2017年1月18日 (水)

歴史的人物たちの真実 (2) ――学者は戦争とどう向き合うべきなのか――


歴史的人物たちの真実 (2)

――学者は戦争とどう向き合うべきなのか――

 

 

オットー・ハーン博士 (以下略してOHと表記します。他の科学者についてもタイトルは略します。) のナチス・ドイツ時代の立場、「オットー・ハーン博士の孫 その2」で説明しましたが、OHにとっての核分裂は純粋に化学的な出来事であって、それを元に核爆弾を造るということなど考えてもいなかったし、不可能だと予測していたようです。核分裂発見直後に、アメリカで核爆弾が作れるはずだと予測した核物理学者たちに対しても、「あんなことで騒げるのは物理学者だからだ」といった評価だったようです。

 

そして、1933年にナチスに支配されたドイツを離れアメリカに行ったものの、その後ドイツに戻って研究を続けています。このことは、同じ年にアメリカに亡命したアインシュタインとの対比で批判的に語られることもありますが、1938年の核分裂発見、またそれ以前の多くの新元素や放射性同位体の発見当の流れを考えると、研究環境と共同研究者としてのリーゼ・マイトナーやフリッツ・シュトラスマンがいたという点で恵まれていたことが大きかったのではないでしょうか。

              

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リーゼ・マイトナーとオットー・ハーン

 

その後、ユダヤ人のリーゼ・マイトナーにはナチスの迫害の危険が迫り、OHも含む科学者たちの助けでスエーデンに亡命します。1943年にマイトナーは、原爆の開発に参加して欲しいとイギリスから誘われますが、「爆弾に関わる気はない」と言って断っています。戦後マイトナーは、ナチス時代の科学者の役割について、「科学者がもっとナチスに対抗すべきだったし、その点についての反省も行うべきだ」と主張し、OHをも含めて批判していますが、OHとの交流は続けていましたし、ドイツからの様々な賞等も受賞しています。

 

ナチスによって強制収容所に送り込まれ大きな被害を受け、それでも生き残った人たちからはもっと強い非難の声があっても当然なのですが、それを考える上でもう一人、ナチス時代のドイツの科学界のリーダーだった、ヴェルナー・ハイゼンベルクの役割にも注目したいと思います。連合国側の諜報組織であるアルソス・ミッションがドイツに侵入して集めた資料で、1944年の時点では、ナチス・ドイツが原爆を所有していないことが明らかになりましたし、そのあと、短期間で開発に成功する見込みもないことが分っていました。

 

ハイゼンベルクは、理論的には十分だが、実際に爆弾を作るのには人も資材もお金も足りないと考えていたようなのですが、この時期を巡って、いくつかの興味ある「噂」があります。例えば、ハイゼンベルクの役割について、彼ほどの力のある物理学者が率いる研究チームが原爆を製造できないはずがない、という前提で考えると、ハイゼンベルクはナチスが原爆を持てないように、内部で画策したのではないかという説です。製造に必要な理論を導くのに3次元モデルを使わなくてはならないにもかかわらず、ハイゼンベルクは仲間たちに2次元モデルでの解決を求めた、というのです。もしそれが本当なら、問題は解けず、原爆は造れないことになります。この話をしてくれた同僚は、それも科学者としての一つの選択肢だと語っていました。

 

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ヴェルナー・ハイゼンベルク

 

真実は藪の中ですが、歴史的事実を謙虚に振り返ることが大切なのは言うまでもありません。しかし、それ以上に大切なのは、今、私たちが同じような問題に直面したときにどう考えどう行動するのか、という点です。過去の事実がそれに役立つのであれば、賢い選択を行うために活用すべきでしょうし、そうでなければ、自分の頭で考えることになるのではないでしょうか。「過去」 = 「昔のこと」 = 「自分には関係ない」こととして、上から目線での評論をしていれば事足りるのではないことを再確認しておきたいと思います。

 

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2017年1月17日 (火)

歴史的人物たちの真実 ――いわれなき誹謗中傷に晒させることも――


歴史的人物たちの真実

――いわれなき誹謗中傷に晒されることも――

 

 

「歴史的人物」で真っ先に頭に浮ぶのは、湯川秀樹博士です。子どもの頃、日本人で初めてノーベル賞を受賞したというニュースが、日本全国を歓喜の嵐で包んだことと無関係ではありません。そして、中学に入ってからだと思いますが、湯川先生の自伝『旅人』が、ラジオで毎日か週一だったのか記憶は定かではありませんが、朗読される番組がありました。それを聴くために、午後6時には必ず家に帰っていたほどでした。

 

その中のエピソードで良く覚えているのは、夢の中で思い付いたアイデアを忘れないようにするため、枕元にノートと鉛筆を置いておき、目が覚めると忘れないうちにそのアイデアを書き留めていたということです。確か、中間子の理論もそのノートのお蔭で完成したということだったので印象が強かったのだと思います。

 

天才的数学者岡潔博士もエッセイ集の『春宵十話』等の中で、数学的問題を解決するために、台風の接近する海を見たくて危険を承知でフェリーに乗ったとか、北海道大学の研究室では寝てばかりいて「嗜眠性脳炎」という綽名を付けられたといったエピソードを披露しています。

              

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「歴史的人物」や「偉人」と呼ばれる人たちの、こうした浮世離れしたエピソードばかり読んでいたせいなのかもしれませんが、彼ら/彼女らが社会との接点を持ち、そして中にはその接点が、御本人に取っては必ずしも好ましいものだけではなかったことさえ、長い間想像できませんでした。特に私が尊敬していた人物についてはその傾向が強かったような気がします。

 

勿論、成長するに連れ「偉人」や「歴史的人物」のリアルな側面についても学ぶことができましたので、子ども時代のような偶像崇拝には縁がなくなっていました。でも最近、改めて現実の厳しさを感じることがあり、「偉人」や「歴史的人物」の「偉大さ」を考える上で、そのような厳しさを乗り越えた事実も合わせての「偉大さ」なのだということを痛感しています。

 

きっかけを作ってくれたのはキャノン氏です。その前に、戦後のアメリカを振り返っておきましょう。

 

1946年の夏、彼の祖父ジョン・ハーシー氏のレポートが『ニューヨーカー』に掲載されたのは、アメリカの世論の9割は「原爆投下が正しかった」と考えていた頃です。一日に30万部も売れたのですから、多くのアメリカ市民があるいは直接そのレポートを読み、あるいはそのレポートの報道や抄録に触れ、音声化された番組を聞いてショックを受けたことは当然です。その結果、原爆についての疑問が生じたのも自然だったはずです。

 

それは、原爆投下を正当化しなくてはならない立場だった米政府や軍産複合体 (当時この言葉はまだありませんでしたが) にとっては「不都合な真実」でした。正当化のために当時のエスタブリシュメントは、真珠湾攻撃の悪辣さの誇張、対ソ連戦略としての力の外交の強調、原子力の「平和利用」の積極的推進、そして「不都合な真実」のメッセンジャーだったハーシー氏の抹殺等の手段を取りました。

 

ハーシー氏に対する脅迫や嫌がらせは勿論、マスコミ界からも一部を除いて距離を置かれることになり、CIAその他の諜報機関の監視下に置かれ、家族も含めて精神的にも痛め付けられることになりました。

 

そのくらいのことをするのが当り前なのは、真珠湾攻撃と原爆投下の正当化についてのアメリカ政府や関係者そしてマスコミの説明が、だんだん膨らんでいったことからも明白です。前にも述べたように、トルーマン大統領の原爆投下直後の記者会見で、原爆投下により救われたアメリカ人の数は25万人でした。それが50万になり、のちにイギリスの首相チャーチルは150万とまで言っています。

 

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ハーシー氏は、原爆投下を正当化し核兵器と核抑止論を信奉する側の人たちから批判され、攻撃されたのですが、ナチスの被害を蒙り、二度とそのような悲劇を繰り返してはならないと考え行動する側の人たちからの批判の対象になったのが、オットー・ハーン博士です。

 

次回に続きます。

 

 

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2017年1月16日 (月)

広島音楽芸能文化懇話会 ――2017新年互礼交流会――


広島音楽芸能文化懇話会

――2017新年互礼交流会――

 

 

広島音楽芸能文化懇話会恒例の、新年互礼交流会に行ってきました。毎年楽しみにしている会で、数年前にお誘い頂いてからほぼ毎年、出席してきました。

 

この会は音楽、特に歌の好きな人たちの集まりで、プロもアマも、音楽教室の先生も生徒も、さらには作詞や作曲の専門家も一堂に集い、好きな歌得意な歌を披露することで時間の経つのも忘れる一日イベントです。傾向としては演歌が圧倒的に多いのですが、クラシックやジャズの演奏も混じり、今回はソプラノ独唱や浪曲そしてクラシック・ギターの独奏等、バラエティーに富んだプログラムでした。

 

主宰しているのは、上村和博さん。中国新聞時代から数々の企画をこなして、文字通り広島の音楽や芸能、文化の仕掛け人として活躍してきた方です。

              

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上村さん


一つ訂正です。後ろの看板の「喰って」は間違いで本当は「唸って」です。つまり、浪曲もありますよという意味なのです。

 

そしてこの会の参加者の皆さんに感謝しなくてはならないのは、一昨年、被爆70年を記念して開催された「市民がつくる被爆7024時間チャリティー・コンサート」を支えて下さったことです。その中でも、上村さんが中心になって出演者とのコミュニケーションを初め舞台設営その他、専門的なところを一手に引き受けて下さったことですし、またこの会のメンバーの皆さんがボランティアとして出演しまた当日会場に足を運んで下さったことです。

 

それだけでも特筆に値するのですが、2005年に、被爆60年を記念して市民の力でバッハのマタイ受難曲の全曲演奏コンサートを開催した時にも大きな力を発揮して下さり、またそれ以後、市民の力で毎年平和コンサートを開くという継続的な活動の中心にもなって下さってもいます。このような「縁の下の力持ち」にスポットライトを当てる賞があれば、第一に推薦しなくてはならない存在です。

 

その他に御紹介したいのは、「被爆7024時間チャリティー・コンサート」にもボランティアとして長崎から来広、出演して下さった、ギタリストの平山ヒデアキさんです。今回は、パッヘルベルのカノンと、ラベルのボレロを演奏して下さいました。カノンがギターで演奏されるのは定番の内に入りますが、あの情熱的なボレロをギター一本でという演奏は聴き応えがありました。

 

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平山ヒデアキさん

 

また、歌と笑いでこの会の山場を作って下さったのは、胡浜三郎(えびすはまさぶろう)さんでした。1970年に、読売テレビの全日本歌謡選手権で、初代の10週勝ち抜きチャンピオンになり、その後プロデビューをした方ですが、最近は故郷の安芸高田市に戻って活動を続けています。実は、風貌が森進一に似ていることもあって、森進一の「物真似」さん「森進伍」としても人気のあるパフォーマーです。今回は、私たちにもすぐ森進一の物真似ができるテクニックを二つ教えてくれました。

 

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胡浜三郎 (森進伍) さん

 

もう後期高齢者になった上村さんですが、「それを機会にもう少し活動を控えめにしようか」とも考えられたのだそうですが、結局、元気な内はまだまだ頑張る決意に変えられたそうですので、今年も上村さんの呼び掛けで楽しい音楽やパフォーマンスのイベントが続くことになりました。そして上村さんのプロデュースで、多くの新人の皆さんが広島から巣立つ年にもなりそうです。

 

 

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2017年1月15日 (日)

ジョン・ハーシー氏の孫    ――20世紀を代表するジャーナリスト――


ジョン・ハーシー氏の孫

――20世紀を代表するジャーナリスト――

 

 

3世代、つまり歴史的な人物の孫たちの中で、私がたまたまお会いすることになり、しかも強烈なインパクトを受けた三人を御紹介していますが、今回は、20世紀を代表するジャーナリストであるジョン・ハーシー氏の孫、キャノン・ハーシー氏です。今広島に来られていますので、精力的に共同事業を進めている西前拓氏とともにお会いしました。

 

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 キャノン氏と西前氏


私たちの世代に取って「ジョン・ハーシー」という名前は彼の著書『ヒロシマ』とともに、大きな存在なのですが、若い人たちの中には彼の名前を聞いたことのない人もいるかもしれません。簡単に紹介すると、ハーシー氏が1946年に広島を訪れ多くの人をインタビューし、その中から6人の被爆者を選んで彼らの体験と人間性を淡々と、しかしその結果、驚くほどの感動とともに描きました。そのレポートは1946831日号の『ニューヨーカー』という雑誌全頁を割いて掲載され、一日で30万部が売り切れたという記録が残っています。その後、そのレポートが一冊の本にまとめられたのですが、それが『ヒロシマ』です。

 

ハーシー氏1985年に再度、ひろしまを訪れ、6人の被爆者のその後を調査した上で、『ヒロシマ』に追記を加えています。その時に、広島国際文化財団等とともに取材のお手伝いをしたのですが、ハーシー氏の広島レポートは、20世紀最後の時代に、国際的なジャーナリストたちの投票によって、20世紀で最も重要なジャーナリストの仕事に選ばれています。

 

その縁でキャノン・ハーシー氏とお会いすることになりました。

 

私たちが、大切なことを人に伝えるときに、使えるあらゆる手段に頼るのは自然ですが、それが「全て」であることを強調するために、しばしば「情理を尽くして」という表現が使われます。知性と感性と言って良いと思いますが、言葉を使い克明にしかも感動的に被爆体験を伝えるのは「知性」の領域に入ります。

 

キャノン・ハーシー氏はアーティストですので、彼の仕事は「情」の部分、つまり「感性」に訴える仕事です。キャノン氏の活動の一部は、次のウェブサイト、そして1future.comのページで御覧頂けます。

彼の作品展示のレセプションのビデオも御覧下さい。




ここ数か年、キャノン氏の柱の一つになったのは、元々、黒田征太郎氏が手掛けていた「Pikadon Project」です。黒田氏を師と仰ぐ映像作家そして広範なメディア・プロデューサーとしても活躍してきた西前拓氏との共同作業です。その全体像は、クラウド・ファンディングの説明ページが分り易いのではないかと思います。

 

次のプロジェクトのキックオフは今年の4月にニューヨークまた10月頃には広島で始まる予定ですが世代や国境を越えた核なき世界」実現のための「平和円卓会議2020 Peace Round Table」を今後4年間にわたって開き2020年までに実行可能なことを積極的に推進する予定です

   

この円卓会議では、4つのテーマを決めて、できるだけ多くの人々それも、年齢・男女・国籍・専門のあるなし・宗教・職業等々、様々な点で違いを持った人々が一堂に会し、未来づくりのために知恵を出すことが目的です。企画書の一部を引用します。

平和円卓会議 2020 Peace Round Table 4つのテーマ 平和円卓会議では、国境を超えて、教育、行政、NPO、企業、メディアなど各界の有識者そして若者や市民が集まり、原爆投下75周年となる2020年に向けてこれから4年間にわたって我々に何ができるのか 、どのようなプロジェクトが考えられるか、またどのような手段があるか、 知恵を出し合います。その上で広島、長崎からどのように世界に発信していくか、また世界からの視点をどのように受け入れるか、以下の4つのテーマにそって具体的に協議していきます。

 ☆人権 Human Rights for Peace  核の問題は人権問題でもあり、各国の核被害者との連携の重要性 核被害者フォーラムや世界各地の被爆者との交流事業

☆環境  Healthy environment for Peace  核の問題は環境問題でもあり、地域社会、国際社会がいかに共同で取り組むべき問題 被爆樹木プロジェクトなど

☆コミュニティ  Community for Peace  自分たちの住むコミュニティ、町や村から平和を広げていくことの重要性 Mayors for Peace 平和首長会議

☆イノベーション  Innovation for Peace   テクノロジーの力で核問題に関する新たなコミュニケーションを生む オンラインソフトやアプリの開発Hiroshima Archive


芸術を通じて、先人たちの遺産を次の世代につなげて行くのも私たちの大切な仕事です。それぞれの分野で才能のある、そして志を持つ多くの人々、特に(私より)若い世代の皆さんに期待しています。

 

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2017年1月14日 (土)

オットー・ハーン博士の孫  ――科学と人類と平和のための人生―― その2


オットー・ハーン博士の孫

――科学と人類と平和のための人生――

その2

 

前回の続きです。ディートリッヒ氏が、宮島の鹿を気に入ってくれたこと、それが平和の象徴だとまで言ってくれたことがとても印象的でした。

                

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講演するディートリッヒ氏

 

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《講演》  

 

   アメリカの詩人、思想家であるラルフ・ウォルドウ・エマーソンは「本音で言えば、歴史は存在しない。あるのは個人が生きた証だ」と言っていますが、ディートリッヒ氏の講演を聞いて、その意味が分かったような気がしました。歴史を大きく動かした人物の視点や立場から、ある時代を経験することで、歴史をより深く理解できることに思いが至りました。

講演もタイ式のお辞儀から始まりました。写真を使っての「年代記」といった性格の講義でしたが、ディートリッヒ氏から他の場所で聞いた話も交えて、梗概をお伝えしたいと思います。

子ども時代の話もありましたが、大学からが本格的な話でした。1897年から1901年まで、OHはミュンヘンとマルブルグで化学、鉱物学、物理学、哲学を学び、大学生活も大いに楽しんで、マルブルグでは純粋有機化学の研究により博士号取得。マルブルグで助手として働いた後、1904年から、ロンドンでウイリアム・ラムゼーの下で研究生活を送りました。研究分野は有機化学から放射性物質に移り、次の年にカナダのマクギル大学に移ってアーネスト・ラザフォードの下で研究を続け、1905年には、その後の多くの発見の先駆けである、ラジオトリウム を発見しました。

その後、ラジオアクチニウムやトリウムC、そしてラジウムDを発見、1906年、ドイツに戻り、ベルリン大学ではメソトリウム I、メソトリウムIIそしてイオニウムを発見しています。これらの物質は1912年まで新元素として扱われていましたが、フレデリック・ソディーの「同位体」の概念により、その後は同位体として扱われるようになりました。

1907 OHは、ベルリンで物理学者のリサ・マイトナーと出会い、その後30年以上、共同研究を行うことになります。化学と物理学の完璧な共同研究からは幾多の重要な発見がもたらされることになりました。1909年には放射線反跳を発見、1910年にベルリン大学の教授に任命されます。

1912年にはベルリンに創設されたカイザー・ヴィルヘルム化学研究所(KWI) の放射線学科長になり、1914年には初めて、ノーベル化学賞の候補に推薦され、それ以後も数度ノーベル賞候補になっています。1917年、OHとリサ・マイトナーは原子番号91のプロタクチニウムを発見、1921年には核異性体 (ウラニウム Z / ウラニウムX) を発見しました。

1933年に、ヒットラー独裁が始まりましたが、OHはナチス党に入らず、抗議の意思表示としてベルリン大学の教授を辞任。 同年、ニューヨーク州、イサカにあるコーネル大学の客員教授として赴任しますが、任期途中でドイツに帰還しました。このナチスの時代に、OHと彼の妻のイーデスは、時の政府に対して勇敢に反対をし、ユダヤ人の共同研究者や科学者を保護し、刑務所あるいは強制収容所に送られるのを阻止したこともあったとのことでした。

1938年末,「超ウラン元素」についてのリサ・マイトナーとの長い研究プログラムを経て、OHと彼の助手フリッツ・ストラースマンは、原子エネルギーの科学技術的な基礎である核分裂を発見しました。

1945年までにOHと共同研究者たちは、25の元素から100種類以上の核分裂生成物を発見、確認しました。原爆の開発には携わっていなかったのです。

 

《原爆から平和運動に》

 

1945年、ナチスドイツ降伏後、OHに加えて9人のドイツ人科学者は連合軍により、1946年の1月までイギリスのファームホールに拘留されました。ここで、「核分裂の発見」により1944年のノーベル化学賞を受賞したことを知らされました。 OHは生涯を通じては37 の国際的な賞や勲章を受け、世界で45の科学アカデミーの通常会員または名誉会員に選ばれ、またゲッチンゲン、フランクフルト、ベルリンの名誉市民に選ばれています。

194586日、広島への原爆投下について知らされると、OHは絶望の淵に立たされ、同僚たちはOHが自殺をするのではないかと心配しました。彼はアメリカの原爆開発には全く関与していませんが、広島と長崎の犠牲者に対しての責任を強く感じたのでした。彼にとってアメリカの原爆は人類に対する罪であり、残りの人生を平和のため、そして核兵器の生産、実験、拡散そして使用反対のために生きることを決意しました。

1950年代、1960年代にOHは、核兵器そして冷戦に反対する運動のリーダーの一人になりました。世界平和のため、また市民の間の寛容と理解の必要性を訴える多くのアピールの発起人ともなり、こうした努力に対して1957年以降、数回にわたり、ノーベル平和賞候補に推薦されました。

1968年にOHはゲッチンゲンで静かな死を迎えました。訃報には、「核化学の父」「核時代の創始者」といった言葉が並びました。1999年、世界の著名科学者500人の投票によるランク付けで、OH20世紀で最も重要な科学者の第3位に選ばれました。1位がアルバート・アインシュタイン、2位がマックス・プランクで、この二人が理論物理学者であることを勘案すると、彼の時代で最も重要な化学者かつ実験科学者だったことになります。

 

《最後に》

 

市民講演の次の日には、ディートリッヒ氏を宮島に案内しました。厳島神社にも感激してくれましたが、彼がそれ以上に喜んだのは、自由に街中を歩く鹿でした。一頭ずつカメラに収め、話しかけ、宮島で最も長く時間を費やしたのは、鹿との対話だったと言っても良いくらいでした。ディートリッヒ氏は「これが、本当の平和だ」と何度も繰り返していました。

お祖父さんから引き継いだ広島への思いと共に、自分でも、どうしても一度は訪れなくてはならないと誓った広島で、慰霊碑に詣で、資料館で学び、お祖父さんと自分の思いを広島市民に伝えることができたからでしょうか、3世代にわたる重荷を下ろして安堵の気持が、鹿との対話になったように私には思えたのですが、宮島の持つそして広島の持つ不思議で大きな力を感じた数日でした。

 

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鹿に話し掛けるディートリッヒ氏

 

 

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2017年1月13日 (金)

オットー・ハーン博士の孫 ――科学と人類と平和のための人生―― その1

オットー・ハーン博士の孫

――科学と人類と平和のための人生――

その1

 

歴史的な人物三人の三世について考えることで、先人たちの遺産を私たちがどう継承して行けば良いのかについてのヒントを得るために、歴史的人物ならびに三世がどのような人生を送ったのかを簡単に復習していますが、今回はオットー・ハーン博士とその孫、ディートリッヒ氏です。

              

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実はディートリッヒ氏は2013年の9月末から10月に掛けて広島を訪れています。広島大学で二つの講演をしてくれたのですが、その内容を『数学教室』という雑誌の20142月号で簡単に紹介しています。ちょっと長めですので、二回に分けてお読み頂けたらと思います。

 

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 2013930日と102日の二回、オットー・ハーン氏の孫である、ディートリッヒ・ハーン氏による講演会が広島大学で開催されました。102日の講演は私が英語で教えている大学院レベルの授業Peace Creation by Cities and Citizens」の第一回目の講義の時間を充て同時に大学主催の平和講演という位置付けにもして貰いました

英語で行われる授業の一環ですので、当然、言葉は英語なのですが、学生や職員以外の方にも参加を呼び掛けていましたので、念のため、最初に講演内容の大雑把な要約をした上で、アウトラインとキーワードを日本語で記した資料を配りました。

 930日は、市民向けの講演でしたが、結果的には、それほど違った内容ではありませんでした。ただ、市民向けですので、日本語の通訳が必要でした。そのため時間的にはきつかったのですが、オットー・ハーン氏の両親の写真から始まって100枚以上の貴重な写真に沿いつつハーン氏の人生を辿る興味深い話になりました。結局、予定していた時間を30分以上超えても、熱心に聴き続ける人がほとんどで、主催した私たちがかえって感激してしまうほどでした。

参加者数は、市民向けの講演で約95人、学生・職員向けの方は46人でした。

 

Otto Hahn Peace Medal in Gold》 (オットー・ハーン平和賞」と略)  


ディートリッヒ・ハーン氏(以下、ディートリッヒ氏と略。オットー・ハーン氏はOHと略)がそもそも広島訪問するに至ったきっかけは、今年の4月にベルリンで開かれたオットー・ハーン平和賞の授賞式で、この賞の創設者であるディートリッヒ氏にお会いしたことでした。


ディートリッヒ氏は、お祖父さん子です。それは、OHの一人息子であるハンノと彼の妻イルゼ、つまりディートリッヒ氏の両親は、まだディートリッヒ氏が子どもの頃に交通事故で亡くなり、ディートリッヒ氏は御祖父さんに育てられたからです。そのせいもあり、ディートリッヒ氏はOHに関しては世界で最高の理解者であり、資料をふんだんに使った500ページもの伝記も著しています。


ディートリッヒ氏と話すうちに、彼の「ヒロシマ」に対する特別な気持は、お祖父さんから受け継いだものであることが良く分りました。また、できるだけ早く広島を訪れたい、という気持も良く理解できました。そして広島で、OHについての講演ができれば、という希望にも沿いたいと思いました。日程を調整して、広島訪問は9月末から10月にかけて実現することになりました。 

 

《広島で》

 広島到着は夜でしたので、次の日には先ず、平和公園の慰霊碑に献花することから日程が始まりました。慰霊碑の前で、長い時間、頭を垂れて黙祷。そして最後には、両手を胸の前で合わせるタイ式のお辞儀で終わる、お祖父さんの代理という意味も込めての敬虔な時間でした。ディートリッヒ氏の奥様はタイ人ですので、タイ式のお辞儀は自然なのですが、彼自身の気持そして何よりお祖父さんの気持を表すのに一番相応しい形だったように思います。


続いて、ピースボランティアの橘光生氏と原田健一氏が平和記念資料館を案内してくれました。特に原田氏の英語による詳細かつ正確な案内で、被爆の実相についての理解が深まったそうですし、被爆者寺本貴司氏の被爆体験証言には心からの感動を覚えたと語ってくれました。


軽い食事、と言ってもディートリッヒ氏はベジタリアンで、量もそれほど多くは食べない人なので、それで十分だったようですが、日本の食事は気に入ってくれました。そして7時から、広大の東千田キャンパスで講演が始まりました。


ディートリッヒ氏は、1946年 フランクフルト・アム・マインで生まれました。芸術史家のハンノ・ハーン(1922-1960)の一人息子、核化学者オットー・ハーン(1879-1968)のただ一人の孫です。ベルリン芸術大学卒後、ジャーナリスト・(劇場・芸術等の)広報・マスコミ・コンサルタント、俳優としても活躍し、オットー・ハーンならびに核分裂の歴史についての数冊の書籍の執筆、編集に携わりました。また、ドイツ・ベルリン国連協会が授与する「オットー・ハーン・ピース・メダル・イン・ゴールド」の創設者で、ミュンヘンの「科学振興のためのマックス・プランク研究所」会員、ニューヨーク科学アカデミーの外国人会員でもあります。


「オットー・ハーン・ピース・メダル・イン・ゴールド」は1988年に創設され、2年に一度「平和と国際理解への卓越した貢献」に対して贈られます。ベルリン市長とドイツ国連協会の会長からメダルと賞状が手渡されます。これまでの受賞者の中には、哲学者のカール・ポパー、音楽家のユーディ・メニューイン、ミリアム・マケバやダニエル・バレンボイム、作家のハンス・キュング、政治家では、ミハエル・ゴルバチョフやメリー・ロビンソン等が入っています。そしてモハメッド・アリも受賞者です。

 

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2017年1月12日 (木)

トルーマン大統領の孫 ある三世の生き方

トルーマン大統領の孫

ある三世の生き方

 

 

最初に、今日のテーマとは関係ありませんが、夕方、月がとてもきれいだったので写真を撮りました。その結果を御覧下さい。

                 

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トルーマン大統領の孫、クリフトン・トルーマン・ダニエル氏ですが、私が最初にお会いしたのは2011年、アメリカのミズーリ州インディペンデンス市でした。一緒にラジオ番組に出ましたが、そこでの彼のやり取りは私の考えてきたことと重なる部分が多く、25歳も年下のアメリカ人がそれほどの境地に達していることに驚きましたし感動しました。その時の彼の発言を再現するのも一つの可能性なのですが、オバマ大統領の広島訪問後の86日付の記事として、ニュースウィーク誌の日本語版に載ったインタビュー記事をお読み頂く方が、彼の声が良く分ると思います。インタビューそのものは、オバマ大統領の広島訪問に先立って行われています。

 

 

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そのインタビューをした小暮聡子さんは、ダニエル氏と対称的な立場からの視点を持っています。それは彼女の祖父が連合国捕虜収容所の所長だったこと、それ故に戦後は戦犯として罪を問われた人だったからです。

 

この記事の中心テーマは、孫として昔の祖父の行ったことを個人としてどう受け止めているのか、そしてオバマ大統領の来広時に多くの人が問題にした「謝罪」とどう向き合っているのかなのですが、それに対する二人の考え方は、かつて敵対した二つの国に今生きている私たちが双方の立場を、どちらが正しかったのかという判断を交えずに、いわば中立の立場に立って理解することの大切さです。そして、過去への責任ではなく、未来への責任を優先すべきだという結論に至っています。未来への責任の一つが核兵器の廃絶であることは言を俟ちません。

 

その延長線上にあると言うべきなのかもしれませんが、私が強調したいのは、過去を振り返り理解する際に、現在そして未来への教訓を同時に汲むことです。このブログでも私がこれまで何度も繰り返してきたことの一つは、世界が平和になってきていること、力の支配から法の支配への大きな流れがあることですが、その流れが途絶えないようにするためには歴史からの教訓を生かさなくてはなりません。しかし、大きな流れに棹差し、力の支配にしがみ付きそれを変えることはできないと主張し、歴史の歯車を逆に回している人たちもいます。彼らを説得し、世論の力で非暴力的で平和な社会して世界を実現するために、より大きな枠組みの中での教訓は何なのかを知らなくてはなりません。

 

そのために必要なのは、悲惨な結果を生んでしまった原因を、敵対関係という枠組みの中での善なのか悪なのかの判断を超えた次元で理解することなのではないかと思います。そこで力を発揮するのが被爆体験ですし、被爆者たちが生んだ哲学なのですが、二世や三世という立場とどうつながるのかについて、さらに考えて行きたいと思います。

 

 

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2017年1月11日 (水)

被爆二世の問題提起      被爆者の遺産をどう継承するのか


被爆二世の問題提起

被爆者の遺産をどう継承するのか

 

 

数学の授業や講演だと決められた時間内に収めることは無理なくできるのですが、核廃絶や平和というテーマになると、喋りたいことが多くあって大体、時間超過になってしまいます。それでも準備した内容の半分くらいしかカバーできないのが普通になっていました。しかし、それも一種の甘えですので、このところかなりの努力をして時間内に収まるように話の内容を組み立ててきました。

 

その結果、兵庫教育大学大学院の公開授業では、ピッタリ時間内に終えることができました。主催者は勿論、聞きに来て下さっている皆さんに迷惑を掛けないということが最大のメリットだと思いますが、それに加えてもう一つ「良かった」と思えたのは、質疑の時間が増えたことです。自分で喋るだけでなく、一つのテーマを共有した人たちの思いや疑問等をその場で聞けることが如何に大切なのかを改めて感じる一時にもなりました。

 

特に今回しっかり受け止めたいと思ったのはお二人の被爆二世の問題提起でした。私流に解釈すると、被爆者として自分の体験を世界各地で多くの人に話し、被爆体験を元にして得られた平和のメッセージを伝え、核兵器のない平和な世界を創造するために懸命な努力をされた母上や父上の遺産をどう継承して行ったら良いのかが中心テーマです。

 

この「遺産」には二つの意味があります。一つは、物理的な存在としての遺産、つまり「遺品」です。貴重な記録や録音テープ、手紙その他の資料等をどう整理しどう生かして行くのかが問われています。もう一つは、抽象的な意味での遺産です。核廃絶のために大きな貢献してきた被爆者の子どもとして、どのような形でこれから関わって行けば良いのか、という遺産の継承が問題になります。

 

どちらも重要な問題提起なのですが、すぐに答の出ない難しさがあります。「遺品」については別稿で考えたいと思いますが、少し一般化して考えると、被爆体験のない私たちが、被爆者の遺産をどう継承して行けば良いのかがテーマになります。念のため断っておきますが、「遺産」とは、亡くなった方が残してくれたものだけではなく、現在活躍されている方々がこれまでに生み育ててきた成果も意味します。

 

数学の問題を解こうとするときの常套手段の一つは、ある次元での問題が難しい時には、その問題を別次元での問題として解釈し直して考えることです。

 

「二世」についての問題提起を例えば「三世」ではどうなるのかを考えて見ることなのですが、それが答えになるかどうかは別としてすぐ頭に浮かぶ三人の「三世」がいます。トルーマン大統領の孫であるクリフトン・ダニエル氏、核分裂を発見したオットー・ハーン博士の孫、ディートリッヒ・ハーン氏、そして『ヒロシマ』の著者ジョン・ハーシー氏の孫のキャノン・ハーシー氏です。

 

前置きが長くなる癖はなかなか治りませんが、この三人とも核兵器の廃絶をメイン・テーマにして素晴らしい平和活動を続けています。具体的な内容はまたの機会に御紹介しますが、なぜ「孫」がこれほど大きな役割を果せるのでしょうか。

 

この点についても詳しく考える必要がありますが、結論だけ、今回簡単にまとめておくと、それはお祖父さんとの距離があるからなのではないでしょうか。「二世」には難しかったのかもしれない「客観化」が孫にはできたという可能性です。同時に、人類の大問題に関わった祖父の「遺産」を同じテーマで、しかし自分自身の独自なスタンスから関わることで遺産を継承していると見ることはできないでしょうか。

 

最後に一言お断りしておきたいのですが、「被爆二世」と一口に言っても多くの被爆二世がいます。何らかの意味で親と同じ道を歩んでいるケースも多くありますし、親の仕事には関心のない子どももいるかもしれません。すべての被爆二世の皆さんを一括りにしている積りはないのですが、兵庫教育大学での問題提起を真剣に考えている過程ですので、失礼な部分や修正すべき点等あれば御指摘、御教示頂ければ幸いです。

                

Photo_6

トルーマン大統領

 


000

オットー・ハーン博士


 

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ジョン・ハーシー氏


[写真の大きさが統一されていないのは、ココログを使う上手の私の知識が不十分なせいで、他意はありません。]


  

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2017年1月10日 (火)

正しくは「兵庫教育大学大学院」です。 お詫びして訂正します。


正しくは「兵庫教育大学大学院」です。

お詫びして訂正します。


お詫びと訂正です。素晴らしい大学院とそのコースを御紹介しようと、力は入ったのですが、大学の名称を誤ってタイトルにしてしまいました。正式名称は「兵庫教育大学大学院」です。お詫びして訂正します。

 

Photo_3

                             

 最低限、ワープロの誤変換は見逃さない、と決意したばかりなのに、それ以前のミスでお恥ずかしい限りです。やはり、ちょっと時間が掛かっても、もう一度「推敲」です。

 

 

以下、本文です。


19日は月曜日ですが、成人の日ですのでもちろん休日(祝日)です。大学の正規の授業にゲスト・スピーカーとして招かれることはあるのですが、それが休みの日ということはほとんどありませんでした。大学そのものが休みだからです。しかし、今回話をした兵庫教育大学大学院のグローバル化推進教育リーダーコースでは、休日に授業をすることがこのコースの存在意義と本質的に関わっています。

                

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グローバル化する世界で活躍できる人材を育成することの重要性は言うまでもありませんが、その育成を担当する人たち、つまり教える側の教職員たちがいなければそれは不可能です。「グローバル化教育」という言葉で具体的に何を指すのかは長くなりそうですので、イメージとして御理解頂いたとして先に進むと、既にグローバル化教育を実践している、あるいはこれから導入しようとしている中学校や高等学校、高専等で、そのリーダーとしての役割を果せる人を育成するのが、グローバル化推進教育リーダーコースです。つまり、グローバル化教育チームのキャプテンを養成するための教職大学院のコースです。

 

そのために、教育現場で実際にグローバル化教育のどこかの分野での仕事に今携わっていながら、大学院で勉強する意欲を持ち、リーダーとして新分野開拓のために頑張りたいと思う人を対象としてこのコースが作られています。

 

またまた前置きが長くなりましたが、教育現場で教員としての仕事をしながら土日や祝日、また夏休みなどの休業の時を使って授業を受けることが基本の大学院ですので、成人の日に授業があってもおかしくない、という説明をした積りです。

 

さて、教員と学生という二足の草鞋を履く意欲ある院生をサポートし、このコースの目的を達成するために、実は感心するほど柔軟な形での授業が行われています。「ビデオ・オン・デマンド」つまり必要に応じて事前に準備されたビデオを通して学習したり、Skypeを使って教授との一対一の質疑ができたり、場合によっては出前授業まで取り入れられています。講義等のスケジュールも、「本職」に支障がないように組まれています。しかし、現職の教員としてきちんとした仕事をしながらの勉強ですから、院生本人の堅い意志がなければ続きません。

 

実は、このコースのユニークさに圧倒されながら三人の大学院生と午前と午後、二回にわたって私のこれまでの仕事とグローバル化の意味や具体例等についてずいぶん突っ込んだ遣り取りをしました。その中で、教育に携わる若い世代の人たちの人生設計が私たちの時代と比べて、ラディカルに多様化していることを知り、また教員と学生との二重のコミットメントをしっかりとこなしている姿を見て、若い世代に寄せている私の期待がさらに大きくなりました。具体的に三人を紹介したいのですが、個人情報に関わることですので今回は割愛します。

 

神戸からの帰りの新幹線中で書いている原稿ですので、I先生に送って頂いた写真をアップすることで終りたいと思います。参加者の皆さんからは、写真を公開することについて了承して頂いています。

  

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コメント

秋葉先生、昨日は貴重なお話とお時間ありがとうございました。
お話の内容や先生の守備範囲の広さ・深さに圧倒されましたが、何より先生のお人柄に触れることができ、勝手ながらとても親近感を抱くことができ嬉しく思いました。
またお会い出来ることを楽しみにしております。
大学院とともにご紹介頂きありがとうございます。

「Mizuno」様

コメント有り難う御座いました。院生の皆さんにお会いでき、それぞれ、仕事と勉学を両立させるという厳しい環境の中で、しっかり勉強・研究し未来へつなげている姿に、心から感動しました。

歳を取ることのメリットの一つは、若い時とは違った時間軸で物事を見られるようになることですが、その視点から発見したことを若い世代の皆さんと共有し、若い世代の皆さんがより多様な角度から未来のデザインをして行くお手伝いができることだと思っています。

次回は、今回に続いて、より広い範囲を「共有」出来ればと思っています。

兵庫教育大学大学院      グローバル化推進教育リーダーコース


兵庫教育大学大学院

グローバル化推進教育リーダーコース

 

最初にお詫びと訂正です。この素晴らしい大学院とそのコースを御紹介しようとする中で、大学の名称を誤って書いてしまいました。正式名称は兵庫教育大学です。お詫びして訂正します。以下本文です。


19日は月曜日ですが、成人の日ですのでもちろん休日(祝日)です。大学の正規の授業にゲスト・スピーカーとして招かれることはあるのですが、それが休みの日ということはほとんどありませんでした。大学そのものが休みだからです。しかし、今回話をした兵庫教育大学大学院のグローバル化推進教育リーダーコースでは、休日に授業をすることがこのコースの存在意義と本質的に関わっています。

                

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グローバル化する世界で活躍できる人材を育成することの重要性は言うまでもありませんが、その育成を担当する人たち、つまり教える側の教職員たちがいなければそれは不可能です。「グローバル化教育」という言葉で具体的に何を指すのかは長くなりそうですので、イメージとして御理解頂いたとして先に進むと、既にグローバル化教育を実践している、あるいはこれから導入しようとしている中学校や高等学校、高専等で、そのリーダーとしての役割を果せる人を育成するのが、グローバル化推進教育リーダーコースです。つまり、グローバル化教育チームのキャプテンを養成するための教職大学院のコースです。

 

そのために、教育現場で実際にグローバル化教育のどこかの分野での仕事に今携わっていながら、大学院で勉強する意欲を持ち、リーダーとして新分野開拓のために頑張りたいと思う人を対象としてこのコースが作られています。

 

またまた前置きが長くなりましたが、教育現場で教員としての仕事をしながら土日や祝日、また夏休みなどの休業の時を使って授業を受けることが基本の大学院ですので、成人の日に授業があってもおかしくない、という説明をした積りです。

 

さて、教員と学生という二足の草鞋を履く意欲ある院生をサポートし、このコースの目的を達成するために、実は感心するほど柔軟な形での授業が行われています。「ビデオ・オン・デマンド」つまり必要に応じて事前に準備されたビデオを通して学習したり、Skypeを使って教授との一対一の質疑ができたり、場合によっては出前授業まで取り入れられています。講義等のスケジュールも、「本職」に支障がないように組まれています。しかし、現職の教員としてきちんとした仕事をしながらの勉強ですから、院生本人の堅い意志がなければ続きません。

 

実は、このコースのユニークさに圧倒されながら三人の大学院生と午前と午後、二回にわたって私のこれまでの仕事とグローバル化の意味や具体例等についてずいぶん突っ込んだ遣り取りをしました。その中で、教育に携わる若い世代の人たちの人生設計が私たちの時代と比べて、ラディカルに多様化していることを知り、また教員と学生との二重のコミットメントをしっかりとこなしている姿を見て、若い世代に寄せている私の期待がさらに大きくなりました。具体的に三人を紹介したいのですが、個人情報に関わることですので今回は割愛します。

 

神戸からの帰りの新幹線中で書いている原稿ですので、I先生に送って頂いた写真をアップすることで終りたいと思います。参加者の皆さんからは、写真を公開することについて了承して頂いています。

  

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