歴史

2018年8月15日 (水)

終戦記念日 ――全ての戦争を終らせる日――

終戦記念日

――全ての戦争を終らせる日――

 

「八月は6915日」という川柳っぽい五・七・五の表現があります。それにお盆もあるのですから、人間の生死、そして戦争と平和に思いを馳せ、先人たちの経験を追体験しその意味を考える月だと言って良いでしょう。

 

そして、このブログは、6日と9日に焦点を合せて一年を通して色々考え行動する場ですので、今日は815日を取り上げてみましょう。先ず名称は「終戦記念日」です。「敗戦記念日」と言う人もいるようですが、戦争の始るのが「開戦」それと対になって終るのが「終戦」という表現です。

 

それに、「敗戦」という言葉の背景には戦争をした相手の存在がなくてはなりません。戦争という文脈を毎年持ち出して、「敵国」に「負けた」という点を強調するよりは、共に、戦争を止めてその後は平和な協力関係を作って来たという点を強調する方が未来志向だと思うのですが、如何でしょうか。それに、「敗戦」ですぐ頭に浮ぶのが野球の「敗戦投手」です。でもその場合、「次は勝って欲しい。勝利投手になって欲しい」という気持が強くあります。それと重なって、「戦争」という枠組みで「敵国」との関係を限定してしまうことにならないとも限りません。

 

「全ての戦争を終らせる」という考え方は、昨日今日始ったことではありません。1914年に始まった第一次世界大戦は、「War to end all wars」、つまり「全ての戦争を終らせる戦争」と呼ばれました。『透明人間』や『宇宙戦争』等で有名なH.G.ウェルズやアメリカのウッドロー・ウイルソン大統領がこの考え方を広めた結果、第一次世界大戦後の講和条約締結の際の基本的な土台となり、世界平和を推進する組織として、1920年に国際連盟ができることにもつながりました。

 

Woodrow_wilson

ウイルソン大統領

 

残念なことに、その後第二次世界大戦が起きましたので、第一次世界大戦を「全ての戦争を終らせる戦争」にはできませんでしたが、国際連盟の発展型として国際連合が生れ、ヨーロッパの緊張関係はEUという平和的な発展型に変質し、日本では終戦を機に平和憲法によって世界平和を推進する国家たらんとする決意が生れたのですから、長い目で見ると、時期はずれていますが、ウェルズやウイルソンの目指した方向に世界は動いてきたと言って良いのかもしれません。

 

戦後73年間、日本にとって「終戦記念日」は、「戦争を終らせた戦争」であり続けていますが、それを世界に広めて、日本という国の努力によって「全ての戦争を終わらせる」という目標が達成できるよう、私たちが新たな決意をする日でもあることを最後に指摘しておきたいと思います。

 

[2018/8/13 イライザ]

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コメント

ノー、ノー。理想としてはそうであろうけど、それでは、
未だきちっと総括も何もしていないこの国にあっては、
加害者の面が隠されてしまい、見えなくなってしまい、
免罪符とさえなってしまう。
それよりも、8/15というと皇居前で平伏する人々の
映像が→誰もが当日のものと思ってしまう→fakeだってば!
これが何より腹立たしい。

訂正訂正。「映像」ではなく「写真」でしたね。失礼しました。

「硬い心」様

コメント有り難う御座いました。

「日本という国の努力」の中には、これまで不十分な事しかしてこなかった面でも努力をするという意味を込めた積りなのですが---。

それと、嘘八百の「大本営発表」しか公にされなかった時代です。しかも、正式の「降伏」は、ミズーリ号上で調印の行われた9月2日ですから、8月15日の報道だけが例外ということはないでしょう。

終戦祈念日ですね。

「ふぃーゆパパ」様

コメント有り難う御座いました。

「祈念日」を「既念日」にするよう、頑張りたいですね。

2018年8月11日 (土)

被爆73周年原水爆禁止世界大会・長崎大会のまとめ ――核を巡る「現在」がコンパクトに分ります――

 

被爆73周年原水爆禁止世界大会・長崎大会のまとめ

――核を巡る「現在」がコンパクトに分ります――

 

被爆73周年原水爆禁止世界大会・長崎大会が、9日に終りました。これで今年の世界大会の全日程が終ったのですが、最後に長崎大会のまとめをアップしておきます。核を巡る「今」という時の姿がコンパクトにまとめられているだけでなく、これからの活動を支えるエネルギーを生み出す力を伴っての報告です。

 

               

Photo

             

 

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被爆73周年原水禁世界大会・長崎大会 まとめ

 

原水爆禁止世界大会実行委員会

事務局長 藤本泰成

 

728日、福島大会で始まった原水禁世界大会は、広島大会に続いて本日の長崎大会閉会総会と非核平和行進で幕を閉じます。記録的な猛暑の中で、開会総会から、分科会、閉会総会と、足を運んで様々議論いただいたことに、心から感謝を申し上げます。

 

また、大会を通じて開催にご尽力いただきました大会実行委員会の皆さま、そして中央団体、各県運動組織の皆さまに、心から感謝を申し上げます。若干の時間を頂戴して、集会のまとめをさせていただきます。

 

東京電力が、福島第二原発の廃炉を決定しました。しかし、本集会での様々な報告を聞いていると、事故を起こした福島第一原発サイト内においても、そしてサイトの外の世界においても、事故そのものと、事故の被害を含めた社会的影響は、全く終わっていないことが分かります。開会総会での福島県平和フォーラム事務局長湯野川守さんの報告や福島告訴団団長の武藤類子さんの報告から、福島第一原発の「事故の収束」と言うにはほど遠い実態が分かります。あふれ出る放射能汚染水、行方が分からない溶融燃料、拡散し続ける放射性物質、原子力資料情報室の澤井正子さんが言うように「原子力緊急事態発令中」という状態が、2011311日以来続いているのです。

 

2200万個とも言う、黒いグロテスクなフレコンバッグの山と暮らす毎日、公園、校庭、家の庭、仮置き場には、放射性物質を含んだゴミが埋められています。中間貯蔵施設には、その数%しか運ばれていないと言います。支援の打ち切りと帰還の強制は、一体となって行われています。自主避難だと言われ、住宅の無償提供も打ち切られた区域外の避難者の生活は困窮しています。全体で15%少しと言われる帰還した人々も、孤立化しているのが現状です。

 

福島では、設置されてきた3000台の放射能を測定するモニタリングポストも、2400台が撤去されると言います。目に見えない放射能、モニタリングポストは、風評被害を広げるのでしょうか、復興の妨げなのでしょうか。12市町村から継続配置を求められています。新聞社のアンケートでも、約半数が設置継続に賛成、反対は4分の1に過ぎません。

被害者の側にたった施策の充実を、補償と支援を勝ち取らなくてはなりません。

 

チェルノブイリ原発事故被害者のジャンナ・フィロメンコさんの報告から、核被害の共通点が浮かんできます。事故を知らされずに暮らしていた。一時避難のつもりで身の回りの者だけもって家を出たが、永遠に帰れなくなった。移住した子どもたちが「チェルノブイリのハリネズミ」などと呼ばれ差別に苦しむ。子どもたちが、がんや心臓疾患などの健康被害に苦しめられる。

 

フクシマと同じ被害の実態が明らかになっています。原水禁は、世界中の核被害者と連帯してきました。米国やオーストラリアで、少数民族の居住地で、乱暴なウラン採掘が行われ、放射性物質による被害が広がっている実態があります。日本の原発も、経済発展から取り残される地域に「飴と鞭」の政策で押しつけられてきました。チェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西の振津かつみさんの報告にある、核利用が社会的抑圧、差別、搾取の構造の上に立つという指摘と、核の開発と利用は、核の被害なしにあり得ないと言う指摘、私たちはもう一度しっかりと胸に刻まなくてはなりません。世界の被爆者と連帯し、その運動を学び合い、様々な視点からとりくみをつくり出そうではありませんか。

 

原水禁運動の原点は、被爆の実相です。そのことを起点に、国家補償に基づいて「被爆者援護法」を求めて来たヒロシマ・ナガサキの被爆者の、長きにわたるとりくみを、現在のフクシマに活かさなくてはなりません。チェルノブイリのとりくみと被害者救済のためのチェルノブイリ法に学び、私たちの運動をつくりあげていきましょう。

 

5次のエネルギー基本計画が出ました。全くでたらめの計画です。「電力自由化で競争が増していく中で、コストが膨張する原子力発電は、民間ビジネスとしては無理だろう」原子力資料情報室の西尾爆さんの報告で、廃炉の時代を迎えた現状と政策転換の重要性が示されました。2030年代に原発の電力が2224%は、あり得ない数字なのです。長崎大会の運営委員会の席上で、「自然エネルギーへの転換のために消費者の選択が大切」との意見をいただきました。自然エネルギー発電の割合の多寡を見極め、新電力・地域電力の選択を私たちの側から求めていくことが、「脱原発社会」の実現に重要です。

 

ドイツからのゲスト、緑の党のべーベル・ヘーンさんの、脱原発を選択したドイツからの報告はきわめて重要です。ドイツは段階的に原発を廃止し、202212月には全てが閉鎖される予定だということです。ドイツの自然エネルギー比率は、2017年現在で38.5%にまで延びています。脱原発の選択が、自然エネルギーの進捗を後押ししていることが分かります。「フクシマがドイツを変えた」と述べられました。私たちは、ドイツのとりくみに学びながらも「ドイツが日本を変えた」と言われるのは恥ではないでしょうか。私たちは、自らの手でエネルギー転換を図らなくてはなりません。

 

核兵器禁止条約そしてトランプ政権の「核態勢の見直し」への日本政府の姿勢も、大会全体を通じて議論されました。被爆者の思いを踏みにじり、核兵器廃絶へ後ろ向きの姿勢が明らかになっています。米国の核抑止力に頼りながら、自らもプルトニウムを保有し「潜在的核兵器保有国」であろうとする日本は、戦争被爆国としての核兵器廃絶へのリーダーシップを取ることができません。核兵器禁止条約への批准を政府に求めていく運動が大切です。

 

憂慮する科学者同盟のグレゴリー・カラキーさんは、米国の資料から、核戦力の充実と拡大抑止、日本への核兵器の再配備さえ求める姿勢を明らかにしました。日本政府は、朝鮮半島の非核化をめぐる南北首脳会談、米朝首脳会談にたいして、全くコミットすることができずにいます。今こそ、私たちが求めて来た「東北アジア非核地帯構想」を実現しなくてはなりません。朝鮮戦争の終結、国交正常化を経て、「東北アジア非核地帯条約」締結への道を歩もうではありませんか。日本政府に、朝鮮民主主義人民共和国との早期の国交正常化を求めていきます。

 

今年、26日、98歳で俳人の金子兜太さんが亡くなりました。金子さんは、2015年から東京新聞の「平和の俳句」の選者を務めました。201511日、最初の句は、

 

  「平和とは 一日の飯 初日の出」

 

愛知県の18歳、浅井さんの句で、金子さんの評は、「浅井君は、毎日ご飯に感謝し、その毎日の平和を守る覚悟だ」と言うものでした。

 

金子兜太さんは、海軍主計中尉としてトラック島に赴任し、餓死者が相次ぐ中、捕虜生活も経験しながら奇跡的に生還しました。その金子さんが1961年に長崎で詠んだ句があります。

 

  「彎曲し 火傷し 爆心地のマラソン」

 

金子さんは、爆心地への坂道を上るランナーを見て、「人間の身体がぐにゃりと曲がり、焼けて崩れていく映像」が、自身の目に浮かんだと述べています。原爆の悲劇を、14の文字の中に、はっきりと映し出しています。

 

2015年、戦争法反対の運動の盛り上がりの中で、金子兜太さんは「アベ政治を許さない」とのメッセージを揮毫しました。「集団的自衛権の名の下で、日本が戦争に巻き込まれる危険性が高まっています。海外派兵されれば、自衛隊に戦死者が出るでしょう。政治家はもちろん、自衛隊の幹部たちはどのように考えているのでしょうか。かつての敗軍の指揮官の一人として、それを問いたい」と述べています。「アベ政治を許さない」の中に、戦前と戦後を生き抜いた金子兜太さんの、確固たる信念が見えます。決して、私たちは戦争という愚行を繰り返してはなりません。どのような理由があろうとも繰り返してはなりません。それは、86日の広島が、89日の長崎が、私たちに教えています。

 

被爆73周年原水禁世界大会の終わりにあたって、みなさんとともに確認したいと思います。

 

 

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[2018/8/10日 イライザ]

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2018年8月 8日 (水)

切明千枝子さんの被爆体験 ――午後にはひろば・フィールドワークもありました――

 

切明千枝子さんの被爆体験

――午後にはひろば・フィールドワークもありました――

 

85日午前中に開かれた第8分科会のテーマは、「見て、聞いて、学ぼうヒロシマ」でした。その一環として、参加された皆さんには切明千枝子さんの被爆体験を聞いて頂きました。

 

前回も述べましたが、私の拙い筆ではとても再現不可能な内容だったのですが、それでも、何らかの形で伺ったことを整理しておくことも大切です。今回も箇条書きにまとめて見ました。

 

[切明千枝子さん]

             

Photo_4

               

 

l 1929 (昭和4) 生れで、今年89歳になる。

l 今起きたことでも今忘れるようになってきたが、あの日のこと、戦争のことは忘れられない。それは嫌な思い出だし、早く忘れたいと思っていたので、多くの人に話すことになるとは思ってもみなかった。でも、戦争の記憶を闇から闇に葬ってはいけないと考えるようになった。人間はかつてと同じ道を歩んでしまう傾向があり、それが恐ろしくなった。だから、話さなくてはと思っている。

l 私が生れた1929年は世界恐慌が起きた年で、「大学は出たけれど」という言葉が流行った。仕事がなかったからだ。株券は紙くず同様になり、生活苦から首を括ったり毒を飲んだりする人も多かった時代だ。

l 15歳のときに原爆が投下され、戦争は終ったが、「15年戦争」という言葉が示している戦争の時代を、べったり生きてきた。

l テロとかクーデターということは他所の国のことで、日本は関係ないと思っている人もいるかもしれないが、昭和の初めには、日本でも起きていた。226事件はクーデターで、私が小学校に上る前のことだった。そして、小学2年生の77日に日中戦争が始まった。

l 当時の日本人の多くは、中国人を「チャンコロ」と呼んで馬鹿にし差別していた。韓国も日本に併合されていて、半島人、朝鮮人に対する差別も酷かった。小学生の頃、一クラスに5人ほどの韓国籍の子どもたちがいたので、大人の差別は腑に落ちなかったし分らなかった。でも男子は差別をしていた。それを止められなかった。大人の考え方が段々子どもたちの心に浸み付いたのだろうか。

l 広島には陸軍の基地があった。県庁やそごう、リーガロイヤルホテル等のある広大な地域が基地だった。

l 宇品港は軍港だった。そこから兵隊たちが中国や韓国、南方に出兵して行った。私たちは毎日のように旗を持って、港に兵隊を見送りに行った。人間だけでなく多くの馬も外地に送られていた。遠浅で、御用船と呼ばれていた大きな船は沖に停泊していたので、そこまで艀で行き、兵隊さんたちはそこから船の舷側を登って行った。馬は登ることが出来ないので、クレーで釣り上げられた。そのときに、自分たちの運命を感じたのだろうか、哀れに聞えたいななきが今も耳に残っている。

l 宇品港は原爆では焼けなかった。終戦後そこに復員兵たちが戻ってきた。出征するときは多くの人が見送ったのに、帰って来た時には迎えに行く人が誰もいなかった。私たち学校の同級生何人かで相談して、薬缶を借り、湯飲みを借り、帰って来た人たちにお茶を配った。息も絶え絶え、髭ボウボウで帰って来た人たちを迎えた歌は田端義夫の『かえり船』だった。

l でも生きて帰れた人たちは良かった方で、外地で死んだ兵隊たちも多かった。それも飢えで死んだ兵隊の方が多かった。復員兵たちは、宇品までは何が起きたのかは分らなかったが、一歩、宇品を出ると一面の焼け野原しか目に入らず、茫然自失の状態だった。

l 今平和公園のある地域にあった中島町は歓楽街で、カフェなどもあった。戦争の末期まで続いていた。基地の兵たちが遊びに来るところだった。

l 本川の反対側、舟入町には遊郭があった。西遊郭とも呼ばれ、東遊郭とは格が違って、将校たちが馬で来るところだった。馬丁を務めていた兵は、一度馬を引いて帰り、翌朝、将校を迎えに来ていた。

l 広島はデルタ地域なので米は植えられず、綿が植えられていた。工場も多くあったが、軍関係の工場は、被服廠、兵器廠、そして糧秣廠の三つがあった。「秣」の意味は、馬の飼料。

l 1945年の夏、飛行機からビラが撒かれた。それには、「8月には広島が攻撃されるから、逃げなさい」という予告が書かれていた。差出人は「ツルーマン大統領」と書いてあり、普通は「トルーマン」と書くのに、その違いがおかしかった。ビラは先生に取り上げられて焼かれてしまった。

l 86日にはタバコ工場で働いていた。そして建物の陰に居たので、火傷もしなかった。でも、一二年生は建物疎開に出ていて全滅した。

l 何とか学校まで帰れた生徒もいた。誰もが、腕を前に付き出して、その腕からは昆布のように見えた皮膚が垂れ下がっていた。中には、昆布のようなものを足首から引き摺って歩いてきた生徒もいた。

l これを見た先生は、生徒の皮膚を引き千切って上げていた。生徒は、「先生有難う。これでちゃんと歩けるようになりました」と言った。

l 学校まで辿り着いても薬もない。家庭科で使うための菜種油が残っていたので、それを塗って上げるのが精一杯だった。そして、帰って来た生徒たちは次々と亡くなって行った。

l 夏の暑い時期だったので、荼毘に付さなくてはならない。運動場に穴を掘って、窓枠や机など、燃えるものを集めて下級生を焼いた。140センチくらいの身長の子どもたちだったが、白骨にするのは並大抵のことではなかった。火力が弱くて途中で火が尽きた。船舶隊の人が黒い油のようなものを持って来てくれて、それを掛けてようやく荼毘に付すことが出来た。

l 最後には、綺麗な標本のような骨が残っていた。桜の花の花びらのような色だった。その骨を容器に拾おうとしたが、全部は収めきれない。喉仏と歯だけ拾って、しばらくは校長室に収めておいた。こんな悲しい思いを今の若い人たちにさせてはならない。

l 力を尽して平和を守って行こう。何もしないでいると平和はなくなってしまう。考え、実行しよう。

l そして思い出して下さい。そうすることで、あの子たちは皆さんの心の中に生きることになるからです。あの子たちの分も一緒に生きてやって下さい。

l 戦争が再びやって来ないように声を上げて下さい。

l 戦後の73年間、憲法9条のお陰で、戦争によって日本人は一人も人を殺していない、そして日本人は一人たりとも死んではいない。この状態を続けることが出来れば、亡くなった人たちが、平和の礎になってくれたと思うことが出来る。

l 子どもも、大人も年寄りもそれぞれできることがある。自分のできることで、平和を守って行こう。

 

心を揺さぶられるお話でした。未だにその余韻に浸っています。

 

休憩後は、違った視点から私が核兵器禁止条約から学ぶこと、そして米朝会談の傍観者にならないための提案をさせて頂きました。午後には、いくつかのひろば・フィールドワークがあり、夜には灯篭流しに参加した人も多かったようです。

 

[2018/8/6日 イライザ]

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2018年8月 7日 (火)

お二方の被爆体験 (1) ――桑原千代子さんと切明千枝子さん――

 

お二方の被爆体験 (1)

――桑原千代子さんと切明千枝子さん――

 

原水禁世界大会の開会総会は84日に開かれました。豪雨災害の影響で参加者は少し減りましたが、それでも約2200人が参加して下さいました。全国から広島に来られた方々を改めて歓迎します。

 

               

Photo

             

 

開会の挨拶は実行委員会の副委員長で、広島県原水禁の代表委員の一人、佐古正明さん(下の写真)でした。そして大会の基調提案は、大会事務局長の藤本泰成さんでした。

 

 

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毎回この場では、被爆者の方の体験を話して頂くことになっていますが、今年は桑原千代子さんでした。そして、5日の第8分科会「見て、聞いて、学ぼうヒロシマ」では、切明千枝子さんの被爆体験を語って頂きました。お二人とも記憶が鮮明で、当時の様子を伺いながら、涙を禁じ得ない場面ばかりでした。

 

私の拙い筆で、お二方のお話を再現することなど不可能なのですが、でも、何らかの形で伺ったことを整理しておきたいという気持もありますので、箇条書きのようなまとめ方になりますが、以下お読み頂ければ幸いです。

 

またこのお二人の被爆体験だけではなく、他にも多くの被爆者の体験記を、文字・音声・ビデオといったフォーマットで、広島の被団協がまとめています。また、広島市の平和記念資料館にも多くの体験記がありますし、国の施設である国立原爆死没者追悼平和祈念館でも体験記を読んだり聞いたり見たりすることが出来ますので、是非このような施設も活用して下さい。

 

[桑原千代子さん]

 

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l 当時、私は13歳、爆心から800メートルの雑魚場町で建物疎開に従事していた。

l 朝、体調が悪いので建物疎開を休みたいと母に言ったが、母からは「ダメ」と言われ、梅干しが二つ入ったお弁当を持って、防空頭巾を下げ、上は制服、下はモンペを穿いて雑魚場町まで歩いた。家は、そこから3.7キロ離れた宇品にあったので、子どもの足で1時間半掛った。

l 建物疎開はかなり進んでいて、多くの家が倒され、楠が一本立っていた。級友たちの何人も「家に帰りたい」と言い出していた。でも結局、先生には何も言えなかった。

l 空襲警報は鳴っていなかったのに、西から東に飛んでいる飛行機が見えた。敵機か日本の飛行機か分らないまま、友だちと話をしている最中、突然大きな音がして、洞穴の中に吹き飛ばされていた。

l 目を開けると周りは真っ暗で何も見えない。「助けて」と叫んだ。どう這い上がったのか分らぬまま、ふと人の声に気付いたら3人の人影か見えたので、「助けて」と叫んだ。

l 4人一緒に、明るい方向を目指して歩くうちに、鷹野橋に出た。おじいさんが担架の上で、「なんまいだ」と手を合わせているのを見た。兵隊さんが馬の手綱を握ったままの姿で立ったまま亡くなっていて、馬は倒れている場面にも出会った。

l とにかく人が多くいる方に歩いて行こう、と決めて歩いて行く内に、赤ちゃんを負ぶってあやしながら速足で歩いている若いお母さんにあった。思わず、「そのまま歩いていると、赤ちゃんの首が落ちるよ」、とお母さんに伝えた。

l 大橋まで来たときに、兵隊さんに、「この橋は燃えているから渡れない」と言われたのだが、橋を渡れないと宇品に帰れないので、兵隊さんの脇の下を潜り抜けて橋を渡った。

l 家の二階から若い母親が「5歳の子どもが柱の下敷きになっている。助けて下さい」と必死に訴えていた。何もできなかったし、私たちの後ろにいたお爺さんが「何もできないけれど、すぐ救援隊が来るから」と声を掛けていた。

l タカコさんが水を飲みたいと言っていたので、水を探していたら水道管の破裂しているところがあったので、水を飲もうとしたのだが、そのままでは飲めない。飯盒の中蓋を探して来て、ようやく飲ませることが出来た。そこに兵隊さんが来て、容器を取り上げた。「水を飲むと死ぬから飲んじゃだめだ」とのことだった。

l その後、担架でタカコさんを日赤まで運んでくれた。日赤の正面に着いた時には、私たちの一団は、5,6人に増えていた。

l そこから宇品に向って歩いた。途中で倒れている人に、「江田島の人間だから港まで連れて行ってくれ」と頼まれ、足首をつかまれたが、どうすることもできなかった。

l タカコさんの家に辿り着いたが誰もいなかった。それで我が家に帰ったが、時間は夜の7時だった。朝、出掛けてから12時間、家は傾き、窓は破れ家族はいなかった。友達は、それぞれ家に帰ったが、それから73年間、会っていない。

l 水が飲みたくなって、兵隊さんの言葉を思い出したが、それでもバケツに口を付けて飲んだ。とても美味しかった。でもすぐ全部吐き出してしまった。そうするとのどがカラカラになったので、また水を飲んだ、そして吐いた。それを何度か繰り返した。生きて来られたのは、それが、良かったからなのかもしれない。

l 「千代子」と言って母が帰ってきた。自分の怪我の手当てをして貰った後、子どものことを思い出したと言っていた。73歳で亡くなったが、母はずっとそのことで苦しんでいたのに違いない。

l 私の証言が平和を守るための一つの切っ掛けになってくれれば嬉しい。

l 平和は誰かに与えられるものではない。自部で掴み取らなくてはならない。その出発点は、人にやさしくすること、思いやりの気持を持つことだ。

 

桑原さんのお話が十分伝えられないもどかしさを感じつつ、これがきっかけになって、被爆者のビデオや録音を聞いて頂くことになればと願っています。

 

次回は切明千枝子さんです。

 

[2018/8/6日 イライザ]

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2018年7月30日 (月)

「アベノミクス」に騙されるな! ――経済も、原点に戻って考えよう――

 

「アベノミクス」に騙されるな!

――経済も、原点に戻って考えよう――

 

台風12号が上陸し、特に小田原から熱海を中心に太平洋側では大きな被害が出ているようです。お見舞い申し上げます。さて、予断は許されませんが、広島県内の被災地への影響は最悪のシナリオにはならなかったようで、少しホッとしています。でも、台風の進路には吃驚しました。Yahooの天気予報で台風を調べたのですが、29日の13時に、台風の中心は宮島の真上でした。そして管弦祭も中止になったとのこと、自然の力の大きさを認識せざるを得ない7月になりました。

 

               

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台風や豪雨災害による被害を最小にするため、政治の果す役割の大きいことは言うまでもありませんが、我が国の政治の最優先事項の一つとして災害対策を捉えるべきだ、という立場から「防災省」の創設を提案しています。

 

市民・国民・庶民の生命や生活には関心のない安倍政権が、世界の見方を一夜にして転換するとは思えませんが、それでも、私たちが少しでも説得力のある材料を見付けて、少しでも多くの人たちと共有し、マスコミの中に少数ながら残っている良識の持ち主たちとも協力して、何とか世論のうねりを作りたいと思っています。

 

そのためには、かなりの程度数値化ができる経済の面からの分析が有効だと思います。幸いなことに、私の身近な人たちの中には金融や経済の専門家も多く、このところ御紹介して来た森嶋通夫先生等、尊敬する経済学者の方たちからも学んできましたし、今で、経済の分野での気骨ある方々の発言には注目してきています。そして、天は私たちを見捨ててはいなかったのです。

 

たまたま目にした立命館大学の太田英明教授の論文は、経済学の基本的な部分と、原点から点検した「アベノミクス」の本質についての「目から鱗」としか表現できない素晴らしいものだったのです。大田先生は広島市の出身で、東大の経済学部を卒業後、ケンブリッジ大学を経て、国連工業開発機関や野村総合研究所、シンガポールの経済研究所、愛媛大学等で国際経済を中心に世界的な研究・調査活動を行い、現在は立命館大学の教授として活躍されています。被爆二世として政治にもずっと関心を持ち続け、専門分野を離れてでも、日本の政治と経済を立て直すという使命に駆られての活動も続けて来られています。

 

それは、2007年に愛媛大学の法文学部論集に掲載された論文「所得格差および税制と経済成長 ――中長期的影響:分配なくして成長なし――」というタイトルにハッキリと示されています。略して「大田論文」、さらに略して「論文」と呼びましょう。勉強の好きな方には、この論文をお勧めします。

 

「アベノミクス」と経済学の基本とを結び付けるために、官邸のホームページから出発しましょう。そこには「アベノミクス」を説明するための、簡単な図式が掲載されています。

 

 

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つまり、「アベノミクス」が目指している「持続的経済成長」のためには、「消費の拡大 ⇒ 企業業績の改善 ⇒ 投資の拡大 ⇒ 賃金の増加 ⇒ 消費の拡大」という、良い循環が作られなくてはならないという、基本が描かれています。

 

それに対して「大田論文」では、所得格差を切り口として、ここに掲げられている4つの項目が、残念なことに上手く回っていないことを示しています。「大田論文」で取り上げているのは、2006年までの日本経済なのですが、それからの10年余りの傾向も基本的には同じだそうですので、説得力のある数字やグラフ、図表等は「論文」からお借りします。

 

論文ですから、短い言葉の中に内容を圧縮し、かつ論理的な議論を展開しています。論文を読むことに慣れていないと、最初の一二行で諦めてしまう人も出てきます。私が一緒に、少し寄り道をしながら、「解説」といった形で「はしがき」の趣旨をお伝えできればと思います。

 

「はしがき」

 

 日本社会における「所得格差」や「経済格差」は悪化しています。まず、所得分配が平等かどうかを示すジニ係数は一貫して「不平等」の方向に悪化しているのです。―― (ここでジニ係数の説明をしたいのですが、長くなりますのでまたの機会にします。大切なのは、この係数は01の間の値を取り、この値が0に低いほど、平等に近い所得分布になっているということです。一人の人だけに所得があり、その他の全ての人は、全く所得がない場合、ジニ係数は1になります)

 その理由としては色々な説明がされています。例えば、(a) 終身雇用制度の崩壊 (b) 正規雇用者と非正規雇用者やパートの間の賃金格差 (c) 高齢所帯の増加 (d) 若者のフリーター層の増加等です。

 しかし、それら以上に説得力のある説明は税制の影響です。税と経済成長についての因果関係については、論文中で検証されます。しかし、経済成長に関係付けるのと同時に、一人一人がどれだけ豊かな生活を送っているのかも大切です。税の面でお金持ちが優遇され、中間層以下の人たちには、そのしわ寄せが押し付けられている事実をしっかり把握することも大切です。

 お金持ちほど、税金の面で優遇されており、その結果足りなくなる分は、中間層以下の人たちの税負担で補っているということを具体的に見てみましょう。

 (a) 80年代から本格化した所得税の累進制緩和によるフラット化の流れがありました。 (b) それに加えて、1989年には逆進性の強い消費税が導入されました。 (c)しかも、その税率は当初の3パーセントから、1997年には5パーセントに引上げられました。(その後、2014年には8パーセントに引き上げ)られました。 (d) 2007年以降本格化する所得控除廃止措置等によって、中間層以下への負担が増加していることが挙げられます。

 それに対して、富裕層は最高所得税率が37 2007年度より40%),地方税は13%(同,10%),合計50%と80年代初の90%程度に比べ大幅に負担が軽減されています。

 こうした施策を正当化するために、「トリクルダウン」理論という、とんでもない考え方が使われてきました。つまり、お金持ちが自由に使えるお金が増えると、「金持ちは沢山お金を使う ⇒ それが段々下にまで落ちてきてさらなる消費につながる」から社会全体が潤うという構図で、経済が活性化されるというものです。

 しかし、こんなことは起こらないということが学界の定説になっていますし、アメリカでは父ブッシュ大統領がこれは、「原始的宗教の信仰に類する理論」だと一蹴したことでも知られています。

 結局、「経済学的に考察すると,国民経済全体からみれば,富裕層の消費は大きな波及効果は望みにくく,大多数を占める中低所得層の可処分所得の拡大に伴う消費拡大なくして安定的な成長は望めない」というのが結論です。

 そして「アベノミクス」では、この考え方とは正反対の施策を展開してきた、ということが問題なのです。

 

「アベノミクス」については次回以降も続きますが、私たちにも読める著書の一つに『IMF(国際通貨基金) 使命と誤算』(中公新書)がありますので紹介しておきます。

 

[2018/7/29 イライザ]

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2018年7月27日 (金)

「防災省」設置案・その4   災害後の対応・その1

 

「防災省」設置案・その4

災害後の対応・その1

 

このシリーズに力は入っているのですが、どんどん長くなっています。切りがありませんので、少し端折りつつ、全体像が見えるように工夫をして行きたいと思います。ということで今回は災害発生後に焦点を合せ、まずは、人命救助の際にも復旧のためにも欠かせない重機その他の装備について考えて見たいと思います。

 

[災害発生後に視点を移しての防災省の仕事]

(A) ()

(B) ()

(C) ()

(D) 災害発生後は、それまでの予測を元に、また被害状況に照らして、都道府県単位で災害対策本部を立ち上げる。「防災省」直轄の実働部隊は、この対策本部の下に入り都道府県知事の指揮の下、災害救助や復旧・復興の仕事に当る。災害救助等の必要な装備については、「直轄」「都道府県」「市町村」という3つのレベルで整備する仕組みを作り、現在の消防制度を元に、市町村レベルでは整備し切れていない装備は、都道府県レベルで拡充整備する。「防災省」では、最新の装備についての研究を元に、世界的に貢献可能な高性能の装備の開発に当り、災害の予測モデルに従って、「直轄」「都道府県」「市町村」という3レベルに適切な装備を配置する。

(E) 災害救助のために必要な専門的知識、そのために使用する機器・重機等は、専門組織や民間の所有する機器等に依存せざるを得ない面が大きいため、消防団組織をモデルに、専門的なノウハウや重機を「ボランティア」として提供して貰う仕組みを、(D)で言及した3レベルそれぞれに対応する形で整備する。

 

《解説》

 大雨や台風についてのデータの収集や予報、地震や噴火についてのデータ等は、現在では気象庁や国土交通省等の担当ですが、それらについては基本的には現状をそのまま引き継ぐことにします。その中で「災害」そして「人命救助」という視点からのデータの整理や分析等は「防災省」が、各担当部署との連携の下に行うことにします。

 災害後の現地での対策は、「現場主義」を採用し、都道府県知事が指揮を執る形にします。その際、現在の都道府県の役割が、「中二階的」であるという批判を踏まえて、災害対応をその活動の中心に据えるような大改革をすることも視野に入れるべきだと思います。一般的なレベルでの詳細情報を持つ「防災省」と、現地での詳細情報を持つ都道府県が緊密な連携を取る必要は言うまでもありませんが、緊急を要する場合の最終判断は、現地を良く知る知事が行えるような権限を与えておくことが重要です。

 このような形での連携が上手く機能するためには、「防災省」と都道府県、そして基礎自治体である市町村とが、実地訓練を何度か経験しておく必要があります。また、経験値を考えると、各都道府県が災害を経験する頻度と、「防災省」が全国各地において災害救助に当たる頻度とを比較すると、後者の方が多いのですから、それを生かさなくてはなりません。当然、現場では、「防災省」の指揮官が知事に指示を出すという形の方が全体として上手く機能する場合も多いはずです。そのような経験値は当然生かすべきです。そのためには、知事が自分の権限を「防災省」と一時的に共有する宣言をすれば良い訳ですから、それもシステムに組み込みます。しかし、最終的に現地の判断が優先されなくてはならない場合もあり得ますので、「これは現地の判断で行います」という権限だけは、確保しておくことが大切になる、という意味なのです。

 愛称が「レッドサラマンダー」という、「全地形対応車」が、愛知県岡崎市に配備されています。朝日新聞の「キーワード」によると「全長8.7メートル、総重量12トン。最高速度は時速50キロ。搬送用の車両を含め、総額9765万円。10人乗りで、災害現場への人員、物資の輸送が役割。岡崎市への配備は、南海トラフ地震の発生が懸念▽日本のほぼ中心に位置する▽津波の心配がほとんどない▽高速道路のインターに近い、などの理由だったという」という説明です。約1億円のレッドサラマンダーですが、災害時に八面六臂の活躍をしてくれるのであれば、各都道府県に一台配備しても、一機280億円のオレプレイの台数を減らせば、十分にお釣りが来ますので、それも可能性として検討すべきでしょう。

 

                   

Photo

         

 

 しかし、東日本大震災後の2013年に急遽配備されたこのレッドサラマンダーは、これまで二度の災害現場でしか使われていないのです。昨年7月の九州北部豪雨の際に大分県日田市に出動しました。そして今回の西日本豪雨では、岡山県に入っています。この5年間にたった2度の出動実績には理由があるのでしょうが、可能性として考えられるのは、(a)災害現場で役に立たないから (b)出動して貰うには費用が掛り過ぎるから (c)要請すれば来てもらえることが周知されていないから (d)現地に到着するまでに時間が掛り、その間に他の手段で問題は解決されている場合が多いから、等です。こうした点についてもきちんと検証し、後に提案する国際災害救助隊の「サンダーバード」にも役立つような先進的な道具を整備するのも「防災省」の役割ですので、新装備開発の一助としてまずは全国で活用するための方法を考えるべきでしょう。

 

[2018/7/26 イライザ]

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2018年7月23日 (月)

無抵抗降伏論・その4 ――豪雨災害からの教訓 (13)――


無抵抗降伏論・その4

――豪雨災害からの教訓 (13)――

 

「自衛隊 ⇒ 災害救助隊」というパラダイム転換のための第一段階として、森嶋通夫氏の『日本の選択』の論理的帰結も加えて、次の三つの命題を説明しています。

 

(A) 軍隊としての自衛隊の適正規模は「ゼロ」である。

(B) 「国防」のための手段は、軍事力といった「ハードウェア」ではなく、外交や経済・文化等の分野における国際的な活動、つまり「ソフトウェア」ではなくてはならない。

(C) 人、知恵、金をこうしたソフト面に注入して国内では「防災省(仮称)」を創設し、防衛省は廃止するとともに、世界貢献をするために、国際的に活躍する「サンダーバード」のような組織を「防災省」内に創設する。

 

今回は、(B)の中でも、

(ア) 戦争を仕掛けられても、「降伏」する方が、その後の社会に取ってはより良い選択である。

に続いて、

(イ)  ソフトウェア的国防にこそ、力がある。それを示している事例を示す。

です。

 

 既に、第二次世界大戦におけるイギリスの軍備とその後の勝利の原因をどう考えるのかについて、森嶋氏は「軍事力」という「ハードウェア」面で勝ったというより、「ソフトウェア」面での「政治力」の勝利だと判断しています。

 「歴史の教訓から学ぶことは大事である。第二次世界大戦から学ぶべきことは、最初は劣勢ではあっても、ヨーロッパのほとんど全ての国を自分の陣営に引き止め、さらにアメリカまで巻き込み、ソ連すら参戦させたことである。イギリスに勝利をもたらしたのは、軍事力ではなく、この政治力である。」

 さらに、ポツダム宣言を受諾して降伏した日本の場合、「無条件降伏」ではなく、唯一の条件として日本側が提示したのが「国体の護持」だったと解釈されていますが、連合国側はその条件を認めたとは考えていなかったようですので、天皇の戦後の位置付けはかなり危ういものだったようです。その点について森嶋氏は、実質的に国体の護持は守られたと考えて良いだろう、そしてそれを可能にしたのは「ソフトウェア」的な実績だったと言っています。

   「しかし最初は天皇の地位は極めて危なかった。戦争犯罪人に指定される可能性すらあったのである。けれども、もし天皇が逮捕されたなら、日本では大規模な叛乱が起こり、日本に大部隊の占領軍を長期間駐留させても、なおかっ、占領業務は順調に行なわれえないであろうという理由で、天皇は免責された。この他にグルー国務次官(元駐日米大使)が天皇制存続論者で、彼がワシントンで日本を救う役割をしてくれたことや、さらに天皇御自身の皇太子殿下時代のイギリスでの交遊が、多くのイギリス人によって高く評価きれていたことが、日本に「国体護持」をもたらした重要な要因に数えられている。

これらの要因の内、最後の二つは、国際親善、国際交流、相互理解が強力な防衛手段になり得ることを明白に証明している。もっとも最初の要因、すなわち「天皇を逮捕すれば日本で叛乱が起こり、米軍自身が困るから天皇を逮捕しなかった」という推論は、関、猪木氏の「抑止力の理論」の一種であるが、彼らの理論とちがうところは、それが武器抜きの抑止力の理論であるという点である。当時の日本に武器がないことは、誰よりも占領軍自身が知っていた。武力の裏付けがなくとも抑止力は充分作用したというこの貴重な経験を、われわれは決して忘れてはならない。逆にあの時、徹底抗戦していたなら、国体護持どころか日本は全く滅亡していたであろう。」

 

               

Josephgrew

             

ジョセフ・グルー大使・国務次官

 

(ウ) その具体的なアイデアとして、森嶋氏は次のような提案をしています。論争相手の関氏や猪木氏が当時の防衛費について、GNP0.9%だったものを引き上げて3.4%にすべしとの主張を受けて、それでは、増加する2.5%をどう使うのかという点についてのものです。

   「これだけの金をタンクや飛行機やミサイルの購入に費消するのでなく、私が主張している広い意味での防衛費、すなわち文化交流や経済援助や共産諸国との関係の改善や、欧米諸国との間の貿易黒字差額の縮小用に追加するならば、単に共産固との関係だけではなく、アメリカ、EC、東南アジア諸国との関係も非常に良好になるに違いない。日本は積極外交をしやすくなり、ソ連は日本の仲介能力を評価し、日本はそれだけ安全になる。

  しかし、もし逆にこの2.5%で軍備を増強すれば、平和の風船は一挙に破れてしまうかも知れない。2.5%を算出する際の分母になる日本のGNPはそれほど大きいのである。」

 

となると、次の結論はほぼ自明なのですが、もう少し具体的にどのような活動をするのか、そして課題はどこにあるのか等、次回以降、詳しく考えて見たいと思います。

 

(C)         人、知恵、金をこうしたソフト面に注入して国内では「防災省(仮称)」を創設し、防衛省は廃止するとともに、世界貢献をするために、国際的に活躍する「サンダーバード」のような組織を「防災省」内に創設する。

 

[2018/7/22 イライザ]

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コメント

無抵抗降伏論=無抵抗幸福論
であるともいえそうですね。
そんなパラダイムシフトが起こりつつあるのは、
インターネットの力によるのでしょうね。

「コウフク」様

コメント有り難う御座いました。

うまいっ! 座布団一枚です!!

2018年7月22日 (日)

無抵抗降伏論・その3 ――豪雨災害からの教訓 (12)――


無抵抗降伏論・その3

――豪雨災害からの教訓 (12)――

 

西日本豪雨災害からの教訓として、災害救助を主任務とする災害救助隊といったものを創設することが挙げられます。現在の自衛隊を改組して、主任務を災害救助にすれば、憲法上の問題もなくなり、また「防衛省」の予算は「防災省」に振り返れば、これまでの災害後に十分な対応が行われて来なかった歴史を書き換えることが出来ます。

 

そのような観点から、これまで私が垣間見ることのできたいくつかのアイデアを復習しながら、論点を整理してきたつもりですが、森嶋通夫氏の「無抵抗降伏論」を下敷きにして、その論理的帰結を加え、さらに水島朝穂氏や石橋政嗣氏等の提案等と整合性のある部分は大胆に借用することで、「自衛隊 ⇒ 災害救助隊」というパラダイム転換の発射台が姿を現します。関嘉彦氏との論争を踏まえて、その形は三部構成です。

 

(A) 軍隊としての自衛隊の適正規模は「ゼロ」である。

(B) 「国防」のための手段は、軍事力といった「ハードウェア」ではなく、外交や経済・文化等の分野における国際的な活動、つまり「ソフトウェア」ではなくてはならない。

(C) 人、知恵、金をこうしたソフト面に注入して国内では「防災省(仮名)」を創設し、防衛省は廃止するとともに、世界貢献をするために、国際的に活躍する「サンダーバード」のような組織を「防災省」内に創設する。

 

それぞれの柱について説明を加えたいと思います。ほとんどは森嶋氏の『日本の選択』からの引用、または要約ですが、森嶋氏の論理を敷衍する場合にはその旨、明記します。

 

(A) 軍隊としての自衛隊の適正規模は「ゼロ」である。

(ア) 実は、森嶋氏は「ゼロ」とは言っていません。それどころか、それは危険だと言っています。『日本の選択』の37ページから引用します。

 「私自身は、自衛隊はこれ以上大きくすべきではないが、それかといって、急激に縮小したり廃止したりすべきでないと思っている。昭和のはじめに軍縮をしたことから、かえって軍国主義化したように、存在する軍隊を大縮小したり、廃止したりすることは非常に危険な荒療治である。」

(イ) 但し、「災害救助隊」のような非軍事部門は充実すべきだということも主張しています。

 「また掃海隊のような純粋に防衛的な、戦闘能力ゼロの部門や、災害時の救難、復興作業を専門とする特別工兵隊は充実しておくべきであろう。」

(ウ) そう断った上で、森嶋氏が主張しているのは、「しかしこのような自衛隊も、もしソ連が本格的に攻めて来た場合には、戦うべきではない。」ということなのです。さらに、自衛隊の規模の可能性として、中武装と重武装のケースを検証していますが、そのどちらの場合も、コスト的に見合わないか、最終的には「一億総玉砕」か「一億総降伏」になってしまい、まさか「一億総玉砕」は考えられないので、これらのケースでも「降伏」という結論になっています。

 

「戦うべきでない」理由は、ソフトウェアによる国防の実質的内容にもなりますので、次の (B) の最初の項目としてまとめておきましょう。

 

(B) 「国防」のための手段は、軍事力といった「ハードウェア」ではなく、外交や経済・文化等の分野における国際的な活動、つまり「ソフトウェア」ではなくてはならない。

(ア) 戦争を仕掛けられても、「降伏」する方が、その後の社会に取ってはより良い選択である。

 1945815日、「日本人は後世に誇るに足る、品位ある見事な降伏をしたと私は思う。そしてこのような降伏をした国民であったからこそ、日本は戦後、奇跡的な復興をすることが出来たのである。」

 前回も触れましたが、ソ連が本気で日本を攻撃してきたとしたら、それは、アメリカ軍が上陸した後の沖縄戦を、今度はソ連を相手にして戦うことになる、という分り易い比較で、その困難さを説明してくれています。そして「降伏」がより良い選択だと述べています。

 「あの時日本は無意味な勝ち目のない戦を続けたのだが、米軍が沖縄に上陸した段階で、御前会議が聞かれて終戦していたとすれば、どれ程大勢の日本人(や米人)が死ななくてすんだか、またどれだけの都市や財産を焼かなくてすんだか、またどれだけの伝統的文化財を失わずにすんだかを考えてみるがよい。」

 「降伏」の時期については、そもそも開戦のとき、それ以前の国際連盟脱退といったタイミングでも当然検討されるべきだったことを森嶋氏は主張していますが、もう一つのタイミングは東條総理大臣の辞任でした。

 「事実、戦争は東條が首相を辞任した段階でやめるべきであった。そうしたならば、フィリッピン戦争、硫黄島の玉砕、沖縄戦争、本土空襲、広島、長崎への原爆攻撃はすべて回避出来た。もちろんこの時でも無条件降伏はまぬがれ難いので、中国本土はもちろん朝鮮、台湾を失うが、百万人の将兵および一般人民は死なずにすんだろうし、ほとんどすべての都市は戦災をまぬがれた。しかし当時、天皇はまだ勝機が来るかも知れないと考え、敵に一泡ふかせてから、条件を有利にして戦争を終結しようとしていた。何という甘い情況判断であったことか。」

 つまり、中日・太平洋戦争については、開戦するよりはABCDと呼ばれた国々の要求を呑んで撤退すべきだったし、戦争が始まっても、「降伏」するチャンスは何度もあった。それは、実際に起きた1945815日の降伏よりは、日本に取ってはより良い結果をもたらしたと考えられる。しかし、それらのタイミングより悪しき時期だった815日にしても、「降伏」したこと自体、それに対する代替案の結果と比べるとより良き決定だった。

 

                     

Shigemitsusignssurrender

       

ミズーリ号甲板で降伏文書に署名する重光葵全権(194592)

 

(イ)  ソフトウェア的国防にこそ、力がある。それを示している事例を示す。

 

[以下、次回に回します。]

 

[2018/7/21 イライザ]

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2018年7月20日 (金)

無抵抗降伏論・その2 ――豪雨災害からの教訓 (11)――


無抵抗降伏論・その2

――豪雨災害からの教訓 (11)――

 

『日本の選択』の出発点は、森嶋通夫氏がロンドンから東京までの日航機内で読んだ、サンケイ新聞の「正論」という欄でした。筆者は政治学者で元参議院議員の関嘉彦氏、エッセイのタイトルは、「"有事の対応は当然」でした。

 

Photo

関嘉彦氏と著書

 

森嶋氏は、関氏によるこのエッセイを簡潔に要約していますが、それをさらに短くまとめておきます。

 

 第二次世界大戦の初期、劣悪な軍備のままイギリスが優秀な装備のナチスと戦わなくてはならなかったのは、両大戦間にイギリス人たちが誤った平和主義の虜になって、しっかりとした軍備を整えなかったからだ。

 善意であっても、歴史の教訓に無知な人たちの平和思想は、「邪悪」なものを勇気付け、かえって侵略戦争を奨励している。だから政府だけではなく、民間組織も万一に備えた防衛組織、例えば核戦争に備えたシェルターなどの用意をすべきである。

 ヒトラーがスイスを攻撃しなかったのは、スイスが民兵組織ではあるが軍備を持っていたので、スイスを通ってフランスに攻め入るのは余りにも犠牲が多過ぎると考えたためだ。

 

それに対する森嶋氏の反論は197911日の北海道新聞に「何をなすべきでないか」というタイトルで発表されました。ロンドンに帰国するまで、日本でよく耳にした「カラオケ」の意味が分らなかったことにも触れている洒脱な文章で (同じ年ボストンから帰国して夏を過していた私は、カラオケに遭遇するやその魅力に取り付かれてしまったことを思い出しました――) 全文をお読み頂きたいのですが、長くなりますので以下、私なりの要約です。

 

 イギリスが強力な軍備を持っていたとすると、大戦の発生を何年か遅らせることはできたかもしれないが、ヒトラーがいる限り戦争は始まったはずだ。その何年かの間に独英両国ともさらに軍備を増強させたとなると、例えば両国が核兵器を保有するといった状態での開戦の可能性も考えられる。その結果が如何に惨憺たるものになったかとの比較もすべきだろう。

 歴史の教訓から学ぶことは大事である。第二次世界大戦から学ぶべきことは、最初は劣勢ではあっても、ヨーロッパのほとんど全ての国を自分の陣営に引き止め、さらにアメリカまで巻き込み、ソ連すら参戦させたことである。イギリスに勝利をもたらしたのは、軍事力ではなく、この政治力である。

 軍事力があるからヒトラーがスイスへの攻撃を諦めたのではなく、中立国として、敵国との交渉の通路としてスイスを利用する意図があったからだ。

 

説得力のある見事な反論だと思いますが、この論争の焦点はソ連が攻めて来た時に日本はどうすれば良いのかという点でした。関氏と、その後論争に加わった猪木氏は、「アメリカの援軍が来るまでの間――たとえば一週間程度――は日本独力で戦い続ける」のに十分な軍隊を最小限の自衛力と考え、その程度は日本が持つべきだと主張していました。

 

森嶋氏の反論は、まず、安保条約があったにしろ、現実問題としてアメリカが参戦すれば世界戦争になるであろうときに、本当にアメリが自国の若者の命を犠牲にしてまで日本防衛のために駆け付けてくれるだろうかという疑問から始まります。そして、歴史的に、他国が闘っている戦争に同盟国が参戦する場合にもかなりの時間が掛っていることを例示して、例えば半年というようなスパンで考える必要のあることを示しています。

 

ソ連が本気で日本を攻撃してきたとしたら、それは、アメリカ軍が上陸した後の沖縄戦を、今度はソ連を相手にして戦うことになる、という分り易い比較で、その困難さを説明してくれています。

 

そして、そこで持ち堪えられなくなって日本が降伏するというシナリオになるかもしれないことも頭の隅に起きながら、それでも降伏することの意味はあることを説いています。

 

その点を森嶋氏は次のようにまとめています。

 

あの時日本は無意味な勝ち目のない戦を続けたのだが、米軍が沖縄に上陸した段階で、御前会議が聞かれて終戦していたとすれば、どれ程大勢の日本人(や米人)が死ななくてすんだか、またどれだけの都市や財産を焼かなくてすんだか、またどれだけの伝統的文化財を失わずにすんだかを考えてみるがよい。

 

さらに、沖縄戦の教訓として、1945611日午後1130分に玉砕した沖縄方面根拠地隊の司令官・大田実少将が、恐らく海軍総司令長官あてに発信した長文の戦闘概報を暗号から平文に訳したのが、西海航空隊(大村基地)に勤務していた森嶋通夫氏だったのですが、その概報の中で小田少将は次のように述べています。

 

(一) 略

(二) 本土戦は、いままでのような海外占領地での戦いとは、その意義も戦い方もちがっている。住民がすべて日本人だということは、種々なる意味で慎重に考慮さるべき事柄である。沖縄の場合、一般市民は非常に勇敢に戦ってくれた。 (大田は六月六日「沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力:::ナシト認メラレルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ」にはじまって、「沖縄県民斯ク戦へリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」におわる長文の電報を海軍次官に送っている。――戦史叢書十七巻『沖縄方面海軍作戦』朝雲新聞社、参照。)

(三) 沖縄のような日本固有の領土で、将兵が全員玉砕することは正しい処置の仕方とはいえない。自分(大田)は司令部の首脳部以外の者は、軍服を脱いで平服にかえ、一般市民の中にまぎれこんで、将来を期すべきであると信ずる。自分は彼らにそう命令し、彼らはすでに実行した。このような処置の全責任は自分にある。彼らは決して逃亡したのではなく、自分の命令に従ったのである。いつの日にか、日本軍が再び逆上陸した場合には、彼らは必ず武器をとって立ち上がるであろう。玉砕するのは司令部の首脳部だけで充分である。

 

「無抵抗降伏」と聞くと、戦う勇気を持たない空想的平和主義者の言辞のように捉える人がいてもおかしくはないのですが、森嶋氏の「無抵抗降伏論」は、実戦の現場で玉砕を決意した司令官が後世に残した日中・太平洋戦争の総括を、暗号から平文に訳した著者が、自らの戦争との関わりの、もう一つの総括として提起している、現実的かつ歴史的な根拠のある主張です。

 

森嶋氏は、これに関連して天皇の戦争責任や、日本国民が何故、戦争についての発言力を持てなかったのか等についても、「目から鱗」の解説をしてくれています。折角の機会ですので、こうした点についても、続けてアップしてみたいと思っています。

 

『日本の瀬選択』は、アマゾンからも注文できます。

[2018/7/19 イライザ]

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2018年7月19日 (木)

無抵抗降伏論 ――豪雨災害からの教訓 (10)――


無抵抗降伏論

――豪雨災害からの教訓 (10)――

 

前回は、「非武装中立論」で今回は「無抵抗降伏論」と段々過激になってきていますし、「豪雨災害からの教訓」とは懸け離れて来ている感もありますが、もう少しで本論に戻りますので、お付き合い下さい。それに、今回取り上げる森嶋通夫著の『日本の選択』は痛快な一書ですので、溽暑の昨今、清涼剤としてもお勧めします。

 

Photo

 

切れ味の良い主張の主、森嶋通夫氏は、1923年に生まれ、2004年に亡くなりましたが、晩年は1988年の定年まで、世界的に有名なロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSEと略されることが多い) の教授として「レオン・ワルラス、カール・マルクス、デヴィッド・リカード等の理論の動学的定式化に業績を残している」のですが、世俗的にはノーベル経済学賞の候補として何度も名前が挙っていたことでも知られています。

 

Photo_2

Wikipediaから

 

『日本の選択』は、森嶋氏がロンドンから東京に帰る日航機の中で19789月に読んだ関嘉彦氏 (早大客員教授) のエッセイを読んでショックを受け、その反論として翌1979年に北海道新聞に書いた反論が元になっています。

 

それに対する関氏の再反論、さらには、この論争に加わった猪木正道、福田恆存氏とのやり取りも採録されています。森嶋氏の立派なところは、自らの主張に批判的な関、猪木、福田という三氏の言い分もきちんと取り上げて、真正面からの論争にしていることです。ラベル張りもされていますし、福田氏からは「大嘘つき」とまで言われながら相手が逃げられないようなリングに引っ張り出した上で、胸の空くような論破をしています。その力量とフェアな態度には、ただただ感心するばかりです。

 

その一端を「はしがき」から御紹介しましょう。

 

本書は私の国家論である。国家は防衛しなければならないが、核兵器の時代には、国家を武力で防衛すれば、たとえ国家は守れても、その国民は壊滅し、したがって国家も死滅するという形でしか守られない。このような問題に対する私自身の考えを、私は1979年に発表し、それを殆んどそのままの形で、本書第一部に収録した。それは冷戦中の作だが、冷戦がほぼ解消した現在でも私の考えは変っていない。

 

第二部は第一部の補論である。防衛論の論争相手は主として関嘉彦、猪木正道と福田恆存であったが、福田氏との論争は、私にとって最も楽しいものであった。第二部では、これら三氏に対する私の主張を、新たにかなり拡充、補強している。

 

第三部は、どのように国家は変化するかを考える。私の動学的国家論である。私は五十年前の敗戦により、日本の天皇制という国体は崩壊したと考える。したがって、結果論的には私たちは、天皇制を崩壊させるために戦っていたことになる。戦争に動員させられた若者の一人として、なぜあんな戦争をしたかを、私は長年にわたってしつこく追求してきた。第1章はその結論である。

 

戦後、平等教育が行われるようになったが、現実の社会が分業社会であるのに、平等に教育された男女を、社会に注入すれば、一方では苛烈な競争と、その結果である敗者の失業をひきおこす。同時に、他方では誰もが働きたがらない3K産業問題が生じる。平等教育を受けた子供は自己主義者として育つが、このような子供が会社という集団に属せば、集団は会社自己主義を主張し、このような日本の会社は、第2章で見るように、国際社会においては、国家自己主義者として行動する。

 

しかし巨大技術や先端技術の時代になると、これらの技術を駆使するには、国際協力が不可欠だし、これらの技術の効果も、多くの国でわかち合わねばならない。こうして国家自己主義は成立しなくなり、民族国家としての日本は、将来アジア経済共同体の中に発展的解消をすると私は考える。それまでに日本は国家自己主義を克服し、普遍的な思考が出来るようになっていなければならない。さもなくばアジア共同体の中で、日本の活躍は非常に限定される。このことを明らかにするのが、第3章の「国家変遷の唯物史観」である。

 

勝者も敗者も、私たちの世代のものは戦死した友人を何人かもっている。われわれは全員同じ思いで戦ったわけでないが、本書を書き上げて、国家問題に対する自分の考えを明らかにしたことにより、私は、死んだ彼らに対する「生き残った者の負い目」の幾分かを償えたような気がする。謹しんでご冥福を祈る。

 

続く第一部と第二部で森嶋氏が展開する「国防論」は、関氏が「ハードウェア」つまり、軍備を主軸に論じているのに対して、「ソフトウェア」つまり非軍事の外交、経済、文化、そして明示的には示していませんが、災害救助等を中心にした国防論です。

 

さらに、自分の主張通りのシナリオにならなかった場合、つまり「最悪のシナリオ」ではどう対処すべきなのかという点を、議論の大切な一部として取り上げていることからも説得力が抜群に増しています。

 

少しセンセーショナルに、森嶋氏の「Worst Case Scenario」をまとめると、もしソ連軍が日本に攻め入って来たら、毅然とそして冷静に降伏して被害を最小限にした上で、ソ連の占領下でも日本社会の強みを生かした、許容範囲の社会を作るということです。もしそうしなければ失われるであろう数十万から数百万の生命を考え、国土の荒廃や財産の逸失を考えると、より損失の少ない選択肢を選ぶべきだ、という結論です。

 

詳細に森嶋構想を説明するのは次回に回します。そして論争の出発点である関氏のエッセイ(サンケイ新聞の「正論」という欄のタイトルは、「"有事の対応は当然」) に対する反論も見事ですので、それにも触れたいと思います。

 

[2018/7/18 イライザ]

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ネトウヨがやたら使う論破という言葉は好きではない。和解や合意を考えるとき相応しくないし事実については共通認識を持った上で考え方の違いには賛同できなくても理解は示したい。

その上で申し上げたいのは生物においては短い個の命より長く続く種(群れ)の命を優先するということは良くあることで、ドイツに限らずアメリカなども皆殺しを行ってきた国だから彼らと対峙する時、個人より国を優先することは考え方の一つだと思う。開戦前の御前会議でどちらにしても地獄になるが生き残る日本国民のために戦いを選ぶというのは当時の状況では理解できる。

「武田」様

コメント有り難う御座いました。

誰がどのような状況でドイツやアメリカと「対峙」するのかが良く分りませんが、「地獄」と言っても誰に取っての「地獄」なのか、それがどの程度なのか等、もう少し前提を整理しないと話が通じないように思います。

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