○○チェック」という形で小著の特徴をまとめると、「論理チェック」と言えるかもしれないことは既に述べたのですが、そう思った時に頭に浮んだ「定理」があるのです。ここで、「定理」という言葉を使っているのは、憲法を「公理」の集りだと考えた上で、そこから導かれる結論を数学の言葉を使って「定理」と表現しているからです。

それは、公務員が守らなくてはならない義務を述べた「知的誠実さ定理」です。これは憲法15条から簡単に導かれる「定理」なのですが、数学の言葉では、「15条の系」という言い方もできますので、それも使っています。以下、小著からの抜粋です。

まず、憲法15条の第2項を掲げておきます。

第15条 (略)

2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

[第15条の系] (知的誠実さ定理) 公務員は知的に誠実でなければならない。人類がこれまで獲得してきた真実を重んじ、それを元に事実を確認し共有するステップを論理的・科学的に冷静にしかも慎重に踏んで結論に至るべきである。

   憲法には、「公務員は知的に誠実であれ」という表現は明示的には使われていませんが、これまで何度も述べてきた、いわば科学的であることの基盤をこのような形で整理できたことこそ、憲法の強みなのだと言いたい気持です。

この系の証明は繰り返さなくても良いと思いますが、念のためにまとめておきましょう。公務員が、全体の奉仕者という役割を果すためには、意見や価値観、宗教等の異なる人たちの声を傾聴し、必要があれば特定の政策について違う立場の人たちの調整を行わなくてはなりません。その際に必要なのは、まず事実を事実として認め、それに対する判断は違っても何が事実であるかという点については合意することです。そしてその先は、言葉の意味を丁寧に素直に理解しながら、論理的推論を重ねて、それも誰それが言ったからという外からの権威を持ち出すのではなく、自立した個人として自分の頭で考えての結論を重んじつつ、次のステップに進むことです。このような最低限必要なプロセスを、通常私たちは「科学的」だと呼んでいます。そしてこのような議論の仕方が全体の奉仕者としての役割を果すための出発点であることも御理解いただけると思います。

そして、政治の場でこのような当り前のことを実現する上で、一番役立つのが、憲法そのものをあるがままに、しかもこのような姿勢で読むことです。つまり、「憲法を数学書として読む」ことです。

人類はこのような手続きの有効性を長い間掛って発見し、それを元に科学その他の学問を発達させ、人類を滅亡から救うだけでなく、より豊かで平和な社会を作ってきました。

現在の政治状況と官僚の実態、そして憲法99条との間の密接な関係については御理解いただけたとして、このような状況を改善することは、一定レベルの知的な能力を与えられている私たち人類の義務ではないかとも思います。次の世代の社会・世界がより豊かでより平和なものになるよう知的能力を活用することは、特に権力を持っている人たち――彼ら/彼女らは知的能力も高い人が多いはずなのですが――にとって最重要な知的責任の一つであると言って良いのではないでしょうか。

 

「公務員」の中には、総理大臣等の国会議員や、官僚そして裁判官も入ります。そして「知的誠実さ定理」の出発点が「真実」あるいは「事実」であることから、「ファクトチェック」の重要性も強調されていることも大切です。

[2019/7/5 イライザ]

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2019年7月 3日 (水)

『ファクトチェック最前線』を読んで「ファクトチェッカー」になろう

昨日の続きです。

『テニアン』の他にも、あけび書房は「今」私たちが必要としている情報やスキルを提供してくれる多くの良書を出しているのですが、最近出版されたものの内から、特にお勧めする一冊を取り上げたいと思います。立岩陽一郎氏著の『ファクトチェック最前線』です。

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その理由の一つは、近く発売になる小著『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』で取り上げたトピックと、ピッタリ平仄のあっている書物だからです。

そもそも、嘘によって人を騙すこと、また洗脳によって多くの人を惑わし操ること、さらにこうしたことの結果として人心を掌握し権力者になること等は古くからおこなわれてきています。トランプ大統領以前から「フェイクニュース」はあったのです。しかし、コンピュータとインターネットの発達によって、例えばSNSといった形で、誰でも手軽にフェイクニュースの発信者になれる時代になりました。そんな時代背景を生かして力を握ったのが、「ドナルド・トランプ」という特異なキャラクターです。トランプ大統領の場合は、匿名ではありませんが、それ以上に問題にしなくてはならないのは、発信者がどのくらい信頼できる人間なのかは全く隠されたまま、フェイクニュースだけが独り歩きする現実です。

幸いなことにこれは両刃の剣です。SNSはフェイクニュースに対抗する手段でもあるのです。だから「アラブの春」や「オキュパイ」、そして今の香港でも多様なエネルギーをまとめる力になっています。多くの市民が協力することで、技術的にも組織的にも不可能に近い結果を残したという具体例もあります。

2003年にスペースシャトル「コロンビア」が大気圏突入後に空中分解し、7人の宇宙飛行士が死亡した事故がありました。その調査に当って、大気圏突入後のコロンビアの航跡を確定する必要があったのですが、それが正確にできたのは、全米で天体観測、特にスペースシャトルの観測を行っていた数えきれないくらい多くのアマチュアの撮った写真、しかも時間と撮影地点の情報が付いたものがあったからです。

こうした市民の力を生かして「フェイクニュース」に対抗するために、私たちが身に付けるべき具体的な方法を教えてくれるのと同時に、それを実践した著者の立岩氏がどのような成果を挙げて来たのかを報告してくれているのが『ファクトチェック最前線』です。彼の基本的なスタンスを見事に表している一節が「まえがき」の中にありました。ちょっと長いのですが、引用します。

 

 「立岩陽一郎って馬鹿なの? 国連の登録名が「北朝鮮」「南朝鮮」」


 最近、ツイッターで批判されることの多い私ですが、これはそのひとつです。このツイートは、私が日刊ゲンダイに連載している「ファクトチェック・ニッポン」で、「北朝鮮」という呼称を使うことを止めるべき、と書いたことに対する意見かと思われます。

 この記事で私は次の点を指摘しました。

 北朝鮮とは朝鮮民主主義人民共和国を略したものとして使われていること。その国の人々は、この北朝鮮という呼称を好ましく思っていないこと。通常、正式名称を略する場合、「北」といった新たな言葉を加えることはないこと。また、北朝鮮という国名は、かつての西ドイツと東ドイツのように、南朝鮮という国名があって初めて意味をなすこと。そして、日本では南朝鮮とは言わず、韓国と言っていること。

 そのうえで、略するなら「朝鮮」が妥当である、と書きました。

 時あたかも、安倍総理が日朝交渉に前向きな姿勢を示した時でしたから、「安倍総理は日本テレビの取材に、無条件で日朝交渉に応じる考えだと語ったそうだ。では、ひとつアドバイスしたい。まず、北朝鮮との呼称をやめるべきだ。そうした小さな取り組みもできないようでは、相手側に対話の機運は生まれない」と指摘しました。

 前記のツイートをされた方は、その内容が気に入らなかったのでしょう。もちろん、私の意見を批判するのは自由ですし、批判は歓迎します。しかし、「国連の登録名が「北朝鮮」「南朝鮮」」というのは事実ではありません。

 これは、国連のウエブサイトを確認すればすぐにわかることです。国連の加盟国のところには、「Democratic People’s Republic of Korea」と書かれています。これが登録名です。

ちなみに、自由奔放な発言で知られるアメリカのトランプ大統領は時折、DPRKを使います。これが正しい略だからです。もちろん、North Koreaとも言いますが、これは西ドイツ、東ドイツのケースと同じで、英語では、普通に朝鮮半島の南北を、South Korea とNorth Korea と言い分けているので、自然なことです。

 

実は、この考え方や論理の進め方が、『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』を書く上での私の基本的なスタンスと一致しているのです。長くなりましたので、次回に続きます。

[2019/7/1 イライザ]

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コメント


の前に、まずはご著書『数学者として憲法を読む』をと、
amazon予約しました。
↑注文のたびに、町の本さんスミマセン🙇と。
(が、都心にいても老体には大助かりではあります)

「硬い心」様

コメント有り難う御座いました。そして、Amazonで予約して下さったのも、感謝・感謝です。

『数学書として憲法を読む--前広島市長の憲法・天皇論』を読むとどんな良いことがあるのかを、これから何回かに分けて説明しますので、多くの皆さんにお読み頂きたいと思っています。

 

 

 

2019年5月19日 (日)

死刑制度 (4) ――被害者――

これまで、死刑制度について、憲法がどう判断しているのかを検証する準備として、世論や国際比較といった背景を見てきました。しかしながら、犯罪の被害者の視点を抜きにして死刑制度は論じられません。今回は、そこに焦点を合せます。

《死刑しかない》

かつて毎日新聞の社会部記者として数々の事件を取材し、また警視庁キャップとして勇名を馳せた友人A氏から聞いた忘れられない一言があります。「自分は死刑制度は廃止されるべきだと信じている。でも、たくさんの犯罪者を取材する中で、こいつは死刑になっても仕方がない、それ以外の選択は考えられないと言いたくなるくらい悪い奴のいることも事実なんだ。」私の何倍もの幅広さで社会を見てきたであろうA氏の感想に私は返す言葉もありませんでした。

事件記者としての情熱だけではなく、様々な事件の背景等についても冷静に分析ができ、人間的な優しさも持ち合わせているA氏でも、こんな思いに駆られることがあるのは、それほど死刑の正当性が社会に浸透しているからなのだと思います。そして、このA氏の頭に、死刑の可能性がある意味自然に浮かぶこと自体、死刑という制度の廃止と存続との間の線引きが難しいことを示しているのではないかと思います。

010

確かに、子どもを殺された親の気持は私たちの魂を揺さぶります。共に泣き嘆き糾弾したい気持になるのも情のなせる業かもしれません。内閣府のホームページにあった、息子さんを失った一人の母、尾松智子さんの言葉です。

初公判が八月四日と決まりました。口を二度と利くことの出来ない信吾、無念の中で命を奪われてしまった信吾のために、私に出来るたった一つのこと、それはこうやって裁判を進めていただく関係者の方々に、許されれば私共の今の気持ちを伝えさせていただくこと、それが精一杯のことです。

加害者の一人が、「生きているのが辛い。」と私共に手紙の中で述べておりました。辛いと感じる命があなたにはあるし、もう一度社会を歩んでいけるチャンスが命ある限り訪れることでしょう。正直なところどんな言葉も私共には響くことはありません。罪の無い人間の命が奪われたのに、どうして罪を犯した人間がこの世に生きているのでしょう。私共は出来ることなら、許されることなら、四人の加害者に、信吾と同じ状況下で、信吾の受けた痛みや苦しみを同じように体験して欲しい。そして私たちが生きている限り、加害者の命がある限り、この社会には出てきて欲しくはない。出来ることなら極刑に処して欲しい。そう願わずにはおれません。信吾や私たちの受けた、又これからも受け続けなければならない、精神的ストレス、そして苦しみを、この四人の加害者に与えたい。それが出来るのは、極刑、死刑しかない、そう考えています。

生きている限り、加害者と言えども、その人の人権が守られることでしょう。しかし命が無くなった信吾の人権は一体どうなったのでしょう。こんなに悲しいことがあるでしょうか。命は二度と取り返すことが出来ません。犯した罪は本当に償うことが出来るのでしょうか。命有るものに対し行った残虐な行為。与えた精神的な苦痛。罪の無い人の命まで奪ったと言う事実に対し、取り返しがつかないことなのだと厳しく厳しく法の下、裁き追求していただくことを心からお願い申し上げます。

 

真正面から受け止めなくてはならない、でも受け止めることさえ難しい言葉です。ではどうすれば良いのでしょうか。簡単な解決策はないのですが、これまでの人類史を振り返ると、数えきれないほど多くの人が悲劇に遭遇し、悲しみ嘆き、持って行きどころのない気持を抱えながら生き続けてきています。そうした多くの人たちの経験の積み重ねから、私たちが学び取ることはできないのでしょうか。

例えばほとんどの宗教は、悲劇に遭遇した人々とともに存在してきました。芸術を通して悲しみが癒されることもあったはずです。そして、社会制度としての法的な枠組みにも、長い間、人類が歩んできた経験から学び未来を拓くための知恵が込められています。憲法の97条には、簡単ではありますが、人類の歩みが記されています。基本的人権の中には、「幸福追求の権利」も含まれています。抽象的なレベルでは、尾松さんに応えることにはならないと思います。それでも法治国家としてのわが国では、このような難しい問題についても憲法を元にして考えて行く必要があります。

この点については7月に法政大学出版局から刊行予定の『天皇と憲法――数学書として憲法を読む――』をお読み下さい。憲法を、あるがままに読むとどのような結論に至るのかを詳しく論じています。

しかしながら、死刑についての憲法の考え方を理解したからといって、殺人によって愛する家族を奪われた遺族の気持が自動的に癒されることにはならないでしょう。

ようやく社会的な関心も、この面に向けられるようになり、国も重い腰を上げることになりました。救済のための国の施策は始まったばかりですが、主に二つあります。経済的な支援策としては「犯罪被害者給付制度」があり、精神的社会的支援については「犯罪被害者等基本法」があるのですが、被爆者援護法と同じように、運用面でさらなる工夫も必要ですし、制度的・法的な拡充も必要でしょう。また、法律面だけではなく、より包括的な支援システムが必要なことは言うまでもないと思います。

そして、広島・長崎の被爆者たちの歩んできた道からも社会全体として教訓を汲み取り、苦しい悲しい運命を背負わされた犯罪被害者やその遺族たちのために役立てることも可能なのではないかと思います。その視点から被爆体験を生かすための調査や研究の行われることを期待しています。

[2019/5/19 イライザ]

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2019年5月18日 (土)

死刑制度 (3) ――冤罪――

Court  

 《冤罪》

これまで、死刑制度について、様々な問題点について検討してきましたが、もう一点大切なことがあります。刑罰の中で何よりも避けなくてはならないものは、罪のない人に与える刑罰、つまり「冤罪」です。中でも冤罪によって死刑を執行された人は、永遠に生き返ることがないのですから、究極の「残虐」さを持つ犯罪だと断定できます。そして冤罪による死刑の宣告が実際にあったことは、後に長く苦しい時間を経て無罪判決が出たにしろ、四大死刑冤罪事件(免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件)をみることだけでも明らかです。

死刑判決は受けなかったけれど、服役しながら冤罪を訴え、その結果無実が証明された例はかなりあるのですが、それは、冤罪だということを本人が一番良く分っていて、その本人が熱心に訴えを続けたために裁判所も最後には動かざるを得なかったからだと考えられます。死刑を執行されてしまってから、真犯人が分り冤罪であることの証明がされたりするケースはほとんどあませんが、それは、一番の当事者である本人がこの世にいないこと、従って、本人があくまでも「冤罪」であることを訴え続けることさえできなくなった事実、が最大の原因かもしれません。

冤罪によって、罪のない人が死刑に処せられるのは「残虐な刑罰」に相当することは御理解頂けたとして、それは「絶対に」行われてはならいことが36条の規定です。「絶対に」の意味は、「一人の例外もなく」です。この「一人の例外もなく」は、民主主義の理想形で述べた、全ての人が合意しなければ民主政治・国家と言えども人の命を奪うことはできない、という原理に呼応しています。

そして、人間は神ではありませんから、過ちを犯します。その可能性を認めた上で、「ただ一人の例外もなく」冤罪による死刑が起らないようにするためには、死刑そのものを廃止する以外に道はありません。冤罪という視点からも36条は死刑を廃止すべきだと主張しているのです。

[2019/5/18 イライザ]

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2019年5月16日 (木)

死刑制度 (1) ――賛成が85%――

ここ数か月、憲法をあたかも数学書として読む試みを続けてきましたが、その結果が7月頃法政大学出版局から刊行される予定です。

その中で取り上げているトピックの一つが死刑制度なのですが、「数学書として読む」立場からは、憲法が死刑を禁止している、という結論になります。詳細は、7月に出版される小著をお読み頂きたいと思いますが、それまでの間、死刑制度についての背景など考えてみたいと思います。

憲法に明確な規定、例えば「死刑は禁止する」とか「死刑は刑罰として認める」といった明示的な条文があれば、それに従うことになるのですが、そのような明示的な条文はありません。そして、こと死刑のような重大な案件については世論も重要です。そこで我が国の死刑についての世論を見てみましょう。簡単に分るように、グラフで示します。

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これは国が行った世論調査の結果です。青が賛成、赤が反対です。賛成が増え、反対が少なくなっている傾向が分ります。

賛成と反対の理由ですが、「廃止派」と「存置派」の考え方を簡潔に整理したものが法務省のホームページに掲載されています。(「死刑制度のあり方についての勉強会」のとりまとめ報告について)

 

死刑制度の存廃に関する主な論拠

 

1 死刑廃止の立場

① 死刑は,野蛮であり残酷であるから廃止すべきである。

② 死刑の廃止は国際的潮流であるので,我が国においても死刑を廃止すべきである。

③ 死刑は,憲法第36条が絶対的に禁止する「残虐な刑罰」に該当する

④ 死刑は,一度執行すると取り返しがつかないから,裁判に誤判の可能性がある以上,死刑は廃止すべきである。

⑤ 死刑に犯罪を抑止する効果があるか否かは疑わしい。

⑥ 犯人には被害者・遺族に被害弁償をさせ,生涯,罪を償わせるべきである

⑦ どんな凶悪な犯罪者であっても更生の可能性はある

 

2 死刑存置の立場

① 人を殺した者は,自らの生命をもって罪を償うべきである。

② 一定の極悪非道な犯人に対しては死刑を科すべきであるとするのが,国民の一般的な法的確信である。

③ 最高裁判所の判例上,死刑は憲法にも適合する刑罰である。

④ 誤判が許されないことは,死刑以外の刑罰についても同様である

⑤ 死刑制度の威嚇力は犯罪抑止に必要である。

⑥ 被害者・遺族の心情からすれば死刑制度は必要である。

⑦ 凶悪な犯罪者による再犯を防止するために死刑が必要である。

 

次回は国際的な比較をしてみたいと思います。世界の多数の国々では、死刑は廃止されているのです。

[2019/5/16 イライザ]

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2019年5月 7日 (火)

お礼と感謝 ――慣用句の行き過ぎ――

お役人の作る文章は、未だに分り難いものが多いのですが、何故分り難いのかを説明するのさえ難しいくらいです。お役人の多くは頭の良い人が多いようですので、その結果として、私たちには分り難い表現になっているのかもしれません。そして、お役人はまた効率を重んじます。効率の代りに分り易さを選んで貰えないものかと、今回はある一点についての問題提起をしたいと思います。先ずは、明治150年記念式典における安倍内閣総理大臣式辞の中から、気になる部分を引用します。

150

「皆様と共に、我が国が近代国家に向けて歩み出した往時を思い、それを成し遂げた明治の人々に敬意と感謝を表したいと思います。」

ここで気になるのは、「敬意と感謝を表する」という部分です。これまで、ずいぶんたくさんの公的な行事に出席してきましたが、その際に挨拶をする人たちのほとんどがこの表現を使っていました。

確かに、「敬意を表する」とは言います。でも、「感謝を表する」と言うものでしょうか。ちょっと変ですね。でも、最初からこんな言い方ではなく、途中からこう変ったのではないかと推測しています。

つまり、最初は「敬意と謝意を表します」だったのではないのでしょうか。これなら、問題はありません。とは言え、「敬意」と「謝意」を一まとめにしなくても良いような気もしますが--。

でも、「敬意」と「謝意」にはどこかからクレームが出たのではないかと思います。「謝意」にはもう一つ、「謝る」、つまり「謝罪する」という意味があるからです。その意味にこだわる人が、「何で謝らなくてはいけないんだ」と横槍を入れた、というシナリオはあり得ることなのではないかと思います。

その結果、「謝意」と同じ意味を持つ「感謝」を使うことになったのではないでしょうか。

実は、「敬意」と「感謝」が一対の言葉として使われるようになってから、様々な行事では、これまた種々の動詞が使われるようになりました。作文をするお役人たちの中にも、「敬意と感謝を表する」に違和感を持った人がかなりいたということなのだと思います。「敬意と感謝を致します」とか「敬意と感謝を申し上げます」等々です。

そして、最近ではそれが行き着くところまで行ってしまいました。「お礼と感謝を致します」とか、「お礼と感謝を申し上げます」を良く聴くようになったのです。「お礼」と「感謝」は同じ意味ですから、変なのですが、慣用句として定着すれば違和感はなくなるのかもしれません。でも、ここでも最初に指摘した違和感は解消されていません。たとえば、「感謝致します」とは言っても「お礼致します」とは、感謝するという意味では使わないのではないでしょうか。

もう一点、朝見の儀における新天皇の「おことば」では、「敬意と感謝を申し上げます」が使われていました。確かに違和感がありますが、それには意味があるのかもしれないと私は読んでいます。この表現は、お役人言葉なのですが、必ずしも新天皇の好む表現ではないように思われるからです。にもかかわらず、そのまま「おことば」を読まれたのは、朝見の儀が国事行為だからなのではないでしょうか。5月3日の「朝見の儀と憲法」で説明したように、国事行為は、内閣の助言と承認が必要であり、その全責任は内閣が負わなくてはならないからです。違和感のある日本語の使い方にも当然、内閣が責任を持たなくてはならないのです。

[2019/5/7 イライザ]

 

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