高齢者

2018年8月18日 (土)

早朝ウォーキングを楽しんでいます ――今の季節の田圃は絶景です。――


早朝ウォーキングを楽しんでいます

――今の季節の田圃は絶景です。――

 

このところ、少し涼しくなってきましたが、20年近く続けて来た早朝のウォーキングのペースが上っています。そして、都市部とは違った楽しさも加わりました。季節毎に変る田園風景です。特に今の季節の田圃の美しさには言葉もありません。スマホで簡単に写真の取れることに感謝しています。

 

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イノシシ除けの柵が左下に見えます。

 

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向う側のハウスは最近できたものです。農業は盛んですが、人口は減っているようです。

 

Photo

 

稲の実る速度が少しずつ違います。収穫の時期も迫っているようです。

 

元々1時間歩く予定で設定したコースですが、今では50分で歩けるようになりました。それはそれで喜ぶべきことなのですが、もう10分余分に歩くため、どこか「寄り道」的な新たな迂回コースを探しています。

 

[2018/8/17 イライザ]

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2018年8月 8日 (水)

切明千枝子さんの被爆体験 ――午後にはひろば・フィールドワークもありました――

 

切明千枝子さんの被爆体験

――午後にはひろば・フィールドワークもありました――

 

85日午前中に開かれた第8分科会のテーマは、「見て、聞いて、学ぼうヒロシマ」でした。その一環として、参加された皆さんには切明千枝子さんの被爆体験を聞いて頂きました。

 

前回も述べましたが、私の拙い筆ではとても再現不可能な内容だったのですが、それでも、何らかの形で伺ったことを整理しておくことも大切です。今回も箇条書きにまとめて見ました。

 

[切明千枝子さん]

             

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l 1929 (昭和4) 生れで、今年89歳になる。

l 今起きたことでも今忘れるようになってきたが、あの日のこと、戦争のことは忘れられない。それは嫌な思い出だし、早く忘れたいと思っていたので、多くの人に話すことになるとは思ってもみなかった。でも、戦争の記憶を闇から闇に葬ってはいけないと考えるようになった。人間はかつてと同じ道を歩んでしまう傾向があり、それが恐ろしくなった。だから、話さなくてはと思っている。

l 私が生れた1929年は世界恐慌が起きた年で、「大学は出たけれど」という言葉が流行った。仕事がなかったからだ。株券は紙くず同様になり、生活苦から首を括ったり毒を飲んだりする人も多かった時代だ。

l 15歳のときに原爆が投下され、戦争は終ったが、「15年戦争」という言葉が示している戦争の時代を、べったり生きてきた。

l テロとかクーデターということは他所の国のことで、日本は関係ないと思っている人もいるかもしれないが、昭和の初めには、日本でも起きていた。226事件はクーデターで、私が小学校に上る前のことだった。そして、小学2年生の77日に日中戦争が始まった。

l 当時の日本人の多くは、中国人を「チャンコロ」と呼んで馬鹿にし差別していた。韓国も日本に併合されていて、半島人、朝鮮人に対する差別も酷かった。小学生の頃、一クラスに5人ほどの韓国籍の子どもたちがいたので、大人の差別は腑に落ちなかったし分らなかった。でも男子は差別をしていた。それを止められなかった。大人の考え方が段々子どもたちの心に浸み付いたのだろうか。

l 広島には陸軍の基地があった。県庁やそごう、リーガロイヤルホテル等のある広大な地域が基地だった。

l 宇品港は軍港だった。そこから兵隊たちが中国や韓国、南方に出兵して行った。私たちは毎日のように旗を持って、港に兵隊を見送りに行った。人間だけでなく多くの馬も外地に送られていた。遠浅で、御用船と呼ばれていた大きな船は沖に停泊していたので、そこまで艀で行き、兵隊さんたちはそこから船の舷側を登って行った。馬は登ることが出来ないので、クレーで釣り上げられた。そのときに、自分たちの運命を感じたのだろうか、哀れに聞えたいななきが今も耳に残っている。

l 宇品港は原爆では焼けなかった。終戦後そこに復員兵たちが戻ってきた。出征するときは多くの人が見送ったのに、帰って来た時には迎えに行く人が誰もいなかった。私たち学校の同級生何人かで相談して、薬缶を借り、湯飲みを借り、帰って来た人たちにお茶を配った。息も絶え絶え、髭ボウボウで帰って来た人たちを迎えた歌は田端義夫の『かえり船』だった。

l でも生きて帰れた人たちは良かった方で、外地で死んだ兵隊たちも多かった。それも飢えで死んだ兵隊の方が多かった。復員兵たちは、宇品までは何が起きたのかは分らなかったが、一歩、宇品を出ると一面の焼け野原しか目に入らず、茫然自失の状態だった。

l 今平和公園のある地域にあった中島町は歓楽街で、カフェなどもあった。戦争の末期まで続いていた。基地の兵たちが遊びに来るところだった。

l 本川の反対側、舟入町には遊郭があった。西遊郭とも呼ばれ、東遊郭とは格が違って、将校たちが馬で来るところだった。馬丁を務めていた兵は、一度馬を引いて帰り、翌朝、将校を迎えに来ていた。

l 広島はデルタ地域なので米は植えられず、綿が植えられていた。工場も多くあったが、軍関係の工場は、被服廠、兵器廠、そして糧秣廠の三つがあった。「秣」の意味は、馬の飼料。

l 1945年の夏、飛行機からビラが撒かれた。それには、「8月には広島が攻撃されるから、逃げなさい」という予告が書かれていた。差出人は「ツルーマン大統領」と書いてあり、普通は「トルーマン」と書くのに、その違いがおかしかった。ビラは先生に取り上げられて焼かれてしまった。

l 86日にはタバコ工場で働いていた。そして建物の陰に居たので、火傷もしなかった。でも、一二年生は建物疎開に出ていて全滅した。

l 何とか学校まで帰れた生徒もいた。誰もが、腕を前に付き出して、その腕からは昆布のように見えた皮膚が垂れ下がっていた。中には、昆布のようなものを足首から引き摺って歩いてきた生徒もいた。

l これを見た先生は、生徒の皮膚を引き千切って上げていた。生徒は、「先生有難う。これでちゃんと歩けるようになりました」と言った。

l 学校まで辿り着いても薬もない。家庭科で使うための菜種油が残っていたので、それを塗って上げるのが精一杯だった。そして、帰って来た生徒たちは次々と亡くなって行った。

l 夏の暑い時期だったので、荼毘に付さなくてはならない。運動場に穴を掘って、窓枠や机など、燃えるものを集めて下級生を焼いた。140センチくらいの身長の子どもたちだったが、白骨にするのは並大抵のことではなかった。火力が弱くて途中で火が尽きた。船舶隊の人が黒い油のようなものを持って来てくれて、それを掛けてようやく荼毘に付すことが出来た。

l 最後には、綺麗な標本のような骨が残っていた。桜の花の花びらのような色だった。その骨を容器に拾おうとしたが、全部は収めきれない。喉仏と歯だけ拾って、しばらくは校長室に収めておいた。こんな悲しい思いを今の若い人たちにさせてはならない。

l 力を尽して平和を守って行こう。何もしないでいると平和はなくなってしまう。考え、実行しよう。

l そして思い出して下さい。そうすることで、あの子たちは皆さんの心の中に生きることになるからです。あの子たちの分も一緒に生きてやって下さい。

l 戦争が再びやって来ないように声を上げて下さい。

l 戦後の73年間、憲法9条のお陰で、戦争によって日本人は一人も人を殺していない、そして日本人は一人たりとも死んではいない。この状態を続けることが出来れば、亡くなった人たちが、平和の礎になってくれたと思うことが出来る。

l 子どもも、大人も年寄りもそれぞれできることがある。自分のできることで、平和を守って行こう。

 

心を揺さぶられるお話でした。未だにその余韻に浸っています。

 

休憩後は、違った視点から私が核兵器禁止条約から学ぶこと、そして米朝会談の傍観者にならないための提案をさせて頂きました。午後には、いくつかのひろば・フィールドワークがあり、夜には灯篭流しに参加した人も多かったようです。

 

[2018/8/6日 イライザ]

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2018年8月 7日 (火)

お二方の被爆体験 (1) ――桑原千代子さんと切明千枝子さん――

 

お二方の被爆体験 (1)

――桑原千代子さんと切明千枝子さん――

 

原水禁世界大会の開会総会は84日に開かれました。豪雨災害の影響で参加者は少し減りましたが、それでも約2200人が参加して下さいました。全国から広島に来られた方々を改めて歓迎します。

 

               

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開会の挨拶は実行委員会の副委員長で、広島県原水禁の代表委員の一人、佐古正明さん(下の写真)でした。そして大会の基調提案は、大会事務局長の藤本泰成さんでした。

 

 

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毎回この場では、被爆者の方の体験を話して頂くことになっていますが、今年は桑原千代子さんでした。そして、5日の第8分科会「見て、聞いて、学ぼうヒロシマ」では、切明千枝子さんの被爆体験を語って頂きました。お二人とも記憶が鮮明で、当時の様子を伺いながら、涙を禁じ得ない場面ばかりでした。

 

私の拙い筆で、お二方のお話を再現することなど不可能なのですが、でも、何らかの形で伺ったことを整理しておきたいという気持もありますので、箇条書きのようなまとめ方になりますが、以下お読み頂ければ幸いです。

 

またこのお二人の被爆体験だけではなく、他にも多くの被爆者の体験記を、文字・音声・ビデオといったフォーマットで、広島の被団協がまとめています。また、広島市の平和記念資料館にも多くの体験記がありますし、国の施設である国立原爆死没者追悼平和祈念館でも体験記を読んだり聞いたり見たりすることが出来ますので、是非このような施設も活用して下さい。

 

[桑原千代子さん]

 

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l 当時、私は13歳、爆心から800メートルの雑魚場町で建物疎開に従事していた。

l 朝、体調が悪いので建物疎開を休みたいと母に言ったが、母からは「ダメ」と言われ、梅干しが二つ入ったお弁当を持って、防空頭巾を下げ、上は制服、下はモンペを穿いて雑魚場町まで歩いた。家は、そこから3.7キロ離れた宇品にあったので、子どもの足で1時間半掛った。

l 建物疎開はかなり進んでいて、多くの家が倒され、楠が一本立っていた。級友たちの何人も「家に帰りたい」と言い出していた。でも結局、先生には何も言えなかった。

l 空襲警報は鳴っていなかったのに、西から東に飛んでいる飛行機が見えた。敵機か日本の飛行機か分らないまま、友だちと話をしている最中、突然大きな音がして、洞穴の中に吹き飛ばされていた。

l 目を開けると周りは真っ暗で何も見えない。「助けて」と叫んだ。どう這い上がったのか分らぬまま、ふと人の声に気付いたら3人の人影か見えたので、「助けて」と叫んだ。

l 4人一緒に、明るい方向を目指して歩くうちに、鷹野橋に出た。おじいさんが担架の上で、「なんまいだ」と手を合わせているのを見た。兵隊さんが馬の手綱を握ったままの姿で立ったまま亡くなっていて、馬は倒れている場面にも出会った。

l とにかく人が多くいる方に歩いて行こう、と決めて歩いて行く内に、赤ちゃんを負ぶってあやしながら速足で歩いている若いお母さんにあった。思わず、「そのまま歩いていると、赤ちゃんの首が落ちるよ」、とお母さんに伝えた。

l 大橋まで来たときに、兵隊さんに、「この橋は燃えているから渡れない」と言われたのだが、橋を渡れないと宇品に帰れないので、兵隊さんの脇の下を潜り抜けて橋を渡った。

l 家の二階から若い母親が「5歳の子どもが柱の下敷きになっている。助けて下さい」と必死に訴えていた。何もできなかったし、私たちの後ろにいたお爺さんが「何もできないけれど、すぐ救援隊が来るから」と声を掛けていた。

l タカコさんが水を飲みたいと言っていたので、水を探していたら水道管の破裂しているところがあったので、水を飲もうとしたのだが、そのままでは飲めない。飯盒の中蓋を探して来て、ようやく飲ませることが出来た。そこに兵隊さんが来て、容器を取り上げた。「水を飲むと死ぬから飲んじゃだめだ」とのことだった。

l その後、担架でタカコさんを日赤まで運んでくれた。日赤の正面に着いた時には、私たちの一団は、5,6人に増えていた。

l そこから宇品に向って歩いた。途中で倒れている人に、「江田島の人間だから港まで連れて行ってくれ」と頼まれ、足首をつかまれたが、どうすることもできなかった。

l タカコさんの家に辿り着いたが誰もいなかった。それで我が家に帰ったが、時間は夜の7時だった。朝、出掛けてから12時間、家は傾き、窓は破れ家族はいなかった。友達は、それぞれ家に帰ったが、それから73年間、会っていない。

l 水が飲みたくなって、兵隊さんの言葉を思い出したが、それでもバケツに口を付けて飲んだ。とても美味しかった。でもすぐ全部吐き出してしまった。そうするとのどがカラカラになったので、また水を飲んだ、そして吐いた。それを何度か繰り返した。生きて来られたのは、それが、良かったからなのかもしれない。

l 「千代子」と言って母が帰ってきた。自分の怪我の手当てをして貰った後、子どものことを思い出したと言っていた。73歳で亡くなったが、母はずっとそのことで苦しんでいたのに違いない。

l 私の証言が平和を守るための一つの切っ掛けになってくれれば嬉しい。

l 平和は誰かに与えられるものではない。自部で掴み取らなくてはならない。その出発点は、人にやさしくすること、思いやりの気持を持つことだ。

 

桑原さんのお話が十分伝えられないもどかしさを感じつつ、これがきっかけになって、被爆者のビデオや録音を聞いて頂くことになればと願っています。

 

次回は切明千枝子さんです。

 

[2018/8/6日 イライザ]

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2018年8月 5日 (日)

「事件記者」を偲ぶ会 ――「ヤマさん」の没後31年になりました――

 

「事件記者」を偲ぶ会

――「ヤマさん」の没後31年になりました――

 

かつて、「事件記者」と言えば、誰でもNHKの人気番組のことだと分り、警視庁の記者クラブを舞台にしたドラマの中で、どの記者のファンなのかまで、熱く語っていた時代がありました。1958年から1966年まで続いた番組で、視聴率47.1パーセントを記録したこともあったくらい人気があったので、いわば当然な話なのですが、今となっては、「事件記者」を覚えている人も少なくなってきたようです。

 

そのドラマの中で、園井啓介演じる「ヤマさん」のモデルになったのが、当時、毎日新聞の警視庁記者クラブで活躍していた山崎宗次さんでした。長い間毎日新聞の社会部記者として活躍し、後に広告局長としても敏腕を振った人ですが、1987714日、あまりにも早い旅立ちをされてしまいました。

 

私が山崎さんとお会いしたのは1969年の夏でした。初めて月に到着したアポロ11号取材のためにアメリカを訪れていた山崎さんと同僚の清水さんに、ハーバード大学のキャンパスでバッタリ。「ハーバードの卒業式を取材するためにボストンまで来た」という自己紹介から話が盛り上がりました。それが縁で、夏休みの間、毎日新聞の取材班の運転手件通訳兼雑用係として、山崎さんの謦咳に接することになりました。ジョン・グレン氏を追悼して、この件については以前触れています。

 

その時、初めて「山崎塾」のことを伺いました。マスコミ志望の学生たちに文章の書き方やジャーナリストとしての心構えを教える「塾」なのですが、それをボランティアとして主宰されているとのことでした。それから夏休みに日本を訪れたときには必ず塾に顔を出すようになりました。若い塾生の皆さんと一緒に、山崎「塾長」から多くのことを学ばせて頂きました。

 

社会を変える上でのジャーナリストの役割が重要であることは分っていても、それをどう生かすのかが大切です。当時、私は、アメリカに住みながら、広島・長崎の被爆体験や被爆者のメッセージがアメリカにも世界にも十分には伝わっていないことを痛感し、何かしなくてはと思い詰めていました。

 

「そのためには、ジャーナリストの持つ取材力、そして発信力を生かそう」という意気込みで、山崎さんや塾生たち、また原水禁運動の通訳仲間たちとの協力の下、ローカル・ジャーナリスト招請プロジェクト、通称「アキバ・プロジェクト」のアイデアが生まれました。後に、広島国際文化財団が主催し、広島市や長崎市からも応援し貰うことになりましたが、山崎塾を中心に大きく広がっていたネットワークに属するジャーナリストやオピニオン・リーダーたちを動員して全面的に応援してくれたのも、塾長でした。こうした活動を通じて、奥様はじめ、御家族の皆さんとの家族ぐるみでのお付き合いが始まりました。

 

               

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御家族の皆様--写真を持っているのが万里子夫人

 

今年は、その山崎塾長が旅立たれてから31年目の夏でしたが、83日に、山崎塾長を偲ぶ会が開かれました。塾OBOG、そして山崎ネットワークのメンバーたち約100人が参加してくれました。参加者一人一人が、弁の立つ人であり、また言葉を駆使しての仕事をしている人たちですから、塾長を今でも慕う気持の全てを報告することなど不可能です。その中で、第一期生の平本和生、元BS-TBS社長・会長の言葉が、山崎塾の本質を見事に表現してくれました。それは、塾長が抜きん出た人間洞察力を持っていたが故に、塾生一人一人の人間的なポテンシャルと魅力を見抜くことが出来た。その結果、一人一人の塾生と熱い血の通う人間関係を作ってくれたからこそ、塾生の真の力が花開いたのだ、という言葉でした。私も心からそう感じていました。

 

そんな形で山崎塾長の薫陶を受けた塾生たちも、一番若い人たちでさえ、あと数年で定年という時期に差し掛かっています。塾長亡きあとも、多くの塾OBOGたちとのお付き合いは続けてきましたが、今回の偲ぶ会を前に、こうした皆さんがマスコミその他の分野で頑張ってきた「総体」をどう表せば良いのか、考えて見ました。

 

ジャーナリズムその他の世界で確固たる地位を占めるに至った人は勿論ですが、中には、夭折した人もいますし、志半ばで別の道を歩んだ人もいます。妥協しながらも理想の灯を消さないための努力を続けた人も多いでしょう。その人たちも含めて、私が知る限り、山崎塾長の遺志を継いで頑張って来た、塾生たちがいたことで今の日本は随分良くなっていると思えるのです。仮に悪いとしか見えない部分があったとしても、塾のOBOGたちがいたからこそ、この程度で止まるようにブレーキを掛けて来られたのだと思っています。そのことを、天にいる山崎宗次氏に誇りをもって報告したいと思います。それは、山崎氏自身が如何に大きな仕事をしたのか、さらにその遺志が今でも生き続けていることも示しています。

 

山崎塾長の著書を一冊挙げろと言われると、それは躊躇なく『カンカラ作文術』なのですが、ここで「カンカラ」とは、「カンカラコモデケア」の略です。「カンカラコモデケア」とは聞きなれない言葉ですが、「カン」は感動、「カラ」は、カラフル、「コ」は今日性、「モ」は物語性、「デ」 データ、「ケ」は決意、そして「ア」は明るさで、文章を書くとき、これだけの要素が含まれていれば、良い文章になる、という文章術の極意です。

 

披露されたエピソードの中に、この「カンカラコモデケア」についての楽しい話題がありました。かつて、中央競馬会に2008年から2012年まで「カンカラコモデケア」という名前の競走馬が登録されていたそうです。主に東北や北海道で走っていたらしいのですが、生涯の成績は36回出走して3勝、得た賞金は39万円だとのことでした。結果はともかく、「カンカラコモデケア」には、夢を紡ぐ力が備わっているようです。

 

最後に、52歳という年齢で、あれだけの仕事をした山崎塾長には、完全に脱帽する他はないのですが、山崎塾長の三日後には、同じく52歳で石原裕次郎さんが亡くなっています。その二年後には、美空ひばりさんが同じく52歳で亡くなっています。昭和という時代が、実は50代に入るか入らない、あるいはそれ以前の年齢で活躍していた人たちによって創られていたということなのですが、馬齢を重ねるだけしか能のなくなった身として、それでもまだ何か、彼らの遺志を未来につなげるために、山崎塾長から教わった言葉「老驥千里を走る」を引っ張り出して、頑張りたいと思っています。(辞書には「老驥千里を思う」というバージョンが載っています。山崎塾長からは「走る」と教わりましたので、そちらを引用します。)

 

[2018/8/3日 イライザ]

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2018年7月26日 (木)

「防災省」設置案・その3  事前の防災対策・その2

 

「防災省」設置案・その3

事前の防災対策・その2

 

[防災省の仕事内容]を続けます。前回、B)までは《解説》を付けましたが、今回はC)に移ります。その前にC)の内容に付け足しておきたいことがありました。それは、「災害弱者」に対する配慮です。修正後のC)は次の通りです。

 

A) ()

B) ()

C) 災害についての正確なハザードマップを作成・改訂し、危険箇所に住む人々には個別の面接を行い避難の必要性や具体的な避難経路も含めた避難可能な知識を伝達する。避難「命令」が可能になるような法的整備も行い、発令等についても全国的に知見を共有して、避難が遅れることのないようにする。避難訓練も定期的に様々な想定の下行う。また、「災害弱者」も特定し、避難の際に声を掛ける担当者を決めておくなどして避難ネットワークに組み込む。必要があれば、「事前避難」という概念を導入して「災害弱者」の救済に役立てる。こうした努力を通して、「防災意識」の定着を図る。

 

                 

Photo

           

もっと詳しいハザードマップが必要ですが、一例として御覧下さい。

 

《解説》

 ハザードマップの持つ効果は良く知られています。洪水や土砂災害の被害を少なくするため、特に人命が失われないように早目に避難することが大切なのですが、実際に役立っている事例を国土交通省の資料が示しています。

 

 

Photo_2

 

 例えば、1998 (平成10) 8月の阿武隈水害では、ハザードマップを見ていた人たちの方が、ピークで見ると一時間早く避難しています。この差が、被害の多寡に大きく影響する可能性もあります。また、2000 (平成12) 9月の東海豪雨では、甚大な被害があったにもかかわらず、ハザードマップを作成していた多治見市では人的被害がありませんでした。

 広島市でも、1999年の豪雨災害後、土砂災害防止法の施行とともに全市的にハザードマップの作成・普及に力を入れ、自主防災会やコミュニティー協議会等を中心に避難訓練を行いました。中でも安佐南区地区の自主防災会の活動は全国的にもお手本にされる等、レベルの高い内容でした。特筆されるべきことの一つには、子どもたちが自らハザードマップを作ることで内容をしっかり理解できるようになったことがあります。その後、自主防災会の活動も変化してきているようなのですが、良き伝統が守られ続けていることを祈っています。

 ハザードマップは全国的に作られていますが、問題は住民一人一人がそれを見ているかどうか、そして自宅の危険性について認識をし、万一の場合には避難する気持になっているかどうかです。地域毎に説明会を開いたりしている場合もあるようですが、出席率は必ずしも高くありません。説明会で、ハザードマップを見て貰うことで災害の危険性を知って貰う、ということが目的なのですが、ハザードマップを見ていない人には説明会に出席する意味が伝わり難いという悪循環に陥り勝ちだからです。そこで、ある程度の認識が全国的に広まるまで、個別に一軒一軒を担当者、あるいは自主防災会のボランティア等が訪問してハザードマップの説明をして歩く必要があると思います。

 その際、同時に災害弱者の確認も行い、どのようなヘルプが必要なのか、地域のネットワークに組み込まれているかどうか等についても記録し、避難勧告や指示の際にはだれがどう助けるのかの対策も立てておけば一石二鳥です。一例を挙げて追加しておきたいのですが、高齢者の場合、歩行困難な状況になっている方もいらっしゃいます。二階建ての家に住んでいても二階には行けないために、一階部分だけで生活しているケースがかなりあります。いざという時には「共助」の精神の下、近所の誰々が、この家に住む〇野□平さんを避難所まで誘導・引率する、という具体的なレベルでの合意とコミットメントが必要です。

 災害対策では「自助、共助、公助」のバランスが大切だと強調され続けてきました。一億人以上の人口のある国で、全ての災害について、国とか自治体が全ての人のお世話をすることは不可能だからです。「公助」に入るのか「共助」に入るのか良く分りませんが、ここで重要な役割を果しているのが「消防団」です。

 消防署に勤めている正規職員ではなく、自らの仕事の合間を縫って訓練を繰り返し、災害時には重要な任務を担い、正規職員と一体になって、消防活動や災害救助活動に従事している人たちです。中でも、人手の必要な災害時には大いなる役割を果していますが、通常「消防」としてカウントされていますので、脚光を浴びることが少ない存在でもあります。基本的にはボランティアですが、年額数万円の報酬があり、出動の度に数千円の手当があります。正規の消防職員が全国で約16万人いるのに対して、消防団員は85万人いますので、数だけからいっても彼ら/彼女らの重要性はお分り頂けると思います。「防災省」が設置されれば、消防団の存在もさらに重要になりますし、「共助」の部分のあり方も見直されることで、「ボランティア」のあり方と合わせて地域社会の担い手としての新たなアイデンティティーが生れることになると考えています。

 

 [2018/7/25 イライザ]

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コメント

こちらでも自主防災会が中心となり避難を促したため人的被害を免れた住民がいましたし、いくつかの地域で異口同音に聞いたのは「ハザードマップ通りに崩れた」ということで、いずれも重要であることを再確認しました。

ただ、広島市では「法律が変わったため」ということで今回の豪雨時にも南区は土砂災害のハザードマップがなく、4年前の土砂災害の時から市の方には早期の完成を要望していましたが、今回の土砂災害の時には市のホームページにも南区はないまま、県のホームページにあった古いマップもなくなっていました。さらに、今回、現状が大幅に変わったために作り直すということなので、その完成も大幅に遅れそうです。

私は避難指示は自治体のトップ、広島なら市長が自らの責任において顔を出して発令すべきだと思う。NHKのアナウンサーに「命を守る行動をとって下さい」と言われても、抽象的であり意味が分からない。そこは行政が責任をとるべきで、住民が避難をするというリスクも決して小さくはないのだから「早めの避難」を呼びかけるのも無責任で、市長自らが出て避難勧告や避難指示という行政用語ではなく誰にでも分かる言葉で具体的に何をすべきか言うべきである。その上で自主防災会などの役割が重要なことに異論はない。

「工場長」様

コメント有り難う御座いました。

ハザードマップの重要性についての現場からの確認、有難う御座いました。

それと同時に、ハザードマップがあっても、自主避難訓練等の訓練も大切なのですが、以前は行われていたにもかかわらず、取り止めになってしまった地域もあると聞いています。災害に対する姿勢が根本的に変ってしまったのはとても残念です。

今回の豪雨災害を元に、市民の方から行政に対して問題提起をすることで、事態の改善を図れれば良いのですが--。

「武田」様

コメント有り難う御座いました。

市町村長が、直接避難を呼びかけることには大賛成です。それと同時に、「事前」の対策として、必要なら戸別訪問をすることで、また、自主防災会などが中心になって避難訓練をすることなどを通して、私たち一人一人がどの段階での「避難」をすべきなのかを理解した上で、自ら動ける準備をしておくことも大切だと思います。

2018年7月16日 (月)

土砂災害防止法と予算 ――豪雨災害からの教訓 (7)――


土砂災害防止法と予算

――豪雨災害からの教訓 (7)――

 

1999629日に広島地方を襲った豪雨災害の惨状を検証した結果、今後、同じような被害を繰り返さないようにという趣旨で土砂災害防止法として知られる法律が翌2000年に作られました。立法措置としてはかなり迅速に対応が行われた例ではないかと思います。

 

その概要ですが、次のようにまとめておきたいと思います。

 

この法律では、土砂災害を次の三つに分類しています。

 

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国土交通省のホームページから (以下同様)

黄色で示してあるところが「警戒区域」、赤が「特別警戒区域」です。

 

急傾斜地の崩壊、地滑り、そして土石流です。国ならびに地方自治体は、これら三種類の危険のある地域について調査を行い、危険地帯の中でも深刻なケースについては次の二つの要警戒地域として指定するというのが、第一の段階です。二つとは、「土砂災害警戒区域」  (以下、警戒区域) と「土砂災害特別警戒区域」 (以下、特別警戒区域) です。

 

前者の指定をされた地域では、災害発生時に迅速に避難できるような体制を整備することが義務付けられています。つまり、「警戒区域」に指定された地域に住んでいる人たちにその事実を周知し、災害発生時の避難準備を日頃から心掛け、その結果として、いざという時には避難勧告や避難指示に従い、被害が最小限で済むようにする、ということが目的です。簡単にまとめると、「警戒区域」は、ソフト的な概念である避難に焦点を合せた考え方で、避難によって被害の軽減を図るために指定する、という意味があります。

 

「警戒区域」の周知はハザードマップによって行われています。ネット上のハザードマップを拡大して見ないと、特に「警戒区域」とそうでない区域の境界周辺では分り難いので、ネット情報を御覧になることをお勧めします。ちなみに我が家は、ギリギリのところで「警戒区域」から外れています。

 

それに対して、「特別警戒区域」は、「警戒区域」の中でも特に危険度が高い地域において、ハードに焦点を合せて事前に被害を少なくしようという目的を持っています。

 

つまり、この地域には新たに住居を建てる際には特別の規制があって、①土砂災害に対して一定の強度を持つ建物しか建築できないのです。②また、既にこの区域に建てられている建築物で、十分な強度を持たないものについては、強度を上げるような改修を行う、あるいは、その建物は諦めて、安全な地域に新たに建物を建築するといった対応を行うよう、行政が勧奨しそのための経済的・制度的な支援を行う、というものです。

 

 については、建築費用が区域外の場合より高くなるかもしれませんが、安全性のための投資ですから、それなりに納得して貰えるのではないと思います。

 

問題は②の場合です。現在の住宅の除却 (取り壊してゴミとして処理する) そして新たな住宅の新築にはかなりのお金が掛ります。しかも「特別警戒区域」外に住んでいれば全く必要のない支出なのですし、特に高齢者の場合、それだけの貯えのない人がほとんどだと思います。となると、行政からの「支援」のあるなしで、この施策の現実性が決ってくることになります。

 

では実際、いくらくらいの補助金が出るのか、広島市の場合を見てみましょう。

 

(a) 改修の場合――改修金額の23%までで、補助限度額は759,000円です。

(b) 今住んでいる住宅を除却し、安全な地域に新築する場合――除却費用としては、上限802,000円まで、そして新築の際には、建設費または購入費に充てる借入金の利子相当額に補助がでますが、通常は建物に対しては上限が319万円、土地に対しては96万円です。

 

結局、危険な区域に住んでいる人が借金をして危険でない場所に移住するという制度です。特に高齢者の場合、生きている内に借金を返せるかどうかという問題もあり、支援が基本的には利子だけにしかない、という制度ではほとんど使えないという結果になっています。

 

さらに、「長く住み続けてきた家からいまさら離れることは心理的にも難しい。万一の場合には、住み慣れた今の家で最期を迎える覚悟で住み続ける」とハッキリおっしゃった方もいました。

 

この補助金の利用者数等、具体的な数字を持ち合わせていませんし、担当部署に問い合わせるなどということは、一番忙しく重要な仕事をしている方々に、今の時期とてもお願いできることではありません。国土交通省の統計で、この法律・制度だけではなく、国が直接整備をした箇所も含めて、急傾斜地で危険な個所数とその中で整備が行われた箇所の割合を見ることで、全体的な傾向を推測してみましょう。

 

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ここで重要なのは、H9年、つまり1997年の広島の豪雨災害前、ということは土砂災害防止法施行以前と、H14年、つまり2002年、施行後2年経ってからの比較です。

 

1997年には、整備箇所は危険箇所の19.8%だったのですが、2002年には18.1%と比率で言えば整備がある意味では後退していることを示しています。新たな開発地などが増えたことと、土砂災害防止法に依って詳細な調査が進み、危険箇所は31%増えたことが大きいのかもしれませんが、それだけ危険なところに市民が住んでいる実態が分った訳ですから、政府としては、この時点で抜本的な土砂災害対策に乗り出すべきだったのではないでしょうか。

 

残念ながら、「抜本的な」見直しは行われず、予算措置も一向に進まず、不必要な軍事費や海外への大盤振る舞いだけは増え、市民生活を危険から解放するという、ごく当り前の、つまり「普通」の施策には至らなかった結果は前回お伝えした通りですし、また新たな情報をコメントとしても頂きました。

 

さて、どうすれば良いのか、答が自衛隊の改組であることは既にお知らせしていますが、こんなに素晴らしいアイデアを考え付いたのは、当然私が初めてではありません。これまでの提案も復習しながら考えて見たいと思います。

 

[2018/7/15 イライザ]

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コメント

 土砂災害危険区域に該当する地域の高齢者の場合は、老人ホームなど介護サービスを利用できるほどの介護度は無い、さりとて、日常生活に不便を感じておられる場合は多いと思います。マイホームの移転よりも、県や市で、安全な場所(なおかつ生活にそこそこ便利)の空き家を賃貸住宅で斡旋するのが良いかと思います。住宅セーフティネット法もできてはいるが、現実には、民間は高齢者に貸さない。となると、安全な場所の空き家を借り上げて公営住宅にする方式が落としどころだと思います。街頭演説等でもわたしは時々指摘しているのですが、さらに踏み込めば、日本の賃貸住宅政策の貧困(と裏腹の過剰なマイホーム主義)もこの問題の根本にあると思います。

「hiroseto」様

コメント有り難う御座いました。

御指摘のように、「マスホーム主義」に疑問を持たず、苦労して一戸建ての「我が家」を建てたのに、災害のために賃貸に移る、とスイッチを切り替えられる人は少数でしょう。

でも、その選択肢もあるのだという事実はきちんと提示し続ける必要があると思います。

すべての災害から、身だけでなく住居も守るのは無理があると思います。
たとえ、法に従って改築等をしても万全になるという保証はありえないでしょうね。
まずは、命を守る、そして災害によって被災したら、生活をもとに戻すために個人として必要となるお金がどれくらい少なくできるかが需要だと思います。
災害の危険地域に住宅を建設するときには、融資する方にもリスクを課せるべきですね。

「やんじ」様

コメント有り難う御座いました。

土砂災害救助法の目的はあくまでも人命救助です。助からないところに住む危険を減少する上で、住居の移転というラディカルな代替案を提示してまで、危険度を晒せるという側面もあります。そして、「setohiro」さんが指摘してくれたように、マイホーム主義をある意味変えられない、という制限の元に少しでも、事態を改善するのが目的です。

2018年6月15日 (金)

都府楼跡と観世音寺 ――博多の同窓会の二日目(1)――


都府楼跡と観世音寺

――博多の同窓会の二日目(1)――

 

博多での同窓会の二日目は、大宰府に足を延ばしました。菅原道真の天満宮はMUSTですが、その前に、Y君が強く勧めてくれたのが、都府楼跡と観世音寺です。

 

都府楼とは、当時の太宰府の政庁のことですが、今は広い野原になっています。当時の礎石のレプリカがあるのだそうですが、そこまでは行かず、野原を前に、Y君とH君の古代史についての蘊蓄に耳を傾けました。

 

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神功皇后時代の日本と百済の関係について、それぞれ豊かな知識を披露してくれたのですが、何しろ私自身の知識が付いて行きません。参考書はと聞いたところ、H君からは古田武彦氏の古代史についての一連の著作が面白いとのことでした。何冊かを読んだ上で、さらに、報告したいと思います。あるいは、H君あるいはY君に「初歩の古代史」を短く書いて貰うのも一つの可能性かもしれません。お願いしてみたいと思います。

 

次に訪れたのは、西戒壇です。どんなところなのかについての説明版を御覧下さい。

 

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戒壇院とも呼ばれ、僧尼として守るべき戒を受ける場所で、それなしには正式の総尼とは認められなかったのだそうです。鑑真によって開山されました。その山門です。前に立っているのがH君とY君です。ここには戒壇院と書かれた門札が掛っています。

 

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そして本尊の盧舎那仏です。お寺としては、江戸時代に観世音寺を離れていて現在は禅宗に属しているそうです。

 

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その後に隣の観世音寺を拝観するのが順序だろうとは思いますが、Y君の先導で、観世音寺の梵鐘(国宝)に見入りました。京都の妙心寺の梵鐘と兄弟の関係にあり、7世紀末に造られた日本最古の梵鐘として知られています。

 

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その隣にある観世音寺の宝蔵には一見の価値あり、というY君のガイドで、宝蔵でもゆっくり時間を過しました。中での写真は禁止されていますので、宝蔵の概観と、収蔵された仏像いくつかの写真を載せたポスターをここでは紹介します。

 

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多くの人の背中越しではあっても、ルーブル美術館のモナリザや、著名な仏像を自分の目で見ることは大切だと思いますが、観世音寺のように、人波に揉まれることなく、ゆっくりと古代の仏像の前に佇む時間も貴重でした。

 

年齢のせいもあるとは思いますが、若かった頃は、ずいぶん昔の時代に属している仏様という感じで今の時代との関連が実感としては捉えられなかったのですが、今、こうして目の前にある馬頭観音や千手観音、地蔵菩薩や阿弥陀如来坐像と面と向うとき、当時の人々の息吹まで感じることができるようになりました。観世音寺は、ずっと記憶に残るはずです。

 

そしてつぎに向ったのが天満宮です。

 

[2018/6/14 イライザ]

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2018年6月14日 (木)

博多での同窓会 ――半日ゆっくり楽しみました――


博多での同窓会

――半日ゆっくり楽しみました――

 

高校時代一緒にアメリカに留学した仲間4人で、同窓会、ミニ・リユニオンを開きました。一番忙しいY君の住んでいる福岡に、横浜、名古屋、広島から駆け付けたのですが、とても楽しかった一日目の報告です。長い入院生活に耐えて退院したむH君の全快祝いが目的の一つでしたが、元気になったH君の姿に一同大安心しました。いつもの幹事役Wさん、そして今回は地元の幹事・案内役のY君にも大感謝です。

 

ホテルに集合してまずは、お茶を飲んで長旅の3人の疲れを癒し、最初に訪れたのは櫛田神社です。

 

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お目当ては、祇園祭に市内を練り歩く山笠を見ることだったのですが、一年の内、改装のために15日間だけ見られない日の一日に当って、骨組みだけしか見られませんでした。でも貴重な画像ですので、御覧頂ければ幸いです。

 

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その後、中洲を歩いて福博出会い橋の近くの、旧福岡県の公会堂・貴賓館で満潮になるまで待って、リバークルーズ船に乗り、那珂川から福岡と博多湾を堪能しました。

 

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博多湾には、中国の巨大客船が停泊していました。数日前に広島に寄港していた船かもしれません。

 

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夜は、美味しい水炊きで満腹になり、その後、カラオケで昔懐かしい寮歌や校歌の復習をして、明日は大宰府の予定です。

 

[2018/6/12 イライザ]

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2018年6月 4日 (月)

ラブリーシンガーズフレンド ――サマーフェスティバル’18に参加しました――


ラブリーシンガーズフレンド

――サマーフェスティバル’18に参加しました――

 

「ラブリーシンガーズフレンド」とは、歌と踊りの研鑽を続ける方々と、指導者の皆さん、プロの歌手や舞踏家の皆さんが集われている会ですが、中心になってこの会を主宰されているのは青野治子先生です。

 

この会の「サマーフェスティバル’18」が、ここ数年恒例の会場であるアステールプラザ中ホールで開かれました。今年で31回目になる伝統ある催しです。

 

青野先生とサマーフェスティバルの実行委員長である松本喜展さんからのお声掛りで、毎年、ゲスト参加させて頂いています。

 

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来賓として挨拶をさせて頂きましたが、やはり昨今の嘘に嘘を重ねる安倍政権が頭を離れず、言わずもがなかとは思いましたが、次のような趣旨の言葉でこの会の大切さを強調しました。

 

嘘が横行し、社会全体が歪んでしまっているような時代ですが、それに対して歌を愛する私たちのできることは、歌詞と曲とを大切にしつつ歌の美しさを通して、言葉によって真実を語る風潮を強く出来るのではないでしょうか。その真実を基本にして人間の未来を考えるときに、より良き社会像が浮かび上がってくることを信じています。

 

司会を務めて下さった、三原みず江さん西孝恵さんにも、様々な会でお手伝い頂いてきましたが、今回は三原さんのインタビューも交えて、『蘇州夜曲』とウェスト・サイド・ストーリーから『Tonight』を歌わせて頂きました。

 

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青野先生は、私より少しお年を召していらっしゃるのだと思いますが、先生の名唱には完全に脱帽です。力強く、特に表現力では素晴らしいお手本を聴かせて頂きましたし、バックのダンスもとてもお洒落でした。

 

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実行委員長・松本さんの歌も、年を重ねてますます円熟味を加えて来たように思います。「熱唱」という言葉が相応しいかもしれません。100人ほどの出演者の皆さんの歌や踊りにも魅了されましたが、その他にも、衣装の大切さ、中でも靴の意味などについてもとても勉強になる機会でした。皆さんお元気でこれからもこの会を続けることで、広島の音楽文化、そして平和を支えて行って下さい。

 

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[2018/6/3 イライザ]

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コメント

〈 またもアンコ椿 〉
♪蘇州夜曲♪ → ♡♡♡
次回→♪この素晴らしき世界 What A Wonderful World♪はいかが。
落合恵子さんが『一冊の本』6月号で、
...この季節になると、繰り返し聴きたくなる歌...
...この歌に*彼は反戦のメッセージをこめたという記事をどこかで読んだことが...
と『グッドモーニング・ベトナム』1987でこの曲が使われたことにも触れておられる。

映画はたいして面白くもなかったが、
青々とした水田が映り、そこにこの曲が流れる。
このシーンには涙が出た。
: コメを作ってつつましく生活しているアジアの小国に、
遥か遠くの大国が大量の兵器を持って殺しに来る :
を、何分かの曲で訴える。

日曜夜BS-TBS 9時「週刊報道LIFE」👏 10時「外国人記者は見た」もなかなか。
openingにこの曲がちょっと流れ、番組の終わりに曲のendingも流れる。
*Louis Armstrongでない誰ぞがアップテンポで歌っている。
最後の oh,yeah~(←ですよね)まできちんと。これが素晴らし。

「されど映画」様

コメント有り難う御座いました。

What a Wonderful World!は良いですね。練習しておきたいと思います。

同名の曲で、Sam Cookeが1960年に歌っとヒットした軽快な曲もあります。高校生の歌ですが、「三角関数は分らないけれど、あなたを愛していることは良く分っている」というように趣旨の歌詞が高校生にアピールしたのだと思います。

2018年5月27日 (日)

ドイツリートの夕べ ――岡野泰子先生の下に集う皆さんによる好演でした――


ドイツリートの夕べ

――岡野泰子先生の下に集う皆さんによる好演でした――

 

526日の午後、廿日市市のさくらぴあ小ホールで、第26回、広島ドイツリート協会の皆さんによる、ドイツリートの夕べが開催されました。声楽家の岡野泰子先生の門下生を中心にした、ドイツリートをこよなく愛する皆さんの集団です。

 

独唱をされたのは11人。最後には岡野先生の「夜曲」 (シューベルト) が圧巻でしたが、その他の10人の皆さんの歌唱からも、ドイツリートの素晴らしさと、天地の間に存在する人間の思いが切々と伝わってきました。

 

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クラリネットの翁優子さん、ビアノの小嶋素子先生と小川百合子さん

 

ピアノ独奏は三島良子さんによるモーツァルトのアダージョ (K.540) が、全体の真ん中に位置付けられていたことで、全体を俯瞰するポイントになりました。ピアノで強調しておきたいのは、伴奏をされた方々のレベルの高さです。萩原麻未さんを育てた小嶋素子先生をはじめ、これだけのピアニストに伴奏をして歌える機会に恵まれた歌手の皆さんは幸せだなぁと思いました。

 

合唱は、四つのグループに分かれて、最初にヒロシマドイツリート協会合唱団初級部、中頃にコール・ウィスタリアと広島ドイツリート協会合唱団混声部、そして最後に、広島ドイツリート協会合唱団女性部という構成でした。

 

女性部は2005年の「85 慰霊の夕べコンサート」のマタイ受難曲の全曲演奏に当って、市民合唱団の中核としてこのコンサートの成功に大きく貢献したことでも知られています。もちろん、その時の合唱の指導は岡野先生でした。

 

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岡野先生指揮するコール・ウィスタリア

 

今回のコンサートの出演者の皆さんのバックグラウンドも興味深いのですが、もちろん皆さん音楽、そして歌うことの好きなかたばかりなのですが、大学で声楽を専攻した方々の他にも、「第九ひろしま」への参加が切っ掛けになった方、ドイツ語と歌が好きで、自然にドイツリートへの道が開けてきた方、経済を勉強しながら音楽との二足の草鞋を選ばれた唯一の男性である寺島巨史さんなど、志の高さ、そして進境の著しさに敬意を抱かざるを得ません。

 

そんな皆さんをより高い音楽性へと導いているのが今年76歳になられた岡野先生ですが、私も僭越ながら御指導頂いた経験から、門下生の皆さんが研鑽を積む上での目標であり、そして「師」という言葉の相応しい存在であることを改めて実感しました。

 

次回にも、さらなる境地に達していらっしゃるであろう皆さんの、今まで以上の精進に期待しています。

 

[2018/5/26 イライザ]

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