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2018年8月 7日 (火)

お二方の被爆体験 (1) ――桑原千代子さんと切明千枝子さん――

 

お二方の被爆体験 (1)

――桑原千代子さんと切明千枝子さん――

 

原水禁世界大会の開会総会は84日に開かれました。豪雨災害の影響で参加者は少し減りましたが、それでも約2200人が参加して下さいました。全国から広島に来られた方々を改めて歓迎します。

 

               

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開会の挨拶は実行委員会の副委員長で、広島県原水禁の代表委員の一人、佐古正明さん(下の写真)でした。そして大会の基調提案は、大会事務局長の藤本泰成さんでした。

 

 

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毎回この場では、被爆者の方の体験を話して頂くことになっていますが、今年は桑原千代子さんでした。そして、5日の第8分科会「見て、聞いて、学ぼうヒロシマ」では、切明千枝子さんの被爆体験を語って頂きました。お二人とも記憶が鮮明で、当時の様子を伺いながら、涙を禁じ得ない場面ばかりでした。

 

私の拙い筆で、お二方のお話を再現することなど不可能なのですが、でも、何らかの形で伺ったことを整理しておきたいという気持もありますので、箇条書きのようなまとめ方になりますが、以下お読み頂ければ幸いです。

 

またこのお二人の被爆体験だけではなく、他にも多くの被爆者の体験記を、文字・音声・ビデオといったフォーマットで、広島の被団協がまとめています。また、広島市の平和記念資料館にも多くの体験記がありますし、国の施設である国立原爆死没者追悼平和祈念館でも体験記を読んだり聞いたり見たりすることが出来ますので、是非このような施設も活用して下さい。

 

[桑原千代子さん]

 

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l 当時、私は13歳、爆心から800メートルの雑魚場町で建物疎開に従事していた。

l 朝、体調が悪いので建物疎開を休みたいと母に言ったが、母からは「ダメ」と言われ、梅干しが二つ入ったお弁当を持って、防空頭巾を下げ、上は制服、下はモンペを穿いて雑魚場町まで歩いた。家は、そこから3.7キロ離れた宇品にあったので、子どもの足で1時間半掛った。

l 建物疎開はかなり進んでいて、多くの家が倒され、楠が一本立っていた。級友たちの何人も「家に帰りたい」と言い出していた。でも結局、先生には何も言えなかった。

l 空襲警報は鳴っていなかったのに、西から東に飛んでいる飛行機が見えた。敵機か日本の飛行機か分らないまま、友だちと話をしている最中、突然大きな音がして、洞穴の中に吹き飛ばされていた。

l 目を開けると周りは真っ暗で何も見えない。「助けて」と叫んだ。どう這い上がったのか分らぬまま、ふと人の声に気付いたら3人の人影か見えたので、「助けて」と叫んだ。

l 4人一緒に、明るい方向を目指して歩くうちに、鷹野橋に出た。おじいさんが担架の上で、「なんまいだ」と手を合わせているのを見た。兵隊さんが馬の手綱を握ったままの姿で立ったまま亡くなっていて、馬は倒れている場面にも出会った。

l とにかく人が多くいる方に歩いて行こう、と決めて歩いて行く内に、赤ちゃんを負ぶってあやしながら速足で歩いている若いお母さんにあった。思わず、「そのまま歩いていると、赤ちゃんの首が落ちるよ」、とお母さんに伝えた。

l 大橋まで来たときに、兵隊さんに、「この橋は燃えているから渡れない」と言われたのだが、橋を渡れないと宇品に帰れないので、兵隊さんの脇の下を潜り抜けて橋を渡った。

l 家の二階から若い母親が「5歳の子どもが柱の下敷きになっている。助けて下さい」と必死に訴えていた。何もできなかったし、私たちの後ろにいたお爺さんが「何もできないけれど、すぐ救援隊が来るから」と声を掛けていた。

l タカコさんが水を飲みたいと言っていたので、水を探していたら水道管の破裂しているところがあったので、水を飲もうとしたのだが、そのままでは飲めない。飯盒の中蓋を探して来て、ようやく飲ませることが出来た。そこに兵隊さんが来て、容器を取り上げた。「水を飲むと死ぬから飲んじゃだめだ」とのことだった。

l その後、担架でタカコさんを日赤まで運んでくれた。日赤の正面に着いた時には、私たちの一団は、5,6人に増えていた。

l そこから宇品に向って歩いた。途中で倒れている人に、「江田島の人間だから港まで連れて行ってくれ」と頼まれ、足首をつかまれたが、どうすることもできなかった。

l タカコさんの家に辿り着いたが誰もいなかった。それで我が家に帰ったが、時間は夜の7時だった。朝、出掛けてから12時間、家は傾き、窓は破れ家族はいなかった。友達は、それぞれ家に帰ったが、それから73年間、会っていない。

l 水が飲みたくなって、兵隊さんの言葉を思い出したが、それでもバケツに口を付けて飲んだ。とても美味しかった。でもすぐ全部吐き出してしまった。そうするとのどがカラカラになったので、また水を飲んだ、そして吐いた。それを何度か繰り返した。生きて来られたのは、それが、良かったからなのかもしれない。

l 「千代子」と言って母が帰ってきた。自分の怪我の手当てをして貰った後、子どものことを思い出したと言っていた。73歳で亡くなったが、母はずっとそのことで苦しんでいたのに違いない。

l 私の証言が平和を守るための一つの切っ掛けになってくれれば嬉しい。

l 平和は誰かに与えられるものではない。自部で掴み取らなくてはならない。その出発点は、人にやさしくすること、思いやりの気持を持つことだ。

 

桑原さんのお話が十分伝えられないもどかしさを感じつつ、これがきっかけになって、被爆者のビデオや録音を聞いて頂くことになればと願っています。

 

次回は切明千枝子さんです。

 

[2018/8/6日 イライザ]

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