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2019年5月19日 (日)

死刑制度 (4) ――被害者――

これまで、死刑制度について、憲法がどう判断しているのかを検証する準備として、世論や国際比較といった背景を見てきました。しかしながら、犯罪の被害者の視点を抜きにして死刑制度は論じられません。今回は、そこに焦点を合せます。

《死刑しかない》

かつて毎日新聞の社会部記者として数々の事件を取材し、また警視庁キャップとして勇名を馳せた友人A氏から聞いた忘れられない一言があります。「自分は死刑制度は廃止されるべきだと信じている。でも、たくさんの犯罪者を取材する中で、こいつは死刑になっても仕方がない、それ以外の選択は考えられないと言いたくなるくらい悪い奴のいることも事実なんだ。」私の何倍もの幅広さで社会を見てきたであろうA氏の感想に私は返す言葉もありませんでした。

事件記者としての情熱だけではなく、様々な事件の背景等についても冷静に分析ができ、人間的な優しさも持ち合わせているA氏でも、こんな思いに駆られることがあるのは、それほど死刑の正当性が社会に浸透しているからなのだと思います。そして、このA氏の頭に、死刑の可能性がある意味自然に浮かぶこと自体、死刑という制度の廃止と存続との間の線引きが難しいことを示しているのではないかと思います。

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確かに、子どもを殺された親の気持は私たちの魂を揺さぶります。共に泣き嘆き糾弾したい気持になるのも情のなせる業かもしれません。内閣府のホームページにあった、息子さんを失った一人の母、尾松智子さんの言葉です。

初公判が八月四日と決まりました。口を二度と利くことの出来ない信吾、無念の中で命を奪われてしまった信吾のために、私に出来るたった一つのこと、それはこうやって裁判を進めていただく関係者の方々に、許されれば私共の今の気持ちを伝えさせていただくこと、それが精一杯のことです。

加害者の一人が、「生きているのが辛い。」と私共に手紙の中で述べておりました。辛いと感じる命があなたにはあるし、もう一度社会を歩んでいけるチャンスが命ある限り訪れることでしょう。正直なところどんな言葉も私共には響くことはありません。罪の無い人間の命が奪われたのに、どうして罪を犯した人間がこの世に生きているのでしょう。私共は出来ることなら、許されることなら、四人の加害者に、信吾と同じ状況下で、信吾の受けた痛みや苦しみを同じように体験して欲しい。そして私たちが生きている限り、加害者の命がある限り、この社会には出てきて欲しくはない。出来ることなら極刑に処して欲しい。そう願わずにはおれません。信吾や私たちの受けた、又これからも受け続けなければならない、精神的ストレス、そして苦しみを、この四人の加害者に与えたい。それが出来るのは、極刑、死刑しかない、そう考えています。

生きている限り、加害者と言えども、その人の人権が守られることでしょう。しかし命が無くなった信吾の人権は一体どうなったのでしょう。こんなに悲しいことがあるでしょうか。命は二度と取り返すことが出来ません。犯した罪は本当に償うことが出来るのでしょうか。命有るものに対し行った残虐な行為。与えた精神的な苦痛。罪の無い人の命まで奪ったと言う事実に対し、取り返しがつかないことなのだと厳しく厳しく法の下、裁き追求していただくことを心からお願い申し上げます。

 

真正面から受け止めなくてはならない、でも受け止めることさえ難しい言葉です。ではどうすれば良いのでしょうか。簡単な解決策はないのですが、これまでの人類史を振り返ると、数えきれないほど多くの人が悲劇に遭遇し、悲しみ嘆き、持って行きどころのない気持を抱えながら生き続けてきています。そうした多くの人たちの経験の積み重ねから、私たちが学び取ることはできないのでしょうか。

例えばほとんどの宗教は、悲劇に遭遇した人々とともに存在してきました。芸術を通して悲しみが癒されることもあったはずです。そして、社会制度としての法的な枠組みにも、長い間、人類が歩んできた経験から学び未来を拓くための知恵が込められています。憲法の97条には、簡単ではありますが、人類の歩みが記されています。基本的人権の中には、「幸福追求の権利」も含まれています。抽象的なレベルでは、尾松さんに応えることにはならないと思います。それでも法治国家としてのわが国では、このような難しい問題についても憲法を元にして考えて行く必要があります。

この点については7月に法政大学出版局から刊行予定の『天皇と憲法――数学書として憲法を読む――』をお読み下さい。憲法を、あるがままに読むとどのような結論に至るのかを詳しく論じています。

しかしながら、死刑についての憲法の考え方を理解したからといって、殺人によって愛する家族を奪われた遺族の気持が自動的に癒されることにはならないでしょう。

ようやく社会的な関心も、この面に向けられるようになり、国も重い腰を上げることになりました。救済のための国の施策は始まったばかりですが、主に二つあります。経済的な支援策としては「犯罪被害者給付制度」があり、精神的社会的支援については「犯罪被害者等基本法」があるのですが、被爆者援護法と同じように、運用面でさらなる工夫も必要ですし、制度的・法的な拡充も必要でしょう。また、法律面だけではなく、より包括的な支援システムが必要なことは言うまでもないと思います。

そして、広島・長崎の被爆者たちの歩んできた道からも社会全体として教訓を汲み取り、苦しい悲しい運命を背負わされた犯罪被害者やその遺族たちのために役立てることも可能なのではないかと思います。その視点から被爆体験を生かすための調査や研究の行われることを期待しています。

[2019/5/19 イライザ]

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