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2017年6月 3日 (土)

「資料館に一度も入ったことがないんですよ」-安楽寺前住職・登世岡浩治さん

「資料館に一度も入ったことがないんですよ」-安楽寺前住職・登世岡浩治さん

 

昨日、広島宗教者平和協議会が、安楽寺(広島市東区牛田本町1丁目5-29)本堂で開催した「登世岡浩治さんからお聞きする被爆体験談」の会に参加しました。

 

登世岡さん(87)のお話の最初はこうでした。「私は、本願寺別院の平和活動の中心的な役割も担ってきたのですが、自分自身の被爆体験は、断片的にしか話しかしてこなかったのですよ。話ができなかったのです。話すと怖くなるのです。資料館にも一度も入ったことがないんですよ。見れば思い出して怖くなるからです。しかし、子どもたちには行きなさいといっています。」ちょっとびっくりです。

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続いて被爆体験を語るきっかけとなった話に移りました。「1994年、平成6年の3月の終わりです。被爆49周年ですが、仏教では50回忌です。初めてタイのバンコクで原爆体験を話しました。日タイ友好協会の平和シンポジウムに参加した時、どうしても話してくれと繰り返し頼まれて、ようやく原稿に書いてみました。」「200人ぐらいの人がいるところで、被爆体験と平和の願いを話しました。」「終わると20から30人くらいの人が集まってきて、次々と質問が出てきました。」

 

この体験がきっかけとなって登世岡さんは、日本でも話そうと思われてということです。

国内で被爆体験を話された最初は、近くの小学校の子どもたちでした。

 

「その4年後に、牛田小学校の先生から『被爆の話を子どもたちにしてほしい』と依頼をされて平成10年(1998年)6月、3年生の子どもたちがお寺に来てくれて、話をしました。毎年続いています。今は早稲田小学校でも話しています。今年は、192名にも増えたものですから、本堂の床が抜けてもならないと、小学校の体育館で話すことになっています。」

いよいよ被爆体験です。

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「72年前。私は中学校4年生、15歳でした。被爆地は、江波の軍需工場です。学徒動員で働いていました。製缶工場で鉄板のガス切断や溶接の作業をしている時でした。」当時の模様が続きます。「お日さんが出るときの何倍もの明るさ。窓から飛び出して広島の中心部を見ると、白い雲が立ち上り、ピンク色の雲が上がってと思ったら、今度は黒い雲が上がった。」実に鮮明なお話です。「工場から逃げようとした時であった『顔は焼け、服はボロボロ手を挙げて歩いてくる人たち』。幽霊とはこんなものかと思った」

 

「さらに逃げる途中で黒い雨にあった。一旦古江のおばさんの家に行ったが、家が気になるので帰ることにした。線路伝いに歩きながら、白島の工兵橋で見た黒焦げの死体。焼けてしまった牛田の街の姿。何とか庫裏が残った家にたどり着いたが、小網町の建物疎開に行っていた中1の弟の純治さんは帰っていなかった。」

 

さらに話は続きます。「ずぶ濡れの服のままお母さんと二人で、白島線をたどりながら京口門付近まで弟さんを探しに行った。『水を下さい、水をください』という女学生に出会ったが、何もできなかった。京口門から先には行けず、弟さんを見つけることもできず、家に帰ってきた。」

Photo_3                             被爆後の安楽寺 中心から左側に本堂の骨組みや銀杏が映っている

ようやく弟さんと出会うことができたのは「工兵橋たもとの田所さんから連絡が入り、ようやく純治を見つける。顔がむくれ上がってみてもわからないほどやけどを負っていたが、ベルトのバックルを見て確信した。夕方担架に載せて寺まで連れ帰った。」

そして弟さんとの悲しい別れ。「なくなる2日前には、枕元で両親と2番目の姉と一緒にお経を唱えた。純治さんも一緒に口を動かしていたが、途中で止まり、4人に『ありがとう』の言葉を最後に、意識は途絶え、12日昼過ぎに亡くなった。庫裏の天井をはがし、棺桶を作り、近くの公園で火葬した。弟を火葬にする。これほどむごいことはない。」

 

最後に「核兵絶ということを真剣に考えて欲しい。」と呼びかけて約1時間半余りの被爆体験が終わりました。

改めて、被爆者一人ひとりに重い体験があるのだということを実感させられました。

 

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ここ安楽寺は、爆心地から2キロ余りありますが、本堂は骨組みだけを残して全壊しました。その後その残った木を使って本堂は、再建されたそうです。

 

安楽寺に近づくと、門の屋根を突き破る形で上に伸びた被爆銀杏の巨樹が元気に葉を茂らせています。この銀杏のおかげで、お寺から北側は、延焼を免れたともいわれています。安楽寺の前の小路には、「いちょう小経」の名がつけられています。

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少し早めについた私は、本堂裏に広がっている墓地に入ってみました。私が目にしただけでも、いくつものお墓に「昭和20年8月6日」の文字が刻まれていました。中には「原爆死」という言葉も。

 

6月15日からニューヨークの国連では、2回目の「核兵器禁止条約交渉会議」が始まります。語りたくない被爆体験を語る被爆者の思いが、この交渉会議の参加者に伝わることを強く望まずにはいられません。

 

そして、今度こそ「核兵器廃絶への道」を確かなものにしなければなりません。それは広島にいる私たちの役割だと改めて決意した一日でした。

 

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コメント

ナカオさんちの菩提寺の古くからあるおびただしい数のお墓の中にも、「没昭和二十年八月六日」と記されたお墓がたくさんあります。ナカオさんちのお墓のひとつも「没昭和二十年八月六日」と記されています。隣のお墓はその人の父親と妻だった人も入死被爆のため後年、亡くなり遺骨が埋葬されています。1963年、竹原市で開催された「科学者京都会議」で湯川秀樹博士や朝永振一郎博士と共に「非核三原」を提唱した、被爆者の広島大学理論物理学研究所所長だった三村剛昴(みむらよしたか)博士のお墓もすぐそばにあります。ヒロシマに住むわたしたちの傍らには核の非人道性を伝えるものがいたるところにあることを忘れてはなりません。

やすみさん コメントありがとうございます。
広島市以外にも、当たり前のことですが、原爆の被害は広がっていることを改めて実感します。その一つ一つときちんと向き合うことが大切ではないかといつも感じています。

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