言葉

2019年5月23日 (木)

クリーネックス人生論 (1) ――年とともに視点は変る――

もう二年近く前になりますが、特定の商品名が一般名として通用するようになった例をいくつかあげました。エスカレーターやシャープペンシルなどですが、「クリーネックス」もその一つです。最近は「クリネックス」と書くようですが、私の世代が初めて、「クリーネックス」に出会った時は、長音記号の「ー」は、付いていたのです。その方が実際の発音に近いと思います。

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商品名を使わざるを得なかったのには合理的な理由があります。それ以外、良い名前がなかったからです。まず、クリーネックスを説明すると、例えば次のようになります。

「チリ紙を折りたたみ、箱に入れて、上部の開口部から引っ張ると一枚ずつチリ紙が出てくるように細工された、チリ紙の束--また、その一枚一枚のちり紙を指すこともある」

こ令和を短く分り易く簡単な日本語に置き換えることはまず不可能ですので、結局「クリーネックス」になったのでしょう。

ついでにもう一つ。最近では一般名として使われるようになった「ティシュー」あるいは「ティシュー・ペーパー」ですが、この単語の元々の意味は、「薄紙」です。良く目にしたのは、デパートなど高級店で買い物をすると、商品をまず薄い紙で包んで、それを店の包装紙で包むということをしてくれますが、その薄い紙が「ティシュー」または「ティシュー・ペーパー」の典型です。私は、「ティシュー」をこちらの意味で最初に覚えました。

前置きが長くなりましたが、「クリーネックス」に出会った頃は、「クリーネックス」を通して人生を考えることなど想像さえできませんでした。それは、車に付いても同じです。「クリーネックス」や「コカ・コーラ」、「ハリウッド」や「ハワイ」、そして「車」はアメリカの豊かさの象徴でした。いつか自分も、「自家用車」を持てるようになりたい、「ハワイ」に行ってみたいといったことが若い頃の私たちの夢でした。

経済成長の時代が訪れ、私たちの夢は実現しました。車も持てるようになり、ハワイ旅行も夢ではなくなました。それとともに私たちの世代が年を取ってきたことも、自然の摂理として避けられないことでした。車好きの同級生Y君が、還暦を迎えたときに呟いた「死ぬまでにあと何台自分の車に乗れるのかなァ~~」には驚きましたが、彼は私たちの仲間内でも、ませていたのかもしれませんし、それ以上に先見の明があったと言った方が良いように思います。最近になって、現実の選択肢として、この問を思い浮べています。

そしてY君は、還暦を迎えてから2年に一度くらいの割合で新しい車に乗っている感じですから、もう10台近くは乗り換えたことになります。

良い調子で書き綴っている内に、長くなってしまいました。この続きは次回に回します。お楽しみに。

 [2019/5/23 イライザ]

 

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2019年5月19日 (日)

死刑制度 (4) ――被害者――

これまで、死刑制度について、憲法がどう判断しているのかを検証する準備として、世論や国際比較といった背景を見てきました。しかしながら、犯罪の被害者の視点を抜きにして死刑制度は論じられません。今回は、そこに焦点を合せます。

《死刑しかない》

かつて毎日新聞の社会部記者として数々の事件を取材し、また警視庁キャップとして勇名を馳せた友人A氏から聞いた忘れられない一言があります。「自分は死刑制度は廃止されるべきだと信じている。でも、たくさんの犯罪者を取材する中で、こいつは死刑になっても仕方がない、それ以外の選択は考えられないと言いたくなるくらい悪い奴のいることも事実なんだ。」私の何倍もの幅広さで社会を見てきたであろうA氏の感想に私は返す言葉もありませんでした。

事件記者としての情熱だけではなく、様々な事件の背景等についても冷静に分析ができ、人間的な優しさも持ち合わせているA氏でも、こんな思いに駆られることがあるのは、それほど死刑の正当性が社会に浸透しているからなのだと思います。そして、このA氏の頭に、死刑の可能性がある意味自然に浮かぶこと自体、死刑という制度の廃止と存続との間の線引きが難しいことを示しているのではないかと思います。

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確かに、子どもを殺された親の気持は私たちの魂を揺さぶります。共に泣き嘆き糾弾したい気持になるのも情のなせる業かもしれません。内閣府のホームページにあった、息子さんを失った一人の母、尾松智子さんの言葉です。

初公判が八月四日と決まりました。口を二度と利くことの出来ない信吾、無念の中で命を奪われてしまった信吾のために、私に出来るたった一つのこと、それはこうやって裁判を進めていただく関係者の方々に、許されれば私共の今の気持ちを伝えさせていただくこと、それが精一杯のことです。

加害者の一人が、「生きているのが辛い。」と私共に手紙の中で述べておりました。辛いと感じる命があなたにはあるし、もう一度社会を歩んでいけるチャンスが命ある限り訪れることでしょう。正直なところどんな言葉も私共には響くことはありません。罪の無い人間の命が奪われたのに、どうして罪を犯した人間がこの世に生きているのでしょう。私共は出来ることなら、許されることなら、四人の加害者に、信吾と同じ状況下で、信吾の受けた痛みや苦しみを同じように体験して欲しい。そして私たちが生きている限り、加害者の命がある限り、この社会には出てきて欲しくはない。出来ることなら極刑に処して欲しい。そう願わずにはおれません。信吾や私たちの受けた、又これからも受け続けなければならない、精神的ストレス、そして苦しみを、この四人の加害者に与えたい。それが出来るのは、極刑、死刑しかない、そう考えています。

生きている限り、加害者と言えども、その人の人権が守られることでしょう。しかし命が無くなった信吾の人権は一体どうなったのでしょう。こんなに悲しいことがあるでしょうか。命は二度と取り返すことが出来ません。犯した罪は本当に償うことが出来るのでしょうか。命有るものに対し行った残虐な行為。与えた精神的な苦痛。罪の無い人の命まで奪ったと言う事実に対し、取り返しがつかないことなのだと厳しく厳しく法の下、裁き追求していただくことを心からお願い申し上げます。

 

真正面から受け止めなくてはならない、でも受け止めることさえ難しい言葉です。ではどうすれば良いのでしょうか。簡単な解決策はないのですが、これまでの人類史を振り返ると、数えきれないほど多くの人が悲劇に遭遇し、悲しみ嘆き、持って行きどころのない気持を抱えながら生き続けてきています。そうした多くの人たちの経験の積み重ねから、私たちが学び取ることはできないのでしょうか。

例えばほとんどの宗教は、悲劇に遭遇した人々とともに存在してきました。芸術を通して悲しみが癒されることもあったはずです。そして、社会制度としての法的な枠組みにも、長い間、人類が歩んできた経験から学び未来を拓くための知恵が込められています。憲法の97条には、簡単ではありますが、人類の歩みが記されています。基本的人権の中には、「幸福追求の権利」も含まれています。抽象的なレベルでは、尾松さんに応えることにはならないと思います。それでも法治国家としてのわが国では、このような難しい問題についても憲法を元にして考えて行く必要があります。

この点については7月に法政大学出版局から刊行予定の『天皇と憲法――数学書として憲法を読む――』をお読み下さい。憲法を、あるがままに読むとどのような結論に至るのかを詳しく論じています。

しかしながら、死刑についての憲法の考え方を理解したからといって、殺人によって愛する家族を奪われた遺族の気持が自動的に癒されることにはならないでしょう。

ようやく社会的な関心も、この面に向けられるようになり、国も重い腰を上げることになりました。救済のための国の施策は始まったばかりですが、主に二つあります。経済的な支援策としては「犯罪被害者給付制度」があり、精神的社会的支援については「犯罪被害者等基本法」があるのですが、被爆者援護法と同じように、運用面でさらなる工夫も必要ですし、制度的・法的な拡充も必要でしょう。また、法律面だけではなく、より包括的な支援システムが必要なことは言うまでもないと思います。

そして、広島・長崎の被爆者たちの歩んできた道からも社会全体として教訓を汲み取り、苦しい悲しい運命を背負わされた犯罪被害者やその遺族たちのために役立てることも可能なのではないかと思います。その視点から被爆体験を生かすための調査や研究の行われることを期待しています。

[2019/5/19 イライザ]

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2019年5月18日 (土)

死刑制度 (3) ――冤罪――

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 《冤罪》

これまで、死刑制度について、様々な問題点について検討してきましたが、もう一点大切なことがあります。刑罰の中で何よりも避けなくてはならないものは、罪のない人に与える刑罰、つまり「冤罪」です。中でも冤罪によって死刑を執行された人は、永遠に生き返ることがないのですから、究極の「残虐」さを持つ犯罪だと断定できます。そして冤罪による死刑の宣告が実際にあったことは、後に長く苦しい時間を経て無罪判決が出たにしろ、四大死刑冤罪事件(免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件)をみることだけでも明らかです。

死刑判決は受けなかったけれど、服役しながら冤罪を訴え、その結果無実が証明された例はかなりあるのですが、それは、冤罪だということを本人が一番良く分っていて、その本人が熱心に訴えを続けたために裁判所も最後には動かざるを得なかったからだと考えられます。死刑を執行されてしまってから、真犯人が分り冤罪であることの証明がされたりするケースはほとんどあませんが、それは、一番の当事者である本人がこの世にいないこと、従って、本人があくまでも「冤罪」であることを訴え続けることさえできなくなった事実、が最大の原因かもしれません。

冤罪によって、罪のない人が死刑に処せられるのは「残虐な刑罰」に相当することは御理解頂けたとして、それは「絶対に」行われてはならいことが36条の規定です。「絶対に」の意味は、「一人の例外もなく」です。この「一人の例外もなく」は、民主主義の理想形で述べた、全ての人が合意しなければ民主政治・国家と言えども人の命を奪うことはできない、という原理に呼応しています。

そして、人間は神ではありませんから、過ちを犯します。その可能性を認めた上で、「ただ一人の例外もなく」冤罪による死刑が起らないようにするためには、死刑そのものを廃止する以外に道はありません。冤罪という視点からも36条は死刑を廃止すべきだと主張しているのです。

[2019/5/18 イライザ]

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2019年5月17日 (金)

死刑制度 (2) ――国際比較――

前回、死刑についての我が国の世論調査で、賛成支持が85パーセントにも上ることが分りました。では、世界に視野を広げるとどのような状況なのでしょうか。

 《死刑制度の概略》

先ず、世界的にどのくらいの国が死刑制度を廃止しているのか、死刑制度が残っているのはどの国なのかを見てみましょう。アムネスティ・インターナショナル日本による資料です。

 

あらゆる犯罪に対して死刑を廃止している国:98

通常の犯罪に対してのみ死刑を廃止している国:7

事実上の死刑廃止国:35

 

法律上、事実上の死刑廃止国の合計:140

存置国:58

 

140対58と、廃止した国の方が圧倒的に多いのですが、日本は存置国の一つです。他の57か国はどんな国なのでしょう。これまたアムネスティの資料です。

アフガニスタン、アンティグアバーブーダ、バハマ、バーレーン、バングラデシュ、バルバドス、ベラルーシ、ベリーズ、ボツワナ、チャド、中国、コモロ、コンゴ民主共和国、キューバ、ドミニカ、エジプト、赤道ギニア、エチオピア、ガンビア、グアテマラ、ギニア、ガイアナ、インド、インドネシア、イラン、イラク、ジャマイカ、日本、ヨルダン、クウェート、レバノン、レソト、リビア、マレーシア、ナイジェリア、朝鮮民主主義人民共和国、オマーン、パキスタン、パレスチナ自治政府、カタール、セントキッツネビス、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、サウジアラビア、シンガポール、ソマリア、南スーダ ン、スーダン、シリア、台湾、タイ、トリニダード・トバゴ、ウガンダ、アラブ首長国連邦、米国、ベトナム、イエメン、ジンバブエ

この中には韓国が入っていません。韓国では法律上、死刑は残っていますが、1997年以来死刑は執行されておらず、アムネスティは、「事実上の廃止国」と位置付けています。またアメリカは、死刑制度についての管轄権は州にあり、16の州が死刑を廃止しています。

特別の意味がありそうにも思えるのは、存置国と人口の関係です。人口の多い順に国を並べると、①中国②インド③アメリカ④インドネシア⑤ブラジル⑥パキスタン⑦ナイジェリア⑧バングラデシュ⑨ロシア⑩日本ですが、ブラジルは、通常犯罪については廃止していますし、ロシアは、チェチェンを除いて執行停止状態ですので、10か国中8か国が存置していることになります。人口の多い国では死刑が行われる理由があるのかもしれません。この点についての考察を探してみましたが、見付かりませんでした。何方か御存知の方に教えて頂ければ幸いです。

もう一点、法務省が千葉景子大臣の時に設置した「死刑制度のあり方についての勉強会」で日弁連の代表がプレゼンに使った地図を見ると、死刑が残っている国々は、東のアメリカから太平洋を越えてアジア、そしてアフリカまで、かなりきれいな形で帯状に続いています。この地域は気候が良くて、人口の多い国々が集まっているためにこのような地理的分布になったのか、それとは別の理由で、帯状の国々には死刑制度が残っているのか、この点についても御存知の方がいらっしゃれば御教示頂きたいと思います。

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[2019/5/17 イライザ]

 

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2019年5月16日 (木)

死刑制度 (1) ――賛成が85%――

ここ数か月、憲法をあたかも数学書として読む試みを続けてきましたが、その結果が7月頃法政大学出版局から刊行される予定です。

その中で取り上げているトピックの一つが死刑制度なのですが、「数学書として読む」立場からは、憲法が死刑を禁止している、という結論になります。詳細は、7月に出版される小著をお読み頂きたいと思いますが、それまでの間、死刑制度についての背景など考えてみたいと思います。

憲法に明確な規定、例えば「死刑は禁止する」とか「死刑は刑罰として認める」といった明示的な条文があれば、それに従うことになるのですが、そのような明示的な条文はありません。そして、こと死刑のような重大な案件については世論も重要です。そこで我が国の死刑についての世論を見てみましょう。簡単に分るように、グラフで示します。

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これは国が行った世論調査の結果です。青が賛成、赤が反対です。賛成が増え、反対が少なくなっている傾向が分ります。

賛成と反対の理由ですが、「廃止派」と「存置派」の考え方を簡潔に整理したものが法務省のホームページに掲載されています。(「死刑制度のあり方についての勉強会」のとりまとめ報告について)

 

死刑制度の存廃に関する主な論拠

 

1 死刑廃止の立場

① 死刑は,野蛮であり残酷であるから廃止すべきである。

② 死刑の廃止は国際的潮流であるので,我が国においても死刑を廃止すべきである。

③ 死刑は,憲法第36条が絶対的に禁止する「残虐な刑罰」に該当する

④ 死刑は,一度執行すると取り返しがつかないから,裁判に誤判の可能性がある以上,死刑は廃止すべきである。

⑤ 死刑に犯罪を抑止する効果があるか否かは疑わしい。

⑥ 犯人には被害者・遺族に被害弁償をさせ,生涯,罪を償わせるべきである

⑦ どんな凶悪な犯罪者であっても更生の可能性はある

 

2 死刑存置の立場

① 人を殺した者は,自らの生命をもって罪を償うべきである。

② 一定の極悪非道な犯人に対しては死刑を科すべきであるとするのが,国民の一般的な法的確信である。

③ 最高裁判所の判例上,死刑は憲法にも適合する刑罰である。

④ 誤判が許されないことは,死刑以外の刑罰についても同様である

⑤ 死刑制度の威嚇力は犯罪抑止に必要である。

⑥ 被害者・遺族の心情からすれば死刑制度は必要である。

⑦ 凶悪な犯罪者による再犯を防止するために死刑が必要である。

 

次回は国際的な比較をしてみたいと思います。世界の多数の国々では、死刑は廃止されているのです。

[2019/5/16 イライザ]

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2019年5月11日 (土)

名代 (なだい) と名代 (みょうだい) ――稲庭うどんの専門店はどちら?――

「銀座」の定義は人によって違うようなのです。数寄屋橋周辺は銀座に入れない、という正統派の人がいて当然ですし、もっと広く、地下鉄の銀座線や丸ノ内線の銀座駅周辺は全て銀座と呼ぶ人もいます。その銀座の便利な所にかつて、稲庭うどんの専門点がありました。江戸時代初期からの歴史のあるうどんということで、店の名前もその時代を反映したものでした。

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阪急プラザから見た2年前の数寄屋橋交差点

元々、うどんよりは蕎麦の方が好きだったのですが、稲庭うどんは、細目で冷や麦や素麺と同じような食感でしたので、よく食べに行っていました。家族だけではなく友人や知人、仕事関係の人たちとも良く訪れる「お気に入り」の店だったのです。

店の看板にも「名代 稲庭うどん」が入っていたような気がします。メニューにも「名代 稲庭うどん」他、「名代」の付くものがいくつかあったような記憶があります。

お読みの皆さんは御存知だと思いますが、「なだい」と「みょうだい」は、漢字は同じでも意味は全く違います。「なだい」と読む場合は、「名物」「歴史的に良く名前が知られている様」を表します。「みょうだい」の場合は、誰かの代理を意味します。それも、格式のある代理というニュアンスがありますので、「皇太子殿下が、天皇陛下の御名代として○○国を訪問された」といった感じの報道がニュース映画等で良くありました。

ある日、注文をした後、その確認をするために若い女性店員さんが「みょうだい稲庭うどんですね」と繰り返しました。「みょうだい」ではなく「なだい」だと注意したのですが、全く頭には入らなかったようで、混んでいる店で責任者を呼び出すまでもないと思ってそのまま帰ってきました。

時代背景もあったのかもしれません。コンビにで、700円の買い物に1,000円札を出すと「1,000円からお預かりします」が目立ち始めたときでもありました。何より、贔屓にしていた店で、目玉商品の呼び方は間違えて欲しくないという思いで、数日後、本社に電話をしました。「なだい」と「みょうだい」の間違いを説明して、メニューの読み方も大切ではと注意したのですが、結局、「それが何だ」という対応でした。自分の店の看板とも言えるメニューの名前、しかもわざわざ「名代」とまで名乗っておきながらその読み方も知らない、その上、ファンの声にも耳を傾けないのでは、これ以上のお付き合いはできないと思って「名代 稲庭うどん」にはそれ以後、行ったことがありません。

しばらく経って、家人がその近くに用事かあったとのことで、帰ってから報告してくれました。「名代 稲庭うどん」の店は潰れていたとのことでした。

湯沢市その他の地で今でも頑張っている稲庭うどんメーカーやレストランがありますが、それらのところとは関係のない店だったことを祈っています。

[2019/5/11 イライザ]

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2019年5月 9日 (木)

苦手なネクタイ売り場 ――好きな作家・阿刀田高――

いつの頃からか、ネクタイにはこだわってきました。性格もあるのでしょうが、というより全面的に性格のせいだと思いますが、好きなネクタイと嫌いなネクタイがハッキリしています。でもネクタイそのものには関心があるので、デパートに入る機会があると、ネクタイ売り場をちょっとのぞくのがルーティーンになっていました。お店によって揃えているブランドや柄に違いがあるので、その中で気に入ったものを買うこともあったからです。私の趣味にピッタリのネクタイをプレゼントとして頂いた場合、天にも昇る嬉しさだったことも良くありました。

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お気に入りのネクタイ2本

でも、デパートのネクタイ売り場は苦手でした。それを、作家の阿刀田高さんが見事に書いて下さっていました。1984年発行の角川文庫『まじめ半分』中のエッセイ、「ネクタイ売り場で」です。先ずは冒頭の部分をお読み下さい。

 

ネクタイ売り場ではなぜかたちまち店員がまとわりつく。

「お客さまがお召しですか」

「今のお背広におあわせですか」

「どんながらをお捜しですか」

まだろくに品物を見ていないうちに矢つぎばやに質問を浴びせかけられる。

こちらとしては曖昧に、不機嫌に首を振るよりほかにない。

 

ここで「不機嫌に」という描写が素晴らしいのです。にもかかわらず、店員は追及を緩めないばかりでなく、「こちらは今お召しのスーツに似合うと思いますが」とか「これが今年の新柄です」といったような調子でどんどん商品を進めてきます。すべて女性店員で、若い頃の経験が多かったのですが、ちょっと年配の店員といった雰囲気でした。

それでも店員から逃れて売り場をざっと見渡すうちに、「これは良さそうだ」と思うネクタイに気付くときもあるのです。自分の趣味ですから、店員が勧めてくれたものとはかなり違うのですが、それでも気に入ったものを買い求めることもありました。

そんな時でも諦めずに、「それはお客様には派手過ぎるのでは」とか、「お召しの背広には地味すぎませんか」といった攻勢をかけてくる店員もいるから驚きでした。店員の趣味でネクタイを買おうという意図は全くありませんので、気が向いた時には、「これに似合う背広があるので」くらいの返事をした上で、店員の意向は無視して好きなネクタイを購入していました。

最近はスーツを着ることもほとんどなくなり、ジャケットを羽織ってもノーネクタイのことが多いので、ネクタイを買いにデパートに行くこともありません。苦手な店員のセールストークに付き合うこともなくなり、ストレスは一つ減ったのですが、店先のネクタイラックの中にあるたくさんのネクタイから、「これだ!」と感じる一本に出会える機会もなくなり、「プラス1」・「マイナス1」といった気分です。

[2019/5/9 イライザ]

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2019年5月 8日 (水)

日本語「無支援」の外国籍の子どもたち ――一万人以上います――

子どもの日の毎日新聞電子版の記事で、再び我が国政治の貧困さに衝撃を受けました。

「日本の公立学校(小中高と特別支援学校)に通い、学校から「日本語教育が必要」と判断されたにもかかわらず、指導を受けられていない外国籍児らが全国で1万400人に上っている」

ということではありませんか。

 

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国の施策が不十分なのですが、その点について、毎日新聞の奥山はるな、堀智行両記者は次のように解説しています。

「文科省は日本語指導が必要な児童生徒18人当たり担当教員1人を増員するとしているが、1校当たりの外国籍児らの在籍数は「5人未満」が7割以上で、対策が追いついていない。」

広島県には、支援のない子どもたちが110人いるようです。

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毎日新聞の記事より

学校の先生方、PTAそして同じクラスの子どもたちが何もしないで、日本語のできない外国籍の子どもたちを放っておくことにはなっていないと信じています。何らかの工夫をしてできる範囲での支援はしているのだと思います。

とは言え、善意の解釈だけで物事を判断している限り、子どもたちの虐待や貧困等の問題への理解は生まれませんし、対策も手遅れになること請け合いです。全く見放されている子どもたちがいるかもしれないという仮定で、改めて問題のあることを確認しておきたいと思います。

外国の学校で言葉が分らないままに、授業に付いて行くのは大変です。日本語での授業でも内容が分らない授業を聞きながら机に座っているのがいかに大変だったかという経験をお持ちの方もいらっしゃると思います。

私も高校生のときにアメリカに留学して、英語はそれなりにできた積りでしたし、留学生が珍しい時代・環境だったのでとても大事にされましたが、それでもずいぶん苦労をしました。大きな助けになったのは、社会科の時間に、先生が私の隣の席に「先生のアシスタント」のような存在の生徒を座らせてくれたことでした。授業中でも分らないことがあったら小さな声で教えて貰えたのです。分らないことがある度に授業を止めて一人の留学生の質問に答えなくても良くなり、先生も助かったようです。

現在、日本の小中高や特別支援学校に通っている子どもたちの中で、これほど恵まれた環境で勉強している子どもは少ないだろうと思います。先ずは基本的な日本語の教育が必要な子どもたちが圧倒的に多いのではないでしょうか。となると、一日一時間では足りないかもしれませんが、集中的に日本語を学習する場を学校ごとに設ける必要があるということでしょう。

国の施策が間に合わないという現実があるにしろ、一万人以上の子どもたちにとっては、今の今、何らかの支援がないと毎日が苦しみの連続になっている状況でしょう。となると、国ではなく、地域ごとにできることを考えたらどうでしょうか。

一人で行動するのが不安なら、何人かでチームを作って、地域の学校に日本語支援の子どもがいるのかどうかを問い合わせて、放課後でも昼休みでも、何人かが交代で日本語を教える場と時間を作ることは可能なのではないでしょうか。

でも、このくらいのことは私が提案する前に、全国各地で行われていて当然ですよね。だとしたら、この稿は「年寄りの冷や水」として読み捨てて下さい。

 [2019/5/8 イライザ]

 

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コメントではなく、迷惑メールならぬ迷惑書き込みが増えて対応に時間が掛るようになりました。

コメントをお寄せ下さる皆さんには申し訳ないのですが、ハードルをちょっと高くしました。変な書き込みが少なくなるまで、お付き合い頂ければ幸いです。

2019年5月 7日 (火)

お礼と感謝 ――慣用句の行き過ぎ――

お役人の作る文章は、未だに分り難いものが多いのですが、何故分り難いのかを説明するのさえ難しいくらいです。お役人の多くは頭の良い人が多いようですので、その結果として、私たちには分り難い表現になっているのかもしれません。そして、お役人はまた効率を重んじます。効率の代りに分り易さを選んで貰えないものかと、今回はある一点についての問題提起をしたいと思います。先ずは、明治150年記念式典における安倍内閣総理大臣式辞の中から、気になる部分を引用します。

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「皆様と共に、我が国が近代国家に向けて歩み出した往時を思い、それを成し遂げた明治の人々に敬意と感謝を表したいと思います。」

ここで気になるのは、「敬意と感謝を表する」という部分です。これまで、ずいぶんたくさんの公的な行事に出席してきましたが、その際に挨拶をする人たちのほとんどがこの表現を使っていました。

確かに、「敬意を表する」とは言います。でも、「感謝を表する」と言うものでしょうか。ちょっと変ですね。でも、最初からこんな言い方ではなく、途中からこう変ったのではないかと推測しています。

つまり、最初は「敬意と謝意を表します」だったのではないのでしょうか。これなら、問題はありません。とは言え、「敬意」と「謝意」を一まとめにしなくても良いような気もしますが--。

でも、「敬意」と「謝意」にはどこかからクレームが出たのではないかと思います。「謝意」にはもう一つ、「謝る」、つまり「謝罪する」という意味があるからです。その意味にこだわる人が、「何で謝らなくてはいけないんだ」と横槍を入れた、というシナリオはあり得ることなのではないかと思います。

その結果、「謝意」と同じ意味を持つ「感謝」を使うことになったのではないでしょうか。

実は、「敬意」と「感謝」が一対の言葉として使われるようになってから、様々な行事では、これまた種々の動詞が使われるようになりました。作文をするお役人たちの中にも、「敬意と感謝を表する」に違和感を持った人がかなりいたということなのだと思います。「敬意と感謝を致します」とか「敬意と感謝を申し上げます」等々です。

そして、最近ではそれが行き着くところまで行ってしまいました。「お礼と感謝を致します」とか、「お礼と感謝を申し上げます」を良く聴くようになったのです。「お礼」と「感謝」は同じ意味ですから、変なのですが、慣用句として定着すれば違和感はなくなるのかもしれません。でも、ここでも最初に指摘した違和感は解消されていません。たとえば、「感謝致します」とは言っても「お礼致します」とは、感謝するという意味では使わないのではないでしょうか。

もう一点、朝見の儀における新天皇の「おことば」では、「敬意と感謝を申し上げます」が使われていました。確かに違和感がありますが、それには意味があるのかもしれないと私は読んでいます。この表現は、お役人言葉なのですが、必ずしも新天皇の好む表現ではないように思われるからです。にもかかわらず、そのまま「おことば」を読まれたのは、朝見の儀が国事行為だからなのではないでしょうか。5月3日の「朝見の儀と憲法」で説明したように、国事行為は、内閣の助言と承認が必要であり、その全責任は内閣が負わなくてはならないからです。違和感のある日本語の使い方にも当然、内閣が責任を持たなくてはならないのです。

[2019/5/7 イライザ]

 

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2019年5月 6日 (月)

飯田橋の越後料理 一真 ――名物は「へぎそば」――

上京するときの宿は、そのときの会議や用事がどこなのかによって決めているのですが、最近は子どもたちの下宿を中心に考えて、交通の便の良いところになっています。その結果、飯田橋が便利なことに気付いて、その辺のホテルに泊っています。

飯田橋には大学もあり、多くのビジネスも集中していますし、神楽坂も近く夜のエンターテインメントも充実しています。羽田空港や東京駅からも近いですし、かつてこの辺に住んでいたこともあり、いつも快適な滞在になっています。

お昼の時間は、近くのオフィスから結構若い男女が繰り出してくる感じで、随分混むのですが、ちょっと時間をずらして空いたころに食べることにしています。夜も同じです。

どこが美味しいのかは、昼食時の行列を見ることで分りますが、それほど行列はなかった店であるにもかかわらず、素晴らしいところがありました。「越後料理 一真」です。

新潟に行ったときに、名物として振る舞われたものの中に「へぎそば」がありましたが、東京でも食べられるのを発見して、久し振りに店に入ってみました。

まず「へぎそば」とはどんなそばなのかという、ウィキペディアの説明です。

「「へぎ(片木)」と呼ばれる、剥ぎ板で作った四角い器に載せて供されることからこの名が付いた。冷やしたそば3 - 4人前を、一口程度に小分けし、丸めて盛りつける様子から「手振りそば」とも呼ぶ。器の「へぎ」は、「剥ぎ」を語源とする。」

写真で見て貰った方が分り易いと思います。店の表の看板です。

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何度も行きましたし、その度にメンバーがちょっとずつ違っていましたので、注文したものは多種に上るのですが、やはり、へぎそば中心の一品で満足度が高かったのが、「天付へぎそばセット」です。

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これは若い人たちに人気がありました。私のお気に入りは、どこに行っても注文する傾向のある「かき揚げ」が入っている、「桜海老かき揚げ天せいろ」です。

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一真のかき揚げで感激したのは、これが3次元的かき揚げだったからです。

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最初にテーブルに運ばれて来た時には、「タワーかき揚げだ!」と声を上げてしまいました。美味しい蕎麦と揚げ物であることはもう、書く必要がないと思いますが、その上、この店で感激したのは、雰囲気とサービスです。お客さんを大切にしていることが良く分る接客なのです。

日本の食文化の典型的存在の一つである蕎麦屋の雰囲気を表すのに英語を使うこともないのですが、この店で頭に浮んだのは「civility」という言葉です。礼儀正しい、そして丁重なという意味ですが、その類語の「civilized」(上品な)という感じもありました。加えて、「粋」と言ったら良いような昔の名残までそこはかとなく漂っていて、空いた時間に一人でゆっくりするのには最適です。

例えば、相席を依頼するときの言葉と所作から感じたのは、押し付けがましくなく、こちらが断っても構わないのですよ、というようなニュアンスが伝わってきました。越後ではワサビが採れなかったので、蕎麦はからしで食べていたので、良かったら試してみて下さいというお勧めも上から目線ではなく、へぎそばを楽しんでほ欲しいという気持がしっかり伝わって来ていました。

店員のお兄さんたちだけでなくお姉さんたち、とくに女将さんだと思われるちょっと年配の女性の気配りもさりげない温かさが感じられました。

ことによるとこうした気遣いは越後特有のものかもしれませんが、古き良き時代の東京を思いだす一時にもなりました。

[2019/5/6 イライザ]

 

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