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2016年11月20日 (日)

第二回原水禁学校-似島を学ぶ、似島から考える - (日本のサッカー発祥の地-捕虜収容所から拡がったサッカー)


今回は、このブログのもう一人のスター・ライターの登場です。広島県原水禁常任理事の中谷悦子さん。被爆二世として「ノーモア・ヒバクシャ」「ノーモア・ウォー」等の運動を続けてきた人ですが、被爆者の高齢化が進む中、被爆者のメッセージを継承し新たなエネルギー創出のため、在外被爆者支援にも取り組むなど、今「旬」の活動を続けています。

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第二回原水禁学校-似島を学ぶ、似島から考える-

(日本のサッカー発祥の地-捕虜収容所から拡がったサッカー)

 

第一検疫所

小雨が心配される中、第二回原水禁学校で似島を訪れた。似島を学び、軍都広島の隠された歴史や被爆の惨状を追体験するフィールドワークに県内から老若混じえて39名が参加した。今日の講師は、地元の似島で郷土の歴史を探究しボランティアガイドをされている宮崎佳都夫(みやざきかずお)さん。似島のことについて尋ねるならば彼をおいて他にないと言われる人だ。

 

Photo

 秋葉学校長の挨拶の後、早速フィールドワークが始まった。まずは19856月1日に開所された陸軍第一検疫所の遺構を訪ねた。小雨も気にならず講師の後に続いた。残念なことに似島の検疫所の遺構は次々と壊され、当時を物語る物は少なくなっているということだ。まずは弾薬庫を見た。宮崎さんによると、「弾薬庫は第一検疫所桟橋からずっと海岸に沿って続いていた。しかし国有地なので財務局が売りに出し、遺構を撤去したため当時を偲ぶものは写真しかない」と残念そうに語られた。聞く私たちも歴史の生き証人として残して欲しかったと思った。

 当時の物としては水路が残っていた。明治期の石組みは水平に済んであるのが特徴だ。なるほど長い水路は全て水平に石組みされていた。この後、似島学園の敷地を脱け海岸に出た。そこから見える景色は対岸の宇品、そして目の前に第一検疫所の二つの桟橋。一つ   にはクレーンの台座らしきものが当時のままで残っていた。そして目をこらせば煉瓦で美しく積み上げられた焼却炉の煙突。ここで参加者から質問が飛ぶ。「ドイツ兵の死体を焼いたと聞いたのですが?」それに対して宮崎さんからは「ここは観戦物や汚染物を焼いた焼却炉です。私の父など古老から死体焼却炉は別にあったと聞きました」という返事が返ってきた。これに限らず戦前の状況について思い込みも多くあるのではと感じた。ここでもキーワードは水平の石積み。明治期の職人の気持ちを推し量ってみた。

 

Photo_2

  海岸線にそって学園の周囲をまわった。すると校庭に大きな銅像があった。後藤新平の銅像だ。東京市の市長、台湾総督府の 辣腕の行政マンとして有名だが、この陸軍検疫所の構想を練り、僅か2ケ月で開所した人物だ。元々は医学者だ。宮崎さんによると検疫という未知の考え方を現実化したのが後藤新平。汚染から消毒後までの導線までがしっかりと計算されていたということや大型の高圧蒸気式消毒釜を設置したことからもその見識がうかがえた。ただ、後藤新平については台湾時代に作ったアヘン漸減法については評価が分かれている。

 

近辺の施設-監視所・弾薬庫跡 

第一検疫所跡に隣接しているのが弾薬庫の跡と監視所だ。この辺りで雨はほとんど止んで歩きやすくなった。アリの行列のように細い階段を登り弾薬庫の土塁を歩いた。する

と小高くなって木に覆われた一画にタイムスリップしたような監視所が表れた。ここから見下ろすと広島湾を行き交う船の様子が一望できたということだ。しかし、見るからに狭い。Aさんが入ってみた。すると以外に広かった。 

 弾薬庫は近年まで残っていたが財務局の売り出しによって壊されてしまった。最近、戦争の遺構が次々と壊されていく。戦争の愚かさを語ってくれた方たちの訃報も多く聞く。「今が戦前だ」と言われる今日この頃、こうした遺構が姿を消していくことが残念でならない。遺構は物言わぬ証人だ。

 

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 第二検疫所  ドイツ人捕虜との交流  

澄み渡った海を眺めながら第二検疫所跡に向かった。今は広島平和養老舘という老人福祉施設となっている。ここにも3つの桟橋があり、被爆者は主に第三桟橋から検疫所に運び込まれた。船から積み降ろされて検疫所に入る迄に多くの人が息絶えてしまったという。またたく間に検疫所は埋め尽くされ収容スペースが無くなったそうだ。どの位の人が運び込まれたのか色々な説があるが1万人、いやそれ以上と言われている。ここには救護にあたった暁部隊6165部隊の有志が建立した慰霊碑がある。

また、平和養老舘の前には日本一長いと言われた宇品駅のプラットホームが一部移設されている。これは似島と宇品が常に連動して戦争に関与してきたことを忘れないために移設したという。軍港宇品と検疫所似島。日本の戦争の歴史そのものだ。

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ここでは馬匹焼却場の一部を移設いた遺構を見た。市営アパートの建て替えに伴い、地元の人がここを発掘してほしいという要望に応えて掘り起こしてみると確かにバケツ4050杯くらいの遺骨が現れた。焼却温度が高いのでばらばらになってしまった。似島には未だに多くの原爆の犠牲社が眠っているのではないかと思った。検疫所には大量の水が欠かせない。この辺りは「清水の窪」と呼ばれていた所。いい田や畑があったのだろうか。初めて第二検疫所の井戸をじっくり見させてもらった。煉瓦で丸くしっかりと組まれていた。2003年から献水の水となっている名水だ。この水で多くの被爆者の喉が潤されたのだろうか。被爆者の「水!水!」といううめき声が聞こえてきそうだった。

 

この後、芝生広場に出て第一次大戦のドイツ人捕虜の話となった。ドイツ人捕虜との交流でバームクーヘンの焼き方が伝わり、職員と捕虜の交流で日本で初めてサッカーの試合が行われたそうだ。バームクーヘンはカール・ユーハイムが当時の広島県物産陳列舘《原爆ドーム》で行われた博覧会に出品し人気を博したという歴史を持つ。広島県はサッカー強豪県として有名だった。社会人も高校も全国に名を轟かせた。広場に目をやると、雨上がりの爽やかな天気の中で子どもたちが無心にサッカーに興じていた。


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 昼食後、午後のフィールドワークに出発する時、爽やかな音楽が聞こえてきた。なんと少年自然の家のスタッフの皆さんが音楽とパフォーマンスで私たちを見送ってくださった。何となく有り難く、何となく心が和む。

 

 慰霊碑と千人塚    

慰霊碑前に向かう途中大きな防空壕が目についた。コンクリートで厚く覆われた防空壕には悲しい歴史がある。各地で亡くなった被爆者の遺体が似の島に運ばれ、荼毘に付されることなく防空壕に投げ込まれたり穴に埋められたという話がある。人間の尊厳とは程遠い扱いだ。戦争は人権・尊厳を踏みにじって遂行される。今では許されない行為だが戦争の名の下に許された。

慰霊碑の前で千人塚やその周辺の遺骨の発掘について詳しくお話を聞いた。ここに遺体が眠っているという人の証言で発掘にとりかかったが民有地の壁にはばまれてしまったことや、中学のグラウンドを造成する時に出てきた遺骨の発掘状況の写真を見せていただいた。ネームプレートが出てきて遺族が名乗りをあげられた事例はあるが殆どが身許不明で改めて荼毘に付され平和公園の供養塔に納められたと聞くと犠牲者の無念が伝わってくるようだった。宮崎さんは「原爆の投下も戦争時に行われた。全てを捉えていくことが大切」と話してくれた。改めて肝に銘じたい。「ノーモアヒバクシャ!ノーモアウォー」。宮崎さん、有難うございました。

 

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