『われ御身を愛す』 ――愛新覚羅慧生と大久保武道の遺簡集――
『われ御身 (おんみ) を愛す』
――愛新覚羅慧生と大久保武道の遺簡集――
あと一週間で、1957年12月10日から60年になります。そのタイミングで再び注目されているのが、「天国で結ぶ恋」とも呼ばれた、愛新覚羅慧生さんと大久保武道さんの心中です。2017年12月1日(金)放送、TBS系列「爆報!THEフライデー」でも取り上げられています。
60年前の12月10日、二人は天城の山中で発見されましたが、4日の夕方に姿を消し、捜査願いが出されていました。捜索隊によって発見されたのが6日後なのですが、二人は学習院大学の同級生で、慧生さんは19歳、武道さんは20歳の若さでした。
天城山
この事件は「天城山心中」と呼ばれ、「天国に結ぶ恋」とも評されて大々的に報道されました。それは、愛新覚羅慧生さんが清朝最後の皇帝で満州国の皇帝になった愛新覚羅溥儀の姪
(溥儀の弟溥傑の長女) であり、母は、旧侯爵の嵯峨浩
(さが ひろ) という身分が大きく影を落していたようです。溥儀については、映画「ラスト・エンペラー」がヒットしましたので、今の方が60年前よりは良く知られている存在かも知れません。
大久保武道さんは、青森県八戸の旧家の出身ですし、当時、アルバイトもせずに学習院大学に通っていたのですから、掛け値なしの「庶民」とは言えないような気もしますが、嵯峨家から見ると「身分」格差が大き過ぎたのかもしれません。
当時、私は中学生でしたが、高校2年の時に、二人の遺簡集『われ御身を愛す』が出版され、ベストセラーになりました。高校生の間でも、特に同級生女子たちの間では大きな話題になりました。
愛し合う二人の迎えた死はあまりにも悲し過ぎるのですが、マスコミを中心に「純愛」の物語として受け止める人たちが多かったように思います。今なら、石川さゆりの「天城越え」と結び付ける人もいるかも知れません。
「心中」の真相は二人にしか分りませんが、武道さんの遺族は、せめて天国で二人が安らかな一時を過ごしてくれたらと祈っているようですし、嵯峨家の関係者や友人たちは、慧生さんが最後まで武道さんを翻意させようと説得を続けたと信じているようです。
「心中」に使われたのは武道さんの父が憲兵時代に携帯していた拳銃ですが、もし、拳銃が身近になければ、このような悲劇は起きなかったかもしれないと考えてしまうのは短絡的な結論でしょうか。
そして、さらに大きな背景としては国家主義と戦争を考えない訳には行きません。満州国の存在抜きでは語れない昭和史が少し違った形を取っていれば、と考えるのも論理の飛躍かもしれません。こんな感慨をセンチメンタルな溜息としてのみ記憶するのではなく、次の世代への責任を果すためのエネルギーに変えられたらと思っています。
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