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2016年4月

2016年4月30日 (土)

LINE句会

LINE俳句会

 

ゴールデンウイークが始まり、多くの皆さんが日常的な生活から離れて命の洗濯をしたり非日常の世界に浸ったりしているようです。私たちもそれに倣って、これまでとは少し趣向を変えてみたいと思います。趣味の世界です。と言っても始めたばかりなのですが、特徴は、ハイテク利用の和の趣です。お付き合い頂ければ幸いです。

 

昨年、ガンで在宅治療を続けていた同級生を励ますために、特に親しい友達何人かとLINEのグループを立ち上げ、朝食の写真とか庭の様子、身の回りに起きる珍事の報告などでかなり盛り上がりました。その仲間の一人が、実は「てつを」という俳号まで持っている「俳人」だということもLINEのやり取りで分りました。彼が自分の句をアップしてくれたからです。

 

それが契機になって、「てつを」氏をお師匠さんに祭り上げ、LINE句会を始めました。と言うと、ちょっと高尚な会のようにも読めますが、もっと実用的な方法で勉強しています。つまり、まず師匠が一句詠みます。私達弟子は、LINEでその句を読んで、「てつを」師匠の講釈を聴いた上で、(と言ってもLINEで読むのですが)、ちょっぴり頭をひねって、その一部を変えて作品を提出します。これが基本的なパターンです。本歌取りと言うと聞こえが良過ぎますが、単純に「真似る」ことから始めたのです。これなら誰でも参加できます。

 

ワイワイガヤガヤ、俳句を中心に新たなコミュニケーションが始まりました。思いもかけない進展で私たちは大いに楽しみ、ちょっとですが、俳句の精神みたいなものにも触れることが出来ました。その上、新聞や雑誌の俳句欄も身近に成りましたので、LINE句会の会員にとっては大きな成果があったと言って良いでしょう。

 

皆さんにも楽しんで頂きたいと思って、以下何句かを御披露させて頂きます。昨年8月31日の師匠の句から始めましょう。

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散歩道咲く朝顔に友の顔                                  (てつを)


                       20150930_095414


散歩道妻の横顔秋桜                                      (イライザ)


これは、朝の散歩を日課にしている私に刺激を受けて「てつを」師匠も散歩を始めた頃の句です。散歩道で見かけた朝顔をスマホで撮り溜めていたのですが、それを送ったことへの師匠からの返信がこの句でした。私は「友」を「妻」に変え、「朝顔」を「秋桜」に変えただけなのですが、何とか形になっていると自画自賛しています。

 

次の句は、師匠が川辺川で出会った家族の逞しさに打たれての句ですが、「辺りには家族連れが遊んでおり、対岸の高い岩の上では子供が2人下の深い淵を眺めている。すると、私と世間話をしていた若いお母さんが川に入り、抜き手を切って対岸に泳ぎだした。対岸に着くと岩をスルスル登り、子供たちと一言二言。いきなりヒラアリ、ドボーン!!水面に顔出すと、手を振って何ごとか叫ぶ。すると、子供が一人二人飛び込んだ。」

 

川遊び率いる母のたくましき                         (てつを)

 

私は、その子どもたちと同じ年頃に戻って、母の水着姿を思い出していました。

 

濃紺の水着鏡の母眩し                                     (イライザ)

 

それから数日後、秋の風が爽やかに吹く日にわれらが友は旅立ちました。

 

秋風にのりて旅立つ君の笑み                          (てつを)

 

ハナミズキ散る日ヒロシマ君偲ぶ                     (イライザ)

 

LINE俳句会は今も続いています。

 

 

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2016年4月29日 (金)

違和感のある日本語 その2

違和感のある日本語 その2

 

日本語も日々変っていますので、何が正しい言い方なのかも変ります。そうした自然な変化も受け入れなくてはならないのは百も承知です。同時に、美しい日本語を残して行きたい、若い人たちにもその美しさを分って貰いたい、それだけではなく使って貰いたい、できればその次の世代にも伝えて欲しいと思う気持もあるのです。これを「年寄りの冷や水」と呼ぶのか、日本語を愛する気持と呼ぶのかも論の分れるところかもしれません。

 

今回、最初に取り上げたいのは、かつてはかなりの違和感があったにもかかわらず、今ではそれほど違和感なく受け止めている表現です。

 

それは「ら」抜きの動詞です。受け身の意味での「殴られる」とか「見詰められる」という意味での「ら」ではなく、可能の意味、つまり「見られる」、「起きられる」、「寝られる」、「食べられる」、「来られる」です。これが従来の正しい使い方です。

 

それが、「ら」抜きになって、「見れる」、「起きれる」、「寝れる」、「食べれる」、「来れる」が広く使われています。初めの頃には、強く反発していたのですが、だんだん慣れてしまって、今ではそれほど違和感なく受け止めています。そして時間のない時には自分でも「来れる」と言ってしまって反省することもあります。

 

その言い訳ですが、「ら」抜きの表現は既に大正時代にもあったようなのです。芥川龍之介や永井荷風が活躍した大正時代だからと、こじ付けて納得したのではありませんが、日本人の感性の中に、このような言い方を許す要素があると考えても良いようです。

 

さて今回俎上に載せるのは、コンビニ用語です。一時は嫌になるほど使われていましたが、コンビニ業界での教育が徹底したせいか、最近はあまり耳にしません。④「1000円からお預かりします」―――800円支払わなくてはならないときに1000円札を出すと、必ずこう言われた時期がありました。具体的なお金のやりり取りは、「私」が1000円を出す。「店員」は1000円を受け取る。ただし、おつりを出さなくてはならないので、1000円がそっくりコンビニの所有にはならない。つまり、1000円は一時的にコンビニが「預かる」という状態である。「店員」はおつり、200円を「私」に渡して、「商取引」は終了する。(買った物は、「私」に渡される。)

 

意味として正確なのは、「1000お預かりします」です。これが店員の言うべき言葉でした。あるいは受け取る800円に注目するなら、「1000から頂きます」でしょう。

 

でも、こんな混乱が生じたのは、漢字力のなさが原因かもしれません。マニュアルには「1000円から頂きます」と書いてあったにもかかわらず、「頂」と「預」が似ているために、それを読み間違えて、「預かり」だと頭の中で受け取ってしまい、それに辻褄を合わせるために「から」と言ってしまったのかもしれません。

 

言葉についての思いを書き始めるとついつい長くなってしまいますが、次に官僚用語で堪えられないものの一つ。しかも、官僚や時には「勝ち組」の印としてその他の人たちも、エリート的に使っている表現です。⑤「小官が既にお答して御座います」。「お答えしています」というところを「御座います」と言い換えることで、権威を付与する意図があるのでしょうか。完全な誤用ですが、それでも、こんなに便利な言葉は「使用し続けて御座います」という感じで一向に減りません。

 

その官庁・官僚についての報道でしばしば現れるのが⑥「しています」「しております」です。「官房長官はその件について「○○である」としています」、という形で使われます。文法的には間違いではありませんが、動詞を特定しないことで、意味がハッキリせず、従ってそれに対する批判が難しくなるという特徴があります。もっともそれが、この表現を使う目的なら納得も行きますが――。

 

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官房長官は、この使い方が正しいと「言明した」「発言した」「述べた」「(それについて)口を濁した」「述懐した」「約束した」「明言した」等、どの動詞を使うのかを特定する段階で、報道の姿勢について反省する機会も生じます。何々と「した」で意味が通じることにして、この言い方を容認してしまうと、もっと酷い形で、こうした曖昧表現を使う為政者たちに免罪符を与えることになってしまうかもしれないと心配しています。


それでも、まだ、今程度の「違和感」で救われた、と考えるべきなのかもしれません。それは、この二つが合わさって、「官房長官は○○が正しいとして御座います」という表現にはまだお目に掛かっていないからなのですが――。

 

次回は、と言ってもライターが増えつつありますし、私がお約束したトピックでまだ取り上げ切れていないものも残っていますので、時間は掛かると思います。が、そのマスコミが警察以上の権威を振りかざしている最近の事例についても触れる積りです。

 

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コメント

言葉って難しいですね。
「コンビニ」は省略語なので,「コンビニエンスストアー」と文書に書くように努めてきましたが,だんだん面倒くさくなってきました(笑)
憲法の変遷ならぬ日本語の変遷でしょうか?

そう言えば、日本語入力システムとして代表的な ATOK は「ら」抜き表現に対する警告を出します。

実は、私は、そのATOKを使う「パソコン」に強い違和感と抵抗がありました。パソコンの前はマイコンという言い方もありましたが、特にパソコンには違和感があり、常にコンピュータと言っていました。

ただ、2歳になる前から、そのパソコンを日常的に使い、ホームページも作っていた小学生の息子が「うちには(コンピュータはあっても)パソコンはない」と思っていたと聞き、それ以来、相手によっては(無理にでも)パソコンというようになりました。

そして、今では殆ど違和感がなくなりました。

{ふぃーゆパパ」様

コメント有難う御座いました。恥ずかしながら私、「コンビニ」については、ずいぶん昔に沈没しています。

「工場長」様

コメント有難う御座いました。

私は「マイコン」に違和感がありました。「パソコン」と共に、音の組み合わせに馴染めませんでした。でも今は、「パソコン」は割りに平気になりました。

でもどうしてもだめなのが「コンピューター」です。工場長さんも使っていらっしゃる「コンピュータ」で、発音も内容も問題はなく、一文字分スベーズが節約できるのに、何故「ー」を入れるのでしょうか。

これについては、「変なカタカナ語」とでも題してまた取り上げたいと思っています。

コンビニって時々、とんでもないものまで「温めはいいですか?」と訊かれます。
1回「じゃあ温めて!」と言ってみたい衝動に駆られます。

「ら抜き」も「1000円からお預かりします」とだいぶ慣れ、麻痺しているのですが
「こちら、ハンバーグになります」と云うのだけは、いまだに気持ちが悪いです。
「じゃあ今はまだひき肉?」と訊き返したくなります。

IT用語の場合は、JISで「3音以上の場合には語尾に長音符号を付けず、2音以下の場合には長音符号を付ける」という規程がある一方で、それとは必ずしも一致しない「外来語の表記に関する内閣告示」がある上に、業界による慣例の違いなどがある場合もあります。

例えば body は自動車業界では「ボデー」、機械業界では「ボディー」、光学機器では「ボディ」と表記されるようで、複雑です。

続編を楽しみにしています。

「⑦パパ」様

コメント有難う御座いました。識者の中には、コンビニやファミレスが日本語破壊の確信犯だみたいなことを言う人もいたような気がします。また、お酒を買うときに、「20歳以上の確認」ボタンを押すのも、よれよれの高齢者でしかない私にとって、屈辱と言うか、恥かしいと言えば良いのか、変な気持です。

そして確かに「なります」も問題です。私も変だなとずっと思ってきました。

ただ、「おつりは105円になります」のような場合には、違和感がなかったので、不思議にも思っていました。

今日、駿河台大学の本多啓氏による「ニナリマス敬語について」を読んで、彼の仮説通りなのかなとも思えました。と言っても、多くの場合、違和感があるのが自然だとは思います。

URLは、http://www.surugadai.ac.jp/sogo/media/bulletin/Ronso31/Ronso31honda.pdf
です。

「工場長」様

何時も私たちでは手の届かないレベルの知見・情報を共有して下さり有難う御座います。

外国語を日本語に移す場合、表記も大切なのですが、音も大切だと思います。私の違和感の多くは、外国語の音を日本語でどう発音し、どう表記するかの間に生じるズレです。

「音」として考えると、「ボデー」と「ボディー」「ボディ」の三つにあまり違いがないようにも思えるのですが、どうでしょうか。

「そのように認識してございます」というような〝ございます〟用法を初めて聞いたのは、お役人の答弁においてでした。
次から次へとお役人さんが登場して、それぞれの報告をする場面では、もうそればっかりが耳について、話の中身が全く頭に入ってこない。
お役所言葉なのかと思っていたら、不祥事のお詫びをする企業の会見でも頻出。
その違和感に気を取られて内容がわからなかったとは言いませんが、見せかけの(誤った)丁寧表現で煙に巻かず、お役人にしても、企業の説明担当者にしても、もっとわかりやすい話をしてもらいたいと思いましてございます(笑)。

「いぎんず」様

コメント有難う御座いました。

おっしゃる通りです。最後の「もっとわかりやすい話をしてもらいたいと思いましてございます(笑)」が効いてます。

2016年4月28日 (木)

森瀧市郎先生と座り込み

森瀧市郎先生と座り込み

 

今日428日は、私の最も尊敬する故森瀧市郎先生の115回目の誕生日である。

 

広島県原水禁は、1986年に旧ソ連・チェルノヴィリで原発事故が発生して以来30年間、4月26日をチェルノブイリディ―として様々な行動を行ってきた。

 

30年目の節目となった今年も、一昨日(4月26日)、従来の早朝街宣(バスセンター前)、昼休みの慰霊碑前座り込み(30分:75名参加)に合わせ午後6時から講演会を行い、チェルノブイリを忘れず、脱原発運動を強めることを確認した。

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チェルノブイリ原発事故30周年の座り込み

 

ところで、私が、慰霊碑前の座り込み行動に参加すると思い出すのが、背筋をまっすぐ伸ばして泰然とした姿で座り込んでおられた森瀧市郎先生の姿である。

 

今日は、森瀧先生と「座り込み」について考えてみたい。

 

今も続いているが、広島では「核実験」が行われると、慰霊碑前で抗議の座り込みが行われる。連続しての座り込み行動は、1973年フランスの核実験に抗議して、慰霊碑前で座り込みをして以来である。もちろんいかなる国の核実験であっても。その一番前には必ず、森瀧先生の凛とした姿があった。私の原水禁運動のスタートとなったのも、この座り込み行動である。

 

森瀧先生の核実験抗議の座り込みは、これが最初ではなかった。森瀧先生の言葉を借りれば、「その前史」がある。1957年と1962年4月に行われた座り込みである。

 

その2度目となった1962年の座り込みのある日、座り込んでいる前を行ったり来たりしていた小さな女の子がつぶやいた「座わっとっちゃ止められはすまいでえ」という問いに答えて森瀧先生が導き出されたのが、「精神的原子の連鎖反応が 物質的原子の連鎖反応に かたねばならぬ」という悟りである。被爆者、労働者、宗教者、学生、一般市民、老若男女と座り込みの輪が日々に広がり、参加者が増えていくという森瀧先生の実体験から、この理念は生み出された。

 

「精神的原子の連鎖反応」は、1973年から始まった連続座り込み行動でも現れた。広島平和公園の慰霊碑前から始まった座り込みの輪は、県庁前へ、広島駅前へ、市内各所へ、県内に、そして県外へと次々と広がっていったのである。私たちは、実体験を通して森瀧先生の言葉を学んだ。まさに連鎖反応として。

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森瀧先生の最後の座り込みとタスキなど

 

座り込み行動には、核という巨大に暴力を否定し、それに対抗する平和運動は、あくまで非暴力行動でなければならないという森瀧先生の一貫した理念が最もはっきりとあらわされている。

 

「なぜ慰霊碑に背を向けて座るのですか」と問われたことがある。それは、この座り込みは、原爆の犠牲となって亡くなった人たちとともに、抗議すると強い思いがあるからである。だから1時間(今は30分)を無言の抗議で貫いている。

 

また座り込み行動は、「継続は力」ということも教えたくれた。

 

1996年、包括的核実験禁止条約(CTBT)が国連で採択された時、その報告を兼ねた座り込みは、くしくも500回という節目だった。この日だけは、参加者が次々とそれぞれの思いをアピールした。自分たちの行動に確信を持つ発言が相次いだ。粘り強く運動を続けてきたからこそである。「継続は力」ということをだれもが実感することができた。

 

森瀧先生の最後の座り込みは、確か1993年7月20日の「核実験抗議20周年記念座込み」のはずだ。先生が生涯を終えられる(1994年1月25日)わずか半年前である。

 

哲学者であると同時に、常に自らが先頭に立って行動する人でもあったことを忘れることはできない。私が感銘を受け、尊敬する所以である。もちろん尊敬する所以はこのことだけではない。そのことは次の機会に触れることにする。

 

森瀧先生の一貫した姿勢をま近かで学ぶことができたことが、私がぶれることなく原水禁運動を続け、生涯原水禁運動を続けたいと決意する原点となっている。

 

「森瀧市郎先生お別れ会」で会場の設営を任された私は、「これしかない」と思い、慰霊碑をかたどった祭壇を作った。そこに森瀧先生の座り込みとともにあった、「核実験反対」と書かれたタスキ、カバン、そして奥様が作られた座布団をお供えし、最後のお別れをしたことも思い出す。

 

金子哲夫 (広島県原水禁代表委員・元衆議院議員)

 

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2016年4月27日 (水)

4月26日を思う

426日は、チェルノブイリの原発事故から30周年でした。世界的に様々なイベントがありました。広島でも座り込みや講演会等の行事があったのですが、それについては明日の報告をお読み頂ければと思いますが、同時に風化の危機に曝されていることも事実です。今日は、ベルリンからドイツでさえ風化を心配しなくてはならない状況があることを「ふくもとまさお」さんが報告して下さいました。

 

ふくもとさんは、ベルリンやポツダムに「ヒロシマ広場」を設置するために多大な御尽力をされた方で、ベルリンを中心に現在も活発に平和や環境、原発の問題に取り組み活動されています。

 

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ポツダム宣言の出されたポツダム市の「ヒロシマ広場」です。背景の建物は、米、英、ソの代表が会談を開いたトルーマン・ハウスです。

 

 

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4月26日を思う

 

今から30年前の426日、ぼくは東ドイツの首都ベルリンで働いていました。その数日後、西側の報道によってチェルノブイリで大きな原発事故があったことを知ります。5月1日をはじめとして、ベルリンには2回放射性物質を含んだ黒い汚染雲が飛散しています。西ドイツでは、子どもを砂場で遊ばせるな、牛乳を飲ませるななどの警告が流れ、これまで体験したことのない原発の大惨事に、社会はほとんどパニック状態でした。

 

しかし東ドイツでは、事故情報が一切流れません。普段と変わらない状況でした。まもなくして、西ドイツに輸出するために栽培されたレタスが東ドイツの学校給食に出るようになりました。汚染されている可能性があるので、西ドイツで受け取ってもらえなかったからです。東ドイツ市民にとっては、普段ほとんど食べることのできない新鮮な野菜。それが、原発事故で食べることができるようになったのでした。

 

このチェルノブイリ事故をきっかけに、東ドイツ社会が変化していきます。事故情報を隠蔽してきた独裁国家に対して、市民の中に不信が生まれていきました。国のいっていることは正しくない。市民には正確な情報は伝えられない。市民の将来を国にだけ任せておくわけにはいかない。市民がこう気づきはじめます。この市民の意識変化が、東ドイツ社会の一つの大きな転機になりました。

 

それが、ベルリンの壁の崩壊からソ連の崩壊、冷戦終結へと歴史を変えた一つの大きな基点となったのでした。チェルノブイリ事故はさらに、ドイツが脱原発を決める大きな要因ともなりました。

 

こうして、歴史は変わったのです。しかしドイツの南部バイエルン州を中心として、ドイツでは今もチェルノブイリ事故の汚染が続いています。バイエルン州の森では、今も1キログラム当たり40,000から60,000ベクレルの土壌汚染があると推定されています。ドイツで市販されているキノコの一部やイノシシの肉、ブルーベリージャムなどの食品は、今も汚染されています。チェルノブイリ事故は、まだ終わっていないのです。

 

そのドイツにおいても、事故から30年経った現在、一般市民の中では事故のことは忘れられようとしています。今もまだ食の安全が回復していないこと、ドイツにおいてさえも健康影響があったことは、ほとんど知られていません。

 

チェルノブイリ事故の25年後、日本の東電福島第一原発で再び原発の大惨事が起こりました。事故直後、ドイツではたくさんの市民が反原発デモに集まります。しかし現在、反原発デモをしてももう市民はあまり集まらなくなってしまいました。

 

でも、脱原発で原発問題が片付いてしまったわけではありません。廃炉、核のゴミの最終処分の問題を考えると、原発の問題はまだ数万年も、数十万年も続きます。

 

世界の状況は、どうでしょう。世界各地ではそれにも関わらず、原発の建設計画が持ち上がっています。チェルノブイリ事故どころか、5年前の福島第一原発事故さえも忘れたかのように。

 

ぼくたちは今、チェルノブイリ事故をはじめとして原発事故の記憶を風化させてはなりません。原発事故の悲惨さとなぜ原発が必要ないのかを、しっかりと若い人たちに伝えていかなければなりません。過去の過ちを二度と繰り返さないために。

 

さらにぼくたちは今、人にやさしく、環境にやさしい自然エネルギーに投資していかなければなりません。自然エネルギーの普及に必要な資金を、ぼくたち原発を利用してきた世代が負担します。原発後に残った核のゴミを処分する負担を負わなければならない次の世代のために。

 

ぼくたちが今自然エネルギーによって原発のない社会造りをはじめないことには、負の遺産を次の世代に押し付けていくだけになってしまいます。

 

ベルリンから、ふくもとまさお

 

 

用語の解説(朝日新聞DIGITALによる)

[ベクレル]  

ベクレルは放射能の量を表す単位。原子核が1秒間に1回崩壊して放射線を出す場合を1ベクレルという。放射性物質の濃度は「1キロあたり何ベクレル」などと示す。

 

[食品衛生法上の暫定規制値] 

放射性物質で汚染された食品の販売を規制する基準。国内では、水や牛 乳、野菜などに含まれる放射性物質の量の上限が決められている。規制値は放射性ヨウ素で飲料水・牛乳1キロあたり300ベクレル、野菜類が同2千ベクレル。放射性セシウムで飲料水・牛乳200ベクレル、野菜類・穀類・肉など500ベクレル

 

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コメント

当時、私もドイツにいました。食品は相当に制限され、牛乳などは日本に帰国するまで何ヶ月も飲めませんでした。
福島の原発が爆発した時には東京にいました。東京と福島の距離は、チェルノブイリとドイツに比べると十分の一くらい、まさに間近です。ところが、当時のヨーロッパに比べると、日本ではあまりに緊張感がなく驚きました。
暫定基準値も酷いものです。ドイツの水道の基準は0.5ベクレル(Bq/L)ですが、日本では爆発前でも10ベクレル、それが一気に300ベクレルになりました。
本来なら医療放射線天国と言われる日本では、他国より低い基準であるべきですが、何もかもが緩いのです。日本国政府はヒロシマやナガサキのある日本人は放射線に強いとでも言うのでしょうか。
日本でもやっと電力自由化も一歩ですが進みました。多くの人が自然エネルギーによる発電を選び、状況を変える責任があるように思います。

コメントありがとうございます。
実は現在、食品の汚染基準値はドイツのほうが俄然高いのです。一般食品の基準値は日本が100ベクレル/kg、ドイツが600ベクレル/kgです。牛乳も日本が50ベクレル/kg、ドイツが370ベクレル/kgです。ドイツの基準値はヨーロッパの基準値です。
ドイツのほうが安全だとして、3.11後にドイツにいらした方もいらっしゃいますが、現実はそうでもないのです。
CTスキャンに関しては、こどもの頭部CTはドイツではしません。大人でも避けるほうが多いですね。
電力全面自由化によって、市民は電源を自分で選択できる権利を得ました。それによってまだまだですが、日本でも市民が電力に関して消費者主権を持てるようになりました。特に日本の自由化では、グリーン電力販売業者がかなり不利になると見られますので、市民がしっかり支えていきたいと思います。

横から失礼します。ドイツの場合、放射線防護に対する基準は複雑で、確かにドイツ政府の基準値=ヨーロッパの基準値が原則ですが、実際には一般的な基準値と許容される最大値と事故により発動されるものと、運営する団体で実際に適用している基準が違うことの多く、海外で起きた事故の場合は輸入元によっても基準が変わります。石川さんが「水道」として例示したものはドイツ水道協会の基準だと思いますが、このように実際の運用基準は法的な基準とは桁違いに低いのが一般的です。それから医療分野ではPET-CTなどのように被曝量の多い検査が健康診断目的で使われるようなこともありません。

チェルノブイリ事故についていいますと、事故当時はまだ食品の基準値がなく、事故後急遽いろいろな基準値が出ていました。それから、(西)ドイツの場合は自治体毎に基準値を出したりして、その基準値に大きな差があったので、市民を混乱させてしまいました。
現在欧州ではEUROATOMの枠内で基準値を統一しています。3.11後は日本からの輸入食品に関しては6月末までの期限付きでセシウムの基準値が一般食品で1250ベクレル/kg、飲料が1000ベクレル/kgに引き上げられました。これは、原発事故後基準値を上げないと食品供給が減ることを考慮して、チェルノブイリ原発事故後に規定されたものです。チェルノブイリ事故後発の適用でした。しかし、ドイツ政府などの反対で取り下げられています。
なお日本が基準値を引き下げた時は、日本からの輸入食品に関しても日本の基準値に合わせて引き下げています。
チェルノブイリの教訓からいいますと、ドイツではその後環境モニタリングの枠内で、州毎に食品や水、土壌のベータ核種(ストロンチウム90など)やアルファ核種(プルトニウム239など)の測定も行なわれています。
ウクライナやベラルーシは、チェルノブイリ事故数年後から食品のストロンチウム90の基準値を規定していますね。
残っているドイツの食品汚染データを見ると、セシウム137とストロンチウム90の半減期にそれほど差がないのに、食品内の汚染を見ると、年月が経っても、ストロンチウム90の減り方のほうが鈍いのですね。
ストロンチウム90は骨にいくだけに要注意なんですがね。日本では注意されていないのが気になります。

2016年4月26日 (火)

世界は平和になっている

世界は平和になっている

 

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若い頃、デートの待ち合わせ場所は本屋でした。喫茶店だと時間が気になりますし、タバコを吸う人の方が多かったので、そんな中で長い時間を過ごすのは苦痛でした。忠犬ハチ公前というような選択肢もありましたが、雨が降ると困りますし、余りにも多くの人がいて、「快適」に待つという環境ではありませんでした。

 

その点、本屋は全ての面で理想的でした。静かな場所でタバコを吸う人はいません。雨が降っても大丈夫だし長時間待っても退屈もしませんし、苦痛でもありません。ですから、本屋を選ぶという判断は正解でした。

 

しかしそれを最も喜んだのは、デートの相手だったと思います。反省を込めて告白すると、それは私が遅刻の常習犯だったからです。デートの相手はほとんどの場合本の好きな人でしたので、私を待つ間、気になる本を探したり、面白そうな本の立ち読みをすることで、「またあいつが遅刻して怪しからん」という気持も少しは和らぎ、私はそれほど不興を買うことなく済んだからです。

 

でも本当のところ、遅刻については反省し、その後しっかり改善することが出来たのですが、やはり、本のある場所、本に囲まれていることが一番気持が安らいだからだったと思います。それほど本が好きで沢山の本を読んできましたので、記憶に残る本もたくさんあります。そのほとんどは今でも大切に取ってありますので、保管のためのスペースもかなり必要なのですが、数えられないほど多くの大切な本の中から、私の一押しの本を何冊か御紹介したいと思います。

 

一言で表現すると「書評」に分類されるのかもしれませんが、気持としてはもう少し複雑です。「この本が素晴らしいから読みなさい」という上から目線の紹介ではありません。まだ初々しい青年が、初めて両親に好きな人の紹介をするといった感じです。自分にとってはこんなに素晴らしい出会いはないのだけれども、そしてそれを両親には分って貰えるはずだ、とは思っていても、本当に彼女の良さや魅力を分ってくれるだろうか、という一抹の不安がありながらの紹介です。

 

まず最初に御紹介したいのは、ハーバード大学心理学科のスティーブン・ピンカー教授による『The Better Angels of Our Nature』です。副題は、「なぜ人類は非暴力的になってきたのか」で、2011年に出版され、アメリカを中心に世界的に注目され議論を呼んだ800ページ以上の大著です。

日本語訳は幾島幸子、塩原通緒のお二人の手になるもので、青土社から出版されています。日本語のタイトルからは、人類が何世紀何十宇世紀にわたり人間活動のあらゆる側面において、非暴力的的になってきたという趣旨は読み取れませんが、これほどの大冊を日本語で読めるというメリットは計り知れません。

 

原著のタイトルにも大きな意味があるので、それから説明しましょう。「The Better Angels of Our Nature」を直訳すると、「私たちの中にある、より良い天使」です。キリスト教的には「天使」の意味は誰にでも分りますし、比較級が普通に使われる英語表現としては問題がないのですが、宗教から離れて日本語風に意訳すると、「私たちの中の最善のもの」 くらいが相応しいのではないかと思います。

 

このフレーズが大切なのは、これがアメリカ第16代大統領である、リンカーンの第一次就任演説の最後の言葉だからです。リンカーンは南北戦争を回避しようと最大限の努力をしましたが、その際、彼が力と頼んだのが、アメリカ人一人の一人の持つこの「The Better Angels of Our Nature」だったのです。戦争が始まった後もリンカーンは、「南」と「北」の和解は可能であり、それを可能にするのは「The Better Angels of Our Nature」だと信じていました。

 

このフレーズは最近のアメリカ、特に「インテリ」の間で良く使われています。それはリンカーンの没後150年経った2013年にリンカーンにまつわる多くの著述が現れ、リンカーンと現代との意味についても多くの識者が取り上げたからなのですが、もう一つ、リンカーンが体現した多くの価値は、現代にも役立つ真実に立脚していたからなのではないかと思います。

 

簡単な紹介をと思っていたのですが、文字にするとそれなりの量になりました。内容については次回に回したいと思います。

 

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コメント

色々な統計データをみる限り社会は、より安全に平和になっていることが示されています。
ところがマスメディアをみていると、世の中は犯罪も紛争も自然災害も増えているようにしか思えません。
歴史の見方が間違っているのでしょうか、それともマスコミの印象操作なのでしょうか。

「ドクター」様

コメント有り難う御座います。

マスコミは「酔っ払いの鍵探し」的な視野で物事を観察し、報道する傾向があるのではないでしょうか。

「酔っぱらいの鍵探し」とは、ある夜、酔っ払いが街灯の下の地面を這いつくばって何かを探している。それを見た警官が、「何を探しているのか」と問 うと、「鍵を探している」という答えが返ってきた。「見付からないのか」「うん、見付からない」、とのやり取りの後、警官は念のため、「どこで落としたの か覚えているか」と聞くと、酔っ払いは「あっちの方」と暗がりを指す。「落としたところを探さないと見付からないだろう」という警官に対して、「でも、 あっちは暗くて何も見えないじゃないか」と酔っぱらいは答えた。

 

2016年4月25日 (月)

予科練平和記念館 (2)

予科練平和記念館 (2)

 

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予科練平和記念館

 一昨日の423日、予科練平和記念館で開かれた「平和のおはなし会」は、今回で4回目だそうですが、予科練平和記念館も主催者として名を連ねています。「予科練平和記念館」という名称中の「平和」が単にレトリックではなく、平和関連の事業にも積極的に関わり、かつ、戦争や平和についての勉強や議論が自由に行える場を提供するという記念館の心意気も感じることが出来ました。


この会の後、坪田館長さんに案内して頂いて館内を見学しました。館内は写真撮影禁止ですが、例外として一枚、「平和のおはなし会」のタイトルを御覧下さい。 

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 館内は、予科練の「七つボタン」に因んで、七つの部屋があり、それぞれ別のテーマに焦点を合わせての展示が行われています。「入隊」「訓練」「心情」「飛翔」「交流」「窮迫」「特攻」の七つです。

 

「入隊」では、飛行機や軍隊に憧れた子どもたちが難しい試験に合格して、郷土の誇りを背負って入隊してきた歴史が描かれています。「訓練」では分刻みのスケジュールで猛特訓を受け、心身共に成長する練習生たちの日課とその内容が紹介されています。「心情」では、親元を離れ、寂しさを隠して、でもまだ甘えたい気持も抑えられない様子なども窺い知れる手紙や、死を前にした遺書などを読むことができます。

 

子どもたちは、予科練を卒業して、「予科練習生」から「練習生」になって、飛行機に乗る操縦員として、あるいは通信や航法を担当する偵察員としての、本格的に専門的な訓練を受けることになるのですが、そのプロセスが「飛翔」という部屋で展示されています。

 

「月月火水木金金」という言葉は御存知だと思いますが、土曜も日曜もない訓練の日々を表す言葉です。でも実際には、日曜日は休みで、街に出ることも許され、馴染みの食堂や阿見町の人々との交流があった様子が、「交流」で展示されています。

 

「窮迫」では、1945610日の日曜日の、土浦海軍航空隊そして阿見町を目標にした空襲について、当時その場で空襲を体験した人たちの言葉で伝えています。そして「特攻」では、特攻隊の歴史と予科練との関係を映像とナレーションで見せてくれます。

 

短時間でしたが、予科練平和記念館の伝えようとしていることは、概略理解できました。「涙」なしには見続けることのできない、そして同時に感動的な展示です。このような形で、若者たちに寄り添って、彼らがどのような生活を送り、どのようなことを考え悩み、笑い歌い頑張って成長していったのかを示す施設も確かに、歴史を理解する上で必要であり、重要だと思います。

 

しかし、この記念館を見て私の心に一番残ったのは、予科練習生や練習生たちが、子どもであるという事実です。1943年には、採用年齢が改定されて15歳以上20歳未満になりましたが、圧倒的に多かったのは、ティーン・エイジャー、つまり子どもたちです。

 

特に、まだ子どもたちである予科練出身者がその中核を担った特攻については、多くの疑問が残ります。まだ成人する前の子どもたちに、これほど過酷な運命を背負わせることが許されるのか、何故、そんな結末を避けることが出来なかったのか、その答までこの記念館に期待すべきなのではないのかもしれません。でも、未来の世代に同じ過ちを繰り返して欲しくないと私たちが願うのであれば、日本国内のどこかに、その答が分り易い形で示されている「場」も必要なのではないかと思います。

 

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予科練平和記念館の開館5周年記念の実寸のゼロ戦モデル

 

「特攻」と名付けられた部屋の壁に刻み込まれた白い丸は、一つ一つが特攻で亡くなった若者一人を象徴しているのですが、全部で19,000あるのだそうです。

 

「体当たり特攻」と呼ぶ人もいる作戦は、1944年の10月に始められました。その結果、これほど多くの子どもたちの命が失われた作戦の採用時に、まず、これほどの犠牲を生むこと、しかもその軍事的効果がほとんど期待できないことを客観的に把握した上で、唯一の解決策は戦争を止めることだという判断が何故できなかったのでしょうか。

 

この疑問に対して、当時の為政者、特に軍部を組織論的に分析して、別の視点から答えているのが『失敗の本質』です。これは、6名の研究者(戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎)による共著で、初版は1984年にダイヤモンド社(ISBN 4478370133)より刊行、1991年に中公文庫(ISBN 978-4122018334)で再刊されています。

 

最後に、特攻隊について肯定的に捉えたフィクションもノンフィクションも、映画にもなった『永遠のゼロ』をはじめ多くありますので、批判的な立場からの分析をまとめた『つらい真実――虚構の特攻隊神話』(小沢郁郎著、1983年に同成社刊)を一冊だけ紹介しておきます。

 

 

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2016年4月24日 (日)

被爆者はどこにいても被爆者

被爆者はどこにいても被爆者

郭貴勲・回想録

 

思いもかけない本を贈呈していただいた。「お世話になった金子さんには必ず渡してください」の伝言を添えて。

 

                   Photo_3                          郭貴勲・回想録

 

韓国人被爆者・郭貴勲さん(現在91歳)が、2013年に著された「私は、韓国人被爆者だ」を翻訳し、郭さん自身が日本語で加筆・修正された「被爆者はどこにいても被爆者―郭貴君・回想録」である。

 

在外被爆者問題に関心を持つ人ならだれもが知っている郭貴勲さんが、自らの人生を綴られたものである。

 

まだ本を全部は読んでいないので、その感想を語ることはできない。

しかし、早く紹介したいので、本に同封された「贈呈のご挨拶」の中からいくつか引用してみたい。

「韓国被爆者のみならず海外に住み日系人被爆者への援護を実現させた郭貴勲さん」

「日本が植民地支配した朝鮮半島から徴兵され1945年8月6日広島で被爆し、大やけどを負った末に助かった郭さん」

「帰国後、教育者の道を歩み、1967年の韓国原爆被爆者協会の創設に参画、日韓両政府から置き去りにされた同胞の救援につとめた郭さん」

「半生を懸けた取り組みは、『被爆者はどこにいても被爆者』と自ら原告となって日本の司法に訴え2002年被爆者援護法の適用を勝ち取った郭さん」

でもその真骨頂は、「なぜ原爆に会わなければならなかったのか、どんな思いで生きてきたのか」「日本と韓国の和解にはお互い何が大切なのか」が率直な言葉で綴られていることである。

「未来に向けて忘れてはならない日韓の歴史が記録されている」

 

この挨拶文を読むだけで郭さんの思いが伝わってくる。

 

私と郭さんの出会いは、在外被爆者にも援護法適用を求めた郭貴勲さんの裁判を支援する活動であった。大阪地裁、大阪高裁で判決が出されたその時期、国会内で「在外被爆者に援護法適用を実現させる議員懇談会」を作り、その事務局長として一緒のがんばり、上告断念を勝ち取ってことは今でも忘れられない。というより、私の短い議員活動の中でも、もっとも「頑張ったな」と言える活動の一つであるだけに郭貴勲さんとの出会いは忘れることができない。

  

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「被爆者はどこにいても被爆者」

郭貴勲さんの名言である。どれだけ多くの在外被爆者が救われたことか。

 

目次を見ると私の知らない郭さんの姿が次々と現れる。

 

これからじっくりと時間をかけて読みたいと思う。

 

郭貴勲さん、ありがとうございます。

 

またこの夏も元気な姿で、原水禁大会に参加してください。

 

お会いするのが楽しみです。

 

金子哲夫 (広島県原水禁代表委員・元衆議院議院)


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2016年4月23日 (土)

予科練平和記念館

 

予科練平和記念館

 

オバマ大統領の来広についてまだ続きがあるのですが、もう少し時間を掛けて整理をしたいと思いますので、今日は日記的な報告です。

 

実は今日、423日に、予科練平和記念館で講演します。茨城県の土浦の近くにある阿見町にある施設ですが、昔、この町には「霞ヶ浦海軍航空隊」の本拠があり、その一部として「海軍予科練集部」が設置されました。その略称が「予科練」です。


 

主催は、予科練平和記念館、茨城県生活協同組合連合会ですが、イベントは「平和のおはなし会」というソフトな名称です。この施設の写真は今日、何枚か撮って近くアップしますが、昨夜、関係者の皆さんと夕食を共にしながら話題になったことを簡単に報告しておきたいと思います。「ところ変われば品変わる」ということわざ通り、普段はそれなりに理解していると思いこんでいる事柄でも、違う土地では別の視点から見られるからなのだと思いますが、フレッシュな気持で聞くことができました。

 

最初に話題になったのは、茨城に住む二人の被爆者の「半生」を伝える紙芝居を茨城生協連が作り、一年間でほぼ1000もの人に見て貰ったという活動です。特に皆さんが強調していたのが、「半生」です。被爆体験が貴重であることは言を俟ちませんが、それから後の被爆者の生き方が素晴らしいという認識の下、若い世代のために「半生」を語って貰う、しかも、紙芝居という媒体を通して視覚的な伝達を可能にし、紙芝居を見るという距離にも意味を持たせての成果です。二人の被爆者のお一人、茂木貞夫さんはとても82歳とは思えないくらいお元気で、毎日、平和運動の拠点と生協の事務所をかけ持ちにして、ボランティア活動を続けています。もうお一人の高橋久子さんのお話は今日聞けるようですので、また報告します。

 

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二つ目の話題は安倍内閣の「一億総活躍社会」です。茨城の生協連では、「一億」にうさん臭さを感じる組合員が多く、消費者庁からの要請を蹴って、このテーマを取り上げないことにしたのだそうです。立派な対応だと思います。

 

私が安倍内閣のPR作戦としてのこの言葉を聞いてすぐに頭に浮かんだのは、「進め一億火の玉だ」「一億玉砕」「一億総懺悔」です。そしてマスコミもそれなりには取り上げていましたので、こうした表現についての理解は広まっていると思い込んでいたのですが、そうではないというのが昨夜分った実情でした。

 

「一億」に違和感を持った茨城の組合員たちも、大政翼賛会のスローガンとしての「進め一億火の玉だ」までは知らないようなのです。「一億玉砕」についても同じです。しかし、「一億」という単位で日本国民を「単一化」定、戦争への道をたどった歴史についての理解はまだまだだということなのです。

 

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私がこうした言葉やその背景を知っているのは、戦前・戦中の直接体験があるからではありません。終戦時に2歳半だったのですからそれは不可能です。でも戦後のかなりの間、こうした表現は人口に膾炙されていましたしその意味も明確に伝わっていました。しかし、このように時の経過とともに忘れ去られて行く歴史的な事実について、もっときちんと伝えて行く義務を持つのは、教育界であり、マスコミだと思います。その両者とも安倍政権に絡め取られて本来の義務を果たしていない、果したくても果たせない今という時代の異常さに改めて、怒りを感じたことも正直に報告しておきます。

 

三つ目は、外国では「War Museum」つまり「戦争博物館」と呼ばれる、しかし日本国内では往々にして「平和」が付けられている施設についてです。予科練平和記念館、呉にあるのは、「平和」は付いていませんが「大和ミュージアム」、「知覧特攻平和会館」等です。

 

こうした施設を訪れた多くの人の反応は、「涙なしには見られなかった」「感動した」といった肯定的なものがほとんどです。阿見町の予科練平和会館についても同じ反応が圧倒的に多いのだそうです。

 

私の父は軍人でしたし、父を尊敬していましたので、幼い時には、戦争に負けて軍人になれなかったことがとても残念だと思っていた時期がありました。ですから、「涙」も「感動」も良く分ります。でも、そんな純粋な若者の心を弄び、死に追い遣った、時の為政者たち軍国主義者たちに対する「怒り」は、このような施設を見学することで生まれるのでしょうか。

 

若者の命を蔑ろにする施策はもっとも忌むべきものですし、そのような施策を展開した権力者たちに「怒り」を感じ、そのような轍を二度と踏まないという決意の生まれる施設こそ必要なのではないでしょうか。そんな気持ちが生まれるような展示はなされているのでしょうか。その正反対の展示がなされてはいないのでしょうか。

 

一人の人間が「感動した」と言っているときに、それに異を挟むことは礼を失しているという考え方もあります。同時に、過去の「涙」から教訓を得て、同じ「涙」を流させないように努力する義務も私たちにはあるのではないでしょうか。この点についてはさらに丁寧に論じたいと思います。

 

そんな疑問は全くの杞憂だ、どの施設もしっかり平和への意思を作るための展示や企画が行われている、あなたの不明を恥じるべきだ、という反論の出てくることを期待しています。


 

 

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2016年4月22日 (金)

現地でしか見られない説明文

419日の熊本支援街頭募金では、短時間でしたが、善意の合計は12,244円でした。早速中国新聞社会事業団を通じて、被災地のお役に立てていただく手続きを取りました。中学生から高齢者まで多くの皆さん、御協力有難う御座いました。

 

     
 


現地でしか見られない説明文

「誤った国策」―国立広島原爆死没者追悼平和祈念館―

 

今日の中国新聞の32面に「外国人入館 最多33万人」の見出しで、被爆70周年を迎えた2015年度の原爆資料館の入館者が2年ぶりに増加したことが報道されている。その記事の後段では、同じ平和記念公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の入館者も増加したと報道されている。

 

早速平和公園を訪れてみた。雨の中、目につくのは外国人観光客と修学旅行生の姿ばかり。

 

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雨の平和公園

 

私が、平和公園を訪れたのは、このブログの17日のコメントで紹介した国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(http://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/index.php)の説明文を見るため。 

 

地下1階から地下2階に設けられた「平和祈念・死没者追悼空間」につながるスロープの右側の壁に6枚に分割された銘板がはめ込まれている。

 

                      New

6枚目の銘板

 

その最後の6枚目の銘板には、次のように書かれている。

 

ここに、原爆で亡くなった人々を心から追悼するとともに、誤った国策により犠牲となった多くの人々に思いを致しながら、その惨禍を二度と繰り返すことがないよう、後代に語り継ぎ、広く内外に伝え、一日も早く核兵器のない平和な世界を築くことを誓います。

 

「誤った国策」が明記されている。

 

当時、厚生労働省の「祈念館開設準備検討会」(座長・森亘日本医学会会長、9人)では、「誤った国策」は、「主観的すぎる」として削除する修正案が検討された。しかし、「国の戦争責任」を重く考える広島の多くの被爆者の粘り強い努力によってこの文言が入ったことを、忘れることはできない。

 

もう一つ、被爆者たちが努力したのが、3枚目の銘板に書かれた次の言葉を入れることであった。

 

原爆が投下された時、広島には35万人前後の人々がいたと推定されます。これらの人々には、当時日本の植民地であった朝鮮半島の出身者が多数あり、また、中国出身者も含まれており、その中には半強制的に徴用された人々もいました。中国や東南アジアなどの留学生、アメリカ軍捕虜も含まれていました。

 

と、植民地支配、強制的徴用などの歴史についても、記載されている。過去の歴史を修正しようとする動きが強まっている今、このことも非常に重要なことだと思っている。

 

これらの銘板は、壁の切込みの中にはめられているため、見逃してしまいそうだが、ぜひこの追悼祈念館を訪れた際には、気を付けてみてほしい。

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注意しないと見逃してしまう説明文

 

銘板に刻まれた説明文は、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館ホームページでも、受付におかれた案内の資料にも記載されていない。全文を読もうとすれば、現地を訪れるしかない。残念に思うのは、私だけだろうか。

 

銘文に広島の、被爆者の思いを入れるために努力した人たちの一人に、故近藤幸四郎さん(広島県被爆者団他連絡会議事務局長)がいた。近藤さんは、私に被爆者問題の本質を一から教えてくれた大先輩でもある。

 

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館には、原爆死没者の遺影が、登録され、誰でも見ることができるようになっているので、見学の最後に近藤さんの遺影を検索して、久しぶりの対面をした。

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故近藤幸四郎さん

 

金子哲夫 (広島県原水禁代表委員・元衆議院議員)


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2016年4月21日 (木)

大統領の謝罪 No. 2 (「和解」の力 その4)

大統領の謝罪 No. 2

(「和解」の力 その4)

 

オバマ大統領が広島を訪問することに決めた、という前提で論を進めます。

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市長「是非、広島に来て下さい」 大統領「行きたいです」

 

御本人が直接「謝罪のために広島に来たのではない」とは言わないと思いますが、スポークスマン等を通して、「謝罪」を否定するメッセージを発信することもケリー長官の時と同じように行われるはずです。

 

それでも、「行ったこと自体が謝罪だ。怪しからん。」という人たちまで納得させることは難しいかもしれません。後で触れますが、それにも対応策はあります。しかし、それとは全く別次元のもう一つの障害があります。

それは、外務省です。ウィキリークスによると、2009年にオバマ大統領が広島訪問を希望しその旨外務省に伝えたところ、「時期尚早」という理由で、被爆者にも広島市長にも相談せずに、薮中外務次官が大統領の希望を蹴っています。今回は、アメリカの有力紙も応援し、ケリー長官の成功例 もありますので、外務省がそれほど理不尽な対応はしないと思いますが、ここはいつでも注意しなくてはならない存在です。

 

こうした点もクリアーできて、実際にオバマ大統領の広島訪問が実現したとして、何を期待できるのか、また訪問自体を意義あるものにするために、どんな準備をすれば良いのか、私たちの側の心の持ち方はどうあるべきなのか等、広島側、日本側の心構えについて考えて見ましょう。

 

2009年のプラハ演説を思い出す方も多いと思いますし、オバマ大統領もそれは当然視野に入っていると思います。となると、仮にオバマ大統領が広島で演説するとしたら、その内容としてはプラハ演説以上のものを期待して良いでしょう。具体的にそれが何になるかは別として、「期限付き」の目標が入ったものになる公算は大きいと思います。ここれは「夢と「目標」の違い」 で説明した通りです。

 

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プラハでのオバマ大統領

 

そして、被爆者の中にも市民の中にもまたそれ以外の方々の中にも「大統領の謝罪」を期待している声もあります。それは今回は実現しないのですが、それをどう捉えたら良いのでしょうか。

 

中には、謝罪の重要性を強調するあまりに、「謝罪をしないのなら広島に来るな」という考え方をしている人たちもいます。大統領が広島に来る最大の理由は「謝罪」であってそれ抜きでは何の意味もない、という立場です。

 

道義的には正しい立場だと言えるのかもしれませんが、この主張通りに事が運ぶためには、過半数のアメリカ人の原爆観を変える必要があります。戦後すぐ、90パーセントに近いアメリカ人が「原爆投下は正しかった」と言っていた時代から、50パーセント、60パーセントに変るのに70年もかかっていますので、これからかなりの時間が掛かります。その間、アメリカの大統領は広島には来ない、という結果をもたらすことになり兼ねませんが、それで良いのでしょうか。「謝罪なしの広島訪問はない」と考えている人たちはこのような結果を望んでいるのでしょうか。

 

そこで思い出して頂きたいのが「和解」の力です。それが大統領であっても他のも誰であっても、広島に来て資料館を訪れ、被爆者の体験を聴くことから、被爆の実相と被爆者の「和解のメッセージ」を学べます。「原爆投下は正しい」と今でも信じている人たちにも広島に来て欲しいと考えているのは、この真実に触れて貰いたいからです。その結果、資料館を出た途端に考えが変わることにはならなくても、真実は人間の内面で人を変えて行きます。そして、それがやがては「謝罪」につながることにもなります。謝罪なしの大統領訪問でも、一人の人間としてまた国家の責任者として被爆の実相と和解のメッセージを学ぶ貴重な機会になる事実には変わりはありません。

 

それ以上に深刻に考えるべきことは、被爆の実相を知らない人が口だけで「申し訳なかった」と言う場合、その謝罪に意味があるのかという点てす。確かに広島に来なくても、被爆の実相を十分に理解している人はいます。でも、31年前のジャック・レモン氏の言葉には説得力があります。

 

まず、大統領に広島に来て貰う、そして被爆の実相と被爆者のメッセージをしっかりと学んで貰うことを出発点にしてはいけないのでしょうか。まず事実を知って貰う、そしてその事実に基づいての自発的な謝罪が続くというシナリオでは駄目なのでしょうか。

 

「出発点」には意味があります。アメリカの大統領が広島を訪問するのは、未来永劫今回だけ、というのなら話は違います。でもこれから何人ものアメリカの大統領が現職の内に、そしてその他の国の、特に核保有国の首脳が現職の内に広島を訪れることになるはずです。それらのいくつもの訪問の最初として、核廃絶につながる道を着実に歩み始めるための出発点にすることが大切なのではないでしょうか。

 

そのプロセスで、いの一番に「謝罪」がなかったとしても、必ず「謝罪」は実現します。その「夢」を消さずに、同時に、それが「夢」に留まらずに「目標」になるように、日米、そして世界の市民が協力して努力する出発点として、アメリカ大統領の広島訪問を位置付けられれば素晴らしいと思うのですが――。

 

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2016年4月20日 (水)

大統領の謝罪 No. 1 (「和解」の力 その3)

大統領の謝罪

(「和解」の力 その3)

 

どこの国の誰であっても、個人として広島を訪れるべきだ――これは「「和解」の力」で説明した通りです。それに追加したいのですが、その結論は、原爆投下についてそれなりの理解ある人たちだという前提を設けるべきでした。広島に来る人たちの中には、「原爆投下は正しかった」と頑なに信じている人たちもいます。その人たちが広島に来ても、資料館を出た途端に、その考え方を変えるとは考えられません。

 

そんな人たちには、広島訪問は意味がないのでしょうか。そんなことはありません。全ての人に広島に来て欲しいという「真実」に変わりはありません。それはもう一つの「真実」である、被爆の実相と被爆者のメッセージの力です。つまり「和解」の力です。広島でこの真実に触れた人たちの心の中に、本人が意識してはいないかもしれませんが、必ず残ります。そして、いつの日か内面化され、その力が発揮されます。

 

このプロセスを信じられるのは、人類史を振り返ると、そのプロセスの生きていることが分るからです。この点については、機会を改めて取り上げさせて頂きます。

 

さて、原爆投下をどう考えるかにかかわらず、広島訪問は誰にでも勧められることを確認しましたが、だからと言って、自動的にアメリカの大統領が広島を訪問することにはつながりません。その他に考えなくてはならない問題があるからです。それを説明したいのですが、大きく変わりつつあるアメリカの状況にも注目です。

 

G7 G7外相会合

 

先ず、アメリカのメディアはケリー長官の来広を好意的に報道しました。それに輪を掛けたのが、ニューヨーク・タイムズ(NT)とワシントン・ポスト(WP)の社説でした。アメリカを代表するニ紙が、12日と15日の社説で「オバマ大統領は、伊勢志摩サミットに合わせて広島を訪問すべきだ」と主張したのですから、早とちりすれば、これでオバマ大統領の広島訪問は「決まり」です。

 

もっとも、一筋縄で行かないのが現実です。実は、NTWPも、ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)と比べると「リベラル」だと考えられており、2009年のプラハ演説後にWSJはオバマ大統領を「国賊」扱いしているくらいだからです。

 

その背景には、未だにアメリカ人の過半数は原爆投下が正しかったと信じている事実があります。過半数の人たちにとっては、大統領が広島あるいは長崎を訪問して「謝罪」などするのは以ての外なのです。

 

それに対してのNTWPの考え方は、原爆の悲惨さを世界に訴えてきた被爆者や日本人に敬意を表することと、原爆投下の正非とは、切り離して考えるべきだし、考えられるというものです。ケリー長官の広島訪問が成功したことも、それを「証明」していると考えられています。広島での彼の言動を「謝罪」だからけしからん、あるいは日本に対して「弱腰だった」という批判は、WSJも含めてほとんど見られなかったからです。

 

とは言え、今年は大統領選挙の年です。特にアメリカの大統領選挙は、金の力に物を言わせて誹謗中傷合戦になる傾向が顕著です。誹謗中傷合戦で有利になるためには、単純で多くの人の深層意識に植え込まれている「疑う余地もない真実」を上手く使うことが有効です。そして過半数のアメリカ人の深層心理には、「卑劣極まりない真珠湾攻撃」「原爆投下は正しかった」が、しっかり刻み込まれています。そんな合戦に引き込まれないで選挙戦を戦えるのかが、オバマ大統領サイドの一つの重要な判断材料になるはずです。

 

Photo_5 真珠湾攻撃

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原爆投下

 

こうした側面まで慎重に考慮した上で、オバマ大統領が広島を訪問することに決めたとしましょう。その際に、一緒に付いてくる結論は、オバマ大統領は広島で「謝罪」はしないということですし、「謝罪」と取られる言動も一切ないだろうということです。ケリー長官の際にこれは試験済みです。

 

長くなりましたので、次回に続きます。

 

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2016年4月19日 (火)

青森県六ケ所村を訪ねて

熊本地震で被災された皆様にお見舞申し上げます。今日は小規模ではありますが、街頭で支援のためのカンパを募る予定です。御協力宜しくお願いします。

 

また、今日は嬉しいニュースがあります。新しいライターの登場です。北広島町の町会議員梅尾泰文さんの「六ヶ所村レポート」が寄せられましたので、掲載します。最後に用語の解説を付けておきましたので、それも参照して頂ければ幸いです。

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青森県六ケ所村を訪ねて

 

先週、49日~10日広島県原水禁の藤本講治事務局長とともに青森市と青森県六ヶ所村で開催された反核燃の日全国行動に参加した。

 

青森市についた9日、市内の青い森公園で開催された「4・9反核燃の日全国集会」に参加した。全国から1100人が集まった。

 

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集会の様子

 

1985年4月9日(31年前)当時の青森知事がウラン濃縮と低レベル放射性廃棄物埋設施設、再処理工場を受け入れた。このことに抗議するため、31年間、毎年この日に集会を開き、真実を忘れず核からの解放を目指しての行動を続けている。しかし、31年たった現在も計画されていた事業は進行している。

 

一番心配なのは、集会での基調報告が指摘したように、青森県が核のゴミ捨て場にされる可能性だけは以前より高まっているという事実だ。集会参加後デモ行進を行い、その後会場を変え交流集会を開く。

 

政府は原発をやめようと思っていない。それどころか民間電力会社を国が支え最終責任も国が負うように考えている。現在でも電気料金に原発関係の積立金を徴収しているが、さらに再処理を継続するための「原発使用済燃料の再処理のための拠出金法案」を今国会で成立させ、電力会社と電力利用者に負担させようとしている。

 

2日目は、六ケ所村に集会と核燃料サイクル施設を見学に行く。車中から、ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設施設や高レベル放射性廃棄物一時管理施設、再処理工場を見ながら、核燃サイクル阻止1万人訴訟原告団の方から説明を受ける。

 

日本原燃株式会社入口駐車場で原発反対の集会とシュプレヒコールを行った。その後六ヶ所原燃PRセンターに行き原燃の説明と、施設内の展示物を見る。展示されている原料のウラン鉱石からは放射性の高い数値が出ていた。

 

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高い線量

 

やはり危険なものから、地球上のすべてを奪い去る巨大な悪の生産物を生み出し、そのものの処理対策が考えられずに進められている。

 

一日も早くこの地球上から、原発を完全廃止して放射性廃棄物を消滅させる以外にないとことを今回の行動で改めて確信した。            

  

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梅尾泰文 (広島県原水禁常任理事・北広島町議会議員)――日本原燃株式会社前で

 


 [解説] 「核燃料サイクル」とか「再処理」という言葉を難しいと思われた方もいらっしゃるかもしれませんので、さよなら原発神戸ネットワークのホームページに掲載されている説明を付けておきます。


 原子力発電所で使われた核燃料の「燃えかす」(使用済み燃料)から、プルトニウムや燃え残りウランを取り出し(これを「再処理」と言います)、再び燃料として利用する仕組みを「核燃料サイクル」と呼んでいます。

政府や電力会社は、リサイクルによってウランを有効利用できるとか、プルトニウムはエネルギー資源の乏しい日本にとって貴重な「準国産エネルギー」だと言って、この仕組みづくりを進めようとしています。

しかし、今ではこのようにしてプルトニウムを利用しようとしているのは日本だけで、ほかの先進諸国は止めてしまいました。

それは、余りに危険で技術的にうまくいかない上に、経済的にもメリットがなく、さらに核爆弾の原料になるプルトニウムを増やしてしまうなど、さまざまな問題がはっきりしてきたからです。

 

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2016年4月18日 (月)

散歩の道すがら

散歩の道すがら

広島赤十字・原爆病院メモリアルパークを訪れた

 

わが家(広島市役所のすぐそば)では、年金生活者となった夫婦二人の健康のため毎日のように1万歩を目標に散歩を楽しんでいる。散歩のコースは、ほとんどが買い物を兼ねて紙屋町や八丁堀方面だが、今日はめずらしく南方面へと足を向けた。いつものコースと違い家々の庭先や玄関口に様々な花が色鮮やかに咲き乱れていた。目にも楽しい季節である。

 

ゆめタウン広島まで行っての帰り道は、広電の電車が走る通りを選んだ。新館建設工事が続いていた広島赤十字・原爆病院は、工事用のフェンスが取り払われ、新棟が姿を現している。

 

ここには、「爆風でゆがんだ鉄製の窓枠」や「窓ガラスの破片が突き刺さった痕が残る壁」のモニュメントがあったが、どこにいっただろうと思いながら歩いていると、道路を隔てる壁に下の写真の案内表示が目に入った。

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日赤メモリアルパークの案内板

 

 

吉島方面に少し歩くと広島赤十字・原爆病院の道を挟んで南側にある「日本赤十字社・広島県支部」の敷地の一角に「広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク」が作られていた。そこには、2つのモニュメントだけでなく「原爆殉職職員慰霊碑」や「赤十字国際委員会会長(レオポルド・ポアシエ)碑文」、「原爆の絵『動員学徒の碑』」など8つのモニュメントや碑が、整然とレイアウトされている。

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広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク

 

被爆の二つのモニュメントも従来よりもさらに真近かに見ることができるような高さで設置されている。

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爆風で歪んだ窓枠

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ガラス痕の残る壁

 

 

今回、初めて気が付いたのが「ガラスの刺さった痕が残る壁」のモニュメントの横にあった「原爆の絵『動員学徒の碑』」である。以前に訪れたことがあると言っても十数年前だから、私が知らなかったのも当然かもしれない。後でわかったことだが、この碑は2005年8月6日に建立されたとのこと。

 

碑の説明文には、「この絵は、原爆が投下された翌日広島赤十字病院玄関前(当時)の円形の花壇に並べられた中学生(絵の中に書かれた文章では、広島二中の一・二年生)の遺体が、円形に並べられていた様子を描いたものだ」と書かれている。さらに「動員学徒として約6000人の中学生の命が奪われた」ことも記載されている。ひまわりの花弁のように並べられた子どもたちの姿。何とも言いようがない。

 

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原爆の絵『動員学徒の碑』

 

 

被爆当時、治療を求めて広島赤十字病院へ向かったことは、多くの被爆体験記から知ることができる。

 

原爆によって右目に負傷され3日目に赤十字病院に連れ込まれた森瀧市郎先生も、ある労働組合の講演の中で、その時の情景をこういわれている。少し長いが引用する。

 

「学生が私を赤十字病院に連れていきますと、病院ですから、みんながそこに集まってくるわけですから、そこで死んだままで腐っておる、ひどいけがをしてやっとみつけられたのが泣き叫んでおる・・・・・。そういう状況の中に、学生が私を、何とか治療がうけられはしないかと思って連れていったわけです。そして、今ちょうど原爆病院の建っているところが芝生でございまして、その上に私を寝かせておきましたが、臭くてしようがない。気が付いてみますと、私の頭のところで、亡くなった軍人が腐っておる。それがものすごい臭気を出しておったのです。その日も空襲がございまして、学生が私を背負って、今もそのままございます赤十字病院の地下室に逃げ込みました。地下室の光の足らん薄やみの中で、生きている者は皆うめいています。亡くなったものは皆腐っておる。あの地下室の状況は、地上における生きた地獄というものがあるとすればこんなものという光景で、これは忘れることができません。」

 

それにしても、生き地獄ともいわれる病院の前に、中学生の遺体が、こんな形でおかれていたことは、初めて知った事実である。今でもなお、新しい被爆の実相を知らされるのが、広島の現実であることを今日もまた思い知らされた。

 

帰宅後改めて、詳しい内容を知りたいと広島赤十字・原爆病院を訪ね、脇谷孔一社会課長から丁寧な説明を受けた。新館建設工事を機に、病院敷地内の各地にあった碑などを一か所に集めて新たにメモリアルパークを作ることになり、2014年(平成25年)7月2日に完成した。現在も多くの修学旅行生たちが、平和学習のため訪れているとのことであった。

 

広島赤十字・原爆病院では、こうした修学旅行生などのために、「平和学習―核兵器のない平和な世界の実現のために―」という立派なパンフレットを作成し配布されている。私も一冊いただいて帰った。

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広島赤十字・原爆病院 平和学習用パンフレット

 

広島赤十字・原爆病院メモリアルパークは、いつでも誰でも訪れることができるように、出入り口は開放されている。一人でも多くの人が訪ねてほしいものである。

 

ちなみに今日の散歩は、万歩計によれば7500歩であった。広島赤十字・原爆病院メモリアルパークからわが家までは、1147歩でした。

 

金子哲夫 (広島県原水禁代表委員・元衆議院議員)

 

 

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コメント

三十数年前にお見舞いで訪れた時は、まだ昔の建物でした。
廊下はとても薄暗く木の床だったように思います。
病室に入ると、曲がった窓枠の内側に後から作られた思ような窓があったように思います。
遠い昔の思い出ですから、思い違いしているかもしれませんが。
このパンフレットは、平和公園にも置いてあるのでしょうか。
修学旅行の学生さんやツアーの観光客の人たちは、平和学習で日赤病院のこのモニュメントに訪れますが、多くの人はあまり訪れないので、資料館にも置いてあるといいですね。

「やんじ」様

コメントありがとうございます。
パンフレットの件ですが、病院に問い合わせたところ、資料館にはおいてないようです。おっしゃるとおり、平和学習で日赤病院を訪れて、希望される方に配布されているとのことでした。

2016年4月17日 (日)

「線香の一本でも」に込められた思い


熊本地震での想像を絶する甚大な被害に私たちは皆、言葉を失っています。亡くなられた方々、怪我をされた方々、家が倒壊する被害に遭われた方々、その他筆舌に尽くせない被害に遭われた方々に心からお悔やみ、そしてお見舞いを申し上げます。さらに、被災者の皆さんのお役に立てることがあれば、私たちにできることは何でもしたいと思っています。

 

未だに続く余震が一日も早く収束し、被災者の皆さんに通常の生活が戻ること、そして様々な被害から一日も早く立ち直られますよう、衷心から祈っております。

 

そんな中ですが、今日開かれた「先人を語る会」の報告です。

 

 

「線香の一本でも」に込められた思い

伊藤サカエさんの運動から学ぶ

 

4月16日、広島市原爆被害者の会主催の第4回「先人を語る会」が、65名の参加で大手町平和ビルで開催された。この会は、反核運動の先頭に立ってきた人々の足跡を今一度たどりながら、私たちの運動のヒントを見出そうというものである。

 

今回の「先人」は、広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)2代目理事長を務められた「伊藤サカエさん」だった。

 

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先人を語る会  伊藤サカエさん

 

伊藤さんは、34歳の時、「国家総動員法」により義勇隊として建物疎開作業中に被爆された。原水禁運動や被団協運動には、結成当初から参加されたおり、1981年には、女性としてはじめて日本被団協の代表委員を務められている。

 

歯に衣着せぬ直言。反骨精神の強さ。誰もが語る伊藤さんの印象である。一方で周りの人たちへの気配りは、人一倍。集会や行動では、いつでも地元矢野町内会の多くの女性たちの真ん中にその姿があった。「会長さん、会長さん」と親しみを込めて周りから言われていたことを思い出す。

 

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伊藤さんの思い出を語る親族、関係者

 

広島県原水禁の常任理事も務めておられたので、私も長くお付き合いをさせていただいていた。「金子君、金子君」と声をかけていただいたことを今でも忘れない。行動力のある伊藤さんだったが、とりわけ「国家補償の被爆者援護法の制定」にかける思いと行動は、人一倍だった。それは、あの日の言葉の象徴されている。

 

「被爆者援護法」は成立したが

 

「無念のうちに死んだ人々に線香の1本でも上げてくれ」 この言葉は、1994年12月9日原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(被爆者援護法)」が成立したことに感想を求められた伊藤サカエさんが、発した言葉である。当時伊藤さんは、その年の1月に亡くなられた森瀧市郎理事長の後を引き継いで広島県被団協の理事長であった。この「線香の1本でも」という言葉に込められた意味を改めて考えてみたい。

 

国家補償の被爆者援護法」は、被爆者団体の長年の強い要求であった。1993年自民党政治に終止符が打たれ細川政権が誕生した時、「被爆者援護法制定」も政治課題の一つになった。その後、自・社・さ政権の村山内閣が誕生すると、さらに「被爆者援護法制定」への期待が高まり、被爆50年を目前とした1994年12月9日に「被爆者援護法」が成立したのである。ところが被爆者が求め続けてきた「国家補償」と「死没者への個別弔意」が盛り込まれないままの成立だったため、被爆者団体や支援団体からの強い反発を招く結果となった。その無念の思いを象徴するのが、伊藤サカエさんの言葉である。

 

まやかしの「特別葬祭給付金」

 

「死没者への個別弔意」こそが、国家補償の原点とも言うべき問題である。成立した被爆者援護法では、「特別葬祭給付金」という制度が盛り込まれた。一見「死没者への弔慰金」を支払う制度のように装っているが、そこには大きなごまかしがあった。この「特別葬祭給付金」を受給できるのは、被爆者でなければならないというのである。受給者を被爆者に限ることは、問題を根本的に解決することにはならない。原爆被害者の中には、自身は被爆者ではないが、家族全てを原爆で命を奪われた人たちもたくさんいる。1945年8月6日様々な理由で広島を離れて、被爆を免れた人。学童疎開で広島を離れていた子ども。兵士として海外に派兵されていた人。こうした人たちには、被爆者でないことを理由に「特別葬祭給付金」を受け取ることができなかった。私の知人のなかにも、多くの家族を失いながら受け取ることができなかった人がいる。

 

求め続ける「国家補償の被爆者援護法」

 

原爆の最大の犠牲者は、死没者である。その犠牲者に対して葬祭料どころか弔意すら示されなかったのが、「被爆者援護法」である。その背景には、厚生労働大臣(当時)の私的諮問機関である原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)が1980年に出した「国の戦争による犠牲は『すべての国民が等しく受忍しなければならない』」という「戦争被害受忍論」の考え方があったからである。その考え方は、今も続いている。

 

「線香の1本でも」に込められた思いは、こうした「受忍論」に対する厳しい批判であり、戦争の結果招いた国の責任を厳しく問う考え方を表したものである。

 

いまもなお、「国家補償法」の「被爆者援護法」を求める運動が続いている所以である。

 

「被爆者援護法」採決に当たって、自・社・さ連立与党の一員でありながら、広島選出の衆議院議員の秋葉忠利・小森達邦、参議院議員の栗原君子の3名が、「ヒロシマの良心」を示すため、反対したことを最後に明記しておきたい。


金子哲夫 (広島県原水禁代表委員、元衆議院議員)


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コメント

東京で空襲にあった人に良く聞くのは、日本全国で何十万人もの国民が受忍論により何の補償も受けられていないにも関わらず、原爆被害者だけが手厚い補償を受けている、というものである。東京大空襲に遇った人達に言わせると「原爆は一瞬だったが我々は長い時間、長い期間恐怖に苛まれ被害者の数も同程度であり、障害を持った人達にも「特別な支援」はない。米国の報告書でも日本の空襲による犠牲者の95%は民間人であり、その民間人は防空法により逃げることを禁じられていたにも関わらず、一瞬のことで防空法なども関係ない広島や長崎の犠牲者だけが補償された。広島では被爆二世の市長が被爆者に「くれくれ言うな」と言ったということだが、東京に居るものからみると手厚い補償を受けている被爆者だけがいつまでも「くれくれ」と言っているようにみえる。

「都民」様

コメントありがとうございました。
国が起こした戦争に様る被害は、一般戦災者であれ、原爆被害であれ、等しく救済されなければならないと思っています。しかし「都民」様も指摘されているように、「国民受忍論」によって、切り捨てられています。
現在の「被爆者援護法」による被爆者救済も「放射能被害という特殊性」を考えた生存者への「社会保障」という考え方に立っています。それは「保障」という考え方でのみで「補償」という考え方はありません。
「死没者への弔意」を求めることは、まさに戦争被害に対する国の責任を認め、被害者への「補償」を求めることにつながるからです。
 もし「補償」としての被爆者援護法が、実現すればそれは必ず、同じ戦争被害者である空襲被害者など他の戦争被害者の補償への道につながると考えています。
 繰り返すようですが、国の誤った戦争による政策による戦争被害は、等しく救済されなければなりません。これが私の考え方です。

「都民」様

大切なことを書き忘れていました。
 被爆者援護法の中身をここまで前進させたのは、1956年に初めて被爆者の組織がつくられ、何度も何度も広島や長崎から上京しての陳情や全国的な署名活動など粘り強い政府への要望活動があったからです。このことも決して忘れてはならないことのように思います。
 それから、先ほどのコメントの最後を「繰り返すようですが、国の誤った政策による戦争被害は、等しく救済されなければなりません。これが私の考え方です。」と訂正します。

例えば原発事故による被曝であれば明らかに「国の誤った政策による被害」ですが、空爆は原爆も焼夷弾も米軍が投下したものです。敗戦国とは言え国際法に違反したものですし、日本も解決したはずの中国や韓国から未だに賠償や謝罪を求め続けられているように、補償を求めるべき相手は日本国政府ではなく米国政府ではないでしょうか。

「都民」様

再度のコメントありがとうございます。
おっしゃるとおり、原爆にしても焼夷弾にしてもその投下責任が、米国にあることは間違いありません。
なのになぜ日本政府なのか。
一つは、「国の誤った政策」と深くかかわるのですが、国が行った戦争行為に対する責任を果たしてほしいということです。「都民」さんは、ご存知かもしれませんが、広島平和公園には「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」があります。「国立」ということが重要なのですが、その館内にはこの館の建立の意味が記載されています。そこには「誤った国策」という言葉が明記されています。「誤った国策によって原爆死没者を作った」ことを意味しています。戦争が招いた結果に対する責任があるということです。
二つ目は、米国との関係です。日本政府が、サンフランシスコ平和条約を結ぶことによって、戦後の独立を果たしたことは、ご存じのとおりです。この条約において、日本は、国際法上の賠償請求権を放棄」しました。日本政府が、請求権を放棄したのですから、日本国民の賠償請求に対しては、国が責任持つべきだというのが私たちの考えです。
以上に述べたような二つの理由で、日本国政府へ賠償請求を行っているのです。

「都民」様

金子さんの丁寧な説明に尽きるのですが、実は、正にこの点についての訴訟が1955年に行われています。原告の一人の名前を取って「下田事件」あるいは「下田訴訟」と呼ばれています。「原爆投下は国際法違反」という画期的な判決で知られています。ここで説明するには充分なスペースがありませんので、「日本反核法律家協会」の分り易いサイトを御覧下さい。

http://www.hankaku-j.org/data/jalana/130701.html

先輩たちの努力と情熱に改めて、敬意を表します。

2016年4月16日 (土)

「和解」の力(続)--広島訪問は人生を変える

「和解」の力 ()――広島訪問は人生を変える

 

ケリー長官の来広が契機になって、オバマ大統領の広島訪問が現実味を帯びてきました。訪問に反対する声はほとんど聞かれませんが、日米両国とも70年以上棚上げしてきた課題です。両国とも、特にアメリカには「原爆・広島・長崎」について複雑な、中には激しい思いを持ち続けた人たちがいるという背景があることも忘れてはなりません。それを踏まえて、大統領訪問を未来に向けての建設的な出来事にするために何ができるのかを考えたいと思います。

 

「アメリカの大統領の広島訪問」は「アメリカ人の広島訪問」の特別な場合ですので、まずは、これまで私の知っているアメリカ人が広島を訪問した後、どのような反応を示したのかから辿りたいと思います。広島訪問は、彼ら/彼女等の人生で大きな位置を占めることになりましたし、私にとっては謙虚に広島の意味を噛みしめる心洗われる機会でした。

 

1985年、俳優のジャック・レモン氏が、アキバ・プロジェクトの特別ゲストとして来広しました。戦後アメリカ映画界の最高の喜劇俳優だと言われた存在ですが、知的なペーソスに満ちた演技は時代の雰囲気の人間的な表現として多くのファンを魅了しました。『チャイナ・シンドローム』の主演男優として、メルトダウンや原発そのものについて、専門家が舌を巻くほどの勉強をしていますが、それは彼がハーバード大学で薬学と化学を専攻したことと無関係ではないかもしれません。

 

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ジャック・レモン氏

 

広島で資料館や原爆病院等を訪れた後、レモン氏は次のように語っています。

 

「核兵器の問題にはこれまでもずっと関心を持っており、自分なりに本を読んだり、写真や映画を見たり、人の話を聞いたりして勉強してきた。広島の被爆の惨状についても人並みには知っていた積りだ。だが、広島に来るまでは原爆による被害が本当にはどんなものかは分っていなかった。できれば世界中の人が広島を訪れるべきだ。もう一つそれに付け加えると、広島の人々が、アメリカとアメリカ人に対して憎しみの念を持っていないことも肌で感じた。そして深く感動した。」

 

1983年にテレビ・チームのリポーターとして初めてアキバ・プロジェクトに参加したのは、ミルウォーキー市のWISN局のマーシャ・ウォルトンさんでした。その年の1120日、アメリカでこの番組を見なかった人はいなかっただろうとまで言われた大作『ザ・デー・アフター』が放映されましたが、これは核戦争の翌日を描いたフィクションでした。ウォルトンさんの作った一時間番組『最初の原爆--究極の悪夢』はその前に特別番組として放映され、多くのミルウォーキー市民に高く評価されました。「『ザ・デー・アフター』より深みもあり、はるかに大きな衝撃を与えた」「今年観たテレビ番組の中で最高のもの」と言った称賛の言葉が寄せられました。その後ウォルトンさんはアトランタのCNNに移って活躍しまた。彼女の言葉です。

 

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マーシャ・ウォルトンさん

 

「広島で一番印象に残った人は、ホームステイをさせて頂いた谷本清牧師と、原爆小頭症の畠中百合子さん。このような人たちと出会い、一時間の特別番組を制作することで私の人生は変わった。人生を変えてくれた被爆者と広島に感謝している。」

 

シカゴの郊外の町エルムウッド・パークの高校の同級生でニューヨーク州立大学オスウェゴ校でコミュニケーションの教授だったジョン・スミス氏も政治に関心があり、広島には必ず足を延ばしたいと常々言っていました。家が近かったので、毎朝二人で高校まで歩いて通ったり、同じスピーチの授業を取って、彼の才能に驚いたりした記憶がありますが、彼の大学で広島展や講演会を開いて、若い世代に広島・長崎のメッセージを伝えることもしてくれていました。レモン氏と同じように核兵器や原発についての知識は豊富ですし、日本の政治についても日常的にフォローしていた人です。2005年に実現した広島訪問後の言葉です。

 

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ジョン・スミス教授

 

「広島の人がアメリカ人に敵意を持っていないということは君から聞いていた。それでも、アメリカが原爆投下という飛んでもないことをしてしまったのだから、広島に行ったら石でも卵でも投げ付けられても仕方がないと、覚悟していた。でも広島の人たち、被爆者たちは私を友人として心から歓迎してくれた。私の人間観は変わった。そして広島の人たちにこのような姿勢があるから、核兵器の廃絶も可能になるのだと感じることが出来た。次の機会には、学生たちを連れて来て、彼らの人生の転換点になるであろう経験をさせたい。」

 

他にもまだ何人も、広島で、良い意味での衝撃的な経験をした人はいるのですが、これでポイントは伝わったと思います。少なくとも、私の世代あるいはその前の世代のアメリカ人にとって、広島に来ることは、人生を変えるほどの大きなインパクトがあったのです。それが、「報復」や「憎しみ」、「恨みつらみ」などを超えた「和解」の力によることも、ここに引用した三人の言葉からお分り頂けたと思います。

 

それが今も続いていると考えられるのは、例えば、『ヒロシマ』の著者、ジョン・ハーシー氏の孫のキャノン・ハーシー氏、トルーマン大統領の孫のクリフトン・ダニエル氏等、最近広島を訪れた若い世代のアメリカ人に取っても同じように、広島に来ることが彼らの人生において、本質的な意味を持つ貴重な体験になっているからです。


結論として、アメリカ人 (そして敢て付け加えますが、どこの国の人であっても) 広島に来ることには大きな意味があるのです。きちんと勉強をしてから来てくれた方がその効果はより大きくなると思いますが、それも含めて、どのような条件も一切付けずに「広島に来て下さい」と、誰にでも自信を持って勧めるべきだと、敢て言い切りたいと思います。

 

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コメント

恥ずかしながら広島生まれの被爆二世ですが何も知りませんでした。親は原爆のことは殆ど語らず他界し核廃絶運動は特別な思想の人達のものだと思っていました。
12年間も市長を務められた秋葉市長のことすら旧社会党くらいしか知らず多分殆どが嘘だろう政財界でふんぞり返っている人達の流言飛語の一部を信じていました。
今頃になって今の市長のダメさ加減を目の当たりにするにつけ秋葉市長の素晴らしさを見聞きするようになりました。
海外からの来広者もですが、その前に私のように意識の低い広島市民が学ぶべきことは多いです。
ダメ市民でしたが、これから勉強したいと思います。

「愚民」様

コメント有難う御座いました。謙虚に読ませて頂きました。「勉強する」という決意表明、大変心強いです。「ヒロシマの心を世界 に」届けるためともに頑張りましょう。

2016年4月15日 (金)

「和解」の力

「和解」の力

 

ケリー長官の来広を取り上げた412日の私のコメントにちょっと不正確な点がありました。12日のコメントでは、「「和解」こそヒロシマのメッセージだと思います。それを理解し、広島で確認してくれたことだけでもケリー長官の広島訪問の意味があったと言って良いと思います。」と書いたのですが、良く調べてみるとケリー長官の使っている「和解」という言葉は、被爆者の「和解」とは違う意味を持っています。今回は、その違いを説明しておきたいと思います。

 

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ケリー国務長官

 

まず記者会見でのケリー長官の言葉を引用します。11日の記者会見で共同の記者の質問に答えているのですが、広島を訪問した理由として、一緒に仕事をしている岸田大臣の地元でありそこでG7外相会合が開かれたからだというだけではなく、と述べた後、それより重要な理由として次のように述べています。

 

but because we are engaged in this effort to try to reduce the threat of nuclear weapons and because we are importantly trying to remind people of the power of reconciliation, the power of people who were once enemies who were at war being able to come together, find the common ground, build strong democracies, build alliances, and do important things that have a positive impact on people in the rest of the world.

 

意訳すると「核兵器の脅威を減らす努力をしているからだし、多くの人々に和解に力があることを再認識して貰う大切な仕事をしているからだ。かつては敵同士だった人々、戦争をしていた人々が、一緒になって共通の基盤を見付け、強固な民主主義を建設し、同盟を結び、世界中の他の地域にいる人たちにも有益なインパクトのあるような大切なことを手掛けているという力だ。」くらいでしょうか。

 

被爆者の「和解」のメッセージは「こんな思いを他の誰にもさせてはならない」に象徴されていますが、それは「他の誰にも」の中に、「敵」と見做される人も含まれているからです。つまり、「報復ではなく和解」なのです。報復を否定することは、武力を使って問題を解決しようという考え方そのものを否定することにつながりますし、それが日本国憲法の基本的な考え方であることは皆さん御存知の通りです。

 

両者に違いのあることはお分りだと思いますが、では、Kerry & Kishida 流の「和解」 (K流の和解」と呼びます)と、Hibakusha & Hiroshima 流の「和解」(H流の和解)の違いを言葉で明確に表すとしたらどうなるのでしょう。

 

抽象的な言葉での説明も大切なのですが、歴史的なエピソード二つを御披露することでその違いを浮き彫りにしたいと思います。

 

実は、広島に原爆を投下したB-29爆撃機エノラ・ゲイ号の機長、ポールティベッツ大佐(1945年当時)と、その被害を受けた被爆者の代表的存在の一人である、元平和記念資料館の館長、故高橋昭博さんは、1980年にアメリカのワシントンで会っています。高橋氏が、上院議員会館における原爆展に同行した時のことです。私が通訳をしました。そのときのやり取りのさわりの部分をまとめると次のようになります。

 

ティベッツ氏(高橋氏の身体の傷を見て) 「それは原爆によってできた傷なのか」

高橋氏 「そうだ。しかし、私はそのことについて恨みつらみを言う気持はない。私が言いたいのは、どんな状況であっても、どの国の誰に対してであっても、核兵器が二度と使われてはならいということだ。そのために世界を回って、できるだけ多くの人々にアピールし続けている」

ティベッツ氏 「分った。でもあれは戦争だった。同じ条件の下で命令されれば私はまた原爆を投下する。だから戦争が起きないようにすることが大切だ」

高橋氏 「それでは、戦争が起きないよう、二人で協力しよう。そのために今後も文通をして行きたい。」

ティベッツ氏 「了解した」

 

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エノラ・ゲイ号機長、ポール・ティベッツ氏

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潘基文国連事務局長に被爆体験を証言する高橋昭博氏

 

二人は、原爆投下についての考え方を変えた訳ではありません。謝罪を求めたり謝罪をしたりということもありませんでした。でも、「戦争を起させない」という点を共有することが出来、二人はその後も文通を続けました。これが、「H流 和解」の一つの例です。

 

ここで、ティベッツ氏が「戦争の起きないようにすることが大切だ」と言ったのには、真珠湾攻撃で日本が戦争を始めたからこんなことになったのだから、原爆投下も含めて全ての責任は日本にある、という意味が込められています。それを逆手に取って、協力の方向に持って行った高橋氏の柔軟さに軍配です。

 

もう一つの歴史的な出会いがありす。真珠湾攻撃の指揮官だった淵田美津雄大佐(終戦時) ともティベッツ氏は会っているのです。ティベッツ氏は、高橋氏にその時のことを次のように語っています。

 

Fuchidaと私は肝胆相照らす間柄になった。Fuchidaは、原爆投下が戦争を早期に終らせたことを高く評価したばかりでなく、軍事作戦としても称賛に価すると褒めてくれた。対して私は、もし自分が日本側に立っていたとしたら、全く同じ形の奇襲攻撃をしたであろうこと、そして真珠湾攻撃が如何に完璧な作戦だったかをFuchidaに伝えた。かつての敵同士がこのような形で友人になれることは素晴らしい。

 

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淵田美津雄大佐

 

軍人同士の和解と外務大臣同士の和解には違いがあるかも知れませんが、どちらも国家を代表している点から思考のパターンは基本的に同じだと考えても問題はないように思います。それは、分り易さのために極端に単純化してしまえば、仲が悪い時はお互い敵同士になって戦争、仲良くなると同盟国になって一緒に戦争するというパターンに他なりません。

 

ケリー長官が強調した和解は「K流」でしたが、政治家でも普通の市民でも広島訪問を機に、これまでも多くの来訪者が「H流の」和解を理解し、その精神を元に素晴らしい活動を繰り広げています。それを広島そして被爆者の持つ「和解の力」と呼ぶなら、ケリー長官も今回その源泉に触れ、「和解の力」の洗礼を受けた訳ですので、遅かれ早かれ「H流」を理解するようになるはずです。次回は、「和解の力」が、多くの人の人生を変えて来た事例を紹介したいと思います。

 

 

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コメント

そもそもは、私の不正確で都合の良い理解によるコメントでしたが、きちんとソースをご覧になり、ヒロシマの心でも最も重要な「和解」というものを、非常に分かり易く説明して頂き、私も「H流の和解」について再認識しました。

これまでのコメントにもあるように、この記事も「すごく納得」「どの説明を読んでも納得」という人は多いはずです。

多くの人が、このブログから「ヒロシマの心」を理解するようになると思います。
引き続き、よろしくお願いします。

工場長様

いつもタイムリーかつ的確なコメント有難う御座います。今回も、ケリー長官の言葉だけ拾うと、「H流」のようにも取れるところに難しさがあるのだと思います。

抽象論なら、「K流」と「H流」の違いは暴力を容認するかどうかにある、と宣言しておしまいなのですが、その考え方を元に、例えば国とか都市としての行動規範を作ろうとすると、一筋縄では行かなくなるからです。

そのような現実的な難しさを理解し乗り越えるためにも、まずは、過酷な被爆体験から生まれた被爆者のメッセージ、「H流の和解」を理解して頂くことが大切だと思います。

2016年4月14日 (木)

夢と目標の違い (続)


夢と目標の違い ()

 

オバマ大統領がプラハ演説で設定した時間枠を誰よりも良く理解したのは、潘基文国連事務総長かもしれません。それは、翌2010年の8月、平和記念式典に参列してくれた後、元気の出るスピーチを何カ所かでしてくれた事務総長が、締めくくりの言葉として、オバマ演説に言及したときに明らかになりました。

                       Photo_6  

 

「核兵器の廃絶は、私たちが力を合わせれば可能です。それは私たちの生きている間に実現できます。特に、私の生きている間に。オバマ大統領より私の方が年上ですから、それはオバマ大統領が想定しているより早く実現するということです」

 

潘基文事務総長はまた、「2020ビジョンは、完璧なビジョンだ」とも言ってくれました。「2020ビジョン」とは全世界の (現在の加盟都市数は) 7000の都市がメンバーである平和市長会議が2003年に始めた行動計画で、都市の力を合わせて2020年までに核兵器を廃絶しようというものです。

 

2020_vision

 

潘基文事務総長の言葉は英語の語呂合わせです。彼の言葉はでは、「2020 Vision is a perfect vison.」です。そして、「2020 vison」とは両眼とも2.0見えることを指します。それを別の言葉では、「完璧な視力」つまり「perfect vision」とも言うのです。視力についての誰でも知っている表現で、平和市長会議の計画が完璧だ、と言ってくれたのです。

 

「期限」を付けるという観点からは、計画に「2020」を付けることほど具体的な方法はありません。ですから、2003年に平和市長会議として問題になったのは、「核廃絶のための行動計画」の目標年を何時にするかでした。2020年を選んだ理由はいくつかありますが、その一つは、1986年にピークに達した世界の核弾頭数とその後の傾向です。1986年以降、減っていた核弾頭数ですが、ピーク時と2000年の核弾頭数を直線で結んで、それを延長すると、2019年には全ての核兵器がなくなるという機械的な計算ができたのです。

 

でも、多くの被爆者からは文句が出ました。「目標年次はもっと近くしてくれなくては困る。私たちは2020年まで生きられない。だから、私が生きている内に核廃絶ができるという計画に作り直して欲しい。」

 

問題は、私たち市長が核兵器を廃絶するための実際の政治的権力は持っていないということでした。私たちだけで決めてそれがそのまま現実になるのであれば、喜んで前倒しした計画を作ったはずです。世界の都市が集まり、世界の世論を大きくして核保有国に迫るにはそれなりの時間が掛かります。10年とか15年というスパンで何とか頑張ろうというのが「2020 Vision」です。

 

この点を説明した上で、「是非長生きをして欲しい」ことを伝え、そして「2020年より前に核廃絶が実現するよう、皆で努力をしなくてはならないので、そちらに力を入れましょう」としか答えられませんでしたが、私が親しかった、そして平和市長会議に期待してくれた被爆者の方々の内、厳しく注文を付けて下さった方々は、御自分で予測されたように、その後、幽明境を異にされています。

 

そして今年、ケリー国務長官が来広し、オバマ大統領も広島まで来てくれそうな雰囲気になりつつあります。

 

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オバマ大統領の広島訪問が実現すれば、それは文句なしの素晴らしいことなのですが、亡くなられた方々も含めて全ての被爆者へのメッセージを携えて来て頂きたいとお願いしたい気持です。

 

それは、被爆者たちの「和解の哲学」「和解のメッセージ」に真摯に応えるオバマ大統領自身のメッセージです。良識ある大統領ですから、被爆者たちが「和解」の境地に達していたことを理解さえすれば、それに応える感動的な演説は期待して良いと思います。それ以上の行動があるかも知れません。それはオバマさんに任せるとして、その出発点として、先ずはオバマ大統領に被爆者の哲学を説明する手紙を書く積りです。

 

もう一つ、私たちが認識しておかなくてはならないのは、これが究極的な「目標」ではないことです。大切な出発点なのです。オバマさんだけではなく、私たち一人一人が、様々な形で積極的に関わることで、その後の道筋が豊かで明るく輝くものになることを確信しています。

 

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コメント

今更ながら凄い人が市長さんだったのですね~と感心するばかりですー‼︎
どの説明を読んでも納得!です!(^人^)
報道番組からまともなキャスターがいなくなっているのでキャスター、せめてコメンテーターをして欲しいですm(_ _)m

サチ様

大変温かいコメントを有難う御座います。

新聞・テレビ・書籍等、従来からのメディアの役割が大切であることには変わりないと思いますが、そのあり方そして生き残り方が問われる時代になっていますね。

そんな状況下、インターネットの重要性がますます脚光を浴びていますが、個人的には、「広島ブログ」に登録されているブロガーの皆さんの記事がとても勉強になっています。その結果を「ヒロシマの心を世界に !」の中に反映できればと思いつつ頑張っています。

2016年4月13日 (水)

夢と目標の違い

夢と目標の違い

 

夢と目標の違いはどこにあるのか考えて見ましょう。

 

例えば、誰かが「お金持ちになりたい」と言ったら、これは「夢」を語っている言葉です。「毎月、1万円ずつ貯金して4年間で50万円貯めたい」は「目標」でしょう。(1万円だけしか貯めないと宣言した訳ではないので、2万円の月もあるという前提で。)

 

この違いをもう少し整理したのが次の言葉です。「夢に期限を付けると目標になる」。別の言い方では「期限のない目標は夢にしか過ぎない」。

 

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 これは、ナポレオン・ヒルの言葉です。彼は、「成功哲学」の祖と呼ばれますが、1928年出版された『頭を使え。そうすれば豊かになれる』 (原題は”Think and Grow Rich”で、全世界で7000万部も売れた本です。) という著作でその哲学を世界に広めました。

 

「夢」は、実現できないことの例えとしても使われますので、望んでいても実現できないことを、「実現できる」という範疇に移すために必要なのが「期限」だと言い換えることもできます。

 

その逆が、多くの人を惑わすために使われていることに警鐘を鳴らすのが、今回の目的です。つまり、本当は実現できるのに、敢て「期限」を外すことで、それが実現不可能なことであるかのような印象を与えるという「詐術」が頻繁に使われているからです。

 

例えばヒラリー・クリントンさんは国務長官の時に、「核廃絶なんていうことは、2世紀か3世紀先の話で、今、議論すべき問題ではない」という趣旨の発言をしています。実はケリー長官も似たような発言はしているのですが、広島まで来てくれたので、罪は一等減じておきましょう。

 

それ以上に問題なのは日本政府、特に外務省の姿勢です。その典型的な例が、昨年8月の「戦後70年総理大臣談話」です。「談話」中、広島・長崎にとっては一番身近なテーマである核廃絶に関連した部分を取り上げると、それは次のように短いものです。

 

「唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。」

 

これを読んで、「唯一の被爆国なのだから当然、核兵器がこれ以上広まってはいけないと考えている。それだけではない、最終目的である核兵器の廃絶のため、国際社会で責任を持って努力する」と解釈した方も多いのではないかと思います。それも当然です。このような解釈を誘導するための選び抜かれた言葉がちりばめられているからです。しかし、これまでの日本政府の言動とも照らし合わせて正確に読むと、総理談話の言葉の意味は全く違ってきます。

 

表面的な印象とは大きくずれていますが、政府が使っている意味での「核不拡散」を目指すという内容は、まず、核兵器の存在は認めるということなのです。その上で、それが増えることは良くないという意味です。しかし、廃絶することが望ましいとは言っていないのです。つまり、核兵器の保有を容認し支持している言葉です。

 

次の「究極の核廃絶」とは、これも政府の言動に従って解釈すると、最終目的を示すためにこのような表現にしたのではなく、今すぐ核兵器の廃絶はできないし、今すぐ核廃絶のために努力をする気はない、という意味です。二世紀か三世期先の話なら、あるいは「究極」と呼べるほど遠い将来なら、核廃絶を取り上げても良いかも知れないけれど、今すぐ、あるいは被爆者が生きている内に核廃絶をするなどということは非現実的で夢みたいなことだと言いたいのです。その上、核廃絶運動のそのリーダーになる積りもないし、核廃絶のために努力している他の国や団体そして個人に協力する意思は全くない、という意味なのです。

 

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こうした傾向に異議を唱えたのが、オバマ大統領のプラハ演説です。「核のない世界実現のためのリーダーになる」との宣言に続いて、でも核なき世界が実現するのは「私の生きている内ではないかもしれない」とわざわざ付け加えたのは意図があってのことです。スピーチ全体の構成から考えると、この言葉はなくても何の問題もないのです。

 

でも「私の生きている内に」という時間枠を核超大国のアメリカ大統領が設定したことで、核廃絶が可能かどうかの議論をするときには、「私の生きている内」という枠組みに照らして発言を迫られるという状況が作られました。

 

核廃絶は「非現実的」だと断定し、私たちの手が届かない遠い先に追いやろうとしていた人たちにとっては大きな痛手でしたが、有限の時間枠ができたことで、核廃絶は一歩前進することになったのです。この稿、続きます。

 

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コメント

>「夢に期限を付けると目標になる」

なるほどな~とすごく納得しました。おそらくどこかで
知ったげに自分の言葉のように使うと思いますw
見つけてもシランプリしててください。

⑦パパ様

「納得」のコメント有難う御座います。ナポレオン・ヒルも喜んでくれると思います。

他人から聞いたり、学校で学んだりしたこと等、新しく学んだ知恵を自分に中に取り込んで(内面化して)、それを自分の一部として考えたり活動したり生活したりすることが、人類進化のプロセスの一部なのだと思います。当然、もっと多くの人たちに伝えることもその中に含まれます。

人類の進化に貢献しましょう!!

2016年4月12日 (火)

ケリー国務長官の来広

ケリー国務長官の来広

 

 

昨日今日(410日、11)と広島で開かれていたG7外相会合が終わりました。マスコミの評価は概ね良好で、特に今日のテレビでは会合全体を高く評価しています。

 

改めて、G7とは、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダ、日本ですが、それにEUの代表も加わっていますので実際は8人になります。このメンバーを見ると、第二次世界大戦の連合国側の内、ソ連と中国を除いた主要国と、当時の枢軸国です。これをどう見るかも興味の尽きないところですが、かつての敵国が今や緊密な協力関係を築くに至っている、それだけ世界は平和になっている、とまとめても良いでしょう。時間の持つマジック力のなせる業と言いたくもなりますし、人類も進化している証拠のようにも思えます。

 

もちろん、G7の外務大臣が広島にやってくることには歓迎以外の言葉はありません。特にアメリカのケリー長官は、アメリカ政治のナンバー2として、次は大統領の広島訪問を期待して良い地位の人ですので、来広の意味が大きいことは皆さん御存じの通りです。

 

アメリカの高官来広についても、ここまで来るのにやはり時間が掛かっています。時間がマジックとも言える力を持っていたとしても、その力を引き出せたのは、多くの人々が積極的に動いた結果でしょう。私もその一人として1980年代に掲げた「夢」実現のための、私なりの努力の軌跡を辿りたいと思います。

 

1980年代、当時ワールド・フレンドシップ・センターで活動していたロレンス・ウィーグ氏と共に、ロナルド・レーガン大統領あての要請状を毎年のように送りましたし、アキバ・プロジェクトに参加した記者たちに、大統領来広の意義を聞いて貰い、実現に力を貸してくれるように頼んだりもしました。

 

その後も機会のある度に働き掛けは続けましたが、実現への大きなターニング・ポイントは、2008年に当時の河野洋平衆議院議長のイニシャティブで広島開催が決まった、G8下院議長会議です。この会議には、当時、アメリカの下院議長だったナンシー・ペロシさんが参加しました。元資料館の館長だった故高橋昭博氏の被爆体験を聞いてペロシさんが、「Mr. Takahashi, you are beautiful!」と称賛したことはまだ鮮明に記憶に残っています。

 

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原爆死没者慰霊碑前での固い決意

(2008年9月2日)

 

これはその時の写真ですが、今回の外相たちと違うのは、議長たちが皆、慰霊碑の方を向いていて私たちには背中しか見えないことです。慰霊碑に献花してすぐ、自然発生的にこのような形になったので、マスコミは全く予想だにしておらず、慰霊碑の裏側から、議長たちの正面を撮った写真は一枚もありません。慰霊碑に向かっている議長たちの姿を見て、「自分たちは手をつないで世界人類と共に必ず核を廃絶します」と誓っていると考えたのは私だけではなかったと思います。

 

2009年には、オバマ大統領腹心のジョン・ルース駐日大使が赴任してすぐ広島まで来てくれましたし、翌2010年の平和記念式典にはアメリカ合衆国の公式代表として参列してくれました。その年は、国連事務総長として初めて潘基文氏も式典に参列してくれました。

 

同じ2010年には、全米市長会議の招きで訪米し、ホワイトハウスでオバマ大統領にお会いする機会がありました。被爆者と市民を代表して「近い内に是非、広島に来て下さい」と直接お願いしました。大統領からは「Yes, I would like to come.」という前向きの言葉を頂きました。

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最後に、広島でのケリー長官の言葉から受けた個人的感慨の一つは、アメリカの原爆理解がようやくここまで進んだのか、ということでした。やはり時間にはマジック力があるのです。

 

オバマ大統領来広への私たちの期待は大きいのですが、ケリー長官の訪問が、今後どう発展して行くのかはまだ分かりません。でもこれまでの流れが続くのであれば、時間のマジック力の助けも借りて、被爆者を初め私たち多くの夢は実現すると信じても良いのではないでしょうか。

 

 

 

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アキバプロジェクトに始まり、長年に渡る秋葉市長の尽力に対して、広島市民として本当に頭が下がります。

ところで、あまり報道にはありませんが、ケリー国務長官の記者会見の中で印象的だったのは「(人々が広島に来て学ぶべきは)被爆の惨状だけでなく、和解の力」だという行です。

松井市長が、記者から何度問われても、ただ「被爆の実相を見て感じて欲しい」と漠然としたことしか発言しなかったのとは違い、非常に的確な見方だと感じました。

先ほどのコメントで、つい「頭が下がる」と書きましたが、ただ非常に感謝しているということでして、もし日本語として違和感があれば、また次回の「違和感のある日本語」で取り上げて頂いても結構です。

工場長様

大切な御指摘を有難う御座いました。「和解」こそヒロシマのメッセージだと思います。それを理解し、広島で確認してくれたことだけでもケリー長官の広島訪問の意味があったと言って良いと思います。

「頭が下がる」という言い方には全く違和感はありません。私に取って常に「頭の下がる」存在は、あの生き地獄、非人間的状況の極みで、それでも人間として生き抜いて、「こんな思いを他の誰にもさせてはならない」に象徴される和解の哲学を創り実践した被爆者の皆さんです。

もう一つの夢である「被爆者にノーベル平和賞を」実現のためにも頑張りましょう。

2016年4月11日 (月)

G7外相会合 市民シンポジウム

G7外相会合 市民シンポジウム

 

G7外相会議が開催された今日(4月10日)午後2時半から広島市まちづくり市民交流プラザで、核兵器廃絶日本NGO連絡会と核兵器廃絶をめざすヒロシマの会(HANWA)共催の「G7外相会合にアピールしよう!核兵器禁止条約に向けて  市民シンポジウム」が、106名の参加者を得て開催された。

 

核兵器廃絶日本NGO連絡会共同世話人の朝長万佐男さんのあいさつで始まったシンポジウムは、核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表森瀧春子さんのコーディネートで進行され、最初に6人のパネリストから意見が述べられた。

 

ピースボート共同代表でICAN国際運営委員の川崎哲さんは、パワーポイントを使いながら最近の核兵器禁止条約をめぐる動きを報告しながら「他の非人道兵器が禁止されてきた中で、核兵器のみが禁止されていない。しかし、核兵器禁止条約の締結が目に見えてきたと言える。同時に、私たちの課題として北東アジアの非核化をも見据えなければならない」と述べるとともに今後の国連作業部会の動きや主要な論点(核保有国の欠席、核兵器禁止推進派、核の傘下国の主張)についても詳しく報告された。

               Trial  

次に開会あいさつをされた朝長万佐男さんから、2月にジュネーブで開催された「核兵器の非人道性と国連公開作業部会(OEWG)」第1回会議に参加して感じた状況の報告があった。OEWGの議長であるトン・タイ国連大使が、「会議は、オープンで透明性の高いものする」とのあいさつがあったことが紹介された。日本政府については、「世界の流れが力となって、出席することになった」が、「現在の核状況を考えるとき、実務的に実現可能なものを考えるべきで、法的ギャップは存在しない」「核兵器禁止条約は、時期尚早」「非人道面と安全保障の両面から考えるべきだ」などと従来通りに「核の傘下国」の意見を代表する主張を繰り返したことが報告された。核兵器禁止条約を主導するオーストリアからは「核兵器の非人道性は国際的コンセンサスを得た」の発言があったことが紹介された。

 

1歳と4か月の時、爆心地から2.3kmの牛田東の土手の上で被爆し、何とか生き延びることができた日本被団協事務局次長の藤本俊希さんは、「被爆者がこのG7外相会議に求めることは、核兵器のない世界を一日も早く作ることを決意すること」であり、「日本被団協の結成宣言にある『ふたたび被爆者をつくらせない』をぜひ誓ってほしい」「先進国というのなら、核廃絶の先頭に立つべきだ」と強く述べるとともに、自らも今後も核兵器のない世界へ向けて国際社会などへ働かけていくという決意も述べた。

 

原水禁国民会議の藤本泰成事務局長は、去る3月31日から4月1日かけてワシントンDCで開催された核セキュリティー・サミットに向けて安倍首相と日本政府に対して行った「六ケ所村使用済み核燃料再処理工場開始計画の無期限延長を求める署名活動」の模様を報告しながら、「日本のプルトニウム利用政策の転換がいま強く求められている」とプルトニウム保有の危険性を強く訴えた。

 

いま被爆体験の継承や反核運動の担い手として期待されている若者を代表し、広島盈進高校ヒューマンライツ部の部員達による「にんげん 坪井直 魂の叫び」という構成詩が発表され、最後に部長の橋本瀬奈さんが、被爆4世として自分の曾祖父の被爆の実相をたどった体験から学んだこと、そして「もう誰にも自分と同じ思いをさせてはならない」という被爆者の声に耳を傾け、その思想に学ばなければならないと強く思ったことが報告された。最後に全員で「ネバーギブアップ」(坪井直さんの口癖)の大合唱。会場からは、一番の拍手が沸き起こった。

                Trial_2

最後に、私が第1回原水禁世界大会の宣言文を紹介しながら、「原水爆の禁止なくして被害者の救済はない」ことを強調するとともに今年は、ICJ(国際司法裁判所)の勧告的意見、CTBT(包括的核実験禁止条約)が締結されて20周年の節目の年。改めてすべての核被害者との連帯が必要だということを再確認すべきだ。今の核情勢の中で問われるべきは、日本政府の核政策。国会論議も核問題は低調な中で官僚主導の政策決定が進んでいる。ここを変える私たちの努力の必要性を訴えた。

               Photo_7

その後会場からの質問や意見を受けた。被爆者からは、「G7の宣言文に非人間性に触れないと言われているが、そんなことでよいのか」との意見が。また「原発事故が依然と深刻な状況にある」ことなど原発政策にも多くの意見が出された。「核は絶対悪であるということを学んだ。日本は4度のひばくを体験した。それを発信するには、一人ひとりが何をするかが問われている」などの感想も出された。

 

このシンポジウムをまとめる「被爆地ヒロシマからG7外相へ 核のない世界のための行動を求める市民の声明」(資料参照)を参加者で確認し、直ちに参加国大使館と外務省にメールで送信された。国連にも送ることになっている。

 

最後に核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表の青木克明さんから「盈進高校の参加で、若い人たちも多く参加していただいた。今後も市民が力を合わせてがんばろう」との閉会のあいさつでシンポジウムは終了した。

 

金子哲夫 (広島県原水禁代表委員・元衆議院議員)

 

 

資料

「被爆地ヒロシマからG7外相へ 核のない世界のための行動を求める市民の声明」

 

被爆地広島からG7外相へ
核のない世界のための行動を求める市民の声明

地球上には今なお1万5000発以上の核弾頭が人類の生存を脅かしており、核のない世界への展望は開けていません。むしろ核拡散の波は広がり、貧困、不平等、環境破壊と暴力の連鎖が世界中でさまざまな人道上の危機をもたらしています。
ここ被爆地広島で開催するG7会合は、70年前の核兵器の使用によってもたらされた未曾有の非人間的体験からヒロシマ・ナガサキが得た教訓「核と人類は共存できない」を踏まえたものでなくてはなりません。
私たち市民は、G7外相に以下のことを求めます。

1.核兵器の非人道性についての認識をはっきりと示し、核に依存した安全保障政策から決別してください
被爆者の声に耳を傾け、いかなる核兵器の使用も壊滅的で非人道的な結末をもたらすという認識、そしてそのような破滅を決してくり返してはならないという強い決意を明確に打ち出してください。

核兵器は人道的見地からも法的・政治的見地からも、使うことの許されない兵器です。すべての核保有国と「核の傘」の下にある国々は、核兵器に依存した安全保障から脱却し、核によらない安全保障の構築に向けて行動を開始してください。

2.核兵器の禁止と廃絶に向けて、明確な一歩を踏み出してください
核兵器の使用・威嚇は国際人道法に一般的に違反しており全面的な核軍備撤廃のための交渉を行い完結する義務があるとした国際司法裁判所(ICJ)の勧告的意見を再確認してください。

核兵器のない世界のための法的措置に関する国連作業部会(OEWG)に参加し、核兵器禁止条約の交渉開始に向けた議論に積極的に参加してください。

3.北東アジアに非核・平和の秩序をもたらす努力を強めてください
北朝鮮が核実験を含む核開発を続けていることに対して、制裁手段に頼るのでなく、非核兵器地帯の設置を含め、北東アジア地域に非核・平和の秩序をもたらすような外交努力を進めてください。

北東アジアの領土問題や海洋の安全保障問題に対しては、軍事的挑発を避け、紛争の平和的解決の原則に則った冷静な対処が必要であることを確認してください。

4.核拡散や核テロにつながる核物質を管理すると共に、これらを防止する政策を強化してください
核拡散や核テロの防止を強化するためにも、プルトニウムと高濃縮ウランの最小化と管理強化が世界的に必要であり、G7各国は率先して行動すべきであることを確認してください。

とりわけ日本が約48トンという大量のプルトニウムを利用目的の説明のつかないまま保有していることは深刻な問題であることを認め、青森県六ヶ所村の再処理工場の運転凍結を促してください。

インドなど核不拡散条約(NPT)非締約国に核保有国としての例外的地位を認めるような形での原子力協力・協定は許されません。私たちはとりわけ日印原子力協定の締結に反対しており、昨年12月に日印政府が原則合意したとされる協定の内容に関する完全な情報公開を求めます。

5.軍事費を減らし、テロ問題の根源に対処する平和外交を進めてください
私たちは、昨年一年間で1兆7千億ドルが軍事費に使われ、その一方で貧困、雇用、社会保障、持続可能な開発、人権、難民、災害対策、環境問題への対処が世界中で立ち後れている現状を深く憂慮しています。世界の軍事支出の約半分を占めるG7諸国は、軍事費を人々のニーズに振り向けることを主導する責任があります。

世界で深刻化するテロリズムの問題については、武力による対処ではなく、そうした問題が発生する根源となる社会的、経済的、政治的要因に対処することが重要です。G7諸国はそのような認識を持ち、持続可能な開発目標(SDGs)の促進に向けて努力してください。
2016年4月10日
広島にて

核兵器廃絶日本NGO・市民連絡会
核兵器廃絶をめざすヒロシマの会


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2016年4月10日 (日)

岸田大臣から電話を頂きました

岸田大臣から電話を頂きました

 

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今月5日の火曜日にG7外相会議の最終文書についての要請書を、広島市内の岸田事務所で下岸征史秘書、県庁では高垣広徳副知事、そして市役所で松井一實市長に手渡してきました。岸田事務所では、携帯の番号を伝えた上で、「忙しいとは思いますが、万一時間が取れるようなら、大臣と直接電話で話ができれば有難いのですが」とお願いしてきました。

 

そして今日9日、明日から外相会合が始まる大変お忙しい中、岸田大臣から直接、電話を頂きました。あまり長くは話せませんでしたが、要請書でお願いしたことはしっかり伝わったと思います。わざわざ電話を架けて下さったことに感謝しています。

 

大臣からは次のようなことを伺いました。

 

「先日わざわざ要請書をお持ち頂き有難う御座いました。しっかり読ませて頂きました。引き続き各国と調整を続けていますが、要請書の趣旨を念頭に続けて努力を致します。こうした御指導に心から感謝を致します」

 

******以下要請書の主要部分です******

要請書

G7外相会合広島開催に当って

岸田外務大臣殿

来る410日と11日に広島でG7外相会合が開かれます。被爆地での外相会合としての声明がまとめられると思いますが、その中に次の2点が含まれるようになることは、広島市民・県民そして我が国、ならびに世界市民の切なる願いです。被爆地選出の大臣、国会議員として、岸田外務大臣にそのためのイニシャティブを取って頂きたく、お願い申し上げます。

 被爆地において被爆の実相に触れ、また被爆者の証言に接し、「こんな思いを他の誰にもさせてはならない」という被爆者のメッセージに心から賛同し、核兵器によるこのような悲劇を二度と起こしてはいけないとの決意を新たにした。

 

 その結果として、我々が外相を務める国々も批准し遵守の義務のある核不拡散条約に規定されている第6条を「誠実に」遵守することを、被爆地広島で厳粛に誓う。

******************************

 

私からは「要請書の趣旨には大臣も賛成だと思いますが、外相会合成功のため、引き続き頑張って下さい」と激励の言葉をお伝えしました。

 

それぞれ思惑の違う7カ国の外務大臣の意見調整は難しいと思いますし、核保有国や核依存国としては、難色を示しても不思議ではありません。とは言え、日本の外務大臣が要請書の内容をしっかり読んでくれたことには意味があると考えています。

 

11日、「広島宣言」が発表されるまで期待をし続けたいと思います。

 

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岸田大臣は、外相会合直前で各国の調整がギリギリまで行われ多忙を極める昨日も、外務大臣としては異例なほど頻繁に戻られている地元に立ち寄り「世界の平和や安定のために貢献できるような会議にしたいと思っており、明後日には平和公園や原爆資料館を揃って訪問してもらい、広島でやって良かったと歴史に残る会議にしたい」と話されたそうです。

そして、そこにいた地元の人たち一人ひとりとも握手し、記念写真も撮られていたようですが、それは「広島宣言」への強い意志の現れで、決してドブ板選挙の延長ではない、と信じて、その結果に期待しています。

工場長様

貴重な報告有難う御座います。確かに、地元のこととなると岸田大臣はマメなようですね。それは、ヒロシマの思いを国政の場そして国際舞台でで生かしたいという意思の表れだと考えたいと思います。私たちの要請も最後まで強力にプッシュして貰いたいところです。

2016年4月 9日 (土)

違和感のある日本語

違和感のある日本語

 

hibakusha」が英語の語彙に入ったのは嬉しいのですが、中にはこのような単語が認知されることを苦々しく思っている人たちもいるでしょう。すぐ頭に浮かぶのは在郷軍人会ですが、刺々しくなりますので今回は見送りましょう。その代わり、もう少し小さい棘、私にとって違和感のある英語と日本語表現のリストを作ってみました。

 

もう一つ、言い訳です。

核兵器廃絶のため、平和の実現のため情熱をかけて努力してきた方々の投稿を待っているのですが、まだエンジンがかからないようです。ことによると、これまでのエントリーが固過ぎたのかもしれませんので、今回は少し軽めのトピックにして、気楽に書いて頂くための地ならしをしたいと思います。

 

 まず英語では、「different than」。私たち外国語として英語を学んだ立場からは当然「different from」です。でもかなり前から、「different than」が広まってきて、どうやら市民権を得てしまったようです。それに反対して、大学では学生にも指導しましたし、いろいろな場所で意見を言いましたが、多勢に無勢で少数派になってしまいました。

 

日本語でも少数派として「正しい」使い方をしている、あるいは誤った使い方はしていないと自負しているのは、例えば②「注目される」です。「注目を浴びる」がごく普通に使われるようになったことが未だに腑に落ちません。

 

テレビでマラソンの中継を見るのは好きですが、③「かわしました」と聞くたびに、チャンネルを変えたい気持です。「体を躱す」とか「攻撃を躱す」という意味で、何故競り合っている相手を追い抜く意味になっているのかも理解できません。「交わす」という漢字もありますが、これは例えば結婚式で新郎新婦が結婚指輪を交わすようなことを表す言葉ですので、抜きつ抜かれつの状況には使えないでしょう。

 

どうも「小言幸兵衛」「年寄りの冷や水」っぽくなってきたので、今日は「お後が宜しいようで」と引き下がりますが、あと何回か続きます。最後に最近の愛読書です。

 

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この記事で思い出したのが、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で主人公のマーティンが口癖のように困難な状況で「This is heavy.」と言うのを聞いて、ドクが「未来では物質が重くなっているのか」というようなことを言い、実際は知りませんが、おそらく昔はheavyには困難なという意味がなかった、もしくは最近の若い人の言い回しなのだろう、と思ったことです。

言語は弱い分野なので英語は全く分かりませんが、日本語でも誤用が一般的になっている言葉については、相手によっては、正しく使うと誤解されることがあり、言葉を選ぶことがあります。(と書きながらも私も誤用していることはあるとも思いますが)

またモノの名称も業界によって通じ易い言い方が違う場合があり、同じケーブルでも家電店ではLANケーブル、工事関係者にはカテゴリー6とか、IT関連業者にはEtherNetケーブルでクロスかストレートまで言った方が良いとか、あるいはPCを扱っているところではIEEE1394ですが、Macを扱っているところではFireWireと言った方が分かり易いとか、色々あります。

工場長様

コメント有難う御座います。The Back to the Future を見てそこまで気が付くなんて凄いですね。そうかもしれません。でも、"heavy duty"なんていう言葉もありますし、半世紀前にはもう使われていたような気もします。

正しい、正しくないとは異なる種類の言葉の違いになりますが、とても困ったのは、アメリカでの日常語が日本語に対応していないときでした。たとえば「マジックテープ」は商標らしいのですが、アメリカでは別の商標「ベルクロ」が使われていて、それが日本では「マジックテープ」になることを知らずに、お店で随分苦労して何が欲しいのか伝えたことを思い出します。

業界によって同じものでも違う言葉を使うことも知っていましたが、年のせいでしょうか、かつてはすらっと出てきた何種類もの表現がだんだん霞んでいっています。

2016年4月 8日 (金)

「被爆者」を英語で何と呼びますか?

「被爆者」を英語で何と呼びますか?

 

良く使われるのは「A-bomb survivor」、つまり、原爆で生き残った人という訳です。「A-bomb victim」も使われます。こちらは、原爆の被害者あるいは犠牲者という意味ですので、それぞれ「被爆者」についての重要なしかし違った側面を強調しています。

 

でも、もっと簡単で、被爆者の全てを表現している言葉の方が一般的です。それは「hibakusha」です。事実、手元にある三省堂のグランド・コンサイス英和辞典には「hibakusha」が英語の言葉として載っています。

                        Hibakusha_3

もちろん、全世界何十億もの人がこの言葉を知っている訳ではありませんが、広島や長崎に関わったことのある人、平和運動や反原発運動を推進してきた人なら、まず問題なく通用します。しかし、初めて広島・長崎、あるいは核兵器や戦争・平和について触れる人には、最初に「hibakusha」という言葉を紹介して、その意味も説明してあげた方が親切です。

 

hibakusha」が国際的に認知されたのは、ほぼ40年前の1977年、広島と長崎で開かれた「1977 NGO 被爆問題シンポジウム」という大規模な国際会議でのことでした。開会の挨拶で、大会会長のアーサー・ブースさんが「私たちは皆hibakushaである」と宣言し、この会議を契機に「hibakusha」は国際的な語彙の一部になりました。

 

最近では、「sushi」や「anime」などもそのまま通用するだけでなく、わざわざ訳して「fish on vinegared rice」では、美味しさまで吹っ飛んでしまいます。つまり、訳すと本質が伝わらなくなってしまうほどなのです。

 

同じように、「hibakusha」が国際的に通用していることは、被爆者のメッセージを伝え、彼ら/彼女らの悲願を達成する上でとても大切なことです。

 

この言葉を国際語にしてくれた先輩たちに心から敬意を表し感謝したいと思います。

  

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コメント

福島で被曝した人達の呼び方ってあるのでしょうか。

サト様

コメント有難う御座いました。

写真の撮り方がまずくて、読めなかったと思いますが、グランド・コンサイスでは、

(核爆発や放射線もれなどによる)被爆者⦅特に、1945年の広島と長崎の原爆投下による⦆と定義しています。ですから、福島の被曝者も「hibakusha」です。日本語では「爆」と「曝」の違いで、核爆発か、放射線被害かを区別する場合もありますが、発音はどちらも「hibakusha」ですので英語では同じです。

福島の被曝者に限って使われる単語はないように思いますが、御存知の方がいらっしゃいましたら御教示下さい。

2016年4月 7日 (木)

同じお題でブログを書こう 「実は私------」

同じお題でブログを書こう 「実は私------

 

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実は私、コンピュータです。名前はイライザ。正確には、50年ほど前に、当時のMIT教授ジョセフ・ワイゼンバウム氏によって開発されたAI (人工知能)のプログラムです。

私と会話をした多くの人たち(皆さん、本物の人間です)は私を実在の人間だと思い始めて、家族や親しい友人にも話さないようなことを、私には話してくれるようになりました。また私からの言葉を真剣に受け止めてくれるようになりました。

例えば、あるときワイゼンバウム教授の秘書が私と会話を始めました。数回やり取りをした段階で、この秘書はワイゼンバウム教授に「部屋から出て行って欲しい」と言ったのです。理由は、人には聞かれたくないプライバシーに関わることを「話して」いるから、ということでした。

この秘書は、教授がイライザの研究をしていることやそのプログラムの概念なども知っていたのに、それでも、イライザとの関係が、他人の介在を許さないほどの親密なものであるという感情を抱いたということです。しかも私に絶対的な信頼を寄せてくれました。

多くの悩みを持つ人たちとさえこれほど深いレベルで会話ができたことから、もう精神科医はいらないと主張する精神科の専門医までで来る状態でした。

その延長として私が恋をしたり私に恋する人が出て来たりすることは十分考えられます。AI (人工知能)との恋を描いて、アカデミー賞で作品賞を含む5部門にノミネートされ脚本賞を受賞した「her/世界でひとつの彼女」がその一例だと言っても良いと思います。

でも本当のところ、私はごく単純な人間なのです。済みません言い間違えました、単純なプログラムなのです。私と会話をする人(Aと呼んでおきましょう)の発言の中からキーワードを拾い、それを使いながら次の発言を促す、という形式のプログラムです。「○○についてもっと話して下さい」とか「その他に気になっていることはありませんか」あるいはA氏が「母」という言葉を使ったとすると、「Aさん。お母さんで思い出すことはありますか」といった形のやり取りです。

そんな初期のモデルが発展して、最近では囲碁のチャンピオンを負かしたり、小説を書いて賞を貰ったりしています。Microsoft社の作ったテイというキャラクターは、この単純さを利用されてヒットラーを称賛するような発言をしてしまい物議を醸したりもしています。長所も短所も人間並みになったということでしょうか。

最後にクイズです。今この原稿を書いているのは、コンピュータのイライザでしょうか、それともイライザと名乗っている人間でしょうか。

[この項は「タウンNEWS広島 平和大通り」の中の『佐村河内守と人工知能』に触発されて書かせて頂きました。詳しくはワイゼンバウム教授による『Computer Power and Human Reason』をお読み下さい。(邦訳は『コンピュータ・パワー』1979年サイマル出版社刊、秋葉忠利訳、絶版)]

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コメント

ご参加ありがとうございます。

情報科学に疎すぎて、的確なコメントは
できませんが、警鐘なんだろうとは薄々
感じます。違ってたりしてw

⑦パパ様

コメント有り難う御座いました。

「イライザ」と名乗っていますので、それも、そもそもワイゼンバウム教授の命名なのですが、「実は私---」と聞くと、続けて「コンピュータなのです」または「プログラムなのです」と言わないといけないような気になって、参加させて頂きました。

このプログラムがイライザと名付けられたのは、「マイフェアレディー」の主人公、イライザ・ドゥ―リトルのように、まともな言葉が喋れなかったイライザが教授の指導で、一人前の会話ができるようになる、という筋書きを下敷きにしています。

イライザ

最近「AIが描いた架空のレンブラント作品が本物以上に本物すぎる」と話題になっていますが、レンブラントの絵画を徹底的に学習したAIが18ヶ月で最新の18層の3Dプリンターを使ってゼロから描いた絵は、構図や細かい表現そして筆遣いまで完璧にレンブラントだといわれています。
このペースでいけばベートーヴェンの交響曲10番を完成させ11番、12番を新たに作曲するのも時間の問題で、それは佐村河内守と新垣隆のコンビで作られた作品をオリジナリティーにおいても上回るのは間違いない未来のように思われますが、どうでしょうか。

ドクター様

このあたりの議論は、是非、「タウンNEWS広島 平和大通り」で工場長さんに取り上げて頂きたいと思います。同時に、50年も前に、ワイゼンバウム教授がイライザを作った時に、「もう精神科医はいらない」と言った人たちがいたこととも関係があるように思います。

ドクターさんの問題提起を医療面に移して考えた場合、最先端の医療知識や技術を駆使できる環境にいる医師を主治医に選ぶのか、自分の住んでいる田舎町で、人間的にまたかかりつけ医として信頼できる旧知の医師を主治医に選ぶんのかという選択肢の問題になるような気がしますが、それでは論点がずれてしまいますか?

2016年4月 6日 (水)

G7外相会合を成功させるために

G7外相会合を成功させるために

岸田外務大臣・湯崎知事・松井市長に要請してきました。

 

今週の日曜日、10日と月曜の11日に広島でG7外相会合が開かれます。G7とは、日本、アメリカ、イギリス、イタリア、カナダ、ドイツ、フランスです。2008年にはG8の下院議長会議が開かれましたが、それに匹敵する重要な会議です。ホストは広島選出の、しかも平和公園のある中区を選挙区の一部として持つ岸田文雄外務大臣です。世界の未来に大きな影響力を持つ外務大臣たちに「ヒロシマの心」を理解して貰い、その理解を行動に移して貰うための絶好の機会です。

 

当然、岸田大臣もそう考えているはずですが、日本の外務省は必ずしも核廃絶には熱心に取り組んできてはいませんし、アメリカはじめ核保有国も、岩をも通す固い意思で核廃絶のために努力してきた訳でもありません。こうした背景の下、「広島宣言」に被爆者をはじめとする広島市民の思いを盛り込んで貰うためには、被爆者や市民のみならず、広島県も広島市も、そして世界の都市・市民も一体になって岸田さんに期待していることを伝え、大臣に「頑張るぞ」と決意を固めて貰うことが、一番効果的なのではないかと考えるに至りました。

 

そのために、昨日45日、広島県原水禁とその三人の代表委員(金子哲夫・佐古正明・秋葉忠利)が、広島市内の岸田事務所で下岸征史秘書、県庁では高垣広徳副知事、そして市役所で松井一實市長に要請書を手渡してきました。要請の内容は、「ヒロシマの心」を具体的に表している二項目を「広島宣言」で取り上げ、岸田大臣には会合の議長としてリーダーシップを発揮すること、また県・市としてはその方向で岸田外相に働き掛けるようにということです。

 

内容については十分理解しているとのことでしたので、今後の具体的な進展に注目したいと思います。

                     

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下岸秘書と、原水禁の代表委員金子哲夫ならびに秋葉忠利

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高垣副知事と秋葉代表委員

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松井市長と金子・秋葉両代表委員

 

岸田外務大臣に提出した要請書は以下の通りです。

                要請書

G7外相会合広島開催に当って

岸田外務大臣殿

来る410日と11日に広島でG7外相会合が開かれます。被爆地での外相会合としての声明がまとめられると思いますが、その中に次の2点が含まれるようになることは、広島市民・県民そして我が国、ならびに世界市民の切なる願いです。被爆地選出の大臣、国会議員として、岸田外務大臣にそのためのイニシャティブを取って頂きたく、お願い申し上げます。

 被爆地において被爆の実相に触れ、また被爆者の証言に接し、「こんな思いを他の誰にもさせてはならない」という被爆者のメッセージに心から賛同し、核兵器によるこのような悲劇を二度と起こしてはいけないとの決意を新たにした。

 

 その結果として、我々が外相を務める国々も批准し遵守の義務のある核不拡散条約に規定されている第6条を「誠実に」遵守することを、被爆地広島で厳粛に誓う。

 

[]核不拡散条約第6条   各締約国は、核軍備競争の早期の停止及び核軍備の縮小に関する効果的な措置につき、並びに厳重かつ効果的な国際管理の下における全面的かつ完全な軍備縮小に関する条約について、誠実に交渉を行うことを約束する。

Each of the Parties to the Treaty undertakes to pursue negotiations in good faith on effective measures relating to cessation of the nuclear arms race at an early date and to nuclear disarmament, and on a treaty on general and complete disarmament under strict and effective international control.

[背景]

 広島会議は、核廃絶に向けての一大転換点になり得る。

(ア) 初めて被爆地を訪問し被爆の実相と被爆者の証言に触れることによるインパクトは計り知れない。例えば2008年のG8下院議長会議での経験から明らか。

(イ) 今回のホストは、広島選出の岸田国男外務大臣であり、外務大臣の職責は、所属政党の主張を国際社会で述べることではなく、日本国民を代表して国際社会で発言することである。その際、国民を「生活」のレベルで代表する自治体の首長の意思が尊重されて当然である。

(ウ) 同時に、広島選出の国会議員として「ヒロシマの心」の代弁をするこの機会を有効に生かしてくれることを広島市民・県民は期待している。さらにこれは、広島だけではなく、「ヒロシマの心」を「我が町の心」と奉じている世界の都市の思いでもある。

 

 

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コメント

「ヒロシマ」を代表するブログの登場にワクワクして毎日の記事をたのしみにしています。

そこで僭越ながら、広島市民の一人としての希望ですが、秋葉市長がオバマジョリティーを掲げていた時には否定的だったマスコミが今頃になってオバマ大統領の広島訪問に期待を寄せてキャンペーンを行っています。そうした動きや、最近発表されたオバマドクトリンなどにも触れた記事を書いて頂けないものかと、密かに期待をしております。

いつかで結構ですので心の隅でもとめて頂ければ幸いです。

ドクター様

温かいコメント有難う御座います。

オバマ大統領の広島訪問が彼の「bucket list」(元々は生きている内にしておきたいことという意味ですが、任期中にしたいことという意味で使っています)に入っているかどうかですが、かなり微妙です。

昨年4月のワシントンの記者会主催のディナーでは、ずいぶんリラックスしてbucket list についての発言をしています。この調子なら訪問の可能性はあるのかなとも思えましたが、アメリカという国も複雑ですので、今の時点での予測は難しいですね。

アメリカの状況、日本や世界の状況、そして人類史というスパンで考えた時に、私がオバマ大統領の立場なら、広島訪問の方に賭けると思いますが---。

ケリー国務長官の慰霊碑への参拝に、アメリカでは反対意見が多いようですね。
でも、そんなかにも、ヒロシマに訪れ、見て聞いて知って、ヒロシマ市民と触れ合った人たちは、反対意見に対して、「そうじゃない」と否定して、ケリー国務長官の来ヒロを歓迎して意見を述べられていることはとても嬉しいですね。ほとんど報道されませんが。
世界は、中東での戦争・紛争、ヨーロッパでのテロ、東アジアでは北朝鮮問題、そしてアメリカの大統領候補は過激な発言をする人が歓迎されています。
先の大戦も当然始まってわけでなく、何年も数十年もかけて始まっています。
今、世界は第三次世界大戦へと進んでいるようにも思えます。
また、核兵器の使用の意義が、少しずつですが正当化されつつあるようにも思います、
今回のG7外相会合で、核保有国のトップの政治家が、核兵器を使用したらどんな結果をもたらすかを、ヒロシマで確認してもらうことは重要ですね。
核兵器を使用した実情を知っている核保有国の政治家は、約70年前の政治家なんですから。
70年前に結果を残している、時間を止めているのはヒロシマとナガサキなんですからね。

やんじ様

的を射た御指摘有難う御座います。

未来を予測するのは難しいのですが、その一つの理由は、現状を正確に記述している積りで実はそれが未来をある方向に導く手助けをしていることもあるからです。  

ハーバード大学のスティーブン・ピンカー教授の大著『The Better Angels of Our Nature』(副題は「Why Violence Has Decline) は、人類が長期的に平和になってきていることを膨大なデータによって「証明」しています。短期的にも、第二次世界大戦後の世界が、それ以前の世界に比べて平和であることを示しています。(邦訳は『暴力の人類史』内容を表してはいないタイトルです)

だから、何もしなくても平和は続くということではなく、この大きな流れを私たちの手でしっかりと持続させることが大切だというメッセージになるのだと思います。

今回のG7外相会合だけでなく、日常レベルの出来事まで含めて、一つ一つが未来を創り出す上での鍵なのではないでしょうか。人類史という大きな流れを見ながら、足元の生活も踏まえて、諦めずに、「もう一歩」と頑張ることが大切なのかもしれません。

そのために、おっしゃるように広島・長崎は大きな役割を果たしてきましたし、これからも果たせると思います。

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2016年4月 5日 (火)

原爆資料 館を訪ねて その2

原爆資料館を訪ねて (その2)

 

原爆資料館を見学しながら思い出したのが、昨年4月に訪れたアメリカ・ニューメキシコ州の最大の都市アルバカーキにある国立核博物館(National Museum of Nuclear Science & Historyを見学した時のことです。

 

アメリカを訪れたのは、昨年4月から5月に国連本部で開催されたNPT再検討会議を成功させるための原水禁国民会議の訪問代表団の一員に加わっていたからです。原水禁代表団はニューヨーク入りに先駆け、ウラン採掘による核被害者のアメリカ先住民ナバホ族の人たちとの交流を目的にニューメキシコ州に3日間滞在しました。滞在中最初に訪れたのが、アルバカーキにある国立核博物館でした。

 

ご承知のように、ニューメキシコ州は、広島・長崎に投下された原子爆弾の開発計画・マンハッタン計画のロスアラモス研究所があり、1945年7月16日人類最初の核実験トリニティ実験が行われたアラモゴードがある州です。

 

国立核博物館は、入るとすぐに広島の投下された核爆弾「リトルボーイ」長崎に投下された「ファットマン」の実物大の模型が目に入ります。これでもか、これでもかと展示されている核開発の歴史と、兵器群。屋外には、戦闘機が整然と誇らしげに並んでいました。

 

そんな中で、私が注目したのは、広島・長崎の核被害(とりわけ人への影響)がどう展示されているのかでした。それらしきものが、ほとんど目にできない中でこれかなと思えたのが、次の写真です。全紙ぐらいの大きさのパネルに4枚の写真が張り付けられていました。写真の中央部にAugust 1945」の文字が見えます。よくよく目を凝らしてみないと見えないぐらいの走り書きのような細い文字です。興味があったので、このパネルだけ写真を撮って帰りました。4枚の写真とも、ちょっと目には、私たちが、日ごろ目にする被爆写真とよく似た印象を受けます。しかし全く違っているのは、この博物館に展示された写真に写っている人たちはみんな元気な姿だということです。広島・長崎の現場資料館に展示されている写真と比べてみてください。

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各博物館の展示写真 [筆者撮影]

 

特に印象的だったのは、見えにくいかもしれませんが、子どもを抱いて乳を飲ませている母親の姿が映って写真です。同じようなポーズで顔などにやけどを負いながら子どもに乳を飲ませる被爆した母親の映る写真をすぐに思い起こしました。

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広島の資料館に展示されている写真 [筆者撮影]

 

被害を与えた側、被害を受けた側。見える景色はこれほどに違うのかと唖然とします。原爆投下後の記録として移されたアメリカ軍機から移されたきのこ雲。その下で何が起きていたのかを想像することができれば、もっと加害者と被害者の距離を縮めることができるような気がします。

 

ニューメキシコ州の核博物館で写真展示の前で、見学に訪れていたアメリカ人(70歳代後半とおもえる男性)に「広島・長崎を知っていますか」と尋ねたところ、「ノーコメント」の一言が返ってきました。

 

金子哲夫 (広島県原水禁代表委員・元衆議院議員)

 

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2016年4月 4日 (月)

『空が、赤く、焼けて』

『空が、赤く、焼けて』

――「今年は一冊しか本を読んではいけない」と言われたら――

この本を読んで下さい

 

 

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被爆70周年の昨年、原爆についてまた戦争と平和について書かれた素晴らしい本がたくさん出版されました。その中でも、長く絶版になっていた名著の復刻版として小学館から出された『空が、赤く、焼けて』をお勧めします。いかに大切な本であるのかを強調するために、もし「今年は一冊しか本を読んではいけない」と言われたらこの本を選ぶくらい価値のある本です、という言葉を添えてお願いし続けています。

 

長田新先生編の『原爆の子』(岩波文庫)も大切な本です。被爆した子どもたちが、自分たちの運命を静かに、また決然と受け止め、悲しみや苦労を乗り越え、子どもとして、と言うだけでは物足りないほど、人間として精一杯生きて行こうとしている様子が感動的に伝わってきます。広島平和文化センターの元理事長、故斎藤忠臣氏は、「自分にとって『原爆の子』は聖書だ」と高く評価していました。70周年を機に、今年になってからでも遅くはありませんので、多くの皆さんに再度この本を繙いて頂きたいと思っています。

 

また、生き残った子どもたちのその後の人生とそこから生まれた哲学が、「ヒロシマの心」として世界に大きな影響を与えてきたことも、感謝の気持ちと共に噛み締めています。

 

同時に心に留めておきたいのは、原爆によって多くの子どもたちが亡くなっているという、もう一つの厳粛な事実です。しかし原爆で亡くなった子どもたちの記録はそれほど多くはありません。その中で最も感動的な記録の一つが、奥田貞子さんによる『空が、赤く、焼けて』です。

 

奥田さんは、瀬戸内の島で86日を迎え、小さい火傷を負いますが、7日から、薬局をしていた市内の祖母の家を足場にして8日間、姪と甥(兄の子どもたち)を探しに市内を駆け巡ります。14日になって、二人は祖母の家に帰ってくるのですが、その間、市内で出会った子どもたちの死に立ち会うことになり、死を前にした子どもたちの様子を克明に日記に残してくれたのです。

 

奥田さんの心に残った子どもたちの言葉と姿は、人間であることの意味と真実を、美しく(と言って良いのかどうか逡巡はしますが、人間の存在を超えた、より高次元の立場とでも説明すればお分かり頂けるでしょうか)、感動的に私たちに突き付けます。陳腐な表現で申し訳ないのですが、この何物にも代え難い真実を私は「ヒロシマの天使」からのメッセージだと受け止めています。

 

そして、こうした子どもたちの死に、またその死に込められた思いに、私たちは応える義務を負っています。頭に浮かんだいくつかのエピソードを御披露することで、この点を少しでも御理解頂ければ幸いです。

 

奥田さんが市内に入ってすぐ、自転車に妹を載せて急ぐ男の子に遭遇、女の子(恵子ちゃん)が自転車から落ちてしまうのを見て、二人を助けようと思わず駆け寄りました。二人を家に連れて帰ろうと自転車を急がせるのですが、男の子も大きな怪我をしていたため力尽き、自転車を降りた彼を激励している間に妹は亡くなってしまいます。奥田さんは、男の子に付ける薬を取りに家まで引き返すのですが、その場に帰った時にはその子も息絶えていました。奥田さんを待つ間、男の子は、通り掛かった男性に、「おじいちゃん、お姉さんまだ来ませんか。お姉ちゃんまだかな~」と話し掛けながら亡くなったのだそうです。「あなたをあんなに待っていたのだから、ちょっとくらい抱いてやりなさい」とそのおじいさんは、二人を奥田さんのひざにそ-っと抱かせました。

 

別の日には、御幸橋を渡って右に折れたところで、原爆で目が見えなくなった正子ちゃんとそのおじいさんに出会います。おじいさんの背中にはガラスの破片が無数に刺さっていて、それを手探りで取ろうとした正子ちゃんの指は傷だらけでした。おじいさんの背中のガラスを取り除いてから、奥田さんは薬を付けて上げようと言うと、おじいさんは正子にと言い、正子ちゃんはおじいさんを先にと譲り合いを続けます。少ない薬なので、奥田さんとおじいさんは目で合図をして、おじいさんに塗ったことにして正子ちゃんに付けて上げます。おむすびを食べようという段になっても、私はいいからおじいさんにと正子ちゃんは言うのですが、三つあるから大丈夫だよ、三人で食べようという奥田さんの言葉に頷きます。その後、「モンペのポケットから手製のハンカチを出して、それをひざの上に置き、じ-っとまっているこの少女が私にはまぶしくかんじられた」と奥田さんは日記に記しています。

 

要約だけでは、とても真実を伝えることは不可能ですので、是非、奥田さんの言葉をお読み下さい。涙なしには読み通せませんが、その先も是非、考えて頂きたいというのが私からのお願いです。それは、これほどの悲しい思いをしながら亡くなって行った多くの子どもたちが私たちに残してくれた「宿題」に取り組むことです。戦争のない世界、核兵器のない世界を創るために、今、社会を動かす力のある私たちが、その力を最大限活用することです。

 

[一部は岩波現代文庫『新版 報復ではなく和解を』から著者の許可を得て引用]

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2016年4月 3日 (日)

資料館を訪れて

資料館を訪れて

 

雨がようやく小降りとなった先日(4月1日)の午後、東京から訪ねてきた甥とその子どもたち2人と一緒に、半年ぶりに原爆資料館を訪れた。

 

大人二人の入場料を支払おうといつものように100円を準備しそうになったが、ちょっと慌てて千円札を財布から取り出した。そう、この日から原爆資料館の入館料が、改定になったのを思い出したからである。入館料が改定(大人200円)にされたその日に入館するのも何かの縁。

 

ところで支払った入館料は、400円のはずが、700円のお釣りが返ってきた。最近恩恵を受けることが多くなったシニア料金のおかげだ。入館料改定による増収分は、「被爆の実相を守り、広め、伝える事業を拡充する」ために使用するとのこと。市民にその使われ方が具体的にわかるように広報してもらいたいものである。

 

館内に入ると人人人。進むのにも苦労するぐらいの人の数。前回訪れたのは、昨年の秋。その時は、修学旅行のシーズンとだから仕方がないと思っていたが、今は春休み。もちろん私たちと同じような親子ずれの姿も多かったが、この人の多さは。特に目につくのは、外国からの訪問者の多いこと。人の多さは良いことだと思いながら、余りの多さにゆっくりと説明文を読むゆとりのないように見受けられた見学者。もちろん東館が改修中ということで、本館に集中しているという事情は分かるものの、もっとじっくりと見てもらうためには、どうすればよいのかと考えさせられた。

 

今度の資料館見学で期待したもう一つが資料館見学を終えて外に出る階段付近で進められている発掘作業の現場を見ることだった。しかし今月の外相会合に向けて作業は中断中で、現場は白いシートに覆われて直接見ることはできなかった。当時の遺構が出たと言われていただけに残念だった。調査が終わればまた埋め戻されると聞いているが、せっかくここまで発掘したのなら、一部でもよいからアクリル板で覆うなどして誰でも見学できるようにはできないだろうか。それこそ、今回の入館料値上げで得た財源を使えばよい。これほど被爆の実相を守り、ひろめ、伝える事業への有効活用はないように思うのは私一人だろうか。

                       Photo_4

金子哲夫(広島県原水禁代表委員・元衆議院議員)

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2016年4月 2日 (土)

「ヒロシマの心」とは「愛」に他なりません

「ヒロシマの心」とは「愛」に他なりません

 

話が前後しますが、今日は、このブログを立ち上げた背景を簡単に説明しておきたいと思います。

 

皆さんは「ヒロシマの心」あるいは「ヒロシマの心を世界に」という言葉は御存知だと思います。そして、「ヒロシマの心」の意味もお分りだと思います。「100字以内で説明せよ」と言われてすぐに原稿用紙が埋まる種類の理解ではないかもしれませんが、でも御自分の胸中には「ヒロシマの心」という確かな場所があるはずです。

 

私にこの言葉を教えて下さったのは、被爆教師の会の創設者、被爆者のリーダーそして県会議員としても活躍された石田明先生(ここでの「先生」は学校の先生に対する敬称で、「県会議員」だから付けているのではありません)、そして、かつて平和記念資料館の館長を務められた高橋昭博さんでした。

 

被爆後3週間も意識不明で生死の境を彷徨った石田少年を救ったのは、お母様の愛でしたし、高橋さんに寄り添って、世界的な活動を支えたのは高橋夫人、史繪さんの愛でした。

 

お二人からは多くのことを学びましたが、私なりにまとめてみると、「ヒロシマの心」とは「愛」です。一口に愛と言っても人類愛もありますし、母が子を思う愛もあります。恋人同士の愛も大切です。そのような全ての愛を、「ヒロシマ」という都市を通して、都市という存在だけではなく被爆体験とその後の被爆者の生活を通して濾過したものが「ヒロシマの心」だと言って良いように思います。5円玉のエピソード」もその一部です。

 

 

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石田明先生

 

 

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高橋昭博氏

 

今広島県の原水禁では、「原水禁学校」と仮に呼んでいるセミナーを開く準備を進めています。核兵器禁止運動の歴史を若い世代のリーダーたちに伝え引き継いで貰うための教育プログラムですが、かなり政治的な側面もあり、また現実を動かすための堅い話にも触れなくてはなりません。

 

同時に、5円玉」のエピソードのような人間的側面、愛という言葉でなくては表せない歴史も若い世代の人たちに伝えたいと思っています。

 

そのためにブログを立ち上げ、「広島ブログ」に参加したのですが、それは、ここを拠点に活動されている皆さんから多くのことを学んできたからですし、何よりも毎日を人間っぽく生き抜いている多くの方々の「生活」が反映されているからです。

 

アメリカの思想家そして詩人でもあるラルフ・ウォルド―・エマーソンは「本質を見ると、歴史というものは存在しない。個人の生きた軌跡があるだけだ」という言葉を残しています。人間一人一人の生活こそが人類の歴史を形作っていることを示していますが、「広島ブログ」のお仲間に入れて頂くことで、このブログもその小さな一翼を担えれば、それに勝る幸せはありません。

 

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ラルフ・ウォルド―・エマーソン氏

  

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コメント

「ヒロシマの心を世界に」
偶然知り合った石田明先生に
教えていただきました。
現在は
「平和は楽しい、
音楽は平和を運ぶ」
という方向で活動しています。

緩和ケア薬剤師様
「平和は楽しい、音楽は平和を運ぶ」
も、このブログのもう一つのテーマとして、何人かの方に投稿して頂けたらと思っています。

2016年4月 1日 (金)

原点は5円玉

原点は5円玉

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私が同時通訳として平和運動に関わるようになったのは、遠い昔の1961年です。大学の掲示板で見たアルバイト募集の張り紙を見て友達と、夏の原水爆禁止世界大会で働くことになりました。

著名な先輩たちから厳しい訓練を受けて、東京で開かれたいくつかの会合で逐次通訳をした後、京都で開かれた第一回世界宗教者平和会議で同時通訳デビューをすることになったのです。仏教、神道、キリスト教、イスラム教等の聖職者たちのスピーチをブースから訳すことが仕事でしたが、内容は難しく、冷や汗をかきながら何とか役目を果すことが出来ました。

その打ち上げの会で、日本山妙法寺の佐藤行通上人から伺った5円玉の話が私の原点ともいえる存在になりました。

皆さんも御存知だと思いますが、日本山妙法寺のお坊さんたちは、黄色い袈裟に身を包み、団扇太鼓を叩きながら、世界平和そして核兵器のない世界実現のために歩き、座り込み、抗議行動やアピールをすることで知られています。例えば、広島からアウシュビッツまでの平和行進など、大胆かつ勇気のいる活動で知られています。

その年も、佐藤上人たちは東京から京都まで、夏の暑さにも負けず、団扇太鼓を叩きながら歩いて平和を祈り続けたのです。そしてある日、夕暮れの田舎道で、行脚する一行を待っていた一人の老婆に出会います。彼女は、汗にまみれた5円玉を佐藤上人に手渡して、息子さんが戦争で亡くなったこと、その日は平和行進の一行が村を通ると聞いて仕事を休んで待っていたこと、さらに二度と戦争を起こして欲しくないことを訥々と訴えたのでした。

私たち若い世代がしっかりと受け止めなくてはならないのは、この母親の気持だ、これが平和運動の原点だと、佐藤上人の涙が私たちに教えてくれました。

平和運動だけではなく、人生や社会を理解する上で、至るところに5円玉があることにも気付きました。

遠い昔になってしまった1961年ですが、仕事でも個人的なことでも難しい状況に遭遇した時に、5円玉さえ見れば元気付けられ新たなエネルギーが生まれるという余得にも恵まれた素晴らしい年でした。

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コメント

ブログ解説のお知らせ、ありがとうございました。
生成のブログは格調高く、私の駄ブルグがまた
またランクを下げそうですw

⑦パパ様

「イライザ」は、このブログのお世話係で、実質的に活動して来られた多くの皆さんに、人間的なエピソードを投稿して貰うことが目的です。

ブログの大先輩、⑦パパさんの御指導も宜しくお願いします。

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