言葉

2017年12月15日 (金)

「変節」「言い訳」「裏切り」 ――日本政府の得意技――


「変節」「言い訳」「裏切り」

――日本政府の得意技――

 

特許を取るにも、学問の成果を認められる場合も、他人より先に出願したり論文を書いたりという事実、つまり「最初」が評価されます。ノーベル賞にもその傾向がありますから、日本政府が、1945810日の主張を続けて、「核兵器は国際法違反」だというキャンペーンを展開していたら、今年の受賞者は日本政府だったかもしれません。いや、もし日本政府がそんなことをしていれば、核廃絶にはもっと近付いていたでしょうから、もう何年も前に受賞していたかもしれません。

 

しかし、残念なことに日本政府、特に外務省は「変節」してしまいます。そして、「立派な」「言い訳」を裁判所で開陳します。アメリカにとっては好都合だったのですが、被爆者や戦争で犠牲になった多くの人たちに対する「裏切り」であることは、言うまでもありません。何時も、この「言い訳」を読む度に腹が立ちますので、読みたくはありませんし、読まなければ良いのですが、こうした歴史も若い皆さんにきちんと知っておいて貰いたいことの一つです。敢えて、今回取り上げる所以です。

 

1955年(昭和30年)4月、広島の下田隆一さんら3人が、国を相手に東京地裁に損害賠償とアメリカの原爆投下を国際法違反とすることを求めて訴訟を起しました。その判決は1963127日に言い渡されました。

 

             

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東京地方裁判所のホームページから

 

裁判の中で、被告としての日本政府が述べた、原爆は「国際法違反ではない」という言い分です。

 

「原子爆弾使用の問題を、交戦国として抗議をするという立場を離れてこれを客観的に眺めると、原子兵器の使用が国際法上なお未だ違法であると断定されていないことに鑑み、にわかにこれを違法と断定できないとの見解」

 

さらに「その当時原子兵器使用の規制について実定国際法が存在しなかったことは当然であるし、また現在においてもこれに関する国際的合意は成立していない」という理由で原爆使用の違法性を否定。

 

またハーグ陸戦法規などの諸条約は原子兵器を対象とするものではないので無関係だという立場。

 

「敵国の戦闘継続の源泉である経済力を破壊することとまた敵国民の間に敗北主義を醸成せしめることも、敵国の屈服を早めるために効果があり」、広島・長崎への原爆投下も日本の屈服を早めて交戦国双方の人命殺傷を防止する効果を生んだと主張。

 

最後の段落は、トルーマン大統領が広島に原爆を投下した直後に記者会見で述べた考え方をそのまま使っています。

 

この下りを見ると、憲法の前文を読み間違っていたのかな、という気にさえなります。

 

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

 

が、その部分なのですが、これを

 

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利はアメリカがこれを享受する。

 

と書き換えて、日本政府が解釈し国政を司っているとしたら、符丁がピッタリ合うのですが―――。

 

しかし、「日本」と言っても多様です。この裁判では、古関敏正、三淵嘉子、高桑昭の三人の裁判官が、勇気ある判決を言い渡しています。その内容は、次の通りです。

 

まず、「アメリカ軍による広島・長崎への原爆投下は国際法に違反する」。

しかし、対日平和条約によって請求権は放棄されており、「被爆者は損害賠償請求権を持たない」。従って、原告の損害賠償請求は棄却。

 

そして、最後に裁判官は次のように述べています。

「国家は自らの権限と責任において開始した戦争により、多くの人々を死に導き、障害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは、とうてい一般戦災者の比ではない。被告がこれに鑑み十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう。それは立法府及び内閣の責務である。本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられない」。

 

原告も被告も控訴しなかったので、この判決は確定しています。そして、判決文の中で、被告である国が「国際法違反ではない」と主張した根拠としての3点は全て否定されています。ですから、法全体の体系からすれば、日本政府が1996年の国際司法裁判所の勧告的意見採用の際に述べた意見も、今の時点で、核兵器が「国際法違反ではない」と言い張ることも「違法」です。

 

当然、日本政府は、その延長線上にある核兵器禁止条約の署名・批准も積極的に推進すべき立場なのです。その義務を果していない政府は変えるべきでしょう。そのために、選挙で安倍政治を変えるという正攻法は大切ですが、その前段として、世論を高めるため、先ずはもっと関心を持って貰うために、いろいろ工夫をしなくてはなりません。そのためにも皆さんの知恵をお借りできればと思います。

 

 

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2017年12月13日 (水)

「押し付け」嫌いの皆さんへ ――アメリカに堂々と発言した時代を思い出しましょう――


「押し付け」嫌いの皆さんへ

――アメリカに堂々と発言した時代を思い出しましょう――

 

憲法を変えたいと主張する人たちの決まり文句の一つは、「アメリカに押し付けられた」憲法だからということなのですが、確かに「押し付けられ」て行動するのは、意に染まないですね。もっとも憲法については別の有力な議論がありますので、またの機会にして、ここでは核兵器の違法性についてです。

 

太平洋戦争中に日本政府のしたこと全てが違法だったり非人間的だったりということではありません。でも素直に自らの過ちを認めない人たちに対して事実を示して抗議し続けている内に、こちらは日本政府の非を指摘しなくてはなりませんので、その舌の根の乾かぬ内に、日本政府の正しさを褒めるのも、感情的には面白くありません。とは言え、歴史は客観的に捉えなくてはなりません。

 

核兵器禁止条約が発効すれば、核兵器の使用や核兵器による脅しは当然、国際法違反です。しかし、核兵器使用が国際法違反だという主張はもっと前からハッキリと国際舞台で表明されていたのです。

 

それを最初に指摘したのは、日本政府です。1945 8 10 日スイス駐在公使を通じてアメリカ政府に渡された抗議文に核兵器使用が国際法違反だと明確に述べられています。それを引用します。

 

抑々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を与うべき兵器、投射物其の他の物質を使用すべからざることは戦時国際法の根本原則にして、それぞれ陸戦の法規慣例に関する条約附属書、陸戦の法規慣例に関する規則第二十二条、及び第二十三条()号に明定せらるゝところなり。米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ残虐性において、従来かゝる性能を有するが故に使用を禁止せられおる毒ガスその他の兵器を遥かに凌駕しをれり、米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り多数の老幼婦女子を殺傷し神社仏閣学校病院一般民家などを倒壊又は焼失せしめたり、而して今や新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別残虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たな罪状なり帝国政府は自らの名においてかつまた全人類及び文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」

 

大変立派な文章です。文語調ですので、分り易くするためポイントを要約しておきましょう。

 

この抗議文で根拠としている法律は1899 年ハーグ「陸戦の法規慣例に関する条約」です。日本政府は、原爆投下がこれに規定されている次の項目に違反していると主張します。

 

不必要な苦痛を与える兵器の禁止(第23 条)

無防守都市に対する無差別広域爆撃の禁止(第25 条)

軍事目標主義(第27 条)

 

さらに、原爆投下以前の日本各地での無差別爆撃も国際法違反だと主張しています。

 

           

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ハーグ陸戦条約が採択された第一回万国平和会議(1899年、ハーグ)

 

 

理路整然と、原爆の本質を突いた指摘ですし、今年採択された核兵器禁止条約の内容とも矛盾しないどころか、この日本政府の立場を敷衍したのが、核兵器禁止条約だと言って良いのです。

 

安倍総理、菅官房長官、河野外相、岸田前外務大臣、その他「押し付け嫌い」の皆さん。「アメリカからの押し付け」が嫌だから、国の基本である憲法さえ変えようという程の嫌悪感なのですから、そろそろ「押し付けられる」状態から脱して、先ずはその直前、つまり1945810日に戻って、核兵器は国際法違反と声高らかに宣言するところから始めて見ませんか。

 

 

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コメント

何かで読んだのですが、戦争とは、国家(国)間で、軍服を着て階級が兵士が戦うことだと。
そうであれば、民間人を多数巻き込む戦闘は、戦争の定義を外れますから違法なんだと思います。
都市空襲に使った焼夷弾は、堅固な軍事施設を破壊する爆弾でなく、木造建物の民間の家を狙ったものです。つまり、軍人を殺傷するためでなく、民間人を殺傷するために作られた兵器ですから違法でしょうね。
当然に、核兵器は多数の民間人が犠牲になる事を前提にして使われる兵器ですし、地域の壊滅、民族の殲滅、人間を破滅させる兵器ですから、明らかに国際法違反ですね。
被曝者の方達は、寛容さで平和を求めるられていて、とても立派な事ですが、過激に騒がない事を悪用してますね。核保有国や核の傘にある日本国家は。
アメリカに押し付けられた憲法がダメだというのなら、アメリカに従属する日米安全保障条約や日米地位協定は、その前に破棄すべき条約ですね。

今の日本、沖縄の問題(辺野古)も含め どこへ向いていこうとしているのか…怖いです(◞‸◟;)

「やんじ」様

コメント有り難う御座いました。

おっしゃる通り、ジュネーブ条約で、戦闘員と非戦闘員ははっきり区別されています。非戦闘員を戦争に巻き込むことや、その可能性を作ることは禁止されています。しかし、世界的にこのルールは無視され続けてきました。

そして、日本政府に「論理性」や「誠実さ」「知性」等を求めるのは無理だということなのだと思いますが、選挙という手段でそれを変えるためには、私たち一人一人が情報の発信源として、もうちょっとずつ頑張ることが役立つのだと思います。

「  」様

コメント有り難う御座いました。

安倍政治の怖さは大多数の人には分っているようなのですが、何をしたら良いのかというところで、先に進まないきらいがあるようです。

まずは、「怖い」「どうしたら良いの?」、と感じていること自体を共有するのが大切なのではないかと思います。

2017年12月 7日 (木)

違和感のある日本語 ――「出席が叶いません」――


違和感のある日本語

――「出席が叶いません」――

 

そもそも、政治家や官僚が喋っている内容そのものに嫌悪感を持っているために、表現にまで「違和感」を持つのかもしれませんが、ずっと気になっていた言い回しを取り上げます。「慇懃無礼」の典型だと思うのですが、皆さんのお考えも聞かせて頂ければ幸いです。

 

それは、「○○ (ここに偉い人のタイトルが来るのが普通です) は、この会を楽しみにしておりましたが、公務のため出席が叶いません。メッセージを預かって参りましたので、代読させて頂きます」と言った挨拶です。その後、代理の人がメッセージの代読をするのですが、黄色のマーカー部分が違和感のある所です。

 

                     

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同じく「出席」をテーマにしていても違和感のないのは、たまたま見付けた次のような使い方です。20周年を記念して開かれたある会に来賓として招待した有名人についての報告です。「○○さまより、お葉書を頂きました。当日は、公務のためご出席頂くことは叶いませんでしたが」という言葉の後に、葉書の内容が披露されていました。

 

違いがどこにあるのかはお分りだと思いますが、「叶う」には、「夢が叶う」のように自分の力だけでは実現不可能なことでも本当になって欲しい、という感じのニュアンスが込められています。出席して貰えたら嬉しいけれど無理かもしれない、でも招待状は出した、そしてその願いは叶わなかったけれど、葉書を貰った、というストーリーにはピッタリの表現です。

 

でも、来賓として招待された側、通常は「偉い人」といったカテゴリーに括られるような立場の人が、同じ時間に開かれている沢山の行事の一つ一つに、「出席するという夢が叶えば良いな」という気持を持っているかというと、それには疑問符が付くでしょう。

 

にもかかわらず、「出席することが叶わず」と言いたくなるのは、社交辞令としてそれなりには理解できます。でも、それ以上に「慇懃無礼」の方に傾いてしまっていると感じるのは私だけでしょうか。

 

「○○は、この会を楽しみにしておりましたが、公務のために出席できないことを残念に思っており、不肖××が皆様宛のメッセージを預かって参りましたので、代読させて頂きます」くらいではいけないのでしょうか。

 

 

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なるほど、今日まで気が付きませんでした。
叶うは「恋」の枕詞かと思ってました。なことはないですがw

「公務と重なったために、出席が叶わなかった」とすれば、少しはスッキリとしますか?
公務というのは予めわかっていて、そこへ出席の依頼があったら、「叶う」という言葉は変だと思います。
日にちは決まってまぜんが、◯◯会を開催しますので、その折はご出席をお願いしますと依頼されていて、承知した後に、日にちが決まったと知らせがあり、公務と重なっていたとなると「叶わなかった」は良いのではと思います。

「⑦パパ」様

コメント有り難う御座いました。

「叶わぬ恋」は切ないですね。それも、人知を超えた力が左右しているのかもしれません。

「やんじ」様

コメント有り難う御座いました。

ポイントは、例えば大臣とか国会議員とかが、町内会の運動会に出ることを、自分の力の及ばないことでどうすることもできないけれど、出来れば出られるような運命になって欲しいと本当に思っているのかという点です。

現実問題として、仮に「夢を叶えて欲しい」と思うくらいの気持があるのなら、自分の判断で優先順位を変えれば良いだけのことなのです。それを大袈裟に、自分の力の及ばない理由があるために出席できないという言い訳をするのは、その会の主催者に対して「慇懃無礼」を働いていることになるのではないでしょうか。

2017年11月24日 (金)

選挙時のマスコミ調査票 ――内容は同じ ⇒ 全社の統一調査票にすれば――


選挙時のマスコミ調査票

――内容は同じ ⇒ 全社の統一調査票にすれば――

 

公示日のブログで触れたことですが、第48回総選挙で大変だったことの一つは、マスコミの調査票でした。 (以下、その時の引用が続きます)

 

「特に大変だったのは、調査票の書き込みです。初めて自分で書くという経験をしましたが、細かく色々なことを書き込まなくてはなりません。しかもかなりプライベートなことまで、そして、生れてから今までの歴史を全て網羅しなくてはなりません。

 

まずは朝日新聞社の調査用紙を御覧下さい。

             

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1社の用紙に記入するだけでも大変なのですが、マスコミ関係の全社からの依頼がありますので、総量はかなりあります。多くの人が手伝ってくれている場合でも、調査用紙の記入の大変さは聞いていましたが、家人と二人で手分けして掛っても、疲労困憊でした。しかも、内容は各社ほとんど同じです。時間が勿体ないとは思いましたが、とにかく午後までには済ませることができました。改善のための提案を選挙後にできればと思っています。」

 

ということで、問題提起です。調査票の内容は、朝日新聞社の物を示しましたが、大同小異です。そこからの提案

 

 マスコミの統一調査にして候補者の負担を少なくする――各社毎に別の調査票を配りその一つ一つを候補者に書かせるのではなく、マスコミの方で書式を統一して、候補者は一枚だけ書き込む。それを各社が必要に応じてコピーして使う。

 候補者の個人情報は、必要最小限にする――例えば、子どもの通う学校名まで必要だとは思えませんし、三親等以内の(故人も含まれる)国会議員、首長等の経験者も、世襲制の助長にはなってもあまり意味のある情報とは思えません。

 趣味や感銘を受けた書物、配偶者とのなれそめ、武勇伝、エピソード等、仮に候補者紹介の際に使うにしろ、調査票に書かれていたからという理由だけで使うのでは、官僚的にコピペをする結果にはなっても、血肉のある候補者像にはつながらないように思います。

 さらに、候補者の自己申告をそのまま載せることにはならず、必ず裏を取る必要があるはずですので、そちらの取材中心にすべきではないでしょうか。あれだけ大変な思いをして書き込んだ調査票について、ある記者からは「学歴詐称」の疑いを掛けられましたので、この点は深刻だと思います。

 過去の調査票を活用する--過去に選挙に出た人については、調査票のかなりの部分はすでに何度となく情報を提供している事柄です。その中で、生年月日などは変りません。以前にマスコミが集めているデータを打ち出して、それに加筆訂正をする形にすれば、お互いずいぶん時間を節約できるように思います。

 

さて、このような問題提起をした理由の一つは、これだけの情報を提供していても、これまでの何回もの選挙の最中、そして選挙後にしつこいほどマスコミが直接、または電話で聞いてきた事柄があるからです。それは、新聞の発行日、あるいははテレビの放映の日に、候補者である私が何歳なのかという問合わせです。

 

調査票の一番最初に、名前と生年月日は明記してあります。にもかかわらず、何月何日には何歳ですか、と問い合わせてくる意味が全く分りません。時間を掛けて調査票に書き込んでも、こんな基本的情報さえ無視されてしまうのですから、他の事柄も有効に使われているとは思えません。いっそのこと、調査票そのものを止めてしまっても良いのではないでしょうか、とまで言いたくなってしまうのです。

 

 

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2017年11月23日 (木)

エスカタレーターとシャープペンシルの共通点は? ――商標名が一般名として通用しています――


エスカタレーターとシャープペンシルの共通点は?

――商標名が一般名として通用しています――

 

アルティメットという競技では、フライイング・ディスクを使って、フットボールのようなルールで試合をしますが、「フライイング・ディスク」よりは「フリスビー」と言った方が何を使う競技なのかがすぐ分ります。でも、「フリスビー」は特定の企業が作り販売している商品名ですので、アルティメットの競技団体は、一般名である「フライイング・ディスク」を使って、「日本フライング・ディスク協会」です。

                 

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ここで、発音通りに片仮名表記をすれば「フライイング」と、「イ」が二度出てきた方が (少なくとも私には) 正確に聞えるのですが、日本語流に発音すると、「フライング」で十分通じますし、「イ」を二度書くという「無駄っぽい」ことをしなくて済むので、「フライング」を使っているのは正解だと思います。ということで以下、「フライング」を使います。

 

「フリスビー」の場合は、「フライング・ディスク」よりは良く知られていると思いますが、特定の商品名がとてつもなく普及、浸透したために、商品名が一般名として通用した例がかなりあります。しかもそのことを意識しないほどになっているケースもあるのです。

 

例えば、「エスカレーター」です。これが、元々は商品名だったことを知らない人の方が多いのではないでしょうか。アメリカのオーチス社の製品で商標登録もされていましたが、1950年にその権利を放棄したそうです。今では、他の言葉を使ったのではエスカレーターだと分らないくらい普通名詞化しています。

 

 

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日立のホームページから

 

 

「シャープペンシル」もそうです。元々の社名は違いますが、商標登録して、その略称が「シャープ」ペンシルなのです。その後、社名は、この「シャープ」に因んで「シャープ」になりました。これも一般名になっていますので、「シャープ社」と関連付けては考えない人の方が多いかもしれません。

 

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これは三菱製の「Jetstream」です

 

 

「レーザーディスク」も、パイオニア社の製品でした。これは、1989年に商標を公開して、今では一般名として使われています。

 

昔懐かしい、「ソノシート」もありますし、「セロテープ」「ポケベル」「ナイロン」等々、数え始めると切りがありません。

 

アメリカではどんなものがあるかを考えると、例えば「バンドエイド」があります。「取り敢えずの救済策を取る」、という意味の動詞としても使われていました。「ゼロックス」も「コピーを取る」という意味での動詞としても使われていましたが、最近では、ゼロックス以外のコピーの仕方も増えてきた結果、一般名としての重要性は低くなっているようです。

 

かつて、日本ではそれに匹敵するほど使われていたのがリコー社の「リコピー」です。そして動詞の「リコピーする」もありましたが、両方とも今はすっかり姿を消してしまいました。「写メ」だけではなく、簡単にスキャンすることが当り前の時代になり、「リコピー」が時代遅れになるのは仕方がありません。でも「リコピー」の消滅は、原語の書物が高くて買えなかった時代にリコピーされた「海賊版」を買って勉強した時代がはるか昔になったことでもあります。当時を懐かながら、同時に一抹の寂しさを感じています。

 

 

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ネットで検索することを「ググる」って言いますよね。ヤフーの方が先で日本では未だにヤフーを使う人が多いらしいですが「ヤフる」にはなりませんでした。

「ネット民」様

コメント有り難う御座いました。「ググッと」来る御指摘有難う御座いました。

ヤフーは「ヤフオク」で面目を保っているのでしょうか。でも最近はメルカリの方が注目されているようですし--。

2017年11月15日 (水)

高齢者の健康 ――AFS同期生から学んだこと――


高齢者の健康

――AFS同期生から学んだこと――

 

前回の続きです。

 

高校時代に一緒に留学した仲間との会合で、私たちに残された時間が少なくなっていることには現実的対応が必要だとの認識は全員が共有していました。それに、「それだからこそ」という思いも重なって、「いやいや、まだまだ私たちが果さなくてはならない、そして私たちでなければ果せない役割がある」と全員が強く決意した一昨日でもありましたが、そのためには、何よりも健康であることが必須条件です。

 

その中で、昨年夏、胃の全摘手術を受けたA君が、その後、彼の言葉では「シニア」、私は何となく「高齢者」と言っているのですが、こう呼ばれるグループについて、最新の情報を共有してくれました。今年五月にも一緒に食事をする機会があったのですが、その時のA君と比べると、顔の艶も全く違っていましたし食も随分進んでいました。目に見えるほど健康になった彼の説明には説得力がありました。

 

一つは、65歳以上の高齢者のいる世帯の内、高齢者が一人だけで住んでいる世帯は4分の1を超えていることです。

 

             

65

               

厚生労働省のホームページから

 

高齢者の独居が認知症の発症につながることは良く知られています。しかし、認知症予防のためにできることもあります。それを積極的に取り入れるために、何が効果的なのかを調べた結果があります。

 

この調査結果は健康長寿ネットが公開していますが、このネットは高齢期を前向きに生活するための情報を提供し、健康長寿社会の発展を目的に作られた公益財団法人長寿科学振興財団が運営しているウェブサイトです。

 

このサイトの中心概念は「フレイル」です。サイトからの引用です。

 

フレイルとは、海外の老年医学の分野で使用されている「Frailty(フレイルティ)」に対する日本語訳です。「Frailty」を日本語に訳すと「虚弱」や「老衰」、「脆弱」などになります。日本老年医学会は高齢者において起こりやすい「Frailty」に対し、正しく介入すれば戻るという意味があることを強調したかったため、多くの議論の末、「フレイル」と共通した日本語訳にすることを20145月に提唱しました。

 

そのフレイルについての「悪循環」を示す図が参考になります。

 

 

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高齢化社会の常識として私たちも知っているのは、まず、食生活の面では野菜や果物等の摂取が体に良いこと、適度の運動を続けること、そして社会的・知的な活動を行うことですが、それが、身体機能の低下や認知機能の低下につながることは納得できます。

 

最近の研究結果として、A君が報告してくれたのは、社会活動の有効性です。認知症の発症予防のために何が有効かについて、4つのグループに分けて行われた研究では、①運動をする ②社会活動をする ③両方を行う ④どちらもしない という4グループを対象に認知症の兆候がどの程度現れるのかを調べたそうなのですが、この中で認知症予防のために一番効果のあったのは②の社会活動なのだそうです。

 

そして、このことを議論しながら私たちは、自然に、①の運動についても議論することになりました。そこでの意見の大勢は、高齢者の運転免許返納を強く勧めているマスコミ等についての批判とともに、これは年齢ではなく、個人個人の身体機能によって決められることなのではないかという点でした。その主張を裏付ける事実も示されました。

 

75歳になった今でもテニスが日常活動の一部であるB君からは、運転免許の高齢者講習に参加した時に、身体能力のテストを受けた結果、全ての項目で、標準値よりはるかに良い点数が出たこと、そして講習の担当者が、標準値とB君の数値とが間違って印刷されたのではないかとの疑問を呈したとの報告があり全員、彼の若さの秘密に驚いた次第です。

 

身体機能の低下は年齢とともに現れていますし、認知症の兆候も「物忘れ」といった現象で私たち世代にとっては日常的な出来事なのですが、高齢化しても健康でい続けるための研究が進んでいること、その成果をもっと積極的に取り入れることで生活の質が確保できることなど、明るい展望の開けた同期会でもありました。

 

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健康を語る時に日本では肉体的なことばかりがクローズアップされがちですが、精神的なことや社会的なことも重要です。
肉体的なことは個人差が大きく同じ血圧でも血管系の疾患に対しては高血圧がリスクですが、癌、認知症、感染症には低血圧の方がリスクと一般化は難しいものです。
それに対して精神的なことや社会的なことは一般化し易く、もっと強調されて社会に広められるべきことだと思います。
社会的に存在意義があるほど長生きするのは生物全般の普遍的な原則です。

運転で言えば事故が多いのは保険料率でも判るように圧倒的に若者であり、高齢者は身体能力は劣るもののその分慎重になるので事故率は変わりませんよね。
それより統計的に事故率が高いのは女性で男性の1.5倍ですが、高齢者差別はよくても女性差別はできないので誰も言いません。
働きたい女性が働ける社会も必要ですが、出産や育児という人類で最も重要な役目を適切に担える女性より、元気な高齢者が活躍できる社会の方が先だと思うのですが…

「後期高齢者」様

コメント有り難う御座いました。

高齢者の健康を考えるに当っても、「平均」的思考の枠を取っ払うことが大切なのかもしれません。この点についてのエントリーも、お読み頂けると幸いです。

http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/post-e893.html

それに続いて4回ほど、シリーズとして取り上げています。

「前期高齢者」様

コメント有り難う御座いました。

運転について、どのグループのリスクが高いのかは、保険料の違いで見ることが合理的な方法の一つですが、年齢別の保険料の設定はあっても、性別の設定はないのでしょうか。

高齢男性の働く場を増やすべきだというお考えには、全く同感です。

2017年11月13日 (月)

慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団 ――第142回定期演奏会に「ブラボー」――


慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団

――第142回定期演奏会に「ブラボー」――

 

1111日東京芸術劇場で開かれた、通称ワグネルの第142回定期演奏会を堪能してきました。昨年とは違った魅力を見付けたり、一人一人の団員の一生といった視点から演奏を聴けたことなど、自己流ではあってもワグネルを通しての合唱と音楽への理解がチョッピリ膨らんだような気がしています。

 

                 

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コンサート開始前の大ホール

 

まず、プログラムですが、前半は日本の詩人3人の詞に合唱のための曲が付けられた形の作品でした。これで、3つのステージ。そして後半、最後のステージはオーケストラと共にワーグナーの『タンホイザー』からの抜粋です。

 

 

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会場で渡されたプログラムには、ステージ毎に、団員の手になる分り易いかつ専門的な解説が掲載されています。ということは曲、詞、そして演奏についての立体的なイントロだということですので、実はそれをお読み頂きたいのですが、少しでも雰囲気をお伝えするために、私にとって印象に残った曲二つ三つを取り上げたいと思います。

 

1ステージの高野喜久雄作詞、高田三郎作曲の『ひたすらな道』の歌詞は、とても幾何学的な雰囲気を持っていると思ったのですが、高野が数学教諭でもあることを知って納得が行きました。例えば、I.「姫」ですが、「池」という入り口を通して、こちら側とあちら側との間とに通路があり、その通路は無限の彼方でつながっているというイメージで考えると、池に投げ込んだ石が私の中に没する比喩も分るような気がします。そして、曲にもそんな幾何学的なフレーズがあるように聞こえたのですが、どうでしょうか。常任指揮者の佐藤正浩、ピアノ伴奏の前田勝則、ヴォイス・トレーナーの小貫岩夫の日頃からの指導力を最初から実感することができました。

 

2ステージの『吹雪の街を』の最後の曲、VI. 『吹雪の街を』は、男声合唱の美しさと優しさ、切なさが「歩いて来たよ 吹雪の街を。」というレフレーンを軸として胸に響いてくる曲ですし詞なのですが、平田亮学生指揮者が、旭川の出身ではなく、例えば沖縄やハワイの出身だったらこんな風には聞こえなかったのではないかと、思わず考えてしまいました。それほど冬と雪、吹雪と19歳の乙女とが一体になった曲に仕上がっていました。

 

3ステージ、『Enfance finie~過ぎ去りし少年時代』は、私の好きな詩人三好達治の詩に木下牧子が男声合唱曲の組曲として作曲したものですが、ここでもしっかり伝わってきたのは客演指揮者・清水敬一の技量でありパッションでした。それは、三好が振り返る過去が、今ここにいる若き団員たちの過去、そしてこれからの未来にいくばくかの時を過した後に振り返る過去をも重ねつつ、人の生きる道程を音として聞かせたくれたからなのではないでしょうか。

 

そして第4ステージのタンホイザーは文句なく楽しませて貰いました。ソプラノの小川里美、バリトンの谷口伸の素晴らしさは言うまでもないのですが、オーケストラがワグネル・ソサィエティー・OBオーケストラ、賛助出演が慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・OB合唱団と慶應義塾志木高等学校ワグネル・ソサィエティー男声合唱団という豪華編成で、常任指揮者の佐藤正浩の下、現役のワグネリアンたちの日頃の練習の成果が遺憾なく発揮されました。

 

現役の合唱団が約70名であるのに、OB合唱団の参加者は200人にもなり、また高校生も交じっての、老・壮・青の多世代の合唱には感動するばかりでした。

 

最近は子どもたちの部活を中心に吹奏楽を聴くことが多かったのですが、改めて合唱の意味も、世代を超えての多層性を目の前にして、新たな視点が加わりました。それは、私が「歌詞」と「曲」の2項対立では、「歌詞」派であること、そして今回の演奏会の「歌詞」にこれまで以上の親近感を持ったこととも関係があります。さらに昨年の演奏会では、多言語を跨いでの歌詞を記憶して暗譜した上での演奏だったことも思い起こしながらの感慨でもあります。

 

自分の子どもが団員だからなのですが、「ワグネルの団員たちは何て幸せなのだろうか」というつぶやきが出発点なのですが、美しい歌詞を覚え、それに付けられた心を揺さぶる曲とともに歌うことは、「歌詞」つまり「詩」の心を内面化することに他なりません。若い時代にこのような機会を与えられることで、その後の人生はどれほど豊かになるのかを考えると、その答が、背後で歌っていたOB団員たちそのものなのです。

 

こうして現在から未来へのベクトルが豊かになるのと同時に、ある時点から過去を振り返ることで、これまで辿った道の豊かさにもそれが重なり、同時に非可逆的な時の過酷さもあの世とこの世との境界の曖昧さにも思いが至るのですが、しかし、これまでの人類の来し方からの教訓は、それでも希望はあるということになるような気がします。

 

そんなことさえ考えながら帰途に就いた池袋には、少し季節を先取りした木枯しが吹いていました。

 

 

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終演後のエスカレーターから

 

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コメント

あのダークダックスもワグネルソサエティのOBですよね。
ワグネルソサエティの実力はプロれべるだといわれていますが、
それだけ練習も凄まじいのではないでしょうか。
早稲田にはグリークラブがありますが、
友人はほとんど授業に出てきませんでした。
頑張ってください。

「ゲン」様

コメント有り難う御座いました。

今回の独唱者、バリトンの谷口伸三もワグネル出身です。確かに練習は大変なようですが、大学でも部活を通して良い友達のできることは素晴らしいと思います。

2017年11月11日 (土)

若返られましたね ――そう言える高齢者にお会いするのはとても嬉しいことです――


若返られましたね

――そう言える高齢者にお会いするのはとても嬉しいことです――

 

Cレストランに初めて足を運んだのはもう30年も前のことになります。先輩に連れて行って貰ってから、何かというと紙屋町の近くのこの店に来ていましたので、押しも押されもせぬ「常連」の一人でした。そして私たちが「ママ」と呼んでいたオーナーが「もう年だから」という理由で店を閉めてから10年以上経っています。

 

その後も「ママ」には、何故か本通りでバッタリお会いすることが多く、お元気そうな様子を喜んでいました。

 

昨日は用事があってまたまた本通りを歩いていると、向うから歩いてくる品の良い高齢の御婦人に気付きました。「ママ」でした。久し振りににお会いできたのですが、前にお会いした時と比べて、格段に若返った感じでした。

 

「お久し振りです」の後、やはり「若返られましたね」と言わずにいられませんでした。きれいにお化粧されていた姿とお似合いの着物からは、私の知っているお歳より10歳は若く感じられました。上京している家人にもお会いしたことを報告したくて、スマホで写真を撮られて頂いたのですが、それをここにアップする訳には行きません。有名人に似ている人がいないか、ネットで調べてみたのですが、八千草薫とか黒柳徹子といった方々の中で、敢えて「ママ」似の人としてパスしそうなのは、若尾文子さんでした。髪ももう少し白い感じの自然な年齢を伺わせる色調でした。


Photo_2


それよりは若い有名人となると、山村紅葉さんかもしれません。若尾文子さんに山村紅葉さんを掛けた感じというとイメージ的にかなり近くなります。

                 

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   私も若く見られることが多かったのですが、最近は年相応の感想を貰うことが多くなりました。でも、少し前に東京で何年も会っていなかった友人に「随分変っていたので君だと分らなかった」と言われたのはショックでした。しかも彼は政治家です。

 

せめて、「久し振り。相変わらずお元気そうで」くらいのことは言えなかったのかと思いましたが、嘘で固めるのが得意な政治家ばかりの中で、このくらい正直な人もいることに安堵すべきなのか―――思いは複雑でした。

 

 

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2017年11月 6日 (月)

選挙権を賢明に行使するには ――マスコミの役割は大切です――


選挙権を賢明に行使するには

――マスコミの役割は大切です――

 

 

                             

Img_0634

 

昨日の続きです。

 

安古市高校の生徒さんたちの質問は素晴らしかったのに、十分には答えられなかったことも補足しての「回答」です。

 

質問をしたのは3年生でした。

 

18歳になったので投票はしたけれど、日常の生活の中で詳しく政治について知ることも考えることもないまま、曖昧な態度で投票をしてしまった。でも、政治について詳しく知っている人と同じ一票だということに違和感を持っている。それをどう考えたら良いのか、また次の機会にはより良い投票をするのにどうしたら良いのだろうか。

 

講演後、船津校長先生から伺ったのは、3年生は選挙についてグループに分かれてディスカッションをするなど、しっかりと勉強をしていたということでした。政治について詳しく知っている人、あるいは真面目に考えている人は、恐らく少数だと思いますが、安古市高校の3年生は、その少数の中に入っていると言って良いのではないかと思いました。

 

にもかかわらず、こんなに謙虚に自分の立場を見詰めて考えられること自体素晴らしいと思いますし、一票の価値についての疑問は民主主義の基本であるのと同時に、「多様性」の意味そのものへの問い掛けでもあるのです。

 

私が十分に答えられなかったと反省している点は、まず、この3年生が「自分なりにしっかり勉強して投票したこと自体、素晴らしい」ときちんと言って上げられなかったことです。そしてもう一つは、仮に、政治のついての知識が十分にないということが本当だとして、それでも投票することには大きな意味があるという点です。全ての人が日常レベルで政治に関心を持ちしかもある程度の時間を使って勉強した上で投票することになればそれは素晴らしいのですが、現実的にはそれほどのことは望めないと思います。

 

しかし、少数派の、政治に詳しい人だけが投票することによって政治が良くなるとは考えられません。関心を持ちつつも十分には分らない、しかし漠然とした思いだけはあるのが普通でしょう。そんな人々がもっと多く投票することで、つまり投票率が高くなることで、いわば「無意識」の内に、あるいは「意識下」に感じている社会に対する思いが、「多様な」結果として現れることが期待できるからです。

 

この視点からは、投票を義務化する、つまり、投票に行かない人には罰金を科する制度さえ必要だと主張しても良さそうです。ブラジルやオーストラリアでは義務制が取られていますので、これらの国の先例からも学びつつ、検討しても良いのではないかと思います。

 

しかし、ここまで述べたことで質問に対して十分に答えたことにはならないのです。私が受け止めた質問の内容は、ある程度の関心があり真面目に取り組んでも、日常的な情報だけでは自信を持って投票できないという現実です。

 

高校生は学校で勉強できますし、先生の質問することも日常的にできるのですが、それ以上に、そして社会人の場合、最大の情報源はマスコミです。そのマスコミの情報が不十分だという点が問題なのではないか、というのが私の率直な感想でした。その点については再度取り上げたいと思っています。

 

それを補完できるのがネット情報ですが、それも玉石混交です。しかし、出発点としてお勧めなのが、早稲田大学の水島朝穂教授のホームページです。特にその中の「直言」は必読です。

 

こうしたネット情報を出発点に、日常的な「自分のためのネットワーク」を作ることで、効率的な勉強を続けるのも一つの可能性です。

 

最後に、生徒代表からお礼の言葉がありました。講演の中で、「都市の特徴として、多様性を生かすために、市民がお互いの違いに寛容で、上手く折り合って生活していることが重要」だという点に注目したこと、そしてこれは都市だけに限った話ではなく、学校の中でも同級生たちとの間で、自分から積極的に発言するのと同時に、相手の言葉にも耳を傾け、それを自分の考え方に取り入れることでより豊かな内容にできると思った、という感想を述べてくれました。

 

このような問や感想を貰ったことで、スピーカー冥利に尽きる、という感慨を覚えましたし、改めて若い世代への期待に胸膨らんだ午後になりました。

 

 

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コメント

日本人には昔から性善説があって、人間は生まれながらにして皆善人であるは
最近の事件事故を見ていると当てはまらないのではないか。選挙についても考え
方の修正が必要ではないか。多様性や数の論理と言った言葉が卒業の時期に
来ているといいたい。前回のメールでも書きましたが、欧州の選挙は各政党が
独自の主張(中には極右や極左という怖い政党もある)を展開し、フリーハンドで
戦って民意の結果により一つの政党が過半数を取れなければ連立を模索すると
いった制度です。国民からは解り易いので投票率の上昇は期待出来ます!

「鯉の応援団」様

コメント有り難う御座いました。

自民・公明与党の「数の論理」を振りかざして、何の議論もせず、丁寧に説明すると口では言いながら議会も開かずに解散するようなことは「卒業」すべきだと思いますが、これは性善説ではなく、弱い者いじめの範疇に入るのではないでしょうか。

「多様性」については、LGBTについての理解もようやく広がり始まったばかりですし、多様性の出発点であるはずの女性の地位についても、世界経済フォーラムによる2017年「ジェンダー・ギャップ指数」において、日本は調査対象144カ国のうち、114位と前年より3つ順位を落とし、過去最低でした。これで「卒業」はないでしょう。まだ真剣な努力さえ始まっていない、としか考えられません。

2017年11月 5日 (日)

「多様性」を中心に選挙制度を考える ――今の制度では民意が反映されていないと8割の人が考えています――


「多様性」を中心に選挙制度を考える

――今の制度では民意が反映されていないと8割の人が考えています――

 

昨日の続きです。「多様性」を確保するという視点から政治を考えて見ることが、今の時代を生きる上での基本になって欲しいという思いです。

 

                 

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多様性を最大限に保障する政治制度は、全員参加制度です。100人の集団で、100人すべてが最終決定に関われば、最も多様な意見が反映されることになるからです。その対極にあるのはその中の「一人」による独裁制であることも分って貰えると思います。

 

しかし、国という大きな単位で、常に全員参加の決定を行うのは難しいので、選挙で代表を決めることになります。そのためには、何らかの基準を設けて選挙制度を整備する必要がありますが、何のために選挙を行うのかの再確認から始めるべきだと思います。

 

「政治改革」の名の下に導入された小選挙区比例代表並立制というシステムを推進した人たちは、「政権交代のできる制度」こそ最優先されるべきだと主張しました。そのためには、民意の忠実な反映、特に多様性を確保することは二の次三の次という価値観をあからさまに表明して、マスコミもこぞってその考え方を支持しました。こんな暴論で事が進んだ背景にあったマスコミの驕り、そして一部の学者の知的不誠実さを忘れてはなりません。

 

もし政権交代をすること自体が、多様性以上に尊重されるべきであるのなら、選挙など行わずにジャンケンで決めることにした方がお金もかからず、確率的には半々で権力が変りますので、その方が良いという議論さえ可能です。

 

しかし、政権交代を実現するために選挙制度のデザインをすることは本末転倒です。元々の母集団でも大切だった「多様性」が選挙の結果にも保障されることが本則でなくてはなりません。つまり、選挙の本来の目的とは「多様性」の確保であり、それこそ最優先されるべきなのです。そして母集団と同じように、その多様性を生かすためには寛容さがなくてはなりません。力の強い側が、力を恃みにして弱者を押し除けてはいけないのです。つまり、話し合いと創造的な折り合いを付けることが基本です。

 

そのための選挙制度としては、少数派の意見も投票結果に反映される比例代表制度が当然の選択です。実は、この点を理解するためには、その正反対のことが起きればどうなるのかを考えて見ることが役に立ちます。

 

極端なケースとして独裁制を考えると、そこで否定されている最大の要素は「多様性」だと言って良いでしょう。もう一つ、独裁制の下では、独裁者が全てを決めることになるので、当然、時間は掛りません。時間の有効活用等、時間を持ち出して話し合いを拒否する、あるいは話し合いの時間を短くすることは、独裁制につながる道であることもしっかり確認しておく必要があります。

 

もう一つ、多くの政治家や政党が「自らの身を切っての改革」といった旗印の下、推進しようとしている「議員数削減」も、「多様性」の視点から考えると決して陥ってはいけない落とし穴です。

 

数学ではしばしば、物事の本質を理解するために、「極端な」ケースを想定して、つまり「思考実験」として物事を考えることが有効です。議員削減の極端なケースとは、議員数を極限まで減らして一人にしてしまうことです。それは、独裁制ですので、「議員削減」が何を目指しているのかはこのことだけからも明らかでしょう。

 

しかも、多くの場合、「身を切る」あるいは「身を切られる」のは、少数派、あるいは弱者の代表で、議員数削減に賛成する人たちは、削られることはなく身分は安泰である場合がほとんどです。「身を切る」改革とは結局、弱者を排除し切り捨てるための口実として使われていることが分ります。

 

最後に二つのグラフを御覧下さい。最初は内閣府が2014年に行った世論調査で、今の政策に民意が反映されているかどうかを聞いています。大雑把に総括すると、8割ほどの人は「反映されていない」と考えています。そして残りの2割くらいが「反映されている」という意見ですが、小選挙区比例代表並立制が導入された1994年くらいから急激に乖離が進んだことは記憶しておくべきでしょう。

 

 

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そして民意が反映されないのは、小選挙区制が原因です。5割に満たない得票率で、8割もの議席を占有する結果に多くの有権者が不満を持っているということなのですが、得票率と議席占有率の大きな乖離もグラフとして見ておきましょう。

 

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安古市高校の生徒さんたちの質問は次回に回さざるを得なくなりましたが、質問は素晴らしかったのに、十分には答えられなかったことも補足しての「回答」を、次回アップします。

 

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コメント

多様性は別の見方をすれば解りにくいと言う事も出来ます。投票率の
低さもこの辺が原因ではないでしょうか。私は欧州の選挙制度の方が
良い様に思う。各政党が旗の色を鮮明に出しフリーハンドで選挙戦を
行い、民意の結果によって一つの政党が過半数を取れなければ初めて
連立を模索するという事です。国民には解り易い選挙といえます!

「鯉の応援団」様

コメント有り難う御座いました。

ここで言及されているのはフランスの過半数当選式小選挙区制のことでしょうか。それとも国会における総理大臣の指名についてなのでしょうか。

後者だとすると、例えばドイツでも日本でも下院における投票で過半数を得た人が指名され、日本の場合は参議院との関係はありますが、過半数を得た人がいない場合は決選投票になります。ここで、「連立」の可能性が出てきますが、基本的にドイツと日本の間で制度的な違いはないと考えた方が良いように思います。

前者だとすると、ドイツは小選挙区当選優先拘束名簿式比例代表制で、フランスとは違います。基本的には比例代表で、小選挙の当選者が多いと「超過議席」が与えられるという仕組みです。

政党色を出して選挙を行っている政党は、日本にもあります。「フリーハンド」で選挙という意味が私には良く分りません。

わたしは、市民連合が「多様性重視」のこういう方向の議論を提起し、各野党の統一綱領として提案していくことが大事だと思っており、すでに内部的に提起しています。各野党が変に合併せずに、それぞれの良さを活かしたほうが、野党全体のパイも伸びるでしょう(参院一人区と衆院小選挙区では次回一回限りの棲み分けは仕方がないですが)。

「hiroseto」様

コメント有り難う御座いました。

野党全体として推進できる共通の指針を一つか二つ明確に示せれば、政治の状況はかなり変ってくると思います。そのためには「多様性」のように少し抽象的でも、これからの社会の本質をハッキリ召している概念が大切だと思います。

市民連合、頑張って下さい。

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