平和

2018年8月15日 (水)

終戦記念日 ――全ての戦争を終らせる日――

終戦記念日

――全ての戦争を終らせる日――

 

「八月は6915日」という川柳っぽい五・七・五の表現があります。それにお盆もあるのですから、人間の生死、そして戦争と平和に思いを馳せ、先人たちの経験を追体験しその意味を考える月だと言って良いでしょう。

 

そして、このブログは、6日と9日に焦点を合せて一年を通して色々考え行動する場ですので、今日は815日を取り上げてみましょう。先ず名称は「終戦記念日」です。「敗戦記念日」と言う人もいるようですが、戦争の始るのが「開戦」それと対になって終るのが「終戦」という表現です。

 

それに、「敗戦」という言葉の背景には戦争をした相手の存在がなくてはなりません。戦争という文脈を毎年持ち出して、「敵国」に「負けた」という点を強調するよりは、共に、戦争を止めてその後は平和な協力関係を作って来たという点を強調する方が未来志向だと思うのですが、如何でしょうか。それに、「敗戦」ですぐ頭に浮ぶのが野球の「敗戦投手」です。でもその場合、「次は勝って欲しい。勝利投手になって欲しい」という気持が強くあります。それと重なって、「戦争」という枠組みで「敵国」との関係を限定してしまうことにならないとも限りません。

 

「全ての戦争を終らせる」という考え方は、昨日今日始ったことではありません。1914年に始まった第一次世界大戦は、「War to end all wars」、つまり「全ての戦争を終らせる戦争」と呼ばれました。『透明人間』や『宇宙戦争』等で有名なH.G.ウェルズやアメリカのウッドロー・ウイルソン大統領がこの考え方を広めた結果、第一次世界大戦後の講和条約締結の際の基本的な土台となり、世界平和を推進する組織として、1920年に国際連盟ができることにもつながりました。

 

Woodrow_wilson

ウイルソン大統領

 

残念なことに、その後第二次世界大戦が起きましたので、第一次世界大戦を「全ての戦争を終らせる戦争」にはできませんでしたが、国際連盟の発展型として国際連合が生れ、ヨーロッパの緊張関係はEUという平和的な発展型に変質し、日本では終戦を機に平和憲法によって世界平和を推進する国家たらんとする決意が生れたのですから、長い目で見ると、時期はずれていますが、ウェルズやウイルソンの目指した方向に世界は動いてきたと言って良いのかもしれません。

 

戦後73年間、日本にとって「終戦記念日」は、「戦争を終らせた戦争」であり続けていますが、それを世界に広めて、日本という国の努力によって「全ての戦争を終わらせる」という目標が達成できるよう、私たちが新たな決意をする日でもあることを最後に指摘しておきたいと思います。

 

[2018/8/13 イライザ]

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コメント

ノー、ノー。理想としてはそうであろうけど、それでは、
未だきちっと総括も何もしていないこの国にあっては、
加害者の面が隠されてしまい、見えなくなってしまい、
免罪符とさえなってしまう。
それよりも、8/15というと皇居前で平伏する人々の
映像が→誰もが当日のものと思ってしまう→fakeだってば!
これが何より腹立たしい。

訂正訂正。「映像」ではなく「写真」でしたね。失礼しました。

「硬い心」様

コメント有り難う御座いました。

「日本という国の努力」の中には、これまで不十分な事しかしてこなかった面でも努力をするという意味を込めた積りなのですが---。

それと、嘘八百の「大本営発表」しか公にされなかった時代です。しかも、正式の「降伏」は、ミズーリ号上で調印の行われた9月2日ですから、8月15日の報道だけが例外ということはないでしょう。

終戦祈念日ですね。

「ふぃーゆパパ」様

コメント有り難う御座いました。

「祈念日」を「既念日」にするよう、頑張りたいですね。

2018年8月12日 (日)

憲法調査会での金子発言 ――無抵抗降伏論を独自に表明――

 

憲法調査会での金子発言

――無抵抗降伏論を独自に表明――

 

西日本豪雨災害からの教訓のまとめとして、防災省の設置を提案してきましたが、組織的には、自衛隊を災害救助隊に改組するという説明が分り易いと思います。これが可能である大きな前提として、仮に海外からの侵略があったとして、自衛隊が武力に依って抵抗するのではなく、威厳を持った降伏によってできるだけ多くの人の命を守ることが大切であること、またその後の日本社会において、ソフト面を生かしての非暴力抵抗運動を通して、原状回復を行うことこそ、より良い選択であるという、「森嶋通夫理論」を御紹介しました。

 

今回は、これと同様の考え方を国会の中の憲法調査会で披歴した、金子哲夫衆議院議員(当時)の発言をお読み頂きたいと思います。森嶋理論とは全く独立した形で、自前の提案をきちんとされている姿は立派ですし、国会の議事録にその発言が残されていることにも意味があります。以下、議事録の一部です。読み易いように改行等を行っています。

 

               

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第154回国会 憲法調査会国際社会における日本のあり方に関する調査小委員会 第4号
平成十四年(2002)六月六日(木曜日)
    午後二時二十九分開議

 

金子(哲)小委員 社民党の金子でございますけれども、私は、非核三原則にかかわって少し発言をしたいと思います。

 

先生のおられるところでもぜひ発言をしたかったのですけれども、最後は、宗教的信念などと核兵器廃絶の問題がとらえられているということについて極めて驚きを持っております。

 

我が国が、政府が、非核三原則のみならず、国連においてたびたび国連決議の中で核兵器廃絶のための提案をしていることは事実でありまして、それは世界から核兵器をなくそうということ、我が国が非核三原則を持っているからということだけではないと言わなければなりません。そもそも、ただ被爆国であるということでもありません。

 

つまりは、その被爆の体験の中から、核兵器の非人間性というものについて、既に国際司法裁判所でもその点については明確に規定をされているわけでありますけれども、そういった核兵器の持つ非人間性とそのことによる被害というものに着目をして、再びそういうことがこの地上の中に起きてはならないということで核兵器の廃絶というものを訴えてきたし、また、そのことによってその説得力を持つという意味においても非核三原則というものが提起をされているように私は思えるわけです。

 

そうしませんと、万々が一のときにということをお話しになりましたけれども、万々が一のときというのは一体どう考えればいいのか。それは、つまりは、核兵器が一日にしてつくられるわけではありませんから、そのことを想定しておれば、いずれ非核三原則を否定して政策を変換しなければ、万々が一に備えることはできないということになるわけでありまして、そういうことに論点が行くこと自身も私にとってはある種の驚きでもあります。

 

ですから、私は、やはり核兵器というものについて、核兵器の持つ本質的な意味、また核兵器の破壊力、放射線障害の持つ意味ということを実体験として知っている我が国だからこそそのことが言えるというふうに思うので、むしろ私は、日本の外交姿勢の中にあって、唯一の被爆国というまくら言葉は国連の中でも何度も表明をされますけれども、広島や長崎で起きた事実に対して、そのことを世界にどれだけ知らしめる努力をしてきたのかといえば、極めて残念ながらそれは行われていない。

 

例えば、被爆者の皆さんや平和団体の皆さんが原爆写真展などを通じて被爆体験を広げようという努力をしてきたわけでありますけれども、それすらも、日本政府がたった一度も国連においてそういうことをやったということを私は知りません。そういう努力というものこそが、今唯一の被爆国としての役割だと思います。

 

憲法とのかかわりにおいても、憲法九条の論議のみならず、憲法にうたわれております国際条約との関係の中において、NPT体制の中に日本も批准をして入っている限りこれをむしろ促進していく役割というものがあるわけでありまして、そういう点からもありますし、憲法上からいっても、これは国会の中で、園田外務大臣も随分前の国会ですけれども発言をされておりますように、日本国憲法全体の中に、国民の生命を守っていくという憲法精神からいっても、この非人間的な核兵器を日本が持つということ、非核三原則を変えて核兵器を持つということはあり得ないということをおっしゃっておりますけれども、私もそのとおりだと思います。

 

そういう意味で、やはりもう一度、唯一の被爆国、また被爆体験をした国家としての被爆というものの意味について、私は、国会の中でも改めて論議をした方がいいのではないかということを強く思っております。

 

以上です。

 

赤松(正)小委員 公明党の赤松正雄です。

 

先ほど、ちょっと時間が足らなくて、私が申し上げたことが少し中途半端に終わったんじゃないかと思いますので、その補足と、それから、今金子委員がおっしゃったことに関係すること等について二、三お話をしたいと思います。

 

まず、先ほど、日本の国がこれから直面するであろうというか、今もうしているんですけれども、選択肢が二つある。一つは、憲法を改正して普通の国になるという選択肢と、もう一つは、今のまま憲法のいわば解釈改憲の道を続けて特殊な国の道を歩んでいく、この二つが我々の前に横たわっているだろう。ここは一にかかって国民世論の動向と深くかかわってくると私は思います。日本の国の多くの人々が、今申し上げた大きく分けて二つの道のどちらをとろうとするのか、これはやはり真剣に国民世論の動向というものを見定めていかなくちゃいけない、そんなふうに思っています。

 

私は個人的には、憲法第九条については、第一項はもちろんそのままですが、二項については整理する必要があるだろうなという考え方でおりますけれども、公明党は現時点で、二つ目の、憲法第九条については改正をしない。問い詰めてみたことはありませんが、今の私の仕分け方でいくと、恐らく二つ目の方向を行こうとしているんだろうな、こんなふうに思っております。これが先ほど言い残した部分でございます。

 

それから、今、非核三原則にまつわる話ですけれども、いわゆる核をつくらず、持たず、持ち込ませず、この非核三原則については、私ども公明党は、私が政策形成にかかわった時点で、三原則ではなくて、もう一つ、いわば運動論的につけ加えないと話が決着しないというふうに言って盛り込んだことがあります。それは、持たせずということであります。

 

つまり、持たない、つくらない、持ち込ませないといっても、つくって、それをやろうとする、持つという意思を持つ国があるわけだから、そこに対して持たないようにという働きかけ、つくらせずでもいいんですけれども、そういうことが運動として起こってこないと、自分たちはつくらない、持たない、持ち込ませないと言っていても何も現実的な意味を持たない、そういうふうなことを主張いたしました。

 

一方では、全く逆ではありませんけれども、持たず、つくらずはいいけれども、持ち込ませずというのを掲げるのは日本もおかしい、だから非核三原則ではなくて非核二原則でいいのではないかというふうなことを指摘される向きがあるということについても、私は、その人のそういう主張があるという立場は十分に理解できるつもりでおります。

 

今回の福田官房長官の発言は、恐らく、政府首脳という立場を少しお忘れになって、評論家的に、純理論的に核の問題についてお話をされたのだろう。その辺はもう少ししっかり、用心深くお話をされた方がよかったのではないのかなという印象を持っております。

 

最後、三つ目に、社民党の金子さんに聞きたいんですけれども、実は共産党の山口さんに聞きたかったんですが、おられないので、別に疑似的相手だということではないんですけれども、この調査会は大いに論争した方がいいと思うので言います。

 

実はきのう、有事法制の地方公聴会で仙台へ行ってきました。要するに、万が一、僕は、万が九千九百九十九、平和外交的努力をすることは当然だ。九千九百九十九までやって、あとの一に対して使っちゃいけない有事法制だけれども、つくって、その用意は最低限する必要はあるんじゃないのかというスタンスなんです。

 

だから、そういう意味合いで、日本共産党から推薦された方、あるいは社会民主党から推薦された方のお話を聞いていて思ったのは、要するに、九千九百九十九のことだけで、万が一のことについては触れられない。だから、詰めていけばどうなるんですか、こう聞いたら、いわば非暴力抵抗主義というかそういうことを、現実にその言葉をおっしゃいました。

 

要するに、日本共産党の方に聞きたかったのは、二年前に、必要なときは自衛隊を使うということを彼らは決めているわけですね。それに対して、今は使わないときと決めておられるのかどうか、その辺がよくわからないということを聞きたかったんですけれども。

 

金子さんは、万が一の場合、やはり非暴力抵抗主義というんですか、そういう格好でいかざるを得ないと思っておられるんでしょうか。自衛隊のありようというものと絡めて言っていただきたいと思います。

 

金子(哲)小委員 では、もう私の持ち時間ありませんので、短くお答えしたいと思います。

 

自衛隊の問題については、この委員会でも私ども社民党の政策について御意見が出たことはありますので、その点については今質問が直接ありませんので、とりあえずおきまして、万々が一のお話。

 

実は私のホームページにもその点について、あえてと問われればということで書かせていただいておりますけれども、私は、非暴力抵抗でいい。といいますのは、その中につけ加えておりますのは、もし万々が一のときに想定をされる軍事的な紛争により命を失うこと、そのことと、万が一のときに非暴力抵抗によって仮に失う命とはどちらが多いかと、本当に考えてみたとき、戦争、紛争によって、いわば軍事衝突によって失われる命の方がはるかに多いというふうに私自身は思っております。それは日本国民のみならず相手の国を含めて、そういうふうに思っております。

 

ですから私はそのことを書いておりますけれども、それでもそれに対する批判は確かにあります。私の考え方としては、暴力、軍事的な力によって紛争を解決して失う命よりも、特に近代戦争においては、軍人軍属の失われる命よりも一般の非戦闘員と言われる人たちが、とりわけ第二次世界大戦以降、ベトナム戦争もそうですけれども、近代兵器の中で失われる命の方がはるかに多い状況を考えてみますと、そういう非暴力抵抗によって失われる命の方が少ない。そしてまたそのことは、もし仮にそういうことが起きたとしたら、国際社会の中にあってそのことが永続的に続くとは到底思えないというふうに私は思っておりますので、そういう見解を持っております。

 

藤島小委員 今の件に関してですけれども、戦争になったときに軍人軍属の犠牲者が多いか、一般の国民の犠牲者が多いかというふうに置きかえることがちょっと問題があるんじゃないかと思うんですね。

 

侵略されることで国民の権利とか自由が全く侵害され、あるいは婦女子が全部犯される、そういうことに対して、本当にそのままほって、見ていていいのか。例えば湾岸戦争にしてもそうですけれども、ヨーロッパのいろいろな紛争にしてもそうなんですけれども、それをほっておいていいのかということがやはり一番問題じゃないかなと私は思います。

 

[2018/8/10日 イライザ]

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2018年8月11日 (土)

被爆73周年原水爆禁止世界大会・長崎大会のまとめ ――核を巡る「現在」がコンパクトに分ります――

 

被爆73周年原水爆禁止世界大会・長崎大会のまとめ

――核を巡る「現在」がコンパクトに分ります――

 

被爆73周年原水爆禁止世界大会・長崎大会が、9日に終りました。これで今年の世界大会の全日程が終ったのですが、最後に長崎大会のまとめをアップしておきます。核を巡る「今」という時の姿がコンパクトにまとめられているだけでなく、これからの活動を支えるエネルギーを生み出す力を伴っての報告です。

 

               

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被爆73周年原水禁世界大会・長崎大会 まとめ

 

原水爆禁止世界大会実行委員会

事務局長 藤本泰成

 

728日、福島大会で始まった原水禁世界大会は、広島大会に続いて本日の長崎大会閉会総会と非核平和行進で幕を閉じます。記録的な猛暑の中で、開会総会から、分科会、閉会総会と、足を運んで様々議論いただいたことに、心から感謝を申し上げます。

 

また、大会を通じて開催にご尽力いただきました大会実行委員会の皆さま、そして中央団体、各県運動組織の皆さまに、心から感謝を申し上げます。若干の時間を頂戴して、集会のまとめをさせていただきます。

 

東京電力が、福島第二原発の廃炉を決定しました。しかし、本集会での様々な報告を聞いていると、事故を起こした福島第一原発サイト内においても、そしてサイトの外の世界においても、事故そのものと、事故の被害を含めた社会的影響は、全く終わっていないことが分かります。開会総会での福島県平和フォーラム事務局長湯野川守さんの報告や福島告訴団団長の武藤類子さんの報告から、福島第一原発の「事故の収束」と言うにはほど遠い実態が分かります。あふれ出る放射能汚染水、行方が分からない溶融燃料、拡散し続ける放射性物質、原子力資料情報室の澤井正子さんが言うように「原子力緊急事態発令中」という状態が、2011311日以来続いているのです。

 

2200万個とも言う、黒いグロテスクなフレコンバッグの山と暮らす毎日、公園、校庭、家の庭、仮置き場には、放射性物質を含んだゴミが埋められています。中間貯蔵施設には、その数%しか運ばれていないと言います。支援の打ち切りと帰還の強制は、一体となって行われています。自主避難だと言われ、住宅の無償提供も打ち切られた区域外の避難者の生活は困窮しています。全体で15%少しと言われる帰還した人々も、孤立化しているのが現状です。

 

福島では、設置されてきた3000台の放射能を測定するモニタリングポストも、2400台が撤去されると言います。目に見えない放射能、モニタリングポストは、風評被害を広げるのでしょうか、復興の妨げなのでしょうか。12市町村から継続配置を求められています。新聞社のアンケートでも、約半数が設置継続に賛成、反対は4分の1に過ぎません。

被害者の側にたった施策の充実を、補償と支援を勝ち取らなくてはなりません。

 

チェルノブイリ原発事故被害者のジャンナ・フィロメンコさんの報告から、核被害の共通点が浮かんできます。事故を知らされずに暮らしていた。一時避難のつもりで身の回りの者だけもって家を出たが、永遠に帰れなくなった。移住した子どもたちが「チェルノブイリのハリネズミ」などと呼ばれ差別に苦しむ。子どもたちが、がんや心臓疾患などの健康被害に苦しめられる。

 

フクシマと同じ被害の実態が明らかになっています。原水禁は、世界中の核被害者と連帯してきました。米国やオーストラリアで、少数民族の居住地で、乱暴なウラン採掘が行われ、放射性物質による被害が広がっている実態があります。日本の原発も、経済発展から取り残される地域に「飴と鞭」の政策で押しつけられてきました。チェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西の振津かつみさんの報告にある、核利用が社会的抑圧、差別、搾取の構造の上に立つという指摘と、核の開発と利用は、核の被害なしにあり得ないと言う指摘、私たちはもう一度しっかりと胸に刻まなくてはなりません。世界の被爆者と連帯し、その運動を学び合い、様々な視点からとりくみをつくり出そうではありませんか。

 

原水禁運動の原点は、被爆の実相です。そのことを起点に、国家補償に基づいて「被爆者援護法」を求めて来たヒロシマ・ナガサキの被爆者の、長きにわたるとりくみを、現在のフクシマに活かさなくてはなりません。チェルノブイリのとりくみと被害者救済のためのチェルノブイリ法に学び、私たちの運動をつくりあげていきましょう。

 

5次のエネルギー基本計画が出ました。全くでたらめの計画です。「電力自由化で競争が増していく中で、コストが膨張する原子力発電は、民間ビジネスとしては無理だろう」原子力資料情報室の西尾爆さんの報告で、廃炉の時代を迎えた現状と政策転換の重要性が示されました。2030年代に原発の電力が2224%は、あり得ない数字なのです。長崎大会の運営委員会の席上で、「自然エネルギーへの転換のために消費者の選択が大切」との意見をいただきました。自然エネルギー発電の割合の多寡を見極め、新電力・地域電力の選択を私たちの側から求めていくことが、「脱原発社会」の実現に重要です。

 

ドイツからのゲスト、緑の党のべーベル・ヘーンさんの、脱原発を選択したドイツからの報告はきわめて重要です。ドイツは段階的に原発を廃止し、202212月には全てが閉鎖される予定だということです。ドイツの自然エネルギー比率は、2017年現在で38.5%にまで延びています。脱原発の選択が、自然エネルギーの進捗を後押ししていることが分かります。「フクシマがドイツを変えた」と述べられました。私たちは、ドイツのとりくみに学びながらも「ドイツが日本を変えた」と言われるのは恥ではないでしょうか。私たちは、自らの手でエネルギー転換を図らなくてはなりません。

 

核兵器禁止条約そしてトランプ政権の「核態勢の見直し」への日本政府の姿勢も、大会全体を通じて議論されました。被爆者の思いを踏みにじり、核兵器廃絶へ後ろ向きの姿勢が明らかになっています。米国の核抑止力に頼りながら、自らもプルトニウムを保有し「潜在的核兵器保有国」であろうとする日本は、戦争被爆国としての核兵器廃絶へのリーダーシップを取ることができません。核兵器禁止条約への批准を政府に求めていく運動が大切です。

 

憂慮する科学者同盟のグレゴリー・カラキーさんは、米国の資料から、核戦力の充実と拡大抑止、日本への核兵器の再配備さえ求める姿勢を明らかにしました。日本政府は、朝鮮半島の非核化をめぐる南北首脳会談、米朝首脳会談にたいして、全くコミットすることができずにいます。今こそ、私たちが求めて来た「東北アジア非核地帯構想」を実現しなくてはなりません。朝鮮戦争の終結、国交正常化を経て、「東北アジア非核地帯条約」締結への道を歩もうではありませんか。日本政府に、朝鮮民主主義人民共和国との早期の国交正常化を求めていきます。

 

今年、26日、98歳で俳人の金子兜太さんが亡くなりました。金子さんは、2015年から東京新聞の「平和の俳句」の選者を務めました。201511日、最初の句は、

 

  「平和とは 一日の飯 初日の出」

 

愛知県の18歳、浅井さんの句で、金子さんの評は、「浅井君は、毎日ご飯に感謝し、その毎日の平和を守る覚悟だ」と言うものでした。

 

金子兜太さんは、海軍主計中尉としてトラック島に赴任し、餓死者が相次ぐ中、捕虜生活も経験しながら奇跡的に生還しました。その金子さんが1961年に長崎で詠んだ句があります。

 

  「彎曲し 火傷し 爆心地のマラソン」

 

金子さんは、爆心地への坂道を上るランナーを見て、「人間の身体がぐにゃりと曲がり、焼けて崩れていく映像」が、自身の目に浮かんだと述べています。原爆の悲劇を、14の文字の中に、はっきりと映し出しています。

 

2015年、戦争法反対の運動の盛り上がりの中で、金子兜太さんは「アベ政治を許さない」とのメッセージを揮毫しました。「集団的自衛権の名の下で、日本が戦争に巻き込まれる危険性が高まっています。海外派兵されれば、自衛隊に戦死者が出るでしょう。政治家はもちろん、自衛隊の幹部たちはどのように考えているのでしょうか。かつての敗軍の指揮官の一人として、それを問いたい」と述べています。「アベ政治を許さない」の中に、戦前と戦後を生き抜いた金子兜太さんの、確固たる信念が見えます。決して、私たちは戦争という愚行を繰り返してはなりません。どのような理由があろうとも繰り返してはなりません。それは、86日の広島が、89日の長崎が、私たちに教えています。

 

被爆73周年原水禁世界大会の終わりにあたって、みなさんとともに確認したいと思います。

 

 

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[2018/8/10日 イライザ]

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2018年8月 9日 (木)

被爆73周年原水爆禁止世界大会・広島大会のまとめ ――今年も、とても勉強になる大会でした――

201889日アップ

 

被爆73周年原水爆禁止世界大会・広島大会のまとめ

――今年も、とても勉強になる大会でした――

 

84日から、3日か開かれた被爆73周年原水爆禁止世界大会・広島大会ですが、6日の昼前に無事幕を閉じました。広島県の実行委員会としては、全国から多くの皆さんをお迎えすることが出来、大変嬉しく感じています。参加者の皆さんには、炎天下、熱心に様々な活動に参加して頂きました。今年も私たちに取っては素晴らしい勉強の機会になりましたし、初めてこの大会に参加された方々に取っても、今後の活動につながる意味のある3日間になったことを確信しています。

 

広島大会の「まとめ」をこのブログにアップすることも恒例になりましたが、今年も、新たな視点から分析なども加わり、読み易く、原水禁運動の「今」を理解する上で、とても役立つ文書だと思います。

 

               

Photo

             

写真は開会総会から

 

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被爆73周年原水禁世界大会・広島大会 まとめ

原水爆禁止世界大会実行委員会

事務局長 藤本泰成

 

暑い暑い広島大会に、最後まで参加いただきありがとうございました。3日間の日程を終えようとしています。本当に様々な議論がありました。少しお時間をいただき、私なりのまとめをさせていただきます。

 

2018年になって、私たち原水禁運動をめぐる情勢は、大きく動いています。それは、朝鮮半島と福島において顕著であると言わざる得ません。被爆73周年原水禁世界大会は、その事を根幹にすえて、様々な議論が続けられたと思います。

朝鮮半島の非核化に向けた米朝首脳会談の開催、そして東電による福島第二原発の廃炉決定、2つの事実は、私たちが求めて来た「東北アジア非核地帯」と「脱原発社会」へ向けた、大きな一歩であることは間違いありません。しかし、現状がきわめて混迷していることも事実です。分科会の議論がその混迷を様々捉えていました。そして、そのことは、私たちが考える以上に深刻であると言えます。

 

5分科会では、全ての原発の廃炉が決定した福島の現状と課題が議論されました。「終わりの見えない福島第一原発」と題した、原子力資料情報室の澤井正子さんの報告は、衝撃です。すでにメディアが取り上げることも少なくなったF1の現状は、まさに「原子力緊急事態発令中」と言えます。溶融した燃料デブリの回収は30年から40年かかる、1台数億円とも言われる調査ロボットは、高放射線量の中で、迷子になり、動かなくなり、捨てられる。澤井さんは「調査さえうまくいかないのに」と現状へ懸念の声あげています。凍土壁設置で騒がれた汚染水対策も十分ではなく、1100トンとも150トンとも言われる地下水が流入し、増え続けるトリチウム汚染水のタンクは、もうすぐサイト内では設置できないような状況になります。海洋放出という話しもささやかれていますが、澤井さんの、「トリチウムは、体内の細胞の中に長く止まり、長期被爆の怖れもある」との指摘を聞くと、現状の深刻さに震える思いがします。

 

福島から参加した、福島原発告訴団団長の武藤類子さんは、除染で出た放射性廃棄物のフレコンバック2200万個と、共に暮らす福島の現状を報告されました。問題が山積し余りに多岐にわたるために、適切な対処ができず、「連鎖的に人権が侵害されていくように感じる」と表現されています。告訴団は、東電幹部の刑事責任を追及する裁判も行っています。責任の所在が全く明らかにされてこなかった原発事故。事故の原因と責任を明らかにすることが、フクシマを繰り返さない事への、「脱原発社会」への一歩につながると思います。

 

6分科会では、チェルノブイリの被害者であるジャンナ・フィロメンコさんをお呼びして、核被害の世界連帯での議論が行われました。医師でチェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西の振津かつみさんの報告にある、核利用が社会的抑圧、差別、搾取の構造の上に立つという指摘と、核の開発と利用は、核の被害なしにあり得ないと言う指摘、私たちはもう一度しっかりと胸に刻まなくてはなりません。そうした上で、子どもたちの甲状腺がんに象徴される健康被害に対して、国家賠償に基づいて「被爆者援護法」を求めて来たヒロシマ・ナガサキの原水禁運動の成果を、現在のフクシマに活かし、チェルノブイリと連帯し、そしてチェルノブイリ法に学び、私たちの運動をつくりあげていかなくてはならないと思います。

 

1分科会では、辺野古新基地建設の土砂搬入を目前にする沖縄をテーマに議論が展開されました。憂慮する科学者同盟のグレゴリー・カラキーさんは、開会総会の挨拶で「米国の核兵器をアジアに、さらには日本国内に持ち込ませたいと密かに言っている人がいる」と述べ、加えて核抑止力に言及し「核の傘は、放射性降下物、有毒な放射線、核の冬の大飢饉から私たちを守ることはできない」と述べました。第一分科会では、グレゴリーさんから、「日本政府は、新しい小型の核兵器を作るというトランプ政権の決定に拍手を送りました。日本の外務省の一部の高官は、米国の新しい核兵器を沖縄の米軍基地に配備することを歓迎すると発言しまた」との事実が指摘されています。沖縄返還時点での密約問題は、現在においても日本政府の重要な課題であることが分かります。非核三原則を遵守することが強く求められます。

 

朝鮮半島を、東北アジアを目の前に、米国の東アジア戦略の要としての沖縄では、米軍基地の存在が、様々な問題を引き起こしています。沖縄平和運動センターの岸本さんから、第1分科会で、そしてこの閉会集会で、辺野古新基地建設の現状に関しての報告がありました。翁長雄志沖縄県知事は、公有水面の埋立承認の撤回に向けて動き出しました。辺野古建設撤回に向けて、県知事選挙へ向けて、翁長知事の強い思いを感じます。沖縄防衛局は、聴聞日の延期を申し出て、埋立の既成事実をつくろうとしています。817日にも予定される、土砂搬入を決して許してはなりません。

 

国際シンポジウムでは、東北アジア非核地帯構想を中心に、朝鮮半島の非核化に関して日米の視点から議論されました。ピースアクションのハッサン・エル・ティヤブさんから、朝鮮半島の非核化を要求する米国トランプ政権の、新たな「核態勢の見直し」の中での核戦力の強化の実態が報告され、しかし、社会インフラの劣化の中で、核の近代化への1.7兆ドルもの財政支出に、大きな批判が上がっていることが紹介されました。

 

「核態勢の見直し」は、核兵器廃絶と朝鮮半島の非核化の要求に矛盾するものとして見過ごすことができません。しかし、一方で米国の拡大抑止の強化を要求する日本政府の姿勢が、例えばオバマ政権の核廃絶への歩みを進めようとする姿勢に大きな障害になっていることが、グレゴリー・カラキーさんから指摘されています。核抑止に依存する日本政府の姿勢を、正していくことが重要な課題です。

ピース・デポの湯浅一郎さんからは、朝鮮半島情勢を踏まえ「東北アジア非核地帯条約」へのとりくみを開始すべきとの提案がありました。同席した広島原水禁代表委員の元広島市長、平和市長会議のリーダーだった秋葉忠利さんから、世界の非核地帯条約は、例えばアフリカでは半世紀をかけて成立した。時間がかかることを踏まえたとりくみが大切であり、それを後押しするのは市民社会の粘り強いそしてしっかりとした意思であるとの指摘がありました。様々なアプローチから、時間をかけたとりくみが必要であると思います。

 

ある方からのメールで、2015年に刊行された「被爆者はなぜ待てないか」という本に出会いました。著者は、関東学院大学で教える奥田博子さん。福島原発事故後に書かれた本書では、「戦争被爆国日本において、なぜ再びヒバクシャ出たのか」という問いに対して、ビキニ核実験での被爆の後に、東西冷戦の中にあった日本は、「米国の核の傘に依存した平和」と「米国の原子力産業に依存した繁栄を享受する道」を進んできた。「原爆」が「平和」に書き換えられ、潜在的核抑止力を担保するために、「原子力の平和利用」が高々と掲げられ、市民社会が取り込まれてきたと述べて、福島第一原発の事故が、戦後の日本社会が原爆体験や被爆の記憶にきちんと向き合ってこなかった事にこそ、その要因があるのではないかと指摘しています。

 

全ての国の全ての核に、そして平和利用にも「核と人類は共存できない」として反対してきた私たち原水禁運動は、核兵器と核の平和利用・原発を、ヒバクシャの視点からもう一度結び直して、運動の展開を図る必要があります。

 

マーチン・ルーサー・キング牧師の「黒人はなぜ待てないのか」から引用されたであろう本書の「被爆者はなぜ待てないのか」とのテーマは、被爆73周年を迎えた今日、私たちの運動に重くのしかかってくる言葉ではないでしょうか。ヒバクシャの思いを、実現しなくてはなりません。

  

福島原発事故以降、21基の原発が廃炉になりました。再稼働も9基にとどまっています。原発の新規増設・リプレースも困難です。「脱原発社会」を求める声は、国中に充満しています。

 朝鮮半島では、非核化への動きが進み出しました。核兵器禁止条約も採択されています。今こそ、ヒバクシャの思いを実現する、格好の条件が生まれつつあります。

 

三日間の様々な声を、それぞれの生活の場に持ち帰り、新しい時代を求めて動き出そうではありません。

 

最後に、本大会の開催にご尽力いただいた広島県実行委員会の皆さまと、各中央団体・各県運動組織の皆さまに、心から感謝を申し上げて本大会のまとめと致します。

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[2018/8/8日 イライザ]

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2018年8月 8日 (水)

切明千枝子さんの被爆体験 ――午後にはひろば・フィールドワークもありました――

 

切明千枝子さんの被爆体験

――午後にはひろば・フィールドワークもありました――

 

85日午前中に開かれた第8分科会のテーマは、「見て、聞いて、学ぼうヒロシマ」でした。その一環として、参加された皆さんには切明千枝子さんの被爆体験を聞いて頂きました。

 

前回も述べましたが、私の拙い筆ではとても再現不可能な内容だったのですが、それでも、何らかの形で伺ったことを整理しておくことも大切です。今回も箇条書きにまとめて見ました。

 

[切明千枝子さん]

             

Photo_4

               

 

l 1929 (昭和4) 生れで、今年89歳になる。

l 今起きたことでも今忘れるようになってきたが、あの日のこと、戦争のことは忘れられない。それは嫌な思い出だし、早く忘れたいと思っていたので、多くの人に話すことになるとは思ってもみなかった。でも、戦争の記憶を闇から闇に葬ってはいけないと考えるようになった。人間はかつてと同じ道を歩んでしまう傾向があり、それが恐ろしくなった。だから、話さなくてはと思っている。

l 私が生れた1929年は世界恐慌が起きた年で、「大学は出たけれど」という言葉が流行った。仕事がなかったからだ。株券は紙くず同様になり、生活苦から首を括ったり毒を飲んだりする人も多かった時代だ。

l 15歳のときに原爆が投下され、戦争は終ったが、「15年戦争」という言葉が示している戦争の時代を、べったり生きてきた。

l テロとかクーデターということは他所の国のことで、日本は関係ないと思っている人もいるかもしれないが、昭和の初めには、日本でも起きていた。226事件はクーデターで、私が小学校に上る前のことだった。そして、小学2年生の77日に日中戦争が始まった。

l 当時の日本人の多くは、中国人を「チャンコロ」と呼んで馬鹿にし差別していた。韓国も日本に併合されていて、半島人、朝鮮人に対する差別も酷かった。小学生の頃、一クラスに5人ほどの韓国籍の子どもたちがいたので、大人の差別は腑に落ちなかったし分らなかった。でも男子は差別をしていた。それを止められなかった。大人の考え方が段々子どもたちの心に浸み付いたのだろうか。

l 広島には陸軍の基地があった。県庁やそごう、リーガロイヤルホテル等のある広大な地域が基地だった。

l 宇品港は軍港だった。そこから兵隊たちが中国や韓国、南方に出兵して行った。私たちは毎日のように旗を持って、港に兵隊を見送りに行った。人間だけでなく多くの馬も外地に送られていた。遠浅で、御用船と呼ばれていた大きな船は沖に停泊していたので、そこまで艀で行き、兵隊さんたちはそこから船の舷側を登って行った。馬は登ることが出来ないので、クレーで釣り上げられた。そのときに、自分たちの運命を感じたのだろうか、哀れに聞えたいななきが今も耳に残っている。

l 宇品港は原爆では焼けなかった。終戦後そこに復員兵たちが戻ってきた。出征するときは多くの人が見送ったのに、帰って来た時には迎えに行く人が誰もいなかった。私たち学校の同級生何人かで相談して、薬缶を借り、湯飲みを借り、帰って来た人たちにお茶を配った。息も絶え絶え、髭ボウボウで帰って来た人たちを迎えた歌は田端義夫の『かえり船』だった。

l でも生きて帰れた人たちは良かった方で、外地で死んだ兵隊たちも多かった。それも飢えで死んだ兵隊の方が多かった。復員兵たちは、宇品までは何が起きたのかは分らなかったが、一歩、宇品を出ると一面の焼け野原しか目に入らず、茫然自失の状態だった。

l 今平和公園のある地域にあった中島町は歓楽街で、カフェなどもあった。戦争の末期まで続いていた。基地の兵たちが遊びに来るところだった。

l 本川の反対側、舟入町には遊郭があった。西遊郭とも呼ばれ、東遊郭とは格が違って、将校たちが馬で来るところだった。馬丁を務めていた兵は、一度馬を引いて帰り、翌朝、将校を迎えに来ていた。

l 広島はデルタ地域なので米は植えられず、綿が植えられていた。工場も多くあったが、軍関係の工場は、被服廠、兵器廠、そして糧秣廠の三つがあった。「秣」の意味は、馬の飼料。

l 1945年の夏、飛行機からビラが撒かれた。それには、「8月には広島が攻撃されるから、逃げなさい」という予告が書かれていた。差出人は「ツルーマン大統領」と書いてあり、普通は「トルーマン」と書くのに、その違いがおかしかった。ビラは先生に取り上げられて焼かれてしまった。

l 86日にはタバコ工場で働いていた。そして建物の陰に居たので、火傷もしなかった。でも、一二年生は建物疎開に出ていて全滅した。

l 何とか学校まで帰れた生徒もいた。誰もが、腕を前に付き出して、その腕からは昆布のように見えた皮膚が垂れ下がっていた。中には、昆布のようなものを足首から引き摺って歩いてきた生徒もいた。

l これを見た先生は、生徒の皮膚を引き千切って上げていた。生徒は、「先生有難う。これでちゃんと歩けるようになりました」と言った。

l 学校まで辿り着いても薬もない。家庭科で使うための菜種油が残っていたので、それを塗って上げるのが精一杯だった。そして、帰って来た生徒たちは次々と亡くなって行った。

l 夏の暑い時期だったので、荼毘に付さなくてはならない。運動場に穴を掘って、窓枠や机など、燃えるものを集めて下級生を焼いた。140センチくらいの身長の子どもたちだったが、白骨にするのは並大抵のことではなかった。火力が弱くて途中で火が尽きた。船舶隊の人が黒い油のようなものを持って来てくれて、それを掛けてようやく荼毘に付すことが出来た。

l 最後には、綺麗な標本のような骨が残っていた。桜の花の花びらのような色だった。その骨を容器に拾おうとしたが、全部は収めきれない。喉仏と歯だけ拾って、しばらくは校長室に収めておいた。こんな悲しい思いを今の若い人たちにさせてはならない。

l 力を尽して平和を守って行こう。何もしないでいると平和はなくなってしまう。考え、実行しよう。

l そして思い出して下さい。そうすることで、あの子たちは皆さんの心の中に生きることになるからです。あの子たちの分も一緒に生きてやって下さい。

l 戦争が再びやって来ないように声を上げて下さい。

l 戦後の73年間、憲法9条のお陰で、戦争によって日本人は一人も人を殺していない、そして日本人は一人たりとも死んではいない。この状態を続けることが出来れば、亡くなった人たちが、平和の礎になってくれたと思うことが出来る。

l 子どもも、大人も年寄りもそれぞれできることがある。自分のできることで、平和を守って行こう。

 

心を揺さぶられるお話でした。未だにその余韻に浸っています。

 

休憩後は、違った視点から私が核兵器禁止条約から学ぶこと、そして米朝会談の傍観者にならないための提案をさせて頂きました。午後には、いくつかのひろば・フィールドワークがあり、夜には灯篭流しに参加した人も多かったようです。

 

[2018/8/6日 イライザ]

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2018年8月 7日 (火)

お二方の被爆体験 (1) ――桑原千代子さんと切明千枝子さん――

 

お二方の被爆体験 (1)

――桑原千代子さんと切明千枝子さん――

 

原水禁世界大会の開会総会は84日に開かれました。豪雨災害の影響で参加者は少し減りましたが、それでも約2200人が参加して下さいました。全国から広島に来られた方々を改めて歓迎します。

 

               

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開会の挨拶は実行委員会の副委員長で、広島県原水禁の代表委員の一人、佐古正明さん(下の写真)でした。そして大会の基調提案は、大会事務局長の藤本泰成さんでした。

 

 

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毎回この場では、被爆者の方の体験を話して頂くことになっていますが、今年は桑原千代子さんでした。そして、5日の第8分科会「見て、聞いて、学ぼうヒロシマ」では、切明千枝子さんの被爆体験を語って頂きました。お二人とも記憶が鮮明で、当時の様子を伺いながら、涙を禁じ得ない場面ばかりでした。

 

私の拙い筆で、お二方のお話を再現することなど不可能なのですが、でも、何らかの形で伺ったことを整理しておきたいという気持もありますので、箇条書きのようなまとめ方になりますが、以下お読み頂ければ幸いです。

 

またこのお二人の被爆体験だけではなく、他にも多くの被爆者の体験記を、文字・音声・ビデオといったフォーマットで、広島の被団協がまとめています。また、広島市の平和記念資料館にも多くの体験記がありますし、国の施設である国立原爆死没者追悼平和祈念館でも体験記を読んだり聞いたり見たりすることが出来ますので、是非このような施設も活用して下さい。

 

[桑原千代子さん]

 

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l 当時、私は13歳、爆心から800メートルの雑魚場町で建物疎開に従事していた。

l 朝、体調が悪いので建物疎開を休みたいと母に言ったが、母からは「ダメ」と言われ、梅干しが二つ入ったお弁当を持って、防空頭巾を下げ、上は制服、下はモンペを穿いて雑魚場町まで歩いた。家は、そこから3.7キロ離れた宇品にあったので、子どもの足で1時間半掛った。

l 建物疎開はかなり進んでいて、多くの家が倒され、楠が一本立っていた。級友たちの何人も「家に帰りたい」と言い出していた。でも結局、先生には何も言えなかった。

l 空襲警報は鳴っていなかったのに、西から東に飛んでいる飛行機が見えた。敵機か日本の飛行機か分らないまま、友だちと話をしている最中、突然大きな音がして、洞穴の中に吹き飛ばされていた。

l 目を開けると周りは真っ暗で何も見えない。「助けて」と叫んだ。どう這い上がったのか分らぬまま、ふと人の声に気付いたら3人の人影か見えたので、「助けて」と叫んだ。

l 4人一緒に、明るい方向を目指して歩くうちに、鷹野橋に出た。おじいさんが担架の上で、「なんまいだ」と手を合わせているのを見た。兵隊さんが馬の手綱を握ったままの姿で立ったまま亡くなっていて、馬は倒れている場面にも出会った。

l とにかく人が多くいる方に歩いて行こう、と決めて歩いて行く内に、赤ちゃんを負ぶってあやしながら速足で歩いている若いお母さんにあった。思わず、「そのまま歩いていると、赤ちゃんの首が落ちるよ」、とお母さんに伝えた。

l 大橋まで来たときに、兵隊さんに、「この橋は燃えているから渡れない」と言われたのだが、橋を渡れないと宇品に帰れないので、兵隊さんの脇の下を潜り抜けて橋を渡った。

l 家の二階から若い母親が「5歳の子どもが柱の下敷きになっている。助けて下さい」と必死に訴えていた。何もできなかったし、私たちの後ろにいたお爺さんが「何もできないけれど、すぐ救援隊が来るから」と声を掛けていた。

l タカコさんが水を飲みたいと言っていたので、水を探していたら水道管の破裂しているところがあったので、水を飲もうとしたのだが、そのままでは飲めない。飯盒の中蓋を探して来て、ようやく飲ませることが出来た。そこに兵隊さんが来て、容器を取り上げた。「水を飲むと死ぬから飲んじゃだめだ」とのことだった。

l その後、担架でタカコさんを日赤まで運んでくれた。日赤の正面に着いた時には、私たちの一団は、5,6人に増えていた。

l そこから宇品に向って歩いた。途中で倒れている人に、「江田島の人間だから港まで連れて行ってくれ」と頼まれ、足首をつかまれたが、どうすることもできなかった。

l タカコさんの家に辿り着いたが誰もいなかった。それで我が家に帰ったが、時間は夜の7時だった。朝、出掛けてから12時間、家は傾き、窓は破れ家族はいなかった。友達は、それぞれ家に帰ったが、それから73年間、会っていない。

l 水が飲みたくなって、兵隊さんの言葉を思い出したが、それでもバケツに口を付けて飲んだ。とても美味しかった。でもすぐ全部吐き出してしまった。そうするとのどがカラカラになったので、また水を飲んだ、そして吐いた。それを何度か繰り返した。生きて来られたのは、それが、良かったからなのかもしれない。

l 「千代子」と言って母が帰ってきた。自分の怪我の手当てをして貰った後、子どものことを思い出したと言っていた。73歳で亡くなったが、母はずっとそのことで苦しんでいたのに違いない。

l 私の証言が平和を守るための一つの切っ掛けになってくれれば嬉しい。

l 平和は誰かに与えられるものではない。自部で掴み取らなくてはならない。その出発点は、人にやさしくすること、思いやりの気持を持つことだ。

 

桑原さんのお話が十分伝えられないもどかしさを感じつつ、これがきっかけになって、被爆者のビデオや録音を聞いて頂くことになればと願っています。

 

次回は切明千枝子さんです。

 

[2018/8/6日 イライザ]

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2018年8月 6日 (月)

核廃絶――最大の障害は日本政府 ――原水禁世界大会・国際シンポジウムの報告――

 

核廃絶――最大の障害は日本政府

――原水禁世界大会・国際シンポジウムの報告――

 

毎年、原水禁世界大会についての報告は、会議には出席していなかい方々にも全体像を知って頂くことを目的にして、新聞報道の形をお手本にした書き方をしてきましたが、今年は趣向を変えて、特に印象に残った何点かに焦点を合せます。

 

国際シンポジウムは、85日の午後開かれました。その中でのグレゴリー・カラキーさん (アメリカの科学者によるNGO・憂慮する科学者同盟) の報告に、参加者一同溜息を吐くことになったのですが、同時に大きな疑問も湧いてきましたし、対抗手段としての私たちの声の大切さを再確認する機会にもなりました。

 

                 

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 一番右がカラキー氏、左からモデレーターの藤本泰成原水禁事務局長、湯浅一郎ピース・デポ代表、ハッサン・エル・ティヤブ アメリカ ピース・アクション・ディレクター


カラキーさんの報告のポイントは、「オバマ大統領が、『核兵器の先制使用』宣言をしようとしたときに、それに反対をし、結果としてこの宣言を葬り去ったのは、日本政府だ」ということなのです。

 

2016年にこの事実はそれなりに報道されましたし、このブログでも三回にわたり取り上げています。第一回目第二回目第三回目を続けてお読み頂ければ幸いです。

 

新事実として、カラキーさんが私たちに伝えてくれたのは、次のようなことです――その年、つまり2016年の5月にオバマ大統領が広島訪問をした際、オバマ大統領は広島で、「核兵器先制不使用」宣言をしたかった、しかしそれができなかったのは、日本政府が妨害したからだという事実です。

 

重要な政策決定ですし、日本は同盟国だということになっていますので、もちろん、オバマ大統領の意図は事前に日本政府、特に外務省に伝えられます。それを聞いて外務省は激怒したというのです。そして、国務長官、国防長官、そしてエネルギー長官に直接電話をして、「核兵器先制不使用」宣言をしないよう、要求したのだそうです。

 

その結果、歴史を大きく変えることになったであろう、アメリカによる「核兵器先制不使用」宣言は実現しませんでした。

 

この宣言が実現していれば、米中関係は一挙に信頼度を増しました。中国は、いわば国是として、「核兵器先制不使用」を核政策の基本として採用してきたからです。さらに、アメリカの先制使用がなくなれば、北朝鮮が核開発をする必要性も減少することになって、北東アジア非核兵器地帯実現に大きな一歩にもなったのです。つまり、オバマ大統領の意思を外務省が妨害したことは、残念といった穏やかな言葉では表現できないほどの大きな損失を人類に与える結果になったのです。

 

そこで生じる疑問があります。この点は、国際シンポジウムの終了後、何人もの出席者が異口同音に口にしていたことなのですが、「いつから日本政府は、アメリカの重要政策を変えられるほどの力を持ったのか」という疑問です。

 

最近の例を取っても、日本製品をアメリカに輸出するに当って、アメリカが敵視している中国と同じ扱いで関税を引き上げるという方針が採用されました。「お友だち」だと思っている安倍総理には事前の相談もないままに、一方的な「宣言」です。そんなことが出来るのですから、「核兵器先制不使用」宣言も一方的にできたはずです。にもかかわらず、日本政府、特に外務省の意向で重要政策の実行を中止するなどというシナリオは、彼我の力関係を考慮すると、全く想定外なのです。

 

にもかかわらず、日本政府が「核兵器先制不使用」宣言潰しの立役者になっているのは、例えば、そうすることでアメリカ側には何らかのメリットがあり、日本政府にはそう立ち回って貰いたかった。そのアメリカの考え方を「忖度」して外務省が、その通りのシナリオで、アメリカが望む役割を果した、という可能性が頭に浮びます。アメリカ側の「都合」とは、一昨年「核先制不使用宣言・その3」で、指摘したように、最悪のシナリオが実現した場合に、その責任を日本に押し付けられる、ということです。

 

もう一つの可能性も考えておく必要があります。それは、アメリカが、核政策について日本の言うことを聞かなければ、日本は独自の核武装をするぞ、という脅しです。しかし、この点も、日本の内閣の首を簡単に挿げ替えられるアメリカですので、結局アメリカの描くシナリオの中で踊らされているに過ぎないかもしれません。

 

でも、こんな状況に対する特効薬も存在します。政策そのものに対する評価は別として、アメリカ政府には、日本に関連する重要案件の検討に際して、日本の世論を重んじる姿勢があるからです。例えば、極東裁判において天皇を被告にしなかったことや、オバマ大統領の広島訪問に際して、ケネディー大使を任命して日本の世論がオバマ訪問を受け入れ易いような環境を作ったことなどです。

 

楽観的過ぎるというお叱りを受けるかもしれませんが、核廃絶について、核兵器禁止条約について、また日本の核武装についても、私たちの考え方が常に明確にそして決定的に、しかも分り易くまとめられ、マスコミもその線の報道を熱心にするような世論を作り上げて行くことが大切なのではないでしょうか。

 

[2018/8/5日 イライザ]

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2018年8月 5日 (日)

「事件記者」を偲ぶ会 ――「ヤマさん」の没後31年になりました――

 

「事件記者」を偲ぶ会

――「ヤマさん」の没後31年になりました――

 

かつて、「事件記者」と言えば、誰でもNHKの人気番組のことだと分り、警視庁の記者クラブを舞台にしたドラマの中で、どの記者のファンなのかまで、熱く語っていた時代がありました。1958年から1966年まで続いた番組で、視聴率47.1パーセントを記録したこともあったくらい人気があったので、いわば当然な話なのですが、今となっては、「事件記者」を覚えている人も少なくなってきたようです。

 

そのドラマの中で、園井啓介演じる「ヤマさん」のモデルになったのが、当時、毎日新聞の警視庁記者クラブで活躍していた山崎宗次さんでした。長い間毎日新聞の社会部記者として活躍し、後に広告局長としても敏腕を振った人ですが、1987714日、あまりにも早い旅立ちをされてしまいました。

 

私が山崎さんとお会いしたのは1969年の夏でした。初めて月に到着したアポロ11号取材のためにアメリカを訪れていた山崎さんと同僚の清水さんに、ハーバード大学のキャンパスでバッタリ。「ハーバードの卒業式を取材するためにボストンまで来た」という自己紹介から話が盛り上がりました。それが縁で、夏休みの間、毎日新聞の取材班の運転手件通訳兼雑用係として、山崎さんの謦咳に接することになりました。ジョン・グレン氏を追悼して、この件については以前触れています。

 

その時、初めて「山崎塾」のことを伺いました。マスコミ志望の学生たちに文章の書き方やジャーナリストとしての心構えを教える「塾」なのですが、それをボランティアとして主宰されているとのことでした。それから夏休みに日本を訪れたときには必ず塾に顔を出すようになりました。若い塾生の皆さんと一緒に、山崎「塾長」から多くのことを学ばせて頂きました。

 

社会を変える上でのジャーナリストの役割が重要であることは分っていても、それをどう生かすのかが大切です。当時、私は、アメリカに住みながら、広島・長崎の被爆体験や被爆者のメッセージがアメリカにも世界にも十分には伝わっていないことを痛感し、何かしなくてはと思い詰めていました。

 

「そのためには、ジャーナリストの持つ取材力、そして発信力を生かそう」という意気込みで、山崎さんや塾生たち、また原水禁運動の通訳仲間たちとの協力の下、ローカル・ジャーナリスト招請プロジェクト、通称「アキバ・プロジェクト」のアイデアが生まれました。後に、広島国際文化財団が主催し、広島市や長崎市からも応援し貰うことになりましたが、山崎塾を中心に大きく広がっていたネットワークに属するジャーナリストやオピニオン・リーダーたちを動員して全面的に応援してくれたのも、塾長でした。こうした活動を通じて、奥様はじめ、御家族の皆さんとの家族ぐるみでのお付き合いが始まりました。

 

               

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御家族の皆様--写真を持っているのが万里子夫人

 

今年は、その山崎塾長が旅立たれてから31年目の夏でしたが、83日に、山崎塾長を偲ぶ会が開かれました。塾OBOG、そして山崎ネットワークのメンバーたち約100人が参加してくれました。参加者一人一人が、弁の立つ人であり、また言葉を駆使しての仕事をしている人たちですから、塾長を今でも慕う気持の全てを報告することなど不可能です。その中で、第一期生の平本和生、元BS-TBS社長・会長の言葉が、山崎塾の本質を見事に表現してくれました。それは、塾長が抜きん出た人間洞察力を持っていたが故に、塾生一人一人の人間的なポテンシャルと魅力を見抜くことが出来た。その結果、一人一人の塾生と熱い血の通う人間関係を作ってくれたからこそ、塾生の真の力が花開いたのだ、という言葉でした。私も心からそう感じていました。

 

そんな形で山崎塾長の薫陶を受けた塾生たちも、一番若い人たちでさえ、あと数年で定年という時期に差し掛かっています。塾長亡きあとも、多くの塾OBOGたちとのお付き合いは続けてきましたが、今回の偲ぶ会を前に、こうした皆さんがマスコミその他の分野で頑張ってきた「総体」をどう表せば良いのか、考えて見ました。

 

ジャーナリズムその他の世界で確固たる地位を占めるに至った人は勿論ですが、中には、夭折した人もいますし、志半ばで別の道を歩んだ人もいます。妥協しながらも理想の灯を消さないための努力を続けた人も多いでしょう。その人たちも含めて、私が知る限り、山崎塾長の遺志を継いで頑張って来た、塾生たちがいたことで今の日本は随分良くなっていると思えるのです。仮に悪いとしか見えない部分があったとしても、塾のOBOGたちがいたからこそ、この程度で止まるようにブレーキを掛けて来られたのだと思っています。そのことを、天にいる山崎宗次氏に誇りをもって報告したいと思います。それは、山崎氏自身が如何に大きな仕事をしたのか、さらにその遺志が今でも生き続けていることも示しています。

 

山崎塾長の著書を一冊挙げろと言われると、それは躊躇なく『カンカラ作文術』なのですが、ここで「カンカラ」とは、「カンカラコモデケア」の略です。「カンカラコモデケア」とは聞きなれない言葉ですが、「カン」は感動、「カラ」は、カラフル、「コ」は今日性、「モ」は物語性、「デ」 データ、「ケ」は決意、そして「ア」は明るさで、文章を書くとき、これだけの要素が含まれていれば、良い文章になる、という文章術の極意です。

 

披露されたエピソードの中に、この「カンカラコモデケア」についての楽しい話題がありました。かつて、中央競馬会に2008年から2012年まで「カンカラコモデケア」という名前の競走馬が登録されていたそうです。主に東北や北海道で走っていたらしいのですが、生涯の成績は36回出走して3勝、得た賞金は39万円だとのことでした。結果はともかく、「カンカラコモデケア」には、夢を紡ぐ力が備わっているようです。

 

最後に、52歳という年齢で、あれだけの仕事をした山崎塾長には、完全に脱帽する他はないのですが、山崎塾長の三日後には、同じく52歳で石原裕次郎さんが亡くなっています。その二年後には、美空ひばりさんが同じく52歳で亡くなっています。昭和という時代が、実は50代に入るか入らない、あるいはそれ以前の年齢で活躍していた人たちによって創られていたということなのですが、馬齢を重ねるだけしか能のなくなった身として、それでもまだ何か、彼らの遺志を未来につなげるために、山崎塾長から教わった言葉「老驥千里を走る」を引っ張り出して、頑張りたいと思っています。(辞書には「老驥千里を思う」というバージョンが載っています。山崎塾長からは「走る」と教わりましたので、そちらを引用します。)

 

[2018/8/3日 イライザ]

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2018年7月24日 (火)

防衛省を防災省に ――豪雨災害からの教訓 (14)――


防衛省を防災省に

――豪雨災害からの教訓 (14)――

 

「自衛隊 ⇒ 災害救助隊」、つまり「防衛省 ⇒ 防災省」というパラダイム転換を実現するために、「防災省 (仮称)」はどんなお役所なのか、大雑把なスケッチになるとは思いますが、青写真を御覧頂きたいと思います。とは言っても、一素人が防災についての大きな絵を描こうとしているのですから、完成させるためには多くの皆さんの助けが必要です。

 

防災の専門家、例えば消防や警察の関係者、自衛隊の防災担当者の皆さん、学者や行政の担当者、そして被災者の方々やボランティアの皆さん等々に助けて頂ければ幸いです。例えば、もう既に良く練られた「自衛隊 ⇒ 災害救助隊」あるいは「防衛省 ⇒ 防災省」転換のための計画があってもおかしくありませんし、それほどラディカルではなくても、災害を恒常的な存在であると捉えた上での対応指針のようなものもあるかもしれません。御存知の方がいらっしゃいましたら、是非御教示頂ければ幸いです。その他、明らかな間違い、思い込み等々、この件について気の付いたことなら、何でも結構ですからお寄せ下さい。

                            

 また、考え方を分り易く説明するために、「自衛隊 ⇒ 災害救助隊」あるいは「防衛省 ⇒ 防災省」という表現を使っていますが、「防災省」と「防衛省」が、バランスのとれた形で共存する形など、実現のためには様々な可能性がありますので、柔軟にかつ創造的にアイデアを育てて行ければと思っています。

 

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「防災省」設置案

 

[設置目的と根拠法]  憲法第25条、つまり、〔生存権及び国民生活の社会的進歩向上に努める国の義務〕として掲げられている次の「権利」を保障し、国の「義務」を果す上で、自然災害が国民の生命ならびに生活に多大なる脅威となってきた歴史を踏まえ、また、自然災害を日本という地理的範囲を全体として捉えると、「恒常的」な災害が生じているという認識の下、自然災害を最小限に抑えるために防災省を設置する。

 

25条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

2.  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

《解説》  

 「自然災害」の定義――「自然災害」の中には、次のような事象による被害を含める――地震、噴火、津波、高波、竜巻、台風、洪水、土石流、大雨、大雪、猛暑、厳寒、旱魃等。

 「自然災害」には「恒常的」対応が必要――ここ20 (あるいは〇十年) ほどの災害の実態を、それ以前の災害の統計と照らし合わせた上で、地球温暖化と異常気象についての世界的な知見も活用して、自然災害が日常的脅威となっている現実を直視する。今後の対策としては、国のレベルならびに地方自治体、さらには企業等の組織や個人までも含めた「ステーク・ホールダー」たちが、災害は起きた後で対応するものというこれまでの枠組みを捨て去って、「恒常的」対応が必要なものであるという認識を共有する。

 被害の総体を把握――そのための経年比較をする際には、次のような側面に特に注意する必要がある。死亡者数、全壊・半壊等の建物被害数と被害金額、道路・鉄道・港湾・空港、水道・電気・ガス・通信等のインフラの被害規模、特にその復旧に要する費用、農林水産業の被害規模と復旧のための費用、民間企業その他の団体が被った被害規模ならびに金額、被災者や被災団体が失うことになった「時間」とその間に失われた生活や生産等を数値化することで得られる逸失費用等、敢えて重複を恐れずにあらゆるコストを計上した上で整理・分析することによって、被害の総体を把握し、全国民が共有できるように表現・周知・共有する。

 一つの省が必要――これまでの国の対応、例えば災害担当大臣を置くといった措置では不十分で、災害救助のできる実働部隊を伴う一つの省が必要である。防衛省の存在が必要であるなら、それ以上に防災省の設置は必要かつ緊急を要する。

 自衛隊より緊急度は高い――その理由を簡単に説明すると、それは死者数、さらに生活の激変を余儀なくされた「被害者」の数を見るだけで明らかである。まず、この73年間、外国の侵略によって死亡した日本国民はゼロであり、また死亡を含む生活の大激変という形での外国からの影響は、アメリカ軍基地の存在以外にはないと言って良い。対して、自然災害による死者数は膨大であり、東日本大震災の結果、未だに避難生活を続けざるを得ない人々の御苦労を考えただけでも、「防災」の重要性は自明である。結論として、「防災省」を実現しこうした被害を減少させるために、全国民が一致してその設置のために努力すべきである。

 自衛隊以上の予算を――外国からの侵略がなかったのは、自衛隊があったからだという議論もありそうだが、予算面等で自衛隊と同じ「レベル」での災害対策をこれまでして来ているのかも検証した上で、現在のレベルを凌ぐ防災対策を立てることで、同様に、「防災省」があったから自然災害の被害が減少した、と数年後には言えるようになるはずである。

 情報、予算、人員、教育、公報等、一つの省が把握することで、実効性のある施策が展開できる――今回の豪雨災害において問題になった、愛媛県野村ダムと狩野川ダムの放流についても、下流の被害も視野に入れたダムの管理計画が綿密に立てられ、下流との連携が余裕をもって立てられていれば、被害はかなり軽減された可能性があり、それを可能にするための、「被害」を最優先する立場からの施策を展開する「防災省」の出番がある」。災害防止のための予報や警告の分野だが、それを可能にする予算の獲得や、実働部隊の人員の確保、災害時の避難等について住民への周知と日常的訓練等、一元化された行政の担える範囲は広い。

 

防災省の組織、任務、他の省庁との関係、自治体との役割分担等についても次回から順を追って説明します。

[2018/7/23 イライザ]

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2018年7月23日 (月)

無抵抗降伏論・その4 ――豪雨災害からの教訓 (13)――


無抵抗降伏論・その4

――豪雨災害からの教訓 (13)――

 

「自衛隊 ⇒ 災害救助隊」というパラダイム転換のための第一段階として、森嶋通夫氏の『日本の選択』の論理的帰結も加えて、次の三つの命題を説明しています。

 

(A) 軍隊としての自衛隊の適正規模は「ゼロ」である。

(B) 「国防」のための手段は、軍事力といった「ハードウェア」ではなく、外交や経済・文化等の分野における国際的な活動、つまり「ソフトウェア」ではなくてはならない。

(C) 人、知恵、金をこうしたソフト面に注入して国内では「防災省(仮称)」を創設し、防衛省は廃止するとともに、世界貢献をするために、国際的に活躍する「サンダーバード」のような組織を「防災省」内に創設する。

 

今回は、(B)の中でも、

(ア) 戦争を仕掛けられても、「降伏」する方が、その後の社会に取ってはより良い選択である。

に続いて、

(イ)  ソフトウェア的国防にこそ、力がある。それを示している事例を示す。

です。

 

 既に、第二次世界大戦におけるイギリスの軍備とその後の勝利の原因をどう考えるのかについて、森嶋氏は「軍事力」という「ハードウェア」面で勝ったというより、「ソフトウェア」面での「政治力」の勝利だと判断しています。

 「歴史の教訓から学ぶことは大事である。第二次世界大戦から学ぶべきことは、最初は劣勢ではあっても、ヨーロッパのほとんど全ての国を自分の陣営に引き止め、さらにアメリカまで巻き込み、ソ連すら参戦させたことである。イギリスに勝利をもたらしたのは、軍事力ではなく、この政治力である。」

 さらに、ポツダム宣言を受諾して降伏した日本の場合、「無条件降伏」ではなく、唯一の条件として日本側が提示したのが「国体の護持」だったと解釈されていますが、連合国側はその条件を認めたとは考えていなかったようですので、天皇の戦後の位置付けはかなり危ういものだったようです。その点について森嶋氏は、実質的に国体の護持は守られたと考えて良いだろう、そしてそれを可能にしたのは「ソフトウェア」的な実績だったと言っています。

   「しかし最初は天皇の地位は極めて危なかった。戦争犯罪人に指定される可能性すらあったのである。けれども、もし天皇が逮捕されたなら、日本では大規模な叛乱が起こり、日本に大部隊の占領軍を長期間駐留させても、なおかっ、占領業務は順調に行なわれえないであろうという理由で、天皇は免責された。この他にグルー国務次官(元駐日米大使)が天皇制存続論者で、彼がワシントンで日本を救う役割をしてくれたことや、さらに天皇御自身の皇太子殿下時代のイギリスでの交遊が、多くのイギリス人によって高く評価きれていたことが、日本に「国体護持」をもたらした重要な要因に数えられている。

これらの要因の内、最後の二つは、国際親善、国際交流、相互理解が強力な防衛手段になり得ることを明白に証明している。もっとも最初の要因、すなわち「天皇を逮捕すれば日本で叛乱が起こり、米軍自身が困るから天皇を逮捕しなかった」という推論は、関、猪木氏の「抑止力の理論」の一種であるが、彼らの理論とちがうところは、それが武器抜きの抑止力の理論であるという点である。当時の日本に武器がないことは、誰よりも占領軍自身が知っていた。武力の裏付けがなくとも抑止力は充分作用したというこの貴重な経験を、われわれは決して忘れてはならない。逆にあの時、徹底抗戦していたなら、国体護持どころか日本は全く滅亡していたであろう。」

 

               

Josephgrew

             

ジョセフ・グルー大使・国務次官

 

(ウ) その具体的なアイデアとして、森嶋氏は次のような提案をしています。論争相手の関氏や猪木氏が当時の防衛費について、GNP0.9%だったものを引き上げて3.4%にすべしとの主張を受けて、それでは、増加する2.5%をどう使うのかという点についてのものです。

   「これだけの金をタンクや飛行機やミサイルの購入に費消するのでなく、私が主張している広い意味での防衛費、すなわち文化交流や経済援助や共産諸国との関係の改善や、欧米諸国との間の貿易黒字差額の縮小用に追加するならば、単に共産固との関係だけではなく、アメリカ、EC、東南アジア諸国との関係も非常に良好になるに違いない。日本は積極外交をしやすくなり、ソ連は日本の仲介能力を評価し、日本はそれだけ安全になる。

  しかし、もし逆にこの2.5%で軍備を増強すれば、平和の風船は一挙に破れてしまうかも知れない。2.5%を算出する際の分母になる日本のGNPはそれほど大きいのである。」

 

となると、次の結論はほぼ自明なのですが、もう少し具体的にどのような活動をするのか、そして課題はどこにあるのか等、次回以降、詳しく考えて見たいと思います。

 

(C)         人、知恵、金をこうしたソフト面に注入して国内では「防災省(仮称)」を創設し、防衛省は廃止するとともに、世界貢献をするために、国際的に活躍する「サンダーバード」のような組織を「防災省」内に創設する。

 

[2018/7/22 イライザ]

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コメント

無抵抗降伏論=無抵抗幸福論
であるともいえそうですね。
そんなパラダイムシフトが起こりつつあるのは、
インターネットの力によるのでしょうね。

「コウフク」様

コメント有り難う御座いました。

うまいっ! 座布団一枚です!!

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