« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

2016年7月

2016年7月31日 (日)

世界は平和になっている (2)

世界は平和になっている (2)

 

前回、「独立」 = 「平和」= 「核兵器反対」という等号が成り立つと書いてしまいましたが、一言お断りしておきます。スコットランドとタヒチはその通りなのですが、グアムについては、また他の植民地についても、「核兵器反対」あるいは「核兵器廃絶」は未確認です。調べればそうなるとは思いますが、今の段階では私の願望と言う方が正確です。

 

とは言え、武力で抑え付けられていた人々が独立することは人権と平和の回復ですのでこの点は再度強調しておきたいと思います。第二次大戦後に多くの植民地が独立して、世界地理の試験問題としては格好の種になったことも懐かしく思い出しますが、それと同時に大切なのは、こうして独立した国々が、その後、独立を失っていないことです。19世紀、さらに20世紀の前半には、日本も含めて多くの国々が植民地を求めて戦争をし続けたのですから、それに比べれば大きな進歩です。

 

ハーバード大学のスティーブン・ピンカー教授の大著The Better Angels of Our Nature』でもこの点を重く見ています。既にこの本については言及していますが、念のため繰り返すと、副題は、「なぜ人類は非暴力的になってきたのか」で、2011年に出版され、アメリカを中心に世界的に注目され議論を呼んだ800ページ以上の大著です。(そして、日本語訳は幾島幸子、塩原通緒のお二人の手になるもので、青土社から出版されています)

 

The_better_angels_of_our_nature

引用したいのは、1946年以降2011年までの世界の出来事リストなのですが、ピンカー教授による「世界は平和になっている」ことを示すデータです。

● この間に、核兵器は使われていない

● 冷戦で対立した二つの国同士の戦争はなかった

 ● 「大国」間の戦争もなかった(中国が大国になったのは、朝鮮戦争後、と解釈)

 ● 1953年から数えて、紀元前2世紀のローマ以来、最も長い期間、大国間での戦争がなかった時期

 ● 西ヨーロッパの国同士での戦争もなかった

 ● 1人当たりの所得が最も高い44か国の間での戦争は、この間、1956年のハンガリーへの侵略を除いてゼロだった

 ● 先進国が、他国を侵略して領土を拡張することもなかった

 ● 多くの国が独立した

 ● 国際的に認められていた国が侵略により独立を失うこともなかった

 

1946年以降が平和の時代だということは、それ以前がより暴力的な時代だということでもあります。その点を日本の歴史を振り返って確認しておきましょう。

 

まず、ペリーの来広した1853年から1945年までに、外国との戦争で亡くなった日本人の数は約310万人です。その後、1946年から今までの71年間、外国との戦争で亡くなった日本人の数はゼロ、つまり「0」です。しかも、この310万という数字のほとんどは、1895年の日清戦争から1945年に終った第二次世界大戦の間のほぼ50年に限定されています。

 

戦後の71年を捨てて、戦前に戻ろうという掛け声が大きくなっていますが、それは、50年の間に300万以上の人間の命が失われた時代に戻ろう、ということに他なりません。そんな時代に戻ることを本気で考えている人がいるとは未だに信じられませんが、日本の歴史をさらに遡ってみると、もっとドラスチックな物語が現れます。

 

[お願い]

文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

 

広島ブログ
広島ブログ

2016年7月30日 (土)

「独立」 = 「平和」

「独立」 = 「平和」

 

「国連非自治地域リスト」、つまり―――いまだに植民地であり、できるだけ早く独立すべきである、またはその代替的な措置で自決権が行使できるようにすべきだと国連が認めている地域のリスト―――には2013年にフランス領ポリネシアが復帰しましたが、現在合計17の地域が載せられています。例えば、バミューダ諸島とか、バージン諸島、グアム、フォークランド諸島等、良く知られた地域もたくさんあります。そのほとんどは、イギリス、アメリカそしてフランスの「海外領土」です。これらの地域が独立あるいは自治権の拡大を目指しているのは勿論ですし、19601214日に採択された植民地独立付与宣言では、「単独での主権独立国家」「独立国家との自由な連合」「独立国家への統合」の内の一つを実現するよう、統治国にも強く働きかけています。また、このリストには載っていなくても、世界には独立を求めている地域が多くあります。

 

まず、リストに載っている地域ですが、皆さんも良く御存知のグアムがあります。私も行ったことがありますし、観光のために多くの日本人が訪れています。『琉球新報』の電子版(201642)によると、今年、グアムで独立を問う住民投票が行われます。

 

米国グアム準州のグアム政府脱植民地化委員会は1日、11月にもグアムの独立などの是非を問う住民投票を実施することを決めた。同委員長のエディ・バザ・カルボ知事が公表した。グアム住民は米大統領選に投票できず、米連邦下院の代表者に議決投票権がないなど、民主主義の制度が制限された「米国の属領」的地位に、住民の不満が募っていた。グアムの米軍基地拡大計画も、グアム住民の意思に関係なく、米政府、米連邦議会が決定してきたとして、先住民のチャモロ人らから強い反発がある。

グアムには在沖米海兵隊約4千人の移転が決まっており、日米両政府は2013年10月に移転を20年代前半に開始することで合意している。カルボ知事も基本的には移転に賛同している。

投票する際の選択肢は「完全独立」「自由連合国」「米国の州」の三つ。「自由連合国」は、パラオ、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島のように、内政権、外交権を持っているが、軍事権は米国が持つ国のことで、国連には加盟できる。

住民投票は、国連憲章で自己決定の原則を宣言した第1条(2)と第55条を根拠に実施する。

 

このように、植民地の独立には必ず「軍隊」をどうするのかが関わってきますが、それは植民地そのものが軍事力によって抑えられた結果できたことを考えると、本質的な問題であることはお分かり頂けると思います。

 

しかし、植民地ではなくても、「独立運動」には軍事と外交が関わっていることはスコットランドの例がはっきり示しています。

 

Photo_4

2011年にスコットランド議会の議場で開かれたNGO主催の核廃絶のための国際会議

2014918日にイギリスから独立するか否かを決める住民投票が行われ、僅差で独立派が負けたのですが、スコットランド独立の目的についてはほとんど報道されませんでした。

 

イギリスの正式名称は「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」で、「連合王国」と呼ばれることもあり、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの王国から成り立っています。長いので、略して「イギリス」を使いましょう。中でもウェールズやスコットランドはかなりの自治権を持っています。1999年にはスコットランドは、自前の議会を持つまでになり、首相を選出しています。

 

自治権の幅は広く、内政のほとんどがそれに含まれますが、欠けているのは、予算・外交・防衛です。独立するとこの三つもスコットランドが持てることになりますが、予算の分野では、それなりに「連合王国」からの配分がありますので、相対的な改善が期待されています。対して外交や防衛の面では、ドラスティックな変化が起こります。

 

スコットランドが独立すると、まず、軍事同盟であるNATOからは離脱することが公約として掲げられています。そして、ファスレーンという基地にある核兵器を廃絶することも公約です。実はイギリスの核兵器はここにしかありませんので、スコットランドが独立すると、イギリスは「非核保有国」になってしまいます。そしてスコットランドはEUには残ります。

 

つまり、スコットランドの独立運動の目的は、核廃絶であり、非軍事国家になることだと言っても過言ではありません。今年623日の国民投票でイギリスがEU離脱することになりましたが、スコットランドはEUに残りたいのですから、前提条件が変わった今、再度住民投票が行われることになるでしょう。その結果、今度は独立派が勝利するという予測が行われています。ですから、イギリスのEU離脱は、核廃絶という視点から考えると素晴らしい可能性を開いているのです。

 

限られたスペースの中で、単純化した議論しかできませんが、こうしてタヒチ、グアム、スコットランドの独立運動を見てくると、「独立」 = 「平和」= 「核兵器反対」という等号が成立するではありませんか。となると、沖縄の問題を解決するための有力な候補として「沖縄独立」も考えるべきなのかもしれません。

 

 

[お願い]

文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

  

広島ブログ
広島ブログ

2016年7月29日 (金)

タヒチの独立

タヒチの独立

信仰心に篤いタヒチの人たちが、フランスの横暴な核実験に反対し、またその被害に遭った人たちの人権回復に立ち上がったのには、キリスト教のリーダーたちの影響力が大きかったことは前回、説明しました。今の時点で、このような動きが出てくことは素晴らしいのですが、より長期的に考えることも必要です。

 

フランスが「仏領ポリネシア」で核実験をしたのは、その地域がフランスの植民地だからですし、放射線対策もせずに「安全だから」と嘘を言って現地の労働者を危険に曝、したのも同じ理由からです。また、今になってもこうした事態を認めずお座なりの政策を取っていることも同根です。

 

そして、キリスト教のリーダーたちの人権回復運動が広まったのは、タヒチの人々の多くが信仰に篤いキリスト教徒だからですが、そもそもキリスト教がタヒチに広まったのは、植民地主義と表裏一体の関係にあります。このことを理解するために、タヒチの歴史を簡単に振り返っておきましょう。

 

この地域を西洋人が初めて訪れたのは、1768年で、ウォリスとブーゲンビルの名前が残っています。特にブーゲンビルは、山本五十六元帥がその上空で戦死した「ブーゲンビル島」の名前の由来でもあります。また、「ブーゲンビリア」あるいは「ブーゲンビル」として知られる花は、彼が世界一周航海中にブラジルで発見したために彼の名前が付いています。

 

Bougainvillea217294__180

ブーゲンビルの花

 

しかし、その後のタヒチの歴史は御多分にもれず、キリスト教と軍隊、そしてビジネスが一体になった勢力によってこの地域を侵略し征服して行く植民地化のプロセスです。その予兆とも言えるのが、1789年の「バウンティ号の反乱」です。映画にもなって、良く知られている船の乗っ取り事件ですが、この舞台がタヒチ島です。

 

当時のタヒチは、複数の首長国との間での戦闘が続く戦国時代だったのですが、それに勝利を収めたのはポマレ王でした。それは、キリスト教の布教を許可する条件として、武器が提供されたからです。この武器の提供に一役買っていたのがバウンティ号でした。

 

しかし、ポマレ王朝は次第にフランスの介入に抗しきれなくなり、1844年から1846年までのフランス・タヒチ戦争を経て、1847年、主権を譲渡してフランスの保護領となり植民地化の仕上げができたのです。

 

植民地化に反対する運動は当時からありましたが、特に顕著になったのは、第二次世界大戦後です。世界の趨勢を無視できず、フランス政府も徐々に自治権の拡大をしています。特に1957年には、それまでより大幅な自治権の拡大が実現し、「フランス領ポリネシア」は「国際連合日自治地域リスト」から削除されました。このリストは重要です。脱植民地化を掲げた国際連合憲章の趣旨を生かすために、このリストに載っている地域の自治化の進行状態等を統治国が毎年国連に報告する義務を課す等のきまりがあるからです。

 

しかし、タヒチの住民の強い働き掛けにより、2013517日に、再び、このリストに加えられました。その結果、独立運動もかつての勢いを取り戻しつつあります。それを可能にした国連決議を彫り込み記念する石碑が、タヒチを見下す小高い丘に建立されています。

 

Photo

国連非植民地化特別委員会の決議記念碑

 

タヒチの独立運動のリーダーの一人は、タヒチの大統領を務めたこともあるファアア市のオスカー・テマル市長です。彼は1983年以来、市長を務めているのですが、先ず市長に就任すると直ちに、フランス・タヒチ戦争のタヒチ側の戦没者の慰霊碑を建立しました。「それまでは、フランス兵士の慰霊碑しかなかったから」という理由です。タヒチでは市長を務めながら大統領も兼任できるのですが、テマル市長は次の大統領選挙に出馬し、恐らく勝てるだろうと予測していました。それをバネにタヒチの独立実現のために直接フランス政府と掛け合う計画等、70歳を過ぎた今でも積極的に活動を続けています。

 

Photo_2

テマル市長

 

偶然のことではあるのですが、私たち一行が、ファアア市のテマル市長とお会いした日に国連の非植民地化特別委員会が2016年の会議を終え、9月に開かれる国連総会に提出する決議案を取りまとめています。

 

その内容は、2013年の非植民地を目指す決議があるにもかかわらずほとんど何もせず、年次報告の義務さえ果していないフランス政府には厳しい内容になるはずですが、核実験による被害だけではなく、植民地としても大きな被害を蒙ってきたタヒチの未来のためには、世界の世論がしっかりと国連の後押しをすることが必要です。

 

 

[お願い]

文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

広島ブログ
広島ブログ

2016年7月28日 (木)

「193の会」とキリスト教

193の会」とキリスト教

 

タヒチでは若い世代の人たちが「193の会」を立ち上げ、核実験被害者の団体「モルロアと私たち」を支えつつ新たな運動を展開しています。彼ら/彼女らのエネルギーや創造性を見ながら、自然に、高齢化する被爆者たちの運動組織を支えたり継承するために、若い世代が苦闘し続けている日本の状況と重ね合わせて考えていることに気付きました。「193の会」が上手く行っている背景を考えて見ましょう。

 

628日にマタイエア村で開かれた「モルロアと私たち」と「193の会」との合同集会は、その地域の教会の一つが会場でした。集会に先立って、多くの教会での定例行事になっている、地域の皆さんが持ち寄ったタヒチ料理のパーティーがありました。ご飯の上に少し甘みのあるポーク・カレーをかけた家庭的な料理にサラダの組み合わせで、その夜の強い雨と風を吹き飛ばすような温かみを感じました。

 

天候には勝てず、屋外で開かれる予定だった集会は急遽、室内の集会に変わりましたが、会場を移す作業は全員参加でとてもスムーズに進行しました。部屋に上がる際には靴を脱ぐのも日本と同じで親しみを持てましたし、年長者を大切にする文化もしっかり続いていました。

 

20160628_201949

例えば、この写真の左側の男性ですが、タヒチ語からフランス語への通訳をしてくれました。「193の会」のオーギュスト神父やリーダー格の若者たちからは「学者」と呼ばれて、「ぜひ通訳も」という形でボランティアをしてくれたのですが、これが年長者への敬意を表す気配りであることも伝わってきました。72日のデモでも先頭を歩くリーダーたちの一人でした。このように、若い世代の運動である「193の会」が年齢構成にも配慮しているのも、多くの市民の支持を受けている理由の一つです。

 

20160702_132638

 

その夜、発言をした人たちは高齢の人が多かったのですが、リーダーたちはその一人一人と面識があるような感じでしたし、参加者の多くも通訳の男性に対して一種の尊敬の念を持っていることも伝わってきました。

 

こうしたきめ細かい配慮や地域との強い連帯感など、「193の会」が成功する要素は多くあるのですが、良く考えて見るとそれは、教会とのつながりに基づいています。

 

タヒチ滞在中に何人もの人から聞いた言葉は「タヒチの人は宗教心に篤い」ということです。アメリカ社会でもかつては、宗教的理由でお酒を買えない街や日が決められていましたが、宗教の影響力が減るに従って、こうした風習も強制できなくなってゆきました。それが今でもタヒチでは守られていることも、一つの証拠になります。

 

タヒチに独自の宗教もあったのですが、フランスをはじめヨーロッパからの移住者が増え、それとともにキリスト教が伝わると、熱心な伝道活動に支えられて、キリスト教の信者が増えて行きました。熱心なキリスト教信者たちが、「神の教え」を説く神父や牧師を尊敬し、核実験被害についても彼らの問題提起に応えるのは極めて当たり前のことだったと言って良いでしょう。

 

 

[お願い]

文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

  

広島ブログ
広島ブログ

2016年7月27日 (水)

井伏鱒二「黒い雨」の故郷をたずねまて

井伏鱒二「黒い雨」の故郷をたずねまて

 

Photo_7

井伏鱒二の「黒い雨」のふるさと、神石高原町小畠にある「歴史と文学の館 志麻里(しまり)」へ行きました。モデルとなった、重松静馬さんの原爆体験手記「重松日記」や、重松さんの尽力で井伏鱒二が当時の被爆者の人たちから聞き取りをした被爆体験をもとに、旧三和町(さんわちょう)が舞台の本です。重松文宏館長から、古民家を改造した小さな資料館で、小畠の歴史と「黒い雨」が出版される経過を貴重な資料を基にお話を聞きました。

 

Photo_2

井伏鱒二と親交のあった重松さんは、横川駅で被爆をしましたが、戦後、闘病をはさんで10年かけて、つけていた登用日記と覚書を原稿用紙250余枚に浄書した「被爆日記」を1962年(S37)、井伏鱒二に高覧の依頼をしました。最初は、子孫に残すことを考えていたが、「第5回原水禁大会」へ神石郡代表として出席した際、他府県の代表者が「あまりにも事実の認識がない」ことを痛感して、「原水禁運動の役にたつ」ことを願い反戦反核運動になればと依頼をしました。

 

Photo_3
しかし、小説になるまで2年以上の歳月がかかり、ベトナム戦争が泥沼に陥る1964年(S39)「書くことで反戦運動になれば」という思いで、「新潮」に「姪の結婚」として掲載が開始されました。井伏鱒二は、小説は虚構の世界であることから、登場人物や地名が実名だと「迷惑がかかることを懸念」していたが、重松静馬さんは資料提供者として「被爆者に対する最大の反戦反核となる。地名人名は実名で使ってほしい」と譲りませんでした。


Photo_8
わたしは「黒い雨」の中で、主人公の閑間重松が原爆投下後の市内を何度も歩き、「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい。」と言い切ったことばから、人間が人間でなくなる被爆の壮絶な姿を想像しました。

 

同じように、ブログ「ヒロシマの心を世界に」の「おすすめの本」にある、「奥田貞子 空が、赤く、焼けて 原爆で死にゆく子たちとの8日間」では「原爆の子~広島の少年少女のうったえ」(長田新 編 岩波書店)を読んだ衝撃より重たかった。「原爆の子」は希望が持てた本だったが、文字にして残せない幼子の原爆死の様子を、奥田さんの文字が伝えるという絶望でしかない、原爆の実相のむごたらしさが心を重くした。残された者の悲しみや痛恨の思いは「読む」ことや「聞く」ことで識ることはできるが、奥田さんは、語ることすらできない子どもたちの思いや、悲しみを伝えてくれました。

 

Photo_5

 

もうすぐ、ヒロシマの日をむかえます。あのきのこ雲の下で何が起きたかのか、ひとりひとりがどんなことを考え亡くなっていったのか想像することで、反核の思いをあらたにしたいです。

 

Photo_6

 

今朝、茗荷の初どりをしました。

 

 

広島県原水禁常任理事 中尾やすみ

 

[お願い]

 

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

 

広島ブログ 広島ブログ

2016年7月26日 (火)

7月30日 ブルーベリーまつり開催




7月30日 ブルーベリーまつり開催

Bm_077283

まつりの名前は「森の工房AMAブルーベリーまつり」。ブルーベリーを冠するのは建物の屋上に約130本のブルーベリーが植えられており、実る最盛期の暑い時期に行われるまつりだから。そのブルーベリーは社会福祉法人安芸の郷の3つの事業所の仕事としてブルーベリーの栽培、加工を行う大切な農産物なので、いわばまつりは収穫祭であり、みのりの喜びはたくさんの人々と共有するのがもっとうれしいとの思いから猛暑まっただ中の20047月末の土曜日夕方4時から第一回目が開催された。いきなり650名の方々がお見えになった。昨年は約1200名の皆さんが来場。(写真は2007728日、地元矢野中学校ギター・マンドリン部の演奏に聞き入る皆さん)

12_bb_102

まつりでは、①ブルーベリーの摘み取り体験ができるので多くの皆さんが森の工房AMAの屋上で摘み取り、食べ、ちょっとだけ用意されたパックにいれて持ち帰ることができる(有料)。(写真は2012726日。2104年からは防鳥ネットが張られ、さらにおいしい実が取れるようになった)

Rimg2691_3

 

まつりでは②摘み取り体験の他に利用者、職員一体となって製造するいろいろな商品の販売も行われる。ブルーベリーのジャム、ソース、ジュレ、生食(100グラム入りと1キロ入り)が大人気だが、同じく人気を2分しているのが天然酵母のパン。始まる前から製造能力ぎりぎりまで作って陳列し、当日も朝から焼き立てを提供するが(写真は201581日)

Rimg2791

 

パンもクッキーその他の食べ物関係も殆んど売り切れる。(写真は201581日午後7時頃)安芸の郷にとってこのように障害者の皆さんが作って、地域の皆さんに買って頂き、おいしかった、楽しかった交歓がとても大切。

 

Rimg2668

まつりでは③第2森の工房AMAではすまいるスタジオによる平和公園に寄せられたおりづるの再生利用のための解体が体験できる。(写真は201581日)

 


12_bb_034

 

まつりの運営は安芸の郷単独ではできないので、関係する団体で実行委員会を結成したのちに、安芸区や海田町のボランティア連絡協議会、大学、専門学校、企業のボランティアに協力を頂く。毎回100名近い方々の支えがあって成り立っている。(写真は打ち合わせをするボランティアのみなさん。2012726日)

 


Bm_077284

まつりでは④森の工房AMAのデッキをステージにして地域の皆さんの踊りや歌が披露される。(2007728日)

 

Rimg2771

また、ステージ発表では、利用者有志による「ブルーベリーコーラス隊」がこの日のために結成されて元気よく歌う。ここ数年はダンスの要素も取り入れられている。パワフルな力に出会うことができる(201581日)

Rimg2777
              昨年のまつりの手作り案内板。                                

 

今年のブルーベリーまつりは730日(土)午後4時開催。買い物、ブルーベリー摘み取り体験などの開始は午後4時半から。建物が森の工房AMAと第2森の工房AMA2つに分かれる。まつりでは⑤冷たいブルーベリーのフレッシュジュースとスイーツが第2森の工房AMAcafeさくらで。ビールや焼き肉カレーなどは森の工房AMAで。開催日が近くなり、今日も地域へのちらし配り、製品づくり、整理整頓作業に汗だくのみんなは、頼もしい。

 

 

2016725

 

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

 

 

[お願い]

 

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

 

広島ブログ 広島ブログ

2016年7月25日 (月)

ポケモン 5

ポケモン 5

 

Photo


 

老眼が進み、耳からの情報に頼る生活が続く中、「ポケモン 5」が近く日本でも配信されるというニュースが耳に入ってきました。「Windows 10」と同じように、こちらには決定権がなくていつの間にかゲームにはまってしまったらと、ちらっと頭の隅を掠めたのですが、その間タヒチを訪れ、「タカニ―ニー」というマルケーズ諸島出身のバンドに魅せられたりして、すっかり忘れていました。

 

その後、旬日を経ずして分ってた来たことは、ポケモンの第五バージョンを意味する「ポケモン 5」ではなく「ポケモン GO」だということ。でも、その意味は今一良く分りません。

 

そして、我が家にもポケモンが出没しているらしいということです。

 

「ポケモン GO」の意味も分からず、それが「ポケモン 5」だと思っていたような私の許に、世界中の多くの人々が追い求めている「ピカチュウ」が、わざわざ寄ってくれるとは思えないのですが、証拠を御覧頂いた上で、どうすれば良いのか、皆さんのアドバイスを頂ければ幸いです。

 

 

[お願い]

文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 


広島ブログ
広島ブログ

コメント

いきなり自宅にピカチュウを呼び寄せるとはハイレベルのポケモントレーナーに間違いありませんから、下手なアドバイスをしても笑われそうです。

Googleのアカウントが必要なため子ども(13歳未満)にはハードルが高くなっていますが、彼らにとっては大したハードルでもないでしょうし、いずれにしてもGoogleは、これでまた圧倒的なビッグデータを得ることになりますから、このゲームのヒットでの最大の勝者は任天堂ではなくGoogleです。

ポケモンの出現や施設は都市部の方が多いため有利な面もありますが、多すぎて、ゆっくり楽しむには郊外の方が良いこともありそうです。

ちなみに日本でのリリース前からインストールしていた私ですが、数日遅れて開始した息子のポケモントレーナーとしてのレベルは、既に私の3倍になります。

我が家は4人がかりで、まだ出ってきておりませんw

「工場長」様

コメント有り難う御座いました。「ピカチュウを呼び寄せる」などという大それたことはできません。「誤配送」という可能性もあるのかも。

任天堂の株価は今日大幅に下がったようですが、工場長さんのコメントの影響もあるのではと、改めて感心しています。

「⑦パパ」様

コメント有り難う御座いました。どこにいつ現れるのか分らないので、世界中の人が懸命に探しているのだと思って、分かった積りになっているのですが、本当のところどうなのでしょうか。

2016年7月24日 (日)

反核平和の火リレー無事平和公園に帰る

反核平和の火リレー無事平和公園に帰る

 

6月29日午前8時15分雨の中スタートし1,118人のランナーに引き継がれ走り継がれた反核平和の火リレーは、一昨日午後6時、最終ランナー7名が、テーマソング「平和の火よ走れ」の演奏と歌声に迎えられて、平和公園慰霊碑前に無事帰ってきました。

 

到着式では実行委員長の新田康博さんから、「街頭や沿道では、声援や拍手、一生懸命折っていただいた折鶴や飲み物の差し入れ、保育園児等の合唱出迎えなど激励を受けた」ことや「語り継ぐ大切さや平和の発信源としてのヒロシマの役割を痛感した」こと、さらに「年々被爆者が高齢化が進む中で、被爆体験、戦争体験の風化が進んでいる」こと、そのためには「改めて、被爆体験の継承に力を注がなければならない」ことなど、「この反核平和の火リレーから多くんことを学んだ」と経過報告がされました。

 

Photo
              無事に県内を一周し、消化される平和の火
      

この反核平和の火リレーでは毎年、自治体前集会や職場前集会、そして「平和の火」が宿泊する地では「反核平和の夕べ」が開催されます。特に「反核平和の夕べ」では、地元の被爆者の体験談を聞くことがメインテーマとして企画されています。最近「地域の被爆者団体が解散した」とのニュースが伝えられることが多くなっていますが、7月7日に府中市で開催された「反核平和の夕べ」でもそのことを実感することになったようです。すでに解散が決まっていた「府中市原爆被害者の会」にとって、いわば「被害者の会」としての最後の活動の場が、「反核平和の夕べ」となったようです。ここでは、広島師範学校の学生だった時に被爆された加茂一三さん(89歳)が、自らの被爆体験を語られたそうです。被爆体験をどう継承するのか、被爆者組織をどう引き継ぐのか、課題の重さを実感します。


Photo_4

           府中市の[反核平和の夕べ]で被爆体験を語る加茂一三さん

また広島の被爆体験のみならず福島の原発被害にも学ぼうと、7月15日佐伯区で開催された「反核平和の夕べ」では、「福島原発事故から考える」と題して、福島原発告訴団団長の武藤類子さんの講演が行われています。

 

様々な成果を収めた第35回反核平和の火リレーは、一部大雨警報の影響もあり中断があったものの、790区間(当初:830区間)890.5km、県内23市町を無事走破し、今日トーチの火は消えました。

沿道でご支援をいただいた皆さん、本当にありがとうございました。

 

[お願い]

 

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

 

広島ブログ 広島ブログ

2016年7月23日 (土)

核実験被害者の記念碑

核実験被害者の記念碑

 

前回の記事では、鎌田七男先生の書かれた『広島のおばあちゃん』そしてその英訳『One Day in Hiroshima』のどちらからか、フランス語の訳とタヒチ語の訳を出せればという問題提起をしましたが、より具体的なプロジェクトとして立ち上げられないか、検討してみる必要があるのではないかと思います。第一段階ではフランス語訳を目標にして、具体的にどんなアプローチなら実現可能性があるのか、国際交流を支援している財団やフランス語の専門家等に相談してみる積りです。

 

核実験の被害者救済のために若い世代が立ち上がって組織した「193の会」が、今回の50周年記念の集会の主催団体の一つであること、集会に先立って党内の行進・デモと夜には、その日に泊まる地域での集会を開催しつつ、フランス政府に住民の意思確認のための住民投票を求める署名運動もしてきていることには既に触れましたが、現在進行中のこうした運動もさることながら、既に大きな成果を挙げていることにも大変勇気付けられました。

 

20160702_140600

193の会」のトラック。行進の先頭を切った。

  

 

 

20160702_140534_2

 

72日の集会の日の記念碑

                        

 

それは、2014年に、当時の仏領ポリネシアのガストン・フロス大統領が突然、核実験被害者の記念碑を撤去すると言い始めたことがきっかけになりました。今回の集会もこの記念碑のある公園で開かれたのですが、元々はこの場所はジャック・シラク広場として、世界の反対を無視して1995年に核実験を強行したシラク大統領に捧げられていました。

 

しかし、フランスの核実験が始まってから40周年の200672日の記念日に、核実験にも核兵器にも反対してきた当時の仏領ポリネシアの大統領オスカー・テマル氏が、「モルロアと私たち」とともに、この広場を「196672日広場」と改名して記念碑を立て、フランスの核実験に抗議するとともに、その被害者たちの人権回復のための象徴的な場所として使うことにしたのです。広場の中には、核実験で被害を受けた島々に見立てた石が配置され、また友情と連帯の印として広島・長崎・福島から贈られた石も一番前に据えられています。

 

この記念碑を撤去するというフロス大統領の暴挙に対して「モロレアと私たち」と「193の会」が立ち上がり反対の集会やデモを開き、国際的な支援を求めることで、記念碑の撤去を阻止したのです。日本でも原水禁やピースボート、そして多くの市民が撤去に反対する署名運動を展開して、タヒチの運動を支援しました。次回は「193の会」が成功裡に活動を進めている背景を考えて見たいと思います。

 

[お願い]

文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。


広島ブログ
広島ブログ

2016年7月22日 (金)

モルロアの課題

モルロアの課題

 

フランスがポリネシアで行った核実験の被害について、タヒチのNGO、キリスト教会、そしてヨーロッパの専門家等市民社会の組織や個人が協力して調査を行い、その結果を『モルロアと私たち』という報告書として、1997年に発表したことには前回触れました。

 

このような調査が大切であることは言うまでもありません。そしてこの報告書を手にした多くの被害者が、自分たちの経験を話し始めたことも重要です。核実験場で働いていた人たちは、契約の中にある禁止条項「ここで経験したことは、軍事機密に該当する。口外してはならない」を忠実に守って、深刻な健康被害を受け苦しんでいても、どのような状況で被曝したのか、沈黙を守っていたからです。

 

それと同時に、核実験の被害者の健康調査を医学的な立場から、フランス政府に代って行うことも必要でしょう。それを元にフランス政府に核実験被害の補償や人権回復を求めることができるからです。とは言っても、核実験が中止されてからも時間が経っていますので、その間に亡くなった被害者も多くいますし、今から多くの専門家の協力によって医学的調査が行われたとしても、疫学的に十分な結果が得られるかどうかも分りません。しかし、時間が経てばその状況はさらに悪くなるのですから、どのような形であろうと、専門的な調査実現の可能性を探ることが大切です。

 

今回、タヒチへの旅で御一緒した医師の振津かつみさんは、広島・長崎の被爆者について、またチェルノブイリや福島の核被害についても専門的な立場から関わり続けて来られた貴重な存在ですが、タヒチでも現地の医師との共同作業を開始するための準備等、積極的に行動する姿が印象的でした。

 

そして、モルロアの被害者から直接、当時の経験を話して貰うためにいろいろな人たちに働き掛けていました。以前の調査の際にも中心的な働きをした、「モルロアと私たち」のローラン・オルダム会長によると、このような聞き取りを行う上でのもう一つの問題は、言葉だということも分りました。被害を受けた多くの人たちの母語はタヒチ語なのです。タヒチ語からフランス語そして日本語へと、二度の通訳が必要になります。

 

このことは、628日の夜マタイエア村で開かれた集会でも確認することができました。約80人の参加者からは次々と自分たちの健康状態について、また子どもや孫たちへの影響が心配であることなどの発言がありましたが、先ずタヒチ語からフランス語に、そしてそれが日本語に訳されるという二段階が必要でした。

 

20160628_201949

マタイエア村での集会で発言する振津さん。隣は通訳・コーオーディネーターの真下俊樹さん。一番左は、フランス語とタヒチ語のボランティア通訳を買って出てくれた「193の会」のリーダー。

 

もう一つ気付いたのは、広島・長崎の原爆についての基礎的な事実をタヒチの人たちに伝えることで、運動も次の段階にステップアップできるのではないかということです。例えば鎌田七男先生の書かれた『広島のおばあちゃん』そしてその英訳『One Day in Hiroshima』のような、被爆の実相についての医学的な解説を中心にした分り易い入門書をフランス語にも訳し、それをさらにタヒチ語に訳すことも、被曝者・被爆者の連帯から新たなエネルギーを創り出す上での有効なプロジェクトになるのではないかと思います。

 

 

[お願い]

文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

広島ブログ
広島ブログ

2016年7月21日 (木)

本川小学校平和資料館を訪ねて

本川小学校平和資料館を訪ねて

 

昨日の昼下がり、本川小学校の平和資料館を見学しました。過去に1度だけ見学したことがあったのですが、先日、広島市立中区図書館が開催した「大人のための図書館セミナー」で、本川小学校平和資料館ボランティアガイドの岩田美穂さんのお話を聞く機会があり、改めて見学しようと思い立ったからです。 

岩田さんの講演のタイトルは「平和のバトンを受け継ごう~絵本『いわたくんちのおばあちゃん』あの日の悲劇を繰り返さないために~」でした。講演の内容は、絵本(2006年出版)のモデルであるお母さん智津子さんの被爆体験と広島市立本川小学校平和資料館のボランティアガイド活動の様子、資料館の概要などについてでした。

Yjimage5
                      右側がガイド中の岩田美穂さん

 

お母さんの家族写真に隠された原爆の悲劇を伝えながら、爆心地から最も近い小学校での被爆の実相を通じて伝えるガイドの様子などがくわしく語れましたが、私が個人的に興味を持っていたのは、もう一つの原爆被害の問題でした。

 

本川小学校は、爆心地から最も近い場所で被爆した小学校です。ですから被害も甚大です。校舎は外部を残して全焼、壊滅し、校長先生ほか10名の教職員と約400名の子どもたちの尊い生命が、一瞬のうちに奪われてしまったそうです。あの日、奇跡的に生存したのは、教師1名と生徒1名のわずかに二人と言われているそうです。まさに奇跡としか言いようがないと思います。

 

Yjimage2
                  本川小学校平和資料館

 

ところで、私の言うもう一つの原爆被害とは、原爆孤児といわれる人たちのことです。本川小学校は、爆心地に最も近い小学校ですから、校区の被害も甚大だったはずです。ですから、生き残った子どもたちの中にも原爆孤児といわれる人たちが多いのではないかというのが私の推測です。中区図書館のセミナーで「学童疎開中の子どもたちはどうなったのですか」と質問したのですが、私の思いがうまく伝わらなかったようで、期待したような答えを得ることができませんでした。しかし、セミナーが終わった時、私の前に座っていた20代の青年が声をかけてくれ「本川小学校平和資料館には、学童疎開のこともちゃんと触れてありますよ」と教えてくれました。 

 

確かにありました。「昭和20年4月15日に、3年生以上205人(男子126人、女子79人)と教職員10人が、双三郡十日市町(現在の三次市)の4つのお寺に学童疎開しました」と。つづいて「西福寺(女子のみ)の40名のうち、被爆後両親が揃っていたのは1人、片親だけが、7から8人でした。」と記述されています。両親ともなくしてしまった子どもの人数は書かれていませんが、引き算をすれば31から32人ということになります。残念ながら、西福寺以外に寄宿した子どもたちの両親の消息は、記載がありませんでした。しかし、西福寺の子どもたちに起きたことは、他のお寺の子どもたちもほぼ同じだっただろうと予測できます。大変な実態です。ただ残念なことは、私が最も知りたかった親を亡くした子どもたちのその後について触れた部分がなかったことです。

 

原爆被害を考えるとき、被爆者ではないが、被害者である人たちのことについても、もっと目を向ける必要があると改めて考えさせられました。

 

[お願い]

 

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

 

広島ブログ 広島ブログ

2016年7月20日 (水)

「19の日」行動を継続―「憲法の改悪」は許さない

「19の日」行動を継続―「憲法の改悪」は許さない

 

「ストップ戦争法!広島実行委員会」が昨年10月から毎月実施してきた「19の日」行動が、参議院選挙後初めてとなる昨日も午後5時半から6時半までの1時間、市内2か所で実施されました。

戦争をさせない千人委員会は、本通電停の「洋服の青山」前で、40人が参加し、街頭演説とビラ配布を実施しました。今回は、参加者数は前月までよりやや少なくなったものの千人委員会のメンバーだけでなく、「ママの会」のメンバーや「私が《アベ政治を許さない》理由(わけ)」という自作のビラを持参された(カベ・シン一)さんなど多様な顔ぶれでの行動となりました。

201607191

いわゆる「改憲勢力」が参議院でも三分の二を超えたと言われる参議院選挙後だけに、どんな反応があるかとの思いを持ちながらの一時間の行動でしたが、予想以上に反応は良かったように思います。準備したビラ500枚も6時半前にはすべて配布し終えるという状況でした。今回は、若い人が、ビラを積極的に受け取ってくれる姿が目についたのも印象的でした。

なかには、「署名をしたいのですが」と声をかけてくださる人もおられました。「署名は、一応先月で終了しました。全国では、6月末で1350万筆が集まり、広島でも29万7723人(7月10日現在:配布したビラには30万筆と記載)分の署名が集まりました」と報告し、今後の取り組みへのご協力をお願いしました。

同時刻で福屋横の八丁堀交差点で行われた「9条ネット」と「秘密法廃止ネット」による行動には、36名が参加したと報告されています。

 選挙戦では、まったく「改憲」問題に触れなかった安倍首相は、選挙後いち早く「秋の臨時国会からの憲法審査会での議論開始」を主張していますが、余りにも身勝手な論法と言わざるを得ません。選挙の結果を問う世論調査で「改憲議席が三分の二以上になったこと」を批判的に受け止めている人が半数近くに上っていることもある意味当然ともいえます。

 

様々な改憲テーマが論じられたとしても、安倍首相の改憲の目的が「憲法9条の改正」であることは明白です。まさにこれからが正念場です。今月の「19の日行動」でも、「決してあきらめてはならない」ということを改めて学ばされました。「核実験抗議の座りこみ行動」などに示された広島の粘り強い継続的な活動の経験を今こそ生かしていきたいものです。「継続は力」です。

 

[お願い]

 

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

 

広島ブログ 広島ブログ

2016年7月19日 (火)

モルロアでの仏核実験から50年

モルロアでの仏核実験から50年

 

フランスがポリネシアで核実験を始めてからちょうど50年目になる201672日に、タヒチで行われた、記念集会の背景については79日に、簡単に報告しました。

 

いまだに信じられないのは、あのゴーギャンを生んだフランスが、この美しい海や島で、193回もの核実験を行ったという事実です。

 

Photo

近くのモーレア島を背景にヨガのグループ

 

 

Photo_2

モーレア島

 

また、同じように理解できないのは、『レ・ミゼラブル』の生みの親ビクトル・ユーゴ―の母国フランスが、核実験の結果大きな被害を受けた核実験場の労働者、そして1200キロも離れたところにあるタヒチにさえ降った放射性降下物の被害者についての調査も行わず、おざなりの法律を作っただけで責任を回避していることです。

 

しかし、翻って考えて見ると、このような国家の姿勢はフランスに限られている訳ではありません。我が日本でも足尾銅山、水俣、福島を挙げるだけでも、国家権力ならびにそれと一体の存在である企業等が自然と人間を破壊してきた事実の大きさに愕然とします。

 

何もしないフランス政府に対しては、タヒチのNGO、キリスト教会、そしてヨーロッパの専門家等市民社会の組織や個人が協力して実験被害者についての調査を行い、その結果を『モルロアと私たち』という報告書として、1997年に発表しています。

 

この調査結果を元に、フランス政府に核実験被害の事実を認めさせ、被害者への医療と補償を提供させることを目的とした同名の新たなグループ『モルロアと私たち』が結成され、精力的に活動を行ってきました。

 

その結果、2010年に「仏核実験被害者の認知と補償に関する法律」(モラン法)が成立、フランス政府は初めて被害の存在を認めました。しかし、施行6年経った今でも、1043件の補償申請に対して、補償が認められたのはわずか20人、うちポリネシア人は7人にとどまっています。

 

この状態にしびれを切らしたのが、キリスト教の若い神父や牧師等、宗教指導者たちでした。3年前に核実験の回数193を組織の名称に取り入れた「193の会」を結成、核被害者の確認、核被害者への医療提供、補償を含む核被害者の権利回復を目的とした運動を続けています。

 

今回の記念集会の主催団体の一つとしても中心的な役割を担っていますが、集会に先立って、約2週間かけてタヒチ全島を巡る行進を行い、夜は地域で集会を開いてきました。この活動の目玉になっているのが、署名運動です。フランス政府が核実験についての公的調査を行うこと、医療や補償を含む人権回復を行うこと等を要求しまた、このような声を正確に聞くための住民投票を行えという署名です。

 

72日までに有権者の4分の1に当る45000筆の署名が集まり、集会で報告されると大きな拍手が沸き起こりました。まだまだ道は遠いのですが、具体的に手を付けられることも考えられます。それは次回に。

 

 

 

[お願い]

文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

  

広島ブログ
広島ブログ

2016年7月18日 (月)

政治家の傲り (2)

政治家の傲り (2)

 

前回は、歴史に「if」があったらという立場から、小選挙区についての「仲裁案」を密室内で作る代わりに国民投票に付することはできなかったのかという問題提起をしました。

 

そして、土井衆議院議長、細川総理大臣、河野自民党総裁の三人の頭の中には国民投票などという可能性はなかったと判断するのが自然だろうということを確認しました。

 

ここで問題にしたいのは、国会の審議においては憲法の精神に従って、最終的には参議院の「否決」を尊重して欲しいということなのですが、それを「リマインド」するためには「国民投票」という選択肢のあることが役立ったのではないかと思えるからです。実際に国民投票を行えるかどうかの判断は別として、「国民投票」が政治的決定のための一つの手段として生きていれば、重大な判断をする際にそれが頭に浮かぶことを期待できるかもしれないからです。

 

でも、国民投票は、重大な政治的決定を行うための現実的な手段として扱われたことはありませんでした。そればかりではなく、一方では自分の権利が蔑ろにされていることの象徴として、もう一方では忌み嫌われると言っても良いほど避けられる存在として捉えられてきたのではないでしようか。

 

Photo


最高裁判所

 

前者の例として、憲法79条に規定されている最高裁判所裁判官国民審査があります。これも一種の国民投票なのですが、全く機能していない制度です。その理由はいくつもありますが、衆議院議員選挙と同時に行われるため、その陰に隠れてしまって、マスコミの報道も少なく、その結果という要素もあって、有権者もほとんど関心を抱かないまま投票することになってしまっています。

 

それでも裁判官たちにとっては何の問題にもなりません。それは、投票の仕方が、裁判官にとって圧倒的に有利になっているからです。裁判官を罷免したい場合は、その裁判官の氏名の上に、バツ印を付けることになっているのですが、なにも付けなければ「信任票」と見做されるのです。良く分らないから「棄権」しようとしても、それはできないシステムになっています。

 

事実、これまでの国民審査で罷免された最高裁判所の裁判官は一人もいませんし、「罷免せよ」が全体で占める割合は数パーセント、最も多い時で15パーセントくらいでした。現実問題として最高裁判所の裁判官が国民審査によって辞めさせられる現実的可能性はゼロですので、主権を持つ国民の意向を踏みにじったとしても、それが自らの身分に跳ね返ることはなく、チェック・エンド・バランスの機能が働いているとは言い難い制度になり下がってしまっています。

 

もう一方の極端な例が、憲法96条で規定されている憲法改正に必要な国民投票です。ここまで事態が進行してしまった場合、両院の2/3の多数で発議が行われてしまっているのですから、残された最後の手段としての国民投票という位置付けです。特に憲法9条については、そのような段階にまでは持って行きたくないと思う人たちの心の中では、国民投票のイメージとは「できるなら避けたい」なのではなかったのでしょうか。

 

このどちらのケースを考えて見ても、国民投票は私たちの使える身近な選択肢ではありませんでしたし、重要な決定を行うときに「この可能性も検討しよう」と普通に頭に浮かぶ存在でもなかったということなのです。

 

「両院協議会決裂」という事態が発生した時に、「密室で仲裁案を作って、それを形だけは国会で審議したことにして法律にしよう」と考える代わりに、「国民投票にしたら」という可能性は考えて貰えなかったのか、という問題提起そのものは現実から遠い可能性だったことはお分り頂けたと思います。しかしながら、スコットランドや、EU離脱という決定をしたイギリスの国民投票の例を参考にしつつ、日本でもこの制度を有効に使うためにはどうすれば良いのかについても、議論を始めて欲しいとは思っています。

 

さて、仲裁案に戻って、「国民投票」にまで頭を巡らせるのは無理だったとしても、「両院協議会決裂」という段階で、憲法59条を謙虚に読み返してみる、そしてその意図するところを初心に戻って考えて見ることくらいは期待しても良いだろうと思います。

 

結果としてなのかもしれませんが、その憲法の精神を無視してしまったこと、そして今のような政治状況を作ってしまったのは、あれほど優れた政治家でありながら、それでもどこかに「傲り」があり、それを乗り越えることは難しかったということなのでしょうか。

 

 

[お願い]

文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

広島ブログ
広島ブログ

2016年7月17日 (日)

政治家の傲り (1)

政治家の傲り (1)

 

小選挙区制度を導入するための法案は衆議院で可決、参議院で否決され、その結果、憲法59条の規定で両院協議会が開かれました。しかし協議は整わずその報告を衆議院議長にしたところ、その報告を受け取って貰えないばかりか、議長仲裁案なるものが出され、与野党党首の合意の下、最終的には小選挙区比例代表並立制と呼ばれる現在の制度が導入されました。

 

問題だったのは、両院協議会が結論を出せないときには、憲法第59条の本則に戻って、つまり衆議院参議院両方が可決しなければ法律はできないという原則を尊重して、小選挙区法案は廃案にされるべきだったのにそうはならなかった、ということです。これに関係する国会法はどうなっているのでしょうか。

 

Photo

 

94  両院協議会において、成案を得なかつたときは、各議院の協議委員議長は、各々その旨を議院に報告しなければならない。

95  各議院の議長は、両院協議会に出席して意見を述べることができる。

 

この二条の意味を考えると、94条での「報告義務」を協議委員議長が果たした時に、両議院議長が拒否権を持つとはとても読めないことです。そうなら95条の「意見を述べることができる」どころではなく、成案についての拒否権を持つことを明記しなくてはならないはずです。

 

百歩譲って、59条の本則に戻ることが何らかの理由で好ましくないと、衆議院ならびに参議院両院の議長二人とも考えた場合、成案を得られなかった事実は無視して、自分で「仲裁案」を作ることまで想定しそれを認めているのでしょうか。

 

もしそうなら、わざわざ「両院協議会に出席して意見を述べることができる」という規定を設ける必要はないでしょう。95条の意味があるのは、両院議長といえども、この条項がなければ両院協議会に出席もできず、意見も述べられないという前提があるからなのです。ようやく意見は述べられるという権利は得たものの、成案ができたかどうかという最終決定を覆すだけの権限を、95条が与えているは読むことは如何に何でも無理でしょう。

 

現実には、憲法にも国会法にも規定のない「仲裁案」を密室の中で作り、それを両院協議会での成案だというでっち上げをし、加えてそれを原案にして、衆議院や参議院での審議を省略して形式的な決定をしたのです。

 

ここで歴史の「if」を考えると、その代りに国民投票に付することはできなかったのかという疑問が生じます。誰でもそう感じるかどうかは別問題なのですが、私は敢えてその問題提起をしたいと思います。その意味は憲法全体を考える上での大切な現状認識につながるからです。この点については、機会を改めて論じたいと思います。

 

さて、本論に戻って、当時、議長仲裁案をまとめ、それを国会の最終決定として認めさせた中心人物は、土井衆議院議長、細川総理大臣、河野自民党総裁の三人です。この三人の頭の中にはもちろん国民投票などという可能性はなかったはずです。何しろ、三人とも参議院の意思を無視するために走っていたのですから。参議院の意思を無視することに何の問題意識もなかった人たちが、国民の意思を慮る可能性を頭に置いていたとは到底考えられません。

 

ここで、この三人が、仮に意図するところは善意だったにしろ、参議院の意思を尊重しなかったから小選挙区制度ができ、憲法改正にまで発展しているという流れを作ったという命題を考えて見たいと思います。さらに、命題の「逆」という意味を、論理関係を離れて単に順序の問題として使って考えたいのですが、憲法改正への道筋を作ったのはこの三人だ、という順序を「逆」と考えると、その次に待っているのは「けしからん」という批判であり非難です。これがマスコミ等の良く取る態度です。

 

でも、非難しても何もなりませんので、十分条件としての「お願い」あるいは建設的な「提案」として述べたいと思います。それは、亡くなった土井さんは別として、お二人とも、今の選挙制度になってしまったことには忸怩たる思いをお持ちのようですので、今一盛り上がらない、「今の選挙制度を改正して、より比例代表制度に近い制度を作る」という問題提起を、全国行脚でも何でもして広めて頂きたいということです。

 

[お願い]

文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

  

広島ブログ
広島ブログ

2016年7月16日 (土)

自然に出てくる”if”

2016716日アップ

自然に出てくる”if”

 

小選挙区制度を導入するための法案が衆議院で可決、参議院で否決された結果、憲法59条の規定で両院協議会が開かれました。その結果は、協議が整わずその報告を衆議院議長にしたところ、その報告を受け取って貰えなかったところまで、前回説明しました。

 

もう皆さんには何が問題なのかお分りだと思います。憲法は、国会に衆議院と参議院を認め、それぞれが意味のある活動を行い、採決を通じてその意味を表明することを大前提としています。二つの異なった「議院」があるのは、医療根面での「セカンド・オピニオン」のように、そして「複数の」ということは「多様である」ことの始まりという意味なのですが、より良い判断に達するための人間の知恵が元になっていると考えるべきだと思います。

 

しかし、両議院が協議をして、より良い結果を出す努力も認めています。その両院協議会が妥協案を作ることができず、打ち切りを決めたのであれば、元の大原則である憲法59条に従って法律案は廃案になる、つまり法律にはならないという結論が本来の59条の意味です。

Photo

 

 

宮川隆義著『小選挙区比例代表並立制の魔術』(政治広報センター刊、1996)ではこの最終段階を次のように捉えています。「憲法と国会法を遵守すれば、この政治改革関連4法案は、両院協議会決裂の段階で廃案になったはずだった。細川・河野のトップ会談を斡旋した土井たか子衆議院議長の仲裁案は、『施行日を空白にして議決し、施行日の決定は各党協議機関に委ねる』という、事実上の廃案だった。土井議長の仲裁通りに妥協しておけば、政治改革熱病が醒めた時期に、頭を冷やした与野党で現実的な最終決着がつけられるはずだった。」

 

宮川氏も「憲法と国会法を遵守すれば、この政治改革関連4法案は、両院協議会決裂の段階で廃案になったはずだった」ことを確認しています。つまり憲法と国会法が守られなかったために、小選挙区制が導入されたのです。

 

宮川氏の記述は土井さんに好意的な解釈をしていますが、それを要約すると、土井さんは4法案を廃案にしたかった。そのためにトップ会談を斡旋して、廃案にするための自分の「仲裁案」を示した、ということになります。

 

ここで歴史の「if」が登場しますが、そんなことを意識していなくても、自然に出てくる疑問です。もし、宮川氏の言う通り、本当に廃案が目的なら、仲裁などせずに、両院協議会の報告をそのまま受ければ良かったのではないでしょうか。いや、廃案を目的としていなくても、憲法と国会法の規定通りの運用をする積りなら、協議が決裂したのですから、法案は廃案という結果になったのです。このシナリオの方が簡単で手続き的にも問題がなかったはずです。

 

加えて成田氏の述懐を信じると、土井さんは議長権限を逸脱して、両院協議会決裂の報告を受け取らなかったことになります。両院協議会の議長が公式にその結果を報告に来た以上、それは「報告」であって、議長が決定する権限を持っているのではありませんから、それを受けないということはあり得ません。きつい表現をすれば、これは憲法59条違反です。

 

しかも、こうしたやり取りは当時現場にいた国会議員にさえ詳しくは伝えられていませんでした。当然、選挙制度によって大きな影響を受ける選挙民そして子どもも含めた市民には、新聞を通してその結果が伝えられるだけで、国の方向を定める重大な決定が行われた実態は知らされていませんでした。

 

そこで再度歴史的な「if」を考えて見ましょう。両院協議会では妥協案ができなかった時点で、59条の本則に戻ることが何らかの理由で好ましくないと、衆議院ならびに参議院両院の議長二人とも考えた場合、憲法に規定のない「仲裁案」を密室の中で作り、それを原案にして、衆議院や参議院での審議を省略して「形式的」に両院業議会案として提出し「形式的」な決定をする代りに、国民投票に付することはできなかったのでしょうか。

 

[お願い]

文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

 

広島ブログ
広島ブログ

2016年7月15日 (金)

多様性は尊重されなかった

多様性は尊重されなかった

 

小選挙区制度を導入するための法案は4つあり、通常政治改革4法案と呼ばれます。その審議の結果ですが、衆議院で可決、参議院で否決されました。このような場合に法案はどうなるのか、憲法には当然規定があります。

 

59  法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。 

  衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。 

  前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が、両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。 

  参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。 

 

Photo_2


 

大原則としては、両院で可決されない限り、法案は廃案になるということです。つまり、「政治改革4法案」は廃案にされるべきだったのです。これが2院制の存在意義だと言っても良いでしょう。参議院が常に衆議院と同じ判断を下すのであれば、2院制は必要ではないからです。仮に衆議院で可決されても、別の視点から法案を見直すことで、よりよい判断ができる場合のあることは、最近はかなり普及してきた医療面での「セカンド・オピニオン」が大切なことからも理解して頂けると思います。

 

しかし、第3項では両院協議会を開いて妥協案を作っても構いませんよという、「仲裁」的な可能性も認めています。衆議院と参議院が真っ向から対立するのではなく、歩み寄ることでより良い結果が生じることも考えられるからです。そして、予算や条約、首班指名の場合は衆議院の優越が認められています。両院協議会を開くことが義務付けられ、そこで成案が得られなければ衆議院の決定に従うことになっています。もう一つの可能性もあります。衆議院が3分の2以上の賛成で再度可決すれば、参議院が反対しても法律ができるのです。

 

ただし、通常の法律案の場合には、両院協議会を開く必要はありません。しかし衆議院が開催を請求した場合は参議院がそれに従わなくてはなりません。

 

政治改革4法案の場合は、衆議院が両院協議会の開催を請求して、1994126日の夜に両院協議会が開かれました。衆参それぞれ10人の委員で構成し、議長は衆参それぞれで選ばれ、一日交替で議長を務めます。しかし、協議は整わず、27日に、両院協議会の議長が衆参両院の議長に協議会終了の報告に行っています。

 

当時細川総理大臣の政務秘書官だった成田憲彦氏が北海道大学の法学論集46に寄稿している「政治改革法案の成立過程 -官邸と与党の動きを中心として-」によると、当時の土井議長は、その報告を受け付けず、協議会を続けるよう指示したというのです。その部分の引用です。ページは(6473)です。

(http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/15657/1/46%286%29_p405-486.pdf)

 

この時に、市川書記長が両院協議会打ち切りについての衆議院議長への報告から戻ります。

市川「議長は『明日もやってください。もったいない』という話でした。私と大出()さんで説明。―――(打ち切るのは)山本(富雄・参議院自民党幹事長)さんも議長の責任を出すのは反対だがやむを得ないと。二回駄目を押した。委員部も『瑕疵があるとは思えない』と。共産党の橋本()さんまで『やむを得ない』と。出てきたところに河野さんと森さんが。大出さん、議長に『組織を潰すつもりですか』、とカンカンに怒っていた。」

(中略)

与党のラインに沿って、市川さんとコンビを組んで、議長に対しても、「議長の対応はけしからん」と大出さんが怒ってくれたのです。

 

この部分が「驚くべき真実」です。その理由は次回説明しますが、その間、細川総理と河野自民党総裁とのトップ会談が行われ、妥協案が作られました。以下、表面的に「正史」として語られる内容ですが、それを受けて、(終了したはずの)両院協議会が再度開かれ、成案を得たのち、国会法の規定に従って両議院で可決、政治改革4法案が法律になったのです。その結果として、日本の政治が大きく歪んだ、ということは既に指摘しました。

 

どんどん長くなっています。済みませんが次回に続きます。

 

 

[お願い]

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

広島ブログ
広島ブログ

2016年7月14日 (木)

サマー・コンサート

サマー・コンサート

 

Photo


 

 

パパ」さんが11日に書いて下さっているように、今月17日日曜日の、18時から、そして18日の祝日には13時から、修道中・高等学校スクールバンド班のサマー・コンサートが開かれます。「パパ」さんが9年連続、通算11度観に行くほど素晴らしい内容です。例えば2012のコンサートについてはこのように書いて下さっています。

 

パパ」さんの記事からは、愛する娘さんのお仕事を家族で応援するため、買っておいたチケットが使えなくなった。無駄にしたくないので、コンサートに行ける方に差し上げますという、家族と音楽両方への思いが伝わってきました。

 

私もそれに倣って、とても楽しいコンサートであることを強調しておきたいと思いますし、高校3年の息子の高校最後の晴れ舞台を応援したいという家族への思いもあり、この稿を書いています。ただし、「パパ」さんとの最大の違いは、「800円のチケットを買って下さい」という点です。

 

それも、チケットぴあでお買い求めくださいとお願いするだけでなく、購入の際に必要な「Pコード」が「295-303」であることまでメモして頂かなくてはならないのです。

 

しかし、こんな障害を乗り越えてコンサートに来て頂いた方には、100%御満足頂けることを保証致します。若いエネルギーに満ちた演奏は勿論ですが、仮装あり、スキットあり、そして笑いに包まれ感動に涙する2時間です。

 

「オヤバカ」の誹りをものともせず、これまで8年連続で応援に駆け付けた私が言うのですから間違いありません。

 

最後に、このエントリーを御覧になって下さり、コンサートに足を運んでくださった方には、当日会場で心ばかりの「粗品」を差し上げます。会場で私を見付けて下さい。舞台でトランペットを吹いているメンバーとそっくりの高齢者を探せばすぐ分ると思います。

 

 

[お願い]

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

  広島ブログ
広島ブログ

コメント

名前がいっぱい出て来て恥ずかしい(いや、嬉しい)
オタゲーに触れられるかと思いましたw

「⑦パパ」様

コメント有難う御座いました。修道のサマコンは、⑦パパさん抜きでは語れません。いつも、的確かつ前向きの評価で若者たちは励まされています。

オタゲーも練習振りを見ていて、また本番では見事に踊り演じ切ってくれましたので、触れたかったのですが、そもそも「オタゲー」とは何か、私も最初 はしりませんてした。世代間のギャップかも知れませんが、説明しないと分って貰えないだろう、でもきちんと説明するだけの知識がない、ということで今回は 割愛しました。

説明してくれる人が見付かったら、再度取り上げることにしたいと思います。

 

2016年7月13日 (水)

早生のブルーベリーの摘み取り始まる

早生のブルーベリーの摘み取り始まる

 

P7100734_3

 

東広島市豊栄町のブルーベリー農園(写真右)とすっかり青くなった稲田(同左)。(710日)

P7100739

みっしりと実る早生のブルーベリー。早生のタイップは北部ハイブッシュ系といい、皮が薄く、種が少なく、クエン酸中心のさわやかな食味が特徴。アマガエルがあちこちに住んでいる。(写真右上)(710日)

P7020628

家族3人で摘み取る。(72日)

P7020631

 

セミの抜け殻。(72日)

 

P7030649

途中、時雨れてくると手を止めて休憩。(73日)

 

P7020633

 

これからは摘み取ったばかりのブルーベリーでジュースを作って飲むのが楽しみ。(72)

P7020634_2

庭のヤマアジサイ(72日)

 

P7100731

 

草刈りを免れるとノカンゾウも元気に咲く。(710日)

 

P7030643_3

安芸区船越の自宅から農園まで行く途中の高屋町の無人の販売所にときどき立ち寄る。ナスやズッキーニやキュウリなどがどれも100円で売られている。その小さな駐車場の目の前のナスの畑。竹の組手がきっちり正確に立っている。農作業が作り出す造形美に見とれる。(73日)

 

712日記

 

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

 

[お願い]

 

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

 

広島ブログ 広島ブログ

2016年7月12日 (火)

多様性を重んじる

多様性を重んじる

 

「小選挙区制が機能している」を「p」、「衆議院・参議院とも改憲派が2/3以上を占める」を「q」とすると、「p q」は、「小選挙区制が機能している」ことが原因で「衆議院・参議院とも改憲派が2/3以上を占める」という結果になったことを述べる命題を表します。「q」は長いので、以下、「2/3を占める」と略します。

 

Photo

 

p」の上にバーを付けてある「」は、「p」の否定を表します。ローマ字の上にバーを付けるのがワープロソフトでは簡単ではありませんので、言葉で表現することにします。「pではない」そして「qではない」です。それも煩雑になりますので、具体的に小選挙区と2/3についての話に限って議論を進めましょう。

 

このような命題の間の関係は、数学の時間に習っていても、数学以外の分野で応用すると混乱が生じることは経験されているかもしれません。現実の命題を扱う際には、どうしても時間的に前後関係が出てくるからです。

 

しかし、考え方を整理したり、新たな視点に気付くという目的のためには、論理的な正確さを犠牲にすることも許されると思いますので、ちょっと乱暴な解釈を続けます。そこで心配なのは、今この関係を学校で習っている若い人たちがいるかもしれないということです。そうだとしたら、皆さんへのお願いです。教科書や先生の言うことを優先して下さい。ここでの議論は、友だちとの息抜きのための雑談程度に扱って貰えれば嬉しいです。

 

元々の命題が「小選挙区が機能していることから改憲派が2/3を占めるという結論が得られる」だとすると、「逆」に相当するのは「改憲派が2/3を占めることは、小選挙区制は機能している」という意味に取れますし、「裏」は「小選挙区が機能していないことからは、改憲派は2/3を占めないという結論を得る」、と表現できます。元の命題と論理的には同じ意味を持つ「対偶」は、「改憲派が2/3を占めないということは、小選挙区制は機能していないことを意味する」です。

 

こう見てくると、「小選挙区制が機能している」という事実と、「2/3を占める」ことがほとんど同じ意味だと取れるほど、選挙制度と政治の動きとが密接に関係していることが分ります。

 

と述べてから、この分析に問題があることを指摘するのも気が引けますが、それは「機能している」という言葉の意味に幅があるためですし、因果関係についての文章に曖昧さがあるからなのです。その代りに「機能する」という文章に変えて、因果関係をより正確に表現すると、「逆」は「2/3を占める」ことによって「小選挙区制が機能する」というという意味になり、この主張はあまり納得の行くものではありません。実は論理的な関係としてはこちらの方が正しいのです。

 

こんなに面倒臭いことをしないでも、小選挙区制導入の意味が憲法改正にあったことは、高校生にも分ります。だから選挙権を18歳以上に、ということにしたはずです。となると、このような結果が想定されていたのにもかかわらず、何故、小選挙区制が採用されてしまったのかが問題になります。

 

それは、憲法59条「法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる」という規定、つまり、多様な意見があることを現実として認め、その多様さを尊重することが健全であるという基本的な原理を憲法が採用しているにもかかわらず、小選挙区制が審議された時の国会は、その考え方を尊重しなかったからです。

 

ようやく「多様性」という言葉まで辿り着きました。次回は、このことについて舞台裏で起きていた「驚くべき」真実を当事者の回想を通して御紹介します。



 [お願い]

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

広島ブログ
広島ブログ

2016年7月11日 (月)

十分条件的に考える

十分条件的に考える

  

 

予測のできた悪い結果を受け入れなくてはならない時、それも未練がましく、できれば予期せぬ事態が発生することも祈りながら確定的瞬間を迎え、嫌々ながら現実と向かい合うことになるのは、いくつになっても憂鬱です。しかも今回は、憲法改正の発議に必要な2/3の壁が崩れてしまったのですから、この結果はさらにじわじわと社会全体を侵食して行くことになるのかもしれません。

 

Photo

だからと言って手を束ねている場合ではありません。戦争への道を直走りにしかも破廉恥に追い求める政権に対抗する世論を作らなくてはなりません。こんな事態になってしまったのは、主権者たる国民、その代表として力を行使できる立場にある議員をはじめとする公務員、様々な手段で多くの人に対する働きかけをしているオピニオン・リーダー、子どもたちに正確な知識を与え考える力を涵養する立場の教育者、多くの人の目に触れるという意味で、その言動が常に多くの人々に影響を与える芸能人をはじめとするマスコミやスポーツ界の人気者等々、多くの人々のこれまでの考え方や行動の結果だと言って良いと思います。

 

私自身、もっと違った手段であるいは表現方法で、あるいは違った仕事を通して、もっと大きな影響力を発揮できなかったのか等、特に公職を離れてから反省することしきりです。そして、改めて来し方を振り返ってみて愕然としたのは、憲法について、あるいは憲法をめぐる事態の深刻さに十分気付いていなかったことです。

 

とは言え、いわゆる護憲派の一人として、それぞれの時代に自らに与えられた立場からはみ出てまで、頑張ってきたという自負はありました。その私が深刻さを十分に認識していなかったと考えざるを得ないのですから、毎日新聞の調査で「2/3の意味を知らない」と答えた6割以上の人たちは勿論、知っている人でも、憲法をめぐる情勢がこれほど深刻であることに気付いている人は恐らく少数派なのだと思います。

 

もちろん、私も長い間「深刻」だとは思っていたのです。でもそんな言葉では到底表現できないほどの深刻さなのです。

 

私の悪い癖で、本題に入る前の口上が長くなってしまっています。それは、私自身深刻さに気付くのに、どのようなことをどう考えていたのかを説明したいからです。そのカギが、前回の命題についての図式ですし、「十分条件的な考え方」なのです。

Photo_3

 

「衆議院・参議院とも改憲派が2/3以上を占めた」を命題「p」としましょう。「憲法改正の発議ができる」が「q」です。すると、今回の選挙の意味は「p q」が成り立つことなのですが、その先を考えて見ましょう。96条の規定では、国会での改正の発議を受けて、国民投票が行われ、過半数が賛成すると憲法が改正されることになります。

 

恐らく最初は、誰も反対しないようなマイルドな改正を行い、「憲法改正って、反対するほどのことはない」という印象を作る作戦が取られることになるでしょう。良く引き合いに出されるのが「環境権」です。そして、国民投票そのものに対する違和感がなくなり、投票率も下がったところで、本番の9条改正が出てくるというシナリオは、複数の人が予測しています。

 

このシナリオに待ったをかけるためには、世論が大切です。前に掲げた様々なプレーヤーの役割も大切になります。そのためにも、かつての失敗を振り返って、何ができたのか、中でも私たち一人一人には何ができたのかを考えられればと思います。

 

そのために今度は、「q」としては、「衆議院・参議院とも改憲派が2/3以上を占めた」を取り上げたいと思います。「p」の可能性はいろいろありますし、まさにその点が重要だと言いたいのですが、先ず、「小選挙区制が導入された」を「p」にしましょう。

 

次回は本題に入ります。

 

  [お願い]

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

広島ブログ
広島ブログ

2016年7月10日 (日)

歴史の"if"を考える

歴史の"if"を考える

 

今日、710日は参議院議員選挙の日です。5月のオバマ大統領の広島訪問、そして最新のタヒチ報告、ずっと前から書き始めていた平和宣言や平和についてのトピック等ある中で、やはり選挙が気になります。

 

私は昨日9日に事前投票をしてきましたので、今日は前から約束していたイベントに集中できるのですが、未だ投票されていない方は、何が何でも一票を投じて下さい。

 

選挙の結果は開票後にならないと分りませんし、結果の予想をするほど全国的な情勢を把握してはいませんので、視点を変えて、敢えて「歴史に”if”があったら」を取り上げて見たいと思います。つまり、何らかの歴史的事実を取り上げて、前段の仮定の部分を変えたらどうなるのかを考えて見たいと思います。

 

これでは抽象的過ぎますので、具体例で説明します。歴史的事実として「光秀が本能寺攻めをした結果、信長は天下を取れなかった」を取り上げます。前段の「光秀が本能寺攻めをした」という文章を「p」という記号で表します。そして後段の「信長は天下を取れなかった」は「q」という記号で表すことにします。

 

数学の教科書では、これをさらにもう一つの記号「⇒」を使って、「p q」という形に置き換えます。声に出して読む場合は、「pならばq」です。また、この形「p q」を命題と呼びます。

 

「歴史に”if”はない」という言葉で、どちらかというとネガティブに捉えられているのは、この「p」の部分についていろいろな可能性を考えることを指しています。例えば「光秀が本能寺攻めをしなければ」という可能性を考えることです。私自身は、歴史的にはあり得ないことでも、「思考実験」として、頭の体操として「仮に」という前提で想像力を膨らませてみることの意味は大きいように思います。つまり「歴史からの教訓を得るために、敢えて歴史の”if”を考えて見よう」と言いたいのです。

 

数学に戻ると、これは「pの否定 ⇒ qの否定」という形に相当します。これを元の命題の「裏命題」略して「裏」と呼びます。「裏金」とか「裏口入学」という言葉があるくらいですから「裏」、つまり「歴史に”if”はない」も、「裏はいけないよ」ということだけなのかもしれないのですが、繰り返すと、歴史を考える上での「裏」を復権させたい思いを強く持っています。

 

それは、数学的には「逆」と呼ばれる命題が大手を振って歩いているだけではなく、マスコミが好んで使う手法でもあることにフラストレーションを感じているからかもしれません。逆とは「q p」という命題を指します。つまり、「信長が天下を取れなかったのは、光秀が謀叛を起こしたからだ」です。論理的な命題と、歴史的な事実との関係には、時間的な要素が関わっているのかどうかという点で大きな差があるのですが、分り易く説明するために、この差については大目に見て下さい。

 

しばしばこの形が取られるのは、その結果として、「p」を非難できるからですし、「p」という行為の主体である人や団体等を批判するケースもあるからです。これ自身は必要ですし、大切なことなのですが、でもそれだけでは「歴史を繰り返すな」という目的からは遠いようにも思います。これには必要条件と十分条件とが関わってきます。

 

おっと、時間が無くなってきました。続きは明日にしましょう。

 

その前に、命題の論理的な関係を示す上でもう一つ「対偶」という命題もあります。これを図式で示すと、「qでなければ ⇒ pでない」になり、論理的には元の命題と同じ意味を持っています。これらの関係を図式で示しておきましょう

 

Photo


 

またまた、悪い癖が出てしまいました。本題に入る前の説明に時間を取られて、本題が遠く霞んでしまっています。しかも、図式を挿入しないまま、記事をアップしてしまいました。午前9時に訂正しましたので、宜しくお願いします。

それはともかく、投票には行って下さい。

 

[お願い]

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

広島ブログ
広島ブログ

コメント

イギリスのように、自分が投票結果を悔やむような馬鹿者の投票は止めて欲しいですね。
だから、自ら考え自分の意思のない人は、投票すべきではないですね。
ifという考え方は面白いですね。でも、ifは気をつけないと自分にとって都合の良い結果を導き出すかもしれませんね。この次の記事にどうなっていくのか楽しみです。
私は、whyで歴史を考えていかないと、歴史認識は難しいのでは思います。
ところで、身近の歴史であるイラク戦争をを検証したイギリスは、見習うべきですね。
先の憲法は、間違っていなければ、イギリスの憲法を参考にしたと思います。
憲法を改正する議論の前に、見習うべきことだと思います。

「やんじ」様

コメント有難う御座いました。

命題の論理関係を示したのは、「変革」と「自分」の関係を客観的に見ながら、変革のためのエネルギーを創り出したいという願望からです。小生の考えていることを、今日以降、上手く説明できると良いのですが。

イギリスの国民投票ですが、あれが特別なのではなく、世界のどこでも選挙の内容はあの程度のものなのだ、ということが分るような選択肢だったからなのではないでしょうか。

より深刻な問題は、事実上、英国の国民投票と同じレベルの投票が行われ、その結果も本当なら「大後悔」しなくてはならないにもかかわらず、その事実にさえ気付かない人が圧倒的に多いということなのではないでしょうか。

日本の選挙に比べて、選挙後「後悔」する人がいるだけ、イギリスの選挙民の方がましだという議論もできると思います。

if には英文法でいうところの仮定法と直接法があると思いますが、それを説明するのに、歌の if は殆ど仮定法だが、プログラミングの if は全て直接法だと言われ、余計に分からなくなったことがあります。
歴史の if は常に仮定法で、そこから直接法の if を考えて行動すべきだと思いますが、今度の選挙で、どれほどの人がそれを考えたのか疑問ですね。

「通りすがり」様

コメント有り難う御座いました。仮定法や直説法、懐かしい言葉です。歴史の「if」について整理して下さり、有り難う御座います。おっしゃる通りですね。

もう一つ、イギリスの国民投票もそうなのですが、まずは投票をし、その結果を見て学んでいくことも大切だと思います。そのプロセスが生きて、参院選の結果が都知事選につながると良いのですが。

 

2016年7月 9日 (土)

同じお題で書きましょう 「卵焼き」

同じお題で書きましょう 「卵焼き」

 

201672日は、フランスが仏領ポリネシアで第一回の核実験をしてから丁度50年目に当たります。その後、1996年までの30年間に全部で193回の核実験をこの地域で行っています。しかも、1963年には、部分核停条約として知られる条約で大気中の核実験はしないという世界的合意ができたにもかかわらず、フランスは1974年まで大気中の核実験を続けました。

 

核爆発による死の灰や放射線を帯びた様々な下降物、また大気中の微量粒子等による被曝は勿論なのですが、核実験のためには、大規模な準備とその後の後始末が必要になります。被曝の危険は当然あります。それに駆り出されたのが現地の人たちです。「安全だから」と騙されて何の安全対策もないままに被曝した人の数は5000人以上いると言われています。

 

フランスの核実験による被害者、その家族、そして子どもや孫たちは、適正な医療の提供、さらには生活の支援、そして人権侵害に対する責任のを取って人権の回復、そして補償等をすること求めて闘ってきましたが、第一回の核実験から50年を迎える、72日には、さらなる運動強化のための大規模な集会を開きました。

 

広島の被爆者や市民、そして日本原水禁そして心ある活動家や市民は長い間、ポリネシアの人たちの戦いを支援してきているのですが、それについてはさらに詳しく触れることにして、今回は、この集会出席のために滞在したタヒチでの日常について一つ二つ報告しておきたいと思います。

 

タヒチの人たちはとても穏やかで礼儀正しく、街は笑顔に満ちています。約一週間滞在しましたが、私たち一行4人の意見が一致したのは、この間、ただの一度も嫌な思いや、マナーが今一といった経験はしていないということでした。(冷静に考えると一二度ありました。でもそれは、タヒチの人ではなく、みな外国人でした。)

 

そのタヒチの丘にこんなポスターが掲げてありました。

 

20160708_23_09_42

タヒチの友人に何のポスターかと聞くと、「もっと笑顔を増やそう」というキャンペーンなのだそうです。、恐らく世界中で一番、こんなキャンベーンが不必要な場所での運動だと思いますし、そのポスターが如何に不必要かを記録に残しておきたいと思いました。何枚か写真を撮りながらやはり笑ってしまいましたので、その限りにおいてはキャンペーンの効果はあったことになります。

 

もう一つは朝食です。実は1995年にもフランスの核実験反対のための、今回より大きな集会がありタヒチを訪問しているのですが、その時のホテルは電話もレストランもなく、じめじめした部屋だったことだけを覚えています。朝食は近くの食料品店で買いためておいて食べていたような記憶があります。

 

今回は、朝食だけは出してくれるレストランがあり、コンチネンタル・ブレックファーストが食べられました。ジュース、ヨーグルト、ゆで卵、クロワッサンそしてコーヒー、果物、とこれだけあれば十分なのですが、「サプライズ」のサービスがありました。

 

「気が向くと」としか考えられないのですが、キッチンらしきところからふくよかな女性が現れて、「卵焼きはどう」と声を掛けてくれるのです。一緒に行った3人のうち二人はその卵焼きを食べることができたらしいのですが、私に声が掛かったのは、いつもゆで卵を食べた後でした。「おいしかった」という卵焼きを、次回はぜひ食べてみたいと、次のタヒチ行きを楽しみにしています。

 

 

[お願い]

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

広島ブログ
広島ブログ

2016年7月 8日 (金)

同じお題で書きましょう 「夏の甲子園」

同じお題で書きましょう 「夏の甲子園」

 

皆さんは高校野球そのものについてお書きになると思いますが、私には、「甲子園」と聞くと即座に思い出す、衝撃的だった出来事が、20年以上前にありました。「甲子園があるから原発が必要だ」と言わんばかりのこじつけを原発発推進派の人たちは使っているというのです。

 

1979年のスリーマイル島の原発事故以前からアメリカでは、反原発運動が盛んでした。私もその洗礼は受けていたのですが、原発と高校野球に関連があるなどとは夢にも思っていませんでした。

 

衝撃的な事実を知ったのは、1990年になってから、衆議院議員会館内での勉強会でした。講師が誰だったか覚えていないのが残念なのですが、原発が必要だと主張する電力会社やその連合体である電事連の言い分の紹介がありました。簡単に述べると、夏のピーク時に日本国内で消費される電力を賄うだけの十分な量の電力を発電しなくてはならない。そのためにはどうしても原発が必要だ、ということでした。

 

その後に示されたのは、その前の年の夏の一日の電力使用量のグラフでした。ピーク時は確かに、国内の総発電量を超えていましたが、それはほんの一時で、午後一時から三時頃の間でした。それに続いてのショッキングな説明は、そのピークは甲子園野球の時間帯だというのです。試合を見るために、普段はテレビを付けていない事業所等でもテレビをつけ、暑い中ですから冷房もガンガンつけているからだということはすぐに分ります。

 

その時のグラフを探したのですが、見付かりません。代りに、東京電力の「でんき予報」のグラフを借りていますが、夏の一日の電力使用料の傾向は同じです。暑い時には電気を使うのです。

 

Photo


 

そんな日は、一年に一度か二度という報告までありました。となると、巨額の投資をして原発を造るより、高校野球の時間をずらせば良いという結論になります。夏の一番暑い時に炎天下で高校生が文字通り全力投球で運動するのも体に良い訳がありません。一石二鳥、三鳥の解決策だと多くの人が考えても不思議ではありません。

 

しかし、高校野球の時間をずらして、午前中とナイターにするといったアイデアはほとんど目にしたことがありませんでした。その説明もありました。甲子園野球の主催団体がNHKと朝日新聞だからそんな報道をする訳がない===と言われれば確かにそうかもしれません。

 

でもこの考え方は、約20年経って陽の目を見たのです。2011年から、と言うことは福島の原発事故以来、甲子園の決勝戦は午前中に移されたのです。その理由は「節電」です。

 

つまり、電力会社もマスコミも、ピーク時の電力を節約するにはどうすれば良いのかは、知っていたのです。でも、知らんぷりをして、ピーク時の使用電力が高いままに放置しておいて、それを原発の存在理由として使っていた、と言われても仕方がないように見えるのですが、うがち過ぎでしょうか。そうかしれません。もし、それ以上に説得力のある説明を御存知の方がいらっしゃれば御教示下さい。

 

 

[お願い]

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

広島ブログ
広島ブログ

コメント

高校時代の担任が
言っていました。
「夏の暑い日に日本中の人が
冷房の効いた部屋で
アイスコーヒーを飲む、
そんなことをしては
いかんのじゃ」
思い出しました。

真夏の電力需要に対応するのは、発電量を短時間で調節できないために需要の落ちる夜になると電力を余らせるような原発より、ピーク時には多く発電し、夜には発電しなくなる太陽光発電の方が適しているはずです。

それ以外にスマートメーターなどを使ったピークカットの手法はいくらでもありますが、そうした努力をしないどころか、逆にピーク電力を上げるような 料金体系にしておいて、本来は必要のない電源を増やし、総括原価方式と地域独占という戦時体制を未だに堅持し、年間に数日の数時間のために、全ての国民に 米国の2倍、韓国の3倍とも言われる高い電気料金を押し付けてきたのが日本の電力政策でした。

そのおかげで、電力会社は燃料や資材などもどこよりも高く買うことが出来、下請けは9次下請けまでを抱えることが可能で、原発のような高コストで脆 弱な電源も持つことが可能になり、補助金により地域も潤う、おまけに核兵器開発への準備まで出来る、ということが存在理由でしょうか。

そのツケはその高い電気料金を払う国民と、莫大な研究費や補助金の原資となる税金を払う国民と、使用済み核燃料の処理に莫大な費用を押し付けられる 未来の国民と、事故により地域を奪われた住民、そしてヤギしか住まない領土ではなく、豊かな農作物を生産できる大切な国土を失った国民ということになるの ではないでしょうか。

素人の考えですが「沢山充電出来ない」と言われている電気は
すでに沢山充電できる技術が開発されているのではないかと
思っています。実用化されないのはコストの問題なのですかね?

初歩的な疑問でお恥ずかしい><;

「緩和ケア薬剤師」様

コメント有り難う御座いました。

担任の先生のおっしゃる通りです。さらに、甲子園にも応援に行きましたが、炎天下での応援も大変でした。気分の悪くなる人もかなりいましたし、マスコミは「熱くなれ」としか煽りません。少し頭を冷やして、このような点についても考えておく必要はあると思います。

「工場長」様

コメント有り難う御座いました。

何時も、正確な事実を的確に教えて頂き有り難う御座います。「原子力村」、電力会社、電事連等はこうした事実を十分知りながら、それを知らない国民 には教えず、無知に基づいた感情を操って、結局は国民に全ての付けを回す、という図式ですね。そして戦争の犠牲も国民すべてが文句を言わずに「受忍」しろ というのが国の考え方です。

高校野球まで利用して、こうした自分たちの利権や既得権をさらに巨大化させていることに気付いて貰いたいという思いで書いて見たのですが、さてこの次のステップはどうなるのでしょうか。

「⑦パパ」様

コメント有り難う御座いました。

この辺りは「工場長」さんに詳しく説明して頂きたいと思っていますが、受け売りをすれば、電気自動車に貯めておいた電気を家の中で使ってかなりのことができますので、それだけでもピーク時解消の対策としては有効だと思います。

夏の午後だけ考えると、「工場長」さんのおっしゃるように、ソーラーパネルを使うことが一番合理的なのではないでしょうか。

と考えると、ピーク時の電力消費のために原発が必要と一方では言い、でもソーラーは不安定だから役に立たないともう一方では言っている「原子力村」の皆さんの論理は完全に破綻しています。

補足しておきます。

テスラの電気自動車に搭載されているパナソニックのバッテリーは85Kwhですから、我が家で使う電力の一週間分以上です。

既に電力の100%近くを自然エネルギーで賄う時間帯もあるドイツですが、常時100%自然エネルギーを実現するために、蓄電装置としてノルウェーに大規模な揚水発電所を作り、そこに余った電力を蓄えるように計画しています。

ちなみに我が家はオール電化住宅で、自家用車も電気自動車ですが、屋根に設置した控え目のソーラーパネルで発電する電力の8割はパナソニックに売っ ていますし、既に発売されている電気自動車の電力を家庭で使う装置を設置すれば、今すぐにでも100%自然エネルギー電力の自給自足が実現できます。

「工場長」様

追加コメント有り難う御座いました。

具体的な定量説明で納得です。資金をどう工面するのか問題はあるのですが、取り敢えず電気自動車に試乗してみようと考えています。ソーラーパネルはその後、検討したいと思っています。

我が家にある一番小さなEVは、あの三菱自動車で決算月にわざと新古車にするという値切り方をし補助金も100万円近くあったので、4年リースで税込み月額3万円丁度、その中に4年間の自動車税とメンテナンス料金も含んでいます。

そして、燃料費は、殆どスーパーなどの無料充電を使っていますが、自宅で充電しても100キロの走行にかかる電気料金は100円以下です。

試乗はディーラーでももちろん可能ですが、地域によってはレンタカー会社と提携して特別価格の設定があったり、三菱も以前ワンコイン(500円)の レンタカーを用意していたり、日産やBMWでも宿泊付きの試乗キャンペーンがあったり、テスラは宿泊予約サイトの一休と提携して、東京から箱根や大阪から 淡路島などの旅行にEVを無償提供するなど、様々なキャンペーンがあります。

以下、BMWの試乗キャンペーンですが、比較のためにも一度は乗ってみることをお勧めします。
http://www.bmw-i.jp/Campaign/i3-testdrive2016/

「工場長」様

さらなるコメント有り難う御座いました。

色々なキャンペーンがあるのですね。まずは問い合わせてみます。

 

2016年7月 7日 (木)

ポツダム・ヒロシマナガサキ広場とある被爆者

ポツダム・ヒロシマナガサキ広場とある被爆者

 

一昨日の遊川さんのドイツ人の話に触発されて、ポツダム・ヒロシマナガサキ広場の記念碑建設にかわかる話をもう一つ付け加えます。

ヒロシマナガサキ広場の記念碑建立で、どうしても忘れてはならない人がいるからです。ドイツ・ベルリン在住の被爆者外林秀人さんです。

 

Yjimage1_2
                    被爆体験を語る外林さん

外林さんは、1927年長崎市生まれですが、16歳の時、広島で学生として化学の授業を受けている時、爆心地から1.5kmの地点で被爆されました。外林さんは、京都大学卒業後、1957年、28歳の時にフンボルト財団の奨学生としてドイツに渡られて以来、壁のできる前から、壁のあいだ、壁の後まで、常にベルリンに住んでおられました。(本人の言)

外林さんは、長い間原爆の体験を語ることはなかったそうですが、2006年愛知万博の最終日、「ドイツ原子力物語」の共著者である友人からの強い後押しで、名古屋の講演会で初めて自らの被爆体験を語られたそうです。

それがきっかけとなって、2007年に当時始まっていた「ポツダム・ヒロシマの広場をつくる会」の運動に賛同し、会員となるとともに、「広島と長崎への追悼」の講演会をドイツだけでなく、スイスやオランダなどで精力的に行い、被爆体験を語るとともに募金を集められました。計40回を超えています。中心メンバーの一人でした。

 

私が外林さんに初めてお会いしたのは、広島での募金を呼びかけるため帰国された2009年秋です。広島滞在中に何度かお会いしましたが、同時期に帰国し、被爆石探しをはじめられた石彫家・藤原信さんと一緒に、広島の被爆石である広電の敷石を見に行ったことが特に強い思い出となっています。そうそう、記念碑の設計・作成者の藤原信さんが、このプロジェクトに加わり、大きな役割を果たされことになったのも、外林さんとの友人関係がなければあり得ませんでした。

Photo
                    広電の被爆石

 

ですから2010年7月25日の記念碑除幕式で、外林さんが中心的存在であったことは、ある意味当然のことでした。外林さんは、そのスピーチの中で「広島、長崎の被爆石は、被爆者で、次のメッセージを持ってきました。『核兵器は、人類史上で今までに開発、応用された兵器の中で最悪のものです。原爆の結果を忘れてはいけません。忘れるとまた再び起こります。人類は平和を維持するため、全力を尽くして働かないといけません。原爆のない世界を祈念します!』」と話されました。

Photo_2

                    除幕式でのスピーチ

 そしてその後のマスコミのインタビューでは「このベルリン、ブランデンブルク周辺の被爆者といえば、長い間私一人でした。でもこの慰霊碑(筆者注:外林さんは記念碑にことをそう呼んでおられた)ができてからは、何となくたくさんの慰霊が来てくれたような気がします。ずっと一人で叫んできたのが、今は多くの人が後について立ってくれる。とても心強い思いがします。」と答えておられます。

この言葉を聞くだけで、被爆石を送った意味があったなとつくづく思います。「除幕式には必ず来てください」と声をかけていただいたのも外林さんです。

 

Photo_3
                   樹木葬された外林さんのお墓(木の手前)

外林さんは、残念ながら2011年12月30日に永眠されました。いつかはお墓参りをと思っていたのですが、昨年7月25日に開催された5周年の記念式典に参加するため再びドイツを訪問した時、ようやく実現しました。外林さんは、「ヒロシマ・ナガサキ広場」から歩いて15分ほどの墓地で、静かに眠っておられます。

 

今日はもう一度、いのちとうとしがアップしました。明日からはいよいよイライザさんの再登場です。

[お願い]

 

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

広島ブログ 広島ブログ

2016年7月 6日 (水)

「平和の火よ走れ」―反核平和の火リレー自宅前を通過

「平和の火よ走れ」―反核平和の火リレー自宅前を通過

 

6月29日の「反核平和の火リレーがスタート」にコメントを寄せていただいたやすみさんから以下の投稿がありました。新しいライターの登場です。

 

6月29日、平和公園を出発した「反核平和の火リレー」のランナーが、今朝(7月5日)、伴走車から「平和の火よ走れ」のテーマソングを背に受け、自宅の前を通過しました。

Photo_14

 

数分前から、近くの中継地に待機していたランナーに話しかけました。「1982年から走りょうるんよ」と言うと「そんなに前からですかとランナー君。「去年、平和公園の採火式で司会をしました。」とわずかな時間だったけど、話しがつながりました。写真撮影のお願いをすると、「トーチの受け渡しの時、実行委員会も撮影するからその時、いっしょにどうぞ」と気配り。同時にブログ掲示の許可と閲覧のお願いもしっかりできました。

Photo_15

 

 

今回で4回目のランナー君のうしろ姿は、「STOP WAR」の文字の中に「反核平和」のしっかりしたメッセージを感じました

Photo_16

 

梅雨空の合間の不快指数100%のきょう、庭の色づきはじめたブルーベリーもリレーの応援をしていました。

Photo_17

広島県原水禁常任理事 中尾やすみ

イライザさんが、無事にタヒチから帰国されました。この間休みなしで何とかブログを続けることができました。(いのちとうとし)

 

[お願い]

 

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

 

広島ブログ 広島ブログ

2016年7月 5日 (火)

ドイツの若者のボランティアと小田実さんと


ドイツの若者のボランティアと小田実さんと

Gb

森の工房やのの朝の会。左の青いTシャツの若者はドイツから来たボランティア。皆さんの様子をジーッと見守る。昨年9月に来日してから半年以上たっているので利用者の支援も、ふれあいも充実してきている。

Gb_2

盆とうろの竹を拭く作業を利用者と一緒に行う。名前はマークスさん。21歳だ。社会福祉法人安芸の郷では20139月から毎年ドイツの若者のボランティアを受け入れている。受け入れる事業所は知的障害者が通所する森の工房やのと森の工房みみずくで、一定の期間を順次回っていく方法で、利用者の支援と、ともに働くことを日々行っている。(2枚とも74日撮影)

ことの発端は利用者の家族から、ドイツ人の友達がいてその方からドイツの若者のボランティアの受け入れ先を探しているのだが、安芸の郷でもできないかとの情報が寄せられ、201212月に話だけでもとお会いしたのが始まり。

Gb_3

翌年3月に安芸の郷にドイツからオイゲン・アイヒホルン教授とスタッフの方々がお見えになり受け入れの要請と意義の説明を受けた(写真はパンフレットの表紙)。ドイツの徴兵制を良心的懲役拒否した若者を2001年から日本で受け入れていること。20117月に徴兵制が廃止されたこと。派遣団体は2007年よりボランティア活動の専門性を備えたドイツの国際青少年社会奉仕会(IJGD)と連携してこのプロジェクトがさらに強固なものになったこと。対象者の年齢は18歳から27歳で事業所の職員と同じ作業を同じ労働時間内で行うこと。などであった。

Gb_4


パンフレットの一番最後に、日本の受入団体の独日平和フォーラムは1987年に故小田実さんの提唱によって設立されたことが記されていた。結果的に法人内で検討して20139月から男性1名を受け入れることで始まり今日までに3名を受け入れている。派遣された彼らは毎年2月に約1週間広島市に集まり市長への表敬訪問と講義を受け、第二次世界大戦とその結果-特に広島・長崎の原子爆弾投下-の取り組み。さらにこれを出発点として平和政策上のコンセプトについて。福島問題、原発、放射能問題などの研修を行っている。

 

ドイツの国際青少年社会奉仕会(IJGD)全体ではドイツ本国を含め世界30か国以上、年間5000人以上のボランティが活動しており、そのうちigjdベルリンがパートナシップを提携している国は、ジョルダン、イスラエル、パレスチナ、イタリア、韓国そして日本だそうだ。年数を重ねていくと大変な人数になり、平和の希求する若者が世界に広がっていくことをつながる。今年広島県には6名が派遣されている。

 

今年安芸の郷でボランティアをしているマークスさんは家庭の事情で今年3月に帰国したがその後6月に来日し、安芸の郷のボランティア活動を再開した。86日の広島市平和記念式典に参加したい強い思いを持って毎日ボランティア活動に励んで頂いている。

Gb_3_21

この縁を作り出した小田実さん。「1982年の平和のためのヒロシマ行動」の若者広場で演説されている。

Gb_5

321日ステージで演説する小田実さん。(1982年の平和のためのヒロシマ行動の報告書から)

 

報告書にはこの演説のほぼ全体が記載されている。最後のところを紹介。

 

「私たちはもっと基本的な立場にもどって、日本の憲法の前文に書いてあるような反戦と反抑圧。今までは間違っていた。新しい歴史をつくろうではないか。世界の歴史は、いままでは殺し殺されの連続であった。日本人もその一人であった。これは間違っていた。最後に私たちは、ヒロシマ・ナガサキをもった。だから私たちは根本的に反省する。新しい世界をつくるために努力する。私たちはそれを誓ったはずです。この誓いをもう一度、原点にもどってここで確かめようではありませんか。」

 

その場で聞いていた私も若者のひとり。

 

Gp_3_21

ヒロシマ行動で作成されたこのワッペン。(報告書より)このワッペンはシールになっていて張り付けられる。個人的にも気に入っていて、手持ちが数枚あったので乗り換えた3台に車に25年近く車の後ろのウインドウに張り付けていた。あればまだ張り付けていたいのだが・・・。

社会福祉法人 安芸の郷 理事長 遊川和良(7月5日記)

 

[お願い]

 

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

 

広島ブログ 広島ブログ

2016年7月 4日 (月)

島根ぶどうと故郷

島根ぶどうと故郷

 

昨日食品を買いに行ったお店で「島根ぶどう」(デラウェア)を購入し、美味しく食べました。ぶどうの中でも、このデラウェアという品種には、懐かしい思い出があります。

160701_103424

私が生まれたところは、母の実家である島根県出雲市浜町というところです。そこは出雲大社から南東に直線距離で約5Kmぐらいのところで、今浜山公園(現在は、県営の競技場が多数ある)と呼ばれている松林の広がる丘陵地帯の東の端です。この松林は、今から320年ほど前、砂の浸食を防ぐため、大梶七兵衛という一人の農民が、資材を投じて植林したものです。

Yjimage2

                  浜山公園の松林

ちょうど私が小学校に行くようになったころ、この地域一帯で盛んにおこなわれていた養蚕業が衰退したため、一気にといってよいほどの速さで、桑畑が、葡萄畑へと転換していきました。そのぶどうの品種が、デラウェアでした。ぶどう棚は、子どもたちの背丈より高かったため、私たち子どもにとっては、良い遊び場でもありました。懐かしく思い起こします。私の思いでは、出雲でのぶどう栽培は、このころから始まったと思っていましたが、明治時代から始まっていたようです。今、島根県のぶどう、特にデラウェアは、ハウス栽培で日本有数の生産量を誇っているようですが、この地域は、島根県内でもぶどう栽培の筆頭格のようです。

Vol02_041

 

現在では、ハウス栽培が当たり前になっていますが、当時は、露地栽培でした。私の家は、農家ではありませんでしたので、ぶどうを栽培するということはありませんでしたが、子供のころには、おやつとしてよく食べさせてもらいました。というのも、露地栽培は、雨に弱く、収穫前のぶどうに雨が当たると、粒がはじけてしまい、商品になりません。そんな出荷できないぶどうを、ご近所の知り合いの農家からおすそ分けでちょうだいしたり、安く販売していただいたものですから、貧しいわが家でも十分すぎるほど食べることができました。他のオヤツがなかなか食べられなかったとき、ぶどうだけは十分にとは言えないまでも、良く食べさせてもらったように思います。ですから思い出深い食べ物です。

Vol02_051

 

当時は、露地栽培ですから、8月9月が収穫の最盛期だったように思います。ですから夏休みの楽しみの一つでもありました。もちろん種なしではありませんでしたが、甘いぶどう独特の香りが今よりも、もっと強かったような印象が残っています。現在は、ハウス栽培ですので、4月から収穫がスタートし、6月の今頃がピークだそうです。そしてで取って食べやすい大きさにするため「粒張りの良い、ゆる房(ふさ)」に栽培されているようです。

島根ぶどうをたくさん食べてくださいね。

 

島根ぶどうは、私にいつも懐かしい懐かしい子供のころを思い出させてくれます。

 

[お願い]

 

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

 

広島ブログ 広島ブログ

2016年7月 3日 (日)

ポツダム市「ヒロシマ・ナガサキ広場」の名称

ポツダム市 ヒロシマ・ナガサキ広場の記念碑と被爆石

 今日は、一昨日約束しましたドイツ・ポツダム市にある「ヒロシマ・ナガサキ広場」について、特に広場の名称が、「ヒロシマ広場」から「ヒロシマ・ナガサキ広場」に変わった経緯について書いてみます。この広場は、1945年のポツダム会談に参加した米トルーマン大統領が宿泊していたゲストハウス(現在は「トルーマンハウス」と呼ばれている)の道を挟んですぐ前にあります。

Rimg13_4_4
               記念碑の後ろの木立の間にトルーマンハウスが見える

Photo_2
                      トルーマンハウス


多くの人たちの努力によって2010年7月25日に盛大な「記念碑の除幕式」が行われました。写真に見える記念碑の横に長い石は、36tもあります。よく見ていただきたいのは、その前にある銘板とそこに設置されている二つの石です。いずれも日本から送られた被爆石です。向かって右側が、広島の路面電車の敷石です。左側は、長崎・山王神社の境内にあった石です。山王神社は、有名な片足の鳥居があり、境内には被爆した大楠が、今も健在です。

Cimg0023_2

この二つの被爆石が、ここに据えられることになったのには、ちょっとして出来事がありました。私の「せっかく広島の名の付く広場の記念碑なら、被爆石も一緒に設置したら、もっと意義があるのでは」という提案が話し合われた時、ドイツ在住の学生(記念碑を作成した藤原信先生の教え子)から「どうしていつも広島なんですか」と指摘されたそうです。実はその学生は、長崎出身でした。彼女の声はまさに鶴の一声だったようです。藤原先生は、二つの被爆地の石をそろえようと自ら長崎市に出向き、被爆石探しが始まりました。なかなか被爆石に出会うことができなかったようですが、何とか山王神社の好意で、長崎からも被爆石が、ドイツにわたることになりました。広島の被爆石は、広電の協力を得て、割と簡単に準備できました。こんな経過で見つかった長崎の被爆石ですから、両被爆地の被爆石が並ぶモニュメントは、世界中でもここにしかないと思います。

Img_2103
                           独日協会ベルリン合唱団


こうして両被爆地の被爆石が並ぶことになりましたので、広場の名称に「ナガサキ」を入れようとの声が上がりました。しかし2010年7月25日には間に合わず、ようやく2012年にポツダム市議会の承認を得て、「ヒロシマ・ナガサキ広場」と名称が変わりました。

Photo_9

Photo_7


ところで除幕式が8月6日でなく、なぜ「7月25日」なのかと思われる方もおられると思います。その理由は、記念碑の銘板には、次のように刻まれています。

 

1945年8月6日と8月9日に

広島と長崎に投下された原爆によって

犠牲となった人々を追悼して

 

連合国によるポツダム会談が

1945年7月17日から8月2日まで行われ、

その間、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領が

正面にある邸宅に滞在していた。

 

1945年7月25日、

アメリカ大統領の同意の下、

ワシントンから軍の原爆投下指令が下された。

 

原爆の破壊力は、数十万の人々を死に追いやり、

人々に計り知れない苦しみをもたらした。

 

核兵器のない世界を願って

 

上に埋め込まれた石のうち、

左が長崎から、右が広島からきた石です。

石はあの日、原爆によって被爆しました。

現在は、もう石に危険はありません。

 

以上の碑文が、ドイツ語、英語、日本語の三ヶ国語で刻まれています。最後の一行ちょっと気になりませんか。ドイツ人が、いかに放射能汚染に敏感なのかを示しています。当時広島大学の先生の協力を得て、被ばく線量を証明した書類をドイツに送りました。

 

もしドイツを訪問されることがあれば、ぜひ「ヒロシマ・ナガサキ広場」をたずねてみてください。ベルリン市中心部からでも、30分ぐらいで行くことができます。

 

[お願い]

 

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

 

広島ブログ 広島ブログ

2016年7月 2日 (土)

リオオリンピック開会式で黙とうを―その2

リオオリンピック開会式で黙とうを―その2

 

この一週間、ブラジル被爆者平和協会からのメールが、数回にわたって届いています。5月21日に掲載した「リオオリンピック開会式でも黙とうを」のその後の様子と今後の取り組みについてです。

広島市長からの要請に対し、6月9日付でIOC事務総長から広島市長あてに、返事があったようです。その内容は「検討した結果、選手村に様々な暴力の犠牲になった方を悼む追悼の場所を設ける、閉会式で亡くなった方々に思いをはせる一時を設けることを決定した」というものだったようです。これは、広島市からブラジル被爆者平和協会に送られたメールによって伝えられた内容です。そのメールには、さらに「皆様のご協力がこのIOCからの返事につながったのだと思います。」とも書かれています。つまり広島市としての要請は、これで終わりということのようです。しかし、この内容では、ブラジル被爆者平和協会の人たちの思いを実現したことにはならないのです。

Newsimg021

ですから、「広島の原爆投下時刻とまさに偶然一致したリオオリンピック開会式での黙とう」を実現させるため、広島市に協力を要請していたブラジル被爆者平和協会やその他の団体は、IOCのこの回答では、納得できないと、独自に以下の「究極の偶然」というアピールを全世界に送り、賛同をお願いすることになりました。長いのですが、全文引用します。

 

 究極の偶然 

   ´´リオ オリンピック一分間の黙祷``

南米は 核兵器を所持しない大陸である。その南米大陸で初めて開催されるリオのオリンピック開会時刻は85日午後8時。

 地球の真反対に位置する日本、広島では その同じ時刻 86日朝8時、71年前に人類初めて炸裂した原子爆弾被害者供養の式典が行われる。

世界が注目するオリンピック開会式の午後 815分に 広島の世界平和を永遠に願う1分間の黙祷を共有する事は スポーツを通じて 国境を越えた世界平和維持を掲げるオリンピック精神に共鳴すると考える。

この究極な偶然に 広島、長崎被爆者の世界平和願望を重ね 世界に7000人以上の平和市長参加を誇る 世界平和首長会議会長の松井一實広島市長は インターナシオナルオリンピック委員会会長、及び開催都市、リオデジャネイロ市長宛に オリンピック開会式にて 1分間の黙祷を提案している。次期オリンピック開催国日本、世界で唯一原爆の被害を受けた日本 からの提案である。

全世界の核被害者、戦争戦闘被害者を弔い 核の無い、テロの無い平和への祈りを全世界へ発信したい!

我々は 団体、個人を問わず この提案に賛同を呼び掛ける。

共鳴者は 直接IOCに リオ オリンピック一分間の黙祷´´ 又は ´´ A minute of Silence at Olympic Rio´´ と、賛同の声を下記のメール、FAX、郵便の何れかで送って下さい

世界から 平和への大きなうねりを インターナシオナルオリンピック委員会会長トーマス バッハ氏に届けよう!

 宛名は......... Mr. Thomas Bach

        President of International Olympic Committee E-Mail.............. pressoffice@olympic.org

Fax.................. 41 21 621 6216

Mail address....Chateau de Vidy,1007. Lausanne, Switzerland.

 

提案団体

 Coalizão por um Brasil Livre do Nuclear(xonuclear@uol.com.br)ブラジル反原発運動団体)

 

 Associação Hibakusha Brasil pela Paz(hibakushabrasil@gmail.com)(ブラジル被爆者平和協会)

Subtopic011

 

以上が、ブラジルからの呼びかけです。

ブラジル被爆者平和協会からのメールでは、「わずか一週間の呼びかけですが、世界からたくさんの賛同を得て、手ごたえを感じています」という嬉しい情報が届いています。

もし賛同いただける方は、何らかの行動を起こしてください。リオオリンピック開会式での黙とうを実現させるために。

 

 

[お願い]

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

 

広島ブログ 広島ブログ

2016年7月 1日 (金)

ポツダム市「ヒロシマ・ナガサキ広場」の桜

ポツダム市「ヒロシマ・ナガサキ広場」の桜を植樹した人を知りませんか

 

ドイツ・ポツダム市には、「ヒロシマ・ナガサキ広場」があります。ここには、原爆の犠牲となった広島、長崎の人々を追悼し、核兵器のない世界を祈念する記念碑があります。この記念碑が建立された経緯は、次回少し詳しく報告したいと思います。

Photo_4

 

今ここでちょっと厄介な問題が起きています。

 事の起こりは、昨年の6月、第九を唄うツアー旅行で日本から現地を訪れた合唱団のグループが、記念にということだと思うのですが、桜の木を植樹したのです。

 

 

そこで二つの問題が、起きてしまいました。

 一番の問題は、植樹した場所が、余りにも「記念碑」に近すぎることです。

 

Photo_5

事前にこの記念碑の設置に努力した人たちに、何の説明もないままに進んだ様です。

 

この人たちも、植樹すること自体に反対されているわけではありませんが、記念碑の景観にそぐわない場所への植樹に異論が出るのは当然です。私もちょっと無神経のように思います。




もう一つは、植えられた桜の木の種類です。私たちの多くが桜といえば、ソメイヨシノを想像しますが、この木はちょっと違うようです。

Photo_6

この問題は、「記念碑」をデザインし自らノルウェーから石を運んび作成された石の彫刻家藤原信さんが、強く指摘されていることです。藤原さんは、ノルウェー在住ですが、ドイツなどヨーロッパ各地で石の彫刻づくりを進めたおられます。先日日本に帰国された時お会いしたのですが、その時にも「これはどう見ても桜じゃないですよね。やっぱり桜はソメイヨシノでなければ」と強い口調で言っておられました。最近のメールでも、「ソメイヨシノに見識を持った植木屋さんがあるという事で協力を申し出てくれています。ポツダムでは是非ソメイヨシノにこだわりたく思います」とその思いを伝えておられます。

Bild_2_002

 

いずれの問題も、場所を移し、新しいソメイヨシノに植え替えれば済む話です。

 

 

でもここで厄介なのは、ポツダム市の担当者から言われているようですが、「当事者の了解を得てほしい」ということです。

 

「記念碑設置」の活動を中心的に支えてきたベルリン在住の福本榮雄さんもいろいろと手を尽くして調べられた様ですが、何せツアー旅行で訪れた合唱団ですので、まだたどり着けていません。

 

 

どなたか、どんな情報でもよいのですが、ご存知でしたら教えてください。

 多くの人たちの思いがこもった「ヒロシマ・ナガサキ広場」が、元の姿を取り戻せるように。

 

 

 [お願い]

 

この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。

 

 

広島ブログ 広島ブログ

« 2016年6月 | トップページ | 2016年8月 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31